高橋誠一郎 公式ホームページ

2017年

1899年のハーグ万国平和会議から2017年の核兵器禁止条約へ

核兵器禁止条約

©共同通信社、「拍手にこたえる被爆者・サーロー節子さん」

記載がたいへん遅くなりましたが、広島・長崎への原爆投下から72年目にあたる今年の7月7日に日本の被爆経験を踏まえて条約の前文には「ヒバクシャ」が明記された核兵器禁止条約がようやく国連本部で採択されました。

また、ドストエフスキー作品の愛読者でもあった物理学者のアインシュタインは、アメリカの大統領にナチス・ドイツが核兵器の開発をしていることを示唆した自分の手紙が核兵器の開発と日本へ投下につながったことから、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続け、それが1955年には戦争の廃絶を目指した「ラッセル・アインシュタイン宣言」や「パグウォッシュ会議」開催に繋がりました。

米ソの両大国の対立と冷戦という時代状況にも阻まれて核兵器の廃絶の動きはなかなか進まず、ようやく1957年の「パグウォッシュ会議」開催からようやく60年目にしての実現したことになります。

このホームページでもささやかながら黒澤明監督や本多猪四郎監督の映画や発言の考察をとおして、核エネルギーの危険性を明らかにし、核兵器や原発の廃止を訴えてきましたので、感慨深いものがあります。

国民の安全と経済の活性化のために脱原発を

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しかし、アメリカやロシア、フランスなどの核保有国が「核抑止力を必要とする世界の安全保障の現実を踏まえていない」などとして反発したばかりでなく、「アメリカの核の傘」で守られていると主張する安倍政権もこの条約には「署名しない」ことを明言しました。

カナダ在住の被爆者・サーロー節子さん(85)が「唯一の被爆国として反核運動の先頭に立つと言いながら、実際は何もやっていない」と厳しく批判したように、安倍晋三政権の「積極的平和主義」とは、被爆国でありながら原水爆の危険性を隠蔽してきた岸信介政権以降の核政策を受け継いだものだったのです。残念ながら今もこのような「核の傘」の論理に惑わされている日本人が多いように見えます。

しかし、南太平洋での核実験に対する国民の反発の高まりを受けて、「日本国憲法第九条」を参考にして1987年6月に「非核法」を制定していたニュージーランドのジェフリー・パーマー元首相はインタビューに答えて、核による抑止論については、核兵器が再び使われれば壊滅的な結果をもたらすことから「深刻な欠陥がある」と指摘し、「すべての国は、核兵器の使用がもたらす破滅を知る必要がある」とし、この条約の意義を強調しています(「東京新聞」)。

Enforcement_of_new_Constitution_stamp(←画像をクリックで拡大できます)

実際、1947年にはアメリカの『原子力科学者会報』が、核戦争などによる人類の滅亡を午前零時になぞらえた冷戦下の「終末時刻を残り7分」と発表していましたが、冷戦が終結した2015年にはその時刻がテロや原発事故の危険性から1949年と同じ「残り三分」に戻ったと発表したのです。

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化学兵器が人道に反するとして1899年にハーグで開かれた万国平和会議において初めて国際規制が明文化され、第一次世界大戦後の1925年には悲惨な結果を踏まえて「ジュネーヴ議定書」が締結され、その規制は現在はるかに厳しくなっているのです。

Australian_infantry_small_box_respirators_Ypres_1917

(ガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵。図版は「ウィキペディア」より)

原水爆が化学兵器よりもはるかに非人道的な被害をもたらすことを想起するならば、原水爆の使用だけでなく製造や保有、実験、移譲、そして核による威嚇なども全面禁止する今回の条約の正当性は明らかでしょう。

唯一の被爆国である日本は「核兵器使用による悲惨な結果を訴えるのに最も適した国。ぜひ発信を続けてほしい」と語っていたニュージーランド元首相などの熱い期待にそうためにも、日本人が戦前の日本の価値観の復活を目指している「日本会議」に牛耳られている現在の安倍政権を一刻も早くに退陣させて、世界から信頼される政権を打ち立てる必要があると思います。

年表8、『ゴジラの哀しみ』関連年表(「原水爆実験」と「原発事故」、それに関わる映画を中心に)

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(2)――アイヒマン裁判と「ヒットラーと悪魔」の時代

一、映画『十三階段への道』とアイヒマンの裁判

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載された「ヒットラーと悪魔」の冒頭で小林秀雄は、「『十三階段への道』(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た」と記し、実写映画という性質に注意を促しながら、「観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果たしたようである」と書いた。

実際、NHKの佐々木敏全による日本版「解説」によれば、この映画は「裁判の記録映画」であるばかりでなく、「各被告の陳述にあわせ一九三三年から四五年までの十二年間、ナチ・ドイツの侵攻、第二次世界大戦、そしてドイツを降伏に導いた恐ろしい背景を、その大部分が未公開の撮影および録音記録によって」描き出したドラマチック・ドキュメンタリーであった。

ニュールンベルグの戦犯 13階段への道 – CROSS OF IRON

一方、カメラの役目を強調して「御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない」と続けた小林は、「私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである」と続けていた。

「事実」をも「悪夢」に帰着させているかのように見えるこの文章を読みながら思い出したのは、小林秀雄が1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」において、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたことであった(髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』参照)。

注意を払いたいのは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画」を実行し、敗戦後にはブラジルに潜んでいたアイヒマンがこの映画が公開されたのと同じ年の5月に逮捕されたことが5月25日に発表され、翌年の1961年には裁判にかけられたことである。 アイヒマン裁判

(アイヒマン裁判、写真は「ウィキペディア」より)

映画『十三階段への道』を見ていた小林秀雄は、この裁判をどのように見ていたのだろうか。ちなみに、1962年8月には、アイヒマンの裁判についても言及されている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)が日本でも発行されたが、管見によれば、小林秀雄はこの著書に言及した書評や評論も書いていないように見える。「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫) (書影は「アマゾン」より)

二、「ヒットラーと悪魔」とその時代

改めて「ヒットラーと悪魔」を読み直して驚いたのは、おそらく不本意ながら敗戦後の文壇事情を考慮して省かざるを得なかったヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」が、ドストエフスキー論にも言及することで政治的な色彩を薄めながらも、『我が闘争』からの抜き書きともいえるような詳しさで紹介されていたことである(太字は引用者)。

最初はそのことに戸惑いを覚えたが、この文章が掲載されたこの当時の政治状況を年表で確認したときその理由が分かった。東条英機内閣で満州政策に深く関わり戦争犯罪にも問われた岸信介は、首相として復権すると1957年5月には国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していた。そして、1960年1月19日にはアメリカで新安全保障条約に調印したのである。この条約を承認するために国会が開かれた5月は、まさに激しい「政治の季節」だったのである。

この時期の重要性については黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督が、大ヒットした映画《ゴジラ》に次いで原水爆実験の危険性を描き出した1961年公開の映画《モスラ》で描いているので、本論からは少し離れるが確認しておきたい、(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年、45頁)。

すなわち、1960年の4月には全学連が警官隊と衝突するという事件がすでに起きていたが、5月19日に衆議院の特別委員会で新条約案が強行採決され、5月20日に衆議院本会議を通過すると一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになった。そして6月15日には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出す一方で、国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突してデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという悲劇に至っていた。

また、1958年には三笠宮が神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡を寄せたが、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生していた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。なぜならば、戦前の価値の復活を求める右翼や論客は「紀元節奉祝建国祭大会」などの活動を強めていたのである。

三笠宮は編著『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)の「序文」で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と書いていた。

上丸洋一(図版はアマゾンより)

書評『我が闘争』の『全集』への収録の際には省いていたヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」をより詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」は、まさにこのような時期に書かれていたのである。

三、「感傷性の全くない政治の技術」と「強者への服従の必然性」

映画についての感想を記したあとで、20年前に書いた書評の概要を記した小林は、「ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う」とし、「彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている」ことを確認している。

しかし、その箇所で小林はヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」についても以下のように指摘していたが、それは現在の安倍政権の運営方法と極めて似ているのである。

「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。」

そして、「暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった」とした小林は、「だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った」と続けている。

さらに、ヒトラーの人生観を「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である」とした小林は、「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者にどうして屈従し味方しない筈があるか」と書いて、ヒトラーの「弱肉強食の理論」を効果的に紹介している。

さらに小林はヒトラーの言葉として「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう」と書き、「ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった」と続けている。

この表現はナチズムの危険性を鋭く指摘したフロムが『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)で指摘していた記述を思い起こさせる。この本がすでに1951年には邦訳されていたことを考慮するならば、小林がこの本を強く意識していた可能性は大きいと思える。

しかしその結論は正反対で、小林秀雄はヒトラーの独裁とナチズムが招いた悲劇にはまったく言及していないのである。

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「ヒットラーと悪魔」をめぐって(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、改訂し関連記事のリンク先を追加。2019年9月11日、改訂と改題)

[ヒットラーと悪魔」をめぐって(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」

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はじめに

ドストエフスキー論もあるフランス文学者の寺田透は『文学界』に寄稿した1983年の「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、小林秀雄の「隠蔽という方法」を示唆していた。

すなわち、「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた」のである。

「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)

寺田透が指摘したこのような方法を用いた顕著な例がヒトラーを「天才」と称賛していた1940年の書評『我が闘争』の『全集』への収録の際の改竄だろう。→ 〔小林秀雄 「我が闘争」初出 『朝日新聞』1940(昭和15)年9月12日の画像 菅原健史氏の「核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ」より〕 – Yahoo!ブログ

この問題を指摘した菅原健史氏のブログ記事は拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)でも引用した(211~212頁)。 ここで注目したいのは、それから20年後に記された1960年の「ヒットラーと悪魔」(『考えるヒント』収録)におけるヒトラーの革命観やプロパガンダ観などの手法についての詳しい記述が、「日本会議」の実務を担う「日青協」の「改憲」に向けた手法ときわめて似ていることである。

本稿では書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」の二つの記述の比較やドストエフスキー論との関連などをとおして、小林秀雄のヒトラー観と革命観やプロパガンダ観に迫ることで、その思想の危険性を明らかにしたい

一、書評『我が闘争』(1940年)

1923年11月のミュンヘン一揆の失敗後にヒトラーが獄中で書き上げた『我が闘争』は、第1部が1925年に第2部が翌年に発行されたものの当初はそれほどではなかったが、1932年にナチ党が国会の第一党となり、翌年にヒトラーの内閣が成立するとこの本はドイツ国民のバイブル扱いを受けるようになり、終戦までに1000万部を売り上げたとされる。

日本がヒトラーのナチス・ドイツと日独防共協定を結んだのは1936年11月のことであったが、この本の訳はすでに1932年に内外社から『余の闘争』と題して刊行され、それ以降も終戦までに大久保康雄訳(三笠書房、1937年)、真鍋良一訳(興風館)(ともに日本の悪口を書いてある部分を削除しての出版)、東亜研究所特別第一調査委員会の訳などが刊行された(「ウィキペディア」の記述などを参考にした)。 ヒトラーと松岡洋右

(ドイツ総統府でアドルフ・ヒトラーとの会談に臨む松岡洋右、写真は「ウィキペディア」より)  

小林秀雄が書いた室伏高信訳の『我が闘争』(第一書房、1940年6月15日)の短い書評が朝日新聞に掲載されたのは9月12日のことであり、それから間もない9月27日には日独伊三国同盟が締結された。

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載した「ヒットラーと悪魔」で小林秀雄はこの記事についてこう書いている。

「ヒットラーの『マイン・カンプ』が紹介されたのはもう二十年も前だ。私は強い印象を受けて、早速短評を書いた事がある。今でも、その時言いたかった言葉は覚えている。『この驚くべき独断の書から、よく感じられるものは一種の邪悪な天才だ。ナチズムとは組織や制度ではない。むしろ燃え上がる欲望だ。その中核はヒットラーという人物の憎悪にある。』」。

大筋においては小林の記憶は正しいが、「天才」の前に「一種の邪悪な」を追加する一方で、重要な一文が削除されているなど一部に大きな変更がある。それほど長い書評でもないので、まずは全文を菅原健史氏のブログ記事によりながら一部を現代的表記に改めて引用している「馬込文学マラソン」のサイトによって全文を紹介しておきたい(太字は引用者)。 ナチズムと日本、馬込文学マラソン(大田区にゆかりある文学を紹介)。

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“我が闘争” 小林秀雄

ヒットラーの「我が闘争」といふ有名な本を、最近僕ははじめて室伏高信氏の訳で読んだ。抄訳であるから、合点の行かぬ箇所も多かったが、非常に面白かつた。何故、もつと早く読まなかったか、と思つた。やはり、いろいろな先入観が働いてゐたが為である。

ヒットラーの名は、日に何度も口にしながら、何となく此本には手を付けなかった僕の様な人は、世間に存外多いのではないかと考える。 これは全く読者の先入観など許さぬ本だ。ヒットラー自身その事を書中で強調している。先入観によつて、自己の関心事の凡てを検討するのを破滅の方法とさへ呼んでゐる。 そして面白い事を言つてゐる。さういふ方法は、自己の教義に客観的に矛盾する凡てのものを主観的に考えるといふ能力を皆んな殺して了ふからだと言ふのである。彼はさう信じ、そう実行する。

彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる。 これは天才の方法である。僕は、この驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた。

僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした。それは組織とか制度とかいう様なものではないのだ。寧ろ燃え上る欲望なのである。 ナチズムの中核は、ヒットラ-といふ人物の憎悪のうちにあるのだ。毒ガスに両眼をやられ野戦病院で、ドイツの降伏を聞いた時のこの人物の憎悪のうちにあるのだ。 ユダヤ人排斥の報を聞いて、ナチのヴァンダリズムを考えたり、ドイツの快勝を聞いて、ドイツの科学精神を言つてみたり、みんな根も葉もない、たは言だといふ事が解つた。形式だけ輸入されたナチの政治政策なぞ、反古同然だといふ事が解つた。 ヒットラーといふ男の方法は、他人の模倣なぞ全く許さない。

*   *   *

仲良し三国 (「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書。写真は「ウィキペディア」より)   

「馬込文学マラソン」の筆者は、小林の書評について「これは、手放しの賞賛といっていいのではないでしょうか。否定的な言辞が見当たりません」と書き、「『ヒトラー(ナチス)の手口』が透けて見えます」と続けている。

実際、迫力のある小林秀雄の書評ではドイツで政権を握ったヒトラーへの強い共感だけでなく、ヒトラーの「方法」も賛美されているのである。

さらに大きな問題は書評『我が闘争』を『全集』に再録する際に小林が、「天才のペン」の前に「一種邪悪なる」を加筆していたことである。その加筆によってこの書評の印象が一変しているのは、「言葉の魔術師」とも言える小林秀雄の才能だろう。

ただ、それだけでは全体の主旨を「隠蔽」することはさすがに出来ず、小林はヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」に関する下記の記述を大幅に削除していた。 「彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる」(太字は引用者)。

この削除された文章の前半は小林秀雄の歴史観や文学観にも深く関わっているが今回はそれに言及する余裕がないので、ヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」が詳しく紹介されている「ヒットラーと悪魔」と現代の日本の政治状況との関わりを次に分析することにしたい。

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小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、関連記事のリンク先を追加、2019年9月11日、題名を変更)

ドストエーフスキイの会、第240回例会(合評会)のご案内

「第240回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.141)より転載します。

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第240回例会のご案内

今回は『広場』26号の合評会となりますが、論評者の報告時間を10分程度とし、エッセイの論評も数分に制限して自由討議の時間を多くとりました。記載されている以外のエッセイや書評などに関しても、会場からのご発言は自由です。多くの皆様のご参加をお待ちしています。

 

日 時 2017年7月15日(土)午後2時~5時

 場 所神宮前穏田区民会館 第2会議室(2F)     ℡:03-3407-1807

 (会場が変更になりました。下記の案内図をご覧ください!)

 

掲載主要論文の論評者

 熊谷論文 ラスコーリニコフの深き欲望 ――太田香子氏

金沢論文  ドストエフスキーと「気球」 ――高橋誠一郎氏

チホミーロフ論文 「思想家達の形象による」思索の問題――熊谷のぶよし氏

杉里論文  《貶められ辱められた子ども》の絶望と救済――近藤靖宏氏

芦川論文  イワン・カラマーゾフのキリスト ―大木貞幸氏

エッセイ:冷牟田、清水、西野、石田、学会報告―フリートーク

司会 高橋誠一郎氏(+近藤靖宏氏)

 

*会員無料・一般参加者-500円

前回例会の「傍聴記」と「会計報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

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会場(神宮前穏田区民会館)の案内図

ドストエーフスキイの会会場

黒澤明と宮崎駿――《七人の侍》から《もののけ姫》へ(ロシア文学と民話とのかかわりを中心に)

6月25日に黒澤明研究会で標記の研究発表をしました。

中世史の研究者・網野義彦は《もののけ姫》のパンフレットに寄せた文章で、「山や森は神様が住む聖地なのだという捉え方が崩れはじめたのが室町時代だからで、これは歴史的な事実だといってもよいと思います」と記していましたが、作家の司馬遼太郎も堀田善衛や宮崎駿と一九九二年に行った鼎談で、日本では「弥生式のころから引き継いでいる大地への神聖観というのをどうも失いつつある」と指摘していました(『時代の風音』朝日文庫)。

ニーチェは『ツァラトゥストラ』の第一部の終わりに「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんことを欲する」という有名な言葉を記していたが(太字の箇所は訳書では傍点)、八百万の神々が共存するような多神教的な世界観は、日本でもすでに室町時代には崩れ始めていたのです。

そのことが、明治維新の際に西欧列強やロシア帝国の宗教を強く意識しながら、天皇を「一神教的な現人神」とし「全国の神社を官社と諸社に分け」て序列化を行った「国家神道」の成立を準備していたと思えます。

「こんな夢をみた」という字幕が最初に示されるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」でも原発事故の問題が鋭く提起されていますが、この映画の魅力は原発批判や戦争批判に留まらず、このような明治以降の「国家神道」の教えで失ってしまった地震や火山など自然の驚異や生命の神秘に対する畏敬の念も見事に再現していることでしょう(拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』のべる出版企画、2016年、141~142頁)

発表は2部からなり、第1部では「ロシア文学と民話とのかかわりを中心に」第2部では「《七人の侍》から《もののけ姫》へ」という題で考察しました。

 「映画・演劇評」のページに黒澤明と宮崎駿(1)――ロシア文学と民話とのかかわりを中心に」と「黒澤明と宮崎駿(2)――《七人の侍》から《もののけ姫》へを掲載します。

 

「世界文学会」2017年度第4回研究会(発表者:大木昭男氏・高橋誠一郎)のご案内

夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとした2017年度第4回研究会の案内が「世界文学会」のホームページに掲載されましたので、発表者の紹介も加えた形で転載します。

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日時:2017年7月22日(土)午後3時~5時45分

場所:中央大学駿河台記念会館 (千代田区神田駿河台3-11-5 TEL 03-3292-3111)

発表者:大木昭男氏(桜美林大学名誉教授)

題目:「ロシア文学と漱石」

発表者:高橋誠一郎(元東海大学教授)

題目:「夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり」

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発表者紹介:大木昭男氏

1943年生まれ。早稲田大学大学院(露文学専攻)修了。世界文学会、日本比較文学会、国際啄木学会会員。1969年~2013年、桜美林大学にロシア語・ロシア文学担当教員として在職し、現在は桜美林大学名誉教授。主要著作:『現代ロシアの文学と社会』(中央大学出版部)、『漱石と「露西亜の小説」』(東洋書店)、『ロシア最後の農村派詩人─ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社)他。

発表者紹介:高橋誠一郎

1949年生まれ。東海大学大学院文学研究科(文明研究専攻)修士課程修了。東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。主要著作『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社)他。

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発表要旨「ロシア文学と漱石」

漱石は二年間の英国留学中(1900年10月~1902年12月)に西洋の書物を沢山購入して、幅広く文学研究に従事しておりました。本来は英文学者なので、蔵書目録を見ると英米文学の書物が大半ですが、ロシア文学(英訳本のほか、若干の独訳本と仏訳本)もかなり含まれております。ここでは、大正五年(1916年)の漱石の日記断片に記されている謎めいた言葉─「○Life 露西亜の小説を読んで自分と同じ事が書いてあるのに驚く。さうして只クリチカルの瞬間にうまく逃れたと逃れないとの相違である、といふ筋」という文言にある「露西亜の小説」とは一体何であったのかに焦点を当てて、漱石晩年の未完の大作『明暗』とトルストイの長編『アンナ・カレーニナ』とを比較考量してみたいと思います。

発表要旨「夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり」

子規の短編「飯待つ間」と漱石の『吾輩は猫である』との比較を中心に、二人の交友と作品の深まりを次の順序で考察する。 1,子規の退寮事件と「不敬事件」 2,『三四郎』に記された憲法の発布と森文部大臣暗殺  3,子規の新聞『日本』入社と夏目漱石   4,子規の日清戦争従軍と反戦的新体詩  5,新聞『小日本』に掲載された北村透谷の追悼文と子規と島崎藤村の会見   6,ロンドンから漱石が知らせたトルストイ破門の記事と英国の新聞論   7、『吾輩は猫である』における苦沙弥先生の新体詩と日本版『イワンの馬鹿』   8、新聞『日本』への内田魯庵訳『復活』訳の連載  9、藤村が『破戒』で描いた学校行事での「教育勅語」朗読の場面   結語 「教育勅語」問題の現代性と子規と漱石の文学

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会場(中央大学駿河台記念会館)への案内図

案内図

JR中央・総武線/御茶ノ水駅下車、徒歩3分

東京メトロ丸ノ内線/御茶ノ水駅下車、徒歩6分

東京メトロ千代田線/新御茶ノ水駅下車(B1出口)、徒歩3分

明治の藩閥政府と平成の安倍政権――『新聞紙条例』(讒謗律)と「特定秘密保護法」、「保安条例」と「共謀罪」との酷似

「日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツァーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。」(『翔ぶが如く』文春文庫)

現在、日本の「憲法」の形にも深くかかわる「共謀罪」の議論が拙速な形で行われていますので、征韓論から西南戦争に至る激動の時代を描いた『翔ぶが如く』で山県有朋を厳しく批判していた上記の文章をトップページの〈司馬遼太郎の「神国思想」批判と憲法観に追加しました。

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今回は作家・司馬遼太郎の山県有朋観を簡単に考察することで、山県有朋の思想を強く受け継いでいると思われる安倍首相の危険性を明らかにしたいと思います。

1,山県有朋と政商との癒着と公金横領事件

現在、日本は安倍首相夫妻と「森友学園」や「加計学園」の問題で大きく揺れていますが、「征韓論」の発端となったのは、元奇兵隊の隊長で戊辰戦争の後に横浜で生糸相場を張るようになり「わずか一二年で横浜一の巨商」になった野村三千三〔みちぞう〕による山城屋事件でした。

元部下の野村から頼まれた山県有朋は、「兵部省の陸軍予算の半分ぐらいに」相当したかもしれぬ五十万円という巨額の公金を貸したばかりでなく、御用商人にも取り立てていたのですが、生糸相場に失敗して六四万九千円もの公金を返せないような事態に陥ったので野村は切腹し、山県も明治5年に辞職していました(『歳月』上・「長閥退治」)。

しかし、薩長のパワーバランスにより山県は翌年には初代陸軍卿として復職したばかりでなく、同じような横領がやはり旧長州藩の「井上馨を独裁者とする大蔵省」でも起きたのです。

「信じられぬほどの悪政がいま、成立したばかりの明治政府において進行している」ことに憤激し、太政官での議論でも「法の前では何人〔なんびと〕も平等である」と力説して受け入れられずに辞職した司法卿の江藤新平が明治7年に起こしたのが佐賀の乱でした。

司馬氏は『翔ぶが如く』ではフランス革命時の「フランス革命の闘士」でありながらも、利権で私腹を肥やしさらには、「王政の復活のために暗躍」したタレーランと山県有朋の類似性を指摘したあとでこう続けています。「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した。」

2,薩長藩閥政府への批判の広がりと明治8年の「新聞紙条例」(讒謗律)

元司法卿の江藤新平が起こした佐賀の乱が鎮圧されたあとも、薩長藩閥政府の汚職と腐敗に対する国民の怒りは収まらず、燎原の火のように広がる薩長藩閥政府への批判を弾圧するために発布されたのが「新聞紙条例」でした。司馬氏はこの条例の問題点をこう指摘しています。

「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さ在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。(太字は引用者、『翔ぶが如く』第5巻「明治八年・東京」)。

3、内務省の設置(明治6年)と保安条例の公布(明治20年)

「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通は、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしましたが、西南戦争の後で暗殺されます(『翔ぶが如く』第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

その内務省の大臣となった山県有朋(任期1885~90年)が、「憲法」公布前の明治20年に発布したのが、集会・結社の自由を規制していた「集会条例」を大幅に強化して、後の治安維持法を準備したといえる「保安条例」でした。

内務省がこの条例を拡大解釈することによって、民間で私擬憲法を検討する事も禁じていたことを考慮するならば、この条例は民主主義を否定するような形での「改憲」を目指す安倍政権が、なぜ国内だけでなく、国際社会からの強い批判にもかかわらず「共謀罪」を強行採決しようとしているかをも物語っているが分かるでしょう。

ISBN978-4-903174-33-4_xl

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)

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「特定秘密保護法」強行採決への歩み(4)

戦車兵と戦争ーー司馬遼太郎の「軍神」観7月14日

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性7月14日

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観7月19日

「特定秘密保護法」の危険性→「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)11月13日

「(国家そのものが)投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」→司馬遼太郎の「治安維持法」観11月14日

復活した「時事公論」と「特定秘密保護法」 11月24日

「司馬作品から学んだこと――新聞紙条例と現代」11月24日

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」11月24日

司馬作品から学んだことⅠ――新聞紙条例と現代11月24日

司馬作品から学んだことⅡ――新聞紙条例(讒謗律)と内務省

司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題  

司馬作品から学んだことⅤ――「正義の体系(イデオロギー)」の危険性

司馬作品から学んだことⅥ――「幕藩官僚の体質」が復活した原因

司馬作品から学んだことⅦ――高杉晋作の決断と独立の気概2013年12月6

司馬作品から学んだことⅧ――坂本龍馬の「大勇」12月7日

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規12月8日

「学問の自由」と「特定秘密保護法」――情報公開と国民の主権12月12日

司馬作品から学んだことⅨ――「情報の隠蔽」と「愛国心」の強調の危険性12月18日

(山口県萩市の中央公園に立つ「山県有朋公像」、北村西制作、出典は「ウィキペディア」)

(2017年6月10日、改題し全面的に改定)

「表現の自由と情報へのアクセス」の権利と「差別とヘイトスピーチ」の問題――「特定秘密保護法」から「共謀罪」へ

現在、「共謀罪」の議論が国会で行われているが、6月2日の衆院法務委員会で金田法務大臣は、戦争に反対する人々を逮捕することを可能にした「治安維持法」を「適法」であったとし、さらに創価学会初代牧口会長も獄死するに至った「拘留・拘禁」などの「刑の執行も、適法に構成された裁判所によって言い渡された有罪判決に基づいて、適法に行われたものであって、違法があったとは認められません」 と答弁した。

一方、5月30日に最高裁は「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が2014年10月5日号に掲載した「安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月」という記事を名誉毀損で訴えていた稲田朋美・防衛相の訴えが一審、二審判決につづいて稲田氏の上告を棄却する決定が出した。すなわち、稲田氏の資金管理団体「ともみ組」が2010年から12年のあいだに、ヘイトスピーチを繰り返していた「在特会」の有力会員や幹部など8人から計21万2000円の寄付を受けていたことを指摘したこの記事の正当性が最高裁でも認められたのである。

しかも、6月2日付の記事で「リテラ」が指摘しているように稲田氏は、〈元在特会事務局長の山本優美子氏が仕切る極右市民団体「なでしこアクション」が主催する集会に2012年に登壇しており、14年9月にはネオナチ団体代表とのツーショット写真の存在も発覚〉していた。それにもかかわらず、〈安倍首相は稲田氏をそれまでの自民党政調会長よりもさらに重い防衛相というポストにまで引き上げた。稲田氏と同じようにネオナチ団体代表と写真におさまっていた高市早苗総務相も据え置いたままである。〉

ヘイトスピーチ(写真の出典は「毎日新聞」)

なお、防衛相就任以前にも保守系雑誌などで「長期的には日本独自の核保有を国家戦略として検討すべきではないでしょうか」「文科省の方に『教育勅語のどこがいけないのか』と聞きました」などと述べていた稲田氏が、最近も月刊誌「月刊Hanada」(7月号)に論文を寄稿して、「大東亜戦争」の意義を強調するような持論を展開していたことが判明した。

これらの人物を大臣に任命した安倍首相の責任はきわめて重たく、この問題は国連のデービッド・ケイ特別報告者の「対日調査報告書」ともかかわると思える。

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すでにみたようにピレイ国連人権高等弁務官は2013年に強行採決された「特定秘密保護法」について、12月2日にジュネーブで開かれた記者会見で「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」に関わるこの法案については、人権高等弁務官事務所も注目しているが、「法案には明 確さが不十分な箇所があり、何が秘密かの要件が明確ではなく、政府が不都合な情報を秘密として特定できてしまう」と指摘し、次のように続けていた。

「政府および国会に、憲法や国際人権法で保障されている表現の自由と情報へのアクセスの権利の保障措置(セーフガード)を規定するまで、法案 を成立させないよう促したい」。

今回も「共謀罪」法案を衆議院で強行採決した日本政府に対して、国連人権高等弁務官事務所は、「メディアの独立性に懸念を示し、日本政府に対し、特定秘密保護法の改正と、政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条の廃止を勧告した」、「対日調査報告書」を公表した。

一方、産経新聞によれば、高市早苗総務相は2日午前の閣議後の記者会見で、この「対日調査報告書」について「わが国の立場を丁寧に説明し、ケイ氏の求めに応じて説明文書を送り、事実把握をするよう求めていた。にもかかわらず、われわれの立場を反映していない報告書案を公表したのは大変、残念だ」と述べていた。

しかし、「言論と表現の自由」に関する調査のために来日した国連特別報告者・デービッド・ケイ氏が公式に面会を求めていたにもかかわらず、それを拒否していた高市早苗総務相がこのような形で国連特別報告者の「報告書」を非難することは、「日本会議」などの右派からは支持されても、国際社会の強い批判を浴びることになるだろう。

この意味で注目したいのは、5月31日に掲載された読売新聞の「報告書」では「差別とヘイトスピーチ」の項目もあるが、要旨が記された記事では略されており、日本政府の「反論書」要旨にもそれに対する反論は記されていないことである。そのことは「差別とヘイトスピーチ」にふれられることを安倍首相や閣僚が嫌っていることを物語っているようにも見える。

現在、国連と安倍内閣との間に生じている強い摩擦や齟齬は、「特定秘密保護法」案が強行採決された時から続いているものであり、今回の「勧告」は戦前の価値観を今も保持している「日本会議」系の議員を重用している安倍内閣の政権に対する強い不信感を物語っているだろう。

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「特定秘密保護法」強行採決への歩み(3)

私は憲法や法律、政治学などの専門家ではないが、主に専門のドストエフスキー作品の考察をとおして、強行採決された「特定秘密保護法」の問題点に迫った記事の題名とリンク先を挙げる。

なぜならば、「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」が許されていなかったニコライ一世の治世下の「暗黒の30年」に、ドストエフスキーは作品を「イソップの言葉」を用いて書くことによって、「憲法」の発布や農奴制の廃止、言論の自由を強く求めていたからである。

彼の作品は戦時中にヒトラーの『わが闘争』を賛美していた文芸評論家・小林秀雄の解釈によって矮小化されたが、シベリアに流刑になった以降もさまざまな表現上の工夫をするとともに「虚構」という方法を用いて、重たい「事実」に迫ろうとしていた。

残念ながら、現在も文芸評論家の小林秀雄の影響が強い日本では、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する刺激的な解釈をして「二枚舌」の作家と位置づけている小説家もいるが、それは作家ドストエフスキーだけでなく「文学」という学問をも侮辱していると思える。

ドストエフスキーの作品研究においても、「農奴の解放」や「裁判の公平」そして、「言論の自由」を求めていたドストエフスキーの姿勢もきちんと反映されねばならないだろう。

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 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)

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「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」(7月9日)

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』(7月16日)

TPPと幕末・明治初期の不平等条約(7月16日)

「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在(7月17日 )

「蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて(7月17日 )

「憲法」のない帝政ロシア司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性10月31日

ソ連の情報公開と「特定秘密保護法」→グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(10月17日 )

現実の直視と事実からの逃走→「黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観」11月5日

小林秀雄のドストエフスキー観テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に  

上からの近代化とナショナリズムの問題日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって11月8日

「特定秘密保護法案」に対する国際ペン会長の声明11月22日

「特定秘密保護法」の強行採決と日本の孤立化11月26日

(2017年6月3日、6月9日、11日、題名を変更し改訂、図版を追加)

「特定秘密保護法」強行採決への歩み(2)――チェルノブイリ原発事故と福島原発事故の類似性

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(東宝製作・配給、1955年、「ウィキペディア」)。

放射能汚染水の流出が発生していながら、その事故が隠蔽されたことによって参議院選挙に勝利した安倍自民党が、「国会」での十分な議論もなく進めたのが、核保有国のインドに対する原発の輸出交渉だった。

しかし、昭和49年日本の参議院はインドの地下核実験に対する抗議の決議を次のような文面で行っていた。

「本院は、わが国が唯一の被爆国であることにかんがみ、今日まであらゆる国の核実験に抗議し、反対する決議を行い、その禁止を強く要望してきた。  今回行われたインドの地下核実験は、たとえいかなる理由によるものにせよ、核実験競争を激化させ、ひいては人類滅亡の危機をもたらすものであつて、厳重に抗議するものである。  政府は、本院の主旨をたいし、すべての国の核兵器の製造、実験、貯蔵、使用に反対し、全面的な禁止協定が締結されるよう努めるとともに、インド政府に対し、直ちに適切な措置を講ずべきである。 」

さらに1998年5月にインドとパキスタンが相次いで核実験を断行し、「ヒンドゥー核とイスラム核の悪夢」として世界を揺るがした際にも同様の抗議をインドとパキスタンに対して行っていた。

インドの地下核実験に抗議する決議(第142回国会):資料集:参議院

パキスタンの地下核実験に抗議する決議(第142回国会):資料集:参議院

これらの決議にもかかわらず安倍自民党が、核保有国のインドに原発を輸出しようとしていたことは、目先の利益にとらわれたこの政権が、2度に渡る被爆などの歴史的な重たい事実や「核実験競争を激化させ、ひいては人類滅亡の危機をもたらす」危険性にたいしては無関心であることを示しているだろう。

さらに、インドへの輸出によって将来日本の国民が蒙ることになる損害賠償の可能性を隠していたことは、福島第一原子力発電所の事故の責任の所在をも隠蔽することができる「特定秘密保護法」の制定にこの政権が動き出そうとしていた可能性すら示唆していたように思える。

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以下、安倍自民党の原発政策の危険性を考察したを考察した記事を掲げる。

チェルノブイリ原発事故と福島原発事故の類似性「劇《石棺》から映画《夢》へ」(7月8日)

「映画《福島 生きものの記録》(岩崎監督)と黒澤映画《生きものの記録》」(7月11日)

「大地主義」と地球環境(8月1日 )

汚染水の深刻さと劇《石棺》(8月1日 )

汚染水の流出と司馬氏の「報道」観(7月28日 )

原爆の危険性と原発の輸出2013年8月6日

「加害責任の反省」と「不戦の誓い」のない終戦記念日の式辞→終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ 8月15日

「汚染水流出事故」についての世界の報道機関の反応『はだしのゲン』の問題と「国際的な視野」の必要性8月27日

Earthquake and Tsunami damage-Dai Ichi Power Plant, Japan

(2011年3月16日撮影:左から4号機、3号機、2号機、1号機、写真は「ウィキペディア」より)

 

「特定秘密保護法」強行採決への歩み(1)――放射能汚染水の流出事故の隠蔽と2013年参議院選挙

昨日の記事で紹介したように、国連のデービッド・ケイ特別報告者は「対日調査報告書」を公表して、「メディアの独立性に懸念を示し、日本政府に対し、特定秘密保護法の改正と、政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条の廃止を勧告した」(「共同通信」5月30日21時30分)。

法的な強制力を伴わないことから、日本ではこの「対日調査報告書」と「勧告」が軽く見られている傾向もあるように思われる。しかし、「特定秘密保護法」が2013年に強行採決された際には、日本新聞協会(会長・白石興二郎読売新聞グループ本社社長)も、「運用次第では憲法が保障する取材、報道の自由が制約されかねず、民主主義の根幹である国民の『知る権利』が損なわれる恐れがある」と指摘する声明を発表していた。

実際、それから4年経った現在、「読売新聞」は安倍首相の友人が理事長を務める学校法人「加計学園」による獣医学部新設計画における安倍政権の教育行政の歪みが記されている文書がすべて「本物」であると証言した前川前文部次官のスキャンダルをリークした官邸からの情報を第一面に掲載した。このことは2013年に発表された日本新聞協会の声明がその後の「報道の自由」の変質を予見していたことを裏付けているだろう。

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この意味で注目したのは、2013年参議院選挙後の7月22日になって放射能汚染水の流出が発表されが、報道によれば「東電社長は3日前に把握」していたことが明らかになり、その後福島第一原発2号機のタービン建屋地下から延びるトレンチに事故発生当時とほぼ同じ高濃度の放射性セシウムが見つかったとの発表もされて、この事実の隠蔽に関わった社長を含む責任者の処分も発表されたことである。

海外における「放射能汚染水の流出事故」の報道については→『はだしのゲン』の問題と「国際的な視野」の必要性

2013

(2013年参議院選挙結果、©Monaneko – Jiji.com, NHK, asahi.com)

このことについてはブログ記事で言及するとともに、「日本人が眼をつぶっていても、いずれ事実は明らかになる」とも記した。→汚染水の流出と司馬氏の「報道」観2013年7月28日)

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しかし、ピレイ国連人権高等弁務官が12月2日にジュネーブで開かれた記者会見でこの法案の「成立を急ぐべきではない」と指摘していたにもかかわらず、安倍政権は「特定秘密保護法」を2013年12月6日に強行採決した。→国連人権高等弁務官、特定秘密保護法案に懸念 :日本経済新聞

「東京新聞」の「こちら特報部」は、「そもそも五輪招致段階のIOC総会で『汚染水は完全にコントロールされている』と事実に反するアピール」をした安倍首相が、「自らの責任も問われている福島原発事故も、五輪を機に『過去』のものにしたいようだ」と指摘した記事を発表したが、「特定秘密保護法」自体が原発事故の隠蔽に深く関わっていたと思える。

さらに、「報道の自由」特別報告者デビット・ケイ氏は「電波停止」発言を行いながら度重なる会見の要求を拒否していた高市総務大臣など、「日本会議」系の議員を重用している安倍内閣の政権の問題を指摘していた。

報道によれば、ケイ氏が「来月12日に人権理事会で調査報告について説明する予定」であることも同時に伝えられたが、このブログとツイッターでも時系列に沿って当時の記事をアップして「特定秘密保護法」から「共謀罪」への流れを追うことでこれらの法律の問題点を浮かび上がらせるようにしたい。

(2017年6月1日、改題して図版とリンク先を追加)