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02月

「小林秀雄神話」の解体(3)――「人生斫断家」という定義と2・26事件

3、「人生斫断家」という定義と2・26事件

鹿島茂氏は神田で売られていた古本の中に「『地獄の季節』を見つけて衝撃の出会いを経験してからすでに二十二年近くを経過している」にもかかわらず、小林秀雄が「烈しい爆薬が」「見事に炸裂」したといった「妙に青臭い」表現を用いているのはなぜだろうかと問いかけています。

恐らくその一因は著者も視野に入れている時代との関りを考慮することで明らかになるでしょう。すなわち、小林が『地獄の季節』を翻訳したのはロンドン海軍軍縮条約が批准された1930年でしたが、「統帥権干犯」問題で浜口首相が銃撃され、海軍の「艦隊派」も北一輝などの右翼やマスコミ対策などをとおして条約反対の機運を盛り上げたことで、一気に「国粋主義」的な機運が高まって翌年には満州事変が起きていたのです。

小林がサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳した1939年にはノモンハン事変の敗北、アメリカの対日経済制裁、独ソ不可侵条約の締結」などの大事件が相次ぐ一方で、「国内的には日本浪曼派の台頭など、日本回帰の風潮は強まり」、小林自身も「着実に日本の伝統へと向かいつつあった」(52)のです。

それゆえ、保田與重郎主宰の「日本浪曼派」を考察した評論家の橋川文三は、小林秀雄の美意識が「むしろ過剰な自意識解析の果てに、一種の決断主義(太字の個所は原文では傍点)として規定されるのに反し、保田の国学的主情主義は、(……)むしろ没主体への傾向が著しい」と指摘し、「満州国の理念」を賛美した「日本浪曼派」の「保田と小林とが戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在であった」と記していました(『日本浪曼派批判序説 耽美的パトリオティズムの系譜』、講談社文芸文庫)。

入学試験のために主人公が上京した翌日に、皇道派の将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」を掲げてクーデターを起こそうとした2・26事件と遭遇したことが描かれている『若き日の詩人たちの肖像』では、中学に入学した年に勃発した満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と主人公が感じていたことも描かれています。

『若き日の詩人たちの肖像』の主人公は、留置場に理由もなく入れられた際には芥川龍之介の遺書『或旧友へ送る手記』の文章を思い出して憤慨したことが記されていますが、なんとか「出口」を見つけたいと願っていた若き主人公にとって、芥川が自殺という手段でこの世から去っていたことは、腹立たしいことだったのです。

一方、小林秀雄がランボーを「人生斫断家」と定義していたことに注目した鹿島茂は、「斫断」というのは辞書にはないので「同じ意味の漢字を並べて意味を強調する」ための造語で、「いきなりぶった切る」という意味を出したかったのではないかと記しています(170)。

そして著者は小林秀雄のランボー論が流行った理由を、当時の時代状況などにも注意を払いながら「昭和維新」を熱心に論じあい、「斎藤実や高橋是清を惨殺した二・二六の将校」と、小林が「その深層心理ないしは無意識において」は、「それほどには違っていなかったのではあるまいか?」と推定し(186)小林秀雄訳『地獄の季節』に見られる「美神との刺違へ」的イメージが二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」と書いているのです(263)。

 きわめて大胆な仮定ですが、たしかにランボーの詩について「彼は美神を捕らえて刺違へた」と解釈し、戦闘用語の「爆薬」とか「炸裂」という単語を用いていた小林の「いきなりぶった切る」という意味の「斫断」という単語は、「一思いに打ちこわす、それだけの話さ」と語り、「いやなによりも権力だ!」と続けていたラスコーリニコフの言葉を想起させます。 

つまり、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです」と語らせたドストエフスキーは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。(……)自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(江川卓訳)とも語らせていました。

さらに、1940年には『我が闘争』の短評でヒトラーの考えを賛美した小林秀雄が、その翌月に『文学界』に掲載された作家・林房雄や石川達三との鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていました。

一方、『罪と罰』の創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」と書かれています。ドストエフスキーはラスコーリニコフに、自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえており、それゆえ小林秀雄の『罪と罰』論も主人公の苛立ちをも見事に指摘したことで、同時代の若者たちの共感をも勝ち得ることができたのです。

それとともに1936年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセイでは中野重治などを批判しつつ、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書き、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」とも記すことになる小林は、芥川を厳しく批判することですでに時勢に順応しようとしていたことも感じられるのです。

「小林秀雄神話」の解体(2)――『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

2、『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

ランボオの『地獄の季節』という題名は正しくは「地獄に於ける或る季節」であると小林秀雄自身が後に断っていることに注意を促して(39)、彼の翻訳が「ほとんど『創作』に近くなっていた」と指摘した著者はこう続けています。

「ところが、その訳文の「月並みならざる」な文体が同じような精神の傾きを持った同時代の青年たちに圧倒的な熱狂をもって歓迎され、小林は一躍時代のヒーローとなり、以後五十年間、一九八〇年代に時代が転換するまで「文学の神様」の座にとどまりつづけた」のである。」(41)

その理由は小林が時代を先取りするような形で 『地獄の季節』を訳出したことにあると思いますが、著者は小林秀雄が1947年3月に書いた「ランボオの問題」(現タイトル「ランボオⅢ」)冒頭の文章を引用することで小林との出会いの意義を考察しているので引用しておきます。

「僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、廿三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向こうからやつて来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかつた。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられてゐたか、僕は夢にも考へてはゐなかつた。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらゐ敏感に出来てゐた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあつた。それは確かに事件であつた様に思はれる。文学とは他人にとつて何であれ、少くとも、自分にとつては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さへ現実の事件である、とはじめて教へてくれたのは、ランボオだつた様にも思はれる」(135-136)。

「後続世代」も「小林秀雄訳のランボー」との出会いに同じような衝撃を受けており、後に「小林秀雄の訳文の完膚なきまでの否定者となった」フランス文学者の篠沢秀夫も、この訳が「白水社から刊行されて以来、戦前戦後を通じて、不安な青春の精神に強い衝撃をあたえる読み物として重きをなしてきた」と書いていることに注意を促した著者は、小林が「さういふ時だ、ランボオが現れたのは、球体は砕けて散つた。僕は出発する事が出来た」と書いている個所を引用して、それまでは「ボードレール的なガラス球体の中に閉じ込められ」ていたような状態だったのであろうと推定しています(161)。

そして、当時の木版画を多数掲載することで当時の政治や社会や経済、文化なども視覚的に紹介しつつ、『レ・ミゼラブル』の内容と意義とを分かり易くかつ伝えた『「レ・ミゼラブル」百六景』を1987年に出版していた鹿島氏は、『ドーダの人』で一世を風靡した小林秀雄訳の『地獄の季節』を篠沢秀夫訳の『地獄での一季節』と比較しながら詳しく検証し、次のように記しているのです(161)。

すなわち、「夜は明けて、眼の光は失せ、顔には生きた色もなく、行き交ふ人も、恐らくこの俺に眼を呉れるものはなかったのだ。/ 突然、俺の眼に、過ぎて行く街々の泥土は、赤く見え、黒く見えた。」という個所をランボーが『レ・ミゼラブル』を踏まえて描いていることを無視して、小林は「ランボーの『私小説』として誤読し、これを『ランボー体験』として敷衍してしまたった」(167)。

こうして著者は、小林秀雄が「ランボーを誤訳する前に誤読し、いわば、ランボーの翻訳というかたちを借りて『創作』を行った」とし、「この意味で、『他人を借りて自己を語る』という小林秀雄の批評態度はすでにランボーの段階から『確立』されていたことになる」と書いているのです。

同じことは小林秀雄の『罪と罰』理解にも当てはまります。「高利貸し」の問題が事件の発端となっていたことや弁護士ルージンとの口論や司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて『罪と罰』を考察した小林は、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言しているのです(全集、6・45)。

ドストエフスキーがエピローグの「人類滅亡の悪夢」を見た後のラスコーリニコフの更生を示唆していたことに留意するならば、小林秀雄の『罪と罰』論がドストエフスキーの作品を分析した解釈ではなく、自分の心情に沿った解釈であったと言えるでしょう。

 このような『罪と罰』の解釈は同じ年に開始した『白痴』論とも連動しており、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」という大胆な解釈をした小林は(全集、6・63)、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と記して、二つの作品の主人公の同一性を強調していました。

その理由について小林は死刑について語った後でムィシキンが「からからと笑ひ出し」たことを、「この時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、「作者は読者を混乱させない為に一切の説明をはぶいてゐる」ので、「突然かういふ断層にぶつかる。一つ一つ例を挙げないが、これらの断層を、注意深い読者だけが墜落する様に配列してゐる作者の技量には驚くべきものがある」と説明しています(全集、90-91)。

 こうして小林は、この場面を「全編中の大断層の一つ」として指摘することで、死刑や死体などの「無気味さ」について面白そうに語っていたムィシキンの異常さを強調しているのです。しかし、これは自分の解釈へと読者を「誘導」するような小林の「創作」的な解釈で、「注意深い読者」ならば、すぐにその誤読に気付くはずです。

 なぜならば、『白痴』ではムィシキンが死刑廃止論者として描かれていますが、1860年の『灯火』誌の第三号には死刑の廃止を訴えたユゴーの1829年の作品『死刑囚最後の日』がドストエフスキーの兄ミハイルの訳で掲載されていました。ドストエフスキー自身も『作家の日記』においてこの作品について、「死刑の宣告を受けたものが、最後の一日どころか、最後の一時間まで、そして文字通り最後の一瞬まで手記を書き続ける」ことが現実にはありえないにしても、ここに描かれているのは死刑囚の心理に迫り得ていることを高く評価して、これを「最もリアリスチックで最も真実味あふれる作品」と位置づけているのです(高橋誠一郎、『欧化と国粋 日露の「文明開化」とドストエフスキー』参照)。

それらのことに注目するならば、殺人を犯した後も「罪の意識も罰の意識も」現れなかったラスコーリニコフとムィシキンとの同一視は不可能だといえるでしょう。1861年にフィレンツェでユゴーの大作『レ・ミゼラブル(悲惨な人々)』を手に入れると街の見学も忘れて読みふけり、翌年にはこの長編小説と『ノートルダム・ド・パリ』についての詳しい紹介を『時代』に掲載したドストエフスキーは、その筋や人物体系を『罪と罰』に取り入れ(井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』参照)、『白痴』にも組み込んでいるのです。

「小林秀雄神話」の解体(1)――「他人を借りて自己を語る」という方法

1,「他人を借りて自己を語る」という方法――小林秀雄とサント・ブーヴ

鹿島茂氏の『ドーダの人、小林秀雄』は、下記の章から構成されています。   小林秀雄の難関ドーダ/ 小林秀雄のフランス語と翻訳/ 小林秀雄と長谷川泰子/ ドーダと人口の関係性/ 小林秀雄と父親/ アーサー・シモンズの影響/ 小林秀雄とランボー/ 小林秀雄と河上徹太郎/ ヤンキー小林秀雄/ 小林秀雄をアモック/ 小林秀雄の純ドーダ

フランスの文学と文化の研究者の視点から、小林秀雄の『地獄の季節』訳の問題などをとおして「小林神話」の解体を試みた本書からは啓発される点が多かったのですが、ここでは時代との関りに注意を払いながら小林のランボーの理解とドストエフスキー作品の解釈との関連を中心に見ていきたいと思います。

まず注目したいのは、「小林秀雄と父親」の章で1921年に小林秀雄が父親を失っていることに注意を促して、幼くして「家長」となった「小林には、俗な言葉でいうなら『家運』を『挽回』し、病気の母の療養を扶けねばならない責任」を課せられたという江藤淳の言葉を紹介していることです(117)。

一方、『三四郎』で日露戦争以降の日本に対する厳しい見方を記した夏目漱石が、『それから』では大逆事件(1910)が起きることを示唆するような描写をし、森鷗外も『沈黙の塔』で検閲への強い懸念を記したことはよく知られていますが、芥川龍之介もこの事件に対する政府の対応を強く批判した徳冨蘆花の演説から強い影響を受けて1915年に『羅生門』を書いた可能性が高く、小林も一時は日露戦争を批判的に記した芥川の『将軍』(1922)を愛読していたのです。

しかし、漱石たちの危惧したように、時代は悪化の一途をたどりますが、そのような中で小林秀雄が選んだのがフランス文学であり、1926年のボードレールから始まって、1939年のサント・ブーヴに終わる小林秀雄の翻訳履歴を概観した著者は、小林秀雄が「この時代のインテリが好みそうなフランス文学を探り当てそれを時代に先駆けて訳している」という印象を伝えています。

そして小林が最後にサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳していることに注意を促し、「小林が日本において近代批評を確立するにあたって、他人を借りて自己を語るというサント・ブーヴの方法に拠ったこともよく知られている」と記した著者は続けて、「中原中也の死を契機に」、「昭和十四年に小林は『我が毒』を「わがこと」と思って創作的翻訳を行ったと見なすべきなのである」と主張しています(55)。

 ここだけを引用すると強引なようにも見えますが、その後で著者はその理由を「日本の小林秀雄研究者はあまり気づいていないようだが、それは十九世紀のフランス文学を少しでも齧(かじ)ったものには至極自明なものである。中原に対する小林の関係は、ユゴーに対するサント・ブーヴのそれと相似的であるということだ。つまり、親友の妻(内縁の妻)を寝取ったということである」と説明しているのです(56)。

しかも、「東大仏文科に在籍しながら、中原中也から愛人・長谷川泰子を奪い、杉並の天沼で同棲生活を始めた小林秀雄」は、「泰子の潔癖症が激化することで、一転して地獄のような生活へ」と変わり、「まるでシベリア流刑だ」とその苦痛を泰子に語るようになっていました。

「この泰子の証言は、小林におけるドストエフスキー受容史を調べる上で、かなり大きな手掛かりになるはずだ」とした鹿島氏は、この頃から小林が「ドストエフスキーの著作、とりわけ『死の家の記録』に」親しんでいたことが分かるからだと記しています。

ただ、 「小林が日本において近代批評を確立するにあたって、他人を借りて自己を語るというサント・ブーヴの方法に拠ったこともよく知られている」という著者の指摘に注目するならば、 長谷川泰子の同棲の体験は『死の家の記録』よりも『白痴』に対する小林秀雄の「創作」的な解釈とより深く結びついていると思えます。

すなわち、 1934年に『罪と罰』論に続いて連載した『白痴』論では、 この長編小説の複雑な人物体系や筋の流れを省略し、ナスターシヤの心理や行動を理解する上で欠かせない スイスの村でのマリーの悲劇を描いたエピソードには全く触れずに、 彼女をめぐる主人公ムィシキンとロゴージンとの三角関係に焦点を絞ってこの長編小説を論じているのです。

 
しかも、よく知られているように、 ナスターシヤは 孤児となって貴族のトーツキーに養育されたものの少女趣味のあった彼によって無理矢理に妾にさせられていたのですが、そのような状況を省いた小林はナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたのです。

さらに、結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはただ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた(全集、6・100)。

しかし、堀田善衞が自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、『白痴』の主人公を「天使」と解釈しているように、ドストエフスキーが「ロシアのキリスト」を意識して造形したムィシキンを 「悪魔に魂を売り渡して了つた」人間と解釈することは作者を侮辱することでもあると思えます。(なお、『若き日の詩人たちの肖像』について鹿島氏は「日本の文学の主流は、いわゆる私小説です。つまり、私(わたくし)とその周辺のことだけを考えて書いている。それが日本的な個人主義ですが、堀田さんの考える個人主義は、他の人とのつながりも書いている」と『堀田善衞を読む』(集英社新書)で高く評価しています。

原作とは全く異なると思える『白痴』解釈の問題については、次節の後半で再度考察することにします。

「小林秀雄神話」の解体――鹿島茂著『ドーダの人、小林秀雄』を読む(序)


目次/ はじめに/ 1,「他人を借りて自己を語る」という方法――小林秀雄とサント・ブーヴ / 2、『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解/ 3、「人生斫断家」という定義と2・26事件/  4,「小林神話」の拡がりと「核戦争」の危機

はじめに 

「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で」、どこの大学にも「小林秀雄信者」の教員がいて「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』」と迫る出題をしていました。

 そのことを紹介したフランス文学者の鹿島茂氏が「小林神話」の解体を試みた 標記の著書から強い知的刺激を受け た私は、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』(成文社、2019年)の終章では小林秀雄の『地獄の季節』訳と2・26事件との関係について分析した氏の説明を引用しました、

 『地獄の季節』と 『レ・ミゼラブル』とのかかわりを説明している箇所や小林秀雄と長谷川泰子と中原中也の三角関係についての分析も、ドストエフスキー作品の構造とも深く関わっています。それゆえ、今回はそれらのことにもふれつつ 、『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』朝日新聞出版、2016年。以下、題名は『ドーダの人』と略す)についてドストエフスキー研究者の視点から紹介しようと考えました。

 さらに、本稿を執筆中にロシア軍のウクライナ侵攻が始まると、それに乗じて維新の橋下徹氏が 日本の「核武装」についてテレビで論じると、安倍元首相もそれに応じて「改憲」が煽られるという事態が起きました。

  このような状況は関東軍による満州事変が起きると日本では「満州国」の建国を危機の打開策として歓迎するような世論が 一気に 強まり、2・26事件をへて、泥沼の日中戦争から太平洋戦争の悲劇へと突き進んだ事態を連想させます。

 それゆえ、この稿の後半ではドストエフスキー作品の深い考察もある堀田善衞の自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』にも言及することにより、小林秀雄と林房雄の戦争観と死生観を見た後で、『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促した評論家の橋川文三による「日本の右翼テロリスト」の死生観についても紹介しました。

 そのことにより戦前の「五族協和」などと同じような美しいスローガンにより、「核武装」を説く論客の弁舌に乗って、「改憲」の必要性を主張する「#日本会議」系の議員の主張と昭和初期の論客の主張の類似性とその危険性にも迫ることができると思います。 (2022/03/02、改訂)

ウクライナ侵攻と安倍元首相のプーチン観

 1936年にクーデター未遂が起きた2月26日の今日もロシア軍のウクライナ軍事侵攻が現在も続いています。

しかし、旧ソ連諸国を統合する「大国ロシア」の防衛線としてウクライナを重視するプーチン大統領の見方の古さが指摘されてiいるように、「大義」を欠いた侵攻に参加させられたロシア兵の士気は上がっていないようです。

 一方、 安倍元首相 はプーチン大統領に「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている」と親しげに呼びかけていましたが、安倍氏の祖父・岸元首相は満州国にも深く関わっていました。

  それにもかかわらずフジテレビの報道番組では橋本徹氏が「次の参院選で核兵器保有を争点にすべき」と語ると、安倍氏元首相は「核兵器」についての「議論をタブー視してはならない」と応じ、ウクライナ危機に乗じて「改憲」の動きを早めようとしています。

 それゆえ、ウクライナ危機は単に他国の問題ではなく、日本の民主主義や 「核兵器禁止条約」の問題とも深く関わっていると言えるでしょう。

一方、28日の 17時のJIJI.COMには 維新の松井大阪市長が「非核三原則、昭和の価値観」、 「米国の原子力潜水艦をリースしてもらうというような議論もすべきだ」と語ったとの記事が載りました。

21世紀にようやく批准された「核兵器禁止条約」の意義を真っ向から否定する ような、「昭和維新」をスローガンにした青年将校達のように威勢のよい発言ですが、「八紘一宇」を唱えた彼らの行動がどのような悲惨な状況を生みだしたかを冷静かつ真剣に考えるべき重大な岐路に立っていると思えます。

(2022/ 02/28 改訂、 03/24 改訂し改題)