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12月

ドストエーフスキイの会「第225回例会」のご案内、「主な研究」に「傍聴記」を掲載

リンク→ 木下豊房氏「小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観」を聴いて

 

ドストエーフスキイの会「第225回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.126)より転載します。

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第225回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                    

 日 時2015年1月24日(土)午後2時~5時

 場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854

 報告者:泊野竜一 氏

題目: 『カラマーゾフの兄弟』における対話表現の問題

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:泊野竜一(とまりの りょういち)

所属・身分は早稲田大学大学院文学研究科人文科学専攻ロシア語ロシア文化コース後期博士課程1年。源ゼミに所属。研究テーマは、修士課程では、対話表現としての長広舌と沈黙との問題を、ドストエフスキー作品において取り扱った。博士課程では、19-20世紀ロシア文学における対話表現の問題を研究していきたいと考えている。具体的に研究する作品としては、ドストエフスキーの作品を中心として、その先駆となるもの、あるいは後継となるものとして、オドエフスキー、ゴーゴリ、アンドレーエフ、ガルシン、ブリューソフの作品を選択。そして、その間の変化の中での「分身」「狂気」「内的対話」の問題に取り組む予定。

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 『カラマーゾフの兄弟』における対話表現の問題                            

ドストエフスキーは、知人宛ての書簡で、『カラマーゾフの兄弟』の中に、ある宗教的な意図を含めたことを記している。それは、「プロとコントラ」の章においてイワンが語る涜神論は、次の「ロシアの僧侶」の章においてゾシマ長老の思想に論破されるというものである。この二つの章には、相似的な構造が用意され、宗教論争上のイワンの敗北とゾシマ長老の勝利が対照的に示される予定であったことが伺える。だが「ロシアの僧侶」の原稿を出版社に送った直後、ドストエフスキーは、この目論見が揺らいでしまったと、別の書簡で告白している。一体どうしてそのようなことが起こったのであろうか。

ドストエフスキーは長編小説中で、一つの独特な対話表現を用いていると考えられる。それは、対話者の片方は長広舌を続け、もう片方は沈黙しそれを拝聴するという形式をもっている。つまり見かけ上は、一方的なモノローグの様相を呈している。ところがこれは、通常の相互通行の対話よりも、はるかに豊かな内的対話の表現となっているのである。

ドストエフスキーに特徴的である対話表現が、もっとも発達していると考えられるのは、『カラマーゾフの兄弟』の中の《大審問官》である。そこで《大審問官》における二人の主要登場人物である、大審問官とキリストと目される男の対話に注目し、これに具体的な分析を加えることとする。

分析の結果、この対話表現には以下のような4つの特徴が存在すると見られる。まず、対話者の片方が沈黙を守り、その様子もほとんどわからない「聞き手の様子不明の特徴」。次に、長広舌を揮う対話者が、相手の発言を遮り、かつまた相手の発言を先取りしてまで、自らの発言を聞くことを強要する「長広舌強要の特徴」。そして、今度は逆に、長広舌を揮っていた対話者が、沈黙を守る相手に発言を乞うようになる「返答要請の特徴」。最後に、見かけ上の対話は終了するが、対話者の心の中で内的な対話が永続する「対話継続の特徴」である(このような対話表現を仮に「長広舌と沈黙との対話」と呼ぶこととする)。

そこで「プロとコントラ」と「ロシアの僧侶」の二つの章の中にある、《大審問官》と、「故大主教ゾシマ長老の生涯」における対話を分析することを試みると、どちらも「長広舌と沈黙との対話」の体をなしていると見られる。したがって、この二つの対話は、そのもっとも重要な特徴である「対話継続の特徴」を有していると考えられる。それならば、この二つの対話は対話者の内部においては終了しないし、結論も確定しないということとなる。つまり、これらの対話は、その表現方法によって、対話者間の議論に優劣をつけうるような性質のものではなくなってしまったのではないかと思われる。

すなわち、ドストエフスキーが生み出した文学上の表現方法である「長広舌と沈黙との対話」が、作者の、イワンの涜神論が、ゾシマ長老の思想に論破されるというような宗教的な意図を結果的に裏切ってしまっているのである。以上のような読みの可能性を、ここでは提案したい。

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 例会の「事務局便り」については、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

 

黒幕は誰か――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(9)

 

ネタバレあり

『永遠の0(ゼロ)』を読み始めた私は、そのトリックが明らかになる後半に近づくにしたがって、この作品が「文学」を侮辱しているばかりでなく、その「作者」が「人間」を馬鹿にしていると激しい怒りを覚えました。

「黒幕は誰か」という今回のテーマについては、一応、推理小説的な構造を持つこの作品のネタバレになるので躊躇していました。

しかし、「臆病者」と罵(ののし)られながらも、「家族」のことを大切に思い、「命が大切」と語っていた宮部久蔵が終戦間際に「突撃」して亡くなるという最後の不自然さについては、すでにアマゾンのカスタマーレビューなどでも指摘されています。

それゆえ、まだ読んでいない人にはネタバレになることをお断りしたうえで、『永遠の0(ゼロ)』という小説の構造において、誰が「オレオレ詐欺」グループの黒幕的な働きをしているのを明らかにしたいと思います。

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まず、『永遠の0(ゼロ)』(講談社文庫)の家族関係と人間関係を確認しておきます。

家族関係

宮部久蔵(祖父、零戦のパイロット、特攻隊員として死亡)

宮部松乃(祖母、久蔵の死後、大石賢一郎と再婚)

佐伯清子(宮部夫妻の娘、姉弟の母、夫の死後、会計事務所を経営)

佐伯健太郎(清子の息子、語り手、弁護士を志す若者)

佐伯慶子(清子の娘、フリーのライター)

 佐伯慶子をめぐる二人の男性

高山隆二(大手新聞社の終戦60周年のプロジェクトの一員。慶子に好意を抱く)

藤木秀一(大石賢一郎の法律事務所で学生時代からアルバイトをしながら司法試験を目指し、慶子が想いを寄せていた男性)

取材対象者

第2章/長谷川梅男(ラバウル航空隊の戦友、祖父の宮部を「臆病者」と罵る)

第3章/伊藤寛次(第一航空戦隊赤城時代の戦友。久蔵の空戦技術を高く評価)

第4章/井崎源次郎(ラバウル航空隊時代の部下。久蔵に二度助けられる)

第5章/井崎源次郎(ガダルカナル島での悲惨な戦いについて語る)

第6章/永井清孝(ラバウルで機体を整備。久蔵についての逸話を語る)。

第7章/谷川正夫(戦争後の苦労を語り、戦後のモラルの低下を批判)

第8章/岡部昌男(県会議員を4期勤める、「特攻は十死零生の作戦」と批判)

第9章/武田貴則(一部上場企業の元社長、徳富蘇峰を礼賛し、高山を追い返す)

第10章/景浦介山(祖父と空中戦を行って命を狙った・やくざ)

第11章/大西保彦(小さな旅館を営む元一等兵曹で沖縄戦の記憶を語る)

第12章/大石賢一郎(ここで初めて宮部久蔵との関わりを明かす)。

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察しのよい人ならば、この構成を見ただけで推測がつくと思いますが、この小説を姉弟の成長の物語として読もうとするとき、その致命的な欠陥が小説の構造と祖父・大石賢一郎が果たしている役割にあると思われます。

第1章で語り手の健太郎は、祖母・松乃の葬式からしばらく経って、祖父の大石賢一郎から、彼らの実の祖父が終戦間際に特攻で戦死した海軍航空兵で、祖父の死後に祖母は彼らの母・清子を連れて自分と再婚したことを知らされて驚いたが、「祖母からは前夫のことはほとんど知らされていなかったらしい」と記しています。

それから6年後に、司法試験に4度も落ちて「自信もやる気も失せて」いた「ぼく」が、フリーのライターをしている姉の慶子から取材のアシスタントを頼まれて、「特攻隊員」たちの取材をとおして戦争に迫ろうとするこの企画に参加するところから物語が始まります。

慶子から「本当のおじいさんがどんな人だったのか、とても興味があるわ。だってこれは自分のルーツなのよ」と語られた「ぼく」は、「突然、亡霊が現れたようなもの」と感じたと描かれており、なぜ祖父の大石賢一郎が自分の妻・松乃の死後まで彼らの実の祖父のことを黙っていたのだろうかという疑問が浮かんできますが、その疑問には答えられぬままに物語は進むのです。

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祖父の大石賢一郎については、30歳を過ぎてから弁護士となった「努力の人」であり、「貧しい人たちのために走り回る弁護士」で、「ぼくはその姿を見て弁護士を目指していたのだ」と描かれているだけでなく、事務所でアルバイトをしていた苦学生の藤木からも尊敬されるような「理想」の人物であることが強調されています。

第3章の冒頭では「ぼく」が実の祖父の調査を始めたことを告げると、一瞬、祖父の大石が「ちょっと怖いようなまなざし」で、「じっとぼくの目を見つめた」と描かれていますが、そこでは何も語られません。

注目したいのはこの章で、アルバイトをしていた苦学生の藤木との楽しい思い出や、中学生だった姉との関係が簡単に記されており、それが新聞記者・高山との比較という形で続いていくことになることです。

たとえば、この小説の山場の一つである第9章では、慶子に好意を寄せる新聞記者・高山が、一部上場企業の元社長にもなっていた特攻隊員の武田貴則から怒鳴られてすごすごと引き返す場面が描かれていました。

それゆえ、高山には姉の慶子に合わす顔もないはずなのですが、「最後」と題された第11章では、高山が武田への発言を深く反省して姉にもプロポーズをするが、弟から「ぼくはあの人を義兄さんとは呼びたくないな」と言われたことで迷っていた慶子は断念し、藤木との結婚を考えることが示唆されているのです。

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このような流れを経てようやく「流星」と題された第12章で、「臆病者」と罵られていた実の祖父・宮部久蔵の実像が「祖父」の大石賢一郎から明かされることになります。

映画《永遠の0(ゼロ)》の宣伝文では「60年間封印されていた、大いなる謎――時代を超えて解き明かされる、究極の愛の物語」と大きく謳われています。

しかし、第12章で大石は「いつかお前たちに語らなければならないと思っていた」と説明していますが、「命の大切」さを訴えていた宮部の理念を娘の清子に伝えようとはせず、60年間も沈黙し続けたのでしょうか。

結論的にいえば、「命の大切」さを訴えていた宮部の理念ではなく、自分の思想を植え付けるためだったと思われます。

進化した「オレオレ詐欺」では、様々な役を演じるグループの者が限られた情報を一方的に伝えることによって次第に被害者を信じ込ませていきます。

それと同じように小説『永遠の0(ゼロ)』でも大石の沈黙こそが、巧妙に構成された順番に従って登場する「特攻隊員」の語る言葉とよって、次第に読者を「滅私奉公」の精神と「白蟻」の勇敢さを教えた戦前の「道徳」に基づいて行動するように誘導することを可能にしていたのです。

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次回の予告

このシリーズは年を越す前に一気に書き上げたいと考えていましたが、最終回は来年になります。

次回: 侮辱された主人公・宮部久蔵――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(10)

「議論」を拒否する小説の構造――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(8)

ここのところ考察してきたコラムで寺川氏は、〈憲法や安全保障について具体的に国を動かそうという政権が現れたいま、少なくともそれに反対する側は、レッテル貼りをして相手を非難している場合ではなく、意見の違う相手とも、その違いを知ったうえで議論し、考えていくことが大事なのではないか――。〉と書いていました。

「対話」や「議論」の重要性はまさしく指摘されている通りなのですが、問題なのは、国民の生命にもかかわる「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」、さらには「武器や原発の輸出」などの重要なことを「国会」での十分な議論を経ずに閣議で決定している安倍政権と同じように、『永遠の0(ゼロ)』という小説も「他者」との「対話」や「議論」を拒否するような構造を持っていることです。

それゆえ、「対話」や「議論」を拒否する安倍政権の手法の危険性を明らかにするためにも、『永遠の0(ゼロ)』の構造の問題点を明らかにすることが重要だと私は考えています。

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単独犯ではなく、多くの人間が様々な役を演じるような「進化」した「オレオレ詐欺」の場合は、詐欺グループからの様々な情報を一方的に聞かされることで、被害者は相手の言うことを次第に信じるようになります。

『永遠の0(ゼロ)』でも姉の慶子と「ぼく」は、「聞き取り」による取材という制約を与えられているために、相手から非難されてもきちんとした反論ができないし、読者もそのような関係を不自然だとは感じないような構造になっているのです。

たとえば、すでに見たように戦闘機搭乗員としてラバウル航空隊で祖父の宮部久蔵と一緒だった長谷川は、開口一番に久蔵のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と決めつけ、さらに「奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」と語ります。

それに対して、「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」と慶子が言うと長谷川は「それは女の感情だ」と決めつけ、それはね、お嬢さん。平和な時代の考え方だよ」と続け、「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思います」という慶子の反論に対しては、有無を言わせぬようにこう断言しているのです。

「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう…中略…だが誰も戦争をなくせない。今ここで戦争が必要悪であるかどうかをあんたと議論しても無意味だ。」(太字引用者)。

「文学作品」では作者の思想や感性が何人かの登場人物に分与されていることが多いのですが、語り手としての「ぼく」だけでなく、長谷川にも作者の思想や感性は与えられているといえるでしょう。

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「特攻」という大きなテーマの本を出版するならば、祖父が「命が大切」と語っていたことを知った後で慶子は、取材の範囲を広げるべきだったと思えます。

たとえば、海軍特攻隊隊長だった作家の島尾敏雄氏は、自分たちの水上特攻兵器がアメリカ軍からは「自殺艇」と呼ばれていたことを紹介しつつも、「私は無理な姿勢でせい一ぱい自殺艇の光栄ある乗組員であろうとする義務に忠実であった」と記し、「我々のその行為によって戦局が好転するとも考えられなかったが、それでも誰に対してしたか分からぬ約束を義理堅く大事にしていたのだ」と書いているのです(『出孤島記』)。

このような思いは、島尾氏と対談した若き司馬遼太郎氏にとっても同じだったでしょう。なぜならば、彼は自分が戦車兵として徴兵された時のことについてこう書いているのです。

「私の小さな通知書には『戦車手』と書かれていた。Aはその紙片をじっと見つめていたが、やがて、『戦車なら死ぬなぁ、百パーセントあかんなぁ』と気の毒そうにいって、顔をあげた」(「石鳥居の垢」『歴史と視点』)。

司馬氏は彼と同じ「世代の学生あがりの飛行機乗りの多くは沖縄戦での特攻で死んだ」と記していましたが(「那覇・糸満」)、特攻かそうでないかの違いはあるものの、戦車兵に要求されていたのも特攻的な精神だったのです。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』第3章「文明」と「野蛮」の考察――『沖縄・先島への道』より、ですます体に変えて引用)

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若き司馬氏は、満州に「夢と希望」をたくしていた多くの日本人を守るために自分たちは戦うのだという思いで勇気を奮い立たせていたのですが、「本土決戦」のために彼らをほとんど無防備のままに残して戦車隊が本土に引き上げるという決定を聞いたときに深い悲哀を感じていました。

実際、日本の軍隊が「本土防衛」のために引き上げたあとで、広田弘毅内閣の際に決定された「国策」に従って移民として送られていた約155万人の日本人はたいへんな困難と遭遇しました。

満州での一般人の死者は20万人を超えたのですが、開拓関係者とその家族の死者は9万人に近く、その内の1万人ほどが「婦女子や年寄りの自決」でしたが、それは「男たちが対ソ連の戦闘要員として根こそぎ召集されたためだったのです(坂本龍彦『集団自決 棄てられた満州開拓民』岩波書店、2000年)。

祖国に残された妻や娘のことを考えて「命が大切」と語っていた祖父の汚名を晴らすためにも、戦争を取材するジャーナリストとして慶子は、広田弘毅内閣の際に決定された「国策」や、青少年に「白蟻」の勇敢さを強要した徳富蘇峰の思想が招いた結果を、長谷川に伝えねばならなかったと思えます。

しかし、『永遠の0(ゼロ)』という小説では、「対話」や「議論」が封じられているだけではなく、取材の範囲も祖父の関係者への「聞き取り」という形で制限されているために、満州に視野が及ぶことはないのです。(続く)

 

「作者」の強い悪意――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(7)

 

いよいよ終りに近づいてきましたので、「美しい家族愛の物語」を描いているかに見える小説『永遠の0(ゼロ)』の構造に秘められた「強い悪意」を明らかにしたいと思います。

ただ、その前に〈私は、記憶に新しい都知事選での応援演説をはじめ百田氏の言動には同意できないことだらけです。〉と書いた寺川氏が引用している百田氏の次のようなツイートの文章を分析することで、「作者」の「強い悪意」を明らかにしておきます。

「すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち、『こっちには9条があるぞ!立ち去れ!』と叫んでもらう。もし、9条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる。」

この文章が書かれたのは2013年10月7日付のツイートとのことですので、百田氏がNHKの経営委員に就任する一ヶ月前になりますが、NHKはどのような審査をしてこのような発言をする彼を選んだのでしょうか。しかも、百田氏は就任の際には「公共放送として、視聴者のために素晴らしい番組を提供できる環境とシステムを作ることにベストを尽くしたいと思っています」との抱負を述べていたのです(太字引用者)。

*   *

文明史家とも呼べるような広い視野と深い洞察を行っていた作家の司馬遼太郎氏は、明治以降の日本における「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促して、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していました(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

一ヶ月前のツイートの文章を思い出せば、百田氏は恥ずかしくてNHKの経営委員には就任できなかったのではないかと私には思えたのですが、司馬氏の記述を踏まえて考えるならば、このとき百田氏が用いた「公共放送」とは現在用いられている「公共」という意味ではなく、「国民」に人としての尊厳の重要性ではなく、「滅私奉公」の精神と「白蟻」の勇敢さを教えた戦前の「道徳」に基づいている可能性があります。

戦前や戦争中の放送が政治家や「大本営の発表」をそのまま伝えていたことを思い起こすならば、百田氏は「公共放送」という言葉で、新しい権力者となった安倍首相への「服従」をNHKに暗に要求していたとも考えられるのです。

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このように書くと言い過ぎではないかと感じる人もいるかもしれません。しかし、「戦争が起きたときには『9条教の信者』を前線に送りだせばよい」とした百田氏の文章を読んで思い出したのは、戦争末期にも東条英機首相の方針に反対した丸山眞男などの学者だけでなく、松前重義などの高級官僚も陸軍の二等兵として「前線」に送りだされていたことです。

つまり、安倍首相の「お友達」である百田氏のツイッターでの発言は、単なる「思いつき」ではなく、「歴史的な事実」を踏まえた「恫喝」に近い性質のものなのです。

説明するまでもありませんが、互いに殺しあいを行う戦場では何を語っても無意味であり、声を上げる前に射殺されるだろうことは確実だと思われます。

このことを重視するならば、百田作品の「信者」が、このメッセージを読んで、「9条教の信者」は殺してもよいと誤解する危険性もなくはありません。それゆえ、先のツイッターの文章は「テロ」の「教唆」となる危険性さえあり、「言葉の重み」に対する百田氏の認識の軽さに唖然とします。

最近の日本では「セクハラ」だけでなく、「パワハラ」や「アカデミー・ハラスメント」なども罪に問われるようになってきていますが、いかに親しい「お友達」であっても、危険な発言に対してはきちんと対処すべきでしょう。

 

 

「作品」に込められた「作者」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(6)

 

前回の記事ではテーマが拡散してしまうために触れませんでしたが、『マガジン9』のスタックの寺川薫氏の「コラム」で問題だと思われたのは、「作者と作品の関係」に言及した次の文章です。

〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、「主張の内容」でなく、それを唱えている「人や組織」で事の是非を判断することと似ています。〉

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たしかに、様々な人が存在する「組織」に対して、同じレッテルを「貼る」ことは問題でしょう。

たとえば、勤王派と言われた幕末期の長州藩にも、松陰が処刑された直後は「尊皇攘夷」の過激な行動を行いながら、後には世界的な広い視野を有していた時期の松陰の教えに従って世界を知ろうとした松陰の初期からの弟子・高杉晋作だけでなく、「征韓論」を主張して萩の乱では「殉国軍」を挙兵した前原一誠のような人物もいました。

しかし、〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、…中略…「人や組織」で事の是非を判断することと似ています〉と主張するのは、論理の飛躍になるでしょう。

なぜならば、様々な人が存在する「組織」には多様性があって当然なのですが、作者が苦労して創作した文学作品には作者の思いがつまっており、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとすることは、作品をとおして作者の思想や思いに迫ろうとする文学研究をも否定することになる危険性があるからです。

作者の人間としての幅が非常に広い場合はありますし、作者の思想や作品の傾向が時を経て、変わることもあります。しかし、「作品」にはその時の作者の思いや思想が反映されているのです。

つまり、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとすることは、「文学作品」を他の人(社)から依頼され、その意向を汲んで製作する「コマーシャル的な作品」と同じレベルにしてしまうことになるのです。

*   *

他方で、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとした寺川氏は、〈私は、記憶に新しい都知事選での応援演説をはじめ百田氏の言動には同意できないことだらけです。〉と書き、戦争が起きたときには「9条教の信者」を前線に送りだせばよいとした百田氏のツイートも引用しています。

このツイートの内容は、きわめて重要な問題を含んでいますので、次回はこのツイートの文面と『永遠の0(ゼロ)』との関係をとおして、この小説が「他者」との「対話」を拒否するような構造になっていることを明らかにしたいと思います。

「戦争の批判」というたてまえ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(5)

『永遠の0(ゼロ)』についてのブログ記事を書き始めてから、太平洋戦争を批判的に考えている人でもこの本を評価している読者が少なくないことに気づきました。

たとえば、『マガジン9』のスタッフの寺川薫氏は、〈どうしても違和感を覚えてしまう『永遠の0』への「戦争賛美」批判〉という題名の「コラム」で、ツイッターなどで「憎悪表現」を多用する百田氏とその作品とは区別すべきであるとし、「対話」の必要性を強調しています。

〈私は小説を読み終えたとき「この作品のどこが戦争賛美、特攻隊賛美なのだろう」と素直に疑問を感じました。以下に記す旧日本軍上層部に対する批判や、特攻という作戦そのものへの批判などをしっかりと書き込んでいるだけでも、少なくとも「戦争賛美」や「特攻賛美」と本作を切り捨てるのは間違いだと思います。〉

2014年3月14日付けの記事ですので、すでに見解は変わっているかもしれませんが、「人を信じたい」という思いが率直に記されている文章だと思います。しかし、それゆえに小説『永遠の0(ゼロ)』の構造に惑わされているとも感じました。

「オレオレ詐欺」の場合は、少なくとも数日中には、被害者がだまされていたことを分かると思います。一方、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」が語られていた「昭和国家」では、敗戦になるまで多くの「国民」がそれを信じ込まされていたのです。

そのような「神話」を支える「美しい物語」と同じような働きをしている『永遠の0(ゼロ)』を讃えることは、意図せずに人々を「戦争」へと導く働きに荷担してしまう危険性がありますので少し長くなりますが、この文章を詳しく検証することで問題点に迫りたいと思います。

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  「『永遠の0』では、旧日本軍の組織としてのダメさ加減や作戦の杜撰さなどに対する記述が繰り返し出て」くることを指摘した寺川氏は、次のような戦争批判の記述をその具体的な例として挙げています。

〈たとえば、太平洋戦争の分岐点となったガダルカナルでの戦いを取り上げ、戦力の逐次投入による作戦の失敗や、参謀本部が兵站を軽視したことによって多くの兵士が餓死や病死したことが書かれています。また、ゼロ戦の航続距離の長さを過信した愚かな作戦によって、多くのパイロットの命が失われたことなども記述されています。

もちろん本作のテーマである「特攻」に関する批判も随所に出てきます。特攻はパイロットの志願ではなく強制のケースが多かったこと、米軍の圧倒的な物量や新型兵器によって特攻機のほとんどが敵艦にたどり着く前に撃ち落とされたこと、それを軍上層部は分かっていながらも特攻という作戦を続けたこと。さらには 「俺もあとから行くぞ」と言った上官たちの中には責任をとることなく戦後も生き延びた人がたくさんいたことなど、特攻という作戦を立案・推進した「軍上層部」への批判が展開されます。〉

これらの点を指摘した寺川氏は、次のように結論しています。

〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、「主張の内容」でなく、それを唱えている「人や組織」で事の是非を判断することと似ています。憲法九条、原発、死刑制度ほか国論を二分する議論はいくつもありますが、ともすると「どうせあの人(団体)が言っているのだからロクなことはない」と決めつけてしまうことが、よくあるような気がします(引用者注――「作者と作品の関係」に言及したこの文章の問題点については稿を改めて考察します)。

憲法や安全保障について具体的に国を動かそうという政権が現れたいま、少なくともそれに反対する側は、レッテル貼りをして相手を非難している場合ではなく、意見の違う相手とも、その違いを知ったうえで議論し、考えていくことが大事なのではないか――。〉

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たしかに、『永遠の0(ゼロ)』の第5章には、「ガダルカナル島での陸軍兵士」の悲惨な戦いについて語られる次のような記述もあります。

少し長くなりますが具体的に引用しておきます

〈「あわれなのはそんな場当たり的な作戦で、将棋の駒のように使われた兵隊たちです。

二度目の攻撃でも日本軍はさんざんに打ち破られ、多くの兵隊がジャングルに逃げました。そんな彼らを今度は飢餓が襲います。ガダルカナル島のことを『ガ島』とも呼びますが、しばしば「餓島」と書かれることがあるのはそのためです。」

「結局、総計で三万以上の兵士を投入し、二万人の兵士がこの島で命を失いました。二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人です。残りは飢えで亡くなったのです。生きている兵士の体にウジがわいたそうです。いかに悲惨な状況だったかおわかりでしょう。

ちなみに日本軍が『飢え』で苦しんだ作戦は他にもあります。ニューギニアでも、レイテでも、ルソンでも、インパールでも、何万人という将兵が飢えで死んでいったのです」〉。

(ガダルカナルの戦い。図版は「ウィキペディア」より)

第6章ではラバウル航空隊整備兵として祖父の機体などを整備していた元海軍整備兵曹長の永井清孝からの話を聞いた語り手の「ぼく」の激しい批判が記されています。

〈「永井に会った後、ぼくは太平洋戦争の関係の本を読み漁った。多くの戦場で、どのような戦いが行われてきたのかを知りたいと思ったのだ。

読むほどに怒りを覚えた。ほとんどの戦場で兵と下士官たちは鉄砲の弾のように使い捨てられていた。大本営や軍司令部の高級参謀たちには兵士たちの命など目に入っていなかったのだろう。」〉

*   *

これらの文章だけに注目するならば、『永遠の0(ゼロ)』は「反戦」的な強いメッセージを持った小説と捉えることも可能でしょう。

しかし、これらの文章が小説の中盤に記されており、新聞記者の高山が罵倒され、追い返されるシーンが描かれている第9章の前に位置していることに注意を払う必要があるでしょう。

戦争の「実態」に関心のある読者にとっては、第5章や第6章の描写は強く心に残ると思われますが、一般の読者にとっては小説が進みその「記憶」が薄れてきたころに、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と記者の高山が怒鳴りつけられる場面が描かれているのです。

「『永遠の0』の何が問題なのか? 」と題された冷泉彰彦氏のコラム記事は、この小説の構成の問題点に鋭く迫っていると思えます(「ニューズウィーク」、2014年02月06日、デジタル版)。

〈問題は「個々の特攻隊員の悲劇」へ感情移入する余りに、「特攻隊全体」への同情や「特攻はムダではなかった」という心情を否定しきれていないのです。作戦への批判は入っているのですが、本作における作戦批判は「主人公達の悲劇性を高める」セッティングとして「帳消しに」されてしまうのです。その結果として、観客なり読者には「重たいジレンマ」を感じることなく、悲劇への共感ないし畏敬の念だけが残ってしまうのです。〉

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原作の『永遠の0(ゼロ)』を高く評価する一方で、映画《永遠の0(ゼロ)》を「小説とは似て非なる映画」と厳しく批判した寺川氏自身の次の文章は、小説自体の問題点をも浮き彫りにしていると思われます。

〈それに対して映画ですが、「どうしてこのような作品になってしまったのか」と私は残念に思います。その理由は簡単。上記の小説でしっかりと描かれた軍部批判や特攻批判等の部分が相当薄まっていて、「特攻という問題」が「個人の問題」に見えてしまうからです。〉

そして、筆者は「この作品にとっての生命線である「軍部批判」や「特攻批判」の要素を薄めてしまっては、まったく別の作品となってしまいます。」と続けています。

映画から受けた印象についての感想は、「軍部批判」や「特攻批判」の記述が「戦争に批判的」な読者をも取り込むために組み込まれた傍系の逸話に留まり、この小説の流れには本質的な影響を及ぼしてはいないことを明らかにしていると思われます。

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この小説の構造で感心させられた点は、主に「空」で戦ったパイロットの視点から戦争を描いていることです。そのために、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」を信じて、満州国に移民した「満蒙開拓移民」の悲惨な実態や、植民地における現地の民衆と日本人との複雑な関係は全く視野に入ってこないことです。

最近書いた論文「学徒兵 木村久夫の悲劇と映画《白痴》」では、中国名・李香蘭で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった女優の山口淑子氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動をされていたことにも触れました。

リンク→学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》

『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』と題された山口氏の著書の「獄中からの手紙」では、満州国皇帝につながる王族の一員で、日本人の養女となった川島芳子氏の悲劇が描かれています。「軍上層部」への批判が記されているものの『永遠の0(ゼロ)』では批判は「軍上層部」で留まり、「満州経営に辣腕」を振った岸信介氏などの高級官僚や、戦争の準備をした政治家、さらには徳富蘇峰などの思想家にはまったく及んでいません。

たとえば、第一章では武田の「反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」という言葉が描かれています。しかし、すでに見たように、『国民新聞』が焼き討ちされたのは、政府の「御用新聞」だったからであり、しかも、蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』において、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えていたのです。

「論理」よりも「情念」を重視する傾向がもともと強い日本では、疑うよりは人を信じたいと考える善良な人が、再び小説『永遠の0(ゼロ)』の構造にだまされて、戦争への道を歩み出す危険性が高いと思われます。

(2016年11月18日、図版を追加)

 

 

「映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ」を「映画・演劇評」に掲載

 

黒澤明監督の映画《白痴》は、観客の入りを重視した経営陣から「暗いし、長い。大幅カットせよ」と命じられてほぼ半分の分量に短縮されたために、字幕で筋の説明をしなければならないなど異例の形での上映となりました。

それだけの長さを有していたオリジナル版の映画《白痴》でも、複雑な人間関係や深い思想をもつ多くの人物が登場する長編小説『白痴』の全体の流れを描き切るのは難しく、重要な役割を果たしているイッポリートについてのエピソードは映画《白痴》ではまったく描かれてはいません。

しかし、自分の余命がほとんどないことを知って、「死刑の宣告」を受けたように苦しむ定年退職前の市民課の課長・渡辺の苦悩と、新しい生きがいを見つけた喜びをモノクロのトーンでしっくりと描いた映画《生きる》は、イッポリートが望みながら死期を告げられたことで断念してしまった「他者を変え、そして生かす思想」の問題が描かれていた可能性があります。

リンク→映画《白痴》から映画《生きる》へ

映画《白痴》では長編小説の流れにおいてきわめて重要な役を担っているムィシキンの「恩人」パヴリーシチェフやその息子と称してムィシキンが受け取った遺産の一部を受け取る権利があると主張する若者をめぐるスキャンダルも全く描かれていません。

しかし、スキャンダルラスな新聞記事の背後に弁護士の資格を取ったレーベジェフが深く関わっていたことに注目するとき、映画《白痴》の前年に公開された映画《醜聞》(脚本・黒澤明、菊島隆三)と長編小説『白痴』との関わりが浮かび上がってくると思えます。

なぜならば、映画《醜聞》、映画《白痴》、映画《生きる》の三本は、三部作とも言えるほどに深い関係を有しているからです。

「戦時中、李香蘭として日本の男性にひかれる中国人女性を熱演し」、「結果として、日本の戦争に協力することになった」山口淑子氏は、戦後は「ベトナムや中東の戦場にたびたび赴き、争いに翻弄される人々に寄り添い続け」て、平和活動をすることなります(NHK、「クローズアップ現代」)。

これらのことに注意を払うならば、映画《醜聞》では三船敏郎と共演した彼女が語った「贖罪」という言葉は重く、映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像を考える上でも重要だと思いますので、「映画・演劇評」のページに映画《醜聞》について考察した記述を再掲しておきます。

リンク→映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

 

映像資料:

NHK:BSプレミアム、「特集 世界・わが心の旅」、「李香蘭 遙(はる)かなる旅路~中国、ロシア」、2014年9月24日(水)放送。

NHK「クローズアップ現代」、「李香蘭・激動を生きて」、2014年10月21日(火)放送。

参考文献:山口淑子『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』日本経済新聞出版社、2004年。

 

「学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》」を「主な研究」に掲載

 

強い関心を持っていた加古陽治著の『真実の「わだつみ」――学徒兵 木村久夫の二通の遺書』(東京新聞)が刊行されましたので、「戦犯」として処刑された学徒兵・木村久夫と、映画《白痴》の亀田欽司の人物像をとおして「植民地」と「戦争」との関連を新たな資料に基づいて考察しました。

拙著『黒澤明と小林秀雄』でも小林の歴史観に関連して触れましたが、『真実の「わだつみ」』を読みながら改めて強く感じたのは、「内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたプロシア的な国家観から脱却しようとしたドイツと異なり、日本では未だに戦前の問題が残されているということです。

ヒトラーはフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への「新たな戦争」へと突き進みました。私が危惧するのは、「日露戦争」での勝利を強調する政治家たちが日本を同じような道を歩ませようとしていることです。

復員兵の視点から戦後の日本を描いた黒澤映画《白痴》が提起している問題をきちんと考えなければならない時代にさしかかっていると思えます。

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脱稿後に黒澤映画《醜聞(スキャンダル)》(1950)で主演した女優の山口淑子氏が亡くなくなられました。

黒澤明監督がなぜ彼女を選んでいたのかが気になっていたのですが、中国名・李香蘭で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった山口氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動をされていたことを報道特集で知りました。

論文では追記として記しましたが、「贖罪」という言葉は重く、映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像を考える上でも重要だと思いますので、いつか機会を見て改めて考察したいと考えています。

リンク→学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴

リンク→「映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ」を「映画・演劇評」に掲載

総選挙を終えて――若者よ、『竜馬がゆく』を読もう

 

今回の総選挙は、一昨年の参議院選挙と同じように、国会での十分な審議もなく「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を閣議決定する一方で、原発の危険な状況は隠して、急遽、行われることになりました。

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)で、「憎悪表現」とも思われる発言を繰り返す「お友達」の百田尚樹氏を優遇して戦前の道徳観を復活させようとしている安倍政権に強い危機感を覚えました。

私自身の非力さは認識しつつも、辻説法を行う法師のように『永遠の0(ゼロ)』を批判し、選挙の権利を行使するように訴える記事をブログに書いていました。

ことに終盤にはメディアから自民党だけで300議席を超えるなどの予想が出されたために、批判の調子を強めて書きました。

選挙の結果はマスコミが予想した数と近いものになりましたが、それでも「極端な排外主義」を掲げる「次世代の党」が激減しただけでなく、九条改憲を促進する勢力や「原発推進」を掲げる議員が減ったことで、今後の可能性が残されたと思えます。

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今回の選挙で指摘された点の一つは若者の選挙離れでしたが、司馬氏は『竜馬がゆく』で最初は他の郷士と同じように「尊皇攘夷」というイデオロギーを唱えて外国人へのテロをも考えた土佐の郷士・坂本龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野と、アメリカの南北戦争では近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたなどの知識を得て、武力で幕府を打倒する可能性だけでなく、選挙による政権の交代の可能性も模索するような思想家へと成長していくことを壮大な構想で描いていたのです。

一方、来年度のNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』では、安倍首相の郷土の英雄・吉田松陰の末妹で松陰の弟子・久坂玄瑞の妻となる杉文が主役になるとのことです。

司馬遼太郎氏が『世に棲む日日』で描いたように、佐久間象山の弟子で深い知識と広い視野を有していた吉田松陰は、アメリカとの秘密裏の交渉を行い、批判されると言論の弾圧を行った大老・井伊直弼によって安政の大獄で処刑されました。

「尊皇攘夷」の嵐が吹き荒れたこの時期の日本を描くには、たいへんな注意深さが必要と思われますが、安倍政権の影響力が強く指摘されているNHKで果たして、そのようなことが可能でしょうか。

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幕末の日本を長州からだけでなく、薩摩や土佐、さらに愛媛や、江戸、会津など広い視点から描いた司馬氏の作品と比較しながら、来年はNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』を注意深く観察することで、選挙の重要性を幕末に唱えた龍馬を描いた『竜馬がゆく』の先見性を確認したいと思います。

 

安倍政権による「言論弾圧」の予兆

「征韓論」に沸騰した時期から西南戦争までを描いた長編小説『翔ぶが如く』で司馬遼太郎氏は、「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」と描いていました(太字引用者、『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

この記述に言及した昨年11月13日の記事では「世界を震撼させた福島第一原子力発電所の大事故から「特定秘密保護法案」の提出に至る流れを見ていると、現在の日本もまさにこのような状態にあるのではないかと感じます」と記しました。

リンク→「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

その時は、大げさだと感じられた方も少なくないと思われますが、それから、2週間も経ない11月26日には、「与党が採決を強行」し「特定秘密保護法」が衆議院を通過したとの記事が各新聞から号外で報じられました。

そのことに触れたブログ記事「司馬作品から学んだことⅡ――新聞紙条例(讒謗律)と内務省」では、〈安倍首相は「この法案は40時間以上の審議がなされている。他の法案と比べてはるかに慎重な熟議がなされている」と答弁したとのことですが、首相の「言語感覚」だけでなく、「時間感覚」にも首をかしげざるをえません。〉と記しました。

さらに、11月28日のブログ記事「政府与党の「報道への圧力」とNHK問題」では、「自民党が衆院解散の前日、選挙期間中の報道の公平性を確保し、出演者やテーマなど内容にも配慮するよう求める文書を、在京テレビ各局に渡していたこと」の問題についても言及しました。

選挙戦も終盤になった現在、「もっとも自由な言論が保障されなければならない大学にも、安倍自民党は露骨な“言論弾圧”をかけている」ことが明らかになったと「日刊ゲンダイ」が報じていますので、「前滋賀知事を牽制 大学までも言論弾圧する安倍自民の暴挙」と題された記事の全文を下に引用しておきます。

安倍首相の「お友達」で共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を出版している百田尚樹・NHK経営委員が、自分の気に入らない人物に対してはツイッターで、「憎悪宣伝」とも思われるような表現で罵倒することに対しては傍観する一方で、「言論の自由」や「国民の生命」を守ろうとする言論は弾圧しようとする現在の自民党には強い危機感を覚えます。

百田氏の『永遠の0(ゼロ)』を安倍首相は絶賛していますが、著者がその第7章で登場人物の谷川に語らせているような戦前の「道徳」を、安倍自民党の閣僚の多くが目指しているからです。

リンク→「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(1)

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前滋賀知事を牽制 大学までも言論弾圧する安倍自民の暴挙

「日刊ゲンダイ」(ネット版)2014年12月13日

「公平中立な報道」という言葉を錦の御旗に、政権批判を封じ込めようとしている安倍自民党だが、“ドーカツ”をかけている対象は大メディアだけではなかった。もっとも自由な言論が保障されなければならない大学にも、安倍自民党は露骨な“言論弾圧”をかけている。こんな暴挙を許していいのか。

問題となっているのは自民党滋賀県連の佐野高典幹事長が今月8日付で大阪成蹊学園の石井茂理事長に送った文書だ。佐野自民県連幹事長は大阪成蹊学園所属の「びわこ成蹊スポーツ大学」の学長である嘉田由紀子前滋賀県知事が民主党の公認候補の街頭演説に参加するなど、活発に支援していることを問題視。私学といえども私学振興という税金が交付されていることに言及したうえで、こんな文章を大学に送りつけたのである。

<国政選挙中、一般有権者を前にして、特定の政党、特定の候補を、大々的に応援されるということは、教育の「政治的中立性」を大きく損なう行為であり、当県連と致しましては、誠に遺憾であります。本来、公平中立であるべき大学の学長のとるべき姿とはとても考えられません。本件につきましては、自民党本部、および日本私立大学協会とも、協議を重ねており、しかるべき対応を取らざるを得ない場合も生じるかと存じます。東京オリンピックや滋賀県の2巡目国体を控え、スポーツ振興が進められる中、政権与党自民党としても、本事態に対しましては、大きな危惧を抱かざるを得ません。貴職におかれましては、嘉田学長に対しまして、節度ある行動を喚起いただきますよう切にお願い申し上げます>

■近大理事長だった世耕官房副長官

「なんだ、これは!」という文書ではないか。自民党の論法であれば、教育に関わるものは一切、政治活動ができなくなってしまう。

断っておくが、安倍首相のお友達である世耕弘成官房副長官(参院議員)は近畿大の理事長だった時期がある。大学関係者だからといって、政治活動をしなかったのか。嘉田学長の応援がダメなら、大学の理事長などは国会議員になれないことになる。  安倍自民党は東大教授を筆頭に多くの学者をブレーンにして、アベノミクスを喧伝しているくせに、まったく、よくやる。要するに、嘉田学長の政治活動が「ケシカラン」のではなく、安倍自民党を批判するのが許せないということだ。

しかも、この文書は東京五輪や滋賀での国体を引き合いに出している。野党を応援するなら、協力しないぞ、という脅しである。こんな破廉恥な文書は見たことないが、果たして、嘉田前知事も怒り心頭に発している。

「教育基本法14条では『学校での政治活動』については『中立』と書いてありますが、学外や時間外での教育関係者の(政治的)行動を禁止していません。無理やり、教育基本法を拡大解釈したのです。憲法19条には個人の思想信条の自由が定められているので、たとえ大学の学長であっても、個人的な思想信条の自由に基づく(政治的)行動は制限されません。自民党内には教育関係者を兼務していた国会議員がいるのに、私の応援は許さないというのはダブルスタンダードです。今回の自民党からの文書は“圧力”“恫喝”としか思えません。こうした体質こそ、今回の総選挙で国民に信を問わねばなりません」

実は、今度の選挙中、ある大学では自民党に批判的な孫崎享氏(元外交官)の講演が急に中止になることがあった。選挙中ということで、大学側が自主規制したとみられている。

「1941年2月、情報局は中央公論など総合雑誌に対して、リストを提示し、矢内原忠雄(東大総長)、横田喜三郎(最高裁長官)らの執筆停止を求めた。戦前の悪夢がもうすぐそこまで来ているような気がします」(孫崎享氏)