高橋誠一郎 公式ホームページ

08月

ドストエーフスキイの会、第241回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

ドストエーフスキイの会、第241回例会のご案内を「ニュースレター」(No.142)より転載します。

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第241回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                       

日 時2017年9月16日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館1階奥の和室(JR原宿駅下車7分)                       ℡:03-3402-7854

報告者:高橋誠一郎 氏

 題 目: 『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう)

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。主な著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、『黒澤明で「白痴」を読み解く』、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(以上、成文社)、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)など。

 

第241回例会報告要旨

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

内田魯庵が法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を購入したのは、大日本帝国憲法が発布されて言論や結社の自由や信書の秘密などの権利が条件付きではあるが保障され、司法権も独立した明治22年のことであった。

憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台にしたこの長編小説に読みふけった魯庵は、「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、日本で初めて『罪と罰』の前半部分を訳出して2回に分けて刊行し、売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれた。

たとえば、自由民権運動にも参加していた北村透谷は明治24年1月に著した「『罪と罰』の殺人罪」において、「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と指摘し、大隈重信に爆弾を投げた来島やロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記して、『罪と罰』の深い理解を示していた。

ただ、この記述には憲法発布式典の朝に文部大臣・森有礼を襲って刺殺するという大事件を起こした国粋主義者の西野文太郎の名前が挙げられていないが、その理由はその後の流れを見れば推測できるだろう。すなわち、この事件の翌年に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記された「教育勅語」が渙発されると、それから3ヶ月後には教育勅語奉読式においてキリスト者であった第一高等中学校の教員・内村鑑三が天皇親筆の署名に対して最敬礼をしなかったことを咎められて退職を余儀なくされるという「不敬事件」がおきたが、それは「立憲政治」を覆した昭和10年の「天皇機関説事件」の遠因ともなっていたのである。

一方、長編小説『破戒』(明治39)は人物体系や筋が『罪と罰』からの強い影響を受けていることが多くの批評家や研究者から指摘されているが、島崎藤村はそこで「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の状況を「忠孝」の理念を強調した校長の演説などをとおして詳しく描き出していた。

このような『破戒』の構造はロシアの「教育勅語」とも呼ばれる「ウヴァーロフの通達」が出された「暗黒の30年」の時代に、ドストエフスキーが『貧しき人々』において寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」の問題にも言及していたことを思い起こさせるが、明治37年4月には『貧しき人々』のワルワーラの「手記」が瀬沼夏葉によって訳出されていたのである。

さらに、当時のロシアの裁判制度の問題にも踏み込んでいた『虐げられた人々』の訳を明治27年から翌年にかけて『国民之友』に連載していた内田魯庵は、日露戦争の最中に『復活』の訳を新聞『日本』に掲載して「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

発表では『文学界』同人たちとの交友や北村透谷の『罪と罰』観が描かれている島崎藤村の長編小説『春』(明治41)だけでなく、『破戒』を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石の『坊つちゃん』(明治39)や『三四郎』(明治41)などをも視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ)

序に代えて

夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の2017年度第4回研究会が7月22日に行われました。

ホームページに掲げたレジュメとは副題と内容が少し異なりますが、発表では慶応3年に生まれた漱石と子規との交友だけでなく、明治の『文学界』の北村透谷と島崎藤村の交友や『国民之友』の社主・徳富蘇峰の関係をも視野に入れることで、「明治憲法」の発布と「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』への流れを分析しました。

それにより「共謀罪」が強行採決された現在の日本における夏目漱石の作品の意義により肉薄できたのではないかと考えています。

なお、今回の発表は、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の記述を踏まえて、「教育勅語」の問題と文学者との関わりを考察した論文(文末の引用・参考文献)など加えて考察したものです。

 ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)
 その後、初めての試みとしてユーチューブに動画がアップされましたが、慣れないために声もかすれて少し聞きにくい発表になっていましたので、レジュメ資料の1を見ながらお聞き頂ければ幸いです。

 http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

 

資料1、講座の流れと主な引用箇所

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

主な引用・参考文献

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

 

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

a.「子規は果物(くだもの)が大変好(す)きだった。且(か)ついくらでも食(く)える男だった。」(『三四郎』第1章)

「我死にし後は」(前書き)、「柿喰ヒの俳句好みと伝ふべし」(子規、明治30年)

b.「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった。」(『三四郎』第11章)

c.「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(「教育勅語」)

 Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

a.「私は卯の年の生れですから、まんざら卯の花に縁がないでもないと思ひまして『卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)』『卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)』などとやらかしました。又子規といふ名も此時から始まりました。」(子規「啼血始末」)

b.「(佃にとっては)大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない。…中略…この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」(『坂の上の雲』第2巻「日清戦争」)。

c.「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」(大町桂月、与謝野晶子「君死にたまふこと勿(なか)れ」の批判)

d.『教育勅語』は「国体教育主義を経典化した」もの。

「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

a.「秘密秘密何でも秘密、殊には『外交秘密』とやらが当局無二の好物なり、…中略… 斯かる手段こそ当局の尊崇する文明の本国欧米にては専制的野蛮政策とは申すなれ」新聞『小日本』)

b.「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」新聞『小日本』)。

c.「愚なるかな、今日に於て旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷ふ学者、請ふ刮目(くわつもく)して百年の後を見ん」(北村透谷「明治文学管見(日本文学史骨)」)

d.「(松陰の)尊王敵愾(てきがい)の志気は特に頼襄(らいのぼる)の国民的詠詩、及び『日本外史』より鼓吹し来たれるもの多し」(徳富蘇峰『吉田松陰』)

e.「青木(モデルは北村透谷)君が生きていたら、今頃は何を為(し)てるだろう」/「何を為てるだろう。新聞でもやってやしないか――しきりに新聞をやって見たいッて、そう言ってたからネ」(島崎藤村『春』)

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

a.「若し夫の某将校の言ふ所『新聞記者は泥棒と思へ』『新聞記者は兵卒同様なり』等の語をして其胸臆より出でたりとせんか。是れ冷遇に止まらずして侮辱なり」(子規「従軍記事」)

「一国政府の腐敗は常に軍人干政のことより起こる」(陸羯南「武臣干政論」)

b.「三崎の山を打ち越えて/いくさの跡をとめくれば、此処も彼処も紫に/菫花咲く野のされこうべ」(子規「髑髏」)。

c.「(景樹が)大和歌の心を知らんとならば大和魂の尊き事を知れ、などと愚にもつかぬ事をぬかす事、彼が歌を知らぬ証拠なり」(子規「歌話」)

万の外国其声音の溷濁不清なるものは其性情の溷濁不正なるより出れば也」(香川景樹『古今和歌集正義総論』)

d.「世の中に比較といふ程明瞭なることもなく愉快なることもなし…中略…織田 豊臣 徳川の三傑を時鳥(ほととぎす)の句にて比較したるが如き 面白くてしかも其性質を現はすこと一人一人についていふよりも余程明瞭也」。「併シ斯く比較するといふことは総(すべて)の人又は物を悉(ことごと)く腹に入れての後にあらざれば出来ぬこと故 才子にあらざれば成し難き仕事なり」(子規「筆まかせ」)。

e.「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした。/(中略)/大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする/東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有つて居る。/(中略)/誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」(漱石『吾輩は猫である』第6章)。

f.「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。/出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候」(夏目漱石、内田魯庵『イワンの馬鹿』訳の礼状)

g.「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」(内田魯庵『復活』について)

 Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

a.「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざ ん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」(漱石『草枕』)

「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」(子規、明治25年)

b.小説で「白いひげをむしゃむしゃと生やした老人」として描かれているのは熊本実学党の名士・前田案山子(かかし)で、彼が明治11年に建てた別邸には中江兆民が訪れてルソーの講義をしたり、女性民権家の岸田俊子が来て演説をおこなっていた(安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』)白水社、2012年)。

c.「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」

d.「亡びるね」という男の言葉を聞いた三四郎は最初「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる」と感じた。しかし、「囚(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思っても贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ」という男の言葉を聞いたときに、「真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った」と記されている(『三四郎』)。

e.「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす」(北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」)。

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

a.「教育勅語」の「始まりと終わりの部分で天皇と臣民の間の紐帯、その神的な由来、 また臣民の側の神聖な義務について」述べられているという構造を持っている(島薗進『国家神道と日本人』岩波新書)。

b.「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が 生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

 

主な引用・参考文献

高橋誠一郎『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年。
――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年。
――『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年 。
――「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」『世界文学』 第125号、2017年。
――「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」『世界文学』第122号、2015年。
――「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『COMPARATIO』九州大学・比較文化研究会、第8号、2004年。
 『漱石全集』全15巻、岩波書店、1965~67年(振り仮名は一部省略した)。
小森陽一『世紀末の予言者・夏目漱石』講談社、1999年。
木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、2002年。
大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』東洋書店、2010年。
井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』群像社、2011年。
安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』白水社、2012年。
清水孝純『漱石『夢十夜』探索 闇に浮かぶ道標』翰林書房、2015年。
中村文雄『漱石と子規 漱石と修――大逆事件をめぐって』和泉書院、2002年。
『子規と漱石』(『子規選集』第9巻)、増進会出版社、2002年。
『子規全集』全22巻、別巻3巻、監修・正岡忠三郎・司馬遼太郎・大岡昇平他、講談社、1975~79年。
坪内稔典『正岡子規 言葉と生きる』岩波新書、2010年。
末延芳晴『正岡子規、従軍す』平凡社、2010年。
成澤榮壽『加藤拓川――伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官』高文研、2012年。
『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年。
槇林滉二「透谷と人生相渉論争――反動との戦い」、桶谷秀昭・平岡敏夫・佐藤泰正編『透谷と近代日本』翰林書房、1994年。
徳富蘇峰『吉田松陰』岩波文庫、1981年 司馬遼太郎『本郷界隈』(『街道をゆく』第37巻)朝日文芸文庫、1969年。
有山輝雄『陸羯南』吉川弘文館、2007年。
島崎藤村『春』、『破戒』、新潮文庫。
相馬正一『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年。
木村毅「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』筑摩書房、1972年。

「核兵器禁止条約」と「長崎平和宣言」

「東京新聞」は、8日の朝刊一面に「ニュージーランドではヒロシマ、ナガサキに原爆が投下された時期を平和週間にして、学校などで原爆の悲惨さを学ぶ時期になっています」との平和団体代表ケイト・デュースさんの寄稿を掲載している。

平和週間があるニュージーランドと比較するとき、ひるがえって日本ではどうだろうか。私が高校生の時におきたベトナム戦争以降、戦争を真剣に考える機会は確実に減り続けているように思える。

このような中で発せられた今日の「長崎平和宣言」は、「核兵器禁止条約」の意義を冒頭で語り、「被爆者が声をからして訴え続けてきた『長崎を最後の被爆地に』という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します」と結ばれている。この宣言は地域から発せられたものでありながら、世界的な視野を持っており説得力があると感じた。

http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html …

1899年のハーグ万国平和会議から2017年の核兵器禁止条約へ

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一方、広島の「平和式典」で安倍首相は、「唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた歩みを着実に前に進める努力を絶え間なく積み重ねていくこと。それが今を生きる私たちの責任です」と語り、「国際社会を主導していく決意です」との決意を述べていた(「産経新聞」)。

しかし、安倍首相が日本会議国会議員懇談会の特別顧問であることはよく知られているが、日本会議広島「日本の誇りセミナー」実行委員会は、この式典と同じ日にヘイト的な発言で知られる放送作家の百田尚樹氏を講演者として招いて「第9回 8.6 広島平和ミーティング」を開催していた。

72回目の「広島原爆の日」と「第9回 8・6 広島平和ミーティング」

産経新聞社の雑誌『正論』(2004年)の「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という対談で、日露戦争を賛美した「日本会議」代表委員の石原慎太郎氏は、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」と北朝鮮に対して戦争を挑発するような発言をしていた。

安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』』(ワック株式会社、2013年)がある百田尚樹氏も「世界激変、問われる日本の覚悟! ~国際秩序の崩壊、露わになった『平和の危機』への提言」と題されたこの講演で、「『平和』と唱えていれば平和になるという夢想から脱却しよう」と訴えていたのである。

さらに、百田氏はこの講演で、広島の「平和式典」を誹謗するかのように、「原爆慰霊碑に記された『過ちは繰返しませぬから』という言葉に違和感を覚えるかどうかが、自虐史観から脱却できているかのリトマス試験紙だ」と声高に主張していた(「産経新聞」デジタル版)。

前回の記事では日本会議広島「日本の誇りセミナー」実行委員会が主催する「8.6 広島平和ミーティング」の常連の講演者だった田母神俊雄・元航空幕僚長や、「もんじゅ」の推進者・櫻井よしこ氏には放射能の危険性に対する知識がまったく欠けていることを示したが、それは百田氏にも通じるように思われる。

「平成29年 長崎平和宣言」に賛同される方は 賛同ボタンをクリックしてください。

http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html …

 

72回目の「広島原爆の日」と「第9回 広島平和ミーティング」

8月6日に行われた平和記念式典で松井一実市長は、7月7日に国連で採択された核兵器禁止条約に触れて核廃絶への取り組みをさらに前進させるよう各国に提唱した。

一方、安倍晋三首相は条約には一言も触れなかったが、このような首相の姿勢と呼応するかのように、広島へ原爆が落とされたこの日に日本会議広島「日本の誇りセミナー」実行委員会が主催する「第9回 8.6 広島平和ミーティング」が開かれ、安倍首相と共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』があり、ヘイト的な発言で知られる放送作家の百田尚樹氏が講師として招かれていた。

今年の講演については機会があれば考察したいが、「広島」と「平和」を冠した日本会議広島の集会の様子については、編集者の早川タダノリ氏が昨年「櫻井よしこ刀自の演説観察記」と題したツイッターを連続投稿している。

早川タダノリの、日本会議広島主催「広島平和ミーティング」櫻井よしこ刀自の演説観察記

『神国日本…』(書影は「アマゾン」より)

注目したいのは、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」共同代表・櫻井よしこ氏がそこで「私たちは2/3を手にしているのですッ」と4、5回会場を煽ったとの記述であり、そこからは一時的でも権力を握れば「すべてが許される」という危険な考えが感じられる。

なぜならば、「すべてが許される」という思想は、ドストエフスキーが問題視して作品で何度も取り上げていたが、文芸評論家の小林秀雄は1960年に「ヒットラーと悪魔」で、「革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ」というヒトラーの言葉を紹介していたからである。

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」をめぐって(2)

小林秀雄は「日本を守る会」や「日本会議」などで代表委員も務めた小田村寅二郎に招かれて「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会で5回も講演していたが、櫻井氏からの用語からは小林秀雄の影響が強く感じられる。

→「大きな嘘」をつく才能の評価 ttp://www.stakaha.com/?p=7478

さらに、「日本の誇りセミナー」実行委員会が掲げていた〔世界は再び弱肉強食の時代へ。/平和を願えば戦争も紛争もないと妄信した/「空想平和」活動の成果が今の世界だ!〕という言葉が、安倍政権の「積極的平和主義」の危険な実態をも暴いているようにみえる。

以下、第1回以降のこの集会の歩みを簡単に追ってみたい。

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2009年に核武装論者として有名な田母神俊雄元航空幕僚長を講師として行われた「第1回 8.6 広島平和ミーティング」は、当時の広島市長から開催日程変更要請を受けたことで全国的話題となったようで、翌年にも「ふたたび ヒロシマの平和を疑う!」という題名で田母神氏が講演していた。

なお、「ウィキペディア」によれば、航空自衛隊の隊内誌『鵬友』に「東京裁判は誤りであった」との主張を掲載していた田母神氏を2007年3月に幕僚長に任命したのは第1次安倍内閣の安倍首相であったが、歴史認識の問題を扱った論文が問題となり田母神氏は2008年に免職となっていた。

「三たびヒロシマの平和を疑う!」と題して福島第一原子力発電所大事故が起きた2011年に行われた「広島平和ミーティング」には田母神俊雄氏とともに原子力委員会原子力防護専門部会専門委員の青山繁晴氏が講師として加わったことで参加者も大幅に増えたようだ。

このように見てくるとき、「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)に対抗するような形で開催されてきた日本会議広島主催の「8.6広島平和ミーティング」が、当時は抜群の知名度を誇っていた核武装論者の田母神俊雄氏を核として行われていたことがよく分かる。

さて、2012年の「第4回 広島平和ミーティング」でも「ヒロシマの平和は本当か ~なぜ世界は「ヒロシマの声」を無視するのか」と題して常連の田母神俊雄氏(頑張れ日本! 全国行動委員会会長)と日下公人氏(評論家・日本財団特別顧問)の講演が開催されていた。

ヒロシマ反核平和の終焉 ~現実的な防衛を求める広島市民のために!」と題して行われた2013年の第5回「広島平和ミーティング」のポスターの写真は防衛大臣政務官の要職にある佐藤正久参議院議員と前防衛相の森本敏氏の顔写真が載っている。しかし、ユーチューブなどを見ると実際には森本氏の代わりに田母神氏が講演していたと思われる。

2014年に行われた「広島平和ミーティング」でも、〔世界は再び「力による支配と利益獲得」の舞台へ〕という好戦的な文章が掲げられて、「ヒロシマ反核平和の終焉Ⅱ ~9条盲従平和主義で日本は守れるか!?」と題して田母神俊雄氏と軍事ジャーナリストの井上和彦氏の講演が行われている。

*   *

それまで「日本会議広島」が称賛していた田母神氏の講演は2015年からぱったりと無くなる。内情はよく分からないが、その前年の東京都知事選に立候補したことやその後で選挙に絡む不祥事が起きたことが原因ならば、「森友学園」問題における籠池泰典氏の状況と似ているかもしれない。

田母神氏の後を受けて2015年に講演「反核平和70年の失敗~憲法9条は中国軍拡も北の核兵器も止められなかった!~」を行ったのが、田久保忠衛「日本会議」会長との連名で〈「もんじゅ」の活用こそ日本の道です〉と新聞広告を掲載することになる原発推進論者の櫻井よしこ氏であった。

本稿の冒頭で言及したように、櫻井氏は翌年も被爆地・広島で「世界漂流、日本の針路は? ~反核平和の無力、広島は現実平和に舵を切れ~」と題した講演を行っている。しかし、そこからはすでに世界的な流れとなっている脱原発への視野や「核禁止条約」に向けた熱意も感じられない。彼らの核認識は、広島・長崎への原爆投下以前の段階で止まっている。

「日本会議広島」が「世界は再び弱肉強食の時代へ」という強い危機感を有しているならば、核戦争による世界の終末を阻止するためにも、日本国民として「核兵器」の非人道性と危険性を核兵器の所有国により積極的に訴えるべきだろう。

国民の安全と経済の活性化のために脱原発を

1899年のハーグ万国平和会議から2017年の核兵器禁止条約へ