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04月

江藤淳の夏目漱石論と大岡昇平の漱石・子規論、そして子規と藤村の係わり

『罪と罰』論に続く「『白痴』についてⅠ」で小林秀雄は、貴族トーツキーの妾にされていた美女のナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していました。しかし、両親が火災で亡くなったために孤児となったナスターシヤは、少女趣味のあったトーツキーによって無理矢理に妾にさせられていたのです。

「憲法」がなく表現の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで苦闘していたドストエフスキーの作品を主人公たちの情念に絞ってスキャンダラスに分析した小林秀雄の解釈には強い疑問を感じますが、文芸評論家・江藤淳の漱石論からも同じような傾向が強く感じられます。

すなわち、漱石の作品を嫂登世への思いという視点で解釈した江藤淳は、「『文学論』を書いていた漱石には、自らの復讐の対象である文学の感触を楽しんでいるような、奇妙に倒錯した姿勢がある」とも記し(傍点引用者)、盟友・子規の墓石が建てられる前の墓に詣でた漱石が、「無題」という小文の最後で書いた次のような文章も、嫂登世への「孤愁」を述べたものと解釈していたのです。

 「霜白く空重き日なりき、我西土より帰りて、始めて汝が墓門に入る。爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周る事三度、花も捧げず水も手向けず、只この棒杭を周る事三度にして去れり。汝は只汝の土臭き影をかぎて、汝の定かならぬ影と較べなと思ひしのみ」。

文芸評論家・江藤淳のこのような漱石論を、作家の大岡昇平は「三文小説的な曲解」と厳しく批判しているのですが、江藤の師ともいえる小林秀雄のドストエフスキー論に検閲や法律の考察が欠けている一因を大岡の次の言葉は明らかにしているでしょう。

「私は、漱石は子供のとき読んだきりでございまして、むしろ若いころは、漱石は何かあまりおもしろくないんだというような雰囲気の中にいたわけで、私は高等学校のころから、つまり昭和の初めですが、いろいろ教えていただいた小林秀雄、河上徹太郎、あのグループには漱石論はないのです。」。

しかも、島崎藤村の『若菜集』を新聞『日本』で厳しく批判した子規の「若菜集の詩と画」について大岡は、子規の評論には「同じ直截な論理と、歯に衣きせぬ語法において、今日でも私たちが手本とすべき多くのものを含んでいると思われる」と書いていました。

北村透谷の死後に島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社の相談をしていたことを考えるならば、『若菜集』から長編小説『破戒』への移行を考えるうえでも子規のこの批評は重要だと思えます。それゆえ、この長編小説を北村透谷の『罪と罰』観だけでなく、『文学界』にも寄稿していた樋口一葉や夏目漱石の盟友・正岡子規の作品も踏まえて分析するとき、島崎藤村のドストエフスキー理解の深さもより明らかになるでしょう。

(2018年4月24日、改訂)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

先月の3月27日に行われた国会で「森友問題」に関して佐川宣寿・前国税庁長官の「証人喚問」が行われました。 喚問に先立って「良心に従って真実を述べ何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います (日付・氏名)」との宣誓書を朗読したにもかかわらず、佐川前長官は証言拒否を繰り返し、偽証の疑いのある発言をしていました。

その時のテレビ中継を見ながら思ったのは、戦前の価値観への回帰を目指す「日本会議」に支えられた安倍政権のもとで立身出世を果たした高級官僚からは、日本国憲法の理解が感じられないということでした。

なぜならば、日本国憲法の第19条には、「人間は、理性と良心とを授けられて」おり、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とされ、日本国憲法76条3項には、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められているからです。

そのことを考慮するならば、憲法にも記されている「良心」という用語を用いて、「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」と述べた宣誓はきわめて重たいはずなのですが、佐川前長官はその重みを感じていないのです。 それゆえ、このような高級官僚に対しては、宣誓の文言を「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」の代わりに、「日本人としての尊厳に賭けて真実を述べ何事も隠さず」としなければ本当の証言は出ないだろうとすら感じました。

ただ、「良心」についての理解の欠如は彼らだけに留まらず、学校などで「良心」の詳しい説明がなされていないので、戦後の日本でも「良心」は日本語としてはそれほど定着しておらず、多くの人にとっては漠然としたイメージしか浮かばないでしょう。 「良心」という単語やその理論は、法哲学にもかかわるので、少し難しいかもしれませんが、ここではまず、なぜ「良心」にそのような重要な意義が与えられたのかを、主に吉沢伝三郎氏の記述によりながら、その歴史的な経過を簡単に振り返っておきましょう。

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すでにこの単語は、キリスト教の初期にもパウロなどによって多く用いられ大きな役割を演じましたが、近世に至るとキリスト教会では「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきました。しかし、教皇に神の代理人としての地位が与えられている以上、それを批判することは許されませんでした。

このような中で教会の腐敗を批判したプロテスタントにおいては「知」の働きを持つ「良心」に、神の代理人である「教皇」であろうとも、不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が与えられたのです。

皇帝に絶対的な権力が与えられていた近代のロシアにおいても、皇帝の絶対的な権力にも対抗できるような「良心」が重要視されたのでした。そして、自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「問題はわれわれがそれら(義務や良心――引用者)をどう理解するかだ」という根源的な問いが記されています。

「良心とはなにか」という問いは、ラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの激論の中心をなしており、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かどうかが、主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証され、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」は、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

*   *

一方、文芸評論家・小林秀雄は、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて主観的に読み解いて、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と記し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

この評論が書かれる数年前の一九二七年には、小説『河童』で検閲を厳しく批判した芥川龍之介が自殺するなど治安維持法が施行されて言論の自由が厳しく制限されており、評論の一年後には天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が骨抜きになります。

 小林秀雄が敗戦後の1948年11月に書いた「『罪と罰』についてⅡ」では、「事件の渦中にあつて、ラスコオリニコフが夢を見る場面が三つも出て来るが、さういふ夢の場面を必要としたことについては、作者に深い仔細があつたに相違ない」と記されているように、『罪と罰』の夢についての言及があります。 しかし、戦時中の自分の発言については「自分は黙って事件に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」と記していた小林秀雄の戦後の『罪と罰』論でも、中核的なテーマである「良心」の考察には深まりが見られないのです。

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戦後に小林秀雄が「評論の神様」とまで称賛され、教科書でも彼の文章が引用されていることを考えるならば、そのような小林秀雄の「良心」観は、安倍政権によって出世した政治家たちや高級官僚たちの「良心」理解にも反映しているように思われます。

一方、長編小説『破戒』を日露戦争後に自費出版していた島崎藤村は一九二五年に発行した『春を待ちつつ』に収めたエッセーで、日本だけでなくロシアにおいてもドストエフスキーの評価がまちまちであることを指摘したあとでこう記していました。

「思うに、ドストイエフスキイは憐みに終始した人であったろう。あれほど人間を憐んだ人も少なかろう。その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう。」

この言葉からは「明治憲法」の公布に到る時期を体験していた島崎藤村が『罪と罰』における「良心」の問題を深く理解していたことが感じられます。

現在の日本における政治家や高級官僚の「道徳」的な腐敗を直視するためには、北村透谷や夏目漱石、正岡子規など明治の文学者たちの視点で、治安維持法下で書かれ現代にも強い影響力を保っている小林秀雄の『罪と罰』論と「良心観」の問題点を厳しく問い直す必要があると思えます。  

三宅正樹著『近代ユーラシア外交史論集』の書評を「著書・共著と書評・図書紹介」の欄に掲載

『近代ユーラシア』紀伊國屋書店ウェブ頁(書影は、紀伊國屋書店のWEBより)

 

昨日、化学兵器使用についての確認がまだ国際機関によってなされておらず、国連安保理決議もない段階で、アメリカが国連憲章に基づかないシリアへの軍事行動を英仏とともに行いました。

むろん、化学兵器も使用したとされるシリアは強く非難されるべきでしょう。

しかし、2017年に『原子力科学者会報』は、テロや原発事故の危険性、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ大統領の地球の温暖化や核拡散の問題に後ろ向きな政治姿勢などにより世界終末時計が「残り2分半」に戻ったと発表していました。

自らが非人道的な核兵器を所有し、その使用をも公言しているアメリカが先頭に立ってシリア政府への武力攻撃をすることは、再び軍拡を招く危険性を含んでいます。

*   *   *

広い歴史的視野と比較文明学的な視点で書かれた三宅正樹名誉教授の『近代ユーラシア外交史論集』は、現代の政治や外交の問題を考える上で重要な示唆にとんでおり、その意義はきわめて大きいと思います。

国際政治史は私の専門外なのですが、ロシアの「ユーラシア主義」と司馬遼太郎の文明観との関係に引きつけて論じてみました。東海大学文明学会『文明研究』第36号に掲載された書評を「著書・共著著書・共著と書評・図書紹介」の欄に転載しました。

書評 三宅正樹著『近代ユーラシア外交史論集』(千倉書房、2015)

明治の文学者と『罪と罰』(2・改訂版)――小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

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(書影は「アマゾン」より) (島崎藤村、図版は「ウィキペディア」より)

 2、小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

上海事変が勃発した一九三二(昭和七)年六月に書いた評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書いた文芸評論家の小林秀雄は、その一方でドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記しました〔『小林秀雄全集』〕。

しかし、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林は、ラスコーリニコフの家族とマルメラードフの二つの家族の関係には注意を払わずに主観的に読み解き、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」との解釈を記したのです。

そして、小林は新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、『罪と罰』では「マルメラードフと云う貴族の成れの果ての遺族が」「遂には乞食とまで成り下がる」という筋が、ラスコーリニコフの「良心」をめぐる筋と組み合わされていると指摘していた内田魯庵の『罪と罰』理解からは大きく後退しているように思えます。

この意味で注目したいのは、天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が崩壊することになる一九三五年に書いた「私小説論」で、ルソーだけでなくジイドやプルーストなどにも言及しながら「彼等の私小説の主人公などがどの様に己の実生活的意義を疑つてゐるにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである」と書いた小林が、『罪と罰』の強い影響が指摘されていた島崎藤村の長編小説『破戒』をこう批判していたことです。

「藤村の『破戒』における革命も、秋声の『あらくれ』における爛熟も、主観的にはどのようなものだったにせよ、技法上の革命であり爛熟であったと形容するのが正しいのだ。私小説がいわゆる心境小説に通ずるゆえんもそこにある」。

日本の自然主義作家における「充分に社会化した『私』」の欠如を小林秀雄が指摘していることに注目するならば、長編小説『破戒』を「自然や社会との確然たる対決」を避けた作品であると見なしていたように見えます。

たしかに、長編小説『破戒』は差別されていた主人公の丑松が生徒に謝罪をしてアメリカに去るという形で終わります。しかし、そのように「社会との対決」を避けたように見える悲劇的な結末を描くことで、藤村は差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出し得ているのです。

そのような長編小説『破戒』の方法は、厳しい検閲を強く意識しながら主人公に道化的な性格を与えることで、笑いと涙をとおして権力者の問題を浮き堀にした『貧しき人々』などドストエフスキーの初期作品の方法をも想起させます。

さらに、小林秀雄は「私小説論」で日本の自然主義文学を批判する一方で、「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった」と書いていましたが、この記述からは独裁化した「薩長藩閥政府」との厳しい闘いをとおして明治時代に獲得した「立憲主義」の意義が浮かび上がってはこないのです。

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(創刊号の表紙。1893年1月から1898年1月まで発行。図版は「ウィキペディア」より)

これに対して島崎藤村は「自由民権運動」と深く関わり、『国民之友』の山路愛山や徳富蘇峰とも激しい論争を行った『文学界』の精神的なリーダー・北村透谷についてこう記していました。

「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」。

実は、キリスト教の伝道者でもあった友人の山路愛山を「反動」と決めつけた透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」が『文学界』の第二号に掲載されたのは、「『罪と罰』の殺人罪」が『女学雑誌』に掲載された翌月のことだったのです。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名(なづ)くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡(ひろ)めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」。

愛山の頼山陽論を「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と名付けた透谷の激しさには驚かされますが、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えたこの史論に、現代風にいえば戦争を煽る危険なイデオロギーを透谷が見ていたためだと思われます。

なぜならば、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏は、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたからです。

つまり、北村透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」は「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と深い内的な関係を有していたのです。

このように見てくる時、「教育勅語」の「忠孝」の理念を賛美する講演を行う一方で自分たちの利益のために、維新で達成されたはずの「四民平等」の理念を裏切り、差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出していた長編小説『破戒』が、透谷の理念をも受け継いでいることも強く感じられます。

その長編小説『破戒』を弟子の森田草平に宛てた手紙で、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞していたのが夏目漱石でしたが、小林秀雄は「私小説論」で「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである」と書いていました。

夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、明治の文学者たちによる『罪と罰』の受容を分析することによって、私たちはこの長編小説の現代的な意義にも迫ることができるでしょう。

(2018年4月24日、2と3を合併して改訂)

 

 主な引用文献

『内田魯庵全集』第3巻、ゆまに書房。

『小林秀雄全集』新潮社。