高橋誠一郎 公式ホームページ

02月

「黒澤明・小林秀雄関連年表」を更新して、「年表」のページに掲載しました

 

「黒澤明・小林秀雄関連年表」(ドストエフスキー論を中心に)を更新して「年表」のページに掲載しました。

昨年の12月に掲載した年表では、『罪と罰』の「非凡人の理論」の理解とも関わる小林秀雄の1940年の『我が闘争』の書評(1940)や、「英雄を語る」と題して行われた鼎談などには触れていませんでした。

近日中にそれらも含めた年表を作成する予定ですと記していましたが、拙著の執筆に時間がかかり、ようやくそれらも追加することができました。

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この間に、年表など多くの点で依拠させて頂いていた『大系 黒澤明』の編者の浜野保樹氏の訃報が届きました。

黒澤明研究の上で大きな仕事をされた方を失ったという喪失感にも襲われます。心からの哀悼の意を表します。

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文芸評論家の小林秀雄は非常に大きな存在で、仕事は日仏の文学や思想、さらに絵画論や音楽論など多岐に及んでいますが、年表ではドストエフスキー論を中心に拙著の内容と関わる事柄に絞って記載しました。

ただ、例外的に芥川龍之介論にも言及しているのは、小林秀雄の歴史認識のもっとも厳しい批判者の一人と思われる司馬遼太郎氏の小林秀雄観に関わるからです。

この問題も大きなテーマですので、いずれ稿を改めてこのブログでも書くようにしたいと考えています。

 

『黒澤明と小林秀雄』の「はじめに」を「主な研究」に掲載しました

 

 近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を、現在、鋭意執筆中です。

 すでにこのHPで何度も書いてきたように、文芸評論家・小林秀雄と黒澤明監督の『白痴』観は正反対といってもよいほどに異なっていますが、興味深いのは、「第五福竜丸」事件を契機に撮られた映画《生きものの記録》が公開された翌年の一九五六年一二月に、その二人が対談を行っていたことです。

 残念ながら、このときの対談はなぜか掲載されませんでしたが、本書では消えた「対談記事」の謎に注目しながら、二人のドストエフスキー観の比較を行っています。

 この作業をとおして、黒澤明監督の集大成ともいえる映画《夢》の構造が長編小説『罪と罰』における「夢」の構造ときわめて似ているのは、ドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」が反映されていることを明らかにしたいと考えています。 

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4のお知らせを「新着情報」に再掲しました

 

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4のお知らせを1月18日にこのブログに記載しましたが、開催日が近づいてきましたので、改めて「新着情報」に掲載しました。

先の東京都知事選挙では脱原発の票が二つに割れただけでなく、公共放送であるべきNHKが原発事故の問題をきちんと伝えなかったこともあり、大きなインパクトを世論に与えることはできませんでした。

しかし、福島第一原子力発電所の事故は収束からはほど遠い状態で、今日も「東京新聞」は下記のような記事を載せています。

「東京電力福島第一原発で、海側敷地の汚染を調べる井戸から、一リットル当たり七万六〇〇〇ベクレルと、放出限度の五百倍を超える地下水としてはこれまでにない高い濃度の放射性セシウムが検出された。東電はタービン建屋と、配管などを収める地下トンネル(トレンチ)の継ぎ目付近から、高濃度汚染水が漏えいしている可能性があるとしており、建屋から外部への直接漏出が濃厚になった」。

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今年の3月は「第五福竜丸」事件が起きてから60周年に当たります。

アメリカの水爆「ブラボー」の実験は、この水爆が原爆の1000倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員が被爆しました。

日本ではこの事件のことは大きく報じられたのですが、その後南東方向へ525キロ離れたアイルック環礁に暮らしていた住民も被爆していたことが明らかになっています(『隠されたヒバクシャ――検証=裁きなきビキニ水爆被害』凱風社、2005年)。

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フクシマの悲劇を再び生むことのないように、なぜ「絶対安全」とされてきた福島第一原子力発電所で事故が起きてしまったのかを、きちんと検証することが必要でしょう。

地殻変動によって形成され、いまも大規模な地震が続いている日本で生活している私たちが正確な判断を行うためにも、多くの方にご参加頂きたいと願っています。