高橋誠一郎 公式ホームページ

10月

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

はじめに

 一昨日、原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の二つの作品を考察した研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載しました*1。

ここでは堀田百合子氏の『ただの文士 父、堀田善衞のこと』や『堀田善衞・上海日記』、そして、木下豊房氏の「武田泰淳とドストエフスキー」にも目を配ることで、堀田善衞と武田泰淳の『審判』との関係を考察したいと思います。そのことによって、『若き日の詩人たちの肖像』に記されている『白痴』論の意味にも迫ることができるでしょう。

1、堀田善衞と「あさって会」

 堀田善衞も属していた「あさって会」がどのような会だったかは年譜などからは分からなかったのですが、堀田百合子氏は『ただの文士 父、堀田善衞のこと』で、子供の頃に行われていた「埴谷家のダンスパーティーが、その後の『あさって会(埴谷雄高・椎名麟三・梅崎春生・野間宏・武田泰淳・中村真一郎・堀田善衞)』の集いにつながっていったのだと思います」と書いています。

さらに、彼女は「戦後派と呼ばれる作家たちのこの集まりは、家族ぐるみの付き合いでもあり、文学をタテ、ヨコ、ナナメに、それぞれが勝手にしゃべり、それぞれの栄養にして」いったのですと記しており、この会の雰囲気が伝わってきます*2。

 ことに武田泰淳氏とその家族とは「夏の蓼科、角間温泉、湯田中温泉。父と武田先生、母と百合子夫人、私と花さん。遊んでいました。しゃべっていました」と書いた百合子氏は「父には見た目も、物言いも、かなり鋭角的なところがありますが、武田先生は違いました。何もかもがまーるいのです。時間の回り方が違うのかなと思えるようなまるさでした。人を包み込むような優しさが、子供の私には心地よかったことを覚えています」と続けています*3。

2、武田泰淳と堀田善衞の上海

 このような堀田と武田の深い交友を考えるとき、武田泰淳の『審判』(1947)と堀田善衞の『審判』(1963)との関りの深さが浮かび上がってきます。

すなわち、ドストエフスキー研究者の木下豊房氏は、埴谷雄高が1971年のエッセイで、「同時代者である私達はまぎれもなく同一問題を負わざるをえなくなったドストエフスキイ族であることが明らかになった」とのべ、椎名麟三、武田泰淳、野間宏の名をあげながら、特に、武田の小説『風媒花』で展開される現代の殺人論が「ドストエフスキイの深い殺人論の延長線上」にあることを指摘していたことに注意を促していました*4。

さらに1946年に帰国した直後に書かれた「『審判』(1947・4)、『秘密』(1947・6)、『蝮のすえ』(1947・8)」と武田の作品とドストエフスキーの『罪と罰』との深い関連を木下氏は詳しく考察しているのです。

堀田善衞が『文芸』の1955年12月号に載せたエッセイ「武田泰淳」において、上海では堀田が詩だけを書いていたのに対し、武田は「詩を書きながら、しきりと『罪と罰』のような小説が書ければ本望だ、と云って、世の狂燥をよそにして、漢訳の聖書を一生懸命に耽読していた」と記していることは武田の『罪と罰』への関心の深さを物語っているでしょう*5。

そして、堀田が「そのときの姿勢が、いつまでも僕の眼底にのこっている」と続けていたことからは、武田泰淳と堀田善衞の二つの『審判』の関係の深さが伺えます。

しかも、1976年に発行された雑誌『海』の「武田泰淳追悼特集」に収められた開高健との対談では、上海ではまだドストエフスキーの文学を知らなかった武田に堀田がシェストフやミドルトン・マリなどの「さまざまのドストエフスキー論について武田先生に講義しました」とも語っているのです*6。

3、堀田善衞の原爆のテーマと武田泰淳

原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の『審判』のテーマも武田との交友が深く絡んでいました。

すなわち、武田泰淳の葬儀で弔辞を読んだ堀田は、上海にいたときに「原爆の影響によって、我が国民全部が亡びるというデマ」がまことしやかに伝えられていたことから、武田が「『かつて東方に国ありき』という詩をお書きになったことを、私は忘れません」と語って、原爆のテーマと上海の記憶にも注意を促していたのです*7。

この言葉の意味は重いでしょう。なぜならば、1970年5月に毎日新聞夕刊に書いた記事で、宇宙飛行について書いたメイラーの『月にともる火』について「なぜいったいどこかで広島について、長崎についての言及と考察がなされなかったのか。それなしではアポロもヘッタクレもあるものか、と私は思う。それを欠いていることについて、ノーマンなどという奴はつまらぬ奴だ、と私は思う」と記しているのです*8。

しかも、1990年8月6日にNHK教育テレビで放映された「NHKセミナー 現代ジャーナル 作家が語る自作への旅」で 堀田善衞は自作『審判』の主人公についてこう語っていました*9。

「広島で二十数万人を一挙に殺したということについての、それが一体罪であるのか、あるいはただの戦時行為なのであるか、という判定がつかないわけですがそういう人物を選んだわけです。その人物の容貌、相貌を、私はフランスの画家ルオーの自画像を見ていて思いついたわけです。日本へ行けば、あるいは最終的に広島へ行けば、そこで何らかの解決、あるいは審判というものを受けられるのではなかろうか。再生のための、もう一度生きるための道というものが、日本にあるのではなかろうか。そういうことを考えたわけなんです。」

この文章を紹介した堀田百合子氏は、『掘田善衛全集5』 の「著者あとがき」で堀田が武田泰淳に触れながら記していた文章も引用しています。

 「筆者自身としても、この作品について何かを言うことは、現在でもある苦痛の感を伴うものがあった。(略)/なお、同じく『審判』と題された、故武田泰淳氏の傑作が別にあることを、付記しておきたい。『審判』という命題は、戦争を通過して来た戦後世代にとっては、避けては通れないものである」

こうして、木下氏の考察をも考慮するならば、原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の『零から数えて』と『審判』は、武田のこれらの作品を踏まえた上で書かれているといっても過言ではないでしょう。

4、小林秀雄のドストエフスキー観の見直し

注目したいのは、『堀田善衞 上海日記』の冒頭に記されている1945年8月6日の記述で堀田善衞が、「頃日(注:けいじつ、この頃の意)ド〔ドストエフスキー〕氏の「白痴」を読みたしと思ふことしきり」と書いていることです。同じ年の10月13日の日記では、創元社から刊行された小林秀雄の『小説1』『小説2』とともに小林秀雄が1943年の9月に『文学界』で論じていたゼークトの『軍人の思想』を買い求めたと記されていることに注目するならば、この時期に堀田が『白痴』を通して小林秀雄の思想の見直しをしていることが感じられます*10。

なぜならば、小林秀雄は「天皇機関説」事件が起きる前年の1934年に書いた『白痴』論で、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈していましたが、堀田善衞はこの時期を描いた『若き日の詩人たちの肖像』で、「たとえ小説の中でも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、(……)外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」と書いているからです*11。

これらの記述から堀田が『白痴』を通して小林秀雄の思想の見直しをしていると断ずることは強引のように見えるかもしれませんが、先ほど見た『堀田善衞 上海日記』に収められている開高健との対談での終わりの方で堀田は、こう語っていました*12。

「ぼくはほんの一年九カ月ぐらい上海にいただけですが、ものの考え方も感覚もひじょうに変ったと思うんですね。帰ってきて『批評』の同人会へ出ても、かれらが喋っていることがぜんぜん解りませんでね。(……)隣りに小林秀雄さんがいて、『堀田君、君は随分おとなしい人だね』と言ったけれども、おとなしいんじゃなくて、何言っているのか全然解らないんですよ。」

 この言葉からは上海から戻った時に、堀田善衞が昭和の『文学界』や『日本浪曼派』の、「日本回帰」のイデオロギーから完全に解き放されていたと考えることができるでしょう。

こうして武田泰淳との関係も踏まえて、堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の前に書かれた『零から数えて』と『審判』を読むと、いっそう興味と理解が深まると思われます。

 

*1 「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」『世界文学』(127号)、2018年7月、101~107頁。→ホームページ 「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって」

*2 堀田百合子『ただの文士 父、堀田善衞のこと』岩波書店、2018年、22頁。

*3 同上、92頁

*4 木下豊房「武田泰淳とドストエフスキー」、(初出:「ドストエーフスキイ広場」№15.2006)

*5『堀田善衞全集』、第16巻、25頁。

*6 堀田善衞・開高健「対談 上海時代」、紅野謙介編『堀田善衞 上海日記――滬上天下(こじょうてんか)一九四五』集英社、2008年、394頁。

*7 堀田百合子、前掲書、94頁より引用。

*8『堀田善衞全集』、第14巻、309~310頁。

*9 堀田百合子、前掲書、45~46頁より引用。

*10 紅野謙介編『堀田善衞上海日記』、集英社、2008年、13頁、32頁。

*11 高橋誠一郎、「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」『ドストエーフスキイ広場』第28号、2019年、121~127頁。→ホームページhttp://www.stakaha.com/?p=8515。なお、堀田善衞の『審判』とドストエフスキーの『悪霊』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』との関連については、別の機会に譲ることにする。

*12 紅野謙介編『堀田善衞上海日記』、415~416頁。

 

 

「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載

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原爆パイロットを主人公とした堀田善衞(1918―1998年)の二つの作品については、「狂気と文学」が特集された『世界文学』(127号)に寄稿した研究ノートで、ドストエフスキーの『白痴』や『罪と罰』との関連で予備的な考察をしました。

その研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載します。

狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって

ただ、その際には堀田善衞と武田泰淳(1912年―1976年)の二つの『審判』との関係については言及できませんでしたので、それについては別稿で考察することにします。

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

 

 

「ドストエーフスキイのプーシキン観ーー共生の思想を求めて」を「主な研究」に転載

 『ドストエーフスキイ広場』の創刊号に掲載された拙論「ドストエーフスキイのプーシキン観」についてのお問い合わせを頂きました。

その内容はすでにその後に執筆した拙著に組み込んでいると思っていましまたが、調べて見るとまだ完全な形では収録されていないことが分かりました。

1991年の古い論考ですが、『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)から、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を経て、近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』に至る一連の拙著につながる私の問題意識が色濃く出ている論考です。

それゆえ、人名表記などはそのままの形で、ホームページの「主な研究」に転載することにしました(→ドストエーフスキイのプーシキン観――共生の思想を求めて)

 以下に、この論考の「目次」を掲載しておきます。

  *   *

序章        「ねずみ」たちについて

第一章   社会正義を求めて  ーーペトラシェーフスキイ事件まで 

 第一節  『貧しき人々』と『駅長』        

 第二節   「ネワ河の幻影」と『青銅の騎士』

 第三節   「警告するもの」としての良心

第二章   殺すことについての考察 ーー良心の問題をめぐって   

 第一節  「良心」の「自己流の解釈」        

   第二節   『地下生活者の手記』と『その一発』

   第三節   『罪と罰』と『スペードの女王』

『ドストエーフスキイ広場』発刊の頃――会発足50周年を迎えて

「ドストエーフスキイの会」は今年50周年を迎えます。

それを記念した『ドストエーフスキイ広場』(第28号)に標記のエッセーを寄稿しましたので、以下に転載します。

   *   *

 

 

 

 

(表紙/小山田チカエ)

   来年が「ドストエーフスキイの会」発足から五〇周年にあたるため、急遽、特集を組むことが決まったが、発刊当時は三号雑誌で終わることも危惧された『ドストエーフスキイ広場』(以下、『広場』と略す)も現在は第二八号に至っている。

それゆえ、ここでは『広場』発刊の頃から千葉大学で開催された国際ドストエフスキー・研究集会での主要論文の邦訳も掲載されている『広場』の第一〇号の時期までを簡単に振り返ることで「ドストエーフスキイの会」の歩みの一端を記すことにしたい。

一九八九年にユーゴスラヴィアのリュブリャーナで開かれた「国際ドストエフスキー・シンポジウム」に参加して、多くの著名な研究者たちから強い知的刺激を受けたばかりでなく、当時の東欧情勢にも強い関心を抱いた私は、日本からの情報の発信の必要性も痛感した。それゆえ、事務局の方々との相談を踏まえて、私は翌年の三月に発行された「会報」の一一二号に機関誌の発刊について次のような「提言」を記した(『場』第四号、二八八頁参照)。少し長くなるが、当時の会の状況が分かるので、読みやすいように改行をほどこした形で引用する。

   *   *

 〔「会報」が百号に差しかかる頃から「会報」の紙面の刷新や新しい試みが度々話題になり始めましたが、その十分な成果がなかなか表われないまま、予算的な状況から「ドストエーフスキイ研究」の続刊は難しくなり、またそれに伴って「場」4号の発行も見合わされる中で、「会も一応その役割を果たしたので会を閉じてもよいのではないだろうか」という意見も会員の間から聞こえてくるようになりました。

確かに「ドストエーフスキイの会」も約二十年を経て、新しい情報や新しい視点も一応一通り出ており、四ケ月毎に出す会報に新しい情報が満載されているというような状況は難しくなってきていると思えます。

しかし、「ドストエーフスキイの会」は既にその存在意義を失う程に老いたのでしょうか。いささか僭越な気もしますが、二次会の席で語り合い、また事務局の人々と相談する中である程度共通の意見が固まってきたようなので、以下にその概要を提言という形で述べさせて頂きたいと思います。

結論的に言えば、会は老いたのではなく、活発な青年期から壮年期へとさしかかって来ているのであり、問題の多くはやはり「会報」の性格にあるように思えます。確かに年に四回発行される「会報」は受け取った情報を素早く提供する点で、多くの長所を持っています。しかし、約二十年を経た現在、会は与えられた情報についてじっくりと考え、多少ともまとまった仕事をしていく段階に入ってきたと言えるのではないでしょうか。そして、その意味でも情報の速さが長所の会報の形から、少し遅くとも十分のスペースをとって発表できる年刊の機関誌の形へと脱皮する時期が来ていると思えるのです。

「研究」や「場」の続刊は当面難しいとすれば、両者の発展的解消として「機関誌」を創刊し、両者の試みを継承しながら、同時に、小説などの掲載も可能な「ドストエーフスキイの読者の自由なテーマの発表の場」としての側面も持てればと思います。

また、この会の研究動向は海外でもかなり注目を浴びているようです。外国との連携をいっそう深める意味でも、その年度のドストエーフスキイ関係の文献目録を載せるだけでなく、欧文の目次やレジュメなども載せられれば一層充実したものになると思います。少し調べましたところ、年誌の形態で、報告論文については四百字・二〇枚×五本、エッセー、小論は五枚×十二本程度までなら現行の会の予算でまかなえそうです。それを越える枚数は一定の割合での執筆者負担ということも考えられます。

 以上、いろいろと書き連ねましたが、勝手な思い込みもあるかも知れません。忌憚のないご意見をお聞かせ願えれば幸いです。〕

   *   *

幸い会員としては古参ではないにもかかわらず、私の提言は総会でも受け入れられて決議からあまり時間なかったが七本の論文と四本のエッセー、資料が集まり、「会報」と同じ「リコープリント」の印刷と製本で発刊にこぎつけることができた(注:資料参照)。『広場』の創刊号には次のような言葉で結ばれている「発刊の辞」が「発刊編集委員会」の名前で掲載された。

 「会発足の精神そのものが、『開かれた場』である以上、この会誌自体も『開かれた場』でなければならないだろう。これは私達にとってのペレストロイカである。試行錯誤を重ねながらも、新しい方向の定着を目指して、共同の努力をしたい。」

 ただ、残念なことに機関誌の編集に入った頃から暗雲を伴い始めていた湾岸情勢はさらに悪化して、一月一七日未明に戦争へと突入してしまった。このような情勢を受けて私は編集後記でこう記した。

〔「隣国を武力で併合したフセイン大統領の非は議論の余地無く明らかです。けれども、他国の武力併合に対する制裁として、武力行使の権利を与えた「国連決議」もまた論理的には矛盾していると言わなければならないでしょう。(……)ペレストロイカに連動して、新しい世紀への希望がふくらみかけていた世界は、暗い世紀末の様相すら示し始めているように思えます。ただ、このような困難な時代にこそ悲観的にならずに、冷静に現実を見つめ、ドストエーフスキイを媒介としながら根本的に問題を考えていくことが必要とされるのだと思います。

今回は大きな企画を立てることはできませんでしたが、冷牟田氏の協力で論文の題名の英訳を、安藤氏や本間氏の協力で資料を載せることができました。また、表紙には会員の小山田氏の絵を、そして装丁には渡辺氏の力をお借りすることができました。次回には「旧著新刊」のコーナーを設けて、会員の本を中心に図書の紹介もしたいと考えていますので、自薦他薦を問わず原稿をお届け頂ければと思っています。

機関誌の題名は「ドストエーフスキイの場」という案が有力でしたが、決定的なものに欠け、なかなか決まりませんでした。新谷先生も出席された最後の編集会議で「場」の代わりに「広場」ではどうかという案が出てようやく名前がつきました。

 初めは少し違和感もありましたが、何回も口に出してみるとだんだんと愛着がわいてくるよい名前だと思えます。ドストエーフスキイの「広場」に多くの人が集い、語り合い、時には互いに激しく論争し合うことによって、時代を模索し、少しでも何か新しいものを生み出せたらと思っています。(後略)」

 こうして、湾岸戦争後にソ連が崩壊し、東欧情勢も混迷の度合いを深める中で発刊された『広場』は発刊された。ただ、木下現代表が学務で忙しくなり、井桁貞義氏も学会などで多忙をきわめることになったために、私が事務局の代理を引き受けることになり池田和彦氏の助力と運営委員や多くの会員の方々の協力を得てなんとか毎年、欠かさずに発行することができた。

この時期の講演会や論文は「ドストエーフスキイの会」のホームページに掲載されている機関誌の目次からもうかがうことができるが、文芸講演会だけを拾っても川崎浹氏、新谷敬三郎氏、江川卓氏、井桁貞義氏などのドストエフスキー研究者だけでなく、評論家の富岡幸一郎氏や哲学者の中村雄二郎氏、夏目漱石の研究者・小森陽一氏の講演が毎年早稲田大学の会議室などで開かれた。

私自身にとって印象深かったのは、一九九六年に会員の横尾和博氏と作家の立松和平氏の講演会を、一九九八年にも作家・辻原登氏の講演会を東海大学松前記念館講堂で多くの聴衆を集めて開催することができたことである。

この時期の会の大きな活動の柱の一つになったのが、北海道大学教授の安藤厚氏を代表とし、木下豊房氏と望月哲夫氏を研究分担者とする共同研究会が立ち上げられて科学研究費による研究会が開かれ、国際ドストエフスキー・シンポジウムとも連動して活発な発表と交流が行われたことである(一九九六年~九八年)。その成果は二〇〇一年に木下豊房・安藤厚編著『論集・ドストエフスキーと現代――研究のプリズム』(多賀出版)として発行された。

また、一九九九年には懸案だった『場』の四号が発行され、未収だった一九八三年から一九九〇年までの「会報」すべてを収録することができた。

そのような活発な研究活動を反映して、二〇〇〇年には「二一世紀人類の課題とドストエフスキー」と題した国際ドストエフスキー研究集会が木下代表により千葉大学で開催された。その時の発表論文は『広場』だけでなく、«XXI век глазами Достоевского: перспективы человечества» という題名でモスクワでも発行された。

しかも、その際の経験はブルガリア・ドストエフスキー協会会長のディミトロフ教授が私に語ったように、昨年行われたブルガリア・ソフィア大学での国際ドストエフスキー・シンポジウムの開催に際しても活かされることになった。

以上、一九九〇年の『広場』創刊から約一〇年間を簡単に資料などに基づきながら振り返った。その後、今度は私が学務などに追われて次第に会の運営から遠ざかるようになり復帰したのは二〇〇九年のことであったが、その折にはネットの普及などにより編集方法が大幅に変わっていたことに驚かされた。それゆえ、この短い文章が呼び水となって当時の記憶を呼び戻し関心を高めて、会の創設期や二〇〇〇年以降の会の活動などに関する多くのエッセーや報告が次号で集まり、さらなる活発な研究へとつながることができれば幸いである。

  *   *

資料として『ドストエーフスキイ広場』(創刊号、1991年)の「目次」を以下に掲げておきます。

 

発刊の言葉

論文

『分身』の現在……横尾和博

キリーロフの分裂……――冷牟田幸子

『悪霊』について――神話的心理学的側面からの考察……清水正

エッセイ

ドストエフスキーとベケット……高堂要 

薄命の二つの死……小山田チカエ

発刊に際して……田中幸治 

トルストイとドスドフスキー……中曽根伝

論文

跳躍の失敗――『貧しき人びと』論……藤倉孝一純

ユートピアと千年王国――ドストエフスキーとベトラシェフスキー事件……一北岡浮

ドストエーフスキイのプーシキソ観――共生の思想を求めて……高橋誠一郎 

二葉亭四迷におけるドストエフスキー――『其面影』・『平凡』をめぐって……木下豊房

報告

札幌・小樽の「ドスドフスキー展」について……安藤厚

文献目録

ドストエフスキイ関係研究文献一1985~1990一 ……本間暁

規約、活動報告、編集後記

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の成立と作家・椎名麟三との往復書簡

はじめに

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

今年5月に行われた「ドストエーフスキイの会」の例会では、「日本浪曼派」が強い影響力を持っていたこの時代の特徴を、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の1934年に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論との関連で明らかにしようとしました。そのためにこの長編小説の重層的な構造に焦点をあてて下記の流れで発表しました*1。

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ  /Ⅰ、「祝典的な時空」と「日本浪曼派」 /Ⅱ、『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法 / Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』/ Ⅳ、アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題 /Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー /Ⅵ、『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服 /終わりに・「オンブお化け」という用語と予言者ドストエフスキー

ただ、昭和初期の日本の特殊性に迫るために時間的な制約から『若き日の詩人たちの肖像』で描かれた人間関係などに絞って考察することになり、堀田善衞と「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡については、まったく触れることが出来ませんでした。

しかし、全集の解説で評論家の本多秋五は、「青春自伝長篇についてのノート」で、『若き日の詩人たちの肖像』について次のように記しています。「第三部に出て来るドストエフスキーの『白痴』に関するくだりや、第四部に出て来る平田篤胤の国学を論じるくだりなどでは、主人公の心境と作者の執筆時現在における思想とを距てる膜が溶解しているように思える。」

作者と同じ時代を生きた本多の言葉を読むと、たしかに長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、単なる昭和初期の回想ばかりではなく、1960年代の日本から見た昭和初期の日本の鋭い分析でもあることが分かります。

しかも、木下豊房氏は椎名麟三が「ドストエフスキーとの出会いとその影響を自ら『ドストエフスキー体験』と称して多くのエッセイで繰り返し語った」と書いています*2。それらのことに留意するならば、1953年に交わされていた往復書簡の意味は極めて重いと思われます*3。

ここでは4通からなる往復書簡と『若き日の詩人たちの肖像』とのかかわりを簡単に検証することにします。

椎名麟三(1953年5月、写真は「ウィキペディア」より)

 

1、椎名麟三の長編小説『邂逅』と堀田の『広場の孤独』

「現代をどう生きるか」と題されたこの往復書簡の第一信で、堀田善衞は、キリスト教の洗礼を受けた後で「自己清算の必要にせまられ、過去の自分と対決するために書かれた」椎名の長編小説『邂逅』についてこう評価をしていました。

「私は御作『邂逅』について、いちばん意義を感じるのは、それが方法的に各人物それぞれの独白の交叉による対話が実現されている点です」。さらに、堀田は「そしてこれら各人の純粋主観としての時間意識は、実は縦にも横にも歴史的な時間意織に浸透されている筈で、この両者の同時成立が、現代の人間のリアリティを保証しているものです」と続けています。

貧しい電気工夫の古里安志を主人公としたこの長編小説では、主人公の父親は工事現場で鉄骨にやられて片足切断に至る重傷を負い死にかけており、朝鮮戦争の緊迫した時期に、共産党員との疑いをかけられて会社を首になりかけた妹のけい子は絶望から自殺を試みるなど「彼等の生活全体が、こわれかかったバラックの感じだった」と評されるような絶望的な状況にあります。

しかし、隣を歩いていた実子に石段から突き落とされた安志は、「暗い星空」を見て、「ユーモアにあふれた神の微笑を感じ」て「思わず笑い出し」、「全くこの石段は危険だ」と感じるのです*4。

彼が実子に怒りをぶつけなかったのは妹・けい子の再就職の手助けをしてくれている実子も深い絶望を抱えていることを知っていたからであり、こうしてどんなに苦しい状況に追い込まれても「微笑」を浮かべながらそれに立ち向かっていく古里安志という人物像は、日本文学における独自な形象だと思えます。

椎名はこの作品に至るまでの歩みについて、「永い酒への耽溺と自己喪失の後に、ドストエフスキーの忠告を唯一の頼りとして、キリストへ自己を賭けた」と「私の文学」という文章で記しています。それはこの作品がドストエフスキーの創作方法、ことに彼が文学に目覚めた『悪霊』におけるキリーロフの描写とも深く関わっていたことを示しているでしょう*5。

往復書簡の第二信で椎名は、朝鮮戦争が勃発した緊迫した時期を背景に、「報道の自由」の問題をとおして新聞記者の主人公の孤独と決断を描き、芥川賞を受賞した『広場の孤独』(1951)に言及しながらこう記しています。

「僕の貴兄に対する共感と尊敬は、この主体的な問題から、この社会へのアンガジュ(引用者注:政治や社会活動に参加すること)を誠実に追及されているということなのです。『広場の孤独』から、広場へのアンガジュを確立されようとしておられることなのです。」 

2、「拷問」についての「不快な記憶」

さらに椎名は「拷問」についての自分の「不快な記憶」についてもこう記します。「あの拷問は、人間にとって許しがたい魔術をもっていました。この世界に於て何が正義であり、何が真実であるかという自分の事実が、しばられた後手を竹刀で強くこじ上げられることによって、簡単にとび超えさせられてしまうのです。」

一方、この手紙を受け取った堀田は、「お手紙を拝見して、私は少し身上話をする必要を感じました。それはあなたの仰言る『不快な記憶に』関することです」と返信で書いています。

『若き日の詩人たちの肖像』でも検挙されて激しい拷問にあった後に転向し、その後で警視庁に職をえていた従兄の話は重要なエピソードをなしていますが、この手紙では従兄の検挙と拷問、そして転向という出来事から受けた激しい衝撃がこう記されているのです。

「私は子供心に深く尊敬していただけに、この経緯にはどうしても納得出来ぬ、今様にいうならば不条理なものを感じ、子供は子供なりに苦しみました。心の硬い大人ならばこういう人を軽蔑することも出来ましょうが、子供の私にはそれは出来ませんでした。いまも私はその人、あるいはそういう人を軽蔑する気持はいささかもありません。」

さらに、自分とキリスト教や音楽、詩との関りについても堀田は具体的に次のように描いていたのです。

「右に述べました事件のあった後、私はキリスト教に凝り(といったらクリスチャンのあなたから叱られるかもしれませんが)、米人宣教師の家でー年ほど暮らしました。が、洗礼はうけませんでした。それから音楽に凝り、耳を悪くして音楽の方は諦め、詩を書き出しました。それが十八歳、あなたが全協で活躍しておいでだった年頃です。(……)十八歳(昭和十一年)で上京して、矢張り政治、あるいは社会的正義、そういうものを遮断した詩を書きつづけました」。

この記述は長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を理解する上でも重要ですが、注目したいのは堀田がここで、「私は私事はなるべくいわないという方針を持っているのですが、この場合仕方がありませんし、出来るだけ簡単にいいます」と記していたことです。

このように見て来るとき、作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡で自分の青春を振り返ったことが、自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を書く大きなきっかけにもなっていた可能性があると思われます。

 一方、この手紙を受け取った椎名麟三は第四信で、「第二の熱情のこもったお手紙を拝見して、現代に生きる困難さを考えずには居られませんでした」と書くとともに、第三信の末尾に記された次のような堀田の言葉に「深い意味を感じました」と記しています。

「私は物の考え方の全的なトータル転換の必要を痛感しているのです。複数のなかの個とか、一とかいう風に自己を分析的に認識するのではなく、複数のなかにありながら同時に複数の要素によって成立ち、しかもなおーとして統一され綜合されている自己、強いて言葉にしてみるなら、そういうようなことになる、そういう自己を見出し築き上げる必要を痛感するのです。」

 そして、「転向者である僕の名誉(!)にかけていいます。あのファッシズムに参加した転向者諸君は、『心で存在を止めた』方々ではなかったのです。彼等は単純にファッシストであったたにすぎないのです」と書いた椎名は、「だから貴兄の転向者に対する絶望は、ファッシズムに対する善意ある抵抗ではなかったのでしょうか」と解釈しているのです。

結語

最期の手紙の末尾近くで椎名は、「元気を出して下さい。貴兄はちゃんと立派な作品を書いておられるではありませんか。そのことによって、ちゃんと『広場』へ参加しておられるではありませんか」と六歳年下の堀田に熱いエールを送っていました。

それは作家としてだけではなくアジア・アフリカ作家会議や「ベトナムに平和を! 市民連合」などの運動にも関わるようになる堀田のその後の活動をも示唆しているでしょう*6。

 こうして、「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡は、堀田に「『白痴』のムィシキンとランボー」についての卒業論文を書いていた頃のことも思い出させて、『白夜』の冒頭の文章が題辞として用いているばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、さらに『悪霊』にも言及されている『若き日の詩人たちの肖像』を生み出すきっかけになったと思えます。

 

*1 「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」」(→ホームページ ドストエーフスキイの会、第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

*2 木下豊房「椎名麟三とドストエフスキー」『ドストエーフスキイ広場』(第12号、2003年)」(→ホームページ 「椎名麟三とドストエフスキー」(木下豊房ネット論集『ドストエフスキーの世界』)

*3 「現代をどう生きるか――椎名麟三氏との往復書簡」『堀田善衞全集』第14巻、筑摩書房、1975年、72~86頁。

*4 椎名麟三「邂逅」『椎名麟三全集』第4巻、冬樹社、1970年、240頁。

*5 「椎名麟三の『悪霊』理解の深さとその意義――西野常夫氏の論文を読んで」(→ホームページ「『悪霊』におけるキリーロフの形象をめぐって))

*6吉岡忍「堀田善衞が旅したアジア」参照。池澤夏樹他著『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社、2019年)所収。(→ホームページ「『若き日の詩人たちの肖像』の重要性――『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社)を読んで

堀田善衞を読む: 世界を知り抜くための羅針盤 (集英社新書)(書影はアマゾンより)

 

 

映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ――国際ドストエフスキー・シンポジウムでの発表を踏まえて

はじめに 

『白痴』の発表から一五〇周年に当たる二〇一八年にブルガリアのソフィア大学で開催された国際ドストエフスキー・シンポジウムの円卓会議では映画《白痴》が取り上げられました。

ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

それゆえ、私はこのシンポジウムでは黒澤映画《白痴》における治癒者としての亀田(ムィシキン)の形象に注目することで、黒澤映画における医者の形象の深まりとその意義を明らかにしようとしました。

実は、黒澤明監督が映画化した長編小説『白痴』でも、シュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されています。ガヴリーラ(香山陸郎)から「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と問い質されたムィシキン(亀田欽司)も、ロゴージン(赤間伝吉)に対してはナスターシヤ(那須妙子)について「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのです。

残念ながら、今回の開催が急遽決まったこともあり千葉大学で行われた「国際ドストエフスキー集会」の時ほどは、黒澤映画の研究者が参加しておらず、映画《白痴》以外の作品についてはあまり知られていなかったようでした。

しかし、円卓会議では黒澤明研究会の運営委員・槙田寿文氏の世界各国の黒澤映画のポスターを集めた展覧会と映画『白痴』の失われた十四分)についての発表がブルガリア語への通訳付きで行われた。また、シンポジウムで「ドストエフスキーにおける癒しの人間学序節――ムィシュキン公爵のイデー・フィクスを軸に」(『ドストエーフスキイ広場』第28号参照)を発表された清水孝純氏の映画《白痴》論の発表も行われ、国際的な場で黒澤映画の意義を広めることができたのは有意義だったと感じています。

発表時間が短くて言及できなかった個所を補いながらシンポジウムと「円卓会議」で行った二つの発表をまとめた論考が、『会誌』41号に掲載されました。以下に、「はじめに」と「国際ドストエフスキー・シンポジウム」についてふれた第一節を省いた形で『会誌』に掲載された論考に一部加筆して転載します。

1,映画《白痴》の意義――『罪と罰』と『白痴』の受容をとおして

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について一八六八年一月一日の手紙で「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです」と記していました。

若い頃からドストエフスキーの作品に親しんでいた黒澤明監督はそのような作者の意図を踏まえて第二次世界大戦の終了から数年後の一九五一年に映画《白痴》を公開して、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩などを主人公の視線をとおして『白痴』の世界を正確に描き出していました。

観客の入りを重視した会社側から大幅な削除を命じられて、作品は二時間四六分に短縮されたために映画《白痴》は、興行的には失敗して多くの日本の評論家からも「失敗作」と見なされました。

しかし、インタビューで黒澤明は次のように語っていました。「この作品は外国ではとても評判がよくて、特にソビエトではとても気に入られているのです。毎年何回か上映するのですが、それでもまだ見たい人があまりにも多くて、まだ見られないという人か随分いるのです」(『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、三四三頁)。

では、日本と東欧圏におけるこのような映画《白痴》の評価の違いはどこにあるのでしょうか。私は黒澤映画《白痴》が文芸評論家・小林秀雄の『罪と罰』や『白痴』の解釈を根底から覆すような解釈を示したのに対し、ドストエフスキー論の権威とされていた小林がこの映画を完全に無視したことが一因だと考えています。

それゆえ、ここでは近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)にも言及しながら、日本における『罪と罰』の受容までの流れをまず確認します。その後で、小林秀雄と黒澤明とのドストエフスキー解釈をめぐる「静かなる決闘」をとおして黒澤における『白痴』のテーマの深化を考察します。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

日本では徳川時代に厳しく弾圧されていたキリスト教が解禁になったのは、ようやく一八七三年のことでした。しかし、日本が開国に踏み切ってからはキリスト教にたいする青年層の知識と理解は増え続けていました。

日本で憲法が発布された一八八九年に、長編小説『罪と罰』を英訳で読んで、殺人の罪を犯した主人公が、「だんだん良心を責められて自首するに到る」筋から強い感銘を受けた内田魯庵は、二葉亭四迷の力も借りて長編小説を訳出したのです。

残念ながら、売れ行きが思わしくなかったこともあり魯庵はこの長編小説の前半部分を訳したのみで終わりましたが、この翻訳から強い衝撃を受けたのが、「『罪と罰』の殺人罪」を著わした北村透谷でした。ここで彼は、「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるようの事なかるべし」と書いて、勧善懲悪的な『罪と罰』論を厳しく批判するとともに、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の危険性を鋭く指摘していました。

一方、『文学界』の同人でもあった親友の島崎藤村は、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究して日露戦争後に長編小説『破戒』を自費出版しました。注目したいのは藤村が、「教育勅語」の「忠孝」の理念を説く校長や教員、議員たちの言動をとおして、現在の一部与党系議員や評論家によるヘイトスピーチに近いような用語による差別が広まっていたことを具体的に描いていたことです。

さらに日本の『罪と罰』論ではあまり重視されていない「良心」の問題も、「世に従う」父親の価値観と師・猪子との価値観との間で苦しむ丑松の心の葛藤をとおしてきちんと描かれていることです。

このような透谷や藤村の「良心」理解の深さには、かれらが一時は洗礼を受けていたこともかかわっていると思われます。なぜならば、キリスト教会でも「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきた際にも、神の代理人としての地位が与えられていた教皇を正面から批判することは許されませんでしたが、権力者が不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が「知」の働きを持つ「良心」に与えられたのです。帝政ロシアにおいても皇帝が絶対的な権力を持っていましたので、それに対抗できるような「良心」の働きが重要視されたのですが、その一方で革命が近づくと「良心」の過激な解釈もなされるようになったのです。

自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かという問題がラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの間で論じられています。そして、それは主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証されており、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」には、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

明治初期の独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験していた内田魯庵や北村透谷、そして島崎藤村たちも、権力者からの自立や言論の自由などを保証し、個人の行動をも決定する「良心」の重要性を深く認識していたといえるでしょう。

なお、『破戒』は一九三〇年にロシア語訳が出版されましたが、黒澤映画《天国と地獄》が公開される前年の一九六二年には、市川崑監督の映画《破戒》が、市川雷蔵が主役の瀬川丑松を、彼の師・猪子蓮太郎を三國連太郎、学友の土屋銀之助を長門裕之、風間志保を藤村志保が演じるという豪華なキャストで公開されました。

破戒

(映画《破戒》、1962年、角川映画。脚本:和田夏十。図版は紀伊國屋書店のサイトより)

黒澤映画との関連で注意を払いたいのは、『罪と罰』のあとで『虐げられた人々』の訳を行い、後にはトルストイの『復活』も邦訳した内田魯庵が、できれば『白痴』も訳したいとの願いも記していたことです。

戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》ですでに『虐げられた人々』のネリー像を踏まえて脚本(ペンネームは「黒川慎」)を書いていた黒澤明が、一九六五年の映画《赤ひげ》でネリー像を掘り下げていることを考えるならば、一九五一年に映画《白痴》を公開した黒澤明のドストエフスキー理解は島崎藤村などの流れに連なっているといえるでしょう。

一方、文芸評論家の小林秀雄は「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と解釈していました。

 さらに、主人公ラスコーリニコフの「良心の呵責」を否定した小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という大胆な解釈を示したのです。

こうして、ムィシキンを「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったラスコーリニコフと結びつけた小林は、ナスターシヤをも「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定し、『白痴』の結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していました。

「殺すなかれ」と語るムィシキンを否定的に解釈したこのような小林秀雄の『白痴』論は、戦争を拡大していた軍部の方針に「忖度」したものだったといえるでしょう。しかし、戦後も自分のドストエフスキー観を大きく変更することはなかった小林秀雄は、その後「評論の神様」として称賛されるようになるのです。

そして、このような小林の解釈を受け入れた亀山郁夫氏も二〇〇四年に出版した『ドストエフスキー ――父殺しの文学』(NHK出版)で、貴族トーツキーによる性的な犯罪の被害者だったナスターシヤがマゾヒストだった可能性があるとし、ムィシキンをロゴージンにナスターシヤの殺害を「使嗾(しそう)」した「悪魔」であると解釈しました。

黒澤もインタビューでは小林にも言及しながら、ナスターシヤ殺害後のこの暗い場面にも言及しています。しかし、映画《白痴》のラストシーンで黒澤は、綾子(アグラーヤ)に「白痴だったのは私たちだわ」と語らせていたのです。

『白痴』では一晩をムィシキンと語りあかしたロゴージンが、裁判ではきわめて率直に罪を認めて刑に服したと記されていることに留意するならば、ドストエフスキーはラスコーリニコフと同様にロゴージンにも「復活」の可能性を見ていたといえるでしょう。つまり、黒澤明は小林秀雄的な『白痴』観を映画《白痴》で映像をとおして痛烈に批判していたのです。

2、映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ

映画《白痴》の前にも黒澤明は小林秀雄のドストエフスキー観を暗に批判するような映画を戦後に相次いで発表していました。

たとえば、終戦直後の一九四六年に黒澤は一九三五年の「天皇機関説事件」の前触れとなった滝川事件を背景にした《わが青春に悔なし》を公開して女性の自立を映像化していました。この滝川事件は、農奴の娘だったカチューシャと関係を持ちながら捨てても、「良心の痛み」も感じなかった貴族ネフリュードフの精神的な甦生を描いた長編小説トルストイの『復活』をとおして、法律の重要性を指摘していた滝沢教授の言説が咎められていたのです。

わが青春に悔なし No Regrets for Our Youth 1946 Opening Kurosawa …

この意味で注目したいのは、『破戒』と『罪と罰』との類似性に言及していた評論家の木村毅がこう書いていたことです。「トルストイは、ドストイエフスキーを最高に評価し、殊に『罪と罰』を感歎して措かなかった。したがってその『復活』は、藤村の『破戒』ほど露骨でないが、『罪と罰』の影響を受けたこと掩い難く、(中略)魯庵が『罪と罰』についで、『復活』の訳に心血を注いだのは、ひとつの系統を追うたものと云える」(『明治翻訳文学集』「解説」)。

実際、日露戦争の時期に『復活』の翻訳を連載した内田魯庵は、この長編小説の意義を次のように記していました。「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

「円卓会議」では黒澤監督がインタビューで言及していた映画《白痴》のシーンだけでなく、《酔いどれ天使》(一九四八)、《静かなる決闘》(一九四九)、《赤ひげ》(一九六五)など医師が非常に重要な役割を演じている映画と、私が『白痴』三部作とも考えている映画《醜聞》(一九五〇)と《生きる》(一九五二)などの六作品から重要な場面を、松澤朝夫・元会員の技術援助と堀伸雄会員の協力で約一一分に編集したものを解説しながら上映しました。

ここではそれらのシーンを簡単な説明を補いながら紹介したいと思いますが、その前に黒澤が盟友・木下恵介監督のために書いた脚本による映画《肖像》(一九四八)の内容を簡単に見ておくことにします。なぜならば、『白痴』ではムィシキンの観察力や絵画論が強調されていましたが、この映画の老年の画家はムィシキンを想起させるばかりでなく、肖像画のモデルのミドリ(悪徳不動産屋の愛人)もナスターシヤを思い起こさせるからです。

たとえば、映画《白痴》で亀田(ムィシキン)は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けていました。肖像画を描こうとした老画家も「でも、どうして、私なんか」と尋ねられると、「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明しているのです。

 しかも、あばずれを装っていたミドリは画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得されます。

「肖像  木下恵介 アマゾン」の画像検索結果

(黒澤明 DVDコレクション 32号『肖像』 [分冊百科] |、書影は「アマゾン」)

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせ、ミドリは結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ」と同じ稼業だった芳子に自立への決意を語ったのでした。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結しているのです。

 同じ年に公開された映画《酔いどれ天使》からは怪我をして駆け込んできたやくざの松永(三船)を医師の真田(志村喬)が治療する冒頭の「診察室」のシーンと、汚物の山やメタンの泡や捨てられた人形が浮いている湿地のほとりに佇む松永が真田から「そいつらときれいさっぱり手を切らねえ限り、お前はダメだな」と説得されたあとで松永が見る悪夢のシーンを紹介しました。

Yoidore tenshi poster.jpg(ポスターの図版は「ウィキペディア」より)

ここで松永は海辺の棺を斧で割ると棺の中に死んだ自分が横たわっているのを見て驚いて逃げ出すのですが、このシーンは松永の最期を予告しているばかりでなく、復員兵の亀田が北海道に向かう船の三等室で夜中に悲鳴をあげ、戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺される場面を夢に見たと赤間に説明する場面にもつながっていると思えます。

「憲法」のない帝政ロシアで農奴解放や言論の自由、そして裁判の改革などを求めていたドストエフスキーは、ペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受け、死刑の執行寸前に「皇帝による恩赦」により生命を救われるという体験をしていました。長編小説『白痴』でもムィシキンはギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? 」と問いかけ、「ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていました。

それゆえ、若きドストエフスキー自身の体験をも重ね合わせた亀田という人物設定は、ドストエフスキーの研究者たちには見事な表現と受け取られたのです。

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(松竹製作・配給、1951年、図版は「ウィキペディア」より)。

一九四九年の映画《静かなる決闘》からは、主人公の医師・藤崎(三船敏郎)が、軍医として南方の戦場で豪雨の中のテントで手術を行う主人公の首筋の汗を衛生兵が拭くシーンから、手袋を取り素手で手術をして指先に傷をつけてしまう場面までを紹介しました。

最初は『罪なき罰』と題されていたこの映画では、この際に悪性の病気をうつされた医師の苦悩を「良心」という言葉を用いて描写しつつ、それでも貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿を描いていました。ことに、婚約者に「自分は結婚できない」と告げた主人公のセリフからは、黒澤監督のムィシキン観が強く感じられるのです。

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(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

映画《生きる》からは、余命わずかなことを知った主人公が「メフィストフェレス」と名乗る人物とともに歓楽街を彷徨する場面と、映画《白痴》上映の前にソフィア大学の学生への短い挨拶の際に劇《その前夜》との関連でふれた「ゴンドラの唄」を歌うシーンを流しました。

ことに最初のシーンは余命わずかなことを知り絶望に陥ったイッポリートをめぐる長編小説『白痴』のエピソードが上手に組み込まれていると思われるからです。

生きる(プレビュー) – YouTube

メインテーマの映画《白痴》からは、冒頭の夜の連絡船の場面と、有名な写真館の前での妙子の写真を見つめる亀田に赤間が「どうしたんだ、おめえ涙なんか流して」から「やさしい気持ちになりやがる」と「香山家」で妙子に対して赤間の「じゃあ、百万だ」と競り値を上げる場面から、黒澤明がインタビューでも語っている亀田の「あなたはそんな人ではない」と言われて、性悪女のようなことばかりしていたナスターシヤが、「本当に図星を指されたからにやっと」する場面を紹介しました。

映画《白痴》ラストシーンについてはこの稿の最期に映画《醜聞》(一九五〇)との関連で考察することにしますが、このあとも黒澤明が『白痴』の考察をしていたことは一九六五年の映画《赤ひげ》で明らかでしょう。

すなわち、高熱を出しながらも必死に床の雑巾(ぞうきん)がけをしていた少女おとよを力ずくで養生所に引き取った赤ひげの「この子は体も病んでいるが、心はもっと病んでいる。火傷のようにただれているんだ」というセリフは、『白痴』のナスターシヤについての考察とも深く結びついていると思われます。

safe_image(図像は、facebookより引用)

終わりに

映画《醜聞》ではゴシップ雑誌『アムール』に写真入りで、スキャンダル記事を書かれて裁判に訴えた若い山岳画家の青江(三船敏郎)と有名な声楽家の美也子(山口淑子)が、弁護士の蛭田から裏切られために厳しい状況に追い込まれていく経緯が描かれています。

この内容は一見、『白痴』とは無縁のように見えますが、実は『白痴』でも彼が相続した遺産をめぐってムィシキンに対する中傷記事が書かれ、その裏では弁護士の資格を得ていたレーベジェフが暗躍するという出来事も描かれているのです。しかも、そこでドストエフスキーはレーベジェフを一方的に悪く描くのではなく、産後の肥立ちが悪くて亡くなった母親の赤ん坊をいつも胸に抱いていると描かれている彼の娘ヴェーラ(名前の意味は「信」)がムィシキンのことを真摯に面倒をみる姿も記述していました。

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(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、図版は「ウィキペディア」による)

実際、小林秀雄はアグラーヤ(綾子)の花婿候補だったラドームスキーをムィシキンの厳しい批判者として解釈していましたが、悲劇の後で彼は変わってムィシキンの病気を回復させようと奔走しただけでなく、ヴェーラとの文通を重ねており。将来二人が結婚する可能性も示唆されていたのです。

映画《醜聞》でも卑劣な弁護士・蛭田の裏切り行為だけでなく、父親が依頼者の青江たちへの背信行為をしているのではないかと心配する娘・正子も描かれていました。この映画からは、重い病気で寝たきりの正子を慰めるためのクリスマス・ツリーが飾られ、オルガンを弾く青江と「聖夜」を歌っている美也子を見ながら、銀紙の冠を頭に載せた正子が幸せそうに笑っている姿を、帰宅した蛭田が障子のガラスごしに覗くというシーンを紹介しました。娘の純真な笑顔を見た弁護士の蛭田は激しく後悔し、娘の死後に行われた最後の公判で自分が被告から賄賂を受け取っていたことを告白したのです。

映画《白痴》では舞台を日本に移したことで、ムィシキンが語るマリーや驢馬のエピソードなど『新約聖書』の逸話が削られていましたが、映画《醜聞》ではクリスマスの「樅の木」や「清しこの夜」の合唱などキリスト教的な雰囲気も伝えられていました。こうして、黒澤明は蛭田の娘・正子の形象をとおしてヴェーラの見事な映像化を果たしているといっても過言ではないように思えます。

さらにイッポリートが、「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも思い起こすならば、黒澤明が映画《肖像》の脚本だけでなく、この映画で山岳画家を主人公として描いているのは、「本当の美」を示す必要性を感じていたためでしょう。

一方、映画《白痴》は綾子(アグラーヤ)が、「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語るシーンで終わっています。

長編小説『白痴』ではアグラーヤが亡命伯爵を名乗るポーランド人と駆け落ちしたと描かれているので、そこだけを見ればこのシーンは明らかに原作とは異っています。しかし、原作の数多くの登場人物の複雑な人間関係をより分かりやすくするために、映画《白痴》では軽部がレーベジェフだけでなく高利貸しのプチーツィンをも兼ねた形で描かれるなどの工夫がされていました。

 そのことに留意するならば、このエピローグで描かれている綾子のセリフはアグラーヤだけでなく、映画《白痴》では省略されていたヴェーラの思いも兼ねていると言えるでしょう。しかし、ラドームスキーをムィシキンの単なる批判者と解釈していた小林秀雄には、黒澤映画の深みは理解できなかったのだと思えます。

「殺すなかれ」と語ったイエスは十字架に磔にされて死にましたが、キリスト教社会でイエスは無力で無残に亡くなった者としてではなく、「本当に美しい」人間としてその「記憶」は長く語り継がれたのです。ドストエフスキーも『白痴』においてムィシキンを「記憶」に長く残る「本当に美しい」人間として描いていたのです。

映画《夢》では、ゴッホとの出会いだけでなく、福島第一原子力発電所の大事故を予告するような「赤富士」のシーンも描かれていることに注目するならば、黒澤監督はムィシキン的な形象を、単に病んだ人間を治癒する者としてだけではなく、病んだ世界を治癒しようとした者と捉えていたといえるかもしれません。

黒澤明が日本においては大胆と思える解釈をなしえたのは、彼が学問的な権威には従属しない映画という表現方法によったことも大きいと思われます。

まもなくドストエフスキーの生誕200周年を迎えるにあたって、ドストエフスキー作品の黒澤明的な解釈が日本でも深まることを願っています。

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黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

映画《白痴》と『椿姫』――ソフィア大学での挨拶

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)