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司馬遼太郎

(4)眼が真っ黒に塗りつぶされた羊の絵――参謀の「魔法の杖」と内閣官房の闇

この映画では新聞社の社会部に匿名で送られてきた「医療系大学の新設」に関する極秘公文書の表紙に描かれた「真っ黒に眼が塗りつぶされた羊」の絵が、重要な役割を果たしている。

すると神崎の妻・伸子は「羊の形」が幼い娘のために書いた羊の絵とそっくりだが、やさしそうに笑っていた羊とは違い、沈黙に耐えているような苦悩を感じて夫の机の鍵を渡す。引き出しを開けた吉岡は、そこに全く同じ羊の絵と極秘公文書を見つけ、さらにその下には、重要な個所にはマークが付けられている本を発見した。それは化学兵器生物兵器の実験が行われていたアメリカ陸軍の実験施設で1968年に起きたダグウェイ羊事件と呼ばれる羊の大量死事件についての本だったのである。知らせを受けて駆け付けた杉原(松坂)も、「真っ黒に眼が塗りつぶされた羊」の絵から強い衝撃を受け、吉岡(シム)に協力することを決意したのだった。

1931年(昭和6年)に「満州事変」を起こし翌年には満州国を建国した日本は、「五族協和」などの美しいスローガンを掲げたが、実際には過酷な植民地政策を行っていた。それを批判されると国際連盟から脱退しした日本は、1939年には陸軍が満州国境でノモンハン事件を起こして1940年の東京オリンピックは幻に終わっていた。

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映画できわめて重要な役割を果たしているこの「羊」の絵をとおして、オリンピックを翌年に控えた現在の日本と昭和初期の危険な類似性を分析することにする。

   *   *   *

 満州国の国境付近で1939年に起きたノモンハン事件について、研究者のクックス氏から戦前の日本では国家があれだけの無茶をやっているのに国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったと指摘された司馬遼太郎は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。…中略…『ノモンハン』が続いているのでしょう」と応じていた(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

戦車兵だった司馬がノモンハン事件に強い関心を持ったのは、日本ではこの事件のことが全く報道されていなかったためである。軍による「嘘」や情報の「隠蔽」は、太平洋戦争時の「大本営発表」でいっそう顕著になるが、すでにこの頃から起きていたのであり、それはオリンピックを前年に控えた現在、内閣官房長官が記者会見で行う「情報」の質を予告していたように見える

米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は「日本は憲法で報道の自由が記された現代国家だ。それでも日本政府はときに独裁国家をほうふつとさせる振る舞いをしている」と批判しているが、敗戦から70年経った現在、安倍政権与党の自民党と公明党の議員だけでなく、官僚たちが再び「沈黙を強いられた羊」と化してしまったかのように感じ、この眼が真っ黒に塗りつぶされた「羊」は、現在の日本人の姿をも象徴しているように思えた。

誠実な官僚だった神崎の自殺は、司馬が書こうと長年準備していた幻の長編小説『ノモンハン』にも深く通じているところがある。

劇作家・井上ひさし氏との対談で「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」で、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と語り、戦闘に参戦した連隊長の証言をも記していた。

すなわち、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよ」と命じられたことを伝えた須見新一郎元大佐は、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と厳しく批判したのである(『国家・宗教・日本人』)。

 「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いている(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は『坂の上の雲』での考察を踏まえて、「昭和初期」の日本の問題にも鋭く迫る大作となることが十分に予想された。しかしこの長編小説の取材のためもあり行った元大本営参謀の瀬島龍三との対談が、『文藝春秋』の正月号(1974年)に掲載されたことが、構想を破綻させることになった。

すなわち、この対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えていた(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

実際、『永遠の0(ゼロ)』で重要な働きをなしている元海軍中尉で「一部上場企業の社長まで務めた」武田貴則のモデルとなっている瀬島龍三は、戦後に商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになり、1995年には「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」顧問の役職に就いているのである。

「ゴジラの哀しみ 書影」の画像検索結果

須見元連隊長との関係について記した元編集者の半藤一利氏は、「かんじんの人に絶縁状を叩きつけられたことが、実は司馬さんの書く意欲を大いにそぎとった」のではないかと推測している。

研究者の小林竜夫氏も須見元大佐がこの長編小説の主人公だったのではないかと考え、「須見のような人物を登場させることはできなく」なったことが、小説の挫折の主な理由だろうと想定している(『モラル的緊張へ――司馬遼太郎考』)。たしかに、惚れ込んだ人物を調べつつ歴史小説を書き進めていた司馬のような作家にとって主人公を失うことは大きい。小説は「書かなかった」のではなく「書けなくなった」のである。

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幻となったオリンピックの前年に起きたノモンハン事件と比較するとき、映画『新聞記者』の台本の執筆者たちがどの程度、司馬を意識したかは分からないが、「自殺」という問題をとおして、戦前から現在にいたる日本社会の病理にも迫ろうとしていたように思える。

 

『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』のご感想(憲法学者・樋口陽一氏)

これまで上梓した拙著に対しては幸い多くの方から温かいご感想やご意見を頂いており、それらはその後の私の研究や考察に活かさせ頂きました。

ただ、法律関係の専門でもない私が青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解いたのは、は安倍政権の「壊憲」的な手法による「憲法改正」の問題がきわめて切実な問題になってきたからです。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 また、内田魯庵の『罪と罰』観を調べる中で『罪と罰』訳の第二巻には、前巻の代表的な批評が18も掲載されていたことを再確認しました。むろん、雑誌などに掲載されたものと個人宛の私信に記された批評や感想は異なりますが、頂いたなかには個人で所蔵しておくだけではもったいないような貴重な意見も含まれています。

 それゆえ、今回は著者の方から了解を得られたご感想などに関しては、固有名詞を省くなどの処置をした上でご披露させて頂き、その後に拙著での試みやその後で考えたことなどを記すようにします。

 最初に憲法学者・樋口陽一先生のお葉書をご快諾頂いた事に深く感謝しつつ以下に引用させて頂きます。

  *   *   *

 内外の作品と登場人物と書き手を縦横に配置した座標の中にとりわけ藤村像を浮き彫りにして下さり、「時代」への文学のかかわり方について私なりの認識を研ぎ加えるための貴重な示唆をいただいております。全編を通して著書の藤村に対する畏敬を愛情のまなざし、それと決して矛盾することのない明澄な観察を読み、を感じ取りました。

 小林秀雄については、かねてから、他の点では信頼するもの書きの人達がなぜ敬意の対象としているか理解しかねていたところ、ご論旨に全く蒙を啓かれました(p.188第四段落は痛快!!)

 前後しますが司馬作品の誤読を匡し、「立憲」への近代の日本の知識人の感受性の系譜に読者の眼を向けて下さったことに、感謝しております。

             樋口陽一
  *  *   *

 拙著を高く評価して頂いた文章を私が引用させて頂くのは、自画自賛のようで恥ずかしいとの思いもありましたが、小林秀雄や司馬遼太郎の歴史認識は、現在の「改憲」問題にも深く関わっています。、

 それゆえ、今も「評論の神様」と称されている小林秀雄について記した箇所に対するご感想はたいへん励みになりました。また、ご贈呈頂いた「歴史・歴史学・歴史小説――『坂の上の雲』を議論する方法」(『現代史二講――日露戦争と朝鮮戦争をめぐって和田春樹さんに聴く』(関記念財団、2012年所収)は、「記述の方法」を考える上で、たいへん参考になりました。拙著ではその議論を踏まえて「神国思想」の批判者としての司馬遼太郎氏に焦点をあてて記すようにしました。

なお、『現代史二講――日露戦争と朝鮮戦争をめぐって和田春樹さんに聴く』(関記念財団)に記された該当箇所については、『日本国紀』の問題にも言及しながら稿を改めて紹介・考察したいと考えています。

 

樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む(改訂版)

樋口・小林対談(図版はアマゾンより)

 樋口陽一氏の井上ひさし論と井上ひさし氏の『貧しき人々』論

「日本国憲法」を読み直す 岩波現代文庫 (書影は「紀伊國屋書店」ウェブ・サイトより) 

拙著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲』を読み直す』などの図書紹介

待たれていた「東海大学文明学会」の立派なホームページが立ち上げられました。

まだ構築中の箇所もありますが、これに伴い『文明研究』に掲載された論文や図書案内などもアップされました。

そこには拙著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲』を読み直す』についての杉山文彦先生の図書紹介なども掲載されていました。

ご快諾をえましたので、私が書いた芦川氏の著書の書評とともに、リンク先をアップさせて頂きます、

 この場を借りて改めて学会役員の方々とご執筆頂いた方々に深く御礼致します。

 

(図書紹介)

『「龍馬」という日本人司馬遼太郎が描いたこと』(中川久嗣氏、2010年)

『司馬遼太郎の平和観―「坂の上の雲」を読み直す―』(杉山文彦氏、2005年)

『欧化と国粋―日露の「文明開化」とドストエフスキー―』(木下直俊氏、2004年)

   *   *

芦川進一著『福沢諭吉とドストエフスキィ:堕ちた「苦艾」の星』(高橋誠一郎 、1998年)

 

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

本書の構想を何回か変更したために予想以上に手間取りましたが、ようやく原稿を脱稿しました。

日露戦争の直後に自費出版された島崎藤村の長編小説『破戒』については学生の頃からずっと気になっていました。『罪と罰』から強い影響を受けていることが以前から指摘されているこの長編小説では、激しい差別ばかりでなく教育制度の問題の考察をとおして、危機の時代における「支配と服従」の問題にも鋭く迫っているからです。

しかも、暗い昭和初期の時代に島崎藤村は、武家社会の横暴を見たことから平等な世の中を目指して「平田篤胤没後の門人」となり、「維新」のために奔走した彼の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を連載していました。

この長編小説の完結後に日本ペンクラブの初代会長に就任した藤村の作品を論じた文芸評論家・小林秀雄の評論と「『罪と罰』についてⅠ」とを考察するとき、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年に書かれ、現在も影響力を保っている小林のドストエフスキー論の問題点が浮かび上がってきます。

ただ、私が日本文学の専門家ではないことや、幕末から明治初期までの激動の時代が描かれている『夜明け前』を読み解くためには、「復古神道」だけでなく維新後の藩閥政府による宗教政策をも理解しなければならなかったために執筆を躊躇していました。

しかし、グローバリズムの強い圧力に対抗して世界の各地でナショナリズムが台頭する中、日本でも二〇一八年が「明治維新」の一五〇年ということで、「維新」を讃美する発言や評論だけでなく、独裁的な藩閥政府との厳しい闘いをとおして獲得した「立憲主義」をも揺るがすような発言や動きも強まっています。

それゆえ、本書では日露の近代化の比較という視点から、北村透谷の評論や島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』などの作品をとおして、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ権力と自由の問題に肉薄していた『罪と罰』を詳しく読み解くことにしました。『罪と罰』の受容とその変容をとおして幕末から昭和初期にいたる日本の歴史を振り返ることは、「明治維新」一五〇年を迎えた現代の日本を考えるうえでも重要だからです。

たとえば、江戸時代に起きた日露の戦争の危機を防いだ商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』を書いた作家の司馬遼太郎氏はエッセー「竜馬像の変遷」で「明治国家」をこう記していました。

「人間は法のもとに平等である」というのが「明治の精神であるべき」で、「こういう思想を抱いていた人間がたしかにいたのに、のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」。そして司馬氏は「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていたのです。

明治が四五年で終わったことを考えると、「明治国家が八十年で滅んでくれた」という記述は不正確のようにも思えますが、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、明治国家の賛美者とされることの多い司馬氏は、「明治国家」を昭和初期の敗戦まで続いた国家として捉えていたといえるでしょう。

しかも『竜馬がゆく』で、幕末の「神国思想」が「明治になってからもなお脈々と生き続けて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし国定国史教科書の史観」となったと記し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループ」にひきつがれたと書いた司馬氏は、『この国のかたち』の第五巻で幕末における「復古神道」の影響の大きさを「篤胤によって別国が湧出したのである」と説明していました。

幕末と昭和初期の「神国思想」の連続性を指摘した司馬氏が、「昭和初期」を「別国」あるいは「異胎」の時代と呼んで批判していたことを想起するならば、ここでも「別国」という独特の単語が用いられていることは、昭和の「神国思想」と平田篤胤の「復古神道」との関係をも強く示唆していると思われます。

一九三八年の日中戦争で戦死した戦車隊の陸軍中尉西住小次郎が「軍神」とされたことについても、司馬氏は「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった」と『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に指摘していました(『歴史と小説』、集英社文庫)。

このとき司馬氏の批判は小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性が高いと思われます。なぜならば、一九三九年に書いた「疑惑 Ⅱ」というエッセーで「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪えられないのである。思想の古さに堪えられないとは、何という弱い精神だろう」と書いた小林はこう続けていたからです。

「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いている様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪えぬ様な、一と口に言えば大和魂という(……)思想にほかならないのではないか」(『小林秀雄全集』第七巻)。そして小林は「伝統は生きている。そして戦車という最新の科学の粋を集めた武器に乗っている」と書いて国民の戦意を煽っていました。

一方、一九七二年に発表したエッセーで当時の日本の戦車はソ連などと比較するとすでに時代遅れのタイプであると指摘した司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたのです(「戦車・この憂鬱な乗り物」)。

こうして、一九〇二年には日英同盟の締結に沸いていた日本は、それからわずか四〇年足らずの一九四一年にイギリスとアメリカを「鬼畜米英」と断じて、「神武東征」の神話と「皇軍無敵」を信じて無謀な太平洋戦争へと突入していました。それは日米同盟を強調しつつ復古的な教育改革をおこなっている日本の未来をも暗示しているでしょう。

それゆえ、戦前の「大和魂」の美化と「神国思想」を批判した司馬氏は、劇作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と続けていたのです。(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』講談社)。

司馬氏との対談もある憲法学者の樋口陽一氏も、「幕末維新の時代には『一君万民』という旗印で平等を求める動き」があり、その後も「全国各地で民間の憲法草案が出ていた」ことに注意を促して「日本国憲法」が明治の「立憲主義」を受け継いでいることを明らかにしています。

さらに、樋口氏は井上氏との共著『日本国憲法を読み直す』(岩波現代文庫)の「文庫版あとがき」で、「井上ひさしの不在という、埋めることのできない喪失感を反芻しながら、一九九三~九五年の対論を読み返した。(……)そのことにつけても、日本の現実を私たち二人と同様に――いや、もっとはげしく――憂えていた司馬遼太郎さんのことを、改めて思う」と記しているのです。

 このような日本の状況や「憲法」についての議論を踏まえて、本書では司馬氏が深く敬愛していた正岡子規や夏目漱石の「写実」や「比較」という方法に注目しながら、広い視野を持っていた明治の文学者たちの考察をとおして、「弱肉強食の理論」や「非凡人の理論」の危険性を描いていた『罪と罰』の現代的な意義に迫ろうとしました。

一九世紀のグローバリズムにも匹敵するような強い圧力に対抗するために、世界中で広がっている「自国第一主義」の影響下に歴史修正主義やヘイトスピーチが横行し、国の公文書の改竄や隠蔽すらもなされ、各国で軍拡が進んでいる現在、『罪と罰』をきちんと読み解くことによって原水爆の危険性を踏まえて成立した日本国憲法の現代的な意義をも明らかにできると考えたからです。(「あとがきに代えて」より) 

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

→ 第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

(「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」)

 (2019年1月5日、加筆。2月24日、5月2日、リンク先を追加)

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(1)――『白夜』をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

第一章・題辞

「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。空は一面星に飾られ非常に輝かしかったので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(ドストエフスキー、米川正夫訳『白夜』)

*   *   *

堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』」(1968年)は、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの日々を、若き詩人たちとの交友をとおして司馬遼太郎が「別国」と呼んだ「昭和初期」の重苦しい日々を克明に描き出している。

注目したいのはその第一部のエピグラフには、「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。」(米川正夫訳)という言葉で始まるドストエフスキーの『白夜』の文章が置かれていることである(以下、引用は集英社文庫、1977年による)。

しかも、第一部の終わり近くではナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「なんという乱暴な……。なんという野蛮な……。」という「異様な衝撃」を受けたと記した後で、再び『白夜』の文章を引用した作者は、「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、さらに「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している(上巻、115~117頁)。

フランス2月革命の余波が全ヨーロッパに及んでいた1848年に書かれたこの作品では、拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の第4章で詳しく考察したように、プーシキンにおける「ペテルブルグのテーマ」や「夢想家」やなど後期の作品に受け継がれる重要なテーマが描かれているばかりでなく、「農奴解放」のテーマも秘められていた。

こうして、文筆活動をとおして農奴の解放や言論の自由と裁判制度の改革を求めていたドストエフスキーは、小説『白夜』を発表した後でペトラシェフスキー・サークルの友人たちとともに捕らえられて偽りの死刑宣告を受けた後で皇帝の恩赦という形でシベリア流刑になっていた。

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そのことを想起するならば、拙著でも少し触れたように、堀田善衛がクリミア戦争に向かう時期の専制国家・帝政ロシアとナチスドイツやイタリアと三国同盟を結んで無謀な戦争に突入していくこの時期の大日本帝国との類似性を強く意識していたことはたしかだろう。

なぜならば、「お婆さん(引用者註、母親の年の離れた姉)の言うところを信ずるとすれば、明治の二十年代には、何か素晴らしいことがあったように思われる。それこそ“青春”ということばにふさわしいようななにかがあったように思われる。そうして、その青春は短くて夭折(ようせつ)した」と記されている『若き日の詩人たちの肖像』では(下、22)、大阪事件や北村透谷のことにも触れられているからである(10,37)。

それゆえこの自伝的な長編小説を読み返した時に私は、北村透谷など明治の『文学界』の同人たちとの交友を描いた島崎藤村の自伝的な長編小説『春』を連想した。

それは長編小説『春』でも内田魯庵訳の『罪と罰』が取り上げられているばかりでなく、頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を批判したことで「人生相渉論争」と呼ばれる激しい論争に巻き込まれ、生活苦も重なって自殺した北村透谷の生き方や理念も描かれているためであった。

しかも、拙論「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」(『世界文学』第125号)で考察したように、この論争の背景には「教育勅語」の発布の後で起きた「不敬事件」があった。そのことを考慮するならば、自殺した芥川龍之介に対する小林秀雄の批判の構造が、透谷の自殺後も徳富蘇峰の「民友社」が透谷や『文学界』への批判を続けていたことときわめて似ていることに気付く。

それゆえ、『若き日の詩人たちの肖像』で将来に対する「ぼんやりした不安」を記して自殺した芥川龍之介の遺書についてたびたび言及されているのは、文芸評論家の小林秀雄(1902~83)のドストエフスキー論を強く意識していたためではないかと思われる。

なぜならば、小林秀雄がドストエフスキー作品の本格的な考察への意欲を記したのは、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進む前年の1932(昭和7)年のことだったからである。

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このような時期に発表した評論「現代文学の不安」で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」とドストエフスキーについて記した小林は、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していた(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、17頁)。

そして、『地下室の手記』以降はドストエフスキーが前期の人道的な考えを棄てたと主張したシェストフの考えを受け継いだ小林秀雄は、その後、次々とドストエフスキー論を発表するが、帝政ロシアにおける「憲法」の欠如や検閲などの問題をより明確に示唆していた第一作『貧しき人々』から『白夜』に至る初期作品をほとんど論じていない。

一方、芥川龍之介はドストエフスキーの創作方法の特徴をよく理解していた作家であり、ことに短編「藪の中」(1922)では「一つの事件」を三人のそれぞれの見方をとおして描くことで、客観的に見えた「一つの事件」が全く異なった「事件」に見えることを明らかにして、現代の「歴史認識」の問題にもつながるような「事実」の認識の問題を提起していた。

そして、1922年に書いた小説『将軍』で日露戦争時の突撃の悲惨さだけでなく、父と子の会話をとおして軍人を軍神化することの問題を描いていた芥川龍之介は、治安維持法の発布から2年後の昭和2年に自殺する前には小説『河童』で検閲制度など当時の日本社会を痛烈に風刺していた。

『若き日の詩人たちの肖像』の後半では作家の堀辰雄をモデルとした「成宗の先生」との交友が描かれるようになるが、よく知られているように芥川龍之介との深い交友があった堀辰雄は卒論で「芥川龍之介論」を書き、自伝的な作品『聖家族』(昭和5年)の初版には「私はこの書を芥川龍之介先生の霊前にささげたいと思ふ」という献辞を付けるほど龍之介を深く敬愛していた作家だった。

映画《風立ちぬ》(図版は「アマゾン」より)

堀辰雄の「風立ちぬ」(1936-37年)は宮崎駿監督が映画の題名としたことで再び脚光を浴びたが、注目したいのは、主人公が「成宗の先生」の自宅のそばを通りかかった際に「この家の詩人小説家は肺病で、日本語の小説によくもまあ、と思われるほどにしゃれた、純西洋風な題をつける人であった」とその作風を思い出した後で、再び主人公が暗唱していた『白夜』の冒頭の文章が引用されていることである。

そして、その箇所を「ぶつぶつと口のなかでとなえてみていて、こういう文章こそ若くなければ書けなかったものだったろう、と気付いた」と記した堀田は、「二十七歳のドストエフスキーは、カラマーゾフでもラスコルニコフでもまだまだなかったのだ。けれども、この文章ならば、あるときのムイシュキン公爵の口から出て、それを若者が自分の耳で直接公爵から聞くとしても、そう不思議でも不自然でもないだろう……」と続けていた。

この記述からは、初期と後期のドストエフスキー作品が全く断絶していると解釈していた小林秀雄とは異なり、『白夜』と『白痴』の主人公との連続性を見ていることが分かる。

映画《風立ちぬ》では主人公が、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎の伝記を踏まえて主人公像が形成されていることが話題となったが、主人公の内面はむしろ堀辰雄の作品世界からの影響によって形づくられていると思われる(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』のべる出版企画、2016年、147~162頁)。

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しかも、宮崎駿は敬愛する堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談(『時代の風音』朝日文庫、1997年)の際に司会をしているが、そこでは芥川龍之介の死が堀辰雄の作品ばかりでなく、堀田の『若き日の詩人たちの肖像』を踏まえて語られている可能性が高いのである。

それゆえ、私は日本の近代文学の専門家ではないが、ドストエフスキー研究者の視点から『若き日の詩人たちの肖像』をより詳しく分析することにしたい。

そのことにより帝政ロシアに先駆けて「憲法」を持った日本が、なぜ昭和初期には「無憲法」の状態に陥って無謀な戦争へと突入し、そして戦後72年経った現在、「立憲主義」を否定する動きが起きているのかにも迫ることができるだろう。

(2017年11月8日、加筆、書影を追加。11月28日、第一章の題辞全文を追加。12月28日、加筆)

例会発表「『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に」を終えて

昨日、千駄ヶ谷区民会館で行われた第241回例会には、嵐の前触れとも言うべき雨も降り出すなか多くの方にご参加頂き、下記の順で発表しました。

 はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

Ⅰ.ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」

Ⅱ.正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』

Ⅲ.長編小説『破戒』の構造と人物体系

Ⅳ.「教育勅語」発布後の教育制度と長編小説『破戒』

Ⅴ.『罪と罰』から長編小説『破戒』へ――北村透谷を介して

*   *   *

 発表後の質疑応答では、〔ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」〕や〔正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』〕については、好意的なご感想や発表で引用した木村毅氏についての貴重な示唆が木下代表からありました。

正岡子規から島崎藤村への流れを考える際には、夏目漱石との関わりも考察することが必要ですが時間的な都合で今回は省きました。ただ、この問題についいては、「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の本年度の第4回研究会で、〔夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ〕と題して発表した動画がユーチューブにアップされていますので、下記のリンク先をご覧下さい。

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

また、『罪と罰』の問題と長編小説『破戒』における「戒め」の問題についての本質的な問いかけもあり議論が進むかと思われたのですが、時間的な都合で議論が深まらなかったのは残念でした。

ただ、二次会の席では馬方よりも低い身分とされていた牛方仲間が「不正な問屋を相手に」立ち上がって勝利した江戸末期の牛方事件や、新政府が掲げた「旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ」という一節を信じていた主人公の青山半蔵が、維新後にかえって村人が貧しくなっていくことに深く傷つき、ついには発狂するまでが描かれている『夜明け前』にも話しが及んで議論が盛り上がりました。

古代を理想視した復古神道の問題については「世田谷文学館・友の会」の今年の講座で〔夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして〕と題して発表していましたので、来年出版予定の拙著『「罪と罰」と「憲法」の危機――北村透谷と島崎藤村から小林秀雄へ』(仮題)にも載せるようにしたいと考えています。

なお、参加者の方から質問と発言があった小林秀雄のドストエフスキー論の問題点は、太平洋戦争勃発のほぼ1年前の1940年9月12日に発表されたヒトラーの『我が闘争』の書評と『全集』に再掲された際の改竄、そして日米安保条約が改定された1960年に『文藝春秋』に掲載され、後に『考えるヒント』に収められた「ヒットラーと悪魔」にあると私は考えています。

日本が日独伊三国同盟を結んで太平洋戦争に向かうようになる司馬遼太郎が「昭和初期の別国」と呼んだ時期とロシア史で「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代との類似性についてはすでに何度か書きましたが、ヒトラー内閣が成立した翌年の1934年に発表されたのが、『罪と罰』論と『白痴』論だったのです。

また、「治安維持法」が出た後で自殺した芥川龍之介の『河童』や2.26事件以降の日本をナチスの宣伝相ゲッベルスの演説とドストエフスキーの『白夜』を比較しながら生々しく描いた堀田善衛の長編小説『若き日の詩人たちの肖像』については、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章で考察していました。

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その際には単に示唆しただけに留めていましたが、厳しい言論弾圧のもとに「右傾化」していくアリョーシャのモデルには、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした『英雄と祭典』と題された『罪と罰』論を真珠湾攻撃の翌年に出版した堀場正夫も入っていると思えます。

そのような読者に小林秀雄の『罪と罰』論は強い影響を与えただけでなく、太平洋戦争が始まる前年の8月に行われた鼎談「英雄を語る」(『文學界』)では、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という作家の林房雄の問い対して、「大丈夫さ」と答えていました。しかも、そこで「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と無責任な説明をしていた小林秀雄は、戦争が終わった後では、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語り、「それについては今は何の後悔もしていない」と述べていたのです。

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戦争が近づいているように見える現在も小林秀雄論者が活気づいてくるように見えますが、それは太平洋戦争時のように無謀な戦争を煽りたてることであり、原発が稼働している日本ではいっそう悲惨な結果を招くことになると思えます。

質疑応答のなかで言及した国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄講義 学生との対話』(新潮社、2014)における「殺すこと」などの問題とドストエフスキー論との関連については近いうちに改めて分析したいと考えています。

ただ、小林秀雄の書評『我が闘争』や「ヒットラーと悪魔」などについては知らなかった方も少なくなかったので、とりあえず本稿関連論文のあとに「小林秀雄のヒトラー観」と題した記事のリンク先をアップしておきます。

本稿関連論文

「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年参照)

「『文明の衝突』とドストエフスキー --ポベドノースツェフとの関わりを中心に」(『ドストエーフスキイ広場』第17号、2008年)

 リンク先

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月19日、加筆改訂。2017年11月4日、改題)

黒澤明と宮崎駿――《七人の侍》から《もののけ姫》へ(ロシア文学と民話とのかかわりを中心に)

6月25日に黒澤明研究会で標記の研究発表をしました。

中世史の研究者・網野義彦は《もののけ姫》のパンフレットに寄せた文章で、「山や森は神様が住む聖地なのだという捉え方が崩れはじめたのが室町時代だからで、これは歴史的な事実だといってもよいと思います」と記していましたが、作家の司馬遼太郎も堀田善衛や宮崎駿と一九九二年に行った鼎談で、日本では「弥生式のころから引き継いでいる大地への神聖観というのをどうも失いつつある」と指摘していました(『時代の風音』朝日文庫)。

ニーチェは『ツァラトゥストラ』の第一部の終わりに「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんことを欲する」という有名な言葉を記していたが(太字の箇所は訳書では傍点)、八百万の神々が共存するような多神教的な世界観は、日本でもすでに室町時代には崩れ始めていたのです。

そのことが、明治維新の際に西欧列強やロシア帝国の宗教を強く意識しながら、天皇を「一神教的な現人神」とし「全国の神社を官社と諸社に分け」て序列化を行った「国家神道」の成立を準備していたと思えます。

「こんな夢をみた」という字幕が最初に示されるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」でも原発事故の問題が鋭く提起されていますが、この映画の魅力は原発批判や戦争批判に留まらず、このような明治以降の「国家神道」の教えで失ってしまった地震や火山など自然の驚異や生命の神秘に対する畏敬の念も見事に再現していることでしょう(拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』のべる出版企画、2016年、141~142頁)

発表は2部からなり、第1部では「ロシア文学と民話とのかかわりを中心に」第2部では「《七人の侍》から《もののけ姫》へ」という題で考察しました。

 「映画・演劇評」のページに黒澤明と宮崎駿(1)――ロシア文学と民話とのかかわりを中心に」と「黒澤明と宮崎駿(2)――《七人の侍》から《もののけ姫》へを掲載します。

 

新刊案内 後藤多聞『漢とは何か、中華とは何か』(人文書館、2017年)

漢とはなにか、人文書館(題字:石飛博光、装本:荒田秀也)

後藤多聞著『漢とは何か、中華とは何か』

ジャンル[中国社会文化史]、四六判上製・416頁 定価:4,800円+税、ISBN 978-4-903174-36-5 C1022

 【目次】

序 章 「中華」の不思議

第一章 騎馬民族 跳梁

第二章 虹へ 若武者の野望・氐族符堅[ていぞくふけん]

第三章 知られざる大仏の道

第四章 草原からの若い風 拓跋[たくばつ]一代記

第五章 虹をつかんだ青年 孝文帝

第六章 周隋唐、武川に出ず

第七章 虹よ、永久[とわ]に

終 章  亡国と革命

 

疾風の如く、怒濤の如くに、来り去る塞外の民たち !!

テレビ・ドキュメンタリスト後藤多聞は、曾て、NHKスペシャル「故宮~至宝 の語る中華五千年」という番組を制作した。この時、作家の司馬遼太郎は、 「漢とは何か、中華とは何か」という視点を念頭におくように、と助言をした。 漠北の草原を駈ける騎馬遊牧民族の存在に眼を向けよということであった。

本書は、多民族国家・中国に於ける漢民族、そして中華という概念、あるいは中華民族の成立過程を物語性豊かに明らかにする。ユーラシア史・中国史研究の到達点を示す、畢生の労作が誕生した!

 草原の虹を超えて、中華を築いた遊牧民

天才将軍 李世民、唐の太宗に即位す!

(写真:著者提供)

 

著者紹介:後藤多聞(ごとう・たもん)

1944(昭和19)年、大阪市生まれ。
京都大学大学院中国文学研究科修士課程修了。NHKに入局。主として歴史番組やアジアを中心とした海外取材番組を担当。現在、平山郁夫シルクロード美術館理事(国立民族学博物館客員教授、総合地球環境学研究所客員教授などを歴任)。

主な担当番組
NHK特集「ビルマ2000キロ」「秘境ブータン」「秘境雲南」「幻の民ピートンルアン~タイ」「大黄河」「大草原の祭り~モンゴル」ほか。NHKスペシャル「よみがえる邪馬台国」「騎馬民族の道はるか~北朝鮮歴史紀行」「謎の仮面王国~三星堆遺跡は何を物語るか」「ベルリン美術館」「故宮~至宝が語る中華五千年」など。

主な著書
『遙かなるブータン』(元本は、NHK出版、その後は、ちくま学芸文庫)、『大黄河』『騎馬民族の道はるか』(共著)、『ふたつの故宮』(上・下)(いずれもNHK出版)。

(人文書館の新刊紹介用チラシなどより転載)

講座 『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして

今年も「世田谷文学館友の会」の講座でお話しすることになりました。

「おしらせ」第131号(H29年3月2日発行)より講座が行われる日時や場所、講座の要旨などを転載します。

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日  時  : 平成29年4月16日(日) 午後2時~4時

場  所  : 世田谷区立男女共同参画センター「らぷらす」

参 加 費  : 1000円

申込締切日 : 平成29年4月4日(火)必着

(応募者多数の場合は抽選)

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 講座 『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である」という文章で始まる島崎藤村の『夜明け前』は、「黒船」の来港に揺れた幕末から明治初期までの馬篭宿を舞台にしている。芭蕉の句碑が建てられた時のことが記されているその序章を読み直した時、新聞『日本』に入社する前にこの街道を旅した正岡子規が「白雲や青葉若葉の三十里」と詠んでいたことを思い出した。

『夜明け前』では王政復古に希望を見ながら「御一新」に裏切られた主人公(父の島崎正樹がモデル)の苦悩が描かれているが、そこには「私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人」と藤村が評した北村透谷の苦悩も反映されていた。

『夜明け前』を現代的な視点から読み直すことで、街道の重要性や「神国思想」の危険性だけでなく、「憲法」の重要性も描かれていた『竜馬がゆく』の意義に迫りたい。

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これまでの「講座」

→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

講座「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」(レジュメ)

 

 

 

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー(2017年3月13日)を転載

『坂の上の雲』を材料に正岡子規の生涯を追い、

司馬遼太郎の魅力的な議論をコンパクトにまとめ、

分かりやすく読み解く。

 isbn978-4-903174-33-4_xl  装画:田主 誠/版画作品:『雲』

人文書館のHP・ブックレビューのページに木村敦夫・日本トルストイ協会理事の書評の抜粋が掲載されましたので、このHPでも紹介させて頂きます。

(人文書館のHPより) 新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」 

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正岡子規を太い経糸(たていと)、彼と親交のあった人々を細い経糸とし、 文明開化に浮かれ騒ぐ日本社会を緯糸(よこいと)として みごとなタペストリーに織り上げ、 明治期の日本の真の「姿」を再構築している。

木村敦夫

作者にとっては2冊目の『坂の上の雲』論である。本作では、「正岡子規を主人公として新聞『日本』を創刊した陸羯南(くがかつなん)との関わりや夏目漱石の友情をとおして」考察している。本書のタイトルに現れている通り、正岡子規論とは言え、新聞記者・正岡子規を通して語られる、日本全体はおろか、日露両国の比較考察さえも超えた、地球規模で俯瞰され提起される広い問題意識が、本書の特徴でもあり、醍醐味でもある。

作者が、読者の想像力を、読者の楽しみを刺激してくれるのは、それらの「ひと」にとどまらない。子規が生きた時代を、社会情勢を、日本に限らず、ヨーロッパ、ロシアをも視野に入れて活写し読み解いてくれている。

1889年、明治22年に議会主義と三権分立が明示された明治憲法が発布されたが、それに先立つ1882年、明治15年に山県有朋の意図のもと「軍人勅諭(ちょくゆ)」が出されていて、「民権」は制限された。その前年1881年、明治14年に明治政府は国会開設の詔勅を出している。「飴と鞭」政策なのかと思いきや、この「軍人勅諭」は反「民権」を全面に押し出している。明治政府にとって「国民」とは、法によって権利と義務を明解に規定するものというよりも、徴税、徴兵の対象というに過ぎなかったのである。さらに、この勅諭を盾に昭和期に「政治化した軍人が軍閥を作」り、明治憲法の精神を踏みにじり三権を超越する「統帥権」の存在を主張し始め、1945年、昭和20年の敗戦まで突っ走り、ついには「国家そのものを破壊する」にいたる。

といったように、作者は、司馬遼太郎の魅力的な議論をコンパクトにまとめ、分りやすく読み解いていく。本書は、正岡子規を狂言回しとした明治期の網羅的な歴史叙述の書だと言える。子規や漱石が身を置いていた社会情勢のみならず、文学、芸術にも読者の目を向けさせ、また、国内外の政治状況、日本の立場から見た国際情勢までも視野に入れさせてくれる。

作者の見識の高さ、洞察の鋭敏さ、視野の広さ、考察の柔軟さを物語るものだが、本書は、そしてまた作者、高橋誠一郎は、司馬遼太郎の作品を通して、司馬遼太郎の視線を通して正岡子規を見るという外枠を超えて、さまざまに読者の知的好奇心を刺激してくれる。

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木村敦夫(キムラ・アツオ、ロシア文学研究者。日本トルストイ協会理事。論文「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」東京藝術大学音楽学部紀要など。)

『ユーラシア研究』(2017年、第55号、ユーラシア研究所編「書評」より部分的に抜粋)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年〔目次と書評・紹介〕