高橋誠一郎 公式ホームページ

02月

《かぐや姫の物語》が3月13日にテレビ初放送

高畑勲監督作品の《かぐや姫の物語》が3月13日の「金曜ロードSHOW!」でテレビ初放送されることがわかりました。「ねとらぽ」によれば、通常から放送を1時間繰り上げ、午後7時56分より完全ノーカット版となるとのことです。

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。「ねとらぽ」より

2013年に公開されたこの作品についてはこのブログでも取り上げていましたが、私が高畑勲監督作品が国際的に高い評価を受けていることを実感したのは、モスクワに行く留学生の引率の際にロシアの新聞で《ホーホケキョとなりの山田くん》についてのほぼ一面を費やした解説記事を読んだ時でした。

《かぐや姫の物語》は残念ながら受賞こそ逃したものの、米国アカデミー賞長編アニメーション映画部門にも昨年の《風立ちぬ》に続いて2年連続でノミネートされ、ロサンゼルス映画批評家協会賞、ボストン映画批評家協会賞、トロント映画批評家協会賞を受賞しています。

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注目したいのは、「リテラ」(2015.02.21)の記事によれば、元旦に神奈川新聞に掲載されたインタビューで、1988年に日本で公開されて海外でも高い評価を受けた《火垂るの墓》について高畑監督が、「反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」と答え、「為政者」は「惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」からだと説明し、次のように語っていたとのことです。

「私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」

筆者の酒井まど氏は、高畑監督の次のような言葉でこの記事を結んでいます。「(先の戦争について)いやいや戦争に協力させられたのだと思っている人も多いけれど、大多数が戦勝を祝うちょうちん行列に進んで参加した。非国民という言葉は、一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉です。(中略)古くからあるこの体質によって日本は泥沼の戦争に踏み込んでいったのです。私はこれを『ズルズル体質』と呼んでいますが、『空気を読む』なんて聞くと、これからもそうなる危うさを感じずにはいられません。」

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アニメ映画《かぐや姫の物語》が、米国アカデミー賞長編アニメーション映画部門にノミネートされたばかりでなく、数々の国際的な章を受賞していることは、日本最古の物語が持つ普遍性を明らかにしてといえるでしょう。

一方、福島第一原子力発電所の大事故が実際には今も完全には収束しておらず、日本の大地や海が汚染されており、地震や噴火の危険性が続いているにもかかわらず、安倍首相をはじめとする現代の「大臣(おおおみ)」たちは、国民」の関心をその危険性から逸らすかのように、自衛隊を海外に派兵するための法律を次々に閣議決定しています。

日本の庶民が持っていた自然観や宇宙観が繊細なタッチで見事に描き出されるとともに、当時の「殿上人」の価値観を痛烈に批判していたこの作品が多くの人々に鑑賞されることを望んでいます。

リンク→

《かぐや姫の物語》考Ⅰ――「かぐや姫」と 『竜馬がゆく』

《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」

 

 

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

前回は夏目漱石の『草枕』が「大好きですね」と宮崎監督が語っていることの紹介から始めましたが、次の言葉からは熱烈な愛読者であることが伝わってきます。

「いずれにしましてもぼく、『草枕』が大好きで、飛行機に乗らなきゃいけないときは必ずあれを持っていくんです。どこからでも読めるところも好きなんです。終わりまで行ったら、また適当なところを開いて読んでりゃいい。ぼくはほんとうに、『草枕』ばかり読んでいる人間かもしれません(笑)」(『腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫、2013年)。

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『漱石先生ぞな もし』(文春文庫)の作者でもある半藤一利氏が「それはともかく、『草枕』は一種のファンタジーです。漱石がつくりだした桃源郷と言ってもいい」語ると宮崎監督も「惨憺たる精神状態のときに書いたものだと言われるけれど、だからこそいいものになったような気もします」と答えています。

 

私にとって興味深かったのは、「おっしゃるとおり『草枕』は、ノイローゼがいちばんひどかったときの作品なんですね」と指摘した半藤氏が、「これは私呑んだときによくしゃべることなんですけれどね。『草枕』という小説は、若い頃につくった俳句を引っぱりだしてきて、漱石はそれを眺めながら、うん、こいつを使おうと考えた。それら俳句に詠んだ描写を書いているんです」と語り、「ですからあの小説は、漱石自ら『俳句小説』だといっていますね」と続けていることです。

この説明を聞いて、宮崎監督は「そういえばはじめて読んだとき、主人公の青年は絵描きなのに、なぜ俳句ばかり詠んでいるんだろうと不思議に思ったのを思い出しました(笑)。でも、いや、ぼくは『草枕』は好きです。何度読んでも好きです」と応じています。

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宮崎監督と半藤氏とのこれらの会話を読んで思い出したのは、夏目漱石と正岡子規との関係でした。

たとえば、冒頭の文章に続いて、風景を詠もうとする画工(えかき)の試みが次のように描かれています。

「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」

全集の注はこの句も子規が明治25年に書いた「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」を踏まえていることを示唆しています。

半藤氏は漱石が「若い頃につくった俳句を引っぱりだしてきて」、それをこの小説で用いていると指摘していましたが、現在、執筆中の『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』では、新聞記者となる子規と漱石との深い交友にも焦点をあてて書いています。その中で改めて感じるのは、漱石という作家が子規との深い交友とお互いの切磋琢磨をとおして生まれていることです。

このことを踏まえるならば、この時、漱石は漫然と若い頃を思い出していたのではなく、病身をおして木曽路を旅した子規が翌年の明治二五年五月から六月にかけて「かけはしの記」と題して新聞『日本』に連載した紀行文のことを思い浮かべていたのではないかと思えるのです。

ことに『草枕』の冒頭の「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。/智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」という文章は、大胆すぎる仮説かもしれませんが、「かけはしの記」の冒頭に記されている次のような文章への「返歌」のような性質を持っているのではないかと思えます。

「浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も惑病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし」。

漱石の処女作となった『吾輩は猫である』が、子規の創刊した『ホトトギス』に掲載されたことはよく知られていますが、結核を患って若くして亡くなった子規が漱石に及ぼした影響については、さらに研究が深められるべきでしょう。

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宮崎監督はロンドンのテムズ川の南、チェイスというところにある漱石記念館やテート・ギャラリーを訪れたことに関連して、『三四郎』における絵画について語っています。

すなわち、「記念館に足を踏み入れたとき、ぼくはもうそれだけで胸がいっぱい。なにかもう、『漱石さん、あのときはご苦労さまでした』って感じで」と語った宮崎監督は、「ロンドンではテート・ギャラリーの、漱石が足しげく通ったというターナーとラファエル前派の部屋にも行きました」と語り、次のように続けているのです。

「絵を前にして立っていると、ああ、ここに漱石が立っていたに違いない、と。そのなかに羊の群れが丘の上でたわむれている絵がありまして、ああ、これがきっと、『三四郎』の「ストレイシープ」だなんて思って、また胸が(笑)。」

このブログでは司馬遼太郎氏が「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記していた漱石の『三四郎』についてたびたび言及してきました。

実は、『草枕』でも女主人公・那美の従兄弟の久一が招集されて戦地に赴くことだけでなく、彼女の別れた夫が一旗あげようとして満州に渡ろうとしているなど日露戦争の影も色濃く描かれているのです。

映画《風立ちぬ》における時代の鋭い描写には、宮崎監督の漱石の深い理解が反映されていると思えます。

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興味深いのは、半藤氏が「『草枕』という小説は、言葉が古くて難しいからいまの若い人たちには読めないんですよ。だから私、若い人たちに『草枕』は英語で読め、と言っています」と語ったことに対して、宮崎監督が「どこかでそうお書きになっていましたね。ぼくはわかんないとこは平気でとばして読んでいます(笑)」とやんわりと反論していたことです。

私も宮崎監督に同感で、初めのうちは分かりにくくても、やはり日本語で読むことで『草枕』という小説が持つ日本語のリズムも伝わってくるし、何度も読み返すことで、その面白さや深さやも伝わってくると考えています。

宮崎監督がこの後で、「なにしろ『草枕』は、ほんとに情景がきれいなんです。しかもその鮮度がいまでもまったく失われていないんです」と語ると、その言葉を受けて半藤氏も、「漱石の小説で、絵巻になっているのは『草枕』だけですね」と応じています。

ロンドンのテート・ギャラリーには、『三四郎』の「ストレイシープ」に関わる画だけでなく、悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤを描いたジョン・エヴァレット・ミレイの絵や朦朧体で描かれたターナーの絵も多く飾られていました。

これらの絵画からの印象も映画《風立ちぬ》における深い叙情に反映されているのではないかと思えます。

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半藤氏はカナダのピアニストのグレン・グールドが『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』を、「二十世紀の最高傑作に挙げた」ことも指摘しています。

映画《風立ちぬ》における『魔の山』のテーマについてはすでに記していましたが、この二つの作品を読むことにより映画で描かれている時代の理解も深まるでしょう。

 

リンク→《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

 

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

 

宮崎監督は夏目漱石の『草枕』が「大好きですね」と語っています。

元編集者で『漱石先生ぞな もし』(文春文庫)の作者でもある半藤一利氏がそれを受けて「それにあれは、絵画的世界でもありますね」と指摘すると、監督は「那美さんが川舟のなかで、スッと春の山をゆび指すでしょう。『あの山の向うを、あなたは越して入(い)らしった』と。とてもきれいなんです。絵にしたいんです。でも自分の画力では絵にできません」と続けているのです。

この二人の対談『腰抜け愛国談義』(文春ジブリ文庫、2013年)に注目しながら映画《風立ちぬ》を見るとき、この映画が堀辰雄の作品や優れた設計者の堀越二郎の伝記だけでなく、漱石の『草枕』の世界をも踏まえて創られているのだろう思えてきます。

ただ、『草枕』は少し古い作品なので、今回はこの内容も紹介しながら映画《風立ちぬ》との関係を考えてみたいと思います。

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日露戦争終結の翌年に発表された『草枕』は次のような有名な冒頭の言葉で始まります。

「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。」

 

こうして『草枕』では、画工である主人公が逗留した山中の温泉宿での景色や、そこで出会った「今まで見た女のうちで尤(もつと)もうつくしい所作をする」薄幸の女性・那美さんとの関わりをとおして独自の芸術論が語られているのです。

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その舞台となったのが熊本の小天(おあま)温泉でしたが、そこに「どうしても行きたくなって」しまった宮崎監督は、「社員旅行のときに『熊本に行こう!』と言い張って(笑)。二百何十人で出かけて行ったことがありました」と語っています。

宮崎「念願かなって行ったのですが、物語にでてくる峠道を歩くことはできませんでした。時間があまりなくてバスで行ってしまったものですから。」

半藤「それは残念でしたね。」

宮崎「物語の最後のところで、吉田の停留場(ステーション)まで川舟で川を下りますでしょう。あの川にはなんとしても行ってみたいと思ったのですが、ところが地図をいくら調べてもない。」

半藤「あれはつくり話なんです。漱石が自分でも描いた山水画の世界です。」

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『草枕』で注目したいのは、戦争が始まってからはほとんど湯治の客も来なくなった温泉の主人の娘・那美(なみ)が、最初からシェークスピアの悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤと結びつけられて描かれていることです。

すなわち、茶店の老婆が「わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前(めさき)に散らついている。裾(すそ)模様の振袖(ふりそで)に、高島田で、馬に乗って……」と源(げん)さんに話しかけているのを聞いた主人公は、写生帖をあけて「この景色は画になる」と考えるのです。ただ、「花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影(おもかげ)が忽然(こつぜん)と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった」と描かれています。

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「ウィキペディア」より

さらに主人公に「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘」が、二人の男から懸想されて「淵川(ふちかわ)へ身を投げて果てました」と語った老婆は、那美も親の強い意向で「ここの城下で随一の物持ち」に嫁いだものの、「今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれ」て戻ってきたと語ったのです。

こうして、人づてに那美についての話を聞いて、よい画の主題を得たと思い始めた主人公は、第7章では思いがけず風呂場に入ってきて朦朧とした湯けむりのなかに見える彼女の姿を、「あまりにも露骨(あからさま)な肉の美」を描く西欧の裸体画と比較しつつ、「神代の姿を雲のなかに呼びお起こしたるが如く自然である」と描いています。

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「映画『風立ちぬ』と日本の明日」と題された第二部では、半藤氏が「映画のなかで堀越二郎が菜穂子と暮らした黒川邸のような家は、昭和初期にはたくさんあったように思いますねえ」と語っています。

興味深いのは、その言葉を受けた宮崎監督が、女主人公の菜穂子が治療中のサナトリウムを抜け出して黒川夫妻の元で祝言を挙げ、命を燃やすように濃密な時間を二人で生きた黒川邸の離れについてこう語っていることです。

「『草枕』の舞台となった熊本の小天温泉に出かけて行った話を前回しましたが、漱石が泊まった前田家別邸の離れを見たときに『あ、これはいつか使える。覚えておこう』と思ったんです。黒川邸の離れはあそこがモデルなんです。」

自由民権運動に深くかかわった熊本の名士・前田案山子のこの別邸には中江兆民が訪れていたこともあり、漱石関連の書籍で写真を見ていたことが、私が映画《風立ちぬ》から強い印象を受けた一因かもしれません

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(本稿は昨日書いた同名のブログ記事の全面的な改訂版です。アップした文章を読み直したところ、漱石の『草枕』をまだ読んでいない人には難しいことが分かりましたので、2回に分けて掲載することにしました)。

 

 

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

 

「特定秘密保護法」が国会での十分な議論も行われる前に強行採決された際には、次のように語っていた半藤一利氏の記事「転換点 いま大事なとき」をこのブログに掲載しました。

歴史的にみると、昭和の一ケタで、国定教科書の内容が変わって教育の国家統制が始まり、さらに情報統制が強まりました。体制固めがされたあの時代に、いまは似ています。」

そして半藤氏は「この国の転換点として、いまが一番大事なときだと思います」と結んでいました(太字は引用者)。

リンク→「特定秘密保護法」と「昭和初期の別国」――半藤一利氏の「転換点」を読んで

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しかし、テロリストによる人質殺害事件があったことで、重要な「情報」はさらに隠されるようになっただけでなく、大新聞やテレビなどのマスコミでは政権の対応を批判することすらも自粛するような傾向さえ強くなってきているようです。

掲載が遅くなりましたが、9日には「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」が発表されていましたので、それを伝える「東京新聞」の2月10日付けの記事を転載しておきます。

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〈人質事件後「あしき流れ」 政権批判自粛にノー〉

過激派「イスラム国」による日本人人質事件が起きてから、政権批判を自粛する雰囲気がマスコミなどに広がっているとして、ジャーナリストや作家らが九日、「あしき流れをせき止め、批判すべきことは書く」との声明を発表した。

ジャーナリストの今井一さんらがまとめ、表現に携わる約千二百人、一般の約千五百人が賛同した。音楽家の坂本龍一さん、作家の平野啓一郎さん、馳星周さんら著名人も多い。今井さんは、国会で政府の事件対応を野党が追及したニュースの放映時間が一部を除き極めて短かったと述べた。

声明は、人質事件で「政権批判を自粛する空気が国会議員、マスメディアから日本社会まで支配しつつある」と指摘。「非常時に政権批判を自粛すべきだという理屈を認めれば、あらゆる非常時に批判できなくなる。結果的に翼賛体制の構築に寄与することになる」と警鐘を鳴らしている。

九日は中心メンバーの七人が会見。慶応大の小林節名誉教授(憲法学)は「今回の事件で安倍晋三首相を批判するとヒステリックな反応が出る。病的で心配している」と語った。元経済産業官僚の古賀茂明さんは「自粛が広がると、国民に正しい情報が行き渡らなくなる。その先は、選挙による独裁政権の誕生になる」と危機感をあらわにした。

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このような現在の日本のジャーナリズムの現状を見ると、明治の新聞記者であった陸羯南や正岡子規のジャーナリストとしての気概を改めて感じます。

今回は明治27年4月29日に子規が編集主任を務めていた新聞『小日本』が第一面に掲載された「政府党の常語」という記事を紹介します。

この記事は「感情といふ熟語が近頃外政上如何にに政府党の慣用せらるゝを見よ、」という文章で始まる「第1 感情」、「第2 譲歩」、「第3 文明」、「第4 秘密」の4節からなっています。

ことに「藩閥政府」の問題点を鋭く衝いた「第4 秘密」は、原発事故のその後の状況や、国民の健康や生命に深く関わるTPPの問題など多くが隠されている現代の「政府党の常語」を批判していると思えるほどの新鮮さと大胆さを持っているように思えます。その全文を一部を太字で引用しておきます。

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「秘密秘密何でも秘密、殊には『外交秘密』とやらが当局無二の好物なり、如何にも外交政策に於ては時に秘密を要せざるに非ず、去れどそは攻守同盟とか、和戦談判とかいふ場合に於て必要のみ、普通一般の通商条約、其条約の改正などに何の秘密かこれあらん、斯かる条項は成るべく予め国民一般に知らしめて世論の在る所を傾聴し、国家に民人に及ぼす利害得喪を深察するこそ当然なれ、去るに是れをも外交秘密てふ言葉の裏に推込(おしこ)めて国民の耳目に触れしめず、斯かる手段こそ当局の尊崇する文明の本国欧米にては専制的野蛮政策とは申すなれ、去れど此一事だけは終始(しじう)一貫して中々厳重に把持せらるゝ当局の心中きたなし卑し。

(2015年12月14日。図版とリンク先を追加)

 

新聞記者・正岡子規関連の記事一覧(追加版)

自著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の紹介文を転載

正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(に)くき者」

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の目次を「著書・共著」に掲載

新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

「東京新聞」の「平和の俳句」と子規の『小日本』

ピケティ氏の『21世紀の資本』と正岡子規の貧富論

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規

年表6、正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題

 

 

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

昨日の朝のニュースで安倍首相が施政方針で岩倉具視に言及した演説を聞いた時には思わず耳を疑い、次いでその内容に戦慄を覚えました。

ただ、どの新聞もあまりそのことには触れていなかったので、空耳かとも思ったのですが、よく読むとやはり語られていました。たとえば、「施政方針演説 安保、憲法語らぬ不実」と題した社説で「東京新聞」は、首相が「幕末の思想家吉田松陰、明治日本の礎を築いた岩倉具視、明治の美術指導者岡倉天心、戦後再建に尽くした吉田茂元首相」の四人の言葉を引用したことを伝えています。

そして、憲法についても「『改正に向けた国民的な議論を深めていこう』と呼び掛けてはいるが、具体的にどんな改正を何のために目指すのか、演説からは見えてこない。…中略…首相演説では全く触れず、成立を強行した特定秘密保護法の前例もある。語るべきを語らぬは不誠実である」と結んでいます。

少し長くなりますが、「時事ドットコム」により私が戦慄を覚えた箇所を全文引用した後で、司馬作品の研究者の視点から憲法との関連で首相演説の問題点を指摘するようにします。

*   *

【1・戦後以来の大改革】

「日本を取り戻す」/ そのためには、「この道しかない」/ こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。/ 先般の総選挙の結果、衆参両院の指名を得て、引き続き、首相の重責を担うこととなりました。/  「安定した政治の下で、この道を、さらに力強く、前進せよ」 / これが総選挙で示された国民の意思であります。/ 全身全霊を傾け、その負託に応えていくことを、この議場にいる自由民主党および公明党の連立与党の諸君と共に、国民の皆さまにお約束いたします。  経済再生、復興、社会保障改革、教育再生、地方創生、女性活躍、そして外交・安全保障の立て直し。/ いずれも困難な道のり。「戦後以来の大改革」であります。しかし、私たちは、日本の将来をしっかりと見定めながら、ひるむことなく、改革を進めなければならない。逃れることはできません。 /

明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。 /  「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない」 /  明治の日本人にできて、今の日本人にできない訳はありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。

*   *

しかし、安倍首相は『世に棲む日日』や『竜馬がゆく』などの司馬作品の愛読者だと語っていましたが、その安倍氏が「改革」の方向性を示す人物として挙げた岩倉具視について司馬氏は、『翔ぶが如く』の第2巻でこう描いています。

「岩倉は明治四年に特命全権大使として大久保や木戸たちとともに欧州を見てまわったのだが、この人物だけは欧州文明に接してもなんの衝撃もうけなかった。(中略

かれの欧州ゆきの目的のひとつはヨーロッパの強国を実地にみてそれを日本国の建設の参考にしようというところにあったはずだが、ところがどの国をみても岩倉というこの権謀家は感想らしい感想をもたなかった。北欧の小国をみて日本の今後のゆき方についての思考材料にしてもよさそうであったが、しかしべつに何事もおもわなかった。岩倉には物を考えるための基礎がなかった。かれは日本についての明快な国家観ももっておらず、世界史の知識ももたなかった。」

その後で司馬氏はこう続けているのです

「岩倉がかろうじて持っている思想は、/ 『日本の皇室をゆるぎなきものにする』/ いうだけのもので、極端にいえば岩倉には国家というものも国民もその実感としてはとらえられがたいものになっていた。おおかたの公卿がそうであろう。」

そのような岩倉の理念を受け継いだ人物として司馬氏が注意を促したのが、長州出身の山県有朋なのです。

少し長くなりますが、安倍首相の憲法観を考える上でも重要だと思えますので、その核心部分を引用しておきます。

*   *

「『国家を護らねばならない』

と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した。(中略)

大久保の死から数年あとに山県が内務卿(のち内務大臣)になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。(中略)

『民党(自由民権党)が腕力をふるって来れば殺してもやむをえない』

とまでかれは言うようになり、明治二十年、当時内務大臣だったかれは、すべての反政府的言論や集会に対して自在にこれを禁止しうる権限をもった。(中略)

天皇の権威的装飾が一変するのは、明治二十九年(一八九六年)五月、侯爵山県有朋がロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式(たいかんしき)に日本代表として参列してからである。(中略)

山県は帰国後、天皇をロシア皇帝のごとく荘厳すべく画期的な改造を加えている。歴史からみれば愚かな男であったとしかおもえない。ニコライ二世はロシア革命で殺される帝であり、この帝の戴冠式のときにはロシア帝室はロシア的現実から浮きあがってしまっていた時期なのである。」

その後で、温厚な司馬氏には珍しく火を吐くように激しい文章を叩きつけるように記しています

「日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツァーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。」

重厚で深みのある司馬氏の文章とは思えないような記述ですが、それは学徒出陣でほとんど生還することが難しいとされた満州の戦車隊に配属されたことで「昭和別国」の現実を直視することになったためでしょう。

*   *

「日本を取り戻す」  そのためには、「この道しかない」  こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。

と施政方針演説で語った安倍氏は、次のように続けていました。

「安定した政治の下で、この道を、さらに力強く、前進せよ」  これが総選挙で示された国民の意思であります。

*   *

安倍政権がこの2年間、国民の声を無視して原発の推進や沖縄の基地建設を強行してきたことを考慮するならば、戦前のスローガンを思わせるような響きを持つ「日本を取り戻す」という安倍氏の言葉は、民主主義を打倒して「貴族政治を取り戻す」ことを意味しているのではないかという危惧の念さえ浮かんできます。

 

「東京新聞」の「平和の俳句」と子規の『小日本』

 

昨年はさいたまの70代の方の〈梅雨空に「九条守れ」の女性デモ〉という俳句を、さいたま市の公民館が月報への掲載を拒否するという事件が起きました。

その後も原発の推進や辺野古の基地問題では、周辺住民や沖縄などの「国民」の声を無視する「安倍政権」による言論への締め付けは強まっているように見えます。政権によるNHKや報道機関への厳しい締め付けからは、明治初期の「藩閥独裁政権」による「新聞紙条例」や「讒謗律」さえも連想されます。

明治初期や昭和初期の日本ではこのような強権的な「権力」に対して、きちんと異議を唱えなかったために、次第に発言することが難しくなり戦争へと突入することになりました。

*    *

注目したいのは、「東京新聞」が俳壇の長老・金子兜太氏と作家のいとうせいこう氏の2人が選考する「平和の俳句」を今年の1月から毎日掲載していることです。

今日も1面だけでなく13面の全頁に特集記事が載っていました。最近の句もネットでもみることができますので転載しておきます。

*私も知らぬ戦争を我が子にさせられぬ(2月11日)

*しわしわの手からもみじの手へ九条(2月10日)

*歌いましょう war is over レノン忌に(2月8日)

* 平和とは地球を走るランナーだ(2月7日)

* 九条で夏の球児の輝けり(2月6日)

*    *

私にとって興味深いのは、陸羯南の主宰する新聞『日本』が「政府のたび重なる発行停止処分」にあったために、その「別働隊として」発刊された新聞『小日本』の編集主任を任された正岡子規が、その創刊号で「小説を寄稿する者は選択の上相当の報酬を以て之を申受くへし」、「和歌俳句を寄稿する者は選択の上之を誌上に掲くへし」として文学の振興をはかろうとしていたことです。

ことに俳句募集では毎回「題」と期限を設定し、「寄稿は一人に付五句を超ゆへからず」、「懸賞俳句は選抜の上首位より三人の者に一ヶ月間無料にて本紙を呈すへし」とした新企画も発表していました。ここからは自分が「平民的な文学」と考えていた俳句を広めようとした子規の強い意志が感じられます。

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

*    *

「東京新聞」の「平和の俳句」が続くことを願っています。

ピケティ氏の『21世紀の資本』と正岡子規の貧富論

 フランスの経済学者トマ・ピケティ氏の世界的なベストセラー『21世紀の資本』が日本でもたいへん話題になっています。

解説の記事などを読むと経済が成長すれば低所得者にも恩恵が波及するとの考えに懐疑的な見方を示し、安倍政権の「アベノミクス」とは一線を画しているとのことです。

ピケティ氏の強みは、この問題をたくさんの資料を読み込むことによって説得力を持つ形で、「トリクルダウン(trickle-down)」理論を批判し得ていることでしょう。

*   *

「トリクルダウン(trickle-down)」理論の問題点はよく知られており、ドストエフスキーも長編小説『罪と罰』で悪徳弁護士ルージンの説く「アベノミクス」と似た経済理論を厳しく批判していました。

リンク→「アベノミクス」とルージンの経済理論

興味深いのは、正岡子規が編集主任を務めた新聞『小日本』が、明治27年3月29日に、「貧と富」と題する論説記事を載せて金持ちの横暴を厳しく批判するとともに、格差の問題点を指摘して「極富の人に救済の義務」を説いていたことです。その一部をここに再掲します。

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

* 「貧と富」 *

「貧富人生免れ難しと雖(いへど)も貧者益々貧にして富者益々富まは其極や奈何(いかん)、

文明の風吹き荒(すさ)みてより見よや此間(このあひだ)に一大溝渠(こうきょ)の作られもて行けるを、

駿台(しゆんだい)の紳士は犬を養ふに一月(ひとつき)数百万を費やす、煉瓦の室是れ犬の居る処、牛豚の肉是れ犬の食(くら)ふ処一転して万年町(ばんねんちやう)の光景に見れば犬にはあらぬ人間が居(を)る処は風雨を凌ぐには足らず食(くら)ふ処は腹を満たすにも足らず、父は病に臥して薬の供すべきなく児は饑(うゑ)に泣きて与ふるに物なし、(中略)

同しく生れて人間となる、一(ひとつ)は此(かく)の如く一は彼(かれ)の如し、極貧(きょくひん)の人に受済の権利なきも極富の人に救済の義務なき乎、窮鼠は猫を噛む、窮民益々多くして其極や如何、

今の肉食(にくじき)者は之を思はずや、

社界党は党中の尤も恐るべきものなり、」

 

小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

アメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、2015年01月22日に、核戦争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」が、「残り3分」になったと発表しました。

私自身が文学を研究する道を選んだ大きな動機は、「人類滅亡の悪夢」が描かれている『罪と罰』などをとおして戦争の危険性を訴えるためだったので、「終末時計」がアメリカに続いてソ連も原爆実験に成功した1949年と同じ「残り3分」になったことに強い衝撃を受けています。

それゆえ、「ウィキペディア」などを参考に「核兵器・原発事故と終末時計」の年表を作成しましたので、年表Ⅶとして年表のページに掲載します。

リンク→年表Ⅶ、核兵器・原発事故と終末時計

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(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

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日本における反原爆の運動と原発事故の問題については、前著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で考察しました。

しかし、1965年に行われた数学者の岡潔氏との対談「人間の建設」についての言及が抜けていたのでそれを補いながら、小林秀雄の「原子力エネルギー観」と歴史観との関連について簡単に記しておきます。

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1947年に創設された終末時計は東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として、当初は「残り7分」に設定されましたが、文芸評論家の小林秀雄のすばらしい点はその翌年8月に行われた湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で、「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら批判していたことです。

しかし、年表をご覧頂ければ分かるように、日本を取り巻く核廃絶の環境はその頃から急速に悪化していき、そのような流れに沿うかのように小林秀雄の原子力エネルギーの危険性に対する指摘は陰を潜めてしまうのです。

リンク→http://zero21.blog65.fc2.com/blog-entry-130.html(湯川秀樹博士の原子力委員長就任と辞任のいきさつ)

たとえば、米ソで競うように水爆実権が繰り返されるようになる1953年から1960年までは最悪の「残り2分」となり、1962年の「キューバ危機」では核戦争が勃発する寸前にまで至りました。それを乗り越えたことにより「終末時計」は「残り12分」に戻ったものの、相変わらず「残り時間」がわずかとされていた1965年に小林秀雄は数学者の岡潔と対談しています。

ことにこの対談で哲学者ベルグソン(1859~1941)にも言及しながら物理学者としてのアインシュタイン(1879~1955)と数学者との考え方の違いについて尋ねた箇所は、この対談の山場の一つともなっています。

しかし、「(アインシュタインが――引用者注)ベルグソンの議論に対して、どうしてああ冷淡だったか、おれには哲学者の時間はわからぬと、彼が答えているのはそれだけですよ」という発言に現れているように、小林の関心は両者の関係に集中しているのです(『人間の建設』新潮文庫、60頁)。

小林秀雄はさらに、「アインシュタインはすでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか」とも尋ねています(太字は引用者、68頁)。

しかし、日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識したアインシュタインは、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指し、それは彼が亡くなった1955年に「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していたのです。

リンク→ラッセル・アインシュタイン宣言-日本パグウォッシュ会議

湯川博士との対談では「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の危険性を小林が鋭く指摘していたことを思い起こすならば、ここでもアインシュタインの「道義心」を高く評価すべきだったと思えるのですが、そのような彼の活動の意義はまったく無視されているのです。

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その理由の一端は、「歴史の一回性」を強調し、科学としての歴史的方法を否定した1939年の「歴史について」と題する『ドストエフスキイの生活』の次のような序で明らかでしょう。

「歴史は決して繰返しはしない。たゞどうにかして歴史から科学を作り上げようとする人間の一種の欲望が、歴史が繰返して呉れたらどんなに好都合だらうかと望むに過ぎぬ。そして望むところを得たと信ずるのは人間の常である」〔五・一七〕。

さらに、評論家の河上徹太郎と1979年に行った「歴史について」と題された対談でも、「煮詰めると歴史問題はどうなります? エモーション(感情、感動、編集部注)の問題になるだろう」と河上に語りかけた小林は、「なんだい、エモーションって……」と問われると、「歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない、という大変むつかしい真理さ」と説明しているのです。

たしかに、「エモーション」を強調することで「歴史の一回性」に注意を促すことは、一回限りの「人生の厳粛さ」は感じられます。しかし、そこには親から子へ子から孫へと伝承される「思想」についての認識や、法律制度や教育制度などのシステムについての認識が欠けていると思われます。

「歴史の一回性」を強調した歴史認識では、同じような悲劇が繰り返されてしまうことになると思われますし、私たちが小林秀雄の歴史観を問題にしなければならないのも、まさにその点にあるのです*

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そのような問題意識を抱えながらベトナム戦争の時期に青春を過ごしていた私は、伝承される「思想」や法律制度や教育制度などのシステムについての分析もきちんと行うためには、「文学作品」の解釈だけではなく、「文明学」の方法をも取り入れてドストエフスキー作品の研究を行いたいと考えたのでした。

それから半世紀以上も過ぎた現在、人類が同じような問題に直面していることに愕然としますが、学生の頃よりは少しは知識も増え、伝達手段も多くなっていますので、この危機を次世代に引き継がせないように全力を尽くしたいと思います。

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注 *1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

重大な問題は、戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたことである。

この言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示したのである。(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2015年6月4日、注を追加。6月11日、写真を追加)

 

ジャーナリスト・後藤健二氏殺害の報に接して

 

「戦争の悲惨さ」を伝えようとしていた勇気あるフリージャーナリスト・後藤健二さん殺害の報道に接し、強い怒りと深い哀しみを感じています。

この場を借りて、ご遺族と関係者の方々に謹んで哀悼の意を表します。

 

追記:

本日の「東京新聞」夕刊に大きな写真とともに後藤氏の活動が伝えられていましたので、デジタル版からその記事と写真を転載します。

「無二の命、人権 言動で伝え続け 後藤さん、全国で講演」

無題

玉川聖学院の中学3年生に特別授業をする後藤健二さん=2012年5月、東京都世田谷区で(同校提供)

「小さな心と身体(からだ)に、背負いきれないほどの大きな重荷を背負わせてしまう-それが『戦争』」。後藤健二さんは、紛争地域の取材を続け、命や子どもたちの人権の大切さを訴えるメッセージを送ってきた。その言葉は、各地で後藤さんと接してきた人たちの心に深く刻み込まれている。

後藤さんは「日本の子どもたちも世界の子どもたちも、平等で同じ権利を持っています」などとツイッターやブログに記し、全国で講演活動を行ってきた。

千葉県袖ケ浦市の公民館で二〇一一年九月に開かれた市民講座を担当した簑島正広・同市立中央図書館長(58)は、後藤さんの言葉をよく覚えている。

「世界で一番大切なものは人権です」。後藤さんは、紛争地域で人権が守られず苦しむ人たちがいることを力説した。簑島さんは「宗教や文化、言葉、歴史などを十分理解して付き合っていくことが大事とも話されていた」と振り返った。

大正大(東京都豊島区)では、後藤さんが一〇年から四回の講義を行い、「子どもの権利をどう守るかを考えていかなくてはいけない」と語った。

同大人間学部の落合崇志(たかゆき)教授(58)は「いつの時代、どの国でも紛争や貧困の犠牲になるのは子どもたちということを学生たちに知ってほしいという思いが伝わってきた」と話した。

長崎市の児童養護施設「明星園」では、後藤さんが一〇年秋に宿泊し、子どもたちと交流した。

奥貫賢治園長(66)は「『厳しい環境にいる世界の子どもたちのことを知ってもらいたい』と話した後藤さんの言葉が印象に残っている。その言葉を受け継ぎ、世界の紛争や貧困の問題を考えていきたい」という。

ミッション系の女子中高一貫校、玉川聖学院(世田谷区)では〇五年から毎年五月、中学三年生に平和に関する特別授業を行ってきた。

同校は二日、ホームページでこう記した。「後藤さんが私たちに伝えてくださったメッセージは、どんなに悲惨な現実があったとしても、怒りや憎悪を膨らませるのではなく、事実を事実として見極めることであり、その中から自分の置かれた場で、平和への道筋を探り出す努力をすることの大切さでした。今、あらためてその意味を問い直したいと思います」

追記2:

自民党の高村正彦副総裁は4日午前、フリージャーナリスト後藤健二さんの行動について「勇気ではなく、蛮勇と言わざるを得ない」と記者団に語ったとのことですが、「東京新聞」は2月8日朝刊で、「世界食糧計画」のカズン事務局長が「ケンジは飢餓との闘いにおける盟友だった」と讃えたことを伝える記事を掲載しています。

「積極的平和主義」を掲げる日本政府としては、「イスラム国」と称する国がなぜイラク戦争後に生まれたのかや、「勇気の必要が無い」無人攻撃機による「誤爆や巻き添えによる民間人の犠牲者」の問題も検証すべきでしょう。

「謹んで深い哀悼の意を表します」より改題(2月8日)