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07月

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

はじめに

7月24日と25日の2日間にわたって行われた国会の閉会中審査でも安倍政権と閣僚、そして官僚たちが「記憶ない」と連発し、明らかに嘘と思われる答弁を繰り返したことにより、加計学園問題の闇はいっそう深くなったように思われる。

前回は安倍政権と閣僚たちが平然と嘘をつけるのは、「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎からの依頼に応えて1961年以降、国民文化研究会で講演を行うようになる小林秀雄が、その前年の1960年に書いた「ヒットラーと悪魔」にあるのではないかという仮説を示した。

「評論の神様」とも評される小林秀雄の批判としては大胆すぎる仮説のようにも思われるかもしれない。しかし、作家の坂口安吾は戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を、「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判し、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘した自分の小林秀雄論を「教祖の文学」と名付けていた(『坂口安吾全集』第五巻、筑摩書房、1998年、320~328頁)。

坂口安吾のこの指摘に留意しながら、雑誌『改造』の懸賞評論二席に入選した小林秀雄の1929年の「様々な意匠」を読み直すとき、小林秀雄の評論の問題点は上海事変が勃発して満州国が成立した1932年に書かれた「現代文学の不安」だけでなく、すでにデビュー作にも見られるように思われる。

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)

「様々な意匠」と隠された「意匠」

*   *   *

日本における原発の問題を広告という視点から詳しく考察した『原発プロパガンダ』(岩波新書)で本間龍氏は「宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収めうるかということを、人々は戦争の間にはじめて理解した」というヒトラーの言葉を引用している。

注目したいのは、「ヒットラーと悪魔」において、「死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ」とヒトラーを評価した小林秀雄が、彼の言葉を紹介する形で「プロパガンダ」の効用をこう説いていたことである(太字は引用者)。

「大衆が、信じられぬほどの健忘症である事も忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の眼を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。これには忍耐が要るが、大衆は、政治家が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに、敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる」(115~116頁)。

そして、小林秀雄は次のように続けているが、その一連の記述は国会の論戦において安倍首相や「日本会議」に支えられた閣僚たちの論争術を連想させる。

「彼等(引用者註――知識階級)は論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ」(116頁)。

そして、「専門的政治家達は、準備時代のヒットラーを、無智なプロパガンディストと見なして、高を括っていた。言ってみれば、彼等に無智と映ったものこそ、実はヒットラーの確信そのものであった。少くとも彼等は、プロパガンダのヒットラー的な意味を間違えていた」と書いた小林は、ヒトラーにおける「プロパガンダ」と「言葉」の関係をこう規定していた。

「彼はプロパガンダを、単に政治の一手法と解したのではなかった。彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、凡そ言葉というものを信用しなかった。これは殆ど信じ難い事だが、私はそう信じている」(118頁)。

小林のこの言葉を読んだときに思い浮かべたのが、『テスト氏』の邦訳において主人公の「善」と「悪」の意識に関わる重要な箇所を小林秀雄が著者の言葉を正確に伝えようとはせずに、意図的に誤訳したと指摘していた寺田透の記述であった。

すなわち、「こういう、より情緒的、より人間臭く、そして、じかに生理にはたらきかけてくる表現の方向をとる小林さんの傾向は『テスト氏』の翻訳の中にも頻繁」に見出されると指摘した寺田は、「『善と縁を切る』といった訳語でなければならない」「s’abstraire de」という原文を、「『善に没頭する事はひどく拙い』と小林さんのように訳しては、話が反対になってしまいはしないでしょうか。/小林さんはこういった間違いを不注意でやったのではないと僕は感じるのです」と記して、こう続けている

「善を断つにはひどい苦渋を伴うが、悪を断つことは楽々とできるテスト氏の性分を暗示した対句ととらなければなりませんでしょう。/あとのほうを小林さんは『悪には手際よく専念している……』と訳していますが、こうなると、ある人間解釈にもとづく、積極的な誤訳としかいいようがありません」(寺田透「その頃のヴァレリー受容――小林秀雄氏の死去の折にⅢ」『私本ヴァレリー』、筑摩叢書、1987年、58~63頁)。

少し長い引用となったが、この指摘はドストエフスキーの作品の意味を正確に読み取るのではなく、不安な時代に合わせてセンセーショナルな解釈をすることで読者を獲得しようとしていた小林秀雄のドストエフスキー論の本質をも鋭く突いていると思われる。そのことについては稿を改めて考察したい。

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(2017年8月6日、リンク先を追加)

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

明治憲法、「ウィキペディア」

(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)

1889(明治22)1月、夏目金之助(漱石)、落語を介して正岡常規(子規)と交遊を始める。2月11日、大日本帝国憲法発布陸羯南の新聞『日本』が発刊。当日の朝、国粋主義者に脇腹を刺された文部大臣森有礼が翌日死亡。5月、子規『七草集』脱稿。5月9日、夜喀血、時鳥の句を作り「子規」と号す。漱石、『七草集』を漢文で批評し七言絶句九編を添えて「漱石」の号を用いる。9月に房総の紀行漢詩文『木屑録』(ぼくせつろく)を書き子規に批評を求める。

1890(明治23) 2月1日、徳富蘇峰の『国民新聞』が創刊(総合雑誌『国民之友』は1887年2月~1898年8月)。漱石・子規、9月、東京帝国大学文科大学に入学。10月、「教育勅語」渙発

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

1891(明治24) 1月、「教育勅語」に対する「不敬事件」。子規、2月、 国文科に転科。5月、皇太子ニコライが大津で襲撃される。6月、木曽路を経て松山へ帰省。試験放棄。寄宿舎追放事件後、12月に駒込追分町へ転居。小説「月の都」の執筆に着手。冬、「俳句分類丙号」に着手。12月、漱石、『方丈記』を英訳する。

1892(明治25) 漱石、5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。子規、「かけはしの記」を5月から、6月からは「獺祭書屋俳話」を『日本』に連載。7月 帰省、漱石も松山を旅行。12月、子規が日本新聞社入社。【3月、徳富蘇峰が本郷教会会堂で「吉田松陰」を講演し、『国民之友』に10回連載(5月~9月)。5月、北村透谷、評論「トルストイ伯」、11月、内田魯庵訳『罪と罰』(巻之一)】。

1893(明治26) 子規、2月、俳句欄を『日本』に設ける。7月19日~8月20日 東北旅行。俳諧宗匠を歴訪する。11月「芭蕉雑談」、「はてしらずの記」を『日本』に連載。【1月、北村透谷、評論「『罪と罰』の殺人罪」。『文学界』創刊(~1898年1月)。2月、透谷、雑誌『文学界』の第2号に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表し、雑誌『国民之友』に発表された山路愛山の史論「頼襄を論ず」を厳しく批判。内田魯庵訳『罪と罰』(巻之二)。4月、井上哲次郎『教育ト宗教ノ衝突』発行。5月、透谷「井上博士と基督教徒」(雑誌『平和』)。12月、蘇峰『吉田松陰』発行。】

1894(明治27) 子規、2月、羯南宅東隣へ転居。2月11日『小日本』創刊、編集責任者となり、小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。

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(図版は大空社のHPより、『小日本』全2巻・別巻、大空社、1994年〉

5月、北村透谷の追悼文が『小日本』に掲載される。内田魯庵の「損辱」(『虐げられた人々』)の訳が『国民之友』に連載される(5月~1895年6月)、7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。日清戦争(7月29日~1895年4月)

1895(明治28) 漱石、横浜の英語新聞「ジャパン・メール」の記者を志願したが、不採用に終わる。4月、高等師範学校を退職し、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任。子規、4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。10月、帰京、「俳諧大要」を『日本』に連載。

1896(明治29)1月3日、子規庵で句会。鴎外・漱石が同席。「従軍記事」の連載。3月、カリエスの手術を受ける。4月、「松蘿玉液」(~12月)。漱石、4月、熊本県の第五高等学校講師となる。

1897(明治30)島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談。

1898(明治31) 子規、2月、「歌よみに与ふる書」を連載(~3月)。10月、発行所を東京に移し、『ホトトギス』第一号発刊。

1899(明治32) 子規、1月 『俳諧大要』刊。漱石、4月、エッセー「英国の文人と新聞雑誌」(『ホトトギス』)。10月、「飯待つ間」(『ホトトギス』)。

猫の写生(「猫の写生画」、図版は青空文庫より)

1900(明治33)子規、8月、大量喀血。8月26日、漱石、寺田寅彦と来訪。9月、第1回「山会」(写生文の会)を開催。漱石、9月、イギリスに留学。

1901(明治34) 1月、「墨汁一滴」を『日本』に連載開始(~7月)、5月、漱石の「倫敦消息」が『ホトトギス』に掲載される。9月、「仰臥漫録」を書き始める。11月6日、子規が漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。

1902(明治35) 1月、日英同盟締結。5月、「病牀六尺」を『日本』に連載開始(~9月)。9月18日、絶筆糸瓜三句を詠み、翌日死亡。12月、漱石、帰国の途につく。

1903(明治36) 漱石、4月、第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。藤村操、投身自殺。幸徳秋水たちが『平民新聞』創刊。

1904(明治37) 木下尚江、「火の柱」を東京毎日新聞に連載(1月~3月)、日露戦争(2月8日~1905年9月5日)。4月、瀬沼夏葉「貧しき少女」(『貧しき人々』のワルワーラの手記の訳、『文芸倶楽部』)。8月、トルストイの「悔い改めよ」と題する非戦論が『平民新聞』に掲載される。

1905(明治38) 漱石、1月、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表(翌年8月まで断続連載。4月、内田魯庵訳の『復活』が新聞『日本』に掲載(~12月)。9月5日、ポーツマス条約の条件に不満をもつ群衆が国民新聞社を襲撃、10月、単行本『吾輩は猫である』上編。

1906(明治39)  1月、漱石が内田魯庵に『イワンの馬鹿』贈呈の礼状、「趣味の遺伝」(日露戦争時の突撃への厳しい批判の記述)。3月、島崎藤村『破戒』。4月、「坊つちやん」(『ホトトギス』)。5月、『漾虚集』。9月、「草枕」。10月、「二百十日」。11月、『吾輩は猫である』中編(子規の手紙を掲載)。

1907(明治40) 漱石、1月、「野分」を『ホトトギス』に発表。4月、朝日新聞社に入社。5月、『文学論』、『吾輩は猫である』下編。6月、「虞美人草」を朝日新聞に連載(~10月)。

1908(明治41) 漱石、1月「坑夫」(~4月)。4月、島崎藤村、「春」(~8月まで「東京朝日新聞」に連載)、7月、8月、「夢十夜」。9月「三四郎」(~12月)。10月、蘇峰、改訂版『吉田松陰』。

1909(明治42) 漱石『永日小品』(1月~3月)。3月『文学評論』(春陽堂)。『それから』(6月~10月)。10月、伊藤博文、ハルビンで暗殺される。『満韓ところどころ』(~12月)。11月25日「朝日文芸欄」を創設。

1910(明治43) 漱石『門』(3月~6月)。4月、雑誌『白樺』創刊。5月、大逆事件。6月~7月、胃潰瘍で入院。8月22日、日韓合併条約調印。8月24日、修善寺温泉での「大患」。11月、トルストイ死去。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

1914年(大正3年)  第一次世界大戦(~1918)。

1915年(大正4年)  芥川龍之介「羅生門」、漱石の木曜会に参加する。

1916年(大正5年)  12月、夏目漱石没。徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』

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本年表は夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとして7月22日に行われた「世界文学会」の第4回研究会での配布資料に加筆したものである。

例会発表の際には正岡子規や夏目漱石と池辺三山との関係や『それから』と「大逆事件」との関係には時間の都合で言及できなかったが、発表を踏まえて書いた論文〔夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較――「教育勅語」の渙発から大逆事件へ〕では言及した。

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ 

ユーチューブの動画

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

(2017年8月10日、記事を差し替えて図版を追加。9月8日、加筆)

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

1,PKO日報破棄隠蔽問題と稲田防衛相

稲田防衛相、フジテレビ(写真はフジテレビ系の映像より)

7月19日に新聞各紙はPKO日報問題について「二月に行われた防衛省最高幹部による緊急会議で、保管の事実を非公表とするとの方針を幹部から伝えられ」、稲田防衛相が「了承していた」ことが明らかになったと報道した(「東京新聞」を参照)。

これに対して稲田氏は21日に開いた記者会見で、自分は「一貫して公表すべきだとの姿勢だった」と繰り返し、非公表や隠蔽の指示は「私の姿勢とは真逆で相いれない」と強調した。

「省幹部が嘘をついているのか」と厳しく追及された稲田氏は「嘘をついたとは言っていない」と語ったが、陸上自衛隊幹部が漏らしたように「防衛相の関与まで報道された以上、監察の結果が出るだけでは騒動は収まらないだろう」(「日本経済新聞」デジタル版を参照)。しかも、umekichi氏はツイッターで先ほど次のように指摘している。

〔前にもツイートしたけど、見てる限りきちんと報道していない。PKO日報破棄隠蔽について。稲田防衛大臣「私の指示により、探させ日報を見つけた」 平気でをつく。探させたのは河野太郎議員率いる「行政改革推進本部」だからね。 手柄欲しさに姑息な事をやる。〕(7月23日)。

また、生命倫理の研究者・澤田愛子氏も「今安倍内閣で生じていること。どんな不正を働いても、重大な証拠があっても、見え透いた嘘で否定し続ければスルーしていくという事。明らかに嘘と分かる弁明でも強弁し続ければそれで通っていくとしたら恐ろしい前例になる。今後不祥事で辞任などする閣僚はいなくなるということだ。恐ろしすぎる」とツイートしている(7月21日)。

このブログでは「復古」的な価値観を賛美する稲田朋美防衛相の憲法観と「教育勅語」観や戦争観の危険性をいくつかの論考で指摘してきたので、次節で小林秀雄がヒトラーの「平和」観をどのように描いていたかを分析する前に、以下にリンク先を再掲しておく。

稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(増補版)

稲田朋美・防衛相の教育観と戦争観――『古事記と日本国の世界的使命』を読む(増補改訂版) 

2,「ヒットラーと悪魔」における「大きな嘘」をつく才能の賛美

戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏は、安倍政権の閣僚や取り巻きの嘘について7月21日のツイッターでこう記している。〔「安倍首相やその取り巻きは、なぜあんなに平気でウソばかりつくんでしょう」とよく聞かれるが、私の認識は「主観が肥大した世界に生きている」からというもの。不都合な事実を主観で操作しているだけで、ウソをついているという罪悪感はたぶん無い。〕

鋭い分析で彼らには「ウソをついているという罪悪感はたぶん無い」との指摘は正鵠を射ていると思うが、彼らは「不都合な事実を主観で操作している」だけではなく、むしろ小林秀雄のように「大きな嘘」をつくことを「政治の技術」と捉えている可能性が大きいと思える。

「ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた」と書いた小林は、こう続けていたのである。

「彼(引用者註――ヒトラー)は世界観を美辞と言わずに、大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥かしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。大政治家の狙いは其処にある。」

問題は小林秀雄が、この随筆を書いた翌年の1961年から「国民文化研究会」の主宰者で、「日本を守る会」や「日本会議」などで代表委員を務め、「日青協」のメンバーから「先生」と深く尊敬されるようになる小田村寅二郎から「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会に招かれて、1978年までに5回もの講演と学生との対話を行っていたことである(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年)。

しかも、「信ずることと考えること」と題して行われた1974年の講演会の後の学生との対話で、小林は「歴史は流行って」いるが「大衆小説的歴史観」とともに「考古学的歴史観もよくない」として、次のように語っていた。「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」(太字は引用者、127頁)。

三笠宮は1958年に神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」と書いていた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。

そのことを思い起こすならば、「嘘だっていいじゃないか」という小林の言葉は、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとした考古学者や歴史学者の見解を真っ向から否定するものだったと言えるだろう。

しかも、すでにみたように小林秀雄はヒトラーの政治手法について、「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺るがなかった彼の政治闘争の綱領である」と書いていた(『考えるヒント』文春文庫、新装版、111頁)。

そして、『神社新報』編集長の西田廣義も「日青協」の機関誌『祖国と青年』(1976年7月)で、「例えばヒトラーですが、政権奪取の運動をしている時は、現憲法擁護だと言って、運動を展開していた。そして政権をとった後、憲法を変えたり、体制変革したりした」と小林秀雄と同じように語っていた(『ドキュメント 日本会議』58頁)。

こうして、ヒトラーの「大きな嘘」を「感傷性の全くない政治の技術」と賛美していた小林秀雄の考えは、「日青協」のメンバーだけでなく、憲法改正論に関してナチス政権の「手口」を学んだらどうかと発言した麻生副総理や1994年に『ヒトラー選挙戦略 現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていた高市早苗・総務相だけでなく、稲田防衛相にも強い影響を与えていたように思える。

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

大きな問題は日本におけるヒトラー的な手法の賛美が政治家に留ってはいないことにある。7月12日の午後に生放送された情報番組「ごごナマ」には実業家の堀江貴文氏がナチスの独裁者ヒトラーに似た人物が描かれたTシャツを着用して出演した。

このことを批判された本人は、「ヒトラーがピースマークでNO WAR叫んでるTシャツ何回も着てたけど初めて炎上してる。どっからどう見ても平和を祈念しているメッセージTシャツにしか見えない」と書き、「シャレわかんねー奴多い」とツイッターで反論したばかりでなく、「No Warの文字が入っていた」ので問題はないとする応援のツイッターもあることに驚かされた。

なぜならば、小林秀雄が「ヒットラーと悪魔」で明確に指摘していたように、ヒトラーは「自分の望むものは正義と平和だ」と声明だけでなく演説でも絶叫したが、彼は「戦争を覚悟して首相になった」のであり、「外交も文字通り芝居だった」のである(117~118頁)。

堀江氏の記述は彼の歴史認識の浅さを物語っているだけで反論にもなりえていない。番組の司会をしたアナウンサーは「不快な思いを抱かれた方にはおわび申し上げます」と謝罪したとのことが、すでにツイッターなどで指摘されているように、堀江氏のような歴史観を持つ人物をゲストに招いたNHKだけでなく、大阪万博誘致担当の特別顧問に任命した大阪府の見識は厳しく批判されるべきだろう。

だが、それ以上に「大きな嘘」をつくことを「政治の技術」と捉えてそれができるものを「大政治家」と記していた「評論の神様」小林秀雄の歴史観や文学観は、より厳しく批判されるべきだと思える。

1899年のハーグ万国平和会議から2017年の核兵器禁止条約へ

核兵器禁止条約

©共同通信社、「拍手にこたえる被爆者・サーロー節子さん」

記載がたいへん遅くなりましたが、広島・長崎への原爆投下から72年目にあたる今年の7月7日に日本の被爆経験を踏まえて条約の前文には「ヒバクシャ」が明記された核兵器禁止条約がようやく国連本部で採択されました。

また、ドストエフスキー作品の愛読者でもあった物理学者のアインシュタインは、アメリカの大統領にナチス・ドイツが核兵器の開発をしていることを示唆した自分の手紙が核兵器の開発と日本へ投下につながったことから、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続け、それが1955年には戦争の廃絶を目指した「ラッセル・アインシュタイン宣言」や「パグウォッシュ会議」開催に繋がりました。

米ソの両大国の対立と冷戦という時代状況にも阻まれて核兵器の廃絶の動きはなかなか進まず、ようやく1957年の「パグウォッシュ会議」開催からようやく60年目にしての実現したことになります。

このホームページでもささやかながら黒澤明監督や本多猪四郎監督の映画や発言の考察をとおして、核エネルギーの危険性を明らかにし、核兵器や原発の廃止を訴えてきましたので、感慨深いものがあります。

国民の安全と経済の活性化のために脱原発を

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しかし、アメリカやロシア、フランスなどの核保有国が「核抑止力を必要とする世界の安全保障の現実を踏まえていない」などとして反発したばかりでなく、「アメリカの核の傘」で守られていると主張する安倍政権もこの条約には「署名しない」ことを明言しました。

カナダ在住の被爆者・サーロー節子さん(85)が「唯一の被爆国として反核運動の先頭に立つと言いながら、実際は何もやっていない」と厳しく批判したように、安倍晋三政権の「積極的平和主義」とは、被爆国でありながら原水爆の危険性を隠蔽してきた岸信介政権以降の核政策を受け継いだものだったのです。残念ながら今もこのような「核の傘」の論理に惑わされている日本人が多いように見えます。

しかし、南太平洋での核実験に対する国民の反発の高まりを受けて、「日本国憲法第九条」を参考にして1987年6月に「非核法」を制定していたニュージーランドのジェフリー・パーマー元首相はインタビューに答えて、核による抑止論については、核兵器が再び使われれば壊滅的な結果をもたらすことから「深刻な欠陥がある」と指摘し、「すべての国は、核兵器の使用がもたらす破滅を知る必要がある」とし、この条約の意義を強調しています(「東京新聞」)。

Enforcement_of_new_Constitution_stamp(←画像をクリックで拡大できます)

実際、1947年にはアメリカの『原子力科学者会報』が、核戦争などによる人類の滅亡を午前零時になぞらえた冷戦下の「終末時刻を残り7分」と発表していましたが、冷戦が終結した2015年にはその時刻がテロや原発事故の危険性から1949年と同じ「残り三分」に戻ったと発表したのです。

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化学兵器が人道に反するとして1899年にハーグで開かれた万国平和会議において初めて国際規制が明文化され、第一次世界大戦後の1925年には悲惨な結果を踏まえて「ジュネーヴ議定書」が締結され、その規制は現在はるかに厳しくなっているのです。

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(ガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵。図版は「ウィキペディア」より)

原水爆が化学兵器よりもはるかに非人道的な被害をもたらすことを想起するならば、原水爆の使用だけでなく製造や保有、実験、移譲、そして核による威嚇なども全面禁止する今回の条約の正当性は明らかでしょう。

唯一の被爆国である日本は「核兵器使用による悲惨な結果を訴えるのに最も適した国。ぜひ発信を続けてほしい」と語っていたニュージーランド元首相などの熱い期待にそうためにも、日本人が戦前の日本の価値観の復活を目指している「日本会議」に牛耳られている現在の安倍政権を一刻も早くに退陣させて、世界から信頼される政権を打ち立てる必要があると思います。

年表8、『ゴジラの哀しみ』関連年表(「原水爆実験」と「原発事故」、それに関わる映画を中心に)

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

一、映画『十三階段への道』とアイヒマンの裁判

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載された「ヒットラーと悪魔」の冒頭で小林秀雄は、「『十三階段への道』(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た」と記し、実写映画という性質に注意を促しながら、「観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果たしたようである」と書いた。

実際、NHKの佐々木敏全による日本版「解説」によれば、この映画は「裁判の記録映画」であるばかりでなく、「各被告の陳述にあわせ一九三三年から四五年までの十二年間、ナチ・ドイツの侵攻、第二次世界大戦、そしてドイツを降伏に導いた恐ろしい背景を、その大部分が未公開の撮影および録音記録によって」描き出したドラマチック・ドキュメンタリーであった。

ニュールンベルグの戦犯 13階段への道 – CROSS OF IRON

一方、カメラの役目を強調して「御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない」と続けた小林は、「私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである」と続けていた。

「事実」をも「悪夢」に帰着させているかのように見えるこの文章を読みながら思い出したのは、小林秀雄が1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」において、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたことであった(髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』参照)。

注意を払いたいのは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画」を実行し、敗戦後にはブラジルに潜んでいたアイヒマンがこの映画が公開されたのと同じ年の5月に逮捕されたことが5月25日に発表され、翌年の1961年には裁判にかけられたことである。

アイヒマン裁判

(アイヒマン裁判、写真は「ウィキペディア」より)

映画『十三階段への道』を見ていた小林秀雄は、この裁判をどのように見ていたのだろうか。ちなみに、1962年8月には、アイヒマンの裁判についても言及されている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)が日本でも発行されたが、管見によれば、小林秀雄はこの著書に言及した書評や評論も書いていないように見える。「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

商品の詳細 (書影は「アマゾン」より)

二、「ヒットラーと悪魔」とその時代

改めて「ヒットラーと悪魔」を読み直して驚いたのは、おそらく不本意ながら敗戦後の文壇事情を考慮して省かざるを得なかったヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」が、ドストエフスキー論にも言及することで政治的な色彩を薄めながらも、『我が闘争』からの抜き書きともいえるような詳しさで紹介されていたことである(太字は引用者)。

最初はそのことに戸惑いを覚えたが、この文章が掲載されたこの当時の政治状況を年表で確認したときその理由が分かった。東条英機内閣で満州政策に深く関わり戦争犯罪にも問われた岸信介は、首相として復権すると1957年5月には国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していた。そして、1960年1月19日にはアメリカで新安全保障条約に調印したのである。この条約を承認するために国会が開かれた5月は、まさに激しい「政治の季節」だったのである。

この時期の重要性については黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督が、大ヒットした映画《ゴジラ》に次いで原水爆実験の危険性を描き出した1961年公開の映画《モスラ》で描いているので、本論からは少し離れるが確認しておきたい、(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年、45頁)。

すなわち、1960年の4月には全学連が警官隊と衝突するという事件がすでに起きていたが、5月19日に衆議院の特別委員会で新条約案が強行採決され、5月20日に衆議院本会議を通過すると一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになった。そして6月15日には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出す一方で、国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突してデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという悲劇に至っていた。

一方、このような激しい安保条約反対運動に対抗するかのように、すでに1958年には神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡を寄せ、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生していた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。なぜならば、戦前の価値の復活を求める右翼や論客は「紀元節奉祝建国祭大会」などの活動を強めていたのである。

三笠宮は編著『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)の「序文」で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と書いていた。

上丸洋一(図版はアマゾンより)

書評『我が闘争』の『全集』への収録の際には省いていたヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」をより詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」は、まさにこのような時期に書かれていたのである。

三、「感傷性の全くない政治の技術」と「強者への服従の必然性」

映画についての感想を記したあとで、20年前に書いた書評の概要を記した小林は、「ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う」とし、「彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている」ことを確認している。

しかし、その箇所で小林はヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」についても以下のように指摘していたが、それは現在の安倍政権の運営方法と極めて似ているのである。

「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。」

そして、「暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった」とした小林は、「だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った」と続けている。

さらに、ヒトラーの人生観を「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である」とした小林は、「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者にどうして屈従し味方しない筈があるか」と書いて、ヒトラーの「弱肉強食の理論」を効果的に紹介している。

さらに小林はヒトラーの言葉として「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう」と書き、「ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった」と続けている。

この表現はナチズムの危険性を鋭く指摘したフロムが『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)で指摘していた記述を思い起こさせる。この本がすでに1951年には邦訳されていたことを考慮するならば、小林がこの本を強く意識していた可能性は大きいと思える。

しかしその結論は正反対で、小林秀雄はヒトラーの独裁とナチズムが招いた悲劇にはまったく言及していないのである。

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「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、記述の一部を削除して主題を明確化し副題を変更。関連記事のリンク先を追加)

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

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はじめに

ドストエフスキー論もあるフランス文学者の寺田透は『文学界』に寄稿した1983年の「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、小林秀雄の「隠蔽という方法」を示唆していた。

すなわち、「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた」のである。

「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)

寺田透が指摘したこのような方法を用いた顕著な例がヒトラーを「天才」と称賛していた1940年の書評『我が闘争』の『全集』への収録の際の改竄だろう。

→ 〔小林秀雄 「我が闘争」初出 『朝日新聞』1940(昭和15)年9月12日の画像 菅原健史氏の「核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ」より〕 – Yahoo!ブログ

この問題を指摘した菅原健史氏のブログ記事は拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)でも引用した(211~212頁)。

ここで注目したいのは、それから20年後に記された1960年の「ヒットラーと悪魔」(『考えるヒント』収録)におけるヒトラーの革命観やプロパガンダ観などの手法についての詳しい記述が、「日本会議」の実務を担う「日青協」の「改憲」に向けた手法ときわめて似ていることである。

本稿では書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」の二つの記述の比較やドストエフスキー論との関連などをとおして、小林秀雄のヒトラー観と革命観やプロパガンダ観に迫ることで、その思想の危険性を明らかにしたい

一、書評『我が闘争』(1940年)

1923年11月のミュンヘン一揆の失敗後にヒトラーが獄中で書き上げた『我が闘争』は、第1部が1925年に第2部が翌年に発行されたものの当初はそれほどではなかったが、1932年にナチ党が国会の第一党となり、翌年にヒトラーの内閣が成立するとこの本はドイツ国民のバイブル扱いを受けるようになり、終戦までに1000万部を売り上げたとされる。

日本がヒトラーのナチス・ドイツと日独防共協定を結んだのは1936年11月のことであったが、この本の訳はすでに1932年に内外社から『余の闘争』と題して刊行され、それ以降も終戦までに大久保康雄訳(三笠書房、1937年)、真鍋良一訳(興風館)(ともに日本の悪口を書いてある部分を削除しての出版)、東亜研究所特別第一調査委員会の訳などが刊行された(「ウィキペディア」の記述などを参考にした)。

ヒトラーと松岡洋右

(ドイツ総統府でアドルフ・ヒトラーとの会談に臨む松岡洋右、写真は「ウィキペディア」より)

 小林秀雄が書いた室伏高信訳の『我が闘争』(第一書房、1940年6月15日)の短い書評が朝日新聞に掲載されたのは9月12日のことであり、それから間もない9月27日には日独伊三国同盟が締結された。雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載した「ヒットラーと悪魔」で小林秀雄はこの記事についてこう書いている。

「ヒットラーの『マイン・カンプ』が紹介されたのはもう二十年も前だ。私は強い印象を受けて、早速短評を書いた事がある。今でも、その時言いたかった言葉は覚えている。『この驚くべき独断の書から、よく感じられるものは一種の邪悪な天才だ。ナチズムとは組織や制度ではない。むしろ燃え上がる欲望だ。その中核はヒットラーという人物の憎悪にある。』」。

大筋においては小林の記憶は正しいが、「天才」の前に「一種の邪悪な」を追加する一方で、重要な一文が削除されているなど一部に大きな変更がある。それほど長い書評でもないので、まずは全文を菅原健史氏のブログ記事によりながら一部を現代的表記に改めて引用している「馬込文学マラソン」のサイトによって全文を紹介しておきたい(太字は引用者)。

ナチズムと日本、馬込文学マラソン(大田区にゆかりある文学を紹介)。

*   *   *

“我が闘争” 小林秀雄

ヒットラーの「我が闘争」といふ有名な本を、最近僕ははじめて室伏高信氏の訳で読んだ。抄訳であるから、合点の行かぬ箇所も多かったが、非常に面白かつた。何故、もつと早く読まなかったか、と思つた。やはり、いろいろな先入観が働いてゐたが為である。

ヒットラーの名は、日に何度も口にしながら、何となく此本には手を付けなかった僕の様な人は、世間に存外多いのではないかと考える。

これは全く読者の先入観など許さぬ本だ。ヒットラー自身その事を書中で強調している。先入観によつて、自己の関心事の凡てを検討するのを破滅の方法とさへ呼んでゐる。

そして面白い事を言つてゐる。さういふ方法は、自己の教義に客観的に矛盾する凡てのものを主観的に考えるといふ能力を皆んな殺して了ふからだと言ふのである。彼はさう信じ、そう実行する。

彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる。

これは天才の方法である。僕は、この驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた。

僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした。それは組織とか制度とかいう様なものではないのだ。寧ろ燃え上る欲望なのである。

ナチズムの中核は、ヒットラ-といふ人物の憎悪のうちにあるのだ。毒ガスに両眼をやられ野戦病院で、ドイツの降伏を聞いた時のこの人物の憎悪のうちにあるのだ。

ユダヤ人排斥の報を聞いて、ナチのヴァンダリズムを考えたり、ドイツの快勝を聞いて、ドイツの科学精神を言つてみたり、みんな根も葉もない、たは言だといふ事が解つた。形式だけ輸入されたナチの政治政策なぞ、反古同然だといふ事が解つた。

ヒットラーといふ男の方法は、他人の模倣なぞ全く許さない。

*   *   *

仲良し三国

(「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書。写真は「ウィキペディア」より)

  「馬込文学マラソン」の筆者は、小林の書評について「これは、手放しの賞賛といっていいのではないでしょうか。否定的な言辞が見当たりません」と書き、「『ヒトラー(ナチス)の手口』が透けて見えます」と続けている。

実際、迫力のある小林秀雄の書評ではドイツで政権を握ったヒトラーへの強い共感だけでなく、ヒトラーの「方法」も賛美されているのである。

さらに大きな問題は書評『我が闘争』を『全集』に再録する際に小林が、「天才のペン」の前に「一種邪悪なる」を加筆していたことである。その加筆によってこの書評の印象が一変しているのは、「言葉の魔術師」とも言える小林秀雄の才能だろう。ただ、それだけでは全体の主旨を「隠蔽」することはさすがに出来ず、小林はヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」に関する下記の記述を大幅に削除していた。

「彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる」(太字は引用者)。

この削除された文章の前半は小林秀雄の歴史観や文学観にも深く関わっているが今回はそれに言及する余裕がないので、ヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」が詳しく紹介されている「ヒットラーと悪魔」と現代の日本の政治状況との関わりを次に分析することにしたい。

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(2017年9月17日、関連記事のリンク先を追加)