高橋誠一郎 公式ホームページ

『罪と罰』

ロシア帝国の教育制度と日本――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』から『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』へ

59l「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

ニコライ一世治下の帝政ロシアでは、ロシアの貴族にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を「ロシアの理念」として国民に徹底しようとした「ウヴァーロフの通達」が1833年に出されていました。

このような時代に青春を過ごした若きドストエフスキーは初期作品で、権力者の横暴を抑えるための「憲法」の意義や言論や出版の自由の必要性、さらには金持ちのみを優遇する「格差社会」の危険性などを、「イソップの言葉」で説いていました。

『貧しき人々』に始まるこれらの作品を分析することにより、日本における「憲法」や「教育」の問題を考察しようとした拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章では、検閲の問題と芥川龍之介の自殺との関連にも注意を払いながら、『白夜』からの引用がある堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』に注目することで、昭和初期の日本の状況とクリミア戦争直前の帝政ロシアの状況との類似性を明らかにしました。

たとえば、昭和一二年に文部省から発行された『国体の本義』では、大正デモクラシーを想定しながら、その後も「欧米文化輸入の勢いは依然として盛んで」、「今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起」したとして、これらの混乱を収めるべき原則として『教育勅語』の意義が強調されたのです。

さらに『国体の本義解説叢書』の一冊として文部省教学局が発行した『我が風土・国民性と文学』と題する小冊子では、「ロシアの理念を強調した「ウヴァーロフの通達」と同じように、「日本の国体」においては、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」ことを強調していました。

 それゆえ、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』を書き上げた後では、芥川龍之介の自殺の問題も描かれている堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』を詳しく考察することで、昭和初期に書いた「『罪と罰』についてⅠ」などの評論や『我が闘争』の書評で当時の若者や知識人に強い影響を与えていた小林秀雄のドストエフスキー論の問題点を明らかにしたいと考えました。

しかし、幕末だけでなく昭和初期に再び強い勢力を持つようになっていた平田篤胤の「復古神道」について理解が乏しかったために、その構想は先延ばししなければなりませんでした。

ようやく前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』で、明治の文学者たちの視点で差別や法制度の問題、「弱肉強食の思想」と「超人思想」などの危険性を描いていた『罪と罰』の現代性に迫りました。さらに、『罪と罰』の人物体系や内容を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書いただけでなく、『夜明け前』では平田篤胤没後の門人となって古代復帰を夢見た主人公の破滅にいたる過程を描いた島崎藤村の作品を分析することにより、明治政府の宗教政策や昭和初期の「復古神道」の問題をも考察することができました。

こうして、芥川龍之介の自殺と堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』との関連を論じることのできる地点までようやく来ましたので、次の著書『堀田善衞と小林秀雄――「若き日の詩人たちの肖像」を読み解く』(仮題)ではこの問題を正面から論じることにします。

*新刊 『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社、2021年)

そのためにも、徳富蘇峰の「教育改革」論の後で生じた事態を、芥川龍之介の自殺と堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』との関連をとおして考察した箇所を、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』から、「主な研究」に転載することにより確認することにします。(引用に際してはわかりやすいように、一部改訂を行いました。)

芥川龍之介の自殺と『若き日の詩人たちの肖像』――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章より

 (2023/02/02、新刊 『堀田善衞とドストエフスキー』とツイターへのリンク先を追加)

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

はじめに

 一昨日、原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の二つの作品を考察した研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載しました*1。

ここでは堀田百合子氏の『ただの文士 父、堀田善衞のこと』や『堀田善衞・上海日記』、そして、木下豊房氏の「武田泰淳とドストエフスキー」にも目を配ることで、堀田善衞と武田泰淳の『審判』との関係を考察したいと思います。そのことによって、『若き日の詩人たちの肖像』に記されている『白痴』論の意味にも迫ることができるでしょう。

1、堀田善衞と「あさって会」

 堀田善衞も属していた「あさって会」がどのような会だったかは年譜などからは分からなかったのですが、堀田百合子氏は『ただの文士 父、堀田善衞のこと』で、子供の頃に行われていた「埴谷家のダンスパーティーが、その後の『あさって会(埴谷雄高・椎名麟三・梅崎春生・野間宏・武田泰淳・中村真一郎・堀田善衞)』の集いにつながっていったのだと思います」と書いています。

さらに、彼女は「戦後派と呼ばれる作家たちのこの集まりは、家族ぐるみの付き合いでもあり、文学をタテ、ヨコ、ナナメに、それぞれが勝手にしゃべり、それぞれの栄養にして」いったのですと記しており、この会の雰囲気が伝わってきます*2。

 ことに武田泰淳氏とその家族とは「夏の蓼科、角間温泉、湯田中温泉。父と武田先生、母と百合子夫人、私と花さん。遊んでいました。しゃべっていました」と書いた百合子氏は「父には見た目も、物言いも、かなり鋭角的なところがありますが、武田先生は違いました。何もかもがまーるいのです。時間の回り方が違うのかなと思えるようなまるさでした。人を包み込むような優しさが、子供の私には心地よかったことを覚えています」と続けています*3。

2、武田泰淳と堀田善衞の上海

 このような堀田と武田の深い交友を考えるとき、武田泰淳の『審判』(1947)と堀田善衞の『審判』(1963)との関りの深さが浮かび上がってきます。

すなわち、ドストエフスキー研究者の木下豊房氏は、埴谷雄高が1971年のエッセイで、「同時代者である私達はまぎれもなく同一問題を負わざるをえなくなったドストエフスキイ族であることが明らかになった」とのべ、椎名麟三、武田泰淳、野間宏の名をあげながら、特に、武田の小説『風媒花』で展開される現代の殺人論が「ドストエフスキイの深い殺人論の延長線上」にあることを指摘していたことに注意を促していました*4。

さらに1946年に帰国した直後に書かれた「『審判』(1947・4)、『秘密』(1947・6)、『蝮のすえ』(1947・8)」と武田の作品とドストエフスキーの『罪と罰』との深い関連を木下氏は詳しく考察しているのです。

堀田善衞が『文芸』の1955年12月号に載せたエッセイ「武田泰淳」において、上海では堀田が詩だけを書いていたのに対し、武田は「詩を書きながら、しきりと『罪と罰』のような小説が書ければ本望だ、と云って、世の狂燥をよそにして、漢訳の聖書を一生懸命に耽読していた」と記していることは武田の『罪と罰』への関心の深さを物語っているでしょう*5。

そして、堀田が「そのときの姿勢が、いつまでも僕の眼底にのこっている」と続けていたことからは、武田泰淳と堀田善衞の二つの『審判』の関係の深さが伺えます。

しかも、1976年に発行された雑誌『海』の「武田泰淳追悼特集」に収められた開高健との対談では、上海ではまだドストエフスキーの文学を知らなかった武田に堀田がシェストフやミドルトン・マリなどの「さまざまのドストエフスキー論について武田先生に講義しました」とも語っているのです*6。

3、堀田善衞の原爆のテーマと武田泰淳

原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の『審判』のテーマも武田との交友が深く絡んでいました。

すなわち、武田泰淳の葬儀で弔辞を読んだ堀田は、上海にいたときに「原爆の影響によって、我が国民全部が亡びるというデマ」がまことしやかに伝えられていたことから、武田が「『かつて東方に国ありき』という詩をお書きになったことを、私は忘れません」と語って、原爆のテーマと上海の記憶にも注意を促していたのです*7。

この言葉の意味は重いでしょう。なぜならば、1970年5月に毎日新聞夕刊に書いた記事で、宇宙飛行について書いたメイラーの『月にともる火』について「なぜいったいどこかで広島について、長崎についての言及と考察がなされなかったのか。それなしではアポロもヘッタクレもあるものか、と私は思う。それを欠いていることについて、ノーマンなどという奴はつまらぬ奴だ、と私は思う」と記しているのです*8。

しかも、1990年8月6日にNHK教育テレビで放映された「NHKセミナー 現代ジャーナル 作家が語る自作への旅」で 堀田善衞は自作『審判』の主人公についてこう語っていました*9。

「広島で二十数万人を一挙に殺したということについての、それが一体罪であるのか、あるいはただの戦時行為なのであるか、という判定がつかないわけですがそういう人物を選んだわけです。その人物の容貌、相貌を、私はフランスの画家ルオーの自画像を見ていて思いついたわけです。日本へ行けば、あるいは最終的に広島へ行けば、そこで何らかの解決、あるいは審判というものを受けられるのではなかろうか。再生のための、もう一度生きるための道というものが、日本にあるのではなかろうか。そういうことを考えたわけなんです。」

この文章を紹介した堀田百合子氏は、『掘田善衛全集5』 の「著者あとがき」で堀田が武田泰淳に触れながら記していた文章も引用しています。

 「筆者自身としても、この作品について何かを言うことは、現在でもある苦痛の感を伴うものがあった。(略)/なお、同じく『審判』と題された、故武田泰淳氏の傑作が別にあることを、付記しておきたい。『審判』という命題は、戦争を通過して来た戦後世代にとっては、避けては通れないものである」

こうして、木下氏の考察をも考慮するならば、原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の『零から数えて』と『審判』は、武田のこれらの作品を踏まえた上で書かれているといっても過言ではないでしょう。

4、小林秀雄のドストエフスキー観の見直し

注目したいのは、『堀田善衞 上海日記』の冒頭に記されている1945年8月6日の記述で堀田善衞が、「頃日(注:けいじつ、この頃の意)ド〔ドストエフスキー〕氏の「白痴」を読みたしと思ふことしきり」と書いていることです。同じ年の10月13日の日記では、創元社から刊行された小林秀雄の『小説1』『小説2』とともに小林秀雄が1943年の9月に『文学界』で論じていたゼークトの『軍人の思想』を買い求めたと記されていることに注目するならば、この時期に堀田が『白痴』を通して小林秀雄の思想の見直しをしていることが感じられます*10。

なぜならば、小林秀雄は「天皇機関説」事件が起きる前年の1934年に書いた『白痴』論で、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈していましたが、堀田善衞はこの時期を描いた『若き日の詩人たちの肖像』で、「たとえ小説の中でも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、(……)外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」と書いているからです*11。

これらの記述から堀田が『白痴』を通して小林秀雄の思想の見直しをしていると断ずることは強引のように見えるかもしれませんが、先ほど見た『堀田善衞 上海日記』に収められている開高健との対談での終わりの方で堀田は、こう語っていました*12。

「ぼくはほんの一年九カ月ぐらい上海にいただけですが、ものの考え方も感覚もひじょうに変ったと思うんですね。帰ってきて『批評』の同人会へ出ても、かれらが喋っていることがぜんぜん解りませんでね。(……)隣りに小林秀雄さんがいて、『堀田君、君は随分おとなしい人だね』と言ったけれども、おとなしいんじゃなくて、何言っているのか全然解らないんですよ。」

 この言葉からは上海から戻った時に、堀田善衞が昭和の『文学界』や『日本浪曼派』の、「日本回帰」のイデオロギーから完全に解き放されていたと考えることができるでしょう。

こうして武田泰淳との関係も踏まえて、堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の前に書かれた『零から数えて』と『審判』を読むと、いっそう興味と理解が深まると思われます。

 

*1 「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」『世界文学』(127号)、2018年7月、101~107頁。→ホームページ 「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって」

*2 堀田百合子『ただの文士 父、堀田善衞のこと』岩波書店、2018年、22頁。

*3 同上、92頁

*4 木下豊房「武田泰淳とドストエフスキー」、(初出:「ドストエーフスキイ広場」№15.2006)

*5『堀田善衞全集』、第16巻、25頁。

*6 堀田善衞・開高健「対談 上海時代」、紅野謙介編『堀田善衞 上海日記――滬上天下(こじょうてんか)一九四五』集英社、2008年、394頁。

*7 堀田百合子、前掲書、94頁より引用。

*8『堀田善衞全集』、第14巻、309~310頁。

*9 堀田百合子、前掲書、45~46頁より引用。

*10 紅野謙介編『堀田善衞上海日記』、集英社、2008年、13頁、32頁。

*11 高橋誠一郎、「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」『ドストエーフスキイ広場』第28号、2019年、121~127頁。→ホームページhttp://www.stakaha.com/?p=8515。なお、堀田善衞の『審判』とドストエフスキーの『悪霊』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』との関連については、別の機会に譲ることにする。

*12 紅野謙介編『堀田善衞上海日記』、415~416頁。

 

 

「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載

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原爆パイロットを主人公とした堀田善衞(1918―1998年)の二つの作品については、「狂気と文学」が特集された『世界文学』(127号)に寄稿した研究ノートで、ドストエフスキーの『白痴』や『罪と罰』との関連で予備的な考察をしました。

その研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載します。

狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって

ただ、その際には堀田善衞と武田泰淳(1912年―1976年)の二つの『審判』との関係については言及できませんでしたので、それについては別稿で考察することにします。

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

 

 

「ドストエーフスキイのプーシキン観ーー共生の思想を求めて」を「主な研究」に転載

 『ドストエーフスキイ広場』の創刊号に掲載された拙論「ドストエーフスキイのプーシキン観」についてのお問い合わせを頂きました。

その内容はすでにその後に執筆した拙著に組み込んでいると思っていましまたが、調べて見るとまだ完全な形では収録されていないことが分かりました。

1991年の古い論考ですが、『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)から、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を経て、近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』に至る一連の拙著につながる私の問題意識が色濃く出ている論考です。

それゆえ、人名表記などはそのままの形で、ホームページの「主な研究」に転載することにしました(→ドストエーフスキイのプーシキン観――共生の思想を求めて)

 以下に、この論考の「目次」を掲載しておきます。

  *   *

序章        「ねずみ」たちについて

第一章   社会正義を求めて  ーーペトラシェーフスキイ事件まで 

 第一節  『貧しき人々』と『駅長』        

 第二節   「ネワ河の幻影」と『青銅の騎士』

 第三節   「警告するもの」としての良心

第二章   殺すことについての考察 ーー良心の問題をめぐって   

 第一節  「良心」の「自己流の解釈」        

   第二節   『地下生活者の手記』と『その一発』

   第三節   『罪と罰』と『スペードの女王』

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の成立と作家・椎名麟三との往復書簡

はじめに

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

今年5月に行われた「ドストエーフスキイの会」の例会では、「日本浪曼派」が強い影響力を持っていたこの時代の特徴を、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の1934年に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論との関連で明らかにしようとしました。そのためにこの長編小説の重層的な構造に焦点をあてて下記の流れで発表しました*1。

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ  /Ⅰ、「祝典的な時空」と「日本浪曼派」 /Ⅱ、『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法 / Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』/ Ⅳ、アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題 /Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー /Ⅵ、『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服 /終わりに・「オンブお化け」という用語と予言者ドストエフスキー

ただ、昭和初期の日本の特殊性に迫るために時間的な制約から『若き日の詩人たちの肖像』で描かれた人間関係などに絞って考察することになり、堀田善衞と「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡については、まったく触れることが出来ませんでした。

しかし、全集の解説で評論家の本多秋五は、「青春自伝長篇についてのノート」で、『若き日の詩人たちの肖像』について次のように記しています。「第三部に出て来るドストエフスキーの『白痴』に関するくだりや、第四部に出て来る平田篤胤の国学を論じるくだりなどでは、主人公の心境と作者の執筆時現在における思想とを距てる膜が溶解しているように思える。」

作者と同じ時代を生きた本多の言葉を読むと、たしかに長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、単なる昭和初期の回想ばかりではなく、1960年代の日本から見た昭和初期の日本の鋭い分析でもあることが分かります。

しかも、木下豊房氏は椎名麟三が「ドストエフスキーとの出会いとその影響を自ら『ドストエフスキー体験』と称して多くのエッセイで繰り返し語った」と書いています*2。それらのことに留意するならば、1953年に交わされていた往復書簡の意味は極めて重いと思われます*3。

ここでは4通からなる往復書簡と『若き日の詩人たちの肖像』とのかかわりを簡単に検証することにします。

椎名麟三(1953年5月、写真は「ウィキペディア」より)

 

1、椎名麟三の長編小説『邂逅』と堀田の『広場の孤独』

「現代をどう生きるか」と題されたこの往復書簡の第一信で、堀田善衞は、キリスト教の洗礼を受けた後で「自己清算の必要にせまられ、過去の自分と対決するために書かれた」椎名の長編小説『邂逅』についてこう評価をしていました。

「私は御作『邂逅』について、いちばん意義を感じるのは、それが方法的に各人物それぞれの独白の交叉による対話が実現されている点です」。さらに、堀田は「そしてこれら各人の純粋主観としての時間意識は、実は縦にも横にも歴史的な時間意織に浸透されている筈で、この両者の同時成立が、現代の人間のリアリティを保証しているものです」と続けています。

貧しい電気工夫の古里安志を主人公としたこの長編小説では、主人公の父親は工事現場で鉄骨にやられて片足切断に至る重傷を負い死にかけており、朝鮮戦争の緊迫した時期に、共産党員との疑いをかけられて会社を首になりかけた妹のけい子は絶望から自殺を試みるなど「彼等の生活全体が、こわれかかったバラックの感じだった」と評されるような絶望的な状況にあります。

しかし、隣を歩いていた実子に石段から突き落とされた安志は、「暗い星空」を見て、「ユーモアにあふれた神の微笑を感じ」て「思わず笑い出し」、「全くこの石段は危険だ」と感じるのです*4。

彼が実子に怒りをぶつけなかったのは妹・けい子の再就職の手助けをしてくれている実子も深い絶望を抱えていることを知っていたからであり、こうしてどんなに苦しい状況に追い込まれても「微笑」を浮かべながらそれに立ち向かっていく古里安志という人物像は、日本文学における独自な形象だと思えます。

椎名はこの作品に至るまでの歩みについて、「永い酒への耽溺と自己喪失の後に、ドストエフスキーの忠告を唯一の頼りとして、キリストへ自己を賭けた」と「私の文学」という文章で記しています。それはこの作品がドストエフスキーの創作方法、ことに彼が文学に目覚めた『悪霊』におけるキリーロフの描写とも深く関わっていたことを示しているでしょう*5。

往復書簡の第二信で椎名は、朝鮮戦争が勃発した緊迫した時期を背景に、「報道の自由」の問題をとおして新聞記者の主人公の孤独と決断を描き、芥川賞を受賞した『広場の孤独』(1951)に言及しながらこう記しています。

「僕の貴兄に対する共感と尊敬は、この主体的な問題から、この社会へのアンガジュ(引用者注:政治や社会活動に参加すること)を誠実に追及されているということなのです。『広場の孤独』から、広場へのアンガジュを確立されようとしておられることなのです。」 

2、「拷問」についての「不快な記憶」

さらに椎名は「拷問」についての自分の「不快な記憶」についてもこう記します。「あの拷問は、人間にとって許しがたい魔術をもっていました。この世界に於て何が正義であり、何が真実であるかという自分の事実が、しばられた後手を竹刀で強くこじ上げられることによって、簡単にとび超えさせられてしまうのです。」

一方、この手紙を受け取った堀田は、「お手紙を拝見して、私は少し身上話をする必要を感じました。それはあなたの仰言る『不快な記憶に』関することです」と返信で書いています。

『若き日の詩人たちの肖像』でも検挙されて激しい拷問にあった後に転向し、その後で警視庁に職をえていた従兄の話は重要なエピソードをなしていますが、この手紙では従兄の検挙と拷問、そして転向という出来事から受けた激しい衝撃がこう記されているのです。

「私は子供心に深く尊敬していただけに、この経緯にはどうしても納得出来ぬ、今様にいうならば不条理なものを感じ、子供は子供なりに苦しみました。心の硬い大人ならばこういう人を軽蔑することも出来ましょうが、子供の私にはそれは出来ませんでした。いまも私はその人、あるいはそういう人を軽蔑する気持はいささかもありません。」

さらに、自分とキリスト教や音楽、詩との関りについても堀田は具体的に次のように描いていたのです。

「右に述べました事件のあった後、私はキリスト教に凝り(といったらクリスチャンのあなたから叱られるかもしれませんが)、米人宣教師の家でー年ほど暮らしました。が、洗礼はうけませんでした。それから音楽に凝り、耳を悪くして音楽の方は諦め、詩を書き出しました。それが十八歳、あなたが全協で活躍しておいでだった年頃です。(……)十八歳(昭和十一年)で上京して、矢張り政治、あるいは社会的正義、そういうものを遮断した詩を書きつづけました」。

この記述は長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を理解する上でも重要ですが、注目したいのは堀田がここで、「私は私事はなるべくいわないという方針を持っているのですが、この場合仕方がありませんし、出来るだけ簡単にいいます」と記していたことです。

このように見て来るとき、作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡で自分の青春を振り返ったことが、自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を書く大きなきっかけにもなっていた可能性があると思われます。

 一方、この手紙を受け取った椎名麟三は第四信で、「第二の熱情のこもったお手紙を拝見して、現代に生きる困難さを考えずには居られませんでした」と書くとともに、第三信の末尾に記された次のような堀田の言葉に「深い意味を感じました」と記しています。

「私は物の考え方の全的なトータル転換の必要を痛感しているのです。複数のなかの個とか、一とかいう風に自己を分析的に認識するのではなく、複数のなかにありながら同時に複数の要素によって成立ち、しかもなおーとして統一され綜合されている自己、強いて言葉にしてみるなら、そういうようなことになる、そういう自己を見出し築き上げる必要を痛感するのです。」

 そして、「転向者である僕の名誉(!)にかけていいます。あのファッシズムに参加した転向者諸君は、『心で存在を止めた』方々ではなかったのです。彼等は単純にファッシストであったたにすぎないのです」と書いた椎名は、「だから貴兄の転向者に対する絶望は、ファッシズムに対する善意ある抵抗ではなかったのでしょうか」と解釈しているのです。

結語

最期の手紙の末尾近くで椎名は、「元気を出して下さい。貴兄はちゃんと立派な作品を書いておられるではありませんか。そのことによって、ちゃんと『広場』へ参加しておられるではありませんか」と六歳年下の堀田に熱いエールを送っていました。

それは作家としてだけではなくアジア・アフリカ作家会議や「ベトナムに平和を! 市民連合」などの運動にも関わるようになる堀田のその後の活動をも示唆しているでしょう*6。

 こうして、「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡は、堀田に「『白痴』のムィシキンとランボー」についての卒業論文を書いていた頃のことも思い出させて、『白夜』の冒頭の文章が題辞として用いているばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、さらに『悪霊』にも言及されている『若き日の詩人たちの肖像』を生み出すきっかけになったと思えます。

 

*1 「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」」(→ホームページ ドストエーフスキイの会、第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

*2 木下豊房「椎名麟三とドストエフスキー」『ドストエーフスキイ広場』(第12号、2003年)」(→ホームページ 「椎名麟三とドストエフスキー」(木下豊房ネット論集『ドストエフスキーの世界』)

*3 「現代をどう生きるか――椎名麟三氏との往復書簡」『堀田善衞全集』第14巻、筑摩書房、1975年、72~86頁。

*4 椎名麟三「邂逅」『椎名麟三全集』第4巻、冬樹社、1970年、240頁。

*5 「椎名麟三の『悪霊』理解の深さとその意義――西野常夫氏の論文を読んで」(→ホームページ「『悪霊』におけるキリーロフの形象をめぐって))

*6吉岡忍「堀田善衞が旅したアジア」参照。池澤夏樹他著『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社、2019年)所収。(→ホームページ「『若き日の詩人たちの肖像』の重要性――『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社)を読んで

堀田善衞を読む: 世界を知り抜くための羅針盤 (集英社新書)(書影はアマゾンより)

 

 

映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ――国際ドストエフスキー・シンポジウムでの発表を踏まえて

はじめに 

『白痴』の発表から一五〇周年に当たる二〇一八年にブルガリアのソフィア大学で開催された国際ドストエフスキー・シンポジウムの円卓会議では映画《白痴》が取り上げられました。

ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

それゆえ、私はこのシンポジウムでは黒澤映画《白痴》における治癒者としての亀田(ムィシキン)の形象に注目することで、黒澤映画における医者の形象の深まりとその意義を明らかにしようとしました。

実は、黒澤明監督が映画化した長編小説『白痴』でも、シュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されています。ガヴリーラ(香山陸郎)から「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と問い質されたムィシキン(亀田欽司)も、ロゴージン(赤間伝吉)に対してはナスターシヤ(那須妙子)について「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのです。

残念ながら、今回の開催が急遽決まったこともあり千葉大学で行われた「国際ドストエフスキー集会」の時ほどは、黒澤映画の研究者が参加しておらず、映画《白痴》以外の作品についてはあまり知られていなかったようでした。

しかし、円卓会議では黒澤明研究会の運営委員・槙田寿文氏の世界各国の黒澤映画のポスターを集めた展覧会と映画『白痴』の失われた十四分)についての発表がブルガリア語への通訳付きで行われた。また、シンポジウムで「ドストエフスキーにおける癒しの人間学序節――ムィシュキン公爵のイデー・フィクスを軸に」(『ドストエーフスキイ広場』第28号参照)を発表された清水孝純氏の映画《白痴》論の発表も行われ、国際的な場で黒澤映画の意義を広めることができたのは有意義だったと感じています。

発表時間が短くて言及できなかった個所を補いながらシンポジウムと「円卓会議」で行った二つの発表をまとめた論考が、『会誌』41号に掲載されました。以下に、「はじめに」と「国際ドストエフスキー・シンポジウム」についてふれた第一節を省いた形で『会誌』に掲載された論考に一部加筆して転載します。

1,映画《白痴》の意義――『罪と罰』と『白痴』の受容をとおして

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について一八六八年一月一日の手紙で「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです」と記していました。

若い頃からドストエフスキーの作品に親しんでいた黒澤明監督はそのような作者の意図を踏まえて第二次世界大戦の終了から数年後の一九五一年に映画《白痴》を公開して、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩などを主人公の視線をとおして『白痴』の世界を正確に描き出していました。

観客の入りを重視した会社側から大幅な削除を命じられて、作品は二時間四六分に短縮されたために映画《白痴》は、興行的には失敗して多くの日本の評論家からも「失敗作」と見なされました。

しかし、インタビューで黒澤明は次のように語っていました。「この作品は外国ではとても評判がよくて、特にソビエトではとても気に入られているのです。毎年何回か上映するのですが、それでもまだ見たい人があまりにも多くて、まだ見られないという人か随分いるのです」(『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、三四三頁)。

では、日本と東欧圏におけるこのような映画《白痴》の評価の違いはどこにあるのでしょうか。私は黒澤映画《白痴》が文芸評論家・小林秀雄の『罪と罰』や『白痴』の解釈を根底から覆すような解釈を示したのに対し、ドストエフスキー論の権威とされていた小林がこの映画を完全に無視したことが一因だと考えています。

それゆえ、ここでは近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)にも言及しながら、日本における『罪と罰』の受容までの流れをまず確認します。その後で、小林秀雄と黒澤明とのドストエフスキー解釈をめぐる「静かなる決闘」をとおして黒澤における『白痴』のテーマの深化を考察します。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

日本では徳川時代に厳しく弾圧されていたキリスト教が解禁になったのは、ようやく一八七三年のことでした。しかし、日本が開国に踏み切ってからはキリスト教にたいする青年層の知識と理解は増え続けていました。

日本で憲法が発布された一八八九年に、長編小説『罪と罰』を英訳で読んで、殺人の罪を犯した主人公が、「だんだん良心を責められて自首するに到る」筋から強い感銘を受けた内田魯庵は、二葉亭四迷の力も借りて長編小説を訳出したのです。

残念ながら、売れ行きが思わしくなかったこともあり魯庵はこの長編小説の前半部分を訳したのみで終わりましたが、この翻訳から強い衝撃を受けたのが、「『罪と罰』の殺人罪」を著わした北村透谷でした。ここで彼は、「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるようの事なかるべし」と書いて、勧善懲悪的な『罪と罰』論を厳しく批判するとともに、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の危険性を鋭く指摘していました。

一方、『文学界』の同人でもあった親友の島崎藤村は、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究して日露戦争後に長編小説『破戒』を自費出版しました。注目したいのは藤村が、「教育勅語」の「忠孝」の理念を説く校長や教員、議員たちの言動をとおして、現在の一部与党系議員や評論家によるヘイトスピーチに近いような用語による差別が広まっていたことを具体的に描いていたことです。

さらに日本の『罪と罰』論ではあまり重視されていない「良心」の問題も、「世に従う」父親の価値観と師・猪子との価値観との間で苦しむ丑松の心の葛藤をとおしてきちんと描かれていることです。

このような透谷や藤村の「良心」理解の深さには、かれらが一時は洗礼を受けていたこともかかわっていると思われます。なぜならば、キリスト教会でも「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきた際にも、神の代理人としての地位が与えられていた教皇を正面から批判することは許されませんでしたが、権力者が不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が「知」の働きを持つ「良心」に与えられたのです。帝政ロシアにおいても皇帝が絶対的な権力を持っていましたので、それに対抗できるような「良心」の働きが重要視されたのですが、その一方で革命が近づくと「良心」の過激な解釈もなされるようになったのです。

自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かという問題がラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの間で論じられています。そして、それは主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証されており、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」には、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

明治初期の独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験していた内田魯庵や北村透谷、そして島崎藤村たちも、権力者からの自立や言論の自由などを保証し、個人の行動をも決定する「良心」の重要性を深く認識していたといえるでしょう。

なお、『破戒』は一九三〇年にロシア語訳が出版されましたが、黒澤映画《天国と地獄》が公開される前年の一九六二年には、市川崑監督の映画《破戒》が、市川雷蔵が主役の瀬川丑松を、彼の師・猪子蓮太郎を三國連太郎、学友の土屋銀之助を長門裕之、風間志保を藤村志保が演じるという豪華なキャストで公開されました。

破戒

(映画《破戒》、1962年、角川映画。脚本:和田夏十。図版は紀伊國屋書店のサイトより)

黒澤映画との関連で注意を払いたいのは、『罪と罰』のあとで『虐げられた人々』の訳を行い、後にはトルストイの『復活』も邦訳した内田魯庵が、できれば『白痴』も訳したいとの願いも記していたことです。

戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》ですでに『虐げられた人々』のネリー像を踏まえて脚本(ペンネームは「黒川慎」)を書いていた黒澤明が、一九六五年の映画《赤ひげ》でネリー像を掘り下げていることを考えるならば、一九五一年に映画《白痴》を公開した黒澤明のドストエフスキー理解は島崎藤村などの流れに連なっているといえるでしょう。

一方、文芸評論家の小林秀雄は「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と解釈していました。

 さらに、主人公ラスコーリニコフの「良心の呵責」を否定した小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という大胆な解釈を示したのです。

こうして、ムィシキンを「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったラスコーリニコフと結びつけた小林は、ナスターシヤをも「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定し、『白痴』の結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していました。

「殺すなかれ」と語るムィシキンを否定的に解釈したこのような小林秀雄の『白痴』論は、戦争を拡大していた軍部の方針に「忖度」したものだったといえるでしょう。しかし、戦後も自分のドストエフスキー観を大きく変更することはなかった小林秀雄は、その後「評論の神様」として称賛されるようになるのです。

そして、このような小林の解釈を受け入れた亀山郁夫氏も二〇〇四年に出版した『ドストエフスキー ――父殺しの文学』(NHK出版)で、貴族トーツキーによる性的な犯罪の被害者だったナスターシヤがマゾヒストだった可能性があるとし、ムィシキンをロゴージンにナスターシヤの殺害を「使嗾(しそう)」した「悪魔」であると解釈しました。

黒澤もインタビューでは小林にも言及しながら、ナスターシヤ殺害後のこの暗い場面にも言及しています。しかし、映画《白痴》のラストシーンで黒澤は、綾子(アグラーヤ)に「白痴だったのは私たちだわ」と語らせていたのです。

『白痴』では一晩をムィシキンと語りあかしたロゴージンが、裁判ではきわめて率直に罪を認めて刑に服したと記されていることに留意するならば、ドストエフスキーはラスコーリニコフと同様にロゴージンにも「復活」の可能性を見ていたといえるでしょう。つまり、黒澤明は小林秀雄的な『白痴』観を映画《白痴》で映像をとおして痛烈に批判していたのです。

2、映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ

映画《白痴》の前にも黒澤明は小林秀雄のドストエフスキー観を暗に批判するような映画を戦後に相次いで発表していました。

たとえば、終戦直後の一九四六年に黒澤は一九三五年の「天皇機関説事件」の前触れとなった滝川事件を背景にした《わが青春に悔なし》を公開して女性の自立を映像化していました。この滝川事件は、農奴の娘だったカチューシャと関係を持ちながら捨てても、「良心の痛み」も感じなかった貴族ネフリュードフの精神的な甦生を描いた長編小説トルストイの『復活』をとおして、法律の重要性を指摘していた滝沢教授の言説が咎められていたのです。

わが青春に悔なし No Regrets for Our Youth 1946 Opening Kurosawa …

この意味で注目したいのは、『破戒』と『罪と罰』との類似性に言及していた評論家の木村毅がこう書いていたことです。「トルストイは、ドストイエフスキーを最高に評価し、殊に『罪と罰』を感歎して措かなかった。したがってその『復活』は、藤村の『破戒』ほど露骨でないが、『罪と罰』の影響を受けたこと掩い難く、(中略)魯庵が『罪と罰』についで、『復活』の訳に心血を注いだのは、ひとつの系統を追うたものと云える」(『明治翻訳文学集』「解説」)。

実際、日露戦争の時期に『復活』の翻訳を連載した内田魯庵は、この長編小説の意義を次のように記していました。「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

「円卓会議」では黒澤監督がインタビューで言及していた映画《白痴》のシーンだけでなく、《酔いどれ天使》(一九四八)、《静かなる決闘》(一九四九)、《赤ひげ》(一九六五)など医師が非常に重要な役割を演じている映画と、私が『白痴』三部作とも考えている映画《醜聞》(一九五〇)と《生きる》(一九五二)などの六作品から重要な場面を、松澤朝夫・元会員の技術援助と堀伸雄会員の協力で約一一分に編集したものを解説しながら上映しました。

ここではそれらのシーンを簡単な説明を補いながら紹介したいと思いますが、その前に黒澤が盟友・木下恵介監督のために書いた脚本による映画《肖像》(一九四八)の内容を簡単に見ておくことにします。なぜならば、『白痴』ではムィシキンの観察力や絵画論が強調されていましたが、この映画の老年の画家はムィシキンを想起させるばかりでなく、肖像画のモデルのミドリ(悪徳不動産屋の愛人)もナスターシヤを思い起こさせるからです。

たとえば、映画《白痴》で亀田(ムィシキン)は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けていました。肖像画を描こうとした老画家も「でも、どうして、私なんか」と尋ねられると、「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明しているのです。

 しかも、あばずれを装っていたミドリは画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得されます。

「肖像  木下恵介 アマゾン」の画像検索結果

(黒澤明 DVDコレクション 32号『肖像』 [分冊百科] |、書影は「アマゾン」)

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせ、ミドリは結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ」と同じ稼業だった芳子に自立への決意を語ったのでした。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結しているのです。

 同じ年に公開された映画《酔いどれ天使》からは怪我をして駆け込んできたやくざの松永(三船)を医師の真田(志村喬)が治療する冒頭の「診察室」のシーンと、汚物の山やメタンの泡や捨てられた人形が浮いている湿地のほとりに佇む松永が真田から「そいつらときれいさっぱり手を切らねえ限り、お前はダメだな」と説得されたあとで松永が見る悪夢のシーンを紹介しました。

Yoidore tenshi poster.jpg(ポスターの図版は「ウィキペディア」より)

ここで松永は海辺の棺を斧で割ると棺の中に死んだ自分が横たわっているのを見て驚いて逃げ出すのですが、このシーンは松永の最期を予告しているばかりでなく、復員兵の亀田が北海道に向かう船の三等室で夜中に悲鳴をあげ、戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺される場面を夢に見たと赤間に説明する場面にもつながっていると思えます。

「憲法」のない帝政ロシアで農奴解放や言論の自由、そして裁判の改革などを求めていたドストエフスキーは、ペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受け、死刑の執行寸前に「皇帝による恩赦」により生命を救われるという体験をしていました。長編小説『白痴』でもムィシキンはギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? 」と問いかけ、「ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていました。

それゆえ、若きドストエフスキー自身の体験をも重ね合わせた亀田という人物設定は、ドストエフスキーの研究者たちには見事な表現と受け取られたのです。

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(松竹製作・配給、1951年、図版は「ウィキペディア」より)。

一九四九年の映画《静かなる決闘》からは、主人公の医師・藤崎(三船敏郎)が、軍医として南方の戦場で豪雨の中のテントで手術を行う主人公の首筋の汗を衛生兵が拭くシーンから、手袋を取り素手で手術をして指先に傷をつけてしまう場面までを紹介しました。

最初は『罪なき罰』と題されていたこの映画では、この際に悪性の病気をうつされた医師の苦悩を「良心」という言葉を用いて描写しつつ、それでも貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿を描いていました。ことに、婚約者に「自分は結婚できない」と告げた主人公のセリフからは、黒澤監督のムィシキン観が強く感じられるのです。

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(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

映画《生きる》からは、余命わずかなことを知った主人公が「メフィストフェレス」と名乗る人物とともに歓楽街を彷徨する場面と、映画《白痴》上映の前にソフィア大学の学生への短い挨拶の際に劇《その前夜》との関連でふれた「ゴンドラの唄」を歌うシーンを流しました。

ことに最初のシーンは余命わずかなことを知り絶望に陥ったイッポリートをめぐる長編小説『白痴』のエピソードが上手に組み込まれていると思われるからです。

生きる(プレビュー) – YouTube

メインテーマの映画《白痴》からは、冒頭の夜の連絡船の場面と、有名な写真館の前での妙子の写真を見つめる亀田に赤間が「どうしたんだ、おめえ涙なんか流して」から「やさしい気持ちになりやがる」と「香山家」で妙子に対して赤間の「じゃあ、百万だ」と競り値を上げる場面から、黒澤明がインタビューでも語っている亀田の「あなたはそんな人ではない」と言われて、性悪女のようなことばかりしていたナスターシヤが、「本当に図星を指されたからにやっと」する場面を紹介しました。

映画《白痴》ラストシーンについてはこの稿の最期に映画《醜聞》(一九五〇)との関連で考察することにしますが、このあとも黒澤明が『白痴』の考察をしていたことは一九六五年の映画《赤ひげ》で明らかでしょう。

すなわち、高熱を出しながらも必死に床の雑巾(ぞうきん)がけをしていた少女おとよを力ずくで養生所に引き取った赤ひげの「この子は体も病んでいるが、心はもっと病んでいる。火傷のようにただれているんだ」というセリフは、『白痴』のナスターシヤについての考察とも深く結びついていると思われます。

safe_image(図像は、facebookより引用)

終わりに

映画《醜聞》ではゴシップ雑誌『アムール』に写真入りで、スキャンダル記事を書かれて裁判に訴えた若い山岳画家の青江(三船敏郎)と有名な声楽家の美也子(山口淑子)が、弁護士の蛭田から裏切られために厳しい状況に追い込まれていく経緯が描かれています。

この内容は一見、『白痴』とは無縁のように見えますが、実は『白痴』でも彼が相続した遺産をめぐってムィシキンに対する中傷記事が書かれ、その裏では弁護士の資格を得ていたレーベジェフが暗躍するという出来事も描かれているのです。しかも、そこでドストエフスキーはレーベジェフを一方的に悪く描くのではなく、産後の肥立ちが悪くて亡くなった母親の赤ん坊をいつも胸に抱いていると描かれている彼の娘ヴェーラ(名前の意味は「信」)がムィシキンのことを真摯に面倒をみる姿も記述していました。

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(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、図版は「ウィキペディア」による)

実際、小林秀雄はアグラーヤ(綾子)の花婿候補だったラドームスキーをムィシキンの厳しい批判者として解釈していましたが、悲劇の後で彼は変わってムィシキンの病気を回復させようと奔走しただけでなく、ヴェーラとの文通を重ねており。将来二人が結婚する可能性も示唆されていたのです。

映画《醜聞》でも卑劣な弁護士・蛭田の裏切り行為だけでなく、父親が依頼者の青江たちへの背信行為をしているのではないかと心配する娘・正子も描かれていました。この映画からは、重い病気で寝たきりの正子を慰めるためのクリスマス・ツリーが飾られ、オルガンを弾く青江と「聖夜」を歌っている美也子を見ながら、銀紙の冠を頭に載せた正子が幸せそうに笑っている姿を、帰宅した蛭田が障子のガラスごしに覗くというシーンを紹介しました。娘の純真な笑顔を見た弁護士の蛭田は激しく後悔し、娘の死後に行われた最後の公判で自分が被告から賄賂を受け取っていたことを告白したのです。

映画《白痴》では舞台を日本に移したことで、ムィシキンが語るマリーや驢馬のエピソードなど『新約聖書』の逸話が削られていましたが、映画《醜聞》ではクリスマスの「樅の木」や「清しこの夜」の合唱などキリスト教的な雰囲気も伝えられていました。こうして、黒澤明は蛭田の娘・正子の形象をとおしてヴェーラの見事な映像化を果たしているといっても過言ではないように思えます。

さらにイッポリートが、「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも思い起こすならば、黒澤明が映画《肖像》の脚本だけでなく、この映画で山岳画家を主人公として描いているのは、「本当の美」を示す必要性を感じていたためでしょう。

一方、映画《白痴》は綾子(アグラーヤ)が、「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語るシーンで終わっています。

長編小説『白痴』ではアグラーヤが亡命伯爵を名乗るポーランド人と駆け落ちしたと描かれているので、そこだけを見ればこのシーンは明らかに原作とは異っています。しかし、原作の数多くの登場人物の複雑な人間関係をより分かりやすくするために、映画《白痴》では軽部がレーベジェフだけでなく高利貸しのプチーツィンをも兼ねた形で描かれるなどの工夫がされていました。

 そのことに留意するならば、このエピローグで描かれている綾子のセリフはアグラーヤだけでなく、映画《白痴》では省略されていたヴェーラの思いも兼ねていると言えるでしょう。しかし、ラドームスキーをムィシキンの単なる批判者と解釈していた小林秀雄には、黒澤映画の深みは理解できなかったのだと思えます。

「殺すなかれ」と語ったイエスは十字架に磔にされて死にましたが、キリスト教社会でイエスは無力で無残に亡くなった者としてではなく、「本当に美しい」人間としてその「記憶」は長く語り継がれたのです。ドストエフスキーも『白痴』においてムィシキンを「記憶」に長く残る「本当に美しい」人間として描いていたのです。

映画《夢》では、ゴッホとの出会いだけでなく、福島第一原子力発電所の大事故を予告するような「赤富士」のシーンも描かれていることに注目するならば、黒澤監督はムィシキン的な形象を、単に病んだ人間を治癒する者としてだけではなく、病んだ世界を治癒しようとした者と捉えていたといえるかもしれません。

黒澤明が日本においては大胆と思える解釈をなしえたのは、彼が学問的な権威には従属しない映画という表現方法によったことも大きいと思われます。

まもなくドストエフスキーの生誕200周年を迎えるにあたって、ドストエフスキー作品の黒澤明的な解釈が日本でも深まることを願っています。

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黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

映画《白痴》と『椿姫』――ソフィア大学での挨拶

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

混迷の時代と新しい価値観の模索―『罪と罰』の再考察

 もうすぐ「ロシア文学研究」の授業が始まります。

昨年度の講義では国際シンポジウムのテーマともなった『白痴』を中心的に考察しました。西欧文学からの影響も強く見られる作品なので難しいかと思われましたが、思いがけず好評でした。

残念ながら、日本では『白痴』の主人公の一人であるナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定した文芸評論家・小林秀雄の『白痴』解釈がいまだに強い影響力を保っています。

しかし、ロシアもまたキリスト教国であり、西欧の文学から強い影響を受けたドストエフスキーはこの作品でも『ドン・キホーテ』や『椿姫』などに言及しています。それらの作品や『レ・ミゼラブル』との関連をとおしてこの作品を分析するとき、浮かび上がってくるのはパワハラや「噂」などで苦しめられた女性の姿なのです。

それゆえ講義では。黒澤映画《白痴》なども紹介することで、小林秀雄が「悪魔に魂を売り渡して了つた」と批判した主人公のムィシキンは、「殺すなかれ」というイエスの理念を伝えようとしていた若者だったことを明らかにしました。

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     *   *

それゆえ、今年も同じく『白痴』を扱おうかとも考えましたが、結局、『白痴』をも視野に入れながら『罪と罰』を中心に考察することにしました。1866年に「憲法」のないロシア帝国で発表された『罪と罰』で描かれている個人や社会の状況は、現代の日本を先取りするように鋭く深いものがあるからです。

たとえば、ドストエフスキーは1862年に訪れたロンドンでは、ロシアの農奴よりもひどいと思われる労働者の生活や発生していた環境汚染を目撃していました。それらの状況は『罪と罰』における大都市サンクトペテルブルグの描写にも反映されているのです。

合法的に行われていた高利貸しの問題が殺人の原因になっていることはよく知られていますが、この長編小説では悪徳弁護士のルージンが述べる現在のトリクルダウン理論に近い考えも、登場人物の議論をとおして厳しく批判されています。

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そして、ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公にナポレオン三世が記したのと同じような「非凡人の理論」を語らせていますが、社会ダーウィニズムを理論的な根拠にした「弱肉強食の思想」と「超人思想」などはすでに当時の西欧社会を席巻しており、後にヒトラーはこの考えを拡大して「非凡民族の理論」を唱えることになるのです。

こうして、19世紀に書かれた『罪と罰』は、時代を先取りし、現代につながるような思想的な問題をも都市の描写や主人公と他者との対話、さらに主人公の夢などをとおして描き出していたのです。

→ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

   *    *

私が『罪と罰』と出会った当時はベトナム戦争が続いて価値が混迷し、日本では反戦を訴えていた過激派が互いに激しい内ゲバを繰り返して死者も出るようになっていました。その一方で激しい言論弾圧も行われていた隣国の韓国では、朝鮮戦争時の日本と同じように、ベトナム戦争による戦争特需が生まれていたのです。

残念ながら最初に『罪と罰』と出会った頃の現在の日本は軍事政権下の韓国の状況に似て来たように見えます。地球の温暖化や乱立する原発などが状況をより難しくしています。

しかし、ドストエフスキーはロシア帝国だけでなく、おおくの西欧初校も抱えていた多くの矛盾を長編小説という方法で考察し、その矛盾に満ちた世界を改善しようとしていました。

→ 三浦春馬が“正義”のために殺人を犯す青年を熱演!
舞台「罪と罰 …プレビュー 2:44

   *   *

また、プーシキンやトルストイの作品などを学ぶことはロシアの歴史や社会を知ることになります。一方、ロシア文学の受容を考察することは、日本の歴史や社会をより深く知ることにもつながります。

ここでは初めての邦訳者・内田魯庵や批評家・北村透谷、そして『罪と罰』を深く研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村など明治の文学者たちの視点で『罪と罰』を読み解くことにより、差別や法制度の問題にも迫ります。

そして、「平民主義者」から「帝国主義者」へと変貌した徳富蘇峰の「教育勅語」観や「英雄史観」にも注目しながら、「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が書いた『罪と罰』の特徴を分析することで、現代にも通じるその危険性を明らかにすることができるでしょう。

    *   *

講義概要

この講義では近代日本文学の成立に大きな役割を果たしたロシア文学をドストエフスキーの『罪と罰』を中心に、ロシア文学の父と呼ばれるプーシキンの作品やトルストイの『戦争と平和』などを世界文学も視野に入れながら映像資料も用いて考察する。

  具体的には比較文学的な手法によりシェイクスピアの戯曲やゲーテの『若きヴェルテルの悩み』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてユゴーの『レ・ミゼラブル』と『罪と罰』との深い関わりを明らかにする。そのうえで『罪と罰』の筋や人物体系の研究の上に成立している島崎藤村の長編小説『破戒』などを具体的に分析することで、近代日本文学の成立とロシア文学との深い関わりを示す。

 さらに、ドストエフスキーとほぼ同時代を生きた福沢諭吉の「桃太郎盗人論」や芥川龍之介の短編「桃太郎」と『罪と罰』の主人公の「非凡人の理論」を比較し、手塚治虫や黒澤明、さらに宮崎駿の作品とのかかわりを考察することで、『罪と罰』の現代的な意義を明らかにする。 (ロシア語の知識は必要としない)。

「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 

 

「ラピュタ」6、「腐海の森」から「生命の樹」へ――「科学と自然」と「非凡人と凡人」の関係の考察

「天空の城ラピュタ 画像」の画像検索結果(画像は matome.naver.jp より)

 『風の谷のナウシカ』(1984)における圧倒的な存在感のある「腐海の森」のテーマは、「高度に進んだ科学と自然」との関係を問いただすものでした。この映画では夢の中でナウシカが子供の頃に戻って、「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれています。

このシーンを見て連想したのは、近代西欧の「弱肉強食の思想」から強い影響を受けた『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが「非凡人の理論」を編み出して、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」を殺害しようと計画を練りはじめた頃に見た「やせ馬が殺される夢」のことでした。そこでも夢の中で子供に戻った主人公は、やせ馬を「殺さないで」と叫んでいたのです。『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフは「人類滅亡の悪夢」を見て、その夢がきっかけとなり「非凡人の思想」の危険性を理解するようになることが示唆されています。

一方、『風の谷のナウシカ』の最期のシーンでナウシカは「怒り」のために走り出した王蟲の群れによって「風の谷」の住民が全滅しようとするところに、自分の身を顧みずに自分が助けた「王蟲の子供」とともに降り立つという献身的な行動をとるのです。

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

宮崎駿はこのシーンに、「国家」のために「特攻」することで「神」となるような「美しい物語」とは異なり、深い傷を負ったナウシカが王蟲たちによって癒され、復活するという『罪と罰』のエピローグ的な構造を与えています。(『罪と罰』の場合は肉体的な傷ではなく精神的な傷ですが、それでも致命傷に近い精神的な傷から長い時間をかけて蘇ることになるのです)。

 『天空の城ラピュタ』には『風の谷のナウシカ』で描かれていた「腐海の森」は欠けていますが、その代わりに徐々に「生命の樹」のテーマが姿を現してくることになります。

 龍の巣と呼ばれる嵐を乗り越えてラピュタに上陸した主人公のパズーとシータが、灌木をかき分けていくと中央にそびえる天まで届くような巨木に出会います。それでも最初のうちは「生命の樹」のテーマはパズーが必死で掴まる根っこの形で示されるに過ぎません。

 しかし、自分以外の者を「バカども」と見下すムスカが「王族しか入れない聖域」にまで入り込んでいた木の根を見て「一段落したら全て焼き払ってやる」と語るところから「科学と自然」と「非凡人と凡人」のテーマが明確に現れてきます。

 たとえば、「素晴らしい! 700年もの間、王の帰りを待っていたのだ!」と語ったムスカはその一方で、「素晴らしい!!最高のショーだとは思わんかね」と問いかけ、ラピュタから落ちていく兵士たちを見ながら「あっはっは、見ろ。人がゴミのようだ」と楽しそうに語るのです。

 さらに、「これから王国の復活を祝って、諸君にラピュタの力を見せてやろう」とし、旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の火」である「ラピュタの雷(いかずち)」を見せて、「全世界は再びラピュタの元にひれ伏すことになるだろう!」と語ります。

すると、恐怖心から「すばらしい、ムスカ君。君は英雄だ。大変な功績だ」と急に態度を一転させた将軍に対しても「君のアホづらには、心底うんざりさせられる」と続けたのです。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 このようなムスカの言葉は、「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定していた『罪と罰』のラスコーリニコフの言葉を想起させます(三・五)。しかも彼も自分の望みを「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」とも語っていました(四・四)。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーはラスコーリニコフに、自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

 一方、フランス文学者の鹿島茂氏は小林秀雄がランボーを「人生斫断家(しゃくだんか)」と定義していたことに注目して、「斫断」というのは辞書にはないので「同じ意味の漢字を並べて意味を強調する」ための造語で、「いきなりぶった切る」という意味を出したかったのではないかと記しています。

 そして鹿島氏は、「昭和維新」を熱心に論じあい、「斎藤実や高橋是清を惨殺した二・二六の将校」と、小林が「その深層心理ないしは無意識において」は、「それほどには違っていなかったのではあるまいか?」と推定しています。きわめて大胆な仮定ですが、「いきなりぶった切る」という意味の「斫断」という単語は、「一思いに打ちこわす、それだけの話さ」と語り、「いやなによりも権力だ!」と続けていたラスコーリニコフの言葉を想起させるのです。

ドーダの人、小林秀雄

 小林秀雄が1940年に書いた『我が闘争』の短評でヒトラーの思想を賛美したことも鹿島説の正しさを示していると思えます。こうして、青年将校たちが「昭和維新」を熱心に論じあっていた頃に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論は、若者たちに強い影響を及ぼしました。たとえば、ドストエフスキーの作品論をとおして「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と主張した堀場正夫は、著書『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』(白馬書房、昭和一七年)の「序にかえて」で日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美しました。そして、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎える直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であった」と記して、それまでの平和な時代を罵っていたのです。

 しかし、『罪と罰』の中心的なテーマである「良心」の問題などは無視して、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈した小林秀雄の評論は、自分に引き付けた原作とは正反対のテキスト解釈でした。

 その解釈には――1,作品の人物体系や構造を軽視し、自分の主観でテキストを解釈する。 2,自分の主張にあわないテキストは「排除」し、それに対する批判は「無視」する。 3,不都合な記述は「改竄」、あるいは「隠蔽」する――などの特徴があります。

 しかし、権力者によって都合がよかったためにその評論は戦後も影響力を保って、「評論の神様」と奉られるようになったことになった小林秀雄は、1960年の「ヒットラーと悪魔」でも大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用に注目しながら再び『我が闘争』について詳しく論じました。

作家の坂口安吾は小林秀雄のことを「教祖」と呼びましたが、小林はヒットラーと悪魔」を書いた翌年からは「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎に招かれて「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会で本居宣長などについて5回も講演を行い、それらの講演の後では青年たちとも「対話」も行われていたので、そこからは「日本会議」系の論客も育っていました。

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しかし、邦訳を行った内田魯庵ばかりでなく、北村透谷や島崎藤村など明治の文学者たちは特定の個人に焦点を当てて解釈するのではなく、登場人物の人物体系や全体的な筋の流れを踏まえて『罪と罰』を精緻に分析していました。

明治の文学者たちと同じように宮崎駿のアニメを読み解く際にも、登場人物の人物体系や全体的な筋の流れを踏まえて鑑賞することが必要だと思えます。

 『天空の城ラピュタ』では、パズーが「このままではムスカが王になってしまう。…略奪より、もっとひどいことが始まるよ!」と語って「非凡人の思想」を厳しく批判すると、「飛行石を取り戻したって、わたしどうしたらよいか」と悩んだシータが思い出したのが「滅びの呪文」だったのです。 

 そして、ムスカに「国が滅びたのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ」と告げたシータは、「ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。 『土に根をおろし、風と共に生きよう(中略)』 どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!」と続けています。

小林秀雄の『罪と罰』論の手法は、安倍政権による国会の議論の手法や公文書の改竄と隠蔽にも共通していると思えますが、「ラピュタのいかずち」による巨大な雲の形は明らかに原水爆の非人道性を示しています。

二度の原爆投下だけでなく水爆実験の被害にもあったにもかかわらず、身内の者のみを優遇していまだに「核兵器禁止条約」の批准も拒み、原発の推進を行っている政治家たちの前近代な「道徳」観や「公共」観の危険性を『天空の城ラピュタ』は、30年以上も前に予告していたと言えるでしょう。

こうして、科学技術の過信や「最終兵器」が世界を滅ぼすという『風の谷のナウシカ』から一貫して描かれているテーマとともに、「非凡人の思想」や独裁者の危険性が『天空の城ラピュタ』ではより明確に描写されることで、愛する地球を守るために、自分たちの生命をも危険にさらしてパズーとシータが声をそろえて「バルス!」と叫ぶシーンが感動を呼ぶのです。

 一方、このアニメでは「天空の城ラピュタ」が崩壊したかに見えた後で、圧倒的な姿を現すのが「生命の樹」のテーマです。巨木の根で覆われたラピュタは、基底の高度な文明の部分が崩れ落ちたあとも、完全に崩壊することはなく、上部の美しい森や公園を残したまま、天空へと上昇していくのです。

こうしてこのアニメ『天空の城ラピュタ』は、すぐれた民話と同じように分かり易い映像で子供たちに普遍的で大切な英知を伝えているのだと思います。

 

『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈(1、改訂版)テーマの継承と発展――『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』へ(+「目次」)

「ラピュタ」(4,追加版)、「満州国」のテーマの深化――『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』へ

「映画 風立ちぬ 画像」の画像検索結果

(画像はoricon.co.jp  より)

はじめに

この考察の第2回で『風の谷のナウシカ』(1984)には「満州国」のテーマも秘められていましたと記しました。ただ、「王道楽土」という用語から「満州国」のテーマが秘められていると記して先に進むのは少し強引すぎたようです。

それゆえ、『天空の城ラピュタ』からは離れることになりますが、「満州国」のテーマを浮かび上がらせるために、今回は『風の谷のナウシカ』と映画『風立ちぬ』との深い関りを記すことにします。分量が意外と多くなりましたので独立させて(3)の後に置いて(4、追加版)としました。

   *   *   *

 作家・堀辰雄の小説『風立ちぬ』を骨格の一つとする映画『風立ちぬ』を公開した宮崎駿監督は、この映画の後で公開された映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造」と厳しく批判していました。

 https://twitter.com/stakaha5/status/1117103001485758464

拙著『ゴジラの哀しみ』の第2部で詳しく分析したように、作家・司馬遼太郎の高級官僚批判をほとんど抜き出したような記述もあるこの映画の原作では、主人公の「僕」に「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」などと語らせることで、反戦小説と誤読されています。

 しかし、長編小説『永遠の0』は反戦を装いつつも、多くの県民を犠牲にした「沖縄戦」を正当化しつつ、「皇紀2600年」を記念して零戦と名づけられた戦闘機を讃えることにより、その結末では「特攻」を讃美していたのです。

 一方、映画『紅の豚』や『風の谷のナウシカ』では、空中戦の空(むな)しさを示唆するような映像も示されていましたが、地上の戦いはいっそう悲惨で、230万ほどの戦死者のうちの6~8割が『餓死』をしており、華々しい戦いで亡くなる「英霊」とは敬われないような戦いを強いられていたのです(藤原彰『餓死した英霊たち』)。

 作家の堀田善衞が自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で描いたのは、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した若者を主人公として、彼が「赤紙」で召集されるまでの、戦争への批判も許されない重苦しい「満州国」建国後の時代でした。

その堀田善衞について宮崎監督は、「堀田さんは海原に屹立している巌のような方だった。潮に流されて自分の位置が判らなくなった時、ぼくは何度も堀田さんにたすけられた」と書いています(『時代と人間』)。

時代と人間

映画『風立ちぬ』では作家・堀辰雄の小説だけでなく零戦の設計者・堀越二郎の伝記をも踏まえていたために厳しい批判も浴びましたが、宮崎監督はこの映画について、「少年時代の堀越二郎の夢に出て来る草原は、空想の世界の草原です。でも、終わりの草原は現実で、『あれはノモンハンのホロンバイル草原だよ』」とスタッフに語り、戦争の悲惨さにも注意を促していました。

 しかも、宮崎が深く敬愛していた作家の司馬遼太郎は劇作家・井上ひさし氏との対談で「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と語り、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」で、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と語り、戦闘に参戦した須見・連隊長の次のような証言をも記しています。

すなわち、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよ」と命じられたことを伝えた須見新一郎元大佐は、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と厳しく批判したのです(『国家・宗教・日本人』)。

 「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いています(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は『坂の上の雲』での考察を踏まえて、「昭和初期」の日本の病理を分析する大作となることが予想されたのですが、この長編小説の取材のためもあり行った元大本営参謀の瀬島龍三との対談が、『文藝春秋』の正月号(1974年)に掲載されたことが、構想を破綻させることになりました。この対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えたのです(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

司馬氏に対する須見元連隊長のこのように激しい怒りは理解しにくいかもしれませんが、シベリアに抑留された後で、戦後に商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになった瀬島は、1995年には「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」顧問の役職に就いているのです。

 一方、「ノモンハンの時の辻らの高級参謀への鋭い批判が記されている『永遠の0(ゼロ)』では、元大本営参謀・瀬島龍三批判は記されていないどころか、彼をモデルとして元海軍中尉で「一部上場企業の社長まで務めた」武田貴則という登場人物を構想し、その彼に新聞記者の戦争観を激しく批判させている可能性が高いのです。

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少し、長くなりましたので映画『風立ちぬ』については後でもう少し詳しくみることにして、(2)の「宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化(隠された「満州国」のテーマ)」に戻って、橋川が保田與重郎とともに「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」と記している評論家・小林秀雄の戦争観を確認して頂ければと思います。

 小林秀雄の『罪と罰』解釈を確認することにより、小林の「超人(非凡人)」観を厳しく批判していた手塚治虫のマンガ『罪と罰』とその考察を踏まえて創られていると思える宮崎アニメの意義をより深く理解できることになると思えます。

 

 「ラピュタ」2――宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化(隠された「満州国」のテーマ)

 『天空の城ラピュタ』の二年前に公開された『風の谷のナウシカ』(1984)における『罪と罰』のテーマについてはすでに何度かふれてきましたが、このアニメには「満州国」のテーマも秘められていました。

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

 すなわち、「風の谷」を侵略した大国の皇女は自分たちに従えば「王道楽土」を約束すると語るのですが、それはかつて日本が「満州国」を建国した際に理想を謳った「五族協和」や「八紘一宇」と同じようなスローガンの一つだったのです

 雑誌『日本浪曼派』の主催者・保田與重郎も「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と、「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で讃えていました(橋川文三『日本浪曼派批判序説』講談社文芸文庫、34頁)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

 それゆえ、このようなスローガンに惹かれて日本だけでなく、植民地だった朝鮮からも多くの人々がそこに移住しましたが、実態は理想とはかけ離れたものでした。彼らに与えられた土地は満州に住んでいた人々が安く買いたたかれて手放した土地であり、そこでは軍が深く関わっていたアヘンも横行するようになっていたのです(姜尚中、玄武岩著『興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産』 講談社学術文庫、2016年参照)。

興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産 (講談社学術文庫)

 評論家の橋川文三が指摘したように、「満州国建国前後の、挫折・失望・頽廃(たいはい)の状況こそ、『昭和の青春像の原型』であり、この『デスパレートな心情』こそ、『深い夢を宿した強い政治』への渇望の燃料」となっていました。

 橋川は保田與重郎とともに小林秀雄が、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促していますが、「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が原作における人物体系などには注意を払わずに行った『罪と罰』の解釈にもナチズム的な暴力主義への傾倒が秘められています(拙著、第6章参照)。

 さらに小林秀雄は真珠湾の攻撃を「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。」と美しく描き出しました(小林秀雄「戦争と平和」)。 しかし、作家の堀田善衞が指摘しているようにこの真珠湾攻撃には「特殊潜航艇による特別攻撃」がともなっており、この攻撃に参加した若者たちは暗い海の藻屑となって全員が亡くなり、「軍神」として奉られていたのです。

 しかし、アニメ『天空の城ラピュタ』が放映される数日前には靖国神社や自衛隊で人間魚雷「回天」のキューピーちゃん人形が販売されていたことが話題になっていました。司馬遼太郎とも対話を行っていた元第十八震洋特攻隊隊長で作家・島尾敏雄氏の作品を読んでいたこともあり、そんな「不謹慎」なことはありえないだろうと考えていたのですが、実際に2009年12月までは販売されていたようで、その写真を見て愕然としました。

 さらに、「#あなたが作りそうなジブリ作品のタイトル」というハッシュタグには、「・回天の城ラピュタ ・指揮官の動く城 ・海自の恩返し ・人形立ちぬ ・艦これ姫の物語 ・前線の豚 ・写真の墓 ・戦艦戦記」などの軍隊系の題名が挙げられ、特殊潜航艇「回天」もその題名に取り入れられていたのです。

 一方、東大から経産省などをへて衆議院議員になった丸山穂高氏が、北方領土での言動が激しい顰蹙を買ったにもかかわらず、むしろ前科を誇るかのようにツイッターのプロフィール欄に「憲政史上初の衆院糾弾決議も!」と書きこんでいることに気づきました。

 しかも、8月31日のツイートでは竹島への攻撃を扇動したことがS 氏に批判されると、広島と長崎の悲劇について「過ちは繰返しませぬから」と言うべきは原爆を投下して非戦闘員を含めた非道なる大量虐殺を行った米軍かと。理解されていないのはどちらですかね?まさに敗戦国の末路かと。」と揶揄していました。しかし、「貴方の返信を多くのみなさん知って貰いたいので返信を公開して良いですか?」とS 氏から問いただされると直ちに自分のツイートを削除したようです。

 これらの投稿からは彼が核戦争の悲惨さについて考えたこともないだろうということが分かりますが、それは「#バルス祭り」などを提案しているツイッターの書き手にも通じているでしょう。そのことはアニメ『千と千尋の神隠し』が放映された後でこの映画の主題歌に関連して、宮崎監督の深い平和観について次のようなツイートをした際にも感じました。

 「安倍首相の復古的な歴史観を批判した宮崎駿監督の映画は民話的な構想に深い哲学的な考察を含んでおり世界中で愛されています。たとえば、ウクライナの女性歌手Nataliya Gudziyも、『千と千尋』の主題歌を通して原爆と原発事故とのかかわりついて深い説得力のある言葉で語っています。」。

ウクライナ美女が 千と千尋~ 主題歌を熱唱 Nataliya Gudziy … – YouTube

 このツイートに対しては多くのリツイートと「いいね」が寄せられましたが、そればかりでなくネトウヨと思われる人からの執拗な反論がありました。粘り強く反論すると不意にブロックされたばかりでなく、相手やその支持者たちの多くのいやがらせのツイートも完全に消されていたのです。

 そのような経緯から安倍首相が「核兵器禁止条約」の批准に反対し、原爆反対の書名集めも政治活動と見なすようになるなかで、宮崎駿監督の映画をも敵視するような若者や大人が増え始めていると感じました。

 少し大げさなようですが、亡びの呪文である「バルス」がツイッターのトレンドに入るような状況からは日本の言語文化が危機に瀕しており、情緒的な短い文章で感情的に煽ることには長けていても、自分の考えをきちんと論理的に相手に伝える能力が低下しているのではないかとさえ思えます。

 それはアニメの理解だけでなく、日本の学校における文学の教育にも深く関わっています。