高橋誠一郎 公式ホームページ

正岡子規

新刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

(装丁:山田英春)

ISBN978-4-86520-031-7 C0098
四六判上製 本文縦組224頁
定価(本体2000円+税)
2019.02

→ http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-031-7.htm

〔青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解き、島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』との関連に迫る。→  https://twitter.com/stakaha5/status/1087718612624764929

〔さらに、「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する過程を考察し、蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性を明らかにする。→ https://twitter.com/stakaha5/status/1087720436148985856

 

目次

はじめに 危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容   

 

第一章 「古代復帰の夢想」と「維新」という幻想――『夜明け前』を読み直す

はじめに 黒船来航の「うわさ」と「写生」という方法

一、幕末の「山林事件」と「古代復帰の夢想」

二、幕末の「神国思想」と「天誅」という名のテロ

三、裏切られた「革命」――「神武創業への復帰」と明治の「山林事件」

四、新政府の悪政と「国会開設」運動

五、「復古神道」の衰退と青山半蔵の狂死

 

第二章 一九世紀のグローバリズムと日露の近代化――ドストエフスキーと徳富蘇峰

はじめに 徳富蘇峰の『国民之友』と島崎藤村

一、人間の考察と「方法としての文学」

二、帝政ロシアの言論統制と『貧しき人々』の方法

三、「大改革」の時代と法制度の整備

四、ナポレオン三世の戦争観と英雄観

五、横井小楠の横死と徳富蘇峰

六、徳富蘇峰の『国民之友』とドストエフスキーの『時代』

 

第三章 透谷の『罪と罰』観と明治の「史観」論争――徳富蘇峰の影

はじめに 北村透谷と島崎藤村の出会いと死別

一、『罪と罰』の世界と北村透谷

二、「人生相渉論争」と「教育勅語」の渙発

三、「宗教と教育」論争と蘇峰の「忠君愛国」観

四、透谷の自殺とその反響

 

第四章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化

はじめに 『文学界』と『国民之友』の廃刊と島崎藤村

一、樋口一葉と明治の『文学界』

二、『文学界』の蘇峰批判と徳冨蘆花

三、『罪と罰』における女性の描写と樋口一葉

四、正岡子規の文学観と島崎藤村――「虚構」という手法

五、日露戦争の時代と言論統制

 

第五章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く――差別と「良心」の考察

はじめに 『罪と罰』の構造と『破戒』

一、「事実」の告白と隠蔽

二、郡視学と校長の教育観――「忠孝」についての演説と差別

三、丑松の父と猪子蓮太郎の価値観

四、「鬱蒼たる森林」の謎と植物学――ラズミーヒンと土屋銀之助の働き

五、「内部の生命」――政治家・高柳と瀬川丑松

六、『破戒』と『罪と罰』の結末

            

第六章 『罪と罰』の新解釈とよみがえる「神国思想」――徳富蘇峰から小林秀雄へ

はじめに 蘇峰の戦争観と文学観

一、漱石と鷗外の文学観と蘇峰の歴史観――『大正の青年と帝国の前途』

二、小林秀雄の『破戒』論と『罪と罰』論――「排除」という手法

三、小林秀雄の『夜明け前』論とよみがえる「神国思想」

四、書評『我が闘争』と『罪と罰』――「支配と服従」の考察

五、小林秀雄と堀田善衞――危機の時代と文学

あとがきに代えて   「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

初出一覧

参考文献

(2018年12月23日、改訂。2019年1月22日、カバーの写真を追加。2019年2月15日、新刊到着)

大岡昇平の江藤淳批判と子規の評論の高い評価

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夏目漱石(1867~1916、本名は金之助)。以下の図版は、いずれも「ウィキペディア」より。

夏目漱石は断片「無題」の最後に、自分の留学中に亡くなった盟友・子規への思いを次のように記していました。

 「霜白く空重き日なりき、我西土より帰りて、始めて汝が墓門に入る。爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周る事三度、花も捧げず水も手向けず、只この棒杭を周る事三度にして去れり。汝は只汝の土臭き影をかぎて、汝の定かならぬ影と較べなと思ひしのみ」。

文芸評論家の江藤淳は、この文章を「子規に托し、嫂登世の墓を前にしての「孤愁」を述べた」ものであると解釈し、「棒杭とは登世の戒名を書いた『卒塔婆』であることが判明する」と注記していました。

これに対して、「卒塔婆はどうみても板で」あるが、「子規の墓はこの頃は例の墓標で、まさに『棒杭』だったのである」と指摘した大岡昇平は『子規全集』の監修者の一人として、「私はこの文献を江藤氏の三文小説的な曲解から守るつもりである」と記していました。(「江藤淳の『漱石とアーサー王傳説』を読む」、『文学における虚と実』、講談社、1976年、89~94頁)。

漱石の作品を嫂登世への思いという視点からスキャンダラスに解釈した文芸評論家の江藤淳は、「『文学論』を書いていた漱石には、自らの復讐の対象である文学の感触を楽しんでいるような、奇妙に倒錯した姿勢がある」とも記していました(下線引用者、江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮文庫、1979年、45頁)。

しかし、正岡子規についての著作もある末延芳晴氏は、ロンドンでの漱石を考察して、江藤のような解釈は「『文学論』とその『序』が持つ本質的意味を読み誤ってしまって」いると厳しく批判しています(末延芳晴『夏目金之助 ロンドンに狂せり』青土社、2004年、462~464頁)。

この意味で注目したいのは、作家で小林秀雄の直弟子といえる大岡昇平が、こう記していたことです。

「私は、漱石は子供のとき読んだきりでございまして、むしろ若いころは、漱石は何かあまりおもしろくないんだというような雰囲気の中にいたわけで、私は高等学校のころから、つまり昭和の初めですが、いろいろ教えていただいた小林秀雄、河上徹太郎、あのグループには漱石論はないのです。」

しかも、大岡は江藤淳の夏目漱石論について「江藤さんの学術的探索は、こういう風に常にテクストから遊離したところで行われています」と、批判しています。(「漱石の構想力 江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』批判、『文学における虚と実』、95頁、108頁)。

この大岡の言葉からは、『罪と罰』論に続く「『白痴』についてⅠ」で小林秀雄が、貴族トーツキーの妾にされていた美女のナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことが思い起こされます。なぜならば、両親が火災で亡くなったために孤児となったナスターシヤは、少女趣味のあったトーツキーによって無理矢理に妾にさせられていたのです。

「憲法」がなく表現の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで苦闘していたドストエフスキーの作品を主人公たちの情念に絞ってスキャンダラスに分析した小林秀雄の解釈の手法は、文芸評論家・江藤淳の漱石論にも受け継がれているといえるでしょう。

他方で大岡昇平は、島崎藤村の『若菜集』を新聞『日本』で厳しく批判した子規の「若菜集の詩と画」について、子規の評論には「同じ直截な論理と、歯に衣きせぬ語法において、今日でも私たちが手本とすべき多くのものを含んでいると思われる」と書いていました。

北村透谷の死後に島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社の相談をしていたことを考えるならば、『若菜集』から長編小説『破戒』への移行を考えるうえで、子規の批評についての大岡の評価はきわめて重要だと思えます。

(2018年4月24日、改訂。5月6日、改訂と改題)

小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

上海事変が勃発した一九三二(昭和七)年六月に書いた評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書いた文芸評論家の小林秀雄は、その一方でドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記しました〔『小林秀雄全集』〕。

しかし、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林は、ラスコーリニコフの家族とマルメラードフの二つの家族の関係には注意を払わずに主観的に読み解き、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」との解釈を記したのです。

そして、小林は新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、『罪と罰』では「マルメラードフと云う貴族の成れの果ての遺族が」「遂には乞食とまで成り下がる」という筋が、ラスコーリニコフの「良心」をめぐる筋と組み合わされていると指摘していた内田魯庵の『罪と罰』理解からは大きく後退しているように思えます。

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(書影は「アマゾン」より) (島崎藤村、図版は「ウィキペディア」より)

 この意味で注目したいのは、天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が崩壊することになる一九三五年に書いた「私小説論」で、ルソーだけでなくジイドやプルーストなどにも言及しながら「彼等の私小説の主人公などがどの様に己の実生活的意義を疑つてゐるにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである」と書いた小林が、『罪と罰』の強い影響が指摘されていた島崎藤村の長編小説『破戒』をこう批判していたことです。

 

「藤村の『破戒』における革命も、秋声の『あらくれ』における爛熟も、主観的にはどのようなものだったにせよ、技法上の革命であり爛熟であったと形容するのが正しいのだ。私小説がいわゆる心境小説に通ずるゆえんもそこにある」。

日本の自然主義作家における「充分に社会化した『私』」の欠如を小林秀雄が指摘していることに注目するならば、長編小説『破戒』を「自然や社会との確然たる対決」を避けた作品であると見なしていたように見えます。

たしかに、長編小説『破戒』は差別されていた主人公の丑松が生徒に謝罪をしてアメリカに去るという形で終わります。しかし、そのように「社会との対決」を避けたように見える悲劇的な結末を描くことで、藤村は差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出し得ているのです。

そのような長編小説『破戒』の方法は、厳しい検閲を強く意識しながら主人公に道化的な性格を与えることで、笑いと涙をとおして権力者の問題を浮き堀にした『貧しき人々』などドストエフスキーの初期作品の方法をも想起させます。

さらに、小林秀雄は「私小説論」で日本の自然主義文学を批判する一方で、「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった」と書いていましたが、この記述からは独裁化した「薩長藩閥政府」との厳しい闘いをとおして明治時代に獲得した「立憲主義」の意義が浮かび上がってはこないのです。

Bungakukai(Meiji)

(創刊号の表紙。1893年1月から1898年1月まで発行。図版は「ウィキペディア」より)

これに対して島崎藤村は「自由民権運動」と深く関わり、『国民之友』の山路愛山や徳富蘇峰とも激しい論争を行った『文学界』の精神的なリーダー・北村透谷についてこう記していました。

「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」。

実は、キリスト教の伝道者でもあった友人の山路愛山を「反動」と決めつけた透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」が『文学界』の第二号に掲載されたのは、「『罪と罰』の殺人罪」が『女学雑誌』に掲載された翌月のことだったのです。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名(なづ)くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡(ひろ)めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」。

愛山の頼山陽論を「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と名付けた透谷の激しさには驚かされますが、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えたこの史論に、現代風にいえば戦争を煽る危険なイデオロギーを透谷が見ていたためだと思われます。

なぜならば、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏は、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたからです。

つまり、北村透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」は「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と深い内的な関係を有していたのです。

このように見てくる時、「教育勅語」の「忠孝」の理念を賛美する講演を行う一方で自分たちの利益のために、維新で達成されたはずの「四民平等」の理念を裏切り、差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出していた長編小説『破戒』が、透谷の理念をも受け継いでいることも強く感じられます。

その長編小説『破戒』を弟子の森田草平に宛てた手紙で、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞していたのが夏目漱石でしたが、小林秀雄は「私小説論」で「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである」と書いていました。

夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、明治の文学者たちによる『罪と罰』の受容を分析することによって、私たちはこの長編小説の現代的な意義にも迫ることができるでしょう。

(2018年4月24日、改訂。5月4日、改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

 主な引用文献

島崎藤村『破戒』新潮文庫。

『小林秀雄全集』新潮社。    

夏目漱石の明治観と「明治維新」という用語

1月1日の年頭所感で安倍首相は「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出して「明治維新」の意義を賛美し、それを受けて菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と語っていました。

しかし、夏目漱石や司馬遼太郎についての造詣の深い作家の半藤一利氏は、「明治維新150周年、何がめでたい」と題されたインタビュー記事で、そのような安倍政権の官軍的な歴史認識を指摘して、「賊軍は差別を受け、今も原発は賊軍地域に集中している」と批判していました。

→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

夏目漱石との関連で注目したいのは、夏目漱石や永井荷風が「著作の中で『維新』という言葉は使っていません」と指摘した半藤氏が、「明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられて」おらず、「『明治維新』という言葉が使われだしたのは」、政変で肥前(佐賀)の大隈重信らが政権から追い出される前年の明治13年か明治14年からであることを指摘して、次のように続けていることです。

「薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、『維新』の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。」

この指摘は夏目漱石や正岡子規の文学作品を理解する上でも重要だと思われます。

『世界文学』126

夏目漱石の文学観の深まりについては、「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の2017年度第4回研究会で、〔夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ〕という題で発表を行っていました。(レジュメとユーチューブの動画1,2) 

その後、「明治維新150年」記念事業を積極的に進めている安倍政権の危険性に注意を促すために、〔『それから』と「大逆事件」――「教育勅語」の経典化と「ロシア版『教育勅語』」〕と〔おわりに――漱石と子規の「報道の自由」の考察と「立憲主義」の危機〕を加えた論文〔「夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較――「教育勅語」の渙発から大逆事件へ〕を『世界文学』(第126号、2017)に寄稿しました。

なぜならば、安倍首相は「明治維新」が「これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から」解き放ったと語っていましたが、実態はむしろその反対だったからです。

たとえば、夏目漱石は長編小説『破戒』を高く評価していましたが、島崎藤村はその冒頭で宿泊客が穢多(えた)であるとの噂が広がると他の客が「不浄だ、不浄だ」と罵詈(ばり)雑言を投げかけ、追い出す際には「塩を掴んで庭に蒔散(まきち)らす弥次馬」もあらわれたという場面を描いていました。

明治4年に「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた「解放令」によって名称が「新平民」と変わっても実質的には激しい差別は続いていたのです。。

一方、「明治維新」を賛美した安倍首相の政権下の日本では、韓国や中国の人々に対するヘイトスピーチだけでなく、福島の被爆者や沖縄県民に対しても侮辱的な言動が再び横行するようになっています。

そのことについては、法学部で学んだ元学生を主人公として『罪と罰』との関係で、被差別部落民を主人公とした長編小説『破戒』を考察した拙論「『罪と罰』から『破戒』へ――北村透谷を介して」で詳しく論じました(『ドストエーフスキイ広場』に掲載予定)。

*   *   *

 実は、産経新聞などによって「明治国家」の賛美者とされてきた司馬遼太郎氏もすでに『竜馬がゆく』において、「天誅」の名前でテロを正当化していた幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記していたのです。

さらに『坂の上の雲』の終了後に書いたエッセー「竜馬像の変遷」で司馬氏は、「王政復古」が宣言されてから1945年までが約80年であることをふまえて、「明治国家の続いている八十年間、その体制側に立ってものを考えることをしない人間は、乱臣賊子とされた」といて指摘しています。

「人間は法のもとに平等であるとか、その平等は天賦のものであるとか、それが明治の精神であるべきです」と強調した司馬氏は、「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていました(太字は引用者)。

「明治維新」を賛美することで「立憲主義」的な考えを排除した薩長藩閥政府の歴史認識と「憲法」の問題はきわめて重要ですので、文学的な視点からこの問題を考察する著書をなるべく早くに発行したいと思っています。

 

例会発表「『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に」を終えて

昨日、千駄ヶ谷区民会館で行われた第241回例会には、嵐の前触れとも言うべき雨も降り出すなか多くの方にご参加頂き、下記の順で発表しました。

 はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

Ⅰ.ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」

Ⅱ.正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』

Ⅲ.長編小説『破戒』の構造と人物体系

Ⅳ.「教育勅語」発布後の教育制度と長編小説『破戒』

Ⅴ.『罪と罰』から長編小説『破戒』へ――北村透谷を介して

*   *   *

 発表後の質疑応答では、〔ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」〕や〔正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』〕については、好意的なご感想や発表で引用した木村毅氏についての貴重な示唆が木下代表からありました。

正岡子規から島崎藤村への流れを考える際には、夏目漱石との関わりも考察することが必要ですが時間的な都合で今回は省きました。ただ、この問題についいては、「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の本年度の第4回研究会で、〔夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ〕と題して発表した動画がユーチューブにアップされていますので、下記のリンク先をご覧下さい。

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

また、『罪と罰』の問題と長編小説『破戒』における「戒め」の問題についての本質的な問いかけもあり議論が進むかと思われたのですが、時間的な都合で議論が深まらなかったのは残念でした。

ただ、二次会の席では馬方よりも低い身分とされていた牛方仲間が「不正な問屋を相手に」立ち上がって勝利した江戸末期の牛方事件や、新政府が掲げた「旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ」という一節を信じていた主人公の青山半蔵が、維新後にかえって村人が貧しくなっていくことに深く傷つき、ついには発狂するまでが描かれている『夜明け前』にも話しが及んで議論が盛り上がりました。

古代を理想視した復古神道の問題については「世田谷文学館・友の会」の今年の講座で〔夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして〕と題して発表していましたので、来年出版予定の拙著『「罪と罰」と「憲法」の危機――北村透谷と島崎藤村から小林秀雄へ』(仮題)にも載せるようにしたいと考えています。

なお、参加者の方から質問と発言があった小林秀雄のドストエフスキー論の問題点は、太平洋戦争勃発のほぼ1年前の1940年9月12日に発表されたヒトラーの『我が闘争』の書評と『全集』に再掲された際の改竄、そして日米安保条約が改定された1960年に『文藝春秋』に掲載され、後に『考えるヒント』に収められた「ヒットラーと悪魔」にあると私は考えています。

日本が日独伊三国同盟を結んで太平洋戦争に向かうようになる司馬遼太郎が「昭和初期の別国」と呼んだ時期とロシア史で「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代との類似性についてはすでに何度か書きましたが、ヒトラー内閣が成立した翌年の1934年に発表されたのが、『罪と罰』論と『白痴』論だったのです。

また、「治安維持法」が出た後で自殺した芥川龍之介の『河童』や2.26事件以降の日本をナチスの宣伝相ゲッベルスの演説とドストエフスキーの『白夜』を比較しながら生々しく描いた堀田善衛の長編小説『若き日の詩人たちの肖像』については、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章で考察していました。

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その際には単に示唆しただけに留めていましたが、厳しい言論弾圧のもとに「右傾化」していくアリョーシャのモデルには、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした『英雄と祭典』と題された『罪と罰』論を真珠湾攻撃の翌年に出版した堀場正夫も入っていると思えます。

そのような読者に小林秀雄の『罪と罰』論は強い影響を与えただけでなく、太平洋戦争が始まる前年の8月に行われた鼎談「英雄を語る」(『文學界』)では、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という作家の林房雄の問い対して、「大丈夫さ」と答えていました。しかも、そこで「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と無責任な説明をしていた小林秀雄は、戦争が終わった後では、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語り、「それについては今は何の後悔もしていない」と述べていたのです。

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戦争が近づいているように見える現在も小林秀雄論者が活気づいてくるように見えますが、それは太平洋戦争時のように無謀な戦争を煽りたてることであり、原発が稼働している日本ではいっそう悲惨な結果を招くことになると思えます。

質疑応答のなかで言及した国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄講義 学生との対話』(新潮社、2014)における「殺すこと」などの問題とドストエフスキー論との関連については近いうちに改めて分析したいと考えています。

ただ、小林秀雄の書評『我が闘争』や「ヒットラーと悪魔」などについては知らなかった方も少なくなかったので、とりあえず本稿関連論文のあとに「小林秀雄のヒトラー観」と題した記事のリンク先をアップしておきます。

本稿関連論文

「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年参照)

「『文明の衝突』とドストエフスキー --ポベドノースツェフとの関わりを中心に」(『ドストエーフスキイ広場』第17号、2008年)

 リンク先

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月19日、加筆改訂。2017年11月4日、改題)

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ)

序に代えて

夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の2017年度第4回研究会が7月22日に行われました。

ホームページに掲げたレジュメとは副題と内容が少し異なりますが、発表では慶応3年に生まれた漱石と子規との交友だけでなく、明治の『文学界』の北村透谷と島崎藤村の交友や『国民之友』の社主・徳富蘇峰の関係をも視野に入れることで、「明治憲法」の発布と「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』への流れを分析しました。

それにより「共謀罪」が強行採決された現在の日本における夏目漱石の作品の意義により肉薄できたのではないかと考えています。

なお、今回の発表は、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の記述を踏まえて、「教育勅語」の問題と文学者との関わりを考察した論文(文末の引用・参考文献)など加えて考察したものです。

 ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)
 その後、初めての試みとしてユーチューブに動画がアップされましたが、慣れないために声もかすれて少し聞きにくい発表になっていましたので、レジュメ資料の1を見ながらお聞き頂ければ幸いです。

 http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

 

資料1、講座の流れと主な引用箇所

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

主な引用・参考文献

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

 

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

a.「子規は果物(くだもの)が大変好(す)きだった。且(か)ついくらでも食(く)える男だった。」(『三四郎』第1章)

「我死にし後は」(前書き)、「柿喰ヒの俳句好みと伝ふべし」(子規、明治30年)

b.「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった。」(『三四郎』第11章)

c.「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(「教育勅語」)

 Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

a.「私は卯の年の生れですから、まんざら卯の花に縁がないでもないと思ひまして『卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)』『卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)』などとやらかしました。又子規といふ名も此時から始まりました。」(子規「啼血始末」)

b.「(佃にとっては)大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない。…中略…この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」(『坂の上の雲』第2巻「日清戦争」)。

c.「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」(大町桂月、与謝野晶子「君死にたまふこと勿(なか)れ」の批判)

d.『教育勅語』は「国体教育主義を経典化した」もの。

「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

a.「秘密秘密何でも秘密、殊には『外交秘密』とやらが当局無二の好物なり、…中略… 斯かる手段こそ当局の尊崇する文明の本国欧米にては専制的野蛮政策とは申すなれ」新聞『小日本』)

b.「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」新聞『小日本』)。

c.「愚なるかな、今日に於て旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷ふ学者、請ふ刮目(くわつもく)して百年の後を見ん」(北村透谷「明治文学管見(日本文学史骨)」)

d.「(松陰の)尊王敵愾(てきがい)の志気は特に頼襄(らいのぼる)の国民的詠詩、及び『日本外史』より鼓吹し来たれるもの多し」(徳富蘇峰『吉田松陰』)

e.「青木(モデルは北村透谷)君が生きていたら、今頃は何を為(し)てるだろう」/「何を為てるだろう。新聞でもやってやしないか――しきりに新聞をやって見たいッて、そう言ってたからネ」(島崎藤村『春』)

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

a.「若し夫の某将校の言ふ所『新聞記者は泥棒と思へ』『新聞記者は兵卒同様なり』等の語をして其胸臆より出でたりとせんか。是れ冷遇に止まらずして侮辱なり」(子規「従軍記事」)

「一国政府の腐敗は常に軍人干政のことより起こる」(陸羯南「武臣干政論」)

b.「三崎の山を打ち越えて/いくさの跡をとめくれば、此処も彼処も紫に/菫花咲く野のされこうべ」(子規「髑髏」)。

c.「(景樹が)大和歌の心を知らんとならば大和魂の尊き事を知れ、などと愚にもつかぬ事をぬかす事、彼が歌を知らぬ証拠なり」(子規「歌話」)

万の外国其声音の溷濁不清なるものは其性情の溷濁不正なるより出れば也」(香川景樹『古今和歌集正義総論』)

d.「世の中に比較といふ程明瞭なることもなく愉快なることもなし…中略…織田 豊臣 徳川の三傑を時鳥(ほととぎす)の句にて比較したるが如き 面白くてしかも其性質を現はすこと一人一人についていふよりも余程明瞭也」。「併シ斯く比較するといふことは総(すべて)の人又は物を悉(ことごと)く腹に入れての後にあらざれば出来ぬこと故 才子にあらざれば成し難き仕事なり」(子規「筆まかせ」)。

e.「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした。/(中略)/大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする/東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有つて居る。/(中略)/誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」(漱石『吾輩は猫である』第6章)。

f.「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。/出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候」(夏目漱石、内田魯庵『イワンの馬鹿』訳の礼状)

g.「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」(内田魯庵『復活』について)

 Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

a.「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざ ん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」(漱石『草枕』)

「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」(子規、明治25年)

b.小説で「白いひげをむしゃむしゃと生やした老人」として描かれているのは熊本実学党の名士・前田案山子(かかし)で、彼が明治11年に建てた別邸には中江兆民が訪れてルソーの講義をしたり、女性民権家の岸田俊子が来て演説をおこなっていた(安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』)白水社、2012年)。

c.「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」

d.「亡びるね」という男の言葉を聞いた三四郎は最初「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる」と感じた。しかし、「囚(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思っても贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ」という男の言葉を聞いたときに、「真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った」と記されている(『三四郎』)。

e.「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす」(北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」)。

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

a.「教育勅語」の「始まりと終わりの部分で天皇と臣民の間の紐帯、その神的な由来、 また臣民の側の神聖な義務について」述べられているという構造を持っている(島薗進『国家神道と日本人』岩波新書)。

b.「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が 生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

 

主な引用・参考文献

高橋誠一郎『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年。
――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年。
――『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年 。
――「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」『世界文学』 第125号、2017年。
――「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」『世界文学』第122号、2015年。
――「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『COMPARATIO』九州大学・比較文化研究会、第8号、2004年。
 『漱石全集』全15巻、岩波書店、1965~67年(振り仮名は一部省略した)。
小森陽一『世紀末の予言者・夏目漱石』講談社、1999年。
木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、2002年。
大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』東洋書店、2010年。
井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』群像社、2011年。
安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』白水社、2012年。
清水孝純『漱石『夢十夜』探索 闇に浮かぶ道標』翰林書房、2015年。
中村文雄『漱石と子規 漱石と修――大逆事件をめぐって』和泉書院、2002年。
『子規と漱石』(『子規選集』第9巻)、増進会出版社、2002年。
『子規全集』全22巻、別巻3巻、監修・正岡忠三郎・司馬遼太郎・大岡昇平他、講談社、1975~79年。
坪内稔典『正岡子規 言葉と生きる』岩波新書、2010年。
末延芳晴『正岡子規、従軍す』平凡社、2010年。
成澤榮壽『加藤拓川――伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官』高文研、2012年。
『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年。
槇林滉二「透谷と人生相渉論争――反動との戦い」、桶谷秀昭・平岡敏夫・佐藤泰正編『透谷と近代日本』翰林書房、1994年。
徳富蘇峰『吉田松陰』岩波文庫、1981年 司馬遼太郎『本郷界隈』(『街道をゆく』第37巻)朝日文芸文庫、1969年。
有山輝雄『陸羯南』吉川弘文館、2007年。
島崎藤村『春』、『破戒』、新潮文庫。
相馬正一『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年。
木村毅「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』筑摩書房、1972年。

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

明治憲法、「ウィキペディア」

(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)

1889(明治22)1月、夏目金之助(漱石)、落語を介して正岡常規(子規)と交遊を始める。2月11日、大日本帝国憲法発布陸羯南の新聞『日本』が発刊。当日の朝、国粋主義者に脇腹を刺された文部大臣森有礼が翌日死亡。5月、子規『七草集』脱稿。5月9日、夜喀血、時鳥の句を作り「子規」と号す。漱石、『七草集』を漢文で批評し七言絶句九編を添えて「漱石」の号を用いる。9月に房総の紀行漢詩文『木屑録』(ぼくせつろく)を書き子規に批評を求める。

1890(明治23) 2月1日、徳富蘇峰の『国民新聞』が創刊(総合雑誌『国民之友』は1887年2月~1898年8月)。漱石・子規、9月、東京帝国大学文科大学に入学。10月、「教育勅語」渙発

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

1891(明治24) 1月、「教育勅語」に対する「不敬事件」。子規、2月、 国文科に転科。5月、皇太子ニコライが大津で襲撃される。6月、木曽路を経て松山へ帰省。試験放棄。寄宿舎追放事件後、12月に駒込追分町へ転居。小説「月の都」の執筆に着手。冬、「俳句分類丙号」に着手。12月、漱石、『方丈記』を英訳する。

1892(明治25) 漱石、5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。子規、「かけはしの記」を5月から、6月からは「獺祭書屋俳話」を『日本』に連載。7月 帰省、漱石も松山を旅行。12月、子規が日本新聞社入社。【3月、徳富蘇峰が本郷教会会堂で「吉田松陰」を講演し、『国民之友』に10回連載(5月~9月)。5月、北村透谷、評論「トルストイ伯」、11月、内田魯庵訳『罪と罰』(巻之一)】。

1893(明治26) 子規、2月、俳句欄を『日本』に設ける。7月19日~8月20日 東北旅行。俳諧宗匠を歴訪する。11月「芭蕉雑談」、「はてしらずの記」を『日本』に連載。【1月、北村透谷、評論「『罪と罰』の殺人罪」。『文学界』創刊(~1898年1月)。2月、透谷、雑誌『文学界』の第2号に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」を発表し、雑誌『国民之友』に発表された山路愛山の史論「頼襄を論ず」を厳しく批判。内田魯庵訳『罪と罰』(巻之二)。4月、井上哲次郎『教育ト宗教ノ衝突』発行。5月、透谷「井上博士と基督教徒」(雑誌『平和』)。12月、蘇峰『吉田松陰』発行。】

1894(明治27) 子規、2月、羯南宅東隣へ転居。2月11日『小日本』創刊、編集責任者となり、小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。

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(図版は大空社のHPより、『小日本』全2巻・別巻、大空社、1994年〉

5月、北村透谷の追悼文が『小日本』に掲載される。内田魯庵の「損辱」(『虐げられた人々』)の訳が『国民之友』に連載される(5月~1895年6月)、7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。日清戦争(7月29日~1895年4月)

1895(明治28) 漱石、横浜の英語新聞「ジャパン・メール」の記者を志願したが、不採用に終わる。4月、高等師範学校を退職し、愛媛県尋常中学校(松山中学)教諭に就任。子規、4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。10月、帰京、「俳諧大要」を『日本』に連載。

1896(明治29)1月3日、子規庵で句会。鴎外・漱石が同席。「従軍記事」の連載。3月、カリエスの手術を受ける。4月、「松蘿玉液」(~12月)。漱石、4月、熊本県の第五高等学校講師となる。

1897(明治30)島崎藤村が正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談。

1898(明治31) 子規、2月、「歌よみに与ふる書」を連載(~3月)。10月、発行所を東京に移し、『ホトトギス』第一号発刊。

1899(明治32) 子規、1月 『俳諧大要』刊。漱石、4月、エッセー「英国の文人と新聞雑誌」(『ホトトギス』)。10月、「飯待つ間」(『ホトトギス』)。

猫の写生(「猫の写生画」、図版は青空文庫より)

1900(明治33)子規、8月、大量喀血。8月26日、漱石、寺田寅彦と来訪。9月、第1回「山会」(写生文の会)を開催。漱石、9月、イギリスに留学。

1901(明治34) 1月、「墨汁一滴」を『日本』に連載開始(~7月)、5月、漱石の「倫敦消息」が『ホトトギス』に掲載される。9月、「仰臥漫録」を書き始める。11月6日、子規が漱石宛書簡に「僕ハモーダメニナツテシマツタ」と書く。

1902(明治35) 1月、日英同盟締結。5月、「病牀六尺」を『日本』に連載開始(~9月)。9月18日、絶筆糸瓜三句を詠み、翌日死亡。12月、漱石、帰国の途につく。

1903(明治36) 漱石、4月、第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。藤村操、投身自殺。幸徳秋水たちが『平民新聞』創刊。

1904(明治37) 木下尚江、「火の柱」を東京毎日新聞に連載(1月~3月)、日露戦争(2月8日~1905年9月5日)。4月、瀬沼夏葉「貧しき少女」(『貧しき人々』のワルワーラの手記の訳、『文芸倶楽部』)。8月、トルストイの「悔い改めよ」と題する非戦論が『平民新聞』に掲載される。

1905(明治38) 漱石、1月、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表(翌年8月まで断続連載。4月、内田魯庵訳の『復活』が新聞『日本』に掲載(~12月)。9月5日、ポーツマス条約の条件に不満をもつ群衆が国民新聞社を襲撃、10月、単行本『吾輩は猫である』上編。

1906(明治39)  1月、漱石が内田魯庵に『イワンの馬鹿』贈呈の礼状、「趣味の遺伝」(日露戦争時の突撃への厳しい批判の記述)。3月、島崎藤村『破戒』。4月、「坊つちやん」(『ホトトギス』)。5月、『漾虚集』。9月、「草枕」。10月、「二百十日」。11月、『吾輩は猫である』中編(子規の手紙を掲載)。

1907(明治40) 漱石、1月、「野分」を『ホトトギス』に発表。4月、朝日新聞社に入社。5月、『文学論』、『吾輩は猫である』下編。6月、「虞美人草」を朝日新聞に連載(~10月)。

1908(明治41) 漱石、1月「坑夫」(~4月)。4月、島崎藤村、「春」(~8月まで「東京朝日新聞」に連載)、7月、8月、「夢十夜」。9月「三四郎」(~12月)。10月、蘇峰、改訂版『吉田松陰』。

1909(明治42) 漱石『永日小品』(1月~3月)。3月『文学評論』(春陽堂)。『それから』(6月~10月)。10月、伊藤博文、ハルビンで暗殺される。『満韓ところどころ』(~12月)。11月25日「朝日文芸欄」を創設。

1910(明治43) 漱石『門』(3月~6月)。4月、雑誌『白樺』創刊。5月、大逆事件。6月~7月、胃潰瘍で入院。8月22日、日韓合併条約調印。8月24日、修善寺温泉での「大患」。11月、トルストイ死去。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

1914年(大正3年)  第一次世界大戦(~1918)。

1915年(大正4年)  芥川龍之介「羅生門」、漱石の木曜会に参加する。

1916年(大正5年)  12月、夏目漱石没。徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』

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本年表は夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとして7月22日に行われた「世界文学会」の第4回研究会での配布資料に加筆したものである。

例会発表の際には正岡子規や夏目漱石と池辺三山との関係や『それから』と「大逆事件」との関係には時間の都合で言及できなかったが、発表を踏まえて書いた論文〔夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較――「教育勅語」の渙発から大逆事件へ〕では言及した。

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ 

ユーチューブの動画

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

(2017年8月10日、記事を差し替えて図版を追加。9月8日、加筆)

「世界文学会」2017年度第4回研究会(発表者:大木昭男氏・高橋誠一郎)のご案内

夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとした2017年度第4回研究会の案内が「世界文学会」のホームページに掲載されましたので、発表者の紹介も加えた形で転載します。

*   *   *

日時:2017年7月22日(土)午後3時~5時45分

場所:中央大学駿河台記念会館 (千代田区神田駿河台3-11-5 TEL 03-3292-3111)

発表者:大木昭男氏(桜美林大学名誉教授)

題目:「ロシア文学と漱石」

発表者:高橋誠一郎(元東海大学教授)

題目:「夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり」

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発表者紹介:大木昭男氏

1943年生まれ。早稲田大学大学院(露文学専攻)修了。世界文学会、日本比較文学会、国際啄木学会会員。1969年~2013年、桜美林大学にロシア語・ロシア文学担当教員として在職し、現在は桜美林大学名誉教授。主要著作:『現代ロシアの文学と社会』(中央大学出版部)、『漱石と「露西亜の小説」』(東洋書店)、『ロシア最後の農村派詩人─ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社)他。

発表者紹介:高橋誠一郎

1949年生まれ。東海大学大学院文学研究科(文明研究専攻)修士課程修了。東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。主要著作『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社)他。

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発表要旨「ロシア文学と漱石」

漱石は二年間の英国留学中(1900年10月~1902年12月)に西洋の書物を沢山購入して、幅広く文学研究に従事しておりました。本来は英文学者なので、蔵書目録を見ると英米文学の書物が大半ですが、ロシア文学(英訳本のほか、若干の独訳本と仏訳本)もかなり含まれております。ここでは、大正五年(1916年)の漱石の日記断片に記されている謎めいた言葉─「○Life 露西亜の小説を読んで自分と同じ事が書いてあるのに驚く。さうして只クリチカルの瞬間にうまく逃れたと逃れないとの相違である、といふ筋」という文言にある「露西亜の小説」とは一体何であったのかに焦点を当てて、漱石晩年の未完の大作『明暗』とトルストイの長編『アンナ・カレーニナ』とを比較考量してみたいと思います。

発表要旨「夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり」

子規の短編「飯待つ間」と漱石の『吾輩は猫である』との比較を中心に、二人の交友と作品の深まりを次の順序で考察する。 1,子規の退寮事件と「不敬事件」 2,『三四郎』に記された憲法の発布と森文部大臣暗殺  3,子規の新聞『日本』入社と夏目漱石   4,子規の日清戦争従軍と反戦的新体詩  5,新聞『小日本』に掲載された北村透谷の追悼文と子規と島崎藤村の会見   6,ロンドンから漱石が知らせたトルストイ破門の記事と英国の新聞論   7、『吾輩は猫である』における苦沙弥先生の新体詩と日本版『イワンの馬鹿』   8、新聞『日本』への内田魯庵訳『復活』訳の連載  9、藤村が『破戒』で描いた学校行事での「教育勅語」朗読の場面   結語 「教育勅語」問題の現代性と子規と漱石の文学

*   *   *

会場(中央大学駿河台記念会館)への案内図

案内図

JR中央・総武線/御茶ノ水駅下車、徒歩3分

東京メトロ丸ノ内線/御茶ノ水駅下車、徒歩6分

東京メトロ千代田線/新御茶ノ水駅下車(B1出口)、徒歩3分

講座 『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして

今年も「世田谷文学館友の会」の講座でお話しすることになりました。

「おしらせ」第131号(H29年3月2日発行)より講座が行われる日時や場所、講座の要旨などを転載します。

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日  時  : 平成29年4月16日(日) 午後2時~4時

場  所  : 世田谷区立男女共同参画センター「らぷらす」

参 加 費  : 1000円

申込締切日 : 平成29年4月4日(火)必着

(応募者多数の場合は抽選)

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 講座 『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である」という文章で始まる島崎藤村の『夜明け前』は、「黒船」の来港に揺れた幕末から明治初期までの馬篭宿を舞台にしている。芭蕉の句碑が建てられた時のことが記されているその序章を読み直した時、新聞『日本』に入社する前にこの街道を旅した正岡子規が「白雲や青葉若葉の三十里」と詠んでいたことを思い出した。

『夜明け前』では王政復古に希望を見ながら「御一新」に裏切られた主人公(父の島崎正樹がモデル)の苦悩が描かれているが、そこには「私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人」と藤村が評した北村透谷の苦悩も反映されていた。

『夜明け前』を現代的な視点から読み直すことで、街道の重要性や「神国思想」の危険性だけでなく、「憲法」の重要性も描かれていた『竜馬がゆく』の意義に迫りたい。

*   *   *

これまでの「講座」

→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

講座「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」(レジュメ)

 

 

 

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー(2017年3月13日)を転載

『坂の上の雲』を材料に正岡子規の生涯を追い、

司馬遼太郎の魅力的な議論をコンパクトにまとめ、

分かりやすく読み解く。

 isbn978-4-903174-33-4_xl  装画:田主 誠/版画作品:『雲』

人文書館のHP・ブックレビューのページに木村敦夫・日本トルストイ協会理事の書評の抜粋が掲載されましたので、このHPでも紹介させて頂きます。

(人文書館のHPより) 新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」 

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正岡子規を太い経糸(たていと)、彼と親交のあった人々を細い経糸とし、 文明開化に浮かれ騒ぐ日本社会を緯糸(よこいと)として みごとなタペストリーに織り上げ、 明治期の日本の真の「姿」を再構築している。

木村敦夫

作者にとっては2冊目の『坂の上の雲』論である。本作では、「正岡子規を主人公として新聞『日本』を創刊した陸羯南(くがかつなん)との関わりや夏目漱石の友情をとおして」考察している。本書のタイトルに現れている通り、正岡子規論とは言え、新聞記者・正岡子規を通して語られる、日本全体はおろか、日露両国の比較考察さえも超えた、地球規模で俯瞰され提起される広い問題意識が、本書の特徴でもあり、醍醐味でもある。

作者が、読者の想像力を、読者の楽しみを刺激してくれるのは、それらの「ひと」にとどまらない。子規が生きた時代を、社会情勢を、日本に限らず、ヨーロッパ、ロシアをも視野に入れて活写し読み解いてくれている。

1889年、明治22年に議会主義と三権分立が明示された明治憲法が発布されたが、それに先立つ1882年、明治15年に山県有朋の意図のもと「軍人勅諭(ちょくゆ)」が出されていて、「民権」は制限された。その前年1881年、明治14年に明治政府は国会開設の詔勅を出している。「飴と鞭」政策なのかと思いきや、この「軍人勅諭」は反「民権」を全面に押し出している。明治政府にとって「国民」とは、法によって権利と義務を明解に規定するものというよりも、徴税、徴兵の対象というに過ぎなかったのである。さらに、この勅諭を盾に昭和期に「政治化した軍人が軍閥を作」り、明治憲法の精神を踏みにじり三権を超越する「統帥権」の存在を主張し始め、1945年、昭和20年の敗戦まで突っ走り、ついには「国家そのものを破壊する」にいたる。

といったように、作者は、司馬遼太郎の魅力的な議論をコンパクトにまとめ、分りやすく読み解いていく。本書は、正岡子規を狂言回しとした明治期の網羅的な歴史叙述の書だと言える。子規や漱石が身を置いていた社会情勢のみならず、文学、芸術にも読者の目を向けさせ、また、国内外の政治状況、日本の立場から見た国際情勢までも視野に入れさせてくれる。

作者の見識の高さ、洞察の鋭敏さ、視野の広さ、考察の柔軟さを物語るものだが、本書は、そしてまた作者、高橋誠一郎は、司馬遼太郎の作品を通して、司馬遼太郎の視線を通して正岡子規を見るという外枠を超えて、さまざまに読者の知的好奇心を刺激してくれる。

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木村敦夫(キムラ・アツオ、ロシア文学研究者。日本トルストイ協会理事。論文「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」東京藝術大学音楽学部紀要など。)

『ユーラシア研究』(2017年、第55号、ユーラシア研究所編「書評」より部分的に抜粋)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年〔目次と書評・紹介〕