高橋誠一郎 公式ホームページ

05月

〈小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観〉を「主な研究」に掲載

 

文芸評論家・小林秀雄は太平洋戦争の直前の一九四〇年八月に林房雄や石川達三と「英雄を語る」という題名で鼎談を行っていました。日本の近代を代表する「知識人」の小林が行っていたこの鼎談は、『罪と罰』におけるラスコーリニコフの「非凡人の理論」や「良心」の問題とも深く関わっていると思えます。

しかし、この重要な鼎談の内容は研究者にもまだあまり知られていないようです。                    拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)では、小林の「原子力エネルギー」観の問題についても詳しく論じたので、〈小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観〉という題でそれらの問題点を簡単に考察し、「主な研究」のページに掲載します。

原発再稼働差し止め判決と日本の司法制度

 

5月22日に大飯原発の再稼働差し止め訴訟で、最大の争点だった耐震性の目安となる「基準地震動」について「(炉心溶融に結び付く)一二六〇ガルを超える地震が来ないとの科学的根拠に基づく想定は、本来的に不可能」と判断し、一二六〇ガルを超える地震が起きる危険性が否定できないとした画期的な判決が出ました。

その内容を「東京新聞」の記事によって紹介したあとで、司馬遼太郎氏の記述をとおして日本の司法制度の問題を確認することにします。

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 使用済み核燃料の保管状況について「福島原発事故では4号機の使用済み核燃料が危機的状況に陥り、住民の避難計画が検討された」と指摘。関電の「堅固な施設は必要ない」との主張に対し、「国民の安全が何よりも優先との見識に立たず、深刻な事故はめったに起きないだろうという見通しに基づく対応」と断じた。そのうえで「危険性があれば運転差し止めは当然」と指摘。福島事故で検討された住民への避難勧告を根拠に、原告百八十九人のうち二百五十キロ圏内の百六十六人の請求を認めた。

 また、生存権と電気代のコストを並べて論じること自体が「法的には許されない」ことで、原発事故で豊かな国土と国民生活が取り戻せなくなることが「国富の喪失」だと指摘。福島事故は「わが国が始まって以来、最大の環境汚染」であり、環境問題を原発推進の根拠とする主張を「甚だしい筋違い」と断じた。

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このような判断は、「地殻変動」によって国土が形成され、いまも大地震が続く日本の地理的な状況からすれば、ごく当然のものと思われます。

しかし、このような判決が「画期的」となってしまう理由を司馬氏は、司法卿・江藤新平を主人公にした長編小説『歳月』や『翔ぶが如く』などの作品で明らかにしようとしていました。

すなわち、『坂の上の雲』で正岡子規の退寮問題と内務省とのかかわりにふれていた司馬氏は、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通が、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたと記していました(文春文庫、第1巻「征韓論」)。

フランスの民法を取り入れて近代的な司法制度を確立するために、井上馨や山県有朋などの汚職を厳しく取り締まろうとした江藤新平の試みは、「国家」を重視した当時の「薩長独裁政権」によってつぶされていたのです。

こうして、「プロシア風の政体」を取り入れて「国民」ではなく「国家」を重視した日本の司法制度の下では、列車事故などを引き起こした運転手などに対する「責任」は厳しく問う一方で、戦争など「国策」の名のもとに行った指導者に対しては、いかにその被害がおおきくても、その「責任」を問うことがまれとなり、それが後の「昭和別国」へとつながることを、長編小説『歳月』や『翔ぶが如く』などで強く示唆していました。

原発の再稼働問題だけでなく「特定秘密保護法」や「集団自衛権」などをとおして次第に明らかになってきたのは、 第二次安倍政権が目指しているのは、敗戦によってつぶされた「プロシア風の政体」を「取り戻す」強い意思であるように見えます。

 高裁や最高裁の判事が、原発の再稼働問題などでどのような判決をだすのかによって、司法制度の「独立性」が明らかになるでしょう。

 

「原発の危機と地球倫理」を「主な研究」に掲載

 

5月24日に開催された「地球システム・倫理学会」の研究例会では、「国際社会の信頼を回復するために」と題した村田光平・元駐スイス大使の報告が行われました。                                                            

 研究例会の内容と個人的な感想を「主な研究」のページに記しましたので、ここでは2002年に発行された『原子力と日本病』の内容の一部をまず紹介しておきます(以下、敬称略)。

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 『原子力と日本病』には2002年4月にスイスのバーゼルで行われた核戦争防止のための国際医師団主催のシンポジウム「同時多発テロ後の原子力と民主主義」での発言が収録されています。                         

 そのセッションで議長を務められた村田氏は、

1,「原子力利用は商業的に成り立たない」だけでなく、「原発の輸出などは言語道断」であること。

2,既存の原発に対する国際的な管理の必要性。

3,文明間の対話の必要性。

 以上の3つの重要な課題を指摘し、「我々には二つの選択が残されています。つまり、一つ目は地球の非核化を開始すること、二つ目は破局的な災害により、一つ目の地球の非核化を選ばざるを得なくなることであります」と結んでいました(『原子力と日本病』朝日新聞社、2002年、145~148頁)。

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 残念ながら、「絶対に安全」とされていた福島第一原子力発電所で、チェルノブイリ原発事故と同じレヴェル7の大事故が起き、その事故がまだ完全に収束していないにもかかわらず、日本国内にある危険性には目をつぶって、原発の輸出にむけたトップ・セールスが行われています。 

 研究例会のポスターには、「世界の安全保障問題とみなされるに至った福島事故処理に最大限の対応をしていない現状につき国際社会は批判を強めつつある」との重たい言葉が記されていました。                        

 研究例会での「地球倫理」の確立に向けた真摯で説得力ある報告と、活発な質疑応答の一部を「主な研究」に掲載します。                          

 

 

年表Ⅵ、「司馬遼太郎とロシア」に『菜の花の沖』関連の事項を追加

 

日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎氏が、その後で江戸時代におきた日露の戦争の危機を防いだ商人を主人公とした『菜の花の沖』を書いていたことは、あまり知られていないようです。

ナポレオンは1769年にコルシカ島で生まれていましたが、同じ年に淡路島で生まれた商人の高田屋嘉兵衛の言動を生き生きと描いたこの長編小説は、司馬氏のロシア観や文明観を考えるうえでもきわめて重要だと思えます。 

『菜の花の沖』については『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』の第4章「『他者』との対話と『文明の共生』」で詳しく考察していましたので、その時代の出来事などを年表Ⅵに追加しました。

リチャード・ピース名誉教授の追悼文を「主な研究」に掲載

 

昨年の暮れにIDS副会長のリチャード・ピース(Richard Peace)名誉教授が亡くなられました。 

グローバリゼーションの強い圧力下でTPP交渉などが進められている日本では、アメリカの言語さえ習得すればどの国の人々ともきちんと分かり合えるという皮相的な考えが広がっています。そして、米語教育のみに重点が置かれる一方で、それと釣り合いをとるために「愛国主義的な教育」が進められて、急速に日本人は国際的な視野を失ってきているように見えます。

しかし、『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(リチャード・ピース著、池田和彦訳、のべる出版企画、2006年)の「後書き」にも記しましたが、ロシアだけでなく欧米の文学や近代の歴史や哲学にも造詣が深かったピース教授は、他国を本当に知るためにはその国の言葉や歴史・文化を学ぶことが不可欠なことも深く認識されていました。

『ドストエーフスキイ広場』の第23号に短い追悼文を書きましたので、「主な研究」に掲載します。

 

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

 

ここのところ忙しく、原発事故に関連する記事を書くことができませんでしたが、日本だけでなく地球の将来にも大きな影響を及ぼすにできごとが続いています。

少しさかのぼることになりますが、時系列に沿って、原発事故関連の出来事を追って記すことにします。

今回は、事故当時の最高責任者・菅直人氏を講演者に招いて、「福島原発事故 ― 総理大臣として考えたこと」と題して行われた3月15日の「脱原発を考えるペンクラブの集い」での菅氏の講演の内容をまず紹介し、その後で安倍首相が全世界に向けて発した、汚染水は「完全にブロックされている」という発言を検証することにします。

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「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4は、五〇〇名を収容できる専修大学神田校舎の大教室で行われので、最初はどの位の聴衆が集まるのか少し不安にも思ったが、講演が始まる少し前には座れない人も出るほどとなった。

 冒頭で司会の中村敦夫環境委員長は、事故から三年も経った現在も放射線や汚染水が毎日、放出されているにもかかわらず福島第一原子力発電所の状況についての報道がほとんどなされていないことを指摘し、メディアをとおしては知り得ないことをこの場で包み欠かさず伝えて頂きたいと語った。

 菅元首相もそれに応じる形で資料なども用いながら、未曾有の大事故と対面した時の危機感と対応をきわめて率直に語り、第二部の質疑応答でも厳しい質問にも深い反省も交えて誠実に答えていたのが、印象的だった。

 事故当時の状況については、新聞や書物、さらには前回行われた環境委員会の研究会などで少しは知っていたが、最高責任者だった菅氏によって肉声で語られた内容はやはり衝撃的だった。

 改めて驚いたのは、原子力発電の専門家の委員たちが原発事故を想定していなかったために、事故が起きた後では首相に適切なアドバイスをすることがまったくできていなかったことである。

 菅氏は政府事故調中間報告の図面資料を用いながら、四号機プールに水が残っていなかったら、二五〇㎞圏に住む五千万人の避難が必要という「最悪のシナリオ」になった可能性があったという背筋がぞっとするような核心部分の話に入った。

一九八六年に起きたソ連のチェルノブイリの原発事故では核反応そのものが暴走し、一機の爆発としては最大のものであったが、ソ連の場合は事故を起こしたのは四号機だけだった。しかし、福島第一原発だけでも六機の原発と七つの使用済みプールがあり、さらに第二原発にも四機の原発と四つのプールがあったので、日本の場合はソ連の場合よりも数十倍から百倍の規模の災害となる危険性が高かったのである。

 菅氏は政財界からだけでなくマスコミからも浴びせられた激しいバッシングについて、ユーモアを交えつつ語ったが、その話からは司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』で指摘していた「情報の隠蔽」の問題――多くの評論家の解釈とは異なり、「情報の隠蔽」の問題が『坂の上の雲』におけるもっとも重要なテーマであると私は考えている――が現在の日本でも続いていることが痛感された。

休憩後に行われた第二部の「質疑応答」では、壇上の茅野裕城子氏(理事・女性作家委員会委員長)、吉岡忍(専務理事)、山田健太(理事・言論表現委員長)だけではなく、会場からも冒頭での浅田次郎会長の質問をはじめとし、下重暁子副会長や小中陽太郎理事からも会場の素朴な疑問を代弁するような質問があった。

たとえば、浅田会長からの、なぜ日本では狭い国土に五四基もの原発が建設され、原発が動いていなくとも困らないのに再稼働の動きがあるのか」という質問に対しては、菅氏は電力会社の宣伝などのために原発がなくても生活ができるにもかかわらず「オール電化」が必要だと思い込まされていたことや、競争相手もないのにテレビコマーシャルを流すなどの手段でメディアに対する支配力をもっているためだろうと答えた。

  原発事故に総理として直面したことを「天命」と受け止めて、「語り部」としてその時のことをきちんと伝えていこうとする菅氏の政治姿勢を司会者の中村氏は高く評価し、今後の変革のエンジンになってもらいたいと語ったが、それは五〇〇名という大教室を埋め尽くした聴衆も同じだったようで、締めの言葉の後では拍手が長く続いた。

 熱い質疑応答は懇親会にも引き継がれ、菅氏は日本ペンクラブの元会長で哲学者の梅原猛氏が今回の原発事故を「文明災だ」と規定していたことにもふれつつ、地震大国でもある日本が「脱原発」へと転換する必要性を強調した。

今回の「集い」では日本の原発産業や政財界だけでなく、マスコミの問題点が浮き彫りになったと思われる。

        (詳しい報告は「日本ペンクラブ会報」第424号に掲載)。

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 5月17日付けの「東京新聞」は、「汚染水 外洋流出続く 首相の『完全ブロック』破綻」との大見出しで、東京電力福島第一原発から漏れた汚染水が、沖合の海にまで拡散し続けている可能性の高いことが、原子力規制委員会が公開している海水データの分析から分かった」ことを報じています。

 以下にその記事の一部を引用しておきます。

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  二〇一一年の福島事故で、福島沖の同地点の濃度は直前の値から一挙に最大二十万倍近い一リットル当たり一九〇ベクレル(法定の放出基準は九〇ベクレル)に急上昇した。それでも半年後には一万分の一程度にまで急減した。

 一九四〇年代から世界各地で行われた核実験の影響は、海の強い拡散力で徐々に小さくなり、八六年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故で濃度は一時的に上がったが、二年ほどでかつての低下ペースとなった。このため専門家らは、福島事故でも二年程度で濃度低下が元のペースに戻ると期待していた。

 ところが、現実には二〇一二年夏ごろから下がり具合が鈍くなり、事故前の水準の二倍以上の〇・〇〇二~〇・〇〇七ベクレルで一進一退が続いている。

 福島沖の濃度を調べてきた東京海洋大の神田穣太(じょうた)教授は「低下しないのは、福島第一から外洋への継続的なセシウムの供給があるということ」と指摘する。

 海水が一ベクレル程度まで汚染されていないと、食品基準(一キログラム当たり一〇〇ベクレル)を超える魚は出ないとされる。現在の海水レベルは数百分の一の汚染状況のため、「大きな環境影響が出るレベルではない」(神田教授)。ただし福島第一の専用港内では、一二年初夏ごろから一リットル当たり二〇ベクレル前後のセシウム137が検出され続けている。沖合の濃度推移と非常に似ている。

神田教授は「溶けた核燃料の状態がよく分からない現状で、沖への汚染がどう変わるか分からない。海への汚染が続いていることを前提に、不測の事態が起きないように監視していく必要がある」と話している。

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 原発事故の後で菅氏追求の急先鋒だった安倍氏は、昨年の9月には国際社会に向かって「汚染の影響は専用港内で完全にブロックされている」と日本の首相として強調していました。

しかし、その説明は現在、完全に破綻しているばかりでなく、原発事故のさらなる拡大の危険性が広がっていると思えます。

原発事故の検証とともに、その発言も検証される必要があるでしょう。

  

年表Ⅵ、「司馬遼太郎とロシア」関連年表を「年表」のページに掲載

 

 司馬遷の歴史書『史記』を愛読し、また草原の民であるモンゴルの言語を学んでいた司馬遼太郎は、砂漠や海流などの自然環境にも深い関心を寄せて「文明史家」と呼べるほどの広い視野を持った作家でした。

そのような司馬氏の視野は、幕末から昭和初期にいたる時代を扱った多くの歴史小説にも反映されていました。

『司馬遼太郎とロシア』(東洋書店、ユーラシア・ブックレット、2010年)では、日露の近代化の比較を行った作品を中心に言及されている時代と作品が書かれた時期の年表を付録資料として添付しました。 

誌面の都合上、一部簡略して掲載していたので、作品との関連などを補った形で「年表」のページに掲載します。

年表Ⅴ、応仁の乱から徳川幕府の成立までを「年表」のページに掲載しました

リンク→ 「ブログ記事」タイトル一覧

年表Ⅴ、「応仁の乱から徳川幕府の成立まで」を「年表」のページに掲載しました

斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、長宗我部元親、山内一豊などの武将たちを描いた司馬遼太郎氏の作品を論じた拙著司馬遼太郎と時代小説――「風の武士」「梟の城」「国盗り物語」「功名が辻」を読み解く』 (のべる出版企画、2006年)の付録として、関連年表を収録していました。

 司馬氏の視野には日本の戦国時代だけでなく、レコンキスタ以降の植民地の拡大も入っていましたので、ロシアの「動乱の時代」も視野に入れて作成した関連年表の改訂版を「年表」のページに掲載しました。

 標記の年表に関連して、「乱世としての21世紀と「鬼退治史観」の克服」と題した記事をブログに書きました。

乱世としての21世紀と「鬼退治史観」の克服

 自国に敵対する国々を「悪の枢軸国」と名付けたブッシュ大統領が、アフガンだけでなくイラクとの戦争を始めてから世界では強大な軍事力を背景に自国の文明を「中心」とみなすアメリカの「グローバリゼーション」に対する反発が強まり、日本のみならず世界の各地で草の根レベルでのナショナリズムや宗教的な原理主義が広まって、再び乱世の観さえ見せ始めているように見えます。

 混迷した時代には、「自尊心」と「他者への復讐」という情念を煽り立てるような発言や歴史観が強い影響力を得るようになりますが、そのような歴史観が二度にわたる世界大戦を招いていたことを考えるならば、現在に必要なのは数千年の諸文明の歴史と国際情勢を踏まえて、理性的な形で問題解決を図るような広い歴史的視野でしょう。

 この意味で注目したいのは、しばしば文芸評論家によって大企業の社長や政治家に好まれる小説を書いた作家と矮小化されることの多い司馬遼太郎氏が、日本の戦国時代から江戸時代に至る混乱の時期を描いた『国盗り物語』、『梟の城』、『夏草の賦』、『功名が辻』などの時代小説で、現代にも強く見られる「桃太郎の鬼退治」的な歴史観を鋭く批判していたことです(司馬遼太郎と時代小説――「風の武士」「梟の城」「国盗り物語」「功名が辻」を読み解く』、のべる出版企画、2006年)

 たとえば、取材でバスク地方を訪れた司馬氏は仏文学者の桑原武夫との対談「東と西の文明の出会い」では、レコンキスタ(再征服運動)と称されるイスラム教徒との戦いで異教徒の財産を没収することも認められたことが、南欧勢力による南米やアフリカなどにおける「略奪経済」や異教徒の弾圧を生み、それが日本のキリシタン禁制などにもつながっていることを明らかにしていました(『対談 東と西』、朝日文芸文庫)。

 戦国時代の武将達を描いた司馬氏の時代小説にも、「文明史家」とも呼べるような司馬氏の歴史的な視野が反映されていると思えます。

 

「子供の日」に寄せて――司馬遼太郎と「二十一世紀に生きる君たちへ」

5月4日にはブログの記事で「憲法」の重要性について次のように記しました。

「昨日は憲法の意味を国民に説くべき「憲法記念日」でしたが、幕末の志士・坂本龍馬などの活躍で勝ち取った「憲法」の意味が急速に薄れてきているように思われます。

他民族への憎しみを煽りたて、「憲法」を否定して戦争をできる国にしようとしたナチス・ドイツの政策がどのような事態を招いたかをきちんと認識するためにも1935年に公開されたスタンバーグ監督の映画《罪と罰》は重要でしょう。」

今日は「子供の日」ですので、司馬氏の歴史観と 「二十一世紀に生きる君たちへ」の意味を確認しておきます。

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司馬遼太郎氏との対談で作家の海音寺潮五郎氏は、孔子が「戦場の勇気」を「小勇」と呼び、それに対して「平常の勇」を「大勇」という言葉で表現していることを紹介しています。そして海音寺氏は日本には命令に従って戦う戦場では己の命をも省みずに勇敢に戦う「小勇」の人は多いが、日常生活では自分の意志に基づいて行動できる「大勇の人」はまことに少ないと語っていました(『対談集 日本歴史を点検する』、講談社文庫、1974年)。

司馬氏が長編小説『竜馬がゆく』で描いた坂本竜馬は、そのような「大勇」を持って行動した「日本人」として描かれているのです。

たとえば、勝海舟から国際情勢を詳しく聞いていた竜馬は、「砲煙のなかで歴史を回転させるべきだ」という中岡慎太郎の方法に対しては強い危惧を、「いまのままの情勢を放置しておけば、日本にもフランスの革命戦争か、アメリカの南北戦争のごときものがおこる。惨禍は百姓町人におよび、婦女小児の死体が路に累積することになろう」と想像したと書いています(五・「船中八策」)。

そのような事態を日本でも起こさないようにと苦慮していた竜馬が思いついたのが「船中八策」であり、司馬氏はその策を聞いて憤慨した亀山社中の若者・中島作太郎(信行)との対話をとおして「時勢の孤児になる」ことを選んだ竜馬の「大勇」を次のように描いています。

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「坂本さん、あなたは孤児になる」という指摘に対して、「覚悟の前さ」と竜馬に答えさせていた司馬は、別れ際に「時勢の孤児になる」と批判したのは言いすぎだったと詫びた中島作太郎に対して、「言いすぎどころか、男子の本懐だろう」と竜馬に夜風のなかで言わせたのである。

そして、「時流はいま、薩長の側に奔(はし)りはじめている。それに乗って大事をなすのも快かもしれないが、その流れをすて、風雲のなかに孤立して正義を唱えることのほうが、よほどの勇気が要る。」と説明した司馬は、竜馬に「おれは薩長人の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人だと思っている。おれの立場はそれだけだ」と語らせていた(下線引用者、五・「船中八策」)。

司馬が竜馬に語らせたこの言葉には、生まれながらに「日本人である」のではなく、「藩」のような狭い「私」を越えた広い「公」の意識を持った者が、「日本人になる」のだという重く深い信念が表れていると思える。子供たちのために書いた「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章を再び引用すれば、「自己を確立」するとともに、「他人の痛みを感じる」ような「やさしさ」を、「訓練して」、「身につけ」た者を司馬は、「日本人」と呼んでいるのである。

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国境を接した国々との軋轢が深まっている現在、子供や孫の世代を再び他国への戦場へと送り出す間違いと悲劇を繰り返さないためにも、時代小説などで戦争を描き続けていた司馬氏の「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章は重要でしょう。 

(5月6日改訂)