高橋誠一郎 公式ホームページ

03月

安倍政権の政治手法と日露の「教育勅語」の類似性

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安倍政権の強引な政治手法からは、「憲法」のなかったニコライ1世治下の「暗黒の30年」との類似性を痛感します。

2007年に発行した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社)では、ニコライ1世の時代に出されたロシア版「教育勅語」の問題と厳しい検閲下で『貧しき人々』などの小説をとおして言論の自由の必要性を主張した若きドストエフスキーの創作活動との関係を考察していました。

前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では、ロシア版「教育勅語」と日本の「教育勅語」の類似性についても詳しく考察しました。

ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、注目したいのは一九三七年には文部省から発行された『國體の本義』の「解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです。

この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。(註――「教育勅語」と帝政ロシアの「ウヴァーロフの通達」だけでなく、清国の「聖諭廣訓」との類似性については高橋『新聞への思い』人文書館、2015年、106~108頁参照)。

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現在は新たな著書の執筆にかかっていますが、「憲法停止状態」とも言える状態から脱出するためにも、もう一度北村透谷や島崎藤村などの著作をとおして、「教育勅語」の影響を具体的に分析したいと考えています。

若きドストエフスキーを「憲法」のない帝政ロシアの自由民権論者として捉え直すとき、北村透谷や島崎藤村など明治の『文学界』同人たちによる『罪と罰』の深い受容の意味が明らかになると思えます。

「教育勅語」の問題を再考察する際にたいへん参考になったのが、リツイートで紹介した中島岳志氏と島薗進氏の『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と樋口陽一氏と小林節氏の『「憲法改正」の真実』(ともに集英社新書)でした。

それらの著書を読む中で「教育勅語」の問題が「明治憲法」の変質や現在の「改憲」の問題とも深く絡んでいたことを改めて確認することができました。それらについてはいずれ参考になった箇所を中心に詳しく紹介することで、島崎藤村が『夜明け前』で描いた幕末から明治初期の時代についても考えてみたいと思います。

(2017年2月22日、図版と註を追加し、題名を改題)

小林秀雄の『カラマーゾフの兄弟』観――坂口安吾と寺田透をとおして

前回の記事で紹介したように、安吾は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを、「あそこで初めてドストエフスキイのそれまでの諸作が意味と位置を与えられた。そういうドストエフスキイのレーゾン・デートルに関する唯一の人間をはじめて書いたんですよ」と讃えていました。

それに対して小林秀雄は一応は同意しつつも、「我慢に我慢をした結果、ボッと現れた幻なんですよ」と語り、さらに「アリョーシャをフラ・アンジェリコのエンゼルの如きものである」と書いたウォリンスキイの記述を読んで「僕はハッと思った。あれはそういうものなんだ。彼の悪の観察の果てに現れた善の幻なんだ」と主張しているのです。

一方、「アリョーシャは人間の最高だよ。涙を流したよ。ほんとうの涙というものはあそこにしかないよ。しかしドストエフスキイという奴は、やっぱり裸の人だな。やっぱりアリョーシャを作った人だよ、あの人は……」と絶賛した安吾は、「裸だ。だが自然人ではないのだよ。キリスト信者だ」という小林の反論には、「そうでもないんじゃないかな」と答えていました。

ここにはドストエフスキーがバルザック的なリアリズムの手法で人間と社会を生身で考察し続けてアリョーシャという形象に至ったと考えていた安吾と、イデオロギー的な視点からドストエフスキーを「キリスト信者」と見なしていた小林秀雄との大きな落差があるように感じられるのです。

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小林秀雄のアリョーシャ観と『カラマーゾフの兄弟』観の変貌が明らかになるのは、「ドストエフスキーの特徴が『白痴』に一番よくでているのではないかと思います」との感想を直感で語っていた数学者の岡潔氏と1965年に行われた対談です(『人間の建設』新潮文庫)。

これに対して小林秀雄氏はなぜそう思ったかを尋ねることをせずに、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と決めつけ、「それにしてもドストエフスキーが悪漢だったとはしらなかった」との返事に対しては、「悪人でないとああいうものは書けないですよ」と言葉を連ねて説明していました。

注目したいのは、その後で『白痴』論から話題を転じた小林がドストエフスキーは「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と続けていたことです。

なぜならば、太平洋戦争直前の1941年10月から書き始めた「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完)では、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と断言していたからです。

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

この意味で興味深いのは、フランス文学者の寺田透が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の「結び兼補足」で、『カラマーゾフの兄弟』の結末についてこう書いていることです。少し長くなりますが、バルザックの専門家でもあった寺田透が若い頃に小林秀雄から受容したことの大きさをも物語っていると思えるので、全体を引用しておきます。

「『カラマーゾフの兄弟』の巻末で、少年たちに向つてアリョーシャが小演説をする場面、それに答へる少年たちの「ウラー」と、一生手をとりあつて行かうと叫ぶかれらの言交しを書いたとき、少くともそのとき(といふのは次作があるといふ予告を、それ自体、現『カラマーゾフ』の趣向の一つにすぎないと見る見方も許されるからだが)、これらの少年たちの活躍と、アリョーシャとかれらの再会が描かれる筈の次作の企画は、もう抛棄されてゐたと見るべきではなからうか」。

このように記した寺田は誤解を怖れるかのように、さらに次のように補っているのです。

「それはシェストフが嘲つてゐるやうに書けなかつたから今日存在しないのではない。また今の第一部が完璧だから書く必要がないので存在しないのでもない。

ドストエフスキーは自分で判断して、それを書くことを断念したのだと思ふ。(あるいはもともと書くつもりはなしに、あの次作がありげな序文を書いたのである。)」。

このように記したとき、バルザック研究者の寺田透は時勢を先取りするような形で、「キリスト」や「マルクス」という単語をちりばめて読者受けのする発言を行いながら、時流が変わると自説をも変えた小林秀雄に対する激しい怒りを覚えていたのではないでしょうか。

『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で寺田透は、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように記していたのです。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

坂口安吾の小林秀雄観(3)――『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐって

少し寄り道をしましたが、いよいよ1948年に行われた『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる小林秀雄と坂口安吾の議論を考察することにしますが、この対話を読んで驚いたのは、そこでは安吾が戦前からドストエフスキー論の権威とみられていた小林に対して押し気味に議論を進めているように見えたことです。

ただ、小林秀雄は未完に終わった全八章からなる『カラマアゾフの兄弟』論を、太平洋戦争が始まることになる一九四一年の一〇月号から翌年の九月号にかけて発表していました。対談はこの論稿を踏まえて行われていると思われますので、アリョーシャについての記述を中心にこの『カラマアゾフの兄弟』論をごく簡単に見、その後で戦後の「モーツァルト」から「ゴッホの手紙」を経て「『白痴』についてⅡ」までの流れを時系列的に整理しておくことにします。

*   *   *

『カラマアゾフの兄弟』論の冒頭で「バルザックもゾラも、フョオドルの様な堕落の堂々たるタイプを描き得なかつた」と指摘した小林は、ゾシマの僧院に集まった家族たちについて紹介しながら、「カラマアゾフ一家は、ロシヤの大地に深く根を下してゐる。その確乎たる感じは、ロシヤを知らぬ僕等の心にも自から伝はる。大芸術の持つ不思議である」と高く評価しています。

そして「長男のドミトリイは、田舎の兵営からやつて来る。次男のイヴァンはモスクヴァの大学から、三男のアリョオシャは僧院から。彼等は長い間父親から離れて成人したのだし、お互に知る処も殆どない」と家族関係を簡明に紹介し、「道具立てはもうすつかり出来上がつてはゐるのだが、何も知らぬ読者は謎めいた雰囲気の中に置かれてゐる。その中で、フョオドルの顔だけが、先ず明らかな照明をうける」とし、「コニャクを傾け、馬鹿気た事を喋り散らすだけで、フョオドルはもうそれだけの事をしてしまふ。ともあれ、其処には、作者の疑ふべくもない技巧の円熟が見られる」と記していました。

本稿の視点から興味深いのは、「この円熟は、『カラマアゾフの兄弟』の他の諸人物の描き方や、物語の構成に広く及んでゐる」と続けた小林が、『白痴』のムィシキンとの類似点にも注意を促しながらアリョーシャについてこう書いていることです。

「『白痴』のなかでは、ムイシュキンといふ、誰とでも胸襟を開いて対する一人物を通じ、謎めいた周囲の諸人物が、次第に己れの姿を現して行くといふ手法が採られてゐたが、この作でもアリョオシャが同じような役目を勤める」が、アリョーシャは世俗の世界と「静まり返つたゾシマの僧院」の「二つの世界に出入して渋滞する処がない」。

さらに、「言ふ迄もなく、イヴァンは、『地下室の手記』が現れて以来、十数年の間、作者に親しい気味の悪い道連れの一人である」とした小林は、「確かに作者は、これらの否定と懐疑との怪物どもを、自分の精神の一番暗い部分から創つた」として、イワンがアリョーシャに語る子供の苦悩についての話や「大審問官」についても、忠実に紹介しています。

こうして『カラマーゾフの兄弟』の構成と登場人物との関わりを詳しく分析した小林は、この評論の第六章ではドミートリーについて、「恐らく彼ほど生き生きと真実な人間の姿は、ドストエフスキイの作品にはこれまで現れた事はなかつたと言つてもいゝだらう。読者は彼の言行を読むといふより、彼と付合い、彼を信ずる。彼の犯行は疑ひなささうだが、やはり彼の無罪が何となく信じられる、読者はさういふ気持にさせられる」と見事な指摘をしていました。

残念ながら、この『カラマーゾフの兄弟』論も未完で終わっているのですが、注目したいのは、小説の全体的な構造や結末での少年たちとアリョーシャとの会話も踏まえて小林秀雄が次のように記していたことです。

「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる。彼が嘗て書いたあらゆる大小説と同様、この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」。

この適確な指摘は、現在の通俗的な『カラマーゾフの兄弟』の理解をも凌駕していたように見えます。

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こうして、太平洋戦争が始まる1941年の10月から翌年の9月まで「『カラマアゾフの兄弟』」を『文藝』に8回数連載して中断した小林秀雄は、戦況が厳しくなり始めた同年の12月頃から「モーツァルト」の構想を練り始め、敗戦をむかえる頃から執筆を開始して、1947年の7月に『モオツアルト』を創元社から刊行していました。

同じ1947年に「通俗と変貌と」を『書評』1月号に発表した坂口安吾は、『新潮』6月号に発表した「教祖の文学」で、研究者の相馬正一が書いたように、「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」のです。

一方、翌年の1948年8月に湯川秀樹との対談「人間の進歩について」(『新潮』)で原子力エネルギーを批判した小林秀雄は、その11月に「『罪と罰』についてⅡ」(『創元』)を、12月に「ゴッホの手紙」(『文體』)発表しています。

そして、1951年1月から発表の場を『藝術新潮』に移して「ゴッホの手紙」を翌年の2月まで連載した小林秀雄は、その年の5月からは「白痴」についてII」を『中央公論』に連載を始めます。このことを考えれば、「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」で記したように、「ゴッホの手紙」は「白痴」についてII」の構想とも結びついていたといえるでしょう。

「伝統と反逆」と題された対談で、「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判した安吾は、ゴッホをやると語ったことについても「しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに」と批判していました。

小林の伝記的研究の問題点を指摘していた寺田透も、「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と書き、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と批判するようになるのです。

一方、安吾の批判に対して小林はメソッドを強調しながら次のように反論したのです。

「例えば君が信長が書きたいとか、家康が書きたいとか、そういうのと同じように俺はドストエフスキイが書きたいとか、ゴッホが書きたいとかいうんだよ。だけど、メソッドというものがある。手法は批評的になるが、結局達したい目的は、そこに俺流の肖像画が描ければいい。これが最高の批評だ。作る素材なんか何だってかまわぬ」。

しかし、安吾は追求の手を緩めずに、「小林さんは、弱くなってるんじゃないかな。つくるか、信仰するか、どっちかですよ。小林さんは、中間だ。だから鑑賞だと思うんです。僕は芸術すべてがクリティックだという気魄が、小林さんにはなくなったんじゃないか、という気がするんだよ」と厳しく迫ります。この発言から対談は一気に『カラマーゾフの兄弟』論へと入っていきます。

「まあ、どっちでもよい。それより、信仰するか、創るか、どちらかだ……それが大問題だ。観念論者の問題でも唯物論者の問題でもない。大思想家の大思想問題だ。僕は久しい前からそれを予感しているんだよ、だけどまだ俺の手には合わん。ドストエフスキイの事を考えると、その問題が化け物のように現われる。するとこちらの非力を悟って引きあがる。又出直す。又引きさがる、そんな事をやっている。駄目かも知れん。だがそういう事にかけては、俺は忍耐強い男なんだよ。癇癪を起すのは実生活に於てだけだ」。

この発言からは山城むつみ氏が『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)で言及していた戦時中から敗戦直後までの、ドストエフスキー作品に対する小林の真摯な取り組みが感じられます。

それに対して安吾も「僕がドストエフスキイに一番感心したのは『カラマアゾフの兄弟』だね、最高のものだと思った。アリョーシャなんていう人間を創作するところ……」と応じ、「アリョーシャっている人はね……」と言いかけた小林も、安吾に「素晴らしい」とたたみかけられると、「あれを空想的だとか何とかいうような奴は、作者を知らないのです」と答えていたのです。

ただ、その後の安吾とのやりとりからは、小林秀雄が『カラマーゾフの兄弟』に対する見方を少しずつ変えていくことになる予兆さえも感じられるので、稿を改めて考察することにします。

坂口安吾の小林秀雄観(2)――バルザック(1799~1850)の評価をめぐって

FRANCE - HONORE DE BALZAC

(Honoré de Balzac ,Louis-Auguste Bisson – Paris Musées. 図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

1932(昭和6)年10月に創刊された同人誌『文科』(~昭和7年3月)で小林秀雄や河上徹太郎とともに同人だった作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したのはよく知られています。

しかし安吾は、その少し前に「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも断っていたのです。

実際、その翌年の1933年12月に発表した「『未成年』の独創性について」と題された論考で、「たうとう我慢がし切れないのでわたしは自分の実生活に於ける第一歩の記録を綴る事に決心した」という冒頭の言葉を引用した小林は、「『未成年』は全篇ドルゴルウキイといふ廿一歳の青年の手記である。彼の作品中で最も個性的な書出しで、この青年の手記は始る」ことに注意を促していました。

「告白」という文体の重要性を指摘した小林は、次のように記してドストエフスキー作品の特徴にも鋭く迫っていました〔一五〕。

「私は以前ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの奇怪さだと書いた事があるが、彼の作品の所謂不自然さは、彼の徹底したリアリズムの結果である、この作家が傍若無人なリアリストであつたによる。外に秘密はない。さういふ信念から私は彼の作品を理解しようと努めてゐる」〔二〇〕。

相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の巻末に付けられた略年譜によれば、安吾もこの年の9月に「文学仲間を誘ってドストエフスキー研究会を立ち上げ」ていました。同じ年に書いた「ドストエフスキーとバルザック」で、「小説は深い洞察によって初まり、大いなる感動によって終るべきものだと考えている」と書いた安吾は、「近頃は、主として、ドストエフスキーとバルザックを読んでいる」と記し、こう続けていたのです。

「バルザックやドストエフスキーの小説を読むと、人物人物が実に的確に、而して真実よりも遙かに真実ではないかと思われる深い根強さの底から行動を起しているのに驚嘆させられる」と記した安吾は、「ところが日本の文学ではレアリズムを甚だ狭義に解釈しているせいか、『小説の真実』がひどくしみったれている」。

このような安吾のバルザック観やドストエフスキー観は、この時期の小林秀雄のドストエフスキー観とも深く共鳴しているように見えます。しかし、小林秀雄は戦後の1948年11月に『創元』に掲載した「『罪と罰』についてⅡ」では、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書き、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていました。

拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』では、バルザックの『ゴリオ爺さん』(一八三四)におけるヴォートランと若き主人公のラスティニャックとの関係とスヴィドリガイロフとラスコーリニコフとの関係を比較しました。ここでは詳しく検証する余裕はありませんが、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、むしろ、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆し得ていたと思われます。

この点で参考になるのが、1953年に『バルザック 人間喜劇の研究』(筑摩書房)を刊行していたフランス文学者・寺田透の考察です。寺田は1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に置いた『未成年』論をこう始めていました。

「しばらく外国の文学者について長い文章を書かずにゐた。中でもドストエフスキーについては、それを正面からとりあげて論文めいたものを書いたたことがない。バルザックとの関係で、あるいはリアリズムの問題を論ずるついでにとりあげたことはあつても」。

そして、「ドストエフスキーほどにはバルザックを読まない日本の読者たちのために」、『村の司祭』などの筋を紹介しながら、ことに『浮かれ女盛衰記』のリュシアンの「操り手だった」ジャク・コランの思想と『罪と罰』のラスコーリニコフの主張との共通性を指摘した寺田は、作者の手法の違いについてこう記しているのです。

「バルザックが政治的妥協によつて解決したかに見せたところを。ドストエフスキーは、罪を犯したひとりの人間にはどう手の施しやうもない情況を作ることによつて、かれを社会と対決させ、その向うでのかれの甦生をはかつたのである」。

寺田が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に『未成年』論を置いたのは、本格的なドストエフスキー論を1933年の『未成年』論で始めながら、その後バルザックの評価を大きく変えた小林秀雄への強い批判があったからではないかと私は考えています。

実は、「教祖の文学」の直前に『書評』に掲載した「通俗と変貌と」で坂口安吾はすでにこう記していたのです。少し長くなりますが、寺田透の小林観にもつながる観察ですので引用しておきます。

「いったいこの戦争で、真実、内部からの変貌をとげた作家があったであろうか。私の知る限りでは、ただ一人、小林秀雄があるだけだ。(中略)彼はイコジで、常に傲然肩を怒らして、他に対して屈することがないように見えるけれども、実際は風にもそよぐような素直な魂の人で、実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり、この戦争の影響で反抗や或いは逆に積極的な力の論者となり得ずに諦観へ沈みこんで行った」。

このように小林秀雄を分析した安吾は、それは「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と結んでいました。

少し寄り道をしましたが、次回は再び1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との対談に戻って、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる議論を分析することにします。

 

坂口安吾の小林秀雄観(1)――モーツァルト論とゴッホ論をめぐって

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(坂口安吾の写真。図版は「ウィキペディア」より)

『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房、1978年)という研究書もあるフランス文学者・寺田透(1915~1995)には、文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)についての一連の考察があります。

たとえば、1951年に発表された「小林秀雄論」で「たしかにかれはその文体によって読者の心理のうちに生きた」と小林の強烈な文体から受けた印象を記し、「いわば若年の僕は、そういうかれの文体に鞭打たれ、薫染されたと言えるだろう」と続けた寺田は、小林の伝記的研究『モーツアルト』についてこう記しているのです。

「二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた」モーツアルトの「使命は、自ら十字路と化す事にあった」とを規定しながら、自分自身は、「みずから現代の十字路と化すかわりに、現代の混乱と衰弱を高みから見降し」た。

そして寺田は、そのような解釈の方法は小林が「対象を自分に引きつけて問題の解決をはかる、何というか、一種の狭量の持ち主であることをも語っている」と批判していたのです。

このことについては拙論 「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」(『世界文学』第122号、2015年)でふれていましたが、今回、相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』を読み直す中で、安吾が同じような批判を直接小林秀雄に投げかけていたことに気づきました。

評論「教祖の文学」を発表した1年後の1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との「伝統と反逆」と題した対談について、相馬氏は評論家の奥野健男が「真剣勝負とも形容したい名対談である」と評価していることを紹介していますが、「酒豪同士の酒席での対談」からは、時に剣戟の音が聞こえるような激しいものでした。

すなわち、すでに安吾は次のように迫っていたのです。「僕が小林さんに一番食って掛りたいのはね、こういうことなんだよ。生活ということ、ジャズだのダンスホールみたいなもの、こういうバカなものとモーツァルトとは、全然違うものだと思うんですよ。小林さんは歴史ということを言うけれども、僕は歴史の中には文学はないと思うんだ。文学というものは必ず生活の中にあるものでね、モーツァルトなんていうものはモーツァルトが生活してた時は、果して今われわれが感ずるような整然たるものであったかどうか、僕は判らんと思うんですよ」。

小林が「そう、そう。それで?」と発言を促すと、安吾は「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判したのです。

これに対して「知らんさ」と答えた小林は、「僕は音楽家ではないから、僕は専門の音楽批評家と争おうとは少しも考えていなかった。そんな事は出来ない。あれは文学者の独白なのですよ。モオツァルトという人間論なのです。音楽の達人が音楽に食い殺される図を描いたのだ」と弁明していました。

そして、「今度ゴッホ書くよ。冒険することは面白い事だ」と語ると、安吾は「詰らないことだよ。あなた、画のことなんか知らんから画にぶつかるのが嶮しい道だと思ってる」と切り返し、「私はぶつかりたいのだよ」と繰り返した小林との間で次のような激しやりとりをしていたのです。

*   *   *

坂口 でも、あそこには小林秀雄の純粋性がないよ。つまり、小林がジカにぶつかっていないね。ひねくり廻してはいるが、争ってはいない。書斎の勤労はあるかも知れないが、レーゾン・デートルがあるわけじゃない。そして、何かモデルがあるよ。スタンダールとか、変テコレンなモデルがあるよ。

小林 新しい文学批評形式の創造、それがレーゾン・デートルだ。新しいモデルがなければ、新しい技術を磨く事が出来ない。新しい技術がなければ新しい思想も出て来ない。思想と技術を離すのは観念論者にまかせて置く。

坂口 しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに。

*   *   *

1953年に書かれた寺田透の「ゴッホ遠望」はこの対談を踏まえて書かれていたと思われますが、そこで寺田は「批評家小林秀雄には多くのディレンマがある。そのひとつは芸術家の伝記的研究などその作品の秘密をあかすものではないと、デビュの当初から考え、…中略…それを喧伝するかれが、誰よりも余計に伝記的研究を世に送った文学評論家だということのうちに見出される」と指摘していたのです。

「ゴッホ遠望」では『ドストエフスキイの生活』という小林秀雄の伝記的な作品についてはふれられていませんが、『ドストエフスキーを讀む』を書くことになる寺田透は、このとき小林秀雄のドストエフスキー論の問題点を強く意識していたのではないかと私は考えています。ただ大きなテーマなので、この問題については稿を改めて論じることにします。

第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムのお知らせ(Ⅱ)

Organizing Committee of the XVI IDS Symposium より新しいサイトのお知らせが届きましたので以下に記します。

トップページの「新着情報」と「新着情報」のタイトル一覧にも掲載しました。

詳しい内容についてはリンク先で情報をご確認ください。

the new site of the Symposium:

リンク→ www.ugr.es/~feslava/ids2016/

the Cultural Program:

リンク→ http://goo.gl/NfW8gB. 

司馬遼太郎の「昭和国家」観

前回の記事で記したように、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。

そのことを物語っていると思われる記述を引用しておきます。バルチック艦隊の派遣を検討したロシアの「宮廷会議は、当時の日本の政治家からみれば、奇妙なものであったろう。ほとんどの要人が、――艦隊の派遣は、ロシアの敗滅になる。とおもいながら、たれもそのようには発言しなかった。文官・武官とも、かれらは国家の存亡よりも、自分の官僚としての立場や地位のほうを顧慮した」と記した司馬氏はこう続けているのです(「旅順総攻撃」)。

「一九四一年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、たれもが保身上、沈黙した」。

この記述を考慮するならば、旅順の激戦などの描写をとおして、司馬氏が主に考察していたのは、戦うことを決断した明治の人々の「気概」ではなく、この戦いにおけるロシアの官僚と後の日本の官僚の類似性の指摘だったといえるように思えます。

官僚が自らの「保身上、沈黙した」ために、日本は自国だけでなく他国の民衆にも莫大な被害を与えた日中戦争から太平洋戦争へと突入したのですが、安倍政権の恫喝とも思える圧力によって再び日本は同じような事態へと突き進んでいるように見えます。

司馬遼太郎の「明治国家」観

『坂の上の雲』を書き上げた翌年に書いたエッセーで司馬氏は、明治維新の担い手であった竜馬については教科書に掲載されないばかりか、海軍の創設者として再評価される一九〇七年ごろまでは、語ることも「まるでタブーのようだった」ことに注意を促しています(「竜馬像の変遷」)。

そして、竜馬がその民主主義的な思想から「乱臣賊子の一人」と見なされていた記した司馬氏は、「明治国家の続いている八〇年間、その体制側に立ってものを考えることをしない人間は、乱臣賊子」とされたと書き、「人間は法のもとに平等であるとか、その平等は天賦のものであるとか、それが明治の精神であるべき」だが、「こういう思想を抱いていた人間」は、「のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」と指摘していたのです。

ただ、司馬氏は「結局、明治国家が八〇年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていましたが、明治が四五年で終わることを考慮するならば「明治国家」が「八〇年間」続いたという記述は間違っているように思う人は少なくないと思われます。

しかし、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。

(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』より抜粋)

ツィッターの開始(ユーザー名とアカウント)

3月20日からツィッターを始めました。

ようやくプロフィール欄に情報を打ち込み、リツイートをすることができるところまできました。

まだ、慣れていないので当分は発信機能とリツイートを中心に使用したいと考えています。

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リンク→高橋誠一郎 / リンク→@stakaha5

 

これまでに以下の記事とリツイートをアップしました。

新聞記者としての正岡子規(1~3)

司馬遼太郎の「明治国家」観(1~3)

安倍政権の国家観

司馬遼太郎の「昭和国家」観(1~4)

ただ、ツイッターでは少し文章を省略しましたので、「新聞記者としての正岡子規」(1~3)以外の記事は、次回以降にこのブログでもまとめて掲載します。

相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

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『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』で長編小説『夜明け前』を本格的に論じていた相馬正一氏は、それから二カ月後に発行した『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』((人文書館、2006年11月)の第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」では、戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を厳しく批判していた作家・坂口安吾について詳しく考察していました。

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』でもその文章の一部を紹介しましたが、1947年に著した「教祖の文学──小林秀雄論」で、小林秀雄を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判した坂口安吾は、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘していたのです。

相馬氏はこのような安吾の小林秀雄批判が、1947(昭和22)年に行われた鼎談「現代小説を語る」『文学季刊』〈昭和22年4月、実業日本社〉での盟友・太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で行われていたことを第2章「小説の神様・志賀直哉批判」で明らかにしていました。

私は坂口安吾や太宰治などの研究者ではないので、ここでは彼らの小林秀雄観などに絞って本書を紹介したいと思いますが、その前にまず『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の構成を簡単に見ておくことにします。

*   *   *

はじめに――いま、なぜ安吾なのか

一、倫理としての「堕落論」

二、小説の神様・志賀直哉批判

三、女体の神秘「白痴」の世界

四、自伝的小説という名の虚構

五、教祖・小林秀雄への挑戦状

六、「桜の森の満開の下」の手法

七、盟友・太宰治への鎮魂歌

八、純文学作家の本格推理小説

九、飛騨のタクミと魔性の美少女

十、安吾史譚・柿本人麿の虚実

十一、サスペンス・ドラマ「信長」

十二、巨漢・安吾の褌を洗う女

十三、安吾、全裸の仁王立ち

十四、未完の長篇「火」の破綻

十五、負ケラレマセン勝ツマデハ

十六、無頼派作家の変貌と凋落

十七、風雲児・安吾逝く

おわりに――詩魂と淪落と

坂口安吾・略年譜

あとがき

*   *   *

さて、平野謙の司会で行われた鼎談「現代小説を語る」には、坂口安吾の他に太宰治と織田作之助の三人が出席していました。この鼎談について相馬氏は「三人が一処に会するのはこれが初めてであった」だけでなく、その座談会から一と月後に織田が肺結核が悪化して34歳で亡くなっていることも紹介しています。

そして、「同人誌『現代文学』で安吾と仲間同士だったという気安さもあって」冒頭から挑発的な発言をした平野に太宰治が激しく反撥したことを伝えています。重要な鼎談だと思われるので、少し長く引用しておきます。

平野「大体現代文学の常識からいふと、志賀直哉の文学といふものが現代日本文学のいつとうまつたうな、正統的な文学だとされてゐる。さういふ常識からいへばここに集まつた三人の作家はさういふオーソドックスなリアリズムからはなにかデフォルメした作家たちばかりだと見られてゐるが……。」

太宰「冗談言つちゃいけないよ。」

このような太宰の反撥に共感した織田が、「志賀直哉はオーソドックスだと思つてはゐないけど、さういふものにまつり上げてしまつたんだ。オーソドックスなものに……」と批判したのを受けて、坂口が「あれを褒めた小林の意見が非常に強いのだよ」と語ると、鼎談の流れは一気に小林秀雄批判に傾いていたのです。

織田「さうさう(繰り返し記号)、小林秀雄の文章なんか読むと、一行のうちに『もつとも」といふ言葉が二つくらゐ出て来るだらう。褒めてゐるうちに褒めていることに夢中になつて、自分の理想型をつくつてゐるのだよ。志賀直哉の作品を論じてゐるのぢやない。小林の近代性が志賀直哉の中に原始性といふノスタルヂアを感じたでけで……。』

すると、坂口は「小林といふ男はさういふ男で、あれは世間的な勘が非常に強い。世間が何か気がつくといふ一歩手前に気がつく。さういふカンの良さに論理を托したところがある。だからいま昔の作家論を君たち読んでご覧なさい。実に愚劣なんだ、いまから見ると……。小林の作家論の一歩先のカンで行く役割といふものは全部終つてゐる役割だね」と語っていたのです。

私がこの書からことに強い刺激を受けたのは、この鼎談の翌年に太宰治が「如是我聞(にょぜがもん)」〈昭和23年3~7、『新潮』〉を書いて、自殺した芥川龍之介にも言及しながら「小説の神様」に収まっていた志賀直哉を徹底的に批判した文章を読んだときでした。

このエッセーを「太宰が後進に托した捨て身の〈遺書〉である」とした相馬氏は、太宰が「様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設ける」覚悟で書いたこのエッセーから本書でかなり長い引用をしています。

注目したいのは、志賀を評して「も少し弱くなれ、文学者なら弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るやうに努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまつてゐろ」と書いた太宰が、「君について、うんざりしてゐることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つてゐないことである。/日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。/君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさへしてるやうだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開(あ)いた口がふさがらぬとはこのことである。」と書いていたことです。

そして、「腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。…中略…売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり」と宣言しておきながら、太宰はこの直後に自殺してしまったのです。

本書に掲載されている「略年譜」によれば、昭和2年に安吾は「私淑していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受けて、自殺の誘惑に駆られ」ていました。このことを考えるならば、太宰の自殺から受けた安吾の衝撃の大きさが理解できます。

ただ、第7章「盟友・太宰治への鎮魂歌」で相馬氏は安吾が「不良とキリスト」で『斜陽』などの作品を「傑作として賞賛する一方で」、「死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない」と批判的に捉えていたことも紹介しています。

明治期の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰との関係に関心を持っていた私が注目したのは、内閣情報局の主導で「日本文学報国会」(会長・徳富蘇峰)が結成された1942(昭和17)年6月に、安吾が『現代文学』第7号に「甘口辛口」と題する次のようなエッセーを発表して、国策文学を牽制していたことにも相馬氏が「あとがき」でふれていたことです。

すなわち、ここで「日本文学の確立ということは戦争半世紀以前から主要なる問題であった」と記した安吾は、「ところが戦争このかた、文学の領域では却ってこの問題に対する精彩を失い、独自なる立場を失い、人の後について行くだけが能でしかないという結果になっている」と続けていたのです。

こうして本書からはいろいろと考えさせられることがありましたが、相馬氏は「あとがき」で1948(昭和23)年10月に発表された安吾の「戦争論」にも言及していました。

原子爆弾のような人間の空想を遙かに超えた魔力が現われた以上、これからは「「戦争の力に頼ってその収穫を待つことは許されない。他の平和的方法によって、そして長い時間を期して、徐々に、然し、正確に、その実現に進む以外に方策はない」と当然の理を記した安吾は、すでにこう続けていたのです。

「今日、我々の身辺には、再び戦争の近づく気配が起りつつある。国際情勢の上ばかりではなく、我々日本人の心の中に」。

最後にこのような文筆活動を行っていた「坂口安吾の文学」の全体像を紹介した出版社の文章を引用することでこの小文を終えることにします。

 

坂口安吾の内部には、時代の本質を洞察する文明評論家と

豊饒なコトバの世界に遊ぶ戯作者とが同居しており、

それが時には鋭い現実批判となって国家権力の独善や欺瞞を糾弾し、

時には幻想的なメルヘンとなって読者を耽美の世界へと誘導する。

安吾文学の時代を超えた斬新さ、詩的ダイナミズムの文章力、

そして何よりも、奇妙キテレツな人間どもの生きざまを

面白おかしく説き明かす“語り”の巧さ、

などの魅力の秘密もそこに由来している。」

(2016年3月20日。青い字の部分を加筆)