高橋誠一郎 公式ホームページ

06月

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(三)、「オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の原爆観・歴史観」を掲載 

三、オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の原爆観・歴史観

オバマ大統領の広島訪問は、被爆者の方々との真摯な対話もあり、核廃絶に向けた一歩前進ではあったと思える。その一方で「菅直人が原子炉への海水注入をやめさせたというデマ」を安倍首相が「自身のメルマガに書き」込んでいた安倍首相とその周辺は、「トリチウム汚染水を除染しないまま薄めて海に流してしまうという」経産省の提案を同じ五月二七日に発表し、さらには大統領と同行の写真を選挙活動の広告として使っている。

この一連の流れを見ながら思い出したのは、二〇一三年の終戦記念日に安倍首相の式辞を聞いたあとで強い危機感を抱き、ブログ記事を書いた時のことであった。記念式典で安倍首相は「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切りひらいてまいります。世界の恒久平和に、あたうる限り貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります」と語った。しかし、そこではこれまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」や脱原発の文言もなかった*22。

一方、二〇一三年八月六日の「原爆の日」に広島市長は原爆を「絶対悪」と規定し、九日の平和宣言で長崎市長は、四月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える八〇カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待」を裏切り、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と厳しく批判していた。

つまり、安倍首相はこれらの痛切な願いを無視していたのである。それゆえ、初代のゴジラと同じ一九五四年生まれであるにもかかわらず安倍首相は、広島と長崎、「第五福竜丸」の三度の被爆や、「世界が破滅する」危機と直面していたキューバ危機、さらにはいまだに収束せずに汚染水など多くの問題を抱えている二〇一一年の福島第一原子力発電所の大事故のことをきちんと考えたことがあるのだろうかという強い危惧の念を抱いた。

事実、政府が「武器輸出三原則」の見直しを検討しているとの報道がなされたのは、二〇一四年二月一一日のことであったが、「特定秘密保護法」を強行採決して報道機関などに圧力をかけて、言論の自由を制限し、翌年には「戦争法」の疑いのある「安全保障関連法案」も強行採決した安倍政権は、「アベノミクス」という経済政策とともに「積極的平和主義」を掲げて、原発の輸出だけでなく武器の輸出にも積極的に乗り出したのである。

しかも、岸信介元首相は「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」との国会答弁をしていたが、このような方針も受け継いだ安倍首相も二〇〇二年二月に早稲田大学で行った講演会における質疑応答では、「小型であれば原子爆弾の保有や使用も問題ない」と発言して物議を醸していた*23。そして、ついに内閣法制局長官に抜擢された横畠裕介氏は二〇一六年三月一八日の参議院予算委員会で核兵器の使用についても「憲法上、禁止されているとは考えていない」という見解したのである。

最初にふれたように映画《ゴジラ》が封切られたのは「第五福竜丸」事件が起き無線長が亡くなった一九五四年のことであり、この映画が大ヒットした背景には、度重なる原水爆の悲劇を踏まえて核兵器の時代に武力によって問題を解決しようとすることへの強い批判や、軍拡につながりかねない強力な兵器を創造することを拒んだ科学者の芹沢への共感があったと思える。

安倍政権による一連の決定は、水爆実験により安住の地を奪われた「ゴジラ」に仮託して、「核のない世界」を願った日本国民の悲願をないがしろにし、再び世界を「軍拡の時代」へと引き戻すものであると言わねばならないだろう。

ただ、ゴジラが誕生したこの年の七月一日には警察の補完組織だった保安隊と警備隊を改組した自衛隊も誕生していた。予告編では「水爆が生んだ現代の恐怖」などの文字だけでなく、「挑む陸・海・空の精鋭」、という文字も「画面いっぱいに」広がって広告効果を上げていた*24。これら後半の文字は初代の映画《ゴジラ》やその後のゴジラの変貌を考えるうえできわめて重要だと思える。

なぜならば、映画《ゴジラ》が公開されたのは日本国憲法が公布されたのと同じ一一月三日のことであったが、創刊三一年を記念した二〇〇四年の『正論』一一月号に掲載された鼎談で、衆議院議員の安倍晋三氏は「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」と略す)第三代会長の高崎経済大学助教授・八木秀次氏(肩書きは当時)やジャーナリストの櫻井よしこ氏とともに「改憲」への意気込みを語ってもいたからである*25。

この号では石原慎太郎・八木秀次両氏による「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という対談も行われており、ここで日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価した石原氏は、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を強調していた*26。

このような「憲法」の軽視と日露戦争の賛美の流れは、『坂の上の雲』では「健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」と描かれているとする一方で、科学的な歴史観を「自虐史観」と決めつけ、「司馬の小説と史論を組み合わせると」新しい歴史観をうち立てることができるとした藤岡信勝氏の論調を受け継いでいると思える*27。この論考が発表された翌年の一九九七年一月には「つくる会」が発足し、七月にはそれに連動して安倍晋三氏を事務局長とした「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられているのである。

しかし、作家の司馬遼太郎は『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促し*28、書き終えた後では「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いていた*29。

安倍政権の成り立ちと「日本会議」との関わりに注意を促した菅野完氏の著作に続いて『日本会議とは何か』(合同出版)、『日本会議の全貌』(花伝社)などが相次いで発行されたことで、反立憲主義的な「日本会議」と育鵬社との関わりが明らかになってきている。そのことに留意するならば「変な酩酊者」という用語で「歴史修正主義者」を批判した作家・司馬遼太郎の歴史観は、「事実」を軽視して自分のイデオロギーを正当化しようとする「つくる会」や「日本会議」の歴史認識とはむしろ正反対のものといわねばならない。

安倍首相が尊敬する岸元首相とも面識のあった憲法学者の小林節氏によれば、「彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は」、「普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期」である、「国家が一丸となった、終戦までの一〇年ほどのあいだだった」のである*30。

政治学者の中島岳志氏との対談で「全体主義は昭和に突然生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたもの」で、「明治維新の国家デザインの延長上に生まれた」ことに注意を促した宗教学者の島薗進氏も、「戦前に起きた『立憲主義の死』」と「安倍政権が引き起こした『立憲主義の危機』」の関連を考察する必要性を提起し、「宗教ナショナリズム」の危険性を指摘している*31。

実際、安倍首相は今年の「施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した」が、それは「神道政治連盟」の主張と重なっており、神社本庁が包括する初詣でにぎわう神社の多くには、改憲の署名用紙が置かれていた*32。

この意味で注目したいのは、映画《風立ちぬ》を製作した宮崎駿監督が、孫が記す祖父の世代の戦争の記録の形で著した百田尚樹氏の映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造をまだ続けようとしている」と厳しく批判していたことである*33。宮崎監督が前節で見た映画《モスラ》の脚本家の一人でもあった作家の堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談を行っていたことを考えるならばこの批判は重要だろう*34。

『日本会議の研究』を著した菅野完氏は、作者の百田尚樹氏について「剽窃と欺瞞の多いこの人物について言及することは筆が汚れるので、あまり言及したくはない」と記している*35。そのことには同感だが、多くの読者が安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』もある百田氏の小説『永遠の0(ゼロ)』に感動してしまったのは、「事実」を直視することを忌避して、東条英機内閣の頃のように美しいが空疎なスローガンを掲げている安倍政権や「日本会議」の歴史認識にも遠因があると思われる。

最近は「テキスト」を「主観的に読む」ことが勧められ、「テキスト」という「事実」をきちんと読み解くことが下手になっていると思われるので、宮崎監督のアニメ映画や批判を視野に入れながら文学論的な手法でこの小説や映画をきちんと分析することが必要だろう。

 

*22 高橋誠一郎 ブログ記事「終戦記念日と『ゴジラ』の哀しみ」、二〇一三年八月一五日

*23 『サンデー毎日』(二〇〇二年六月二日号、参照。

*24 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、二〇一四年、一一九頁。

*25 安倍晋三・八木秀次・櫻井よしこ「今こそ”呪縛”憲法と歴史”漂流”からの決別を」『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、八二~九五頁。

*26 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、前掲号、五八頁。

*27 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁。

*28 司馬遼太郎「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、一九七四年、一一四~一一五頁。

*29 司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」『司馬遼太郎全集』第六八巻、評論随筆集、文藝春秋、二〇〇〇年、四九頁。

*30 樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』集英社新書、二〇一六年、三二頁。

*31 島薗進・中島岳志著『愛国と信仰の構造』集英社新書、二〇一六年、一三二頁、二三七頁。

*32 「東京新聞」朝刊、特集〈忍び寄る「国家神道」の足音〉、二〇一六年一月二三日。

*33宮崎駿、雑誌『CUT』(ロッキング・オン/9月号)。引用はエンジョウトオル〈宮崎駿が百田尚樹『永遠の0』を「嘘八百」「神話捏造」と酷評〉『リテラ』二〇一四年六月二〇日より。

*34 堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』朝日文庫、二〇一三年参照。

*35 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、二〇一六年、一一七頁。

(2016年7月1日、加筆。2016年11月2日、タイトルを改題)

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(二)、「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》を掲載

二、「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》

本多監督の盟友・黒澤監督は映画《ゴジラ》をすぐれた百本の映画の一つとして挙げていたが、「ゴジラ」の本場である日本でも、「ゴジラ」の哀しみや怒りは急速に忘れ去られたように思える。

「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろう」と指摘し、「あらゆる紛争問題の解決のための平和な手段をみいだすよう勧告する」という「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発せられたのは、「第五福竜丸」事件の翌年七月のことであった。

この事件から強い衝撃を受けて「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えた黒澤明監督も、映画《ゴジラ》から一年後に映画《生きものの記録》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)を公開した*11。

この映画では、映画《ゴジラ》で古生物学の山根博士の役を見事に演じていた志村喬が、度重なる水爆実験や「核戦争」などの危険性を心配して家族とともにブラジルへ移民しようとする主人公の老人の気持ちを理解する重要な知識人の役を演じている。

一方、息子たちの強い反対にあい、裁判で準禁治産の宣告を受けたことで、精神的にも追い詰められたこの老人は工場が燃えれば息子たちもあきらめるだろうと考えて放火する。しかし、従業員たちの深い苦悩を見て自分たちだけで逃げようとしたことの非を主人公が悟る場面も描かれている。ことに、精神病院に収容された主人公が夕日を見て核戦争で燃え上がった地球とみなし、「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンは圧巻である。ドストエフスキーの研究者である私には、そこでは『罪と罰』のエピローグで描かれている「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると思えた*12。

映画《生きものの記録》が英語では《I Live In Fearと訳され、ロシア語でも«Я живу в страхе» (私は恐怖の中で生きている)と訳されていることもあり、いまだにこの主人公の老人・喜一は「恐怖」から逃げだそうとしたと誤解されることが多い。しかし、むしろ彼は「あんなものにムザムザ殺されてたまるか、と思うとるからこそ、この様に慌てとるのです」と語り、「ところが、臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と批判していたのである。その意味でこの老人・喜一は自然の豊かさや厳しさを本能的に深く知っていた映画《デルス・ウザーラ》の主人公の先行者的な人物であったといえるだろう。

しかし、映画《七人の侍》の翌年に公開され、三船敏郎が見事な老け役を演じていたこの映画は営業的には大失敗に終わった。映画《ゴジラ》からわずか一年の遅れで公開された黒澤映画の失敗の原因についてはいろいろと指摘されているが、その遠因には一九五三年にアメリカ大統領のアイゼンハワーが、「原子力の平和利用」を国連で表明するとともに、被爆国の日本にたいして原子力発電所の建設を促す動きを強め、それに呼応して翌年の一九五四年一月一日から読売新聞による「ついに太陽をとらえた」とする原発推進の三〇回にわたる連載が始められていたことを挙げることができるだろう。この結果、一九五四年三月三日には、「国会に初めて原子炉予算として二億円あまり」を計上するという議案が提出され、数日後には成立していたのである。

広告研究家の本間龍氏は『原発プロパガンダ』 において、一九七〇年から福島第一原子力発電所の大事故が起きる二〇一一年までの大手電力会社の広告宣伝は二兆四千億円にも及び、政府広報予算も含めればさらに数倍にも膨れあがることや、二〇一三年からは安倍政権の意向に従って原発広告が復活し、ことに原発推進派だった読売新聞が「再び記事の中でも積極的に原発再稼働を唱え」始めていることを指摘している*13。同じようなことが「第五福竜丸」事件が起きた一九五四年から翌年までの間にもすでに起きていたのである。

「原子力基本法」を成立させた日本政府は、「原子力の平和利用」を謳いながら、経済面を重視して原子力発電の育成を「国策」として進めるようになり、原子力発電の危険性を指摘する科学者を徐々に要職から追放しはじめることになる。こうして、日本が地震大国という地勢的な条件や原爆の悲惨さから目をそらして原子力大国への道を歩み出し始めた翌一九五五年の『文學界』の七月号に掲載されたのが石原慎太郎氏の小説『太陽の季節』だった。「既成道徳に対する反抗」を描いたこの小説が同じ年に第一回『文學界』新人賞を受賞するとこの作品は一躍、脚光を浴びることとなり、「太陽族」という流行語も生まれた*14。

さらに、一九五五年に「原子力潜水艦ノーチラス号」を製造した会社の社長を「原子力平和利用使節団」として招聘した読売新聞社の正力松太郎社主は、映画《生きものの記録》が公開されたのと同じ一一月からは「原子力平和利用大博覧会」を全国の各地で開催し、「原子力発電」を「国策」とするための社運を賭けた大々的なキャンペーンを行った*15。

それは福島第一原子力発電所の大事故の前に広告会社の電通などによって行われた「原子力の安全神話」を広める広告の先駆けのようなものであったといえよう。このような大々的な宣伝により日本における「核エネルギー」にたいする見方はがらりと変わり、この映画が封切りされた頃には原子力エネルギーが「第二の太陽」ともてはやされるようになり、映画《生きものの記録》は「季節外れの問題作」と見なされて興行的には大失敗に終わったのである。

このような事態に際して、一九四八年の対談で太陽熱も原子力で生まれており、原子力エネルギーは「そうひどいことでもない」と湯川秀樹博士が主張したのに対して、「高度に発達する技術」の危険性を指摘して「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と反論して、「原子力エネルギー」の危険性を正しく指摘していた文芸評論家の小林秀雄が、原発の推進が「国策」となると沈黙してしまったことも大きいと思われる*16。

一方、「ゴジラ映画三十年の変遷」を分析した浅井和康氏が一九七四年に公開された映画《ゴジラ対メカゴジラ》に言及して、ついには「贋者の」ゴジラが登場したと記していた*17。ましこ・ひでのり氏も一九八九年に公開された映画《ゴジラvsビオランテ》を考察して「〈憲法前文や9条の理念が邪魔で戦争が満足にできない〉といった好戦派のホンネがSFの形で露呈しているといえるのではないか」と書き、ここでは「先端技術をスマートに駆使して敵を撃破する“格好いい”自衛隊」が描かれていることを指摘している*18。

さらに、永田喜嗣氏は初期のゴジラ・シリーズでは、「文民統制」の原則が貫かれていたのに対し、《ゴジラvsビオランテ》では「ゴジラ映画初の自衛隊が人間を撃つ描写や、外国人を徹底的に悪人にし」、一九九一年に公開された《ゴジラvsキングギドラ》では、「日本企業が核ミサイル付き原潜を持つ」という設定がなされており、ゴジラ映画の右傾化であると批判した*19。

このことに言及した芹沢亀吉氏は、「ゴジラファンの間で原点回帰の傑作と評価されている」、二〇〇一年に公開された映画《ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃》を詳細に分析して、主人公の父親が終盤で「特殊潜航艇さつま」に乗って、海中にいるゴジラの口の中に突入する場面を、特攻をかっこよく見せる映画《永遠の0》の先駆けなのだと書き、「映画自体が大ヒットしたことで後続の東宝映画が特攻を肯定的に描く事を許容する前例になってしまった」と続けている*20。

これらの指摘はなぜ本多監督が、一九七五年に公開された映画《メカゴジラの逆襲》を最後に「ゴジラ・シリーズ」から去ったかということだけでなく、なぜ宮崎駿監督が「神話の捏造」という言葉で映画《永遠の0(ゼロ)》を厳しく批判したかをも説明していると思える。

最後に注意を払っておきたいのは、一九六一年に公開された映画《モスラ》(製作:田中友幸、監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二)のモスラの形象に注目した小野俊太郎氏が、「幼虫モスラと王蟲(オーム)の形状の類似」などを指摘していることである*21。

しかも、一九八四年に公開された宮崎駿監督のアニメ映画《風の谷のナウシカ》が映画《モスラ》の理念を継承していることにも言及し、両者を繋ぐ働きを黒澤映画《生きものの記録》が担っていることを指摘している。本多監督が日米合作企画映画として製作したこの映画《モスラ》は一九六一年七月三〇日に公開されたが、この映画の脚本が中村真一郎、福永武彦、堀田善衛という著名な作家三人の原作『発光妖精とモスラ』(『週刊朝日』)を元にして関沢新一が脚本を書いていた。日東新聞記者である主人公の福田善一郎という名前は、これらの三人の作家の名前を組み合わせて出来ているが、ここにはシナリオを重視してたびたび共同で書いていた黒澤明と同じような姿勢が強く見られるだろう。

 

*11 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄――風のように侍は――』筑摩書房、二〇〇五年、七七七頁。

*12 高橋誠一郎『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、二〇一四年、一三二頁。

*13 本間龍『原発プロパガンダ』 岩波新書、

*14 高橋誠一郎、前掲書、一三五頁。

*15 有馬哲夫『原発・正力・CIA――機密文書で読む昭和裏面史』新潮新書、二〇〇八年参照。

*16 高橋誠一郎、前掲書『黒澤明と小林秀雄』、一〇八~一〇九頁。

*17 浅井和康「ゴジラ映画三十年の変遷」、『モスラ対ゴジラ』講談社X文庫、一九八四年、二三九頁。

*18 ましこ・ひでのり『ゴジラ論ノート』三元社、二〇一五年、一〇八頁。

*19 永田喜嗣「ゴジラ ウルトラマン 怪獣平和学入門 ~怪獣映画にみる戦争~」、市民社会フォーラム第171回学習会、二〇一六年一月二三日、ライブ配信

*20 芹沢亀吉、ツイートまとめ「『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃(GMK)』は本当に原点回帰映画なのかを検証してみた」二〇一六年六月二五日。

*21 小野俊太郎『モスラの精神史』講談社現代文庫、二〇〇七年、二四八~二五一頁。

(2016年11月2日、タイトルを改題)

 

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日、(一)モスクワで観たゴジラとアメリカのゴジラ観を掲載

一、モスクワで観たゴジラとアメリカのゴジラ観

水爆大怪獣と名付けられた初代の「ゴジラ」がスクリーンに現れたのは、「第五福竜丸」事件が起き無線長の方が亡くなられた一九五四年のことであったが、予告編では「伊福部昭の曲ではなくて、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の不気味な曲」にあわせて、様々なシーンとともに「人類最後の日来る!」「水爆が生んだ現代の恐怖」などの文字が画面いっぱいに示されていた*1。

実際、オリバー・ストーンはその著書で原爆の研究者たちが「議論を重ねるうち、原子爆弾の爆発によって海水中の水素や大気中の窒素に火がつき、地球全体が火の玉に変わるかもしれないことに突如として気づいた」ので計画が一時中断された時期があったが、その確率が極めて低いことが分かって研究が再開され、広島や長崎に原爆が投下されることになったことを記している*2。

しかし、原爆の千倍もの破壊力を持つ水爆「ブラボー」の実験がビキニ沖の環礁で行われた時には、その威力が予測の三倍を超えたために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われたのである。

それゆえ、三度も被曝した日本ではこの問題に対する関心がきわめて高く、水爆という重たいテーマを扱いながら「なるかゴジラ征服」という文字も示されていた刺激的な予告の効果や、その結末では日本を破壊し尽くしかねないゴジラに対してオキシジェン・デストロイヤーを使用することに同意した科学者の芹沢が、自分が発明した危険な兵器が悪用されないようにと自らもゴジラとともに滅ぶことを選んで亡くなるシーンを描いていたこともあり、この映画は「観客動員数九百六十九万人」に達する大ヒットとなった*3。

ゴジラが誕生してから六〇年を経て「ゴジラ」の還暦に当たる二〇一四年も、アメリカ映画の《Godzilla ゴジラ》も公開されるなどしたために、この年にはNHKのBSやテレビ東京で「ゴジラシリーズ」が放映されるなどゴジラの話題で盛り上がった。

単行本だけでなく雑誌でもゴジラ関連の特集が多く組まれており、『初代ゴジラ研究読本』(洋泉社MOOK)では、映画《ゴジラ》の脚本だけでなく、科学者の芹沢を演じた俳優の平田昭彦と本多監督との一九八一年の対談も掲載されていた。注目したいのは、その対談で黒澤監督が語ったソ連の若者たちが抱いている「核戦争への恐怖」を本多監督が伝えていたことである。

その対談を読みながら、かつてモスクワに留学していた時に映画《ゴジラ》を見たのは、かなり大きな映画観だったにもかかわらず満席で観客が真剣に見入っていたこと思い出した。映画《生きものの記録》で度重なる水爆実験や核戦争の恐怖を描いていた黒澤監督は、ソ連での生活が映画《デルス・ウザーラ》の撮影中とその前後の短い期間だったにもかかわらず、ソ連の若者たちの不安を正確に認識していたといえよう。この言葉からは黒澤が広島の被曝についても語られている映画《惑星ソラリス》を撮ったタルコフスキーとも、核戦争の危機について語り合っていたのではないかと感じた。

映画《夢》などの作品でも黒澤を補佐することになる本多監督も黒澤明研究会の例会で映画《ゴジラ》と原爆との関連についてこう明確に語っていた。「『ゴジラ』は原爆の申し子である。原爆・水爆は決して許せない人類の敵であり、そんなものを人間が作り出した、その事への反省です。なぜ、原爆に僕がこだわるかと言うと、終戦後、捕虜となり翌年の三月帰還して広島を通った。もう原爆が落ちたということは知っていた。そのときに車窓から、チラッとしか見えなかった広島には、今後七二年間、草一本も生えないと報道されているわけでしょ、その思いが僕に『ゴジラ』を引き受けさせたと言っても過言ではありません」*4。

さらに本多監督は、核兵器の開発に関わるような科学者を批判して、「ただ、水爆みたいなものを考えた人間というのは、いい気になって自分たちの勝手をやっていたら、自分たちの力で自分たちが完全に滅びる、自分たちだけじゃなくて、地球上のすべてのものを殺してしまうかもしれないほど人間というのは危険だ」とも語っていた*5。

ここには本多監督の鋭い原爆観だけでなく、戦争観も見られるが、それは二・二六事件を引き起こした陸軍第一師団第一連隊五中退に所属したために、一九三六年に徴兵で満州に派兵されたのをはじめとして、三度も懲罰的な徴兵をされていたのである。インパクトのあるゴジラの姿だけでなく、民衆が逃げ惑う迫力のあるシーンは、本多監督の苦しい実体験が反映されているだろう*6。実際、このような形で徴兵されたのは反乱軍の兵士のみならず、東条英機首相の方針に反対した丸山眞男などの学者や松前重義などの高級官僚も懲罰的な徴兵の対象とされていたのである。

本多夫人は夫と黒澤監督が「ドキュメンタリータッチの作品で有名な山本嘉次郎監督の門下生」で、互いにをクロさん、イノさんと呼び合う中であったことを紹介しながら二人の復員兵を主人公とした黒澤映画《野良犬》では、本多監督が「ファースト助監督」として迎えられ、「B班の撮影やロケ撮影を担当し」、「刑事役の三船さんがピストルを捜して東京の盛り場を歩き回る九分間、七十カットを撮り、戦後の荒廃した風俗の実像を生々しく描き出し」たと語っている*7。

さらに夫人は、映画《夢》についても言及して、「このなかで四つ目の ”トンネル”と題した十五分の物語は、クロさんには失礼かもしれませんが、間違いなくイノさん演出だったと思いますよ。戦争から帰って一年に数回、イノさんはうなされて大声で叫んで飛び起きる悪夢を見るのです」と証言している*8。

一方、アメリカにおける「ゴジラ」の受容については、『怪獣王ゴジラ』(GODZILLA KING OF MONSTERS!)と題した編集版が一九五六年にリリースされてから人気を得たことが指摘されている*9。

しかし、テリー・モース監督のもとで追加撮影と再編集がされたこの映画について、映画《ゴジラ》で主役を演じた宝田明氏は、「当時の時代背景に配慮した」ためか、「政治的な意味合い、反米、反核のメッセージ」は丸ごとカットされて」いたとし、「反核や反戦のテーマをこめた初代『ゴジラ』は米国にとって都合が悪く、大幅にカットしなければアチラで上映できなかった」と語っている*10。

実際、ましこ・ひでのり氏はアメリカでは「大衆にとって、ソ連との核戦争の不安も所詮は対岸の火事であり、ゴジラは核兵器で退治される怪物とするボードゲームのキャラクターにされた」と書き、次のようにこの映画を分析している。

すなわち、「初代ゴジラを『編集した』アメリカ版『怪獣王ゴジラ』では、水爆実験とゴジラとの関連性を否定し、ゴジラから被曝した被災者の存在を隠蔽、ゴジラが復活する可能性にふれた原作の被災者の最終場面のセリフをカットし、アメリカ版用にでっちあげた主人公に『脅威は去った』と断言させるなど、およそ『編集』の域をこえた破壊だった」のである。

小野氏が「オリジナルである日本版の『ゴジラ』を普通のアメリカの観客が観ることができたのはずっとあとで、二〇〇四年に数館で上映されたのみである」と書いていることに注目するならば、アメリカの観客はようやく二〇〇四年になって「水爆実験」によって生まれた「ゴジラ」の哀しみを知ったといえるだろう。

 

*1 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、二〇一四年、一一九頁。

*2 オリバー・ストーン、ピーター・カズニック、鍛原多恵子他訳『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史1 二つの世界大戦と原爆投下』早川書房、二〇一三年、二九一~二九三頁。

*3ウィリアム・M・ツツイ『ゴジラとアメリカの半世紀』中央公論新社、二〇〇五年、四三頁。

*4 堀伸雄「世田谷文学館・友の会」講座資料「『核』を直視した四人の映画人たち――黒澤明、本多猪四郎、新藤兼人、黒木和雄」より引用。

*5 本多猪四郎『「ゴジラ」とわが映画人生』ワニブックス、二〇一〇年、八七頁。

*6 切通理作『本多猪四郎 無冠の巨匠』洋泉社、二一四年、一八六~二一三頁。

*7 本多きみ『ゴジラのトランク 夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情』、宝島社、二〇一二年、九九頁。

*8 同上、一七七頁。

*8 小野俊太郎『ゴジラの精神史』、彩流社、二〇一四年、一四六頁。

*9 宝田明、「反戦がテーマのゴジラを国会で上映したい」『日刊ゲンダイ』二〇一五年六月三〇日。

*10 ましこ・ひでのり『ゴジラ論ノート 怪獣論の知識社会学』三元社、二〇一五年、六三頁。

(2016年11月2日、タイトルを改題)。

 

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の構成案・旧版

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の執筆は、思いがけず序章で手間取ってしまいました。

ようやく書き終えましたのでここでは本書の構成案をまず示し、その後で数回に分けて序章を掲載することにします。

 

序章 映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日

*  *  *

第一部 映画《ゴジラ》(一九五四)から黒澤映画《夢》(一九九〇)へ

第一章 ゴジラの咆哮と悲劇の発生

第二章 映画《モスラ》(一九六一)から《風の谷のナウシカ》へ

第三章 小説《モスラ対ゴジラ》(一九六四)と映画《ゴジラ》(一九八四)

第四章 「ゴジラ」の理念の変質と映画《夢》――本多猪四郎と黒澤明の友情

第二部 小説『永遠の0(ゼロ)』(二〇〇六)の構造と「オレオレ詐欺」の手法

はじめに 「約束」か「詐欺」か

第一章 孫が書き記す祖父の世代の「美しい」物語

第二章 地上での視線を欠いた「空」の戦いの物語ーー登場人物の画一性

第三章 高山という新聞記者――新聞の役割と「司馬史観」論争

第四章 神話の捏造――英雄の創出と「ゼロ」の神話化

*  *  *

終章 アニメ映画《紅の豚》(一九九二)から《風立ちぬ》(二〇一三)へ

(2016年11月2日、リンク先を追加)

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の目次を掲載

近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の発行に向けて

ゴジラ

(図版は露語版「ウィキペディア」より)

今回の選挙でも「改憲」の問題はまたも隠される形で行われるようになりそうですが、日本の未来を左右する大きな争点ですので、今年中にはなんとか「世田谷文学館・友の会」の講座で発表した「『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を中核とした本を書き上げたいと思っていました。

しかし、今朝のニュースでも原子力規制委員会が「40年廃炉」の原則をなし崩しにして、老朽原発に初の延長認可を出したとのニュースが報道されていたように、核戦略をも視野に入れた安倍政権や目先の利益にとらわれた経済界の意向に従って、地震大国であり火山の噴火が頻発しているにもかかわらず、川内原発などの再稼働に舵を切った自公政権の原発政策は、これまでこのブログで指摘してきたように国民の生命や財産を軽視したきわめて危険なものです。

「原子力規制委員会」関連記事一覧

また、68回目の終戦記念日の安倍首相の式辞では、これまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」の文言もなかったことが指摘されています。

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

一方、一九九六年に起きたいわゆる「司馬史観」論争では、「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げた藤岡氏が『坂の上の雲』を「戦争をする気概を持った明治の人々を描いたと讃美する一方で、きちんと歴史を認識しようとすることを「自虐史観」という激しい用語で批判していました。

しかし、このような考えはむしろ司馬氏の考えを矮小化し歪めるものと感じて『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)を発行しました。なぜならば、作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語った司馬氏は、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と主張していたからです(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』)。

最近になって相次いで「日本会議」に関する著作が出版されたことにより、現在の安倍政権と「新しい歴史教科書をつくる会」との関係や、『永遠の0(ゼロ)』の百田直樹氏と「日本会議」が深く繋がっていることが明らかになってきました。

菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)を読む

国民の生命や安全に関わる原発の再稼働や武器輸出などが「国会」で議論することなく、「日本会議に密着した政治家たちが」「内閣の中枢にいる」(『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』)閣議で決まってしまうことの危険性はきわめて大きく、戦前の日本への回帰すら危惧されます。

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む

憲法学者の樋口陽一氏が指摘しているように、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」(『「憲法改正」の真実』)のです。

樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む

それゆえ、原爆や原発の問題や歴史認識などの問題を可視化して掘り下げるために、『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』と題した映画論を、急遽、出版することにしました。

参議院選挙には間に合いそうにありませんが、事前に出版の予告を出すことで、日本の自然環境を無視して原発の稼働を進め、「戦争法」を強行採決しただけでなく、「改憲」すら目指している安倍政権の危険性に注意を促すことはできるだろうと考えています。自分の能力を超えた執筆活動という気もしますが、このような時期なので、なんとか6月末頃までに書き上げて出版したいと考えています。

(2016年11月2日、リンク先を追加)

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の「あとがき」を掲載

菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)を読む

安倍首相とともに「日本会議国会議員懇談会」の特別顧問を務める麻生太郎副総理は、2013年7月に行われたシンポジウムで「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と発言していました。

一方、参院選に向けて「改憲」を明言していた安倍首相は、状況が思わしくないと見て取ると「改憲」を全面に出すことを止めたので、日本国民はまたもや「美しい言葉」で飾った安倍政権の術中にはまるかと心配していましたが、こうした中、「日本会議」と連動しつつ「改憲」に向けた準備を進めてきた安倍政権の問題点に鋭く迫る著作が陸続として発行されています。

そのような著作の先鞭をつけた菅野完氏の著書『日本会議の研究』(扶桑社新書)の意義はきわめて大きいと思われますので、今回はこの書の簡単な紹介を行ったツイッターの記事を中心に、それに関連した出来事の感想を記しておきます。

*   *   *

政治学が専門ではないので全体的な評価はできないが、菅野完氏の『日本会議の研究』は以前から気になっていた「日本会議」の実態に鋭く迫っていると思える。圧巻なのは、「日本会議」の本体は70年代初頭の右翼学生運動から発した団体であり、その中核を担うのが右翼学生運動の闘士たちであったことを明らかにした第4章「草の根」とそれに続く第5章「一群の人々」であろう。緻密な資料の収集と丁寧な取材からはノンフィクションといえる好著だと感じた。

これらの章の意義についてはすでに多くの紹介が成されているのでここでは省くが、筆者の着眼点のよさを感じたのは、2006年の自由民主党の総裁選で、「戦後レジームからの脱却」などを掲げて総裁に選出された安倍氏が翌年の参議院選で大敗北を喫した後の第168回国会で所信表明演説を行ってからわずか2日後の9月12日に退陣を表明するという「前代未聞の大失態」を演じて退陣し、政治生命が「完全に絶たれたように思われた」安倍晋三氏と保守論壇誌との関係にまず注意を促していることである。

すなわち、「体調問題からとはいえ、代表演説直後の辞任という前代未聞の大失態を演じた安倍晋三の政治生命は、完全に絶たれたように思われた。事実、当時の世論調査でも7割に上る有権者が『安倍の突然の辞任は無責任だ』と答えている。」

幕末の長州藩のことを調査するためにたまたま萩市を訪れており、そこで昼食を取っていた際に、蕎麦屋で流されていたテレビのニュース速報でそのことを知った私もやはり「三代目のお坊ちゃんだ」と感じ、復権することはまずないだろうと思った。

しかし、著者が指摘しているように保守論壇誌には「極めて早い時間から、安倍晋三の再登板を熱望するかのような記事が並ぶようになる」のである。

さらに著者は安倍氏がカムバックした際に、首相を支える内閣総理大臣補佐官となった衛藤晟一氏が「改憲」ではなく「反憲法」を唱えた「日本青年協議会」の組織候補であることも指摘していた。

そして、自民党若手の勉強会の呼びかけ人の木原稔・衆議院議員や参加者の活動にも言及して、この会が「日本会議」などの「代弁機関」という側面があることも指摘し、「日本会議国会議員懇談会」に所属する閣僚が8割を超えることに注目して、第三次安倍内閣が実質的には「日本会議のお仲間内閣」であることを明らかにしているのである。

そのことから思い起こしたのが、そのメンバーであり「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟国会議員懇談会」に所属するとともに、元衆院平和安全法制特別委員会のメンバーでもあった武藤貴也議員が、自分のオフィシャルブログに「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」という題の記事を載せていたことである。

そこで〈憲法の「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」こそが〉、〈日本精神を破壊する〉〈思想だと考えている〉と書いた武藤議員は、〈第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった〉と続けていた。

他にも注目したいくつも言及したい点はあるが、司馬遼太郎氏の死後に勃発したいわゆる「司馬史観」論争の際の「新しい歴史教科書をつくる会」の主張やその翌年に立ち上げられた安倍晋三氏が事務局長を務めた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の運動方法に以前から関心を持っていた私が、強い関心を持って読んだのは「新しい歴史教科書をつくる会」と「日本会議」とのつながりにふれた箇所であった(32頁、145頁など)。

菅野氏は「剽窃と欺瞞の多いこの人物について言及することは筆が汚れるので、あまり言及したくはない」と百田尚樹氏について記している。そのことには同感だが、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で「売国」などという「憎悪表現」を用いて当時の民主党を激しく貶した著者は、この書で『永遠の0(ゼロ)』が映画も近く封切られるので「それまでには四百万部近くいくのではないかと言われています」と豪語していた。

この小説の構造をきちんと批判的に分析することは、「日本会議」や「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の歴史認識の問題を考察するうえでも有効だと思われる。

たとえば、『永遠の0(ゼロ)』の第9章には、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつける武田という人物も描かれているが、このような見方は「文化芸術懇話会」で「本当に沖縄の2つの新聞社は絶対につぶさなあかん」と語った作家の百田尚樹氏の見解ともほぼ一致するだろう。

時間が無いので最後に本書の構成を紹介することで今回は終えるが、日本が「専制」か「民主主義」かの岐路に立たされていると思われる現在、本書が類書に先駆けて「日本会議」の問題を提起した意義はきわめて大きい。

第1章 日本会議とは何か/  第2章 歴史/ 第3章 憲法/  第4章 草の根/  第5章 「一群の人々」/ 第6章 淵源

 

国際ドストエフスキー学会で6月9日に「『罪と罰』と黒澤映画《夢》」を発表

スペイン・グラナダで開催される国際ドストエフスキー学会では6月7日に拙著のプレゼンテーションを、6月9日に〈「生存闘争」という概念の危険性の考察――『罪と罰』と黒澤映画《夢》〉という題で口頭発表を発表することが決まりました。

拙著のプレゼンテーションでは、『黒澤明で「白痴」を読み解く』と『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』に簡単にふれたあとで、副会長を務めていた故リチャード・ピース教授の著書『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(池田和彦訳、高橋誠一郎編、のべる出版企画、2006年)と教授の思い出などについて語る予定です。

論文発表では映画《白痴》や《赤ひげ》における医師と患者の関係や映画《愛の世界・山猫とみの話》について簡単に言及したあとで、「生存闘争」という概念の危険性を深く考察していた『罪と罰』における夢に注目しながら、黒澤映画《夢》(1990年)の構造との比較を行う予定です。

死んだ兵士たちとの再会が描かれている第4話「トンネル」や福島第一原子力発電所の事故を予告していたような第六話「赤富士」と核戦争後の絶望的な状況を描いた第七話「鬼哭」、そして自然エネルギーの可能性を示していた第八話「水車のある村」などを考察することにより、映画《夢》の構造が『罪と罰』の構造ときわめて似ていることを明らかにできると考えています。

 

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

黒澤明、野良犬黒澤明、天国と地獄

(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

先ほど、「長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)」をアップしましたので、長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画《野良犬》(1949)や《天国と地獄》(1963)との関係を考察した箇所も拙著から引用しておきます。

*   *   *

よく知られているように、クリミア戦争から一〇年後の混迷の首都ペテルブルグを舞台にした『罪と罰』(一八六六)は次のような有名な文章で始まっていた。「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮れどき、ひとりの青年が、S横丁にまた借りしている狭くるしい小部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした」。

一方、終戦後間もない混乱した時期の日本を舞台に、めっぽう暑い日の満員のバスでピストルをすられた刑事と、そのピストルをピストル屋から買い取って次々と凶悪犯罪をかさねる若者の息詰まるような対決を描いた映画《野良犬》(脚本・黒澤明、菊島隆三)も、「それは、七月のある恐ろしく暑い日の出来事であった」という文章から始まるガリバン刷りの同名の小説をもとにして撮られている*6。

そして、ショーウインドウに飾られている服を見て、あんな美しい服を一度着てみたいと語った自分のせいで復員軍人の青年がピストル強盗まで思い詰めたことを明かした若い踊り子は、「ショーウインドウにこんな物を見せびらかしとくのが悪いのよ」と語り、若い刑事から戒められると腐れて、「みんな、世の中が悪いんだわ」と言い訳した。

さらに踊り子は、「悪い奴は、大威張りでうまいものを食べて、きれいな着物を着ているわ」とも語っているが、この言葉は《悪い奴ほどよく眠る》との繋がりをよく物語っているだろう(下線引用者、『全集 黒澤明』第2巻、204頁)。

しかも、この二人の復員軍人の青年がともに戦争から帰った日本で自分の全財産ともいえるリュックサックを盗まれていたという共通の過去を描くことで、混迷の時代には窮地に追い込まれた人間が、犯罪者を取り締まる刑事になる可能性だけではなく、「狂犬」のような存在にもなりうることが示されていた。

こうして《野良犬》は、きわめて的確な時代考察のうえに主人公たちの行動や考え方を描き出したドストエフスキーの『罪と罰』を踏まえつつ、日本が戦前の個人の自由が全くなかった時代から、個人の「欲望」が限りなく刺激される社会へと激しく変貌し、そのような混沌とした日本の社会情勢の中で、価値観を失った若者たちのニヒリスティクな行動を鮮やかに映像化していたのである。

さらに黒澤明は一九六三年にも当時は無給でしかも将来の身分的な保証もなかったインターン制度のもとで、貧民窟に住んでいた貧しい研修医の竹内(山崎努)が、『罪と罰』のラスコーリニコフと同じように高台の豪邸に住む富豪(三船敏郎)を憎んで、彼の息子の誘拐を図るが誤ってその運転手の息子を誘拐するという事件を描いて話題を呼んだ《天国と地獄》(原作・エド・マクベイン、『キングの身代金』、脚本・小國英雄、久板栄二郎、菊島隆三、黒澤明)を公開している。

ただ、『罪と罰』のラスコーリニコフと同じような「インテリ犯罪者タイプ」の犯人の若者は、「ほとんどなんの理由もなく、ただ生まれながらの憎悪の発露としか思えないような調子で犯罪を遂行してゆく」と描かれている。そして、彼を追い詰める戸倉警部(仲代達矢)も、「法律が行う程度の正義ではまだ不足だと考えて、犯人を死刑に追いこむ工夫をする」のである。

それゆえ、この作品を論じて「サスペンス・ドラマとして最高だ」と評価した佐藤忠男は、その一方でこの映画における「黒澤の正義感はあまりに単純にすぎる」と苦言を呈している*7。

実際、『罪と罰』のラスコーリニコフも法律では罰することのできない高利貸しの老婆を殺害してしまうが、その後の主人公の苦悩を詳しく分析したドストエフスキーは、戸倉警部に相当する判事のポルフィーリイには自首を勧めさせていたのである。

こうして、《天国と地獄》と『罪と罰』における犯人や刑事の描き方などには大きな違いも認められるが、結末で描かれる自分が死刑になることを知った犯人の苦悩は、自分の死期を知ったイッポリートの苦悩をも連想させ、黒澤のドストエフスキー作品への関心の深さが感じられる。

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『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年、123~126頁。2017年5月19日、図版を追加)

 

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

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(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

東京地検が甘利前経済再生担当相と元秘書2人を「現金授受問題」で不起訴としたとの報道が5月31日の「東京新聞」朝刊に載っていました。

長編小説『白痴』との関連で黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、小國英雄、菊島隆三、橋本忍)について考察した箇所を拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)より一部改訂して再掲します。

父親の恨みを晴らすために上司の娘との結婚を果たした主人公をとおして汚職の問題などが描かれている1960年に公開された映画《悪い奴ほどよく眠る》の世界が、安倍政権下の日本では今も生き続けているのを強く感じるからです。

「アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

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一九六〇年に公開されたこの映画の冒頭では、土地開発公団・副総裁の娘佳子と秘書の西との華やかな結婚披露宴の場で、司会を務めるはずだった課長補佐が逮捕されて動揺する幹部の姿や新聞記者たちの動きが描写されていた。

場面が進むにつれて新郎の西(三船敏郎)が五年前に起きた汚職事件の捜査の過程で、上司たちの保身のために飛び降り自殺をさせられていた課長補佐の私生児であり、他人と自分の戸籍を代えることまでして父親の復讐を果たそうとしていたことが次第に明らかになる。

つまり、子供の頃に負った怪我で足をひきずるようになったが、「赤ン坊」のように純粋な心を持っていた佳子(香川京子)と結婚することで、西は副総裁にまで出世していた父の上司(森雅之)に接近し秘書に取り立てられていたのである(『全集 黒澤明』第5巻・24頁、50頁)。

秘書としての地位を利用することで西は、その時の事件の隠蔽工作に関わったが今度は殺されそうになった人物を捕らえることに成功し、汚職の真相を暴露する一歩手前のところまで佳子の父親でもある副総裁を追い詰めた。しかし、なんとか罪が暴かれることを防ごうとした副総裁は、娘婿の生命を案じるフリをしてその居所を娘から聞き出して、証人たちとともに娘婿を抹殺した。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』は、複雑な性格のガヴリーラやイッポリートの家族をとおして、当時の混迷したロシアの社会情勢とムィシキン公爵の苦悩を描き出していたが、この映画も父親の計略によって夫が殺されたことを知ったことで、純粋な精神を持っていた佳子がムィシキンと同じように発狂してしまうことを描いて終わる。

こうして、この映画は「汚職事件が多発して、真相が分からぬままに課長補佐、係長等が謎の自殺を遂げるという、痛ましい事件」が続いていた時代を背景に、企業と癒着した官僚が汚職で富を築き、発覚しそうになると容赦なく罪を部下に押しつけるような体質になっていた戦後の日本社会の腐敗をえぐり出していた*7。

そして《悪い奴ほどよく眠る》が描いていた社会状況は、クリミア戦争後に西欧のさまざまな思想がどっと入ってきて「価値の混乱」が見られ、高官による公金の使い込みや自殺なども見られるようになっていたロシアの社会状況とも重なっていたのである。

(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、59頁~60頁より一部改訂して再掲。2017年5月19日、図版を追加)