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「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

「征韓論」に沸騰した時期から西南戦争までを描いた長編小説『翔ぶが如く』で司馬遼太郎氏は、「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」と描いていました(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

世界を震撼させた福島第一原子力発電所の大事故から「特定秘密保護法案」の提出に至る流れを見ていると、現在の日本もまさにこのような状態にあるのではないかと感じます。

福島第一原子力発電所の事故後に起きた汚染水や燃料棒取り出しの問題の危険性が高まっているので、急遽、執筆中の著作を先送りして黒澤明監督の映画《夢》や《生きものの記録》をとおして、「第五福竜丸」事件や原発の問題を考察する著作を書き進めています。

しかし、民主党政権を倒した後で現政権が打ち出した「特定秘密保護法案」が、軍事的な秘密だけでなく、沖縄問題などの外交的な秘密や原発問題の危険性をも隠蔽できるような性質を有していることが、次第に明確になってきています。

この法律については10月31日付けのブログ記事「司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性」でも触れましたが、衆議院通過の期限が迫ってきているので、司馬作品の研究者という視点から、倒幕後の日本の状況と比較しつつ、この法律の問題点をもう一度考えてみたいと思います。

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国民に秘密裏に外国との交渉を進めた幕府を倒幕寸前までに追い詰めつつも、坂本龍馬が「大政奉還」の案を出した理由について、政権が変わっても今度は薩長が結んで別の独裁政権を樹立したのでは、革命を行った意味が失われると、『竜馬がゆく』において龍馬に語らせていた司馬氏は。明治初期の薩長政権を藩閥独裁政権と呼んでいました。

実際、長編小説『歳月』(初出時の題名は『英雄たちの神話』)では佐賀の乱を起こして斬首されることになる江藤新平を主人公としていましたが、井上馨や山県有朋など長州閥の大官による汚職は、江藤たちの激しい怒りを呼んで西南戦争へと至るきっかけとなったのです。

そのような中、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通は、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようと」しました(第1巻「征韓論」)。

一方、政府の強権的な政策を批判して森有礼や福沢諭吉などによって創刊された『明六雑誌』は、「明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」)。

なぜならば、「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」のです。

私は法律の専門家ではありませんが、この明治8年の『新聞紙条例』(讒謗律)が、共産主義だけでなく宗教団体や自由主義などあらゆる政府批判を弾圧の対象とした昭和16年の治安維持法のさきがけとなったことは明らかだと思えます。

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『坂の上の雲』をとおしてナショナリズムの問題や近代兵器の悲惨さを描いた司馬氏は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」と書いていました(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

同じことは原発問題についてもいえるでしょう。近年中に巨大な地震に襲われることが分かっている日本では、本来、原発というものを建ててはいけないのだという「平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが必要でしょう。

発行は春になると思いますが、執筆中の拙著『司馬遼太郎の視線(まなざし)ーー「坂の上の雲」と子規と』(仮題、人文書館)では、文学者・新聞記者としての正岡子規に焦点を当てて、『坂の上の雲』を読み解いています。

戦争自体は体験しなかったものの病気を押して従軍記者となり、現地を自分の体と眼で体感した子規が、『歌よみに与ふる書』で「歌は事実をよまなければならない」と記したことは、『三四郎』を書くことになる親友の夏目漱石の文明観にも強い影響を与えただろうと考えています。

さらに、何度も発行禁止の厳しい処罰を受けながらも、新聞『日本』の発行を続けた陸羯南や正岡子規など明治人の気概からは勇気を受け取りましたので、なんとか平成の人々にもそれを伝えたいと考えています。

正岡子規の時代と現代(1)――「報道の自由度」の低下と民主主義の危機

(2016年11月1日、リンク先を追加)

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