高橋誠一郎 公式ホームページ

岸信介

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

一、映画『十三階段への道』とアイヒマンの裁判

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載された「ヒットラーと悪魔」の冒頭で小林秀雄は、「『十三階段への道』(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た」と記し、実写映画という性質に注意を促しながら、「観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果たしたようである」と書いた。

実際、NHKの佐々木敏全による日本版「解説」によれば、この映画は「裁判の記録映画」であるばかりでなく、「各被告の陳述にあわせ一九三三年から四五年までの十二年間、ナチ・ドイツの侵攻、第二次世界大戦、そしてドイツを降伏に導いた恐ろしい背景を、その大部分が未公開の撮影および録音記録によって」描き出したドラマチック・ドキュメンタリーであった。

ニュールンベルグの戦犯 13階段への道 – CROSS OF IRON

一方、カメラの役目を強調して「御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない」と続けた小林は、「私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである」と続けていた。

「事実」をも「悪夢」に帰着させているかのように見えるこの文章を読みながら思い出したのは、小林秀雄が1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」において、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたことであった(髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』参照)。

注意を払いたいのは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画」を実行し、敗戦後にはブラジルに潜んでいたアイヒマンがこの映画が公開されたのと同じ年の5月に逮捕されたことが5月25日に発表され、翌年の1961年には裁判にかけられたことである。

アイヒマン裁判

(アイヒマン裁判、写真は「ウィキペディア」より)

映画『十三階段への道』を見ていた小林秀雄は、この裁判をどのように見ていたのだろうか。ちなみに、1962年8月には、アイヒマンの裁判についても言及されている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)が日本でも発行されたが、管見によれば、小林秀雄はこの著書に言及した書評や評論も書いていないように見える。「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

商品の詳細 (書影は「アマゾン」より)

二、「ヒットラーと悪魔」とその時代

改めて「ヒットラーと悪魔」を読み直して驚いたのは、おそらく不本意ながら敗戦後の文壇事情を考慮して省かざるを得なかったヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」が、ドストエフスキー論にも言及することで政治的な色彩を薄めながらも、『我が闘争』からの抜き書きともいえるような詳しさで紹介されていたことである(太字は引用者)。

最初はそのことに戸惑いを覚えたが、この文章が掲載されたこの当時の政治状況を年表で確認したときその理由が分かった。東条英機内閣で満州政策に深く関わり戦争犯罪にも問われた岸信介は、首相として復権すると1957年5月には国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していた。そして、1960年1月19日にはアメリカで新安全保障条約に調印したのである。この条約を承認するために国会が開かれた5月は、まさに激しい「政治の季節」だったのである。

この時期の重要性については黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督が、大ヒットした映画《ゴジラ》に次いで原水爆実験の危険性を描き出した1961年公開の映画《モスラ》で描いているので、本論からは少し離れるが確認しておきたい、(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年、45頁)。

すなわち、1960年の4月には全学連が警官隊と衝突するという事件がすでに起きていたが、5月19日に衆議院の特別委員会で新条約案が強行採決され、5月20日に衆議院本会議を通過すると一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになった。そして6月15日には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出す一方で、国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突してデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという悲劇に至っていた。

一方、このような激しい安保条約反対運動に対抗するかのように、すでに1958年には神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡を寄せ、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生していた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。なぜならば、戦前の価値の復活を求める右翼や論客は「紀元節奉祝建国祭大会」などの活動を強めていたのである。

三笠宮は編著『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)の「序文」で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と書いていた。

上丸洋一(図版はアマゾンより)

書評『我が闘争』の『全集』への収録の際には省いていたヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」をより詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」は、まさにこのような時期に書かれていたのである。

三、「感傷性の全くない政治の技術」と「強者への服従の必然性」

映画についての感想を記したあとで、20年前に書いた書評の概要を記した小林は、「ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う」とし、「彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている」ことを確認している。

しかし、その箇所で小林はヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」についても以下のように指摘していたが、それは現在の安倍政権の運営方法と極めて似ているのである。

「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。」

そして、「暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった」とした小林は、「だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った」と続けている。

さらに、ヒトラーの人生観を「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である」とした小林は、「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者にどうして屈従し味方しない筈があるか」と書いて、ヒトラーの「弱肉強食の理論」を効果的に紹介している。

さらに小林はヒトラーの言葉として「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう」と書き、「ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった」と続けている。

この表現はナチズムの危険性を鋭く指摘したフロムが『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)で指摘していた記述を思い起こさせる。この本がすでに1951年には邦訳されていたことを考慮するならば、小林がこの本を強く意識していた可能性は大きいと思える。

しかしその結論は正反対で、小林秀雄はヒトラーの独裁とナチズムが招いた悲劇にはまったく言及していないのである。

関連記事一覧

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、記述の一部を削除して主題を明確化し副題を変更。関連記事のリンク先を追加)

樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む(改訂版)

樋口・小林対談(図版はアマゾンより)

最初に注目したいのは、本書の「はじめに」で改憲派の小林氏と護憲派の樋口氏の二人の憲法学者の会話をとおして、「法治国家の原則が失われて」、「専制政治の状態に近づいている」日本の現状が指摘されていることです。

すなわち、まず小林氏は「2015年9月19日の未明をもって、日本の社会は異常な状態に突入しました。…中略…この違憲立法によって、最高法規である憲法が否定されてしまった。今回、日本の戦後史上はじめて、権力者による憲法破壊が行われた」と語り、「私たち日本人は、今までとは違う社会、異常な法秩序の中に生きている」と指摘しています(3頁)。

この発言を受けて「立憲主義の破壊という事態がいかに深刻なものなのか。つまりは国の根幹が破壊されつつあるのです。…中略…立憲主義とともに民主主義も死んでいる」と応じた護憲派の樋口氏はこう続けています。

「今、その日本国憲法を『みっともない憲法』と公言してきた人物を首班とする政権が、〈立憲・民主・平和〉という基本価値を丸ごと相手どって、粗暴な攻撃を次々と繰り出してきています。…中略…「それに対しては、法の専門家である我々が、市民とともに、抵抗していかなくてはならない」と応じているのです。

本書は『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』に続いて発行された集英社新書ですが、驚いたのは〈「古代回帰」のユートピア主義が右翼思想の源泉になっていったのです〉という宗教学者の島薗氏の言葉と響き合うかのように、憲法学者の樋口氏も〈この草案をもって明治憲法に戻るという評価は、甘すぎる評価だと思うのです。明治の時代よりも、もっと「いにしえ」の日本に向かっている〉と自民党の憲法草案を批判していることでした。

本稿では、本書の第1章と第2章に焦点をあてて、まず「改憲」を目指す自民党議員の実態を明らかにした小林氏の発言を中心に現在の日本の状況を確認し、その後で樋口氏との対談もある司馬遼太郎氏の憲法観にも注目することで、「明治憲法」から「日本国憲法」への流れの意義を確認します。

*   *   *

「憲法を破壊した勢力の正体」と題された節では、小林氏が「最近の国会の風景をご覧になっていてお気づきのように、我が国与党の国会議員の多くは、『そもそも、憲法とはなにか』という基本的な認識が欠如しています」と指摘し、二〇〇六年の衆議院憲法審査会に参考人として呼ばれたときの出来事を紹介しています(25~26頁)。

すなわち、小林氏が「権力というものは常に濫用されるし、実際に濫用されてきた歴史的な事実がある。だからこそ、憲法とは国家権力を制限して国民の人権を守るためのものでなければならない」と語ると、これにたいして自民党の高市早苗議員が「私、その憲法観、とりません」といった趣旨の議論を展開しはじめたのです。

「おい、ちょっと待てよ、その憲法観をとる、とらないって、ネクタイ選びの話じゃねぇんだぞ」と批判した小林氏は、「国家に与えられている権力は、国民の権利や自由、基本的人権を侵害しないという『制限規範』に縛られた条件つきなのです。そういう認識が彼らにはないのです」と続けています。

総務大臣となって「電波法停止」発言をした高市議員の憲法認識はこの程度のものだったのです。その後でその高市氏を総務大臣に任命した安倍政権についても「鍵は、やはり、世襲議員たちです。自民党内の法務族、とりわけ改憲マニアとも言うべき議員のなかには世襲議員が多いのです」と語った小林氏は、「戦前のエスタッブリッシュメントの子孫と言えば、安倍首相などは、まさにその典型ということになりますね」と続けています(30~31頁)

さらに、小林氏は次のような衝撃的な証言をしています。

「岸本人とも一度だけですが、会ったことがあります。/そうしたつき合いのなかで知ったことは、彼らの本音です。/彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの一〇年ほどのあいだだった、ということなのです。普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期なんですね」(32頁)。

これには本当に驚愕させられました。司馬氏は日露戦争での勝利から太平洋戦争の敗戦までを、「異胎」の時代と呼んで批判していたのですが、その中でももっとも悲惨な時代を彼らは理想視しているのです。

そして「(敗戦の)事実を直視できないから、ポツダム宣言をつまびらかに読んではいないと公言する三世議員の首相が登場してしまう」と語った樋口氏の言葉を受けて、小林氏は「ポツダム宣言を拒否し、一億玉砕するまで戦争を続けていれば、私も今の若い人も、生まれることすらなかったわけです」が、「ポツダム宣言の受諾を屈辱として記憶しているのが戦前の支配層」であり、その子孫たちが「旧体制を『取り戻そう』としているのではないでしょうか」と続けています(32~34頁)。

一方、樋口氏は「自民党の国会軽視は数限りなく続いているので、例を挙げればキリがない」としながら、ことに首相が内閣総理大臣席から野党議員に対して「早く質問しろよ」という野次を飛ばしたことは「小さなことのようで、これは権力分立という大原則を破っているのです。立法府において行政側の人間が、勝手に議事を仕切る権利はない」と批判しています(45~46頁)

*   *   *

注目したいのは、司馬氏との対談「明治国家と平成の日本」で樋口氏は『明治という国家』(NHK出版)にも言及していましたが、そこで司馬氏が「明治憲法は上からの憲法だ」といわれるが、「下からの盛りあがりが、太政官政権を土俵ぎわまで押しつけてできあがったものというべき」と明治憲法の発布にいたる過程を高く評価していたことです(「『自由と憲法』をめぐる話」)。

樋口氏も「まるで明治憲法のような古色蒼然(こしょくそうぜん)とした、近代憲法から逸脱したこんな草案を出してきた」という小林氏の発言に対しては、「ただ、戦前をまるごと否定的に描きだしすぎてもいけない」と語って、「敗戦で憲法を『押しつけられた』と信じている人たちは、明治の先人たちが『立憲政治』目指し、大正の先輩たちが『憲政の常道』を求めて闘った歴史から眼をそらしているのです」と指摘しているのです(51~55頁)。

この指摘は「伝統を大切にせよ」と説く自民党の議員が、自分たちの思想とはそぐわない先人の努力を軽視していていることを物語っているでしょう。

さらに国際的な法律にも詳しい樋口氏は、「明治憲法」の第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という「一般の人が誤解しがちな文言」が記されており、「『神聖』というと、天皇の神権が憲法に書きこまれているではないかと感じるかもしれません」が、「あれはヨーロッパの近代憲法の伝統から言うと、正常な法律用語」であり、「これは王は民事・刑事の裁判に服さないというだけの意味です」という重要な指摘をしています(59頁)。

そして、「連合国側は、ファシズム以前の日本に民主主義的な流れがあったことをきちんと知っていた」とし、「それは大正デモクラシ-だけではなく、その前には自由民権運動があり、幕末維新の時代には『一君万民』という旗印で平等を求める動きもあった。それどころか、全国各地で民間の憲法草案が出ていた」ことを指摘した樋口氏は「そういう『民主主義的傾向』の歴史を、アメリカのほうは、理解していた」と続けて、「日本国憲法」が「明治憲法」を受け継いでいることも説明しているのです。

*   *

このように見てくるとき、『「憲法改正」の真実』(集英社新書)は、「立憲政治」を目指した明治の人々の成果である「明治憲法」と太平洋戦争の惨禍を踏まえて発布された「日本国憲法」の普遍性を示すと同時に、「前近代への回帰」ともいえる自民党憲法案の危険性を浮き彫りにしているといえるでしょう。

他にも現在の日本に関わる重要なテーマが多く語られていますが、「憲法」と「教育勅語」とのかかわりについては次の機会に改めて考察することとし、この本の目次を紹介してこの稿を終えることにします。

第1章 破壊された立憲主義と民主主義/ 第2章 改憲草案が目指す「旧体制」回帰とは?  / 第3章 憲法から「個人」が消える衝撃 / 第4章 自民党草案の考える権利と義務/ 第5章 緊急事態条項は「お試し」でなく「本丸」だ/  第6章 キメラのような自民党草案前文―復古主義と新自由主義の奇妙な同居/  第7章 九条改正議論に欠けているもの/  第8章 憲法制定権力と国民の自覚/ 第9章 憲法を奪還し、保守する闘い/  対論を終えて

(2017年4月14日、改訂)

「アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

TPP(環太平洋パートナーシップ協定)では、やはり農業や牧畜などに限っただけでも大幅な譲歩を強いられていたことが明らかになったことを以前の記事で記しました。

その秘密交渉にあたっていた甘利明TPP担当大臣が、〈甘利大臣の嘘と「告発」の理由〉と題した『週刊文春』(2月4日号)の記事によって辞任に追い込まれるという事態になりました。

一方、一面でこのニュースを取り上げた今朝の「東京新聞」は、「良い人とだけ付き合っていたら選挙に落ちる」という甘利大臣の言葉を大見出しで報じるとともに、「政治とカネ断てぬ自民」という題で「前時代的とも思える古い自民党の体質」との関連を指摘する辛口の記事も掲載していました。

さらに2面でも「アベノミクスの要退場 首相問われる任命責任」、5面に〈「口利き」解明〉をという社説を載せた「東京新聞」が、3面、6面、30面、31面でも大きく取り上げていたのが目に付きました。

甘利明経済再生相の辞任は、権力の圧力に屈しなかった『週刊文春』のジャーナリスト魂の勝利であると思われますが、御用新聞と化したかのように甘利大臣を擁護していた読売新聞や産経新聞はどのような反応をするのでしょうか。

後任には「金目でしょ」のセリフで有名になった石原伸晃大臣が任命されたとのことですが、ここにも安倍首相の経済感覚が現れていると思われます。

*   *   *

このような流れを読み取ったかのようなタイミングで〈「カネ・醜聞 甘利爆弾炸裂――「安倍カレンダー」総崩れの危機〉との記事を載せた『サンデー毎日』(2月7日号)は、「安倍官邸崩壊の始まり」という見出しで、「浜矩子アホノミクスを叱る!」というインタビュー記事を載せています。

マイナンバー制度導入や「軽減税率」だけでなく、自民党政治の問題点にも鋭く切り込んだ矩子・同志社大学教授へのインタビューは、説得力のあるものになっています。

このブログ記事では、「改憲」を明言した安倍首相の目指す方向性が「未来」ではなく、祖父の岸信介氏も入っていた東条英機内閣のような「国家神道」の復活を目指している可能性を指摘してきました。

現代の新聞記者にも明治時代の新聞記者・正岡子規のような気概をもって、「良い人とだけ付き合っていたら選挙に落ちる」という感覚でTPP秘密交渉を担当した甘利大臣の元でまとまったTPPや、安倍政権の危険な実態に鋭く切り込んでほしいと願っています。

*   *   *

 

関連記事一覧

〈忍び寄る「国家神道」の足音〉

「アベノミクス」の詐欺性(2)――TPP秘密交渉と「公約」の破棄

TPPと幕末・明治初期の不平等条約

菅原文太氏の遺志を未来へ

 

大阪からの危険な香り――弁護士ルージンと橋下徹氏の哲学

〈「道」~ともに道をひらく~〉というテーマで大阪で行われた先日の産学共働フォーラムの一般発表発表で私は、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏が、高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であると描いていたことを比較文明学的な視点から確認しました。

リンク商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

しかし、2015年11月22日に行なわれる大阪府市長ダブル選挙についての各社世論調査では、政界引退を表明している橋下徹・大阪市長が率いる「大阪維新の会」系の松井府知事と吉村候補が有利との選挙予測が出たとのことです。

他府県のことなので、あまり関与すべきではないとも考えて発言を控えていましたが、国政選挙にも関わることなので、このブログでも取り上げることにしました。

*   *   *

実は、〈なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義〉と題したこのブログの記事でルージンという弁護士について論じた際に思い浮かべたのは、権力を得るためには何をしてもよいと考えているかのように思える弁護士の橋下氏のことでした。

「経済学の真理」という視点から「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張したルージンは、ドゥーニャとの結婚の邪魔になるラスコーリニコフを排除するために、策略をもってソーニャを泥棒に陥れようとしていました。

一方、地方行政のトップであり、かつ法律を守るべき立場の弁護士でもある橋下氏が、公約を覆して府民や市民の多額の税金を費やして自分の有利になるような選挙を行うことが正当化されるならば、民主政治だけでなく学校教育の根本が揺らぐようになる危険性があると思われます。

*   *   *

かつての日本では、約束を守ることや誠実さが人間に求められていましたが、そのような価値観が大きく変わり始めていると感じたのは、大学で『罪と罰』の授業を行い始めてから10年目のころでした。

その授業で私はラスコーリニコフの「非凡人の理論」が、後にヒトラーによって唱えられる「非凡民族の理論」を先取りしている面があり、その危険性をポルフィーリイに指摘させていたことに注意を促していました。

しかし、20世紀の終わりが近づいていた頃から、ヒトラー的な方法で権力を奪取することも許されると、ヒトラーを弁護する感想文が出てきたのです。人数としては100人ほどのクラスに数名ですから少ないとは言えますが、そのように公然と主張するのではなくとも内心ではそのように考える学生は少なくなかったのではないかと思えるのです。

「今の日本の政治に一番必要なのは、独裁ですよ」と語ったとも伝えられる橋下徹市長の手法は、まさにこのような学生たちの主張とも重なっているようにも感じられます。

「島国」でもある日本では「勝ち馬に乗る」のがよいという価値観も強いのですが、ヒトラーが政権を取った後のドイツや岸信介氏が商工大臣として入閣した東條英機内閣に率いられた日本がその後、どのような経過をたどって破滅したかに留意するならは、ギャンブル的な手法での権力の維持を許すことの危険はきわめて大きいと思われます。

原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

220px-Nagasakibomb

(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

7月27日付けの「朝日新聞」は、長崎への原爆投下の際に写真撮影機にオブザーバーとして搭乗し、原子雲を目撃した英国空軍大佐のチェシャーの苦悩に迫る記事を「原子雲目撃者の転身」と題して掲載していました。

すなわち、「核兵器が実際に使用される場面を軍人の目で見守らせ、今後に生かそうという首相チャーチルの意向で」派遣された空軍大佐のチェシャーは、帰国後には「原爆には戦争の意味をなくすだけの威力があり、各国が保有すればむしろ平和につながる」と軍人としては報告していました。

しかし、その直後に空軍を退役したチェシャーは、戦後に「福祉財団を立ち上げ、障害者のための施設運営に奔走」するようになるのです。

チェシャーは亡くなる前年の1991年に開かれた国際会議でも、「原爆投下が戦争を早く終結させ、多くの人の命を救った」と語ってアメリカの行為を正当化していましたが、原爆雲を観た際には「安堵と、やっと終わったという希望の後から、そのような兵器を使ったことに対する嫌悪感がこみ上げてきた」と後年、自著では振り返ってもいたのです。

このことを紹介した記事は次のように結んでいます。「やむない手段だったとの信念を抱くと同時に、原爆による人道的被害に対しては良心の苦悩も抱え続けた。原子雲の目撃者から福祉の道へ転じた歩みには、その葛藤が映っている」。

*   *   *

一方、東条内閣の閣僚として満州政策に深く関わっていた岸信介氏は、首相として復権すると自国民に地獄のような苦しみを負わせた原爆投下の罪をアメリカ政府に問うことなく、むしろその意向に迎合するかのように、国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していたのです。

それゆえ、広島への原爆投下に関わったことで深い「良心の呵責」を感じて、精神病院に収容された元パイロットと書簡を交わしていた精神科医のG・アンデルスも1960年7月31日付けの手紙で岸信介首相を次のように厳しく批判していました(『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房、1962年。文庫版、1987年)。

「つまるところ、岸という人は、真珠湾攻撃にはじまったあの侵略的な、領土拡張のための戦争において、日本政府の有力なメンバーの一人だったということ、そして、当時日本が占領していた地域の掠奪を組織し指導したのも彼であったということがすっかり忘れられてしまっているようだ…中略…誠実な感覚をそなえたアメリカ人ならば、この男、あるいはこの男に協力した人間と交渉を持つことを、いさぎよしとしないだろうと思う。」

私自身も「国家」を強調して「国民」には犠牲を強い、他の国民には被害を負わせた岸氏が、原爆の被害の大きさを知りつつも「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と無責任な発言をしていたことを知ったときには、たいへん驚かされ、どのような精神構造をしているのだろうかといぶかしく思い、人間心理の複雑さを感じました。

*   *   *

そのような権力者の心理をある程度、理解できるようになったのはドイツの社会心理学者であるエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読み、そのような視点から小林秀雄のドストエフスキー論を読み直してからのことでした

リンク→『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と長編小説『罪と罰』を解釈した文芸評論家の小林秀雄が、戦後の1946年に行われた座談会の「コメディ・リテレール」では「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語って、言論人としての責任を認めようとしていなかったのです。

このような小林秀雄の「罪と罰の意識」をとおして考えるとき、岸氏の心理もよく見えるようになると思われます。

つまり、独自の「非凡人の理論」によって「悪人」」と規定した「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフは、最初は「罪の意識」を持たなかったのですが、「米英」を「鬼畜」とする戦争を主導した岸氏も自分を選ばれた特別な人間と見なしていたならば、A級戦犯の容疑に問われて拘留された巣鴨の拘置所でも「罪の意識も罰の意識も」持つことなく、復権の機会をうかがっていたことになります。

しかし、『白痴』との関連にも注目しながら、『罪と罰』のテキストを忠実に読み解くならば、ラスコーリニコフはシベリアの流刑地で「人類滅亡の悪夢」を見た後で、自分の罪の深さに気づいて精神的な「復活」を遂げたことが記されているのです。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

リンク→映画《この子を残して》と映画《夢》

デマと中傷を広めたのは誰か――「無責任体質」の復活(4)

Earthquake and Tsunami damage-Dai Ichi Power Plant, Japan

(2011年3月16日撮影:左から4号機、3号機、2号機、1号機、写真は「ウィキペディア」より)

 

デマと中傷を広めたのは誰か――「無責任体質」の復活(4)

東電の勝俣恒久元会長(75)、武藤栄(さかえ)元副社長(65)と、武黒(たけくろ)一郎元副社長(69)の三人について業務上過失致死傷罪で起訴すべきとした東京第五検察審査会の議決が出たことを受けて、先ほど〈原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体質」の復活(3)〉というブログ記事をアップしました。

そこではサイト「文芸ジャンキー・パラダイス」の2013年7月12日の記述を紹介していましたが、その記述が「首相がデマを流していいのか?」と題されていたのは、「そうならないよう万全の態勢を整えている」と国会答弁をしていただけでなく、事故当時の最高責任者・菅直人氏を安倍晋三氏がメルマガで激しく誹謗中傷していたことを次のように批判していたからです。少し長くなりますが引用します(太字は引用者)。

*   *

福島原発事故で菅元首相が海水注入を止めたためメルトダウンを引き起こし、福島原発事故がひどくなったというデマが今も広く信じられている。

管元首相は事故時に放射性物質の予測拡散情報を公開せず、国民を無用な被曝に晒したことから、僕は菅氏に対して憤りを感じている。だが、安倍氏は無実の罪を菅氏になすりつけて、自分へ批判が向かないようにしており、その行為はあまりに姑息すぎる。

安倍氏は事故直後の2011年5月20日のメルマガで次のように記している。

「東電はマニュアル通り淡水が切れた後、海水を注入しようと考えており、実行した。しかし、 やっと始まった海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だったのです」/「菅総理は間違った判断と嘘について国民に謝罪し直ちに辞任すべきです

だがその後の調査で、実際は福島第一原発・吉田所長の判断で海水注入は中止されてなかったし、菅首相から中止指示があったという指摘についても、国会の原発事故調査委員会において「中止の指示を出したのは総理大臣の菅ではなく、官邸へ派遣された東京電力フェローの武黒一郎によるものだった」ことを武黒本人が認めている。 さらに、当時安倍氏は情報の出所として「(経産省の)柳瀬か(保安院の)寺坂に聞けば分かる」と記者達に吹聴し、多くの記者が柳瀬氏に問い合わせたところ「ありえません」「安倍さんの言っていることは嘘です」と返答したという。

100歩譲って、事故直後は情報の混乱があり、安倍氏が誤った知識を得たのもやむなしとしよう。だが、問題は参院選直前の現時点(2013年7月12日)においても、公式WEBでその文章が削除もされずお詫び訂正もされてないこと(引用者注――現在は削除されているようです)。

それゆえ安倍氏の支持者は今も「自民政権だったら事故は防げた。フクシマの事故はすべて管元首相のせい」とネットに書きまくっている。あまりに悪質すぎる。 菅氏のブログにその苦悩が綴られているので転載したい。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/column15.html

———————————————–

「ネットを利用した安倍晋三総理の巧妙な名誉毀損」2013年07月11日

ネットを利用し、嘘の情報を流すことで安倍晋三氏は私と民主党に対する重大な名誉毀損行為を行い、訂正の要求に応じないことで今も名誉毀損行為を続けている。

選挙戦を戦っていて、 多くの人の間でいったん定着した誤解を解く事がいかにむつかしいかを痛感している。福島原発事故で、当時の菅総理が海水注入を止めたためメルトダウンを引き起こし、福島原発事故がひどくなったという今も広く信じられている誤解。この嘘の情報を最初にネット上に発表したのが2011年5月20日付けの安倍晋三氏のメルマガ。この総理経験者のメルマガ情報を翌日の読売新聞と産經新聞が大々的に取り上げた。さらに何度も国会で同趣旨の質問を自民党議員が繰り返すことでマスコミに取り上げさせた。そして、6月2日に提出された菅内閣不信任案の理由の一つとされた。敵ながらあっぱれとでもいうべき見事な一連の情報操作だ。

その後海水注入は停止されていなかったことが故吉田所長自らの発言で明らかになったが、そのことは一般の人にまで伝わらず、菅総理が海水注入を止めて、メルトダウンが起きたという誤解だけが広く今日まで残っている。安倍氏と自民党のこうした一連の行為は私個人に対するだけでなく、民主党に対しても重大な名誉毀損に当たる。

誤解を解くためには安倍晋三氏に誤りを認めさせて、謝罪させる必要がある。安倍氏の発表がネット上のメルマガであったので、私もネット上でこれまで何度も誤りを認めて訂正と謝罪をするよう求めてきた。しかし、一切の反応はない。ネット選挙が解禁された中で、ネットを利用して嘘の情報を選挙開始前に流しておいて、それを訂正しないという事は選挙の公平性からも許されない行為だ。しかもそれを行ったのが当時でも総理経験者で今再び総理の座に在る安倍晋三氏本人となればなおさらのことだ。ネット選挙解禁を強力に進めた安倍総理の責任は重い。週明けまで安倍総理から何らかの反応がない場合には名誉毀損を正す他の手段を検討せざるを得ない。

*   *

この菅氏のブログを紹介したサイトの管理者は「安倍氏はデマを流したことを、菅氏や民主党だけでなく、原発の耐震性問題(配管が地震に弱い)から目をそらさせたことで、国民に謝罪するべきだ」と記すとともに、次のような元通産(経産)省官僚・古賀茂明氏の言葉も紹介しています。

「福島第一原発の事故が収束せず、事故原因さえ解明されていない状況で、総理がトップセールスで原発を売り歩くことは倫理的に許されない。まだ新しい安全基準も完全には出来上がっていないのに各国に原発を売り歩く安倍総理は世界へ原発事故と核拡散の種をばら撒く『死の商人』である」(2013.6)

*   *

かつて、このブログでは『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」という記事で、他党を誹謗して「さらば! 売国民主党政権」と語った百田尚樹氏の「憎悪表現」の問題を指摘しました。

それとともにこの書では〈「愛国心」や「モラル」の必要性が強く唱えられる一方で、戦争を起こした者や原発事故を引き起こした者たちの責任には全く言及されていないこと〉にも注意を促していました。

第二次安倍政権が発足してから起きた一連の出来事や発言からは、権力を握れば何でも出来ると考えているような安倍政権の「傲慢さ」と「無責任さ」や、岸信介氏が閣僚として加わっていた「東條英機内閣」との類似性が強く感じられます。

今回の東京第五検察審査会の議決を受けて菅元首相は、昨日のブログ記事で「安倍内閣は福島原発事故の十分な検証もできていない中で、川内原発の再稼働を急ごうとしている。安倍内閣は日本を滅ぼしかねない『亡国政権』だ」と厳しい批判をしています。

この言葉は大げさではなく、「アベノミクス」を前面に出した「公約」によって選挙に勝利したあとでは権力を背景に、「法治国家」や「民主主義の国」とは思えないような「強権的な手法」で沖縄の基地建設や、原発の再稼働、さらに自衛隊の軍隊化などが進められています。

「原発事故」を一刻も早くに収束して「国民の生命」や「国土」を守るためには、今回の「戦争法案」の「白紙撤回」だけでなく安倍首相の辞任を要求することが必要でしょう。

「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

『ゴジラの哀しみ』、桜美林大学

〈「安全保障関連法案」の危険性――「国民の生命」の軽視と歴史認識の欠如〉と題した7月3日のブログ記事を私は次のように結んでいました。

「なお、原水爆の危険性を軽視した岸信介政権と同じように、原水爆だけでなく原発の問題も軽視している安倍晋三政権の危険性については、別の機会に改めて論じたいと思います。」

これを書いた時に意識していたのは、なかなか言及する暇がなかった5月24日の「東京新聞」朝刊第1面の〈核兵器禁止 誓約文書も賛同せず 被爆国で「核の傘」 二重基準露呈〉という北島忠輔氏の署名入りの記事のことでした。以下にその主な箇所を引用しておきます。

*   *

「核なき世界」に向け国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議は二十二日、四週間の議論をまとめた最終文書を採択できず決裂、閉幕した。被爆七十年を迎える日本は、唯一の被爆国として核兵器の非人道性を訴えたが、核の被害を訴えながら、米国の「核の傘」のもと、核を否定できない非核外交の二面性も浮かんだ。

会議では、核兵器の非人道性が中心議題の一つとなった。早急な核廃絶を訴える一部の非保有国の原動力となり、オーストリアが提唱した核兵器禁止への誓約文書には、会議前には約七十カ国だった賛同国が閉幕時には百七カ国まで増えた。…中略…日本は「核保有国と非保有国に共同行動を求める」(岸田文雄外相)との姿勢で臨んだが、両者が対立する問題では橋渡し役を果たせなかった。また、早急な核廃絶に抵抗する保有国と足並みをそろえて誓約文書に反対する立場をとった。」

*   *

この記事から浮かんでくるのは、世界で唯一の被爆国でありながら「誓約文書に反対する立場」をとる安倍政権の奇妙な姿勢ですが、その方向性は安倍首相の祖父・岸信介の政権で決められていたように思えます。

なぜならば、毎日新聞が1月18日朝刊の第1面で〈日米が「核使用」図上演習〉という題名で、「米公文書」で明らかになった次のような事実を示していたからです。以下にその主な箇所を引用しておきます。

*   *

「70年前、広島、長崎への原爆投下で核時代の扉を開いた米国は、ソ連との冷戦下で他の弾薬並みに核を使う政策をとった。54年の水爆実験で第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件で、反核世論が高まった被爆国日本は非核国家の道を歩んだが、国民に伏せたまま制服組が核共有を構想した戦後史の裏面が明るみに出た。(中略)58年2月17日付の米統合参謀本部文書によると、57年9月24~28日、自衛隊と米軍は核使用を想定した共同図上演習『フジ』を実施した。」

そして、「当時の岸信介首相は『自衛』のためなら核兵器を否定し得ないと国会答弁」しており、「核保有の選択肢を肯定する一部の発想は、その後も岸発言をよりどころに暗々裏に生き続けている」と指摘した日米史研究家の新原昭治氏の話を紹介しているのです。

つまり、「東条英機」内閣の重要な閣僚として「鬼畜米英」を唱えて「国民」を悲惨な戦争に駆り立てた岸首相は、戦後にはアメリカの「核政策」を批判するどころかその悲惨さを隠蔽して、「核兵器」の使用さえも認めていたのです。

このような岸首相の「核政策」が、いまだにアメリカのアンケートでは「核の使用」を正当化する比率が半数を超えているという現状だけでなく、核戦争など人類が生み出した技術によって、世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」が、再び「残り3分」になったと今年の科学誌『原子力科学者会報』で発表されたような事態とも直結しているとも思えます。

1280px-Castle_Bravo_Blastゴジラ

(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

*   *

このような日本政府の「核政策」は、日本の「代表的な知識人」である小林秀雄の言説にも反映しているようです。

すなわち、1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、戦争に対して不安を抱いた同人の林房雄が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけられると「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていた小林秀雄は、湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら厳しく批判していたにもかかわらず、「原子力の平和利用」が「国策」となると沈黙してしまったのです(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

*   *

「東京新聞」は今日(7月7日)夕刊の署名記事で、原発再稼働の政府方針を受けて「火山の巨大噴火リスクや周辺住民の避難計画の不十分さなどいくつも重要な問題が山積したまま、九州電力川内原発1号機(鹿児島県)が、再稼働に向けた最終段階に入った」ことを伝えています。

さらにこの記事は、「巨大噴火の場合は、現代の科学による観測データがなく、どんな過程を経て噴火に至るかよく分かっていない」などとの火山の専門家からの厳しい指摘があるだけでなく、「避難計画は、国際原子力機関(IAEA)が定める国際基準の中で、五つ目の最後のとりでとなる」にもかかわらず、「避難住民の受け入れ態勢の協議などはほとんどされていない」ことも紹介しています。

「周辺住民の避難計画」も不十分なままで強引に原発再稼働を進めようとする安倍政権の姿勢からは、満州への移民政策を進めながら戦争末期には多くの移民を「棄民」することになった岸信介氏の政策にも通じていると感じます。

両者の政策に共通なのは、スローガンは威勢がよいが長期的な視野を欠き、利益のために「国民の生命」をも脅かす危険な政策であることです。

430px-Ikimono_no_kiroku_poster

(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

 

「国会」と「憲法」軽視の安倍内閣と国会前の「命懸け」スピーチ

自民党の高村正彦副総裁は11日の衆院憲法審査会で「自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者ではなく政治家だ」と主張していましたが、18日の党首討論で安倍首相は「感情論、感情的な価値判断で答え」、「具体的説明を拒否」しました。

これにたいして民主党の岡田代表は、「時の内閣に武力行使や憲法判断を白紙委任しているのと一緒だ。立憲国家ではない」と厳しく批判したことを新聞各紙は伝えています(引用は「東京新聞」朝刊より)。

実際、国会での論戦を拒否して「政権与党の命令に従え」と語っているかのような安倍内閣の姿勢は、安倍首相の祖父の岸信介氏も閣僚として参加していた日米開戦前の「東条内閣」にきわめて近いようにさえ感じられます。

*   *

18日の衆院予算委員会で安倍首相は野党からの質問に対しては具体的説明を拒否する一方で、昨年7月の閣議決定については「国際情勢に目をつぶり、従来の解釈に固執するのは政治家としての責任放棄だ」と持論を繰り返しました。

しかし、「国際情勢に目をつぶり」たがっているのは、安倍首相の方でしょう。国家の安全のためにきちんとした「外交」を行うべき政治家が、交渉をするのではなく、相手国の非を一方的に述べ立てて挑発することは「戦争」へと国家を誘導していることになります。

「報復の権利」を主張して「戦争の大義」がないにもかかわらず強引にイラク戦争をはじめたブッシュ政権の負の遺産として、「復讐」を声高に唱える現在の「イスラム国」が生まれたことはすでによく知られています。

日本の自衛隊が「イスラム国」などとの戦争に「後方支援」として参加することは、攻撃の対象が広がることで自国民の被害が軽減される欧米各国からは歓迎されると思われます。しかし、それは日本の「国民」や「国土」を戦争の惨禍に再びさらすことになる危険性を伴っているのです。安倍氏は武器の輸出など一時的な利益に目がくらんで、若い「国民」の生命を犠牲にしようとしているのです。

さらに、テロとの戦いを名目としてこれらの戦争に「後方支援」として参加することは、「国際政治」の分野で、日本が独自の平和外交の機会を投げ捨てることに等しいと思われます。

長期的な視野で考えるならば、被爆国の日本が「憲法九条」を保持することが、「国際平和」を積極的に打ち立てることにつながるでしょう。これらの論点から目を逸らし相手からの鋭い追求に答えずに、持論を繰り返すことは、もはや国会の論争ではなく、むしろ独りよがりの独裁者の演説に近い性質のものでしょう。

このような安倍氏の主張には、満州では棄民政策を行い、米国の原爆投下の「道義的な責任」を問わなかった岸・元首相と同じように、自分の政策の誤りで起きた原発事故の責任問題などから国民の視線を逸らそうとする意図さえも感じられるようです。

*   *

18日夜、東京・永田町の国会議事堂近くで繰り広げられた安全保障関連法案に反対する抗議行動に参加した作家で僧侶の瀬戸内寂聴氏(93)は、「このまま安倍晋三首相の思想で政治が続けば、戦争になる。それを防がなければならないし、私も最後の力を出して反対行動を起こしたい」との決意を語りました(「東京新聞」19日朝刊)。。

そして、太平洋戦争に際しては「この戦争は天皇陛下のため、日本の将来のため、東洋平和のため」と教えられていたが、「戦争に良い戦争は絶対にない。すべて人殺しです」と続けた瀬戸内氏は、次のように結んでいました。

「最近の日本の状況を見ていると、なんだか怖い戦争にどんどん近づいていくような気がいたします。せめて死ぬ前にここへきてそういう気持ちを訴えたいと思った。どうか、ここに集まった方は私と同じような気持ちだと思うが、その気持ちを他の人たちにも伝えて、特に若い人たちに伝えて、若い人の将来が幸せになるような方向に進んでほしいと思います。」

仏陀だけでなく、イエスも「殺すなかれ」と語っていたことを思い起こすならば、憲法学者や歴史学者だけでなく、すべての宗教者が瀬戸内氏の呼びかけに答えてほしいと願っています。

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「人間の進歩について」と題して1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談で、文芸評論家の小林秀雄氏は「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく批判していました。

それゆえ、原爆の投下に関わってしまったことを厳しく反省したパイロットの苦悩が描かれている著作『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』については、小林氏も「道義心」の視点から高く評価するのが当然だと思われるのです。

では、なぜ小林氏は原爆の問題を考える上で重要なこの著作に全く言及していないのでしょうか。その理由の一つは、原爆パイロットと書簡を交わしていたG・アンデルスが1960年7月31日付けの手紙で、東条内閣において満州政策に深く関わった経済官僚から大臣となった岸信介氏を次のように厳しく批判していたためだと思われます。

*   *

「つまるところ、岸という人は、真珠湾攻撃にはじまったあの侵略的な、領土拡張のための戦争において、日本政府の有力なメンバーの一人だったということ、そして、当時日本が占領していた地域の掠奪を組織し指導したのも彼であったということがすっかり忘れられてしまっているようだ。こういう事実がある以上、終戦後アメリカが彼を三年間監獄に入れたということも、決して根拠のないことではない。誠実な感覚をそなえたアメリカ人ならば、この男、あるいはこの男に協力した人間と交渉を持つことを、いさぎよしとしないだろうと思う。」

歿後30年を契機に小林氏と満州との関わりが明らかになってきましたが、座談会では、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」と語りつつも、秘かに「良心の呵責」を覚えていたと思われる小林氏にとって、岸氏の話題は触れたくないテーマの一つだったと考えられるのです。

*   *

読者の中には、小林氏が言及していない著作との関係を考察してもあまり意味はないと考える人もいるでしょう。たしかに普通の場合は、人は自分が関心を払っていないテーマについては語らないからです。

しかし、文芸評論家の小林秀雄氏の場合は異なっているようです。長編小説『罪と罰』の筋において中年の利己的な弁護士ルージンとラスコーリニコフとの論争が、きわめて重要な役割を担っていることはよく知られています。また、このブログでは悪徳弁護士ルージンの経済理論と安倍政権の主張する「トリクルダウン理論」との類似性を指摘しました。→「アベノミクス」とルージンの経済理論

一方、小林氏の『罪と罰』論ではルージンへの言及がほとんどないのですが、それは重要な登場人物であるルージンの存在は、彼の論拠を覆す危険性を有していたからでしょう。つまり、小林氏はルージンについての「沈黙」を守る、あるいは「無視」することにより、自分の読みに読者を誘導していたと私には思えるのです。

リンク→小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

関連記事一覧

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2016年1月1日、関連記事を追加)

「憲法記念日」と「子供の日」に寄せて――「積極的平和主義」と「五族協和」というスローガン

まだ福島第一原子力発電所事故も修復していないなか、汚染水は「アンダーコントロール」であると宣言した安倍政権は、日本の沖縄の民意を無視して辺野古基地の建設も強行しています。

その安倍政権は「積極的平和主義」を掲げて、憲法の改定も声高に語り始めていますが、「満州国」に深く関わった祖父の岸信介首相を尊敬する安倍氏が語る「積極的平和主義」は、「日中戦争」や「太平洋戦争」の際に唱えられた「五族協和」「王道楽土」などの「美しいスローガン」が連想されます。

すでにこのブログでも何回か触れたように「満州国」などの実態は、それらの「美しいスローガン」とは正反対のものだったのです。ただ、現在はまだ拙著の執筆に追われており、この問題についてじっくりと考える時間的な余裕がないので、ここでは、「子供の日」に寄せて――司馬遼太郎と「二十一世紀に生きる君たちへ」という題名で昨年の5月5日に書いたブログの記事の一部を改訂した上で抜粋しておきます。

*     *   *

幕末の志士・坂本龍馬などの活躍で勝ち取った「憲法」の意味が急速に薄れてきているように思われます。他民族への憎しみを煽りたて、「憲法」を否定して戦争をできる国にしようとしたナチス・ドイツの政策がどのような事態を招いたかはよく知られています。悲劇を繰り返さないためにも、今日は「子供の日」ですので、司馬氏の歴史観と 「二十一世紀に生きる君たちへ」の意味を確認したいと思います。

司馬遼太郎氏との対談で作家の海音寺潮五郎氏は、孔子が「戦場の勇気」を「小勇」と呼び、それに対して「平常の勇」を「大勇」という言葉で表現していることを紹介しています。そして海音寺氏は日本には命令に従って戦う戦場では己の命をも省みずに勇敢に戦う「小勇」の人は多いが、日常生活では自分の意志に基づいて行動できる「大勇の人」はまことに少ないと語っていました(太字は引用者、『対談集 日本歴史を点検する』、講談社文庫、1974年)。

司馬氏が長編小説『竜馬がゆく』で描いた坂本竜馬は、そのような「大勇」を持って行動した「日本人」として描かれているのです。

たとえば、「時流はいま、薩長の側に奔(はし)りはじめている。それに乗って大事をなすのも快かもしれないが、その流れをすて、風雲のなかに孤立して正義を唱えることのほうが、よほどの勇気が要る」と説明した司馬氏は、竜馬に「おれは薩長人の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人だと思っている。おれの立場はそれだけだ」と語らせていました。(太字は引用者、五・「船中八策」)。

司馬氏が竜馬に語らせたこの言葉には、生まれながらに「日本人である」のではなく、「藩」のような狭い「私」を越えた広い「公」の意識を持った者が、「日本人になる」のだという重く深い信念が表れていると思えます。

子供たちのために書いた「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章を再び引用すれば、「自己を確立」するとともに、「他人の痛みを感じる」ような「やさしさ」を、「訓練して」「身につけ」た者を司馬氏は「日本人」と呼んでいるのです。

*   *   *

子供や孫の世代を再び他国への戦場へと送り出す間違いと悲劇を繰り返さないためにも、時代小説などで戦争を描き続けていた司馬氏の「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章は重要でしょう。