高橋誠一郎 公式ホームページ

『白痴』

堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

先ほど、「ドストエーフスキイの会」の例会発表が終わりましたので、配布したレジュメの一部をアップします。

  *   *   *

発表の流れ

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ

a.島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』

b.堀田善衞の島崎藤村観と長編小説『若き日の詩人たちの肖像』

c.『若き日の詩人たちの肖像』と島崎藤村の長編小説の類似点

 1、長編小説『春』における主人公と同人たちとの交友、自殺の考察

 2、明治20年代の高い評価

 3、『破戒』と同様の被差別部落出身の登場人物

 4、「復古神道」についての考察

d.「日本浪曼派」と小林秀雄

 

Ⅰ.「祝典的な時空」と「日本浪曼派」

a.「祝典的な時空」

b.「死の美学」と「西行」

c.大空襲と18日の出来事

d.『方丈記』の再認識

e.『若き日の詩人たちの肖像』の続編の可能性

 

Ⅱ.『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法

a. 卒業論文と「文学の立場」

b.『広場の孤独』と二つの長編『零から数えて』と『審判』

c.「扼殺者の序章」の題辞

「語れや君、若き日に何をかなせしや?」(ヴェルレーヌ)

 

Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』

a. 第一部の題辞

「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。空は一面星に飾られ非常に輝かしかつたので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(米川正夫訳)

b. 河合栄治郎「二・二六事件の批判」

c.主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」

d.「成宗の先生」の家の近くで『白夜』の文章を暗唱した後の考え

e.ナチス・ドイツへの言及

 

Ⅳ.アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題

a. 第二部の題辞

「人を信ずべき理由は百千あり、信ずべからざる理由もまた百千とあるのである。人はその二つのあいだに生きねばならぬ」(アラン)。

「資本主義は、地上の人口の圧倒的多数に対する、ひとにぎりの先進諸国による植民地的抑圧と金融的絞殺とのための、世界体制へとまで成長し転化した。そしてこの獲物の分配は、世界的に強大な、足の先から頭のてつぺんまで武装した二、三の強盗ども(アメリカ、イギリス、日本)の間で行なはれてゐるが、彼らは自分たちの獲物を分配するための、自分たちの戦争に、全世界をひきずりこまうとしてゐるのだ。」(レーニン)

b. レーニンへの関心の理由

c.留置所での時間と警察の拷問

d.ほんとうの御詠歌と映画《馬》

e.アランの『裁かれた戦争』の訳と小林秀雄の戦争観

f.詩人プラーテンの「甘美な詩句」と小林秀雄訳のランボオの詩句

g.小林秀雄訳のランボオ『地獄の季節』の問題点

h.「人生斫断家」という定義と二・二六の将校たちへの共感

 

Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー

a.第三部の題辞

「むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ」(『伊勢物語』作者不詳)。

「かくて誰もいなくなった」(アガサ・クリスティ)

b.時代を象徴するような題名と推理小説への関心

c.美しい『夢の浮橋』への憧れ

d.遺書としての卒業論文

e.真珠湾攻撃の成果と悲哀

f.小林秀雄の耽美的な感想

g.「謎」のような言葉

h.ムィシキンとランボーの比較の意味

i.長編小説における『悪霊』についての言及と小林秀雄の「ヒットラーと悪魔」

 

Ⅵ.『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服

a.第四部の題辞

「羽なければ空をもとぶべからず。龍ならば雲にも登らむ。世にしたがへば、身くるし。いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし、たまゆらも、こころをやすむべき。」(鴨長明、『方丈記』)

「陛下が愛信して股肱とする陸海軍及び警視の勢力を左右にひつさげ、凛然と下に臨み、身に寸兵尺鉄を帯びざる人民を戦慄せしむべきである。」(公爵岩倉具視)

b.アリャーシャの『カラマーゾフの兄弟』論と「イエス・キリスト」論

c.国際文化振興会調査部での読書と国学の隆盛

d.「復古神道」とキリスト教

e.小林秀雄の『夜明け前』観と「近代の超克」の批判

f. 出陣学徒壮行大会での東条首相の演説と荘厳な「海行かば」の合唱

g.国民歌謡「海行かば」と保田與重郎の『萬葉集の精神-その成立と大伴家持』

h.審美的な「死の美学」からの脱出と『方丈記』の再認識

 

終わりに・「オンブお化け」と予言者ドストエフスキー

a.ドストエフスキーとランボーへの関心

b.『若き日の詩人たちの肖像』における「オンブお化け」という表現

「死が、近しい親戚か、あるいはオンブお化けのようにして背中にとりついている」

「未来は背後にある? 眼前の過去と現在を見抜いてこそ、未来は見出される」(『未来からの挨拶』の帯)。

c.過去と現在を直視する勇気

 

主な参考文献と資料

高橋誠一郎『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』

――「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」『広場』

 ――狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって(『世界文学』第122号、2015年12月)

――小林秀雄のヒトラー観、「書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって〕など。

『堀田善衛全集』全16巻、筑摩書房、1974年

堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』

竹内栄美子・丸山桂一編『中野重治・堀田善衞 往復書簡1953-1979』影書房

池澤夏樹, 吉岡忍, 宮崎駿他著,『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』集英社

橋川文三『日本浪曼派批判序説』、講談社文芸文庫、2017年。

福井勝也「堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future)」他。

山城むつみ「万葉集の「精神」について」など、『文学のプログラム』講談社文芸文庫、2009年。

ケヴィン・マイケル・ドーク著/小林宜子訳『日本浪曼派とナショナリズム』柏書房, 1999

松田道雄編集・解説『昭和思想集 2』 (近代日本思想大系36) 筑摩書房, 1974

鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』

鈴木昭一「堀田善衛諭――「審判」を中心として」『日本文学』16巻2号、1967

黒田俊太郎「二つの近代化論――島崎藤村「海へ」・保田與重郎「明治の精神」、鳴門教育大学紀要、『語文と教育』30観、2016年

中野重治「文学における新官僚主義」『昭和思想集』

井川理〈詩人〉と〈知性人〉の相克 ―萩原朔太郎「日本への回帰」と保田與重郎の初期批評との思想的交錯をめぐって」、『言語情報科学』(14)

映画《白痴》とブルガリア・ソフィア大学での「円卓会議」

はじめに

私が『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社)を出版したのは、2011年のことでしたが、その後、相沢直樹氏の『甦る『ゴンドラの唄』── 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』(新曜社、2012年)と「黒澤明の映画『白痴』の戦略」が付論として収められている清水孝純氏(九州大学名誉教授)の『白痴』を読む――ドストエフスキーとニヒリズム』(九州大学区出版会、2013年)が相次いで出版されました。

黒澤明で「白痴」を読み解く甦る「ゴンドラの唄」『白痴』を読む

このことを踏まえて2013年10月28日にホームページの「映画・演劇評」の頁に書いた記事ではこう記しました。

「日本では不遇だった黒澤映画《白痴》が甦り、映画《生きる》とともに力強く世界へと羽ばたく時期が到来しているのではないかとの予感を抱く。」

劇中歌「ゴンドラの唄」が結ぶもの――劇《その前夜》と映画《白痴》

  それゆえ、2018年にブルガリアで開催される国際ドストエフスキー・シンポジウムで、映画《白痴》の「円卓会議」が開かれることになったことを知った際には、私の予感が当たったように思えて、少し無理をしてでも参加することにした。

幸い、日本からは清水孝純先生や黒澤明研究会幹事の槙田寿文氏も参加されて、盛り上がった会議となり、映画《白痴》の上映会も開かれた。その際に行った短い挨拶の文章が『異文化交流』に掲載されたのでここに転載する。

   *    *

今年(2018年)の10月23日から26日までブルガリアの首都ソフィアで、ブルガリアの科学アカデミー、国立文学博物館などの共催による「国際ドストエフスキー・シンポジウム」が開かれ、黒澤明監督の映画《白痴》の円卓会議も開かれました。

 東海大学の交換留学生としてソフィア大学などで学んだことが、円卓会議につながったことに深い感慨を覚えるとともに、語学学習の重要性も改めて感じました。ソフィア大学での映画《白痴》上映の前に語った挨拶の言葉を、一部、分かり易いように内容を補ったうえで、以下に掲載します。

ブルガリア、ソフィア大学(ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 

親愛なる学生のみなさん

この度、皆さんに黒澤明の映画《白痴》についての紹介をすることが出来るのはたいへんな喜びです。私がほぼ半世紀前にソフィア大学で学んだ際にはブルガリアについては日本ではまだ広く知られていませんでしたが、モスクワ大学に留学していたブルガリア人の若者を描いたツルゲーネフの『その前夜』を読んだことで、この国のことについては知っていました。

そして著名な黒澤明監督もこの小説のことをよく知っていたと思われます。なぜならば、日本の「芸術座」がこの劇をすでに1915年に上演していたからです*1。注目したいのは、『その前夜』においては、ブルガリアの若者インサーロフと結婚したエレーナがヴェネツィアで聞いたヴェルディのオペラ《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》の印象も詳しく描かれていたことです。

日本における『その前夜』の上演に際しては主演女優が歌った「ゴンドラの唄」はたいへんヒットしましたが、黒澤明監督は映画《白痴》の次に撮った映画《生きる》で主人公にこの歌を二度歌わせています*2。

しかも、長編小説『白痴』においてもナスターシヤはトーツキーを「椿紳士」と呼んでいましたが、この長編小説における『椿姫』の重要性を理解していた黒澤監督は、綾子(アグラーヤ)に、「椿姫」という単語を用いて、妙子(ナスターシヤ)を「あなたは椿姫を気取っている」と非難させることで、妙子(ナスターシヤ)がなぜ絶望的な行動へと駆り立てられたかを見事に示唆していたのです。

残念ながらこの映画は、会社側の意向で半分に切られてしまいましたが、映画《サクリファイス》を撮ったロシアの監督タルコフスキーは、この映画を『白痴』のもっともすぐれた映画化であると記していました。

 みなさんがこの映画を満喫されることを願っています。

 ご清聴ありがとうございました。

 

*1 芸術座については、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、2014年参照。

*2 相沢直樹『甦る『ゴンドラの唄』── 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』(新曜社、2012年。

   (『異文化交流』第19号、2018年、164~165頁より転載)

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

 

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(5)――『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

5、『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

前回で一応の区切りにしようと思っていましたが、やはり大空襲にあった後での『方丈記』の再発見が「死の美学」の克服につながったことにもふれておくことにしました。

堀田が卒業論文「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を急いで書き上げたことについては前回も触れましたが、「卒業論文を書く、卒業をするということは、それはすでに兵役に行くということであり、その人生の中断がそのまま死につながるということ」でした。

『若き日の詩人たちの肖像』では登場人物の「汐留君」が、「卒業論文のことがきっかけとなり、まことに堰(せき)を切ったように」、『伊勢物語』にふれながら「身をもえうなきもの(用なき者)と思い捨てたあの人の気持ちに、自分がほんとうになれないなら、詩なんか止しゃいいんだ。それが詩人の覚悟ってものだよ」と語りだしたのは、当時の日本において卒業論文とは遺書のようなものだったからです。

えうなきこととして、本当は思い捨てているからこそ、定家のあの歌のはなやぎとあそびが、本当に夢の浮き橋のようにしてこの世の上に架かるんだ。新古今に架かってる、あの夢の浮き橋の、そのために支払われている痛切なもののわからん奴なんか、そんなもんビタ一文の値打ちもないんだ。身をもって支払わなきゃならんのだよ。現実なんかビタ一文の値打ちもないよ!」(太字の個所は原文では傍点)。

そして、この言葉を聞いた若者は、平安末期、鎌倉初期の藤原定家の日記である「『明月記』に語られていた怖ろしいほどな乱世に、どうしてあんなにも、まったくウソのように美しい『夢の浮稀』なんぞが架橋されえたものか、それらのことまでがいっぺんでわかったような気がした。それは、これからの乱世を生きて行くについて、まことに決定的な指針を与えられたような気」がしたのでした。

こうして、召集が近づくなかで、戦争が続き災害も起こっていた暗い中世の詩人たちの研究にも没頭し、卒業後に国際文化振興会調査部に就職した主人公は、そこで「平安朝末期の怖るべく壮烈な乱世と、たとえば新古今集などにあらわれている不気味なほどに極美な美学との関連についての原稿を書きはじめ」、書きあがった原稿を「明治元勲のお孫さんの副部長を通して、元の駐英大使の坊ちゃんである批評家」に見てもらうと雑誌にのることになったのです。

 それが同人誌『批評』に掲載された「ハイリゲンシュタットの遺書」や連載「西行」などの文章なのですが、『若き日の詩人たちの肖像』で「富士君」のあだ名で登場する作家の中村真一郎は堀田の文章を論じつつ、満州事変から太平洋戦争の時期の若者の死生観がわずか5歳ほどの間隔で全く異なっていることをこう指摘しています。

「兄の年代の人たちにとっては、毎日は生の連続であり、何を計画するにも、一応、死というものは遠い未来のことであった。もし死が彼等を脅やかすとすれば、それは外部から理不尽に、生を遮るものとしてやってくるもの――たとえば官憲の干渉――であった。」

「いとおしむべき確実な生と、残酷にそれを吹き消そうとする死との、この対立は、私たちに直結する次の年代の人たちがやがて戦後に発表しはじめた文章にも見られない。私には、私たちの次の年代の人たちは、生と死との対立に対する驚きはもう失ってしまって、死と戯れることで恐怖から遁れ出ているように見えた。」

そして、堀田の「未来について」というエッセーを引用して、「あの昭和ふた桁の二十歳にとっては、(……)そのおぞましい死を超克するものとして、芸術、美があったのである」と説明しているのです。

『堀田善衞全集』の編者・栗原幸夫も「西行」について論じつつ、「時代は、日本の敗色歴然としてはいても、いや、それだからこそますます狂的におしすすめられる戦争と神懸かり的な狂信の時代でした。この時代の基調となる色彩は『死』」であったことを指摘して、こう続けています。

「これらの作品には日本浪曼派ふうの、というより保田輿重郎の文体の影響が歴然としています。(……)今日、『西行』というこの未完の作品を読んでみると、作者は(……)むしろ天皇制に身を投じているという趣の方がつよく感じられます。」

しかし、堀田が「私たちの年代の課題を正に生きつづけながら、私たちの年代を今や突破して、より普遍的なところへ出て来ている、といってもいい」とし、彼の「独自な経験」を描いてみせるのが『方丈記私記』である」と記した中村と同じように、栗原も次のように『方丈記』の大きさを指摘しています。

「当時、一種の流行現象として青年たちを捉えていた日本浪曼派の審美的な『死の美学』から自力で脱出した時、堀田善衞は間違いなく『戦後』を担う作家への道を歩みだしたのです。そしてこの堀田青年の内部の変貌は、おそらく戦争の末期、というよりも戦争の最後の年のごく短い時間のうちにおこったのだったろうと、私には思われます。」

堀田善衛、方丈記私記、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(4)――「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(4)――「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が出版されたのは、元号が慶応から明治に改元された1868年10月23日から100周年となるのを記念して日本政府主催の「明治百年記念式典」が盛大に挙行された昭和43年のことでした。

佐藤栄作首相の時に行われたこの式典の準備会議・広報部会には林房雄も参加していましたが、「日本浪曼派」の保田與重郎は昭和18年(1943)に新聞に寄稿した小論では「明治の精神」を「その源に於いて『尊王攘夷』を根底としたものをさす」と定義して、「天誅」の名前で行われていた幕末のテロや自国を絶対化する「正義」の戦いを肯定していました。

この意味で注目したいのは、日本文化を重んじて物質より精神を重視する皇道派の影響を受けた陸軍青年将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに起こした昭和11年(1936)の2・26事件の背後関係や影響も『若き日の詩人たちの肖像』で描かれていることです。

すなわち、この事件の前年に起きた相沢事件――統制派の中心人物・永田鉄山陸軍省軍務局長の殺害事件――についても、皇道派の中心人物とされていた真崎甚三郎大将の息子である学友Mとの交友に関連して言及されています。

『ファッシズム批判』などの著作が1938年に発売禁止となり、翌年には休職処分とされて起訴された河合栄治郎・東京帝国大学教授の「二・二六事件の批判」(帝国大学新聞)や軍国主義と「国体明徴」運動を批判して伏字ばかりの文章となっていた『中央公論』の巻頭論文も詳しく紹介されているのです。

こうして、第一部の終わり近くでは主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」が起きます。それはラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公が、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出た主人公は、それまで学んでいたドイツ語を捨てて新たにフランス語の勉強を始めて、法学部政治学科から仏文科に転科することになるのです。

その後で作者は、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見た「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書いています。そして、題辞でも引用していた『白夜』の冒頭の文章「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた(後略)」(米川正夫訳)を引用した堀田は、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明しています。

それまで主人公を「少年」と記していた作者がここで主人公を「若者」と呼び変えたとや『白夜』を書いたドストエフスキーがハンガリー出兵の前に起きたペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受けた後でシベリアに送られていたことを思い起こすならば、ゲッベルスの演説から受けた「異様な衝撃」の大きさが感じられるでしょう。第一部はこう結ばれています。「水平線を見詰めて、下宿を引っ越そう、と若者は考えていた。」

さらに第2部でも、「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に二・二六事件のときの首謀者中の首謀者であったI(注:モデルは磯部浅一)という男の未亡人が住んでいた」と記され、彼女が「夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたIの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させよう」としていたことも描かれているのです。こうして、「二・二六は最終的な落着におちつくまで接着してはなれなかった」と描かれているように、この事件は強い影を長編小説全体に投げかけています。

つまり、この事件の首謀者は非公開で弁護人なしという特設軍法会議で裁かれ処刑されましたが、それによって軍部における統制派の権力は強まり、また国粋的な「尊王攘夷思想」も広がるという結果を生んだのです。『ファッシズム批判』を1934年に発行していた自由主義知識人・河合栄治郎の2・26事件についての記述はその後の日本の政治の流れをも示唆しているといえるでしょう。

治安維持法のもとで左翼だけでなく自由主義者の若者たちが次々と逮捕され、あるいは戦死していったことが描かれている第2部では、ゲッベルスの演説の後で聞いたシャンソンからフランス語への関心を強めた若者が、仏文科に転科するまでの過程が詳しく描かれています。そして第3部では小林秀雄の『白痴』解釈を否定するような主人公のムィシキン観が記されていますが、開戦直前に定められた「大学学部等の在学年限又は修業年限短縮に関する件勅令要綱」によって3年生の9月で卒業させられることになった堀田は急いで書き上げた卒論で、「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を考察することになるのです。

少し、先を急ぎましたが、ヴェルレーヌの詩集の英語との対訳をまず買った若者は(上、177頁)、英語で書かれたフランス語の文法書を古本屋で買い求めて、仏語の私塾の中等科に強引に入ってフランス語の習得に専念し、仏蘭西文学科の「白柳君」(モデルは白井浩司)から模擬試験を受けました。

その時に出された問題が哲学者アランのMars ou la guerre jugée (1921年, 邦題『裁かれた戦争』)の一部で、その個所を見た若者が「ここには恐ろしいような真理がずばりと書き抜いてある」と感じながら訳出すると、白柳君は「もう仏文に来ても大丈夫だよ」と告げるとともに次のように語ったのです。

「これね、翻訳あるんだけど、その翻訳ね、翻訳じゃないんだ、検閲のことを考えて、一章ごっそりないところや、削ったところなんか沢山あって、あれ翻訳じゃないんだけど、小林秀雄さんがあの翻訳のこととりあげて、良い本だ、っていうらしいことを書いていたの、あれいかんと思うんだけど……」

 それは次のような文章でした。「……人が宿命論を信ずれば、それだけで宿命は本物になってしまう。(……)いっそう明白なことは、民衆の全体が戦争が不可避だと信じれば、現実にそれはもう避けがたい。あまり人がしばしば通った道ではないが、辿る(たど)るのにそうむずかしくはない道がある。それは戦争を避けることが出来るということが真実になるためには、まず戦争が避け得ると信ずる必要があるという結論に到達するための道筋である。」

その訳を聞くと白柳君は、「いま君が訳した、戦争のところなんか、あの翻訳じゃ素通りだよ。その翻訳だと、戦争も生活の一つだ、地道に立向かって行け、ってことになるんだ、逆なんだ、本当は小林さんはこの原書を読んでないってことはないと思うんだけど」と語ったのです。

小林が2・26事件が起きた昭和11年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセーで、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書くとともに、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」とも記していたことを想起するならば、先の記述はアランの『精神と情熱とに関する八十一章』を大正6年に邦訳していた小林秀雄の戦争観に対する鋭い批判となっているでしょう。

しかも、皇紀2600年が祝われた昭和15年に鼎談「英雄を語る」で、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と作家の林房雄から問われて「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と楽観的な説明をした小林秀雄は、昭和17年には日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していたのです。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の主人公が仏文科に転科への決意をしたのは、昭和19年秋のことでしたが、そこでは白柳君との会話などをとおして、日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」が、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことなどが記されています。

この長編小説ではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説が主人公の重要な転機になっていましたが、1933年1月にナチスが政権を握ったドイツでは「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われるようになり、5月10日のユダヤの知識人の書物を大量に焚書にした際にもゲッベルスが扇動的な演説をしていたのです。

(ナチス・ドイツの焚書)

ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックの本も彼がユダヤ人であったために焚書の対象とされましたが、彼の著書『人権宣言論』を1906年に訳出していたのが「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられることになる美濃部達吉だったのです。

そのために、1933年に相次いで国際連盟を脱退していた日本とドイツは、孤立を防ぐために相互の提携を模索して、2・26事件が起きた1936年の11月には日独防共協定が結ばれ、1940年9月には日独伊三国同盟が結ばれることになるのです。

仲良し三国

(「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書。写真は「ウィキペディア」より)

こうして、ナチス・ドイツへの接近の機運が日本で高まると美濃部の著書や学説は目障りとなり排斥された一方で、ドイツ国民のバイブル扱いを受けて終戦までに1000万部を売り上げたとされるヒトラーの『我が闘争』の訳はすでに1932年に内外社から『余の闘争』と題して刊行され、それ以降も終戦までに大久保康雄訳(三笠書房、1937年)、真鍋良一訳(興風館)(ともに日本の悪口を書いてある部分を削除しての出版)の訳などが刊行されました(「ウィキペディア」の記述などを参考にした)。

そして、小林秀雄も室伏高信訳の『我が闘争』(第一書房、1940年6月15日)の書評でヒトラーをこう讃美していたのです。「彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる。/これは天才の方法である。僕は、この驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた。」(太字は引用者)

問題はこのような記述をしていた小林秀雄が、戦後に「評論の神様」として復権するとアメリカとの安全保障条約で1960年5月に『文藝春秋』に掲載された「ヒットラアと悪魔」というエッセーでは『悪霊』にも言及しながら戦時中に書いた『我が闘争』の書評の内容を一部書き換えながら詳しく再掲し、「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎に招かれて「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会で5回も講演していたことです

一方、『文学界』だけでなく『日本浪曼派』の同人にもなり、小林などとの鼎談で「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」と「一億玉砕」を美化するような発言をしていた林房雄も、「大東亜戦争肯定論」という題名で先の戦争を肯定する評論を『中央公論』に1963年から16回にわたって連載していたのです。

堀田善衞は復権した岸首相が「満州国の高級官吏」であったことを指摘して、1960年の事態を権力の「痙攣(けいれん)」と呼び、「自民党主流というものが満州事変以来」の「昭和史をむき出しのままで」うけついでいることがはっきりしたと書いていましたが(「新しい日本の出発点」)、元A級戦犯だった岸信介首相が結んだ「新安保条約」と「日米地位協定」では、後に明らかになるように施設の提供だけでなくアメリカ軍の特権も定められていました。

それゆえ、「マチネ・ポエティクス」の詩人の中村真一郎や福永武彦とともに堀田が書いた映画《モスラ》の原作『発光妖精とモスラ』では、当時の日本の政治状況を反映してネルソンが「外交特権でケースを開けさせずに小美人を連れ去った」ことも描かれていたのです。

Mosura trailer - Mothra airport.png

その一因としては、反核的な要素も強い映画《ゴジラ》の後で映画《モスラ》を公開した本多猪四郎監督の戦争観も反映されていると思えます。彼は二・二六事件の際に将校に率いられた反乱部隊に所属していたために満州に送られ、軍に再召集されるなど苦労をしていたのです。

原作『発光妖精とモスラ』の著者の一人・堀田善衛が一九六〇年春に「私はつくづくと、ほとんど自分のこれまでの全生涯をさかのぼって再体験をするような思いにかられた」とも書いていることに留意するならば、復活した岸首相や「昭和維新」の再評価についての考察が、自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の構想につながっていることはたしかだろう。

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(2019年5月1日、5月3日、青い字を加筆し最後の個所を次回に移動。リンク先と写真を追加)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

三、小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

林房雄の「浪曼主義のために」を論じた昭和11年の短文で、「彼のカンだけは、非常に実際的であり、いつも間違ひなく的の真中に当たっている」と評価した評論家の小林秀雄は、上海事変が勃発した昭和7(1932)に書いた評論「現代文学の不安」では、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』でも「不意に、芥川龍之介の遺書である『或旧友へ送る手記』のことを思い出して勃然たる怒りを感じた」と書かれています。しかし、モデルの一人で作家の中村真一郎は、堀田が「日本文学の壊滅状態のなかで」、「特に芥川と宇野浩二を熱心に読んでいた」ことを記しています(『芥川龍之介』)。この長編小説では芥川の遺児で・俳優、演出家でもあった比呂志との交友も描かれていることを考慮するならば、一見、自殺した芥川が厳しく批判されているかのようにも見える先の文章には、尊敬していた作家が自殺したことへの無念の思いが込められていると思えます。

さらに、島崎藤村が長編小説『春』では明治の『文学界』の同人たちとの交友をとおして、自殺に至るまでの透谷の歩みを詳しく描いていたことを考慮すると、若き詩人たちとの交友が描かれているこの長編小説で芥川にも言及していることには、長編小説『春』の記述を踏まえつつ、芥川の自殺を残念に思った堀田善衞がこの問題を真剣に考察していたことが強く感じられるのです。

『若き日の詩人たちの肖像』には北村透谷や島崎藤村についての言及はありませんが、司馬遼太郎や宮崎駿との鼎談で堀田は、「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていました(『時代の風音』)。この発言からは法律や差別などの問題にも留意しながら『罪と罰』を深く研究した上で『破戒』を著わしていた藤村への敬意が感じられます。

さらに藤村は「祭政一致」を求めて、「神祇官」を設けて廃仏毀釈運動を行った「復古神道」を信じた自分の父親の悲劇的な死を『夜明け前』で描いていましたが、受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まりまる『若き日の詩人たちの肖像』の終わり近くで堀田は、登場人物に「国粋攘夷思想」を唱えた復古神道をこう批判させています。

「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」。

 一方、真珠湾攻撃の翌年の昭和17年に『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』を発行した堀場正夫は、「序にかへて」の冒頭で、日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美して、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎へる直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であつた」と書き、その後で『罪と罰』から受けた印象と2・26事件をこう結び付けてこう記していました。

すなわち、その前夜にポルフィーリイとの激しい議論でラスコーリニコフが、ナポレオンのような「非凡人」は「「たしかに肉体でなくて青銅で出来てゐるに違ひない」と絶叫するに至るあの異様に緊張した場面」を読んでいたと記した堀場は、事件の朝について「白雪におほはれた東京の街は、ただならぬ緊張の中におかれたのである」と書き、「近代の長い夜はこの日から少しづつ白みそめたといつたら間違ひであらうか」と続けていました。

このような記述からは『英雄と祭典』が小林秀雄のドストエフスキー論から強い影響を受けていると思われます。なぜならば小林秀雄は、小林多喜二が拷問で獄死した翌年、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の昭和9年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフについて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していました。

そして、太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄は、『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」と呼び、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです(『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』、183頁)

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

さらに、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンについても「スイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈した小林は、罪の意識のなかったラスコーリニコフと結び付けつつ、ムィシキンをも「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」と見なして、「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と『白痴』の結末について記していたのです。

テキストの記述からも大きく逸脱した小林のこのような解釈は、真珠湾攻撃のⅠ年後に彼が日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していることに留意するならば、昭和6年の満州事件以降、戦争の拡大の危険性が増していた当時の状況を踏まえて政府や軍部に忖度したものだったと言えるでしょう。

 一方、真珠湾攻撃の話題の後で、「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし」、部屋にとじこもってドストエフスキーの『白痴』を読み続けた若者が、ムィシキンを外国からロシアに「入った」」、「天使のような」人物と読み解いていることは、小林秀雄の『白痴』解釈に対する厳しい批判が秘められていると思われるのです。(「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」参照)。

(2019年4月26日、改訂)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

はじめに、『若き日の詩人たちの肖像』の時代の「祝典的な時空」

自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる昭和11(1936)年の二・二六事件に遭遇した主人公が「赤紙」で召集されるまでの重く暗い日々が若い詩人たちとの交友をとおして克明に描かれています。

しかし、この時期には「祝典的な時空」という華やかな側面もありました。すなわち、「天皇機関説」事件が起きた昭和10年には神武天皇の即位を記念する「祝典準備委員会」が発足し、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』でふれたように、それから5年後の昭和15年には、「内務省神社局」が「神祇院」に昇格して、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」の祝典が盛大に催されたのです。

(出典は「「ウィキペディア」)

皇紀の末尾数字を取ってゼロ戦と名付けられた戦闘機などによる真珠湾攻撃の大戦果などを踏まえて、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした堀場正夫は、昭和17年に出版したドストエフスキー論に『英雄と祭典』という題名つけましたが、それはこの著がそのような祝典的な雰囲気の中で著わされていたことをも物語っているでしょう。

評論家の橋川文三は『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」(太字は原文では傍点)あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促し、「私が『耽美的パトリオティズム』と名づけたものの精神構造と、政治との関係が改めてとわれねばならない」と記しています。

それゆえ、ここではまず『若き日の詩人たちの肖像』の複雑な構造に迫る前に主人公の視線をとおしてこの時代の雰囲気を概観することで、この長編小説における「耽美的パトリオティズム」の批判の一端に迫りたいと思います(本稿では、敬称と注を略した)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

一、真珠湾の二つの光景

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃の成果を知った主人公が「ひそかにこういう大計画を練り、それを緻密に遂行し、かくてどんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と感じたと書かれています。

しかし、それに続いて「それは掛値なしにその通りであったが、そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなっていた」ことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と記した作者は、軍神に祭られても「親御さんたちゃ、切ないぞいね」という一緒に住むお婆さんの言葉も記しているのです。

しかも、年が明けて1月になり主人公の仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てきたことを記した著者は、「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」という主人公の思いを記していますが、この批判は文芸評論家の小林秀雄にも向けられていると思えます。

なぜならば、「文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」時に、「僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」と「三つの放送」で書いた小林は、元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃の航空写真を見た印象を「戦争と平和」というエッセーでこう記していたからです。

「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとした思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に眞つ白な水脈を曵く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作つて拡がつたのだ。そしてさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかつた筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去つた彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映つたに違ひない。」

そして、「冩眞は、次第に本当の意味を僕に打ち明ける様に見えた。何もかもはつきりしているのではないか」と書いた小林は、トルストイの『戦争と平和』にも言及しながら、「戰は好戰派といふ様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戰だから起こるのである」と結んでいたのです。

 ここには写真には写っていない特殊潜航艇に乗り込んで特攻した乗組員の心理も考察している『若き日の詩人たちの肖像』の主人公の視点と、海の底に沈んだ特殊潜航艇のことには触れずに航空写真を見ながら「爆撃機上の勇士達」の気分で戦争を描いた小林との違いが明確に出ていると思えます。(続く)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

(3、増補版)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

          (2019年4月21日、改訂。6月14日、リンク先を追加)

堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって

二〇一八年が生誕百周年に当たっていた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(一九六八年)は、大学受験のために上京した翌日に二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出している。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

注目したいのはその第一部のエピグラフには「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた」(米川正夫訳)という言葉で始まるドストエフスキーの『白夜』の文章が置かれていることである。

第一部の終わり近くではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「異様な衝撃」と「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公は、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出る(引用は集英社文庫より、巻数は上下で、頁数は漢数字で示す)。

そして、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見て、「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、『白夜』の冒頭の文章を引用した堀田は、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している(上・一一五~一一七)。

こうして、「いますぐ何かをしなければならぬ」と考えた主人公は、かなり習熟していたドイツ語を捨てて、開戦直前に法学部政治学科から当時は敵性言語とされたフランス語を学んで仏文科に転科している。このことについてフランス文学者の鹿島茂は、当時は「それだけが唯一の抵抗」ということだっただろうと書いている(『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』集英社新書)。『白夜』のエピソードは主人公の生涯の転機となる決断とも深くかかわっていたのである。

ドストエフスキーは『白夜』を書いた後で、オーストリア帝国の要請によるハンガリー出兵の前に起きたペトラシェフスキー事件で逮捕されていた。そのことに注目するならば、ここで堀田が主人公の呼び方を「少年」から「若者」に変えているのは、危険な文書の所持で逮捕され、召集令状で戦場へと駆り出されることになる主人公の運命をも示唆していると思える。

実際、『若き日の詩人たちの肖像』では「物品のように」「どさりと淀橋署の留置場へ放り込まれ」、そこで一三日間拘留されたあとで若者に「皇国史観」を説教した人物について、「『罪と罰』に出て来る素晴らしく頭がよくて、読んでいる当方までが頭がよくなるように思われるあの検事のことがちらと頭をかすめた」と記されているのである(上・一七〇)。

この長編小説に登場する「詩人たち」のモデルの一人である作家の福永武彦を父に持つ池澤夏樹は、「プロレタリア文学の人たちもつぶされて」しまった後の時代は、他の作家の小説ではほとんど描かれていないのに対して、「慶応仏文科」や「荒地」、「マチネ・ポエティク」などさまざまなグループの詩人たちの「たくさんの仲間が捕まり、拷問され、殺される」ことが頻繁に起きていたこの時代のことを『若き日の詩人たちの肖像』が描いていることの意義を指摘している。

注目したいのは、この長編小説の中頃で「詩人兼小説家の人」である堀辰雄をモデルとした「成宗の先生」が住んでいる「その家の書斎にも灯がついている」のを見た後で、再び『白夜』の冒頭の句を「口のなかでとなえて」みた若者が、『白夜』の主人公とムィシキンとの精神的な連続性に注意を促していることである。

すなわち、「こういう文章こそ若くなければ書けなかったものだったろう、と気付いた。二十七歳のドストエフスキーは、カラマーゾフでもラスコルニコフでもまだまだなかったのだ」と最初は感じた若者は、その後で「けれども、この文章ならば、あるときのムイシュキン公爵の口から出て、それを若者が自分の耳で直接公爵から聞くとしても、そう不思議でも不自然でもないだろう……」と続けているのである(上・三一一~三一二)。

さらに、太平洋戦争の開戦後に特殊潜航艇による特別攻撃で亡くなった若者たちが軍神とされたことを知って、「腹にこたえる鈍痛」を感じていた若者は、「成宗の先生」と出会って立ち話をしていた際に、特高刑事の目つきから「殺意に燃えたラゴージンの眼」を思い出して、「ほとんどうわの空」で「謎」のような言葉を語っていた(下・八三)。

「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」。

この記述だけではその意味は分からないが、堀田が戦争の時代に急いで書き上げた卒論で、「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を考察していたことに注目するならば、この言葉が主人公の全存在にも関わるような重みをもっていることは確かだろう。

その後で堀田は主人公の若者にとってのムィシキンの意味を、部屋に閉じこもって『白痴』を読みつづけた若者の感想をとおして明らかにしている。長編小説『白痴』に対する作者の強い愛着も示されているので、少し長くなるが引用しておきたい(下・九三~一〇一)。

「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし、若者はとじこもって本を読みつづけた。ドストエフスキーの『白痴』は、何度読んでも、大きな渦巻きのなかへ頭から巻き込むようにして若者を巻き込み、ときには、その大渦巻きの、回転する水の壁が見えるように思い、エドガー・ポオの大渦巻き(メイルストローム)さえが垣間見えるかと思うことさえあった。とりわけて、その冒頭が若者の思考や感情の全体を占めていた。/――なるほど! 絶対の不可能を可能にするには、こうすればいいのか!/と」。

そして、「その冒頭の三頁ほどを、毎日毎日読みかえした。古本屋で買った英訳と、白柳君に借りた仏訳の双方があったので、米川正夫訳と三冊の本を対照しながら読み返してみていた」と書いた堀田は『白痴』冒頭の記述を引用している(表記は現代の表記に改めた)。

「十一月下旬のこと、珍しく暖かいとある朝の九時頃、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。空気は湿って霧深く、夜は辛うじて明け放れたように思われた。汽車の窓からは右も左も十歩の外は一物も見分けることが出来なかった。旅客の中には多少外国帰りの人もあったが、それよりも寧ろ余り遠からぬ所から乗って来た小商人(こあきんど)連の多い三等車が一番こんでいた。こんな場合の常として、誰も彼も疲れ切って、一晩の中に重くなった目をどんよりさせ、体のしんまで凍(こご)えきっていた。どの顔もどの顔も霧の色にまぎれて蒼黒く見える」。

この文章について、「あのロシアの平べったい平原の、ところどころに森や林や広大な水たまりなどのあるところを、汽車がひた走りに走って行く、その走り方のリズムのようなものが、この文章に乗って来ていることが、じかに肌に感じられる」と記した堀田は、ドストエフスキーが主人公のムィシキンをこう描写していることに注意を促している。

「とある三等の窓近く、夜明け頃から二人の旅客が、膝と膝を突き合わせて、腰掛けていた。どちらも若い人で、どちらも身軽げなおごらぬ扮装(いでたち)。どちらもかなり特徴のある顔形をしていて、どちらも互に話でも始めたい様子であった(……)向いの席の相客は、思いもかけなかったらしい湿っぽい露西亜の十一月の夜のきびしさを、顫(ふる)える背に押しこたえねばならなかったのである」。

この後で、「天使のような人物を、ロシアという現実のなかへ、人間の劇のなかへつれ込むのに、汽車という、当時としての新奇なものに乗せた、あるいは乗せなければなかった、そこに、ある痛切な、人間の悲惨と滑稽がすでに読みとられるのである」と書いた堀田は、「この不自由で限りのある人間の世界というものについての、刺すような悲しみが若者に取りついていた」と続けている。

ことに、「たとえ小説の中でも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、(……)外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」(傍点は著者)という文章は、堀田がこの長編小説を正確に読み解いていることを物語っているだろう。なぜならば、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためだったからである。

ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続したムィシキンとロゴージンの共通点を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした主人公と、その大金で愛する女性を所有しようとしたロゴージンとの友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたる帝政ロシアの社会問題を浮き彫りにしていた。

そして、「小説を読み通して行って、その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえないのである」と記した堀田は、「白痴、というと何やら聞えはいいかもしれないが、天使は、人間としてはやはりバカであり阿呆でなければ、不可能、なのであった」と続けた後で、若者が「成宗の先生」に語った「謎」のような言葉の意味をこう説明していた。

「左様――ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランボオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行ってしまい、おまけに生まれのヨーロッパからさえも出て行ってしまった、というのが、若者が成宗の先生に言ったことの、その真意であった」。

実は、二〇〇七年に上梓した拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でも、「昭和初期」の時代を描いた『若き日の詩人たちの肖像』と『白夜』との比較を行っていた。だが、ムィシキンが「外界」から「入って」来たことに傍点をつけて注意を促しているこの文章が、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年の『白痴』論で、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈をした小林秀雄を強く念頭に置いて書かれていた可能性に気付いたのは、『黒澤明で「白痴」を読み解く』を書いていた時のことであった(同書、一八九頁)。

『黒澤明で「白痴」を読み解く』大

「しかしなんにしてもド氏の小説は面白い、面白くてやり切れなかった。とりわけて、ド氏が小説というものの枠やルールを無視して勝手至極なことをやらかしてくれるところが面白かった」と書いた堀田は、「『白痴』はその終末で若者に泪を流させた」と続けて、結末の異常性を強調した小林秀雄とは正反対の解釈を記していたのである。

ド ストエフスキー作品との関連で興味深いのは、堀田がその直後に「これも二度目か三度目のくりかえしにかかった『悪霊』の方は、ところどころ爆笑させられるようなシーンがあって面白かった」と書き、出産の手助けを求められたキリーロフが「僕はお産をすることが下手でね」と語る場面を紹介していることである(下・一〇一)。

『白痴』論から『悪霊』論への移行は唐突のようにも感じられるが、若者がスタヴローギンについて「天使ムィシキン公爵の逆の極みである、絶世の怪物、悪魔である」と規定していることに留意するならば、この文章も一九三七年の『悪霊』論で「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と書いていた小林を強く意識していることが感じられる。

堀田が記した『悪霊』論はこれが最初ではなく、日米安全保障条約の改定に反対する世論が盛り上がり、大規模なデモが行われていた時期を背景にした長編小説『審判』(一九六三年)でも、出産を迎えた被爆者の女子学生との関連でより詳しく記されていた。

しかもこの長編小説では原爆パイロットをモデルとした人物が重要な役割を演じているが、一九六二年には原爆の非人道性を知って自分を犯罪者と見なすようになり、精神病院に収容されたイーザリー少佐の往復書簡の翻訳が『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(篠原正瑛訳、筑摩書房)と題されて発行されていた。

ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫)(書影は「アマゾン」より)

そのことを考慮するならば、『悪霊』にも言及していた長編小説『審判』には、湯川秀樹博士との対談では原爆を産み出した「技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく批判しながら、その後は核問題について沈黙し、「ヒットラーと悪魔」では『悪霊』にも言及しながら戦時中に書いた『我が闘争』の書評を引用していた小林秀雄の科学観や歴史観への強い批判が込められていたと思われる。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の第四部では兵隊検査の終わった主人公の呼び方が「男」となり、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の話に凝っていたアリョーシャというあだ名の若者が「惟道(かんながら)の道」を説くようになり、アッツ島玉砕の報道が入った時には軍神たちを侮辱したとして妻を激しく殴りつけたことが描かれている。

召集令状が来たことを知らせる実家からの電報が届いて「警察で殺されるよりも、軍隊の方がまだまし」と感じた主人公の男は、『白夜』の文章についてこう記している(下・三八九)。

「郵便局からの帰りに空を仰いでみると、冬近い空にはお星様ががらがらに輝いていたが、そういう星空を見るといつも思い出す、二十七歳のときのドストエフスキーの文章のことも、別段に感動を誘うということもなかった」。

この長編小説は出兵前に故郷に帰って北の海を見た男の厳しい感慨で結ばれている。「鉛色の北の海には、男がこれまでに耳にしたありとあらゆる音楽の交響を高鳴らせてどうどうと寄せて来ていた。それだけで、充分であった」。

  *   *   *

私的なことになるが、大学に入ってからドストエフスキーの初期作品の重要性だけでなく、日露の近代化の比較というテーマを研究することの必要性を強く感じたのは、堀田善衞のこの作品と出会ったことが大きな一因となっていた。

この作品を論じたフランス文学者の鹿島も「自分と全く違うものを学ぶということは、比較が可能になるということです」と書き、「比較を進めることによって、逆に、自分とは何かが分かってくる。あるいは、自分たちと比較することによって、他者が分かってくる」と指摘している。

この作品では「戦争に至る大変暗い時代」が如実に書かれていると指摘した池澤も、同じ『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社新書)に収められた論考で「この作品は、自分のものの考え方、思想を支えてくれる大きな柱となっています」と続けている。

近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)では、『若き日の詩人たちの肖像』については、「復古神道」との関連で少しだけ触れた。昨今の日本はますます昭和初期の暗い時代に似てきているので、その厳しい時代を生き抜いた若者を主人公とした堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』を本格的に考察する著作を書きたいと思っている。(本稿では敬称は略した)。

(『ドストエーフスキイ広場』第28号、2019年、121~127頁)

第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

第50回総会と251回例会のご案内を「ドストエーフスキイの会」のホームページより転載します。

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第50回総会と251回例会のご案内

   下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 日 時2019518日(土)午後1時30分~5時

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)   ℡:03-3402-7854 

総会:午後130分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

例会報告者:高橋誠一郎氏

題 目: 堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

      *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、『黒澤明と小林秀雄』など。近著に『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(会員と例会出席者には送料無料、税抜きで頒布、申し込みは→info@seibunsha.net)。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 

第251回例会報告要旨

堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

その第一部の題辞ではペトラシェフスキー事件で逮捕されてシベリア流刑になるドストエフスキーが書いた『白夜』冒頭の文章が引用されています。しかも、この長編小説で堀田は『白夜』ばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、『悪霊』などについての考察をも行っているのです(『ドストエーフスキイ広場』第28号、「堀田善衞の『白痴』観」参照)。

前回の例会で福井勝也氏はアニメ映画の世界的巨匠である宮崎駿氏の言葉を引用しながら、「堀田は日本では珍しい世界文学者のタイプであって、これから評価が高まる作家」と位置付け、「白夜について」(1970)も堀田が自覚的に自分は『白夜』の主人公さながらにフラニョール(遊歩者)であることを表明し、ドストエフスキーのフェリエトニスト的側面に関心を持っていたらしいと指摘しました。

これらの指摘に私も全面的に賛成です。なぜらば、『若き日の詩人たちの肖像』で戦争末期の「学徒動員」を厳しく批判しつつ、「鴨長明がルポルタージュをしていたような事態が刻々に近づきつつあるように予感される。『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった」と記した堀田は、『方丈記私記』で鴨長明について「心よりもからだの方が先に身を起こし、足の方から歩き出してしまう行動人」と規定しているように、『白夜』への関心は『方丈記』につながっているからです。

さらに、私は堀辰雄の小説『風立ちぬ』や『菜穂子』などを組み込んだ宮崎駿監督のアニメ映画《風立ちぬ》には、同時代を描いた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』からの強い影響がみられると考えています。このアニメではナチス・ドイツの秘密警察についても描かれていることも、ゲッベルス宣伝相の暴力的な演説の後に『白夜』冒頭の文章が対置されているこの長編小説の構造と深く関わっているでしょう。

この映画で描かれている関東大震災の直後に発生した火事の広がりの圧倒的な描写も、『方丈記私記』で描かれている東京大空襲後の烈風による「合流火災」の記述から影響を受けていると思えます。

それとともに注目したいのは、『罪と罰』の人物体系を深く研究して『破戒』を書いた島崎藤村が、長編小説『春』で自殺に至る北村透谷の苦悩や考察を詳しく描いていたのと同じように、『若き日の詩人たちの肖像』では芥川龍之介の自殺についての考察が、慶応仏文グループの芥川比呂志との交友などをとおして何度も行われていることです。

さらに、この長編小説では「マチネ・ポエティクス」のグループの詩人たちとの交友も描かれていますが、堀田はその一員であった福永武彦や中村真一郎の三人で、核実験場とされた島から飛来する怪獣を描いた映画《モスラ》(1961)の原作を書いています。

このことに留意するならば、アメリカ人の原爆パイロットをモデルとした『零から数えて』(1960)と『審判』(1963)の二つの長編小説が『若き日の詩人たちの肖像』(1968)と密接なつながりを持っていることは明らかでしょう。

すなわち、『若き日の詩人たちの肖像』は過去を振り返るだけでなく、現在を凝視し未来を見つめるような視点も有しているのです。

ただ、序章と四つの部からなるこの長編小説では詩人だけでなく演劇のグループや、多くの作家も実名で描かれるなど複雑な構造をしています。それゆえ、今回の発表では筋や人物体系だけでなく、「題辞」という手法にも注目しながらテキストを忠実に読み込むことにより、主人公が成宗の先生(堀辰雄)に語る「ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」という謎のような言葉の意味に迫りたいと思います。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

(2019年4月13日、4月27日、書影とリンク先を追加)

堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって(『ドストエーフスキイ広場』第28号より転載)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

(2)「海ゆかば」の精神と主人公

(3)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

 

黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

 黒澤監督没後二〇周年を記念した黒澤明研究会の『会誌』No.40が届きました。この号に入会のいきさつや映画《白痴》の円卓会議についての経過報告を投稿ましたので、以下に転載します。

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『白痴』の発表から一五〇周年に当たる今年の一〇月にブルガリアの首都ソフィア大学で開催されるドストエフスキーのシンポジウムでは、『白痴』が主なテーマの一つとなり、シンポジウムの最後を飾ることになる円卓会議では映画《白痴》が取り上げられることになりました。

ブルガリア、ソフィア大学(ソフィア大学、ブルガリア語版「ウィキペディア」)

この円卓会議では会員の槙田氏が基調講演を行い、その後で日本からは九州大学の清水孝純名誉教授と私の発表と、ブルガリア・ドストエフスキー協会のディミトロフ会長の発表が予定されています。

私は拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)の発行後に堀会員の強い勧めで入会しました。『会誌』の「黒澤明研究会四〇周年記念特別号」(第二七号、二〇一二年)を読み返していたところ、映画《白痴》についての思いと今後の抱負を記している記述がありましたので、要約して再掲します。

【高校時代にドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』を読んでロシア文学の研究を目指すようになったが、留学先のブルガリアでポーランドなどの東欧の学生から、ことに後期のドストエフスキー作品に対する厳しい批判があることを知ったことなどから、『白痴』に対する思いが揺らいだこともあった。しかし、映画『白痴』を見た際には、日本に舞台が移し替えられているものの、主人公の亀田(ムィシキン)をはじめとする登場人物が見事に描かれ、原作の理念が正しく伝えられていることに深い感動を受けた。

黒澤監督はドストエフスキーを「つっかえ棒」になってくれた作家と呼んでいたが、映画『白痴』も私にとってはドストエフスキー研究を続ける「支え」の役割を果たしてくれた。黒澤明監督が一九世紀のロシア文学をきわめ深く理解していたことを明らかにすることで、黒澤映画の魅力やその現代的な意義を伝え、黒澤映画を広めていきたい。】

 今回、映画《白痴》の円卓会議の企画にも関わることで、入会時の念願を果たすことができることになりました。

通常の三年ごとの大会の他に急遽、設定されたシンポジウムだったので、参加者がどのくらい集まるかに、最初は多少・不安がありました。しかし、ロシアからの出席者にはサンクトペテルブルクとモスクワの「ドストエフスキーの家博物館」の両館長もいます。

盛り上がった学会となり長編小説『白痴』とともに映画《白痴》の理解が深まることが期待されます。詳細については帰国後に報告することにし、ここでは六五名の参加者の国名と人数のみを記しておきます。

ロシア 二〇/ ブルガリア 一三 / イタリア 一〇/ 日本 五/ アメリカ合衆国 四/ ウクライナ 三 / イギリス 一/ ギリシア 一/ セルビア 一/ ドイツ 一/ ハンガリー 一/ ブラジル 一/ フランス 一/ ベラルーシ 一/ ポーランド 一/マケドニア 一/

(黒澤明研究会編『研究会誌』)、No.40号、2018年、16~17頁、転載に際して一部記述を変更した)

ドストエーフスキイの会、第247回例会(報告者紹介:坂庭淳史氏)のご案内

第247回例会のご案内を「ニュースレター」(No.148)より転載します。

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第247回例会のご案内

   下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 今回は会場が変わります。要ご注意!                                       

2018915日(土)午後2時~5

場 所早稲田大学文学部戸山キャンパス32号館224教室

             地下鉄東西線・「早稲田」下車

報告者:坂庭 淳史 氏

題 目: タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する対話

    会場費無料

報告者紹介:坂庭淳史(さかにわ あつし)

早稲田大学文学学術院教授。専門は19世紀ロシア文学・思想。最近の著書に『プーシキンを読む』(ナウカ出版、2014年)、論文に「黒澤明『生きる』とロシア文学」(『比較文学年誌』早稲田大学比較文学研究室、2015年)、訳書にアルセーニー・タルコフスキー『雪が降るまえに』(鳥影社、2007年)など。

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247回例会報告要旨

タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する対話

 ソヴィエトを代表する映画監督アンドレイ・タルコフスキー(1932₋1986)は生涯でわずか8本の作品しか撮ることができなかったが、彼の映画は独特の映像美はもとより、そこに表現された哲学的思索によって現在でも多くの人々を魅了している。タルコフスキーは国内外の映画はもちろん、思想や文学についても造詣が深く、彼の日記『殉教録』や映像論などをまとめた著書『刻印された時間(映像のポエジア)』の中には、ベルジャーエフやシェストフ、トルストイ、あるいはトーマス・マンやヘルマン・ヘッセ、カルロス・カスタネダといったさまざまな人々の名が見られる。なかでもタルコフスキーが長年に渡って強い関心を持ち続けていたのが、フョードル・ドストエフスキーであった。今回の発表では、タルコフスキーの創作世界において、彼がドストエフスキーに対してどのようなまなざしを向けていたのか、あるいはドストエフスキーがどのような役割を果たしていたのかを考えてみたい。

 タルコフスキーはドストエフスキーの精神的末裔とも称され、その思想の類縁性はこれまでにも多くの研究者たちによって語られてきた。彼があたためていた数多くの作品構想の中には『分身』や『罪と罰』といった題名も見られるが、彼の実際の作品の中でドストエフスキーの小説や思想と直接に結びついているシーンは残念ながら数えるほどしかなく、しかもわずかに触れられている程度でしかない。

 ここで注目したいのは、以下の三つの事実である。

 第一には、その実現可能性はともかく、ドストエフスキーその人についての映画の計画である。彼が最も信頼していた俳優アナトーリー・ソロニーツィン(1934-1982)を作家役と決めて構想したものの、この俳優の癌による早世とともに計画自体も立ち消えになってしまったようだ。しかし、タルコフスキーのドストエフスキーへの心酔ぶりはこの事実からも理解できるし、ソロニーツィンがその他のタルコフスキー作品で演じた役柄なども、タルコフスキーによるドストエフスキー像を考えるうえでは参考になるだろう。

 第二に、小説『白痴』の映画化の模索である。彼が1970年代から1986年末に亡くなるまで記していた日記には、恒常的と言ってもいいほどに『白痴』に対する何らかの記述がある。他の構想と比べてみても作品の実現の可能性は十分にあったようだが、ゴスキノ(国家映画委員会)との長いせめぎ合いの末、撮影許可はとうとう下りなかった。それでも、『白痴』についてタルコフスキーが書き残した印象的なシーンや小説や登場人物の分析、映画化を想定した配役のメモ、あるいはドストエフスキー作品に基づくソ連映画へのコメントや、わずかながらに残されている黒澤明の映画『白痴』に関する言及などから、彼がどのような『白痴』を撮ろうとしていたのかを推測することができる。

 第三には、1986年に公開されたタルコフスキー最後の作品『サクリファイス』でわずかに示されるドストエフスキー世界へのリンクである。冒頭のシーンで、この映画の主人公アレクサンデルが、かつては俳優であり、『白痴』のムイシュキン公爵を演じて成功した過去を持っていることが語られる。『白痴』やムイシュキン公爵に関してそれ以上に語られることはなく、この設定はさほど大きな意味を持っていないようにも思える。そのせいか、この設定はこれまで十分には注目されてこなかった。しかし、この映画を『白痴』(あるいはドストエフスキーの世界)に重ねるならば、そこにはタルコフスキーによる信仰と生にまつわるドストエフスキーとの対話が見えてくる。

 今回の発表では、近年のタルコフスキー研究も紹介しながら、以上のことを中心に検討していく。

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前回の「合評会報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。