高橋誠一郎 公式ホームページ

『白痴』

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

はじめに

 一昨日、原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の二つの作品を考察した研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載しました*1。

ここでは堀田百合子氏の『ただの文士 父、堀田善衞のこと』や『堀田善衞・上海日記』、そして、木下豊房氏の「武田泰淳とドストエフスキー」にも目を配ることで、堀田善衞と武田泰淳の『審判』との関係を考察したいと思います。そのことによって、『若き日の詩人たちの肖像』に記されている『白痴』論の意味にも迫ることができるでしょう。

1、堀田善衞と「あさって会」

 堀田善衞も属していた「あさって会」がどのような会だったかは年譜などからは分からなかったのですが、堀田百合子氏は『ただの文士 父、堀田善衞のこと』で、子供の頃に行われていた「埴谷家のダンスパーティーが、その後の『あさって会(埴谷雄高・椎名麟三・梅崎春生・野間宏・武田泰淳・中村真一郎・堀田善衞)』の集いにつながっていったのだと思います」と書いています。

さらに、彼女は「戦後派と呼ばれる作家たちのこの集まりは、家族ぐるみの付き合いでもあり、文学をタテ、ヨコ、ナナメに、それぞれが勝手にしゃべり、それぞれの栄養にして」いったのですと記しており、この会の雰囲気が伝わってきます*2。

 ことに武田泰淳氏とその家族とは「夏の蓼科、角間温泉、湯田中温泉。父と武田先生、母と百合子夫人、私と花さん。遊んでいました。しゃべっていました」と書いた百合子氏は「父には見た目も、物言いも、かなり鋭角的なところがありますが、武田先生は違いました。何もかもがまーるいのです。時間の回り方が違うのかなと思えるようなまるさでした。人を包み込むような優しさが、子供の私には心地よかったことを覚えています」と続けています*3。

2、武田泰淳と堀田善衞の上海

 このような堀田と武田の深い交友を考えるとき、武田泰淳の『審判』(1947)と堀田善衞の『審判』(1963)との関りの深さが浮かび上がってきます。

すなわち、ドストエフスキー研究者の木下豊房氏は、埴谷雄高が1971年のエッセイで、「同時代者である私達はまぎれもなく同一問題を負わざるをえなくなったドストエフスキイ族であることが明らかになった」とのべ、椎名麟三、武田泰淳、野間宏の名をあげながら、特に、武田の小説『風媒花』で展開される現代の殺人論が「ドストエフスキイの深い殺人論の延長線上」にあることを指摘していたことに注意を促していました*4。

さらに1946年に帰国した直後に書かれた「『審判』(1947・4)、『秘密』(1947・6)、『蝮のすえ』(1947・8)」と武田の作品とドストエフスキーの『罪と罰』との深い関連を木下氏は詳しく考察しているのです。

堀田善衞が『文芸』の1955年12月号に載せたエッセイ「武田泰淳」において、上海では堀田が詩だけを書いていたのに対し、武田は「詩を書きながら、しきりと『罪と罰』のような小説が書ければ本望だ、と云って、世の狂燥をよそにして、漢訳の聖書を一生懸命に耽読していた」と記していることは武田の『罪と罰』への関心の深さを物語っているでしょう*5。

そして、堀田が「そのときの姿勢が、いつまでも僕の眼底にのこっている」と続けていたことからは、武田泰淳と堀田善衞の二つの『審判』の関係の深さが伺えます。

しかも、1976年に発行された雑誌『海』の「武田泰淳追悼特集」に収められた開高健との対談では、上海ではまだドストエフスキーの文学を知らなかった武田に堀田がシェストフやミドルトン・マリなどの「さまざまのドストエフスキー論について武田先生に講義しました」とも語っているのです*6。

3、堀田善衞の原爆のテーマと武田泰淳

原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の『審判』のテーマも武田との交友が深く絡んでいました。

すなわち、武田泰淳の葬儀で弔辞を読んだ堀田は、上海にいたときに「原爆の影響によって、我が国民全部が亡びるというデマ」がまことしやかに伝えられていたことから、武田が「『かつて東方に国ありき』という詩をお書きになったことを、私は忘れません」と語って、原爆のテーマと上海の記憶にも注意を促していたのです*7。

この言葉の意味は重いでしょう。なぜならば、1970年5月に毎日新聞夕刊に書いた記事で、宇宙飛行について書いたメイラーの『月にともる火』について「なぜいったいどこかで広島について、長崎についての言及と考察がなされなかったのか。それなしではアポロもヘッタクレもあるものか、と私は思う。それを欠いていることについて、ノーマンなどという奴はつまらぬ奴だ、と私は思う」と記しているのです*8。

しかも、1990年8月6日にNHK教育テレビで放映された「NHKセミナー 現代ジャーナル 作家が語る自作への旅」で 堀田善衞は自作『審判』の主人公についてこう語っていました*9。

「広島で二十数万人を一挙に殺したということについての、それが一体罪であるのか、あるいはただの戦時行為なのであるか、という判定がつかないわけですがそういう人物を選んだわけです。その人物の容貌、相貌を、私はフランスの画家ルオーの自画像を見ていて思いついたわけです。日本へ行けば、あるいは最終的に広島へ行けば、そこで何らかの解決、あるいは審判というものを受けられるのではなかろうか。再生のための、もう一度生きるための道というものが、日本にあるのではなかろうか。そういうことを考えたわけなんです。」

この文章を紹介した堀田百合子氏は、『掘田善衛全集5』 の「著者あとがき」で堀田が武田泰淳に触れながら記していた文章も引用しています。

 「筆者自身としても、この作品について何かを言うことは、現在でもある苦痛の感を伴うものがあった。(略)/なお、同じく『審判』と題された、故武田泰淳氏の傑作が別にあることを、付記しておきたい。『審判』という命題は、戦争を通過して来た戦後世代にとっては、避けては通れないものである」

こうして、木下氏の考察をも考慮するならば、原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の『零から数えて』と『審判』は、武田のこれらの作品を踏まえた上で書かれているといっても過言ではないでしょう。

4、小林秀雄のドストエフスキー観の見直し

注目したいのは、『堀田善衞 上海日記』の冒頭に記されている1945年8月6日の記述で堀田善衞が、「頃日(注:けいじつ、この頃の意)ド〔ドストエフスキー〕氏の「白痴」を読みたしと思ふことしきり」と書いていることです。同じ年の10月13日の日記では、創元社から刊行された小林秀雄の『小説1』『小説2』とともに小林秀雄が1943年の9月に『文学界』で論じていたゼークトの『軍人の思想』を買い求めたと記されていることに注目するならば、この時期に堀田が『白痴』を通して小林秀雄の思想の見直しをしていることが感じられます*10。

なぜならば、小林秀雄は「天皇機関説」事件が起きる前年の1934年に書いた『白痴』論で、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈していましたが、堀田善衞はこの時期を描いた『若き日の詩人たちの肖像』で、「たとえ小説の中でも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、(……)外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」と書いているからです*11。

これらの記述から堀田が『白痴』を通して小林秀雄の思想の見直しをしていると断ずることは強引のように見えるかもしれませんが、先ほど見た『堀田善衞 上海日記』に収められている開高健との対談での終わりの方で堀田は、こう語っていました*12。

「ぼくはほんの一年九カ月ぐらい上海にいただけですが、ものの考え方も感覚もひじょうに変ったと思うんですね。帰ってきて『批評』の同人会へ出ても、かれらが喋っていることがぜんぜん解りませんでね。(……)隣りに小林秀雄さんがいて、『堀田君、君は随分おとなしい人だね』と言ったけれども、おとなしいんじゃなくて、何言っているのか全然解らないんですよ。」

 この言葉からは上海から戻った時に、堀田善衞が昭和の『文学界』や『日本浪曼派』の、「日本回帰」のイデオロギーから完全に解き放されていたと考えることができるでしょう。

こうして武田泰淳との関係も踏まえて、堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の前に書かれた『零から数えて』と『審判』を読むと、いっそう興味と理解が深まると思われます。

 

*1 「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」『世界文学』(127号)、2018年7月、101~107頁。→ホームページ 「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって」

*2 堀田百合子『ただの文士 父、堀田善衞のこと』岩波書店、2018年、22頁。

*3 同上、92頁

*4 木下豊房「武田泰淳とドストエフスキー」、(初出:「ドストエーフスキイ広場」№15.2006)

*5『堀田善衞全集』、第16巻、25頁。

*6 堀田善衞・開高健「対談 上海時代」、紅野謙介編『堀田善衞 上海日記――滬上天下(こじょうてんか)一九四五』集英社、2008年、394頁。

*7 堀田百合子、前掲書、94頁より引用。

*8『堀田善衞全集』、第14巻、309~310頁。

*9 堀田百合子、前掲書、45~46頁より引用。

*10 紅野謙介編『堀田善衞上海日記』、集英社、2008年、13頁、32頁。

*11 高橋誠一郎、「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」『ドストエーフスキイ広場』第28号、2019年、121~127頁。→ホームページhttp://www.stakaha.com/?p=8515。なお、堀田善衞の『審判』とドストエフスキーの『悪霊』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』との関連については、別の機会に譲ることにする。

*12 紅野謙介編『堀田善衞上海日記』、415~416頁。

 

 

「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載

journal127.png 

原爆パイロットを主人公とした堀田善衞(1918―1998年)の二つの作品については、「狂気と文学」が特集された『世界文学』(127号)に寄稿した研究ノートで、ドストエフスキーの『白痴』や『罪と罰』との関連で予備的な考察をしました。

その研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載します。

狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって

ただ、その際には堀田善衞と武田泰淳(1912年―1976年)の二つの『審判』との関係については言及できませんでしたので、それについては別稿で考察することにします。

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

 

 

「ドストエーフスキイのプーシキン観ーー共生の思想を求めて」を「主な研究」に転載

 『ドストエーフスキイ広場』の創刊号に掲載された拙論「ドストエーフスキイのプーシキン観」についてのお問い合わせを頂きました。

その内容はすでにその後に執筆した拙著に組み込んでいると思っていましまたが、調べて見るとまだ完全な形では収録されていないことが分かりました。

1991年の古い論考ですが、『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)から、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を経て、近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』に至る一連の拙著につながる私の問題意識が色濃く出ている論考です。

それゆえ、人名表記などはそのままの形で、ホームページの「主な研究」に転載することにしました(→ドストエーフスキイのプーシキン観――共生の思想を求めて)

 以下に、この論考の「目次」を掲載しておきます。

  *   *

序章        「ねずみ」たちについて

第一章   社会正義を求めて  ーーペトラシェーフスキイ事件まで 

 第一節  『貧しき人々』と『駅長』        

 第二節   「ネワ河の幻影」と『青銅の騎士』

 第三節   「警告するもの」としての良心

第二章   殺すことについての考察 ーー良心の問題をめぐって   

 第一節  「良心」の「自己流の解釈」        

   第二節   『地下生活者の手記』と『その一発』

   第三節   『罪と罰』と『スペードの女王』

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の成立と作家・椎名麟三との往復書簡

はじめに

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

今年5月に行われた「ドストエーフスキイの会」の例会では、「日本浪曼派」が強い影響力を持っていたこの時代の特徴を、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の1934年に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論との関連で明らかにしようとしました。そのためにこの長編小説の重層的な構造に焦点をあてて下記の流れで発表しました*1。

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ  /Ⅰ、「祝典的な時空」と「日本浪曼派」 /Ⅱ、『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法 / Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』/ Ⅳ、アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題 /Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー /Ⅵ、『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服 /終わりに・「オンブお化け」という用語と予言者ドストエフスキー

ただ、昭和初期の日本の特殊性に迫るために時間的な制約から『若き日の詩人たちの肖像』で描かれた人間関係などに絞って考察することになり、堀田善衞と「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡については、まったく触れることが出来ませんでした。

しかし、全集の解説で評論家の本多秋五は、「青春自伝長篇についてのノート」で、『若き日の詩人たちの肖像』について次のように記しています。「第三部に出て来るドストエフスキーの『白痴』に関するくだりや、第四部に出て来る平田篤胤の国学を論じるくだりなどでは、主人公の心境と作者の執筆時現在における思想とを距てる膜が溶解しているように思える。」

作者と同じ時代を生きた本多の言葉を読むと、たしかに長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、単なる昭和初期の回想ばかりではなく、1960年代の日本から見た昭和初期の日本の鋭い分析でもあることが分かります。

しかも、木下豊房氏は椎名麟三が「ドストエフスキーとの出会いとその影響を自ら『ドストエフスキー体験』と称して多くのエッセイで繰り返し語った」と書いています*2。それらのことに留意するならば、1953年に交わされていた往復書簡の意味は極めて重いと思われます*3。

ここでは4通からなる往復書簡と『若き日の詩人たちの肖像』とのかかわりを簡単に検証することにします。

椎名麟三(1953年5月、写真は「ウィキペディア」より)

 

1、椎名麟三の長編小説『邂逅』と堀田の『広場の孤独』

「現代をどう生きるか」と題されたこの往復書簡の第一信で、堀田善衞は、キリスト教の洗礼を受けた後で「自己清算の必要にせまられ、過去の自分と対決するために書かれた」椎名の長編小説『邂逅』についてこう評価をしていました。

「私は御作『邂逅』について、いちばん意義を感じるのは、それが方法的に各人物それぞれの独白の交叉による対話が実現されている点です」。さらに、堀田は「そしてこれら各人の純粋主観としての時間意識は、実は縦にも横にも歴史的な時間意織に浸透されている筈で、この両者の同時成立が、現代の人間のリアリティを保証しているものです」と続けています。

貧しい電気工夫の古里安志を主人公としたこの長編小説では、主人公の父親は工事現場で鉄骨にやられて片足切断に至る重傷を負い死にかけており、朝鮮戦争の緊迫した時期に、共産党員との疑いをかけられて会社を首になりかけた妹のけい子は絶望から自殺を試みるなど「彼等の生活全体が、こわれかかったバラックの感じだった」と評されるような絶望的な状況にあります。

しかし、隣を歩いていた実子に石段から突き落とされた安志は、「暗い星空」を見て、「ユーモアにあふれた神の微笑を感じ」て「思わず笑い出し」、「全くこの石段は危険だ」と感じるのです*4。

彼が実子に怒りをぶつけなかったのは妹・けい子の再就職の手助けをしてくれている実子も深い絶望を抱えていることを知っていたからであり、こうしてどんなに苦しい状況に追い込まれても「微笑」を浮かべながらそれに立ち向かっていく古里安志という人物像は、日本文学における独自な形象だと思えます。

椎名はこの作品に至るまでの歩みについて、「永い酒への耽溺と自己喪失の後に、ドストエフスキーの忠告を唯一の頼りとして、キリストへ自己を賭けた」と「私の文学」という文章で記しています。それはこの作品がドストエフスキーの創作方法、ことに彼が文学に目覚めた『悪霊』におけるキリーロフの描写とも深く関わっていたことを示しているでしょう*5。

往復書簡の第二信で椎名は、朝鮮戦争が勃発した緊迫した時期を背景に、「報道の自由」の問題をとおして新聞記者の主人公の孤独と決断を描き、芥川賞を受賞した『広場の孤独』(1951)に言及しながらこう記しています。

「僕の貴兄に対する共感と尊敬は、この主体的な問題から、この社会へのアンガジュ(引用者注:政治や社会活動に参加すること)を誠実に追及されているということなのです。『広場の孤独』から、広場へのアンガジュを確立されようとしておられることなのです。」 

2、「拷問」についての「不快な記憶」

さらに椎名は「拷問」についての自分の「不快な記憶」についてもこう記します。「あの拷問は、人間にとって許しがたい魔術をもっていました。この世界に於て何が正義であり、何が真実であるかという自分の事実が、しばられた後手を竹刀で強くこじ上げられることによって、簡単にとび超えさせられてしまうのです。」

一方、この手紙を受け取った堀田は、「お手紙を拝見して、私は少し身上話をする必要を感じました。それはあなたの仰言る『不快な記憶に』関することです」と返信で書いています。

『若き日の詩人たちの肖像』でも検挙されて激しい拷問にあった後に転向し、その後で警視庁に職をえていた従兄の話は重要なエピソードをなしていますが、この手紙では従兄の検挙と拷問、そして転向という出来事から受けた激しい衝撃がこう記されているのです。

「私は子供心に深く尊敬していただけに、この経緯にはどうしても納得出来ぬ、今様にいうならば不条理なものを感じ、子供は子供なりに苦しみました。心の硬い大人ならばこういう人を軽蔑することも出来ましょうが、子供の私にはそれは出来ませんでした。いまも私はその人、あるいはそういう人を軽蔑する気持はいささかもありません。」

さらに、自分とキリスト教や音楽、詩との関りについても堀田は具体的に次のように描いていたのです。

「右に述べました事件のあった後、私はキリスト教に凝り(といったらクリスチャンのあなたから叱られるかもしれませんが)、米人宣教師の家でー年ほど暮らしました。が、洗礼はうけませんでした。それから音楽に凝り、耳を悪くして音楽の方は諦め、詩を書き出しました。それが十八歳、あなたが全協で活躍しておいでだった年頃です。(……)十八歳(昭和十一年)で上京して、矢張り政治、あるいは社会的正義、そういうものを遮断した詩を書きつづけました」。

この記述は長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を理解する上でも重要ですが、注目したいのは堀田がここで、「私は私事はなるべくいわないという方針を持っているのですが、この場合仕方がありませんし、出来るだけ簡単にいいます」と記していたことです。

このように見て来るとき、作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡で自分の青春を振り返ったことが、自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を書く大きなきっかけにもなっていた可能性があると思われます。

 一方、この手紙を受け取った椎名麟三は第四信で、「第二の熱情のこもったお手紙を拝見して、現代に生きる困難さを考えずには居られませんでした」と書くとともに、第三信の末尾に記された次のような堀田の言葉に「深い意味を感じました」と記しています。

「私は物の考え方の全的なトータル転換の必要を痛感しているのです。複数のなかの個とか、一とかいう風に自己を分析的に認識するのではなく、複数のなかにありながら同時に複数の要素によって成立ち、しかもなおーとして統一され綜合されている自己、強いて言葉にしてみるなら、そういうようなことになる、そういう自己を見出し築き上げる必要を痛感するのです。」

 そして、「転向者である僕の名誉(!)にかけていいます。あのファッシズムに参加した転向者諸君は、『心で存在を止めた』方々ではなかったのです。彼等は単純にファッシストであったたにすぎないのです」と書いた椎名は、「だから貴兄の転向者に対する絶望は、ファッシズムに対する善意ある抵抗ではなかったのでしょうか」と解釈しているのです。

結語

最期の手紙の末尾近くで椎名は、「元気を出して下さい。貴兄はちゃんと立派な作品を書いておられるではありませんか。そのことによって、ちゃんと『広場』へ参加しておられるではありませんか」と六歳年下の堀田に熱いエールを送っていました。

それは作家としてだけではなくアジア・アフリカ作家会議や「ベトナムに平和を! 市民連合」などの運動にも関わるようになる堀田のその後の活動をも示唆しているでしょう*6。

 こうして、「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡は、堀田に「『白痴』のムィシキンとランボー」についての卒業論文を書いていた頃のことも思い出させて、『白夜』の冒頭の文章が題辞として用いているばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、さらに『悪霊』にも言及されている『若き日の詩人たちの肖像』を生み出すきっかけになったと思えます。

 

*1 「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」」(→ホームページ ドストエーフスキイの会、第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

*2 木下豊房「椎名麟三とドストエフスキー」『ドストエーフスキイ広場』(第12号、2003年)」(→ホームページ 「椎名麟三とドストエフスキー」(木下豊房ネット論集『ドストエフスキーの世界』)

*3 「現代をどう生きるか――椎名麟三氏との往復書簡」『堀田善衞全集』第14巻、筑摩書房、1975年、72~86頁。

*4 椎名麟三「邂逅」『椎名麟三全集』第4巻、冬樹社、1970年、240頁。

*5 「椎名麟三の『悪霊』理解の深さとその意義――西野常夫氏の論文を読んで」(→ホームページ「『悪霊』におけるキリーロフの形象をめぐって))

*6吉岡忍「堀田善衞が旅したアジア」参照。池澤夏樹他著『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社、2019年)所収。(→ホームページ「『若き日の詩人たちの肖像』の重要性――『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社)を読んで

堀田善衞を読む: 世界を知り抜くための羅針盤 (集英社新書)(書影はアマゾンより)

 

 

映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ――国際ドストエフスキー・シンポジウムでの発表を踏まえて

はじめに 

『白痴』の発表から一五〇周年に当たる二〇一八年にブルガリアのソフィア大学で開催された国際ドストエフスキー・シンポジウムの円卓会議では映画《白痴》が取り上げられました。

ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

それゆえ、私はこのシンポジウムでは黒澤映画《白痴》における治癒者としての亀田(ムィシキン)の形象に注目することで、黒澤映画における医者の形象の深まりとその意義を明らかにしようとしました。

実は、黒澤明監督が映画化した長編小説『白痴』でも、シュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されています。ガヴリーラ(香山陸郎)から「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と問い質されたムィシキン(亀田欽司)も、ロゴージン(赤間伝吉)に対してはナスターシヤ(那須妙子)について「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのです。

残念ながら、今回の開催が急遽決まったこともあり千葉大学で行われた「国際ドストエフスキー集会」の時ほどは、黒澤映画の研究者が参加しておらず、映画《白痴》以外の作品についてはあまり知られていなかったようでした。

しかし、円卓会議では黒澤明研究会の運営委員・槙田寿文氏の世界各国の黒澤映画のポスターを集めた展覧会と映画『白痴』の失われた十四分)についての発表がブルガリア語への通訳付きで行われた。また、シンポジウムで「ドストエフスキーにおける癒しの人間学序節――ムィシュキン公爵のイデー・フィクスを軸に」(『ドストエーフスキイ広場』第28号参照)を発表された清水孝純氏の映画《白痴》論の発表も行われ、国際的な場で黒澤映画の意義を広めることができたのは有意義だったと感じています。

発表時間が短くて言及できなかった個所を補いながらシンポジウムと「円卓会議」で行った二つの発表をまとめた論考が、『会誌』41号に掲載されました。以下に、「はじめに」と「国際ドストエフスキー・シンポジウム」についてふれた第一節を省いた形で『会誌』に掲載された論考に一部加筆して転載します。

1,映画《白痴》の意義――『罪と罰』と『白痴』の受容をとおして

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について一八六八年一月一日の手紙で「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです」と記していました。

若い頃からドストエフスキーの作品に親しんでいた黒澤明監督はそのような作者の意図を踏まえて第二次世界大戦の終了から数年後の一九五一年に映画《白痴》を公開して、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩などを主人公の視線をとおして『白痴』の世界を正確に描き出していました。

観客の入りを重視した会社側から大幅な削除を命じられて、作品は二時間四六分に短縮されたために映画《白痴》は、興行的には失敗して多くの日本の評論家からも「失敗作」と見なされました。

しかし、インタビューで黒澤明は次のように語っていました。「この作品は外国ではとても評判がよくて、特にソビエトではとても気に入られているのです。毎年何回か上映するのですが、それでもまだ見たい人があまりにも多くて、まだ見られないという人か随分いるのです」(『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、三四三頁)。

では、日本と東欧圏におけるこのような映画《白痴》の評価の違いはどこにあるのでしょうか。私は黒澤映画《白痴》が文芸評論家・小林秀雄の『罪と罰』や『白痴』の解釈を根底から覆すような解釈を示したのに対し、ドストエフスキー論の権威とされていた小林がこの映画を完全に無視したことが一因だと考えています。

それゆえ、ここでは近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)にも言及しながら、日本における『罪と罰』の受容までの流れをまず確認します。その後で、小林秀雄と黒澤明とのドストエフスキー解釈をめぐる「静かなる決闘」をとおして黒澤における『白痴』のテーマの深化を考察します。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

日本では徳川時代に厳しく弾圧されていたキリスト教が解禁になったのは、ようやく一八七三年のことでした。しかし、日本が開国に踏み切ってからはキリスト教にたいする青年層の知識と理解は増え続けていました。

日本で憲法が発布された一八八九年に、長編小説『罪と罰』を英訳で読んで、殺人の罪を犯した主人公が、「だんだん良心を責められて自首するに到る」筋から強い感銘を受けた内田魯庵は、二葉亭四迷の力も借りて長編小説を訳出したのです。

残念ながら、売れ行きが思わしくなかったこともあり魯庵はこの長編小説の前半部分を訳したのみで終わりましたが、この翻訳から強い衝撃を受けたのが、「『罪と罰』の殺人罪」を著わした北村透谷でした。ここで彼は、「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるようの事なかるべし」と書いて、勧善懲悪的な『罪と罰』論を厳しく批判するとともに、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の危険性を鋭く指摘していました。

一方、『文学界』の同人でもあった親友の島崎藤村は、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究して日露戦争後に長編小説『破戒』を自費出版しました。注目したいのは藤村が、「教育勅語」の「忠孝」の理念を説く校長や教員、議員たちの言動をとおして、現在の一部与党系議員や評論家によるヘイトスピーチに近いような用語による差別が広まっていたことを具体的に描いていたことです。

さらに日本の『罪と罰』論ではあまり重視されていない「良心」の問題も、「世に従う」父親の価値観と師・猪子との価値観との間で苦しむ丑松の心の葛藤をとおしてきちんと描かれていることです。

このような透谷や藤村の「良心」理解の深さには、かれらが一時は洗礼を受けていたこともかかわっていると思われます。なぜならば、キリスト教会でも「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきた際にも、神の代理人としての地位が与えられていた教皇を正面から批判することは許されませんでしたが、権力者が不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が「知」の働きを持つ「良心」に与えられたのです。帝政ロシアにおいても皇帝が絶対的な権力を持っていましたので、それに対抗できるような「良心」の働きが重要視されたのですが、その一方で革命が近づくと「良心」の過激な解釈もなされるようになったのです。

自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かという問題がラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの間で論じられています。そして、それは主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証されており、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」には、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

明治初期の独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験していた内田魯庵や北村透谷、そして島崎藤村たちも、権力者からの自立や言論の自由などを保証し、個人の行動をも決定する「良心」の重要性を深く認識していたといえるでしょう。

なお、『破戒』は一九三〇年にロシア語訳が出版されましたが、黒澤映画《天国と地獄》が公開される前年の一九六二年には、市川崑監督の映画《破戒》が、市川雷蔵が主役の瀬川丑松を、彼の師・猪子蓮太郎を三國連太郎、学友の土屋銀之助を長門裕之、風間志保を藤村志保が演じるという豪華なキャストで公開されました。

破戒

(映画《破戒》、1962年、角川映画。脚本:和田夏十。図版は紀伊國屋書店のサイトより)

黒澤映画との関連で注意を払いたいのは、『罪と罰』のあとで『虐げられた人々』の訳を行い、後にはトルストイの『復活』も邦訳した内田魯庵が、できれば『白痴』も訳したいとの願いも記していたことです。

戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》ですでに『虐げられた人々』のネリー像を踏まえて脚本(ペンネームは「黒川慎」)を書いていた黒澤明が、一九六五年の映画《赤ひげ》でネリー像を掘り下げていることを考えるならば、一九五一年に映画《白痴》を公開した黒澤明のドストエフスキー理解は島崎藤村などの流れに連なっているといえるでしょう。

一方、文芸評論家の小林秀雄は「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と解釈していました。

 さらに、主人公ラスコーリニコフの「良心の呵責」を否定した小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という大胆な解釈を示したのです。

こうして、ムィシキンを「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったラスコーリニコフと結びつけた小林は、ナスターシヤをも「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定し、『白痴』の結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していました。

「殺すなかれ」と語るムィシキンを否定的に解釈したこのような小林秀雄の『白痴』論は、戦争を拡大していた軍部の方針に「忖度」したものだったといえるでしょう。しかし、戦後も自分のドストエフスキー観を大きく変更することはなかった小林秀雄は、その後「評論の神様」として称賛されるようになるのです。

そして、このような小林の解釈を受け入れた亀山郁夫氏も二〇〇四年に出版した『ドストエフスキー ――父殺しの文学』(NHK出版)で、貴族トーツキーによる性的な犯罪の被害者だったナスターシヤがマゾヒストだった可能性があるとし、ムィシキンをロゴージンにナスターシヤの殺害を「使嗾(しそう)」した「悪魔」であると解釈しました。

黒澤もインタビューでは小林にも言及しながら、ナスターシヤ殺害後のこの暗い場面にも言及しています。しかし、映画《白痴》のラストシーンで黒澤は、綾子(アグラーヤ)に「白痴だったのは私たちだわ」と語らせていたのです。

『白痴』では一晩をムィシキンと語りあかしたロゴージンが、裁判ではきわめて率直に罪を認めて刑に服したと記されていることに留意するならば、ドストエフスキーはラスコーリニコフと同様にロゴージンにも「復活」の可能性を見ていたといえるでしょう。つまり、黒澤明は小林秀雄的な『白痴』観を映画《白痴》で映像をとおして痛烈に批判していたのです。

2、映画《白痴》と黒澤映画における「医師」のテーマ

映画《白痴》の前にも黒澤明は小林秀雄のドストエフスキー観を暗に批判するような映画を戦後に相次いで発表していました。

たとえば、終戦直後の一九四六年に黒澤は一九三五年の「天皇機関説事件」の前触れとなった滝川事件を背景にした《わが青春に悔なし》を公開して女性の自立を映像化していました。この滝川事件は、農奴の娘だったカチューシャと関係を持ちながら捨てても、「良心の痛み」も感じなかった貴族ネフリュードフの精神的な甦生を描いた長編小説トルストイの『復活』をとおして、法律の重要性を指摘していた滝沢教授の言説が咎められていたのです。

わが青春に悔なし No Regrets for Our Youth 1946 Opening Kurosawa …

この意味で注目したいのは、『破戒』と『罪と罰』との類似性に言及していた評論家の木村毅がこう書いていたことです。「トルストイは、ドストイエフスキーを最高に評価し、殊に『罪と罰』を感歎して措かなかった。したがってその『復活』は、藤村の『破戒』ほど露骨でないが、『罪と罰』の影響を受けたこと掩い難く、(中略)魯庵が『罪と罰』についで、『復活』の訳に心血を注いだのは、ひとつの系統を追うたものと云える」(『明治翻訳文学集』「解説」)。

実際、日露戦争の時期に『復活』の翻訳を連載した内田魯庵は、この長編小説の意義を次のように記していました。「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

「円卓会議」では黒澤監督がインタビューで言及していた映画《白痴》のシーンだけでなく、《酔いどれ天使》(一九四八)、《静かなる決闘》(一九四九)、《赤ひげ》(一九六五)など医師が非常に重要な役割を演じている映画と、私が『白痴』三部作とも考えている映画《醜聞》(一九五〇)と《生きる》(一九五二)などの六作品から重要な場面を、松澤朝夫・元会員の技術援助と堀伸雄会員の協力で約一一分に編集したものを解説しながら上映しました。

ここではそれらのシーンを簡単な説明を補いながら紹介したいと思いますが、その前に黒澤が盟友・木下恵介監督のために書いた脚本による映画《肖像》(一九四八)の内容を簡単に見ておくことにします。なぜならば、『白痴』ではムィシキンの観察力や絵画論が強調されていましたが、この映画の老年の画家はムィシキンを想起させるばかりでなく、肖像画のモデルのミドリ(悪徳不動産屋の愛人)もナスターシヤを思い起こさせるからです。

たとえば、映画《白痴》で亀田(ムィシキン)は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けていました。肖像画を描こうとした老画家も「でも、どうして、私なんか」と尋ねられると、「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明しているのです。

 しかも、あばずれを装っていたミドリは画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得されます。

「肖像  木下恵介 アマゾン」の画像検索結果

(黒澤明 DVDコレクション 32号『肖像』 [分冊百科] |、書影は「アマゾン」)

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせ、ミドリは結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ」と同じ稼業だった芳子に自立への決意を語ったのでした。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結しているのです。

 同じ年に公開された映画《酔いどれ天使》からは怪我をして駆け込んできたやくざの松永(三船)を医師の真田(志村喬)が治療する冒頭の「診察室」のシーンと、汚物の山やメタンの泡や捨てられた人形が浮いている湿地のほとりに佇む松永が真田から「そいつらときれいさっぱり手を切らねえ限り、お前はダメだな」と説得されたあとで松永が見る悪夢のシーンを紹介しました。

Yoidore tenshi poster.jpg(ポスターの図版は「ウィキペディア」より)

ここで松永は海辺の棺を斧で割ると棺の中に死んだ自分が横たわっているのを見て驚いて逃げ出すのですが、このシーンは松永の最期を予告しているばかりでなく、復員兵の亀田が北海道に向かう船の三等室で夜中に悲鳴をあげ、戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺される場面を夢に見たと赤間に説明する場面にもつながっていると思えます。

「憲法」のない帝政ロシアで農奴解放や言論の自由、そして裁判の改革などを求めていたドストエフスキーは、ペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受け、死刑の執行寸前に「皇帝による恩赦」により生命を救われるという体験をしていました。長編小説『白痴』でもムィシキンはギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? 」と問いかけ、「ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていました。

それゆえ、若きドストエフスキー自身の体験をも重ね合わせた亀田という人物設定は、ドストエフスキーの研究者たちには見事な表現と受け取られたのです。

200px-Hakuchi_poster

(松竹製作・配給、1951年、図版は「ウィキペディア」より)。

一九四九年の映画《静かなる決闘》からは、主人公の医師・藤崎(三船敏郎)が、軍医として南方の戦場で豪雨の中のテントで手術を行う主人公の首筋の汗を衛生兵が拭くシーンから、手袋を取り素手で手術をして指先に傷をつけてしまう場面までを紹介しました。

最初は『罪なき罰』と題されていたこの映画では、この際に悪性の病気をうつされた医師の苦悩を「良心」という言葉を用いて描写しつつ、それでも貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿を描いていました。ことに、婚約者に「自分は結婚できない」と告げた主人公のセリフからは、黒澤監督のムィシキン観が強く感じられるのです。

800px-Shizukanaru_ketto_poster

(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

映画《生きる》からは、余命わずかなことを知った主人公が「メフィストフェレス」と名乗る人物とともに歓楽街を彷徨する場面と、映画《白痴》上映の前にソフィア大学の学生への短い挨拶の際に劇《その前夜》との関連でふれた「ゴンドラの唄」を歌うシーンを流しました。

ことに最初のシーンは余命わずかなことを知り絶望に陥ったイッポリートをめぐる長編小説『白痴』のエピソードが上手に組み込まれていると思われるからです。

生きる(プレビュー) – YouTube

メインテーマの映画《白痴》からは、冒頭の夜の連絡船の場面と、有名な写真館の前での妙子の写真を見つめる亀田に赤間が「どうしたんだ、おめえ涙なんか流して」から「やさしい気持ちになりやがる」と「香山家」で妙子に対して赤間の「じゃあ、百万だ」と競り値を上げる場面から、黒澤明がインタビューでも語っている亀田の「あなたはそんな人ではない」と言われて、性悪女のようなことばかりしていたナスターシヤが、「本当に図星を指されたからにやっと」する場面を紹介しました。

映画《白痴》ラストシーンについてはこの稿の最期に映画《醜聞》(一九五〇)との関連で考察することにしますが、このあとも黒澤明が『白痴』の考察をしていたことは一九六五年の映画《赤ひげ》で明らかでしょう。

すなわち、高熱を出しながらも必死に床の雑巾(ぞうきん)がけをしていた少女おとよを力ずくで養生所に引き取った赤ひげの「この子は体も病んでいるが、心はもっと病んでいる。火傷のようにただれているんだ」というセリフは、『白痴』のナスターシヤについての考察とも深く結びついていると思われます。

safe_image(図像は、facebookより引用)

終わりに

映画《醜聞》ではゴシップ雑誌『アムール』に写真入りで、スキャンダル記事を書かれて裁判に訴えた若い山岳画家の青江(三船敏郎)と有名な声楽家の美也子(山口淑子)が、弁護士の蛭田から裏切られために厳しい状況に追い込まれていく経緯が描かれています。

この内容は一見、『白痴』とは無縁のように見えますが、実は『白痴』でも彼が相続した遺産をめぐってムィシキンに対する中傷記事が書かれ、その裏では弁護士の資格を得ていたレーベジェフが暗躍するという出来事も描かれているのです。しかも、そこでドストエフスキーはレーベジェフを一方的に悪く描くのではなく、産後の肥立ちが悪くて亡くなった母親の赤ん坊をいつも胸に抱いていると描かれている彼の娘ヴェーラ(名前の意味は「信」)がムィシキンのことを真摯に面倒をみる姿も記述していました。

Shubun_poster

(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、図版は「ウィキペディア」による)

実際、小林秀雄はアグラーヤ(綾子)の花婿候補だったラドームスキーをムィシキンの厳しい批判者として解釈していましたが、悲劇の後で彼は変わってムィシキンの病気を回復させようと奔走しただけでなく、ヴェーラとの文通を重ねており。将来二人が結婚する可能性も示唆されていたのです。

映画《醜聞》でも卑劣な弁護士・蛭田の裏切り行為だけでなく、父親が依頼者の青江たちへの背信行為をしているのではないかと心配する娘・正子も描かれていました。この映画からは、重い病気で寝たきりの正子を慰めるためのクリスマス・ツリーが飾られ、オルガンを弾く青江と「聖夜」を歌っている美也子を見ながら、銀紙の冠を頭に載せた正子が幸せそうに笑っている姿を、帰宅した蛭田が障子のガラスごしに覗くというシーンを紹介しました。娘の純真な笑顔を見た弁護士の蛭田は激しく後悔し、娘の死後に行われた最後の公判で自分が被告から賄賂を受け取っていたことを告白したのです。

映画《白痴》では舞台を日本に移したことで、ムィシキンが語るマリーや驢馬のエピソードなど『新約聖書』の逸話が削られていましたが、映画《醜聞》ではクリスマスの「樅の木」や「清しこの夜」の合唱などキリスト教的な雰囲気も伝えられていました。こうして、黒澤明は蛭田の娘・正子の形象をとおしてヴェーラの見事な映像化を果たしているといっても過言ではないように思えます。

さらにイッポリートが、「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも思い起こすならば、黒澤明が映画《肖像》の脚本だけでなく、この映画で山岳画家を主人公として描いているのは、「本当の美」を示す必要性を感じていたためでしょう。

一方、映画《白痴》は綾子(アグラーヤ)が、「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語るシーンで終わっています。

長編小説『白痴』ではアグラーヤが亡命伯爵を名乗るポーランド人と駆け落ちしたと描かれているので、そこだけを見ればこのシーンは明らかに原作とは異っています。しかし、原作の数多くの登場人物の複雑な人間関係をより分かりやすくするために、映画《白痴》では軽部がレーベジェフだけでなく高利貸しのプチーツィンをも兼ねた形で描かれるなどの工夫がされていました。

 そのことに留意するならば、このエピローグで描かれている綾子のセリフはアグラーヤだけでなく、映画《白痴》では省略されていたヴェーラの思いも兼ねていると言えるでしょう。しかし、ラドームスキーをムィシキンの単なる批判者と解釈していた小林秀雄には、黒澤映画の深みは理解できなかったのだと思えます。

「殺すなかれ」と語ったイエスは十字架に磔にされて死にましたが、キリスト教社会でイエスは無力で無残に亡くなった者としてではなく、「本当に美しい」人間としてその「記憶」は長く語り継がれたのです。ドストエフスキーも『白痴』においてムィシキンを「記憶」に長く残る「本当に美しい」人間として描いていたのです。

映画《夢》では、ゴッホとの出会いだけでなく、福島第一原子力発電所の大事故を予告するような「赤富士」のシーンも描かれていることに注目するならば、黒澤監督はムィシキン的な形象を、単に病んだ人間を治癒する者としてだけではなく、病んだ世界を治癒しようとした者と捉えていたといえるかもしれません。

黒澤明が日本においては大胆と思える解釈をなしえたのは、彼が学問的な権威には従属しない映画という表現方法によったことも大きいと思われます。

まもなくドストエフスキーの生誕200周年を迎えるにあたって、ドストエフスキー作品の黒澤明的な解釈が日本でも深まることを願っています。

86l005l

 

黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

映画《白痴》と『椿姫』――ソフィア大学での挨拶

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

混迷の時代と新しい価値観の模索―『罪と罰』の再考察

 もうすぐ「ロシア文学研究」の授業が始まります。

昨年度の講義では国際シンポジウムのテーマともなった『白痴』を中心的に考察しました。西欧文学からの影響も強く見られる作品なので難しいかと思われましたが、思いがけず好評でした。

残念ながら、日本では『白痴』の主人公の一人であるナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定した文芸評論家・小林秀雄の『白痴』解釈がいまだに強い影響力を保っています。

しかし、ロシアもまたキリスト教国であり、西欧の文学から強い影響を受けたドストエフスキーはこの作品でも『ドン・キホーテ』や『椿姫』などに言及しています。それらの作品や『レ・ミゼラブル』との関連をとおしてこの作品を分析するとき、浮かび上がってくるのはパワハラや「噂」などで苦しめられた女性の姿なのです。

それゆえ講義では。黒澤映画《白痴》なども紹介することで、小林秀雄が「悪魔に魂を売り渡して了つた」と批判した主人公のムィシキンは、「殺すなかれ」というイエスの理念を伝えようとしていた若者だったことを明らかにしました。

86l

     *   *

それゆえ、今年も同じく『白痴』を扱おうかとも考えましたが、結局、『白痴』をも視野に入れながら『罪と罰』を中心に考察することにしました。1866年に「憲法」のないロシア帝国で発表された『罪と罰』で描かれている個人や社会の状況は、現代の日本を先取りするように鋭く深いものがあるからです。

たとえば、ドストエフスキーは1862年に訪れたロンドンでは、ロシアの農奴よりもひどいと思われる労働者の生活や発生していた環境汚染を目撃していました。それらの状況は『罪と罰』における大都市サンクトペテルブルグの描写にも反映されているのです。

合法的に行われていた高利貸しの問題が殺人の原因になっていることはよく知られていますが、この長編小説では悪徳弁護士のルージンが述べる現在のトリクルダウン理論に近い考えも、登場人物の議論をとおして厳しく批判されています。

%e3%83%88%e3%83%aa%e3%82%af%e3%83%ab%e3%83%80%e3%82%a6%e3%83%b3%e7%90%86%e8%ab%96(図版はネット上に出回っている絵)。

そして、ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公にナポレオン三世が記したのと同じような「非凡人の理論」を語らせていますが、社会ダーウィニズムを理論的な根拠にした「弱肉強食の思想」と「超人思想」などはすでに当時の西欧社会を席巻しており、後にヒトラーはこの考えを拡大して「非凡民族の理論」を唱えることになるのです。

こうして、19世紀に書かれた『罪と罰』は、時代を先取りし、現代につながるような思想的な問題をも都市の描写や主人公と他者との対話、さらに主人公の夢などをとおして描き出していたのです。

→ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

   *    *

私が『罪と罰』と出会った当時はベトナム戦争が続いて価値が混迷し、日本では反戦を訴えていた過激派が互いに激しい内ゲバを繰り返して死者も出るようになっていました。その一方で激しい言論弾圧も行われていた隣国の韓国では、朝鮮戦争時の日本と同じように、ベトナム戦争による戦争特需が生まれていたのです。

残念ながら最初に『罪と罰』と出会った頃の現在の日本は軍事政権下の韓国の状況に似て来たように見えます。地球の温暖化や乱立する原発などが状況をより難しくしています。

しかし、ドストエフスキーはロシア帝国だけでなく、おおくの西欧初校も抱えていた多くの矛盾を長編小説という方法で考察し、その矛盾に満ちた世界を改善しようとしていました。

→ 三浦春馬が“正義”のために殺人を犯す青年を熱演!
舞台「罪と罰 …プレビュー 2:44

   *   *

また、プーシキンやトルストイの作品などを学ぶことはロシアの歴史や社会を知ることになります。一方、ロシア文学の受容を考察することは、日本の歴史や社会をより深く知ることにもつながります。

ここでは初めての邦訳者・内田魯庵や批評家・北村透谷、そして『罪と罰』を深く研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村など明治の文学者たちの視点で『罪と罰』を読み解くことにより、差別や法制度の問題にも迫ります。

そして、「平民主義者」から「帝国主義者」へと変貌した徳富蘇峰の「教育勅語」観や「英雄史観」にも注目しながら、「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が書いた『罪と罰』の特徴を分析することで、現代にも通じるその危険性を明らかにすることができるでしょう。

    *   *

講義概要

この講義では近代日本文学の成立に大きな役割を果たしたロシア文学をドストエフスキーの『罪と罰』を中心に、ロシア文学の父と呼ばれるプーシキンの作品やトルストイの『戦争と平和』などを世界文学も視野に入れながら映像資料も用いて考察する。

  具体的には比較文学的な手法によりシェイクスピアの戯曲やゲーテの『若きヴェルテルの悩み』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてユゴーの『レ・ミゼラブル』と『罪と罰』との深い関わりを明らかにする。そのうえで『罪と罰』の筋や人物体系の研究の上に成立している島崎藤村の長編小説『破戒』などを具体的に分析することで、近代日本文学の成立とロシア文学との深い関わりを示す。

 さらに、ドストエフスキーとほぼ同時代を生きた福沢諭吉の「桃太郎盗人論」や芥川龍之介の短編「桃太郎」と『罪と罰』の主人公の「非凡人の理論」を比較し、手塚治虫や黒澤明、さらに宮崎駿の作品とのかかわりを考察することで、『罪と罰』の現代的な意義を明らかにする。 (ロシア語の知識は必要としない)。

「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 

 

堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

先ほど、「ドストエーフスキイの会」の例会発表が終わりましたので、配布したレジュメの一部をアップします。

  *   *   *

発表の流れ

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ

a.島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』

b.堀田善衞の島崎藤村観と長編小説『若き日の詩人たちの肖像』

c.『若き日の詩人たちの肖像』と島崎藤村の長編小説の類似点

 1、長編小説『春』における主人公と同人たちとの交友、自殺の考察

 2、明治20年代の高い評価

 3、『破戒』と同様の被差別部落出身の登場人物

 4、「復古神道」についての考察

d.「日本浪曼派」と小林秀雄

 

Ⅰ.「祝典的な時空」と「日本浪曼派」

a.「祝典的な時空」

b.「死の美学」と「西行」

c.大空襲と18日の出来事

d.『方丈記』の再認識

e.『若き日の詩人たちの肖像』の続編の可能性

 

Ⅱ.『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法

a. 卒業論文と「文学の立場」

b.『広場の孤独』と二つの長編『零から数えて』と『審判』

c.「扼殺者の序章」の題辞

「語れや君、若き日に何をかなせしや?」(ヴェルレーヌ)

 

Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』

a. 第一部の題辞

「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。空は一面星に飾られ非常に輝かしかつたので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(米川正夫訳)

b. 河合栄治郎「二・二六事件の批判」

c.主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」

d.「成宗の先生」の家の近くで『白夜』の文章を暗唱した後の考え

e.ナチス・ドイツへの言及

 

Ⅳ.アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題

a. 第二部の題辞

「人を信ずべき理由は百千あり、信ずべからざる理由もまた百千とあるのである。人はその二つのあいだに生きねばならぬ」(アラン)。

「資本主義は、地上の人口の圧倒的多数に対する、ひとにぎりの先進諸国による植民地的抑圧と金融的絞殺とのための、世界体制へとまで成長し転化した。そしてこの獲物の分配は、世界的に強大な、足の先から頭のてつぺんまで武装した二、三の強盗ども(アメリカ、イギリス、日本)の間で行なはれてゐるが、彼らは自分たちの獲物を分配するための、自分たちの戦争に、全世界をひきずりこまうとしてゐるのだ。」(レーニン)

b. レーニンへの関心の理由

c.留置所での時間と警察の拷問

d.ほんとうの御詠歌と映画《馬》

e.アランの『裁かれた戦争』の訳と小林秀雄の戦争観

f.詩人プラーテンの「甘美な詩句」と小林秀雄訳のランボオの詩句

g.小林秀雄訳のランボオ『地獄の季節』の問題点

h.「人生斫断家」という定義と二・二六の将校たちへの共感

 

Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー

a.第三部の題辞

「むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ」(『伊勢物語』作者不詳)。

「かくて誰もいなくなった」(アガサ・クリスティ)

b.時代を象徴するような題名と推理小説への関心

c.美しい『夢の浮橋』への憧れ

d.遺書としての卒業論文

e.真珠湾攻撃の成果と悲哀

f.小林秀雄の耽美的な感想

g.「謎」のような言葉

h.ムィシキンとランボーの比較の意味

i.長編小説における『悪霊』についての言及と小林秀雄の「ヒットラーと悪魔」

 

Ⅵ.『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服

a.第四部の題辞

「羽なければ空をもとぶべからず。龍ならば雲にも登らむ。世にしたがへば、身くるし。いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし、たまゆらも、こころをやすむべき。」(鴨長明、『方丈記』)

「陛下が愛信して股肱とする陸海軍及び警視の勢力を左右にひつさげ、凛然と下に臨み、身に寸兵尺鉄を帯びざる人民を戦慄せしむべきである。」(公爵岩倉具視)

b.アリャーシャの『カラマーゾフの兄弟』論と「イエス・キリスト」論

c.国際文化振興会調査部での読書と国学の隆盛

d.「復古神道」とキリスト教

e.小林秀雄の『夜明け前』観と「近代の超克」の批判

f. 出陣学徒壮行大会での東条首相の演説と荘厳な「海行かば」の合唱

g.国民歌謡「海行かば」と保田與重郎の『萬葉集の精神-その成立と大伴家持』

h.審美的な「死の美学」からの脱出と『方丈記』の再認識

 

終わりに・「オンブお化け」と予言者ドストエフスキー

a.ドストエフスキーとランボーへの関心

b.『若き日の詩人たちの肖像』における「オンブお化け」という表現

「死が、近しい親戚か、あるいはオンブお化けのようにして背中にとりついている」

「未来は背後にある? 眼前の過去と現在を見抜いてこそ、未来は見出される」(『未来からの挨拶』の帯)。

c.過去と現在を直視する勇気

 

主な参考文献と資料

高橋誠一郎『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』

――「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」『広場』

 ――狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって(『世界文学』第122号、2015年12月)

――小林秀雄のヒトラー観、「書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって〕など。

『堀田善衛全集』全16巻、筑摩書房、1974年

堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』

竹内栄美子・丸山珪一編『中野重治・堀田善衞 往復書簡1953-1979』影書房

池澤夏樹, 吉岡忍, 宮崎駿他著,『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』集英社

橋川文三『日本浪曼派批判序説』、講談社文芸文庫、2017年。

福井勝也「堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future)」他。

山城むつみ「万葉集の「精神」について」など、『文学のプログラム』講談社文芸文庫、2009年。

ケヴィン・マイケル・ドーク著/小林宜子訳『日本浪曼派とナショナリズム』柏書房, 1999

松田道雄編集・解説『昭和思想集 2』 (近代日本思想大系36) 筑摩書房, 1974

鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』

鈴木昭一「堀田善衛諭――「審判」を中心として」『日本文学』16巻2号、1967

黒田俊太郎「二つの近代化論――島崎藤村「海へ」・保田與重郎「明治の精神」、鳴門教育大学紀要、『語文と教育』30観、2016年

中野重治「文学における新官僚主義」『昭和思想集』

井川理〈詩人〉と〈知性人〉の相克 ―萩原朔太郎「日本への回帰」と保田與重郎の初期批評との思想的交錯をめぐって」、『言語情報科学』(14)

映画《白痴》と『椿姫』――ソフィア大学での挨拶

はじめに

私が『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社)を出版したのは、2011年のことでしたが、その後、相沢直樹氏の『甦る『ゴンドラの唄』── 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』(新曜社、2012年)と「黒澤明の映画『白痴』の戦略」が付論として収められている清水孝純氏(九州大学名誉教授)の『白痴』を読む――ドストエフスキーとニヒリズム』(九州大学区出版会、2013年)が相次いで出版されました。

黒澤明で「白痴」を読み解く甦る「ゴンドラの唄」『白痴』を読む

このことを踏まえて2013年10月28日にホームページの「映画・演劇評」の頁に書いた記事ではこう記しました。

「日本では不遇だった黒澤映画《白痴》が甦り、映画《生きる》とともに力強く世界へと羽ばたく時期が到来しているのではないかとの予感を抱く。」

劇中歌「ゴンドラの唄」が結ぶもの――劇《その前夜》と映画《白痴》

  それゆえ、2018年にブルガリアで開催される国際ドストエフスキー・シンポジウムで、映画《白痴》の「円卓会議」が開かれることになったことを知った際には、私の予感が当たったように思えて、少し無理をしてでも参加することにしました。

幸い、日本からは清水孝純先生や黒澤明研究会幹事の槙田寿文氏も参加されて、盛り上がった会議となり、映画《白痴》の上映会も開かれた。その際に行った短い挨拶の文章が『異文化交流』に掲載されたのでここに転載します。

   *    *

今年(2018年)の10月23日から26日までブルガリアの首都ソフィアで、ブルガリアの科学アカデミー、国立文学博物館などの共催による「国際ドストエフスキー・シンポジウム」が開かれ、黒澤明監督の映画《白痴》の円卓会議も開かれました。

 東海大学の交換留学生としてソフィア大学などで学んだことが、円卓会議につながったことに深い感慨を覚えるとともに、語学学習の重要性も改めて感じました。ソフィア大学での映画《白痴》上映の前に語った挨拶の言葉を、一部、分かり易いように内容を補ったうえで、以下に掲載します。

ブルガリア、ソフィア大学(ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 

親愛なる学生のみなさん

この度、皆さんに黒澤明の映画《白痴》についての紹介をすることが出来るのはたいへんな喜びです。私がほぼ半世紀前にソフィア大学で学んだ際にはブルガリアについては日本ではまだ広く知られていませんでしたが、モスクワ大学に留学していたブルガリア人の若者を描いたツルゲーネフの『その前夜』を読んだことで、この国のことについては知っていました。

そして著名な黒澤明監督もこの小説のことをよく知っていたと思われます。なぜならば、日本の「芸術座」がこの劇をすでに1915年に上演していたからです*1。注目したいのは、『その前夜』においては、ブルガリアの若者インサーロフと結婚したエレーナがヴェネツィアで聞いたヴェルディのオペラ《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》の印象も詳しく描かれていたことです。

日本における『その前夜』の上演に際しては主演女優が歌った「ゴンドラの唄」はたいへんヒットしましたが、黒澤明監督は映画《白痴》の次に撮った映画《生きる》で主人公にこの歌を二度歌わせています*2。

しかも、長編小説『白痴』においてもナスターシヤはトーツキーを「椿紳士」と呼んでいましたが、この長編小説における『椿姫』の重要性を理解していた黒澤監督は、綾子(アグラーヤ)に、「椿姫」という単語を用いて、妙子(ナスターシヤ)を「あなたは椿姫を気取っている」と非難させることで、妙子(ナスターシヤ)がなぜ絶望的な行動へと駆り立てられたかを見事に示唆していたのです。

残念ながらこの映画は、会社側の意向で半分に切られてしまいましたが、映画《サクリファイス》を撮ったロシアの監督タルコフスキーは、この映画を『白痴』のもっともすぐれた映画化であると記していました。

 みなさんがこの映画を満喫されることを願っています。

 ご清聴ありがとうございました。

 

*1 芸術座については、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、2014年参照。

*2 相沢直樹『甦る『ゴンドラの唄』── 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』新曜社、2012年。

   (『異文化交流』第19号、2018年、164~165頁より転載、10月2日、改題)

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

 

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(5)――『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

5、『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

前回で一応の区切りにしようと思っていましたが、やはり大空襲にあった後での『方丈記』の再発見が「死の美学」の克服につながったことにもふれておくことにしました。

堀田が卒業論文「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を急いで書き上げたことについては前回も触れましたが、「卒業論文を書く、卒業をするということは、それはすでに兵役に行くということであり、その人生の中断がそのまま死につながるということ」でした。

『若き日の詩人たちの肖像』では登場人物の「汐留君」が、「卒業論文のことがきっかけとなり、まことに堰(せき)を切ったように」、『伊勢物語』にふれながら「身をもえうなきもの(用なき者)と思い捨てたあの人の気持ちに、自分がほんとうになれないなら、詩なんか止しゃいいんだ。それが詩人の覚悟ってものだよ」と語りだしたのは、当時の日本において卒業論文とは遺書のようなものだったからです。

えうなきこととして、本当は思い捨てているからこそ、定家のあの歌のはなやぎとあそびが、本当に夢の浮き橋のようにしてこの世の上に架かるんだ。新古今に架かってる、あの夢の浮き橋の、そのために支払われている痛切なもののわからん奴なんか、そんなもんビタ一文の値打ちもないんだ。身をもって支払わなきゃならんのだよ。現実なんかビタ一文の値打ちもないよ!」(太字の個所は原文では傍点)。

そして、この言葉を聞いた若者は、平安末期、鎌倉初期の藤原定家の日記である「『明月記』に語られていた怖ろしいほどな乱世に、どうしてあんなにも、まったくウソのように美しい『夢の浮稀』なんぞが架橋されえたものか、それらのことまでがいっぺんでわかったような気がした。それは、これからの乱世を生きて行くについて、まことに決定的な指針を与えられたような気」がしたのでした。

こうして、召集が近づくなかで、戦争が続き災害も起こっていた暗い中世の詩人たちの研究にも没頭し、卒業後に国際文化振興会調査部に就職した主人公は、そこで「平安朝末期の怖るべく壮烈な乱世と、たとえば新古今集などにあらわれている不気味なほどに極美な美学との関連についての原稿を書きはじめ」、書きあがった原稿を「明治元勲のお孫さんの副部長を通して、元の駐英大使の坊ちゃんである批評家」に見てもらうと雑誌にのることになったのです。

 それが同人誌『批評』に掲載された「ハイリゲンシュタットの遺書」や連載「西行」などの文章なのですが、『若き日の詩人たちの肖像』で「富士君」のあだ名で登場する作家の中村真一郎は堀田の文章を論じつつ、満州事変から太平洋戦争の時期の若者の死生観がわずか5歳ほどの間隔で全く異なっていることをこう指摘しています。

「兄の年代の人たちにとっては、毎日は生の連続であり、何を計画するにも、一応、死というものは遠い未来のことであった。もし死が彼等を脅やかすとすれば、それは外部から理不尽に、生を遮るものとしてやってくるもの――たとえば官憲の干渉――であった。」

「いとおしむべき確実な生と、残酷にそれを吹き消そうとする死との、この対立は、私たちに直結する次の年代の人たちがやがて戦後に発表しはじめた文章にも見られない。私には、私たちの次の年代の人たちは、生と死との対立に対する驚きはもう失ってしまって、死と戯れることで恐怖から遁れ出ているように見えた。」

そして、堀田の「未来について」というエッセーを引用して、「あの昭和ふた桁の二十歳にとっては、(……)そのおぞましい死を超克するものとして、芸術、美があったのである」と説明しているのです。

『堀田善衞全集』の編者・栗原幸夫も「西行」について論じつつ、「時代は、日本の敗色歴然としてはいても、いや、それだからこそますます狂的におしすすめられる戦争と神懸かり的な狂信の時代でした。この時代の基調となる色彩は『死』」であったことを指摘して、こう続けています。

「これらの作品には日本浪曼派ふうの、というより保田輿重郎の文体の影響が歴然としています。(……)今日、『西行』というこの未完の作品を読んでみると、作者は(……)むしろ天皇制に身を投じているという趣の方がつよく感じられます。」

しかし、堀田が「私たちの年代の課題を正に生きつづけながら、私たちの年代を今や突破して、より普遍的なところへ出て来ている、といってもいい」とし、彼の「独自な経験」を描いてみせるのが『方丈記私記』である」と記した中村と同じように、栗原も次のように『方丈記』の大きさを指摘しています。

「当時、一種の流行現象として青年たちを捉えていた日本浪曼派の審美的な『死の美学』から自力で脱出した時、堀田善衞は間違いなく『戦後』を担う作家への道を歩みだしたのです。そしてこの堀田青年の内部の変貌は、おそらく戦争の末期、というよりも戦争の最後の年のごく短い時間のうちにおこったのだったろうと、私には思われます。」

堀田善衛、方丈記私記、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(4)――「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(4)――「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が出版されたのは、元号が慶応から明治に改元された1868年10月23日から100周年となるのを記念して日本政府主催の「明治百年記念式典」が盛大に挙行された昭和43年のことでした。

佐藤栄作首相の時に行われたこの式典の準備会議・広報部会には林房雄も参加していましたが、「日本浪曼派」の保田與重郎は昭和18年(1943)に新聞に寄稿した小論では「明治の精神」を「その源に於いて『尊王攘夷』を根底としたものをさす」と定義して、「天誅」の名前で行われていた幕末のテロや自国を絶対化する「正義」の戦いを肯定していました。

この意味で注目したいのは、日本文化を重んじて物質より精神を重視する皇道派の影響を受けた陸軍青年将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに起こした昭和11年(1936)の2・26事件の背後関係や影響も『若き日の詩人たちの肖像』で描かれていることです。

すなわち、この事件の前年に起きた相沢事件――統制派の中心人物・永田鉄山陸軍省軍務局長の殺害事件――についても、皇道派の中心人物とされていた真崎甚三郎大将の息子である学友Mとの交友に関連して言及されています。

『ファッシズム批判』などの著作が1938年に発売禁止となり、翌年には休職処分とされて起訴された河合栄治郎・東京帝国大学教授の「二・二六事件の批判」(帝国大学新聞)や軍国主義と「国体明徴」運動を批判して伏字ばかりの文章となっていた『中央公論』の巻頭論文も詳しく紹介されているのです。

こうして、第一部の終わり近くでは主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」が起きます。それはラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公が、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出た主人公は、それまで学んでいたドイツ語を捨てて新たにフランス語の勉強を始めて、法学部政治学科から仏文科に転科することになるのです。

その後で作者は、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見た「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書いています。そして、題辞でも引用していた『白夜』の冒頭の文章「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた(後略)」(米川正夫訳)を引用した堀田は、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明しています。

それまで主人公を「少年」と記していた作者がここで主人公を「若者」と呼び変えたことや『白夜』を書いたドストエフスキーがハンガリー出兵の前に起きたペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受けた後でシベリアに送られていたことを思い起こすならば、ゲッベルスの演説から受けた「異様な衝撃」の大きさが感じられるでしょう。第一部はこう結ばれています。「水平線を見詰めて、下宿を引っ越そう、と若者は考えていた。」

さらに第2部でも、「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に二・二六事件のときの首謀者中の首謀者であったI(注:モデルは磯部浅一)という男の未亡人が住んでいた」と記され、彼女が「夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたIの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させよう」としていたことも描かれているのです。こうして、「二・二六は最終的な落着におちつくまで接着してはなれなかった」と描かれているように、この事件は強い影を長編小説全体に投げかけています。

つまり、この事件の首謀者は非公開で弁護人なしという特設軍法会議で裁かれ処刑されましたが、それによって軍部における統制派の権力は強まり、また国粋的な「尊王攘夷思想」も広がるという結果を生んだのです。『ファッシズム批判』を1934年に発行していた自由主義知識人・河合栄治郎の2・26事件についての記述はその後の日本の政治の流れをも示唆しているといえるでしょう。

治安維持法のもとで左翼だけでなく自由主義者の若者たちが次々と逮捕され、あるいは戦死していったことが描かれている第2部では、ゲッベルスの演説の後で聞いたシャンソンからフランス語への関心を強めた若者が、仏文科に転科するまでの過程が詳しく描かれています。そして第3部では小林秀雄の『白痴』解釈を否定するような主人公のムィシキン観が記されていますが、開戦直前に定められた「大学学部等の在学年限又は修業年限短縮に関する件勅令要綱」によって3年生の9月で卒業させられることになった堀田は急いで書き上げた卒論で、「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を考察することになるのです。

少し、先を急ぎましたが、ヴェルレーヌの詩集の英語との対訳をまず買った若者は(上、177頁)、英語で書かれたフランス語の文法書を古本屋で買い求めて、仏語の私塾の中等科に強引に入ってフランス語の習得に専念し、仏蘭西文学科の「白柳君」(モデルは白井浩司)から模擬試験を受けました。

その時に出された問題が哲学者アランのMars ou la guerre jugée (1921年, 邦題『裁かれた戦争』)の一部で、その個所を見た若者が「ここには恐ろしいような真理がずばりと書き抜いてある」と感じながら訳出すると、白柳君は「もう仏文に来ても大丈夫だよ」と告げるとともに次のように語ったのです。

「これね、翻訳あるんだけど、その翻訳ね、翻訳じゃないんだ、検閲のことを考えて、一章ごっそりないところや、削ったところなんか沢山あって、あれ翻訳じゃないんだけど、小林秀雄さんがあの翻訳のこととりあげて、良い本だ、っていうらしいことを書いていたの、あれいかんと思うんだけど……」

 それは次のような文章でした。「……人が宿命論を信ずれば、それだけで宿命は本物になってしまう。(……)いっそう明白なことは、民衆の全体が戦争が不可避だと信じれば、現実にそれはもう避けがたい。あまり人がしばしば通った道ではないが、辿る(たど)るのにそうむずかしくはない道がある。それは戦争を避けることが出来るということが真実になるためには、まず戦争が避け得ると信ずる必要があるという結論に到達するための道筋である。」

その訳を聞くと白柳君は、「いま君が訳した、戦争のところなんか、あの翻訳じゃ素通りだよ。その翻訳だと、戦争も生活の一つだ、地道に立向かって行け、ってことになるんだ、逆なんだ、本当は小林さんはこの原書を読んでないってことはないと思うんだけど」と語ったのです。

小林が2・26事件が起きた昭和11年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセーで、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書くとともに、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」とも記していたことを想起するならば、先の記述はアランの『精神と情熱とに関する八十一章』を大正6年に邦訳していた小林秀雄の戦争観に対する鋭い批判となっているでしょう。

しかも、皇紀2600年が祝われた昭和15年に鼎談「英雄を語る」で、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と作家の林房雄から問われて「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と楽観的な説明をした小林秀雄は、昭和17年には日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していたのです。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の主人公が仏文科に転科への決意をしたのは、昭和15年秋のことでしたが、そこでは白柳君との会話などをとおして、日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」が、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことなどが記されています。

この長編小説ではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説が主人公の重要な転機になっていましたが、1933年1月にナチスが政権を握ったドイツでは「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われるようになり、5月10日のユダヤの知識人の書物を大量に焚書にした際にもゲッベルスが扇動的な演説をしていたのです。

(ナチス・ドイツの焚書)

ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックの本も彼がユダヤ人であったために焚書の対象とされましたが、彼の著書『人権宣言論』を1906年に訳出していたのが「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられることになる美濃部達吉だったのです。

そのために、1933年に相次いで国際連盟を脱退していた日本とドイツは、孤立を防ぐために相互の提携を模索して、2・26事件が起きた1936年の11月には日独防共協定が結ばれ、1940年9月には日独伊三国同盟が結ばれることになるのです。

仲良し三国

(「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書。写真は「ウィキペディア」より)

こうして、ナチス・ドイツへの接近の機運が日本で高まると美濃部の著書や学説は目障りとなり排斥された一方で、ドイツ国民のバイブル扱いを受けて終戦までに1000万部を売り上げたとされるヒトラーの『我が闘争』の訳はすでに1932年に内外社から『余の闘争』と題して刊行され、それ以降も終戦までに大久保康雄訳(三笠書房、1937年)、真鍋良一訳(興風館)(ともに日本の悪口を書いてある部分を削除しての出版)の訳などが刊行されました(「ウィキペディア」の記述などを参考にした)。

そして、小林秀雄も室伏高信訳の『我が闘争』(第一書房、1940年6月15日)の書評でヒトラーをこう讃美していたのです。「彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる。/これは天才の方法である。僕は、この驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた。」(太字は引用者)

問題はこのような記述をしていた小林秀雄が、戦後に「評論の神様」として復権するとアメリカとの安全保障条約で1960年5月に『文藝春秋』に掲載された「ヒットラアと悪魔」というエッセーでは『悪霊』にも言及しながら戦時中に書いた『我が闘争』の書評の内容を一部書き換えながら詳しく再掲し、「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎に招かれて「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会で5回も講演していたことです

一方、『文学界』だけでなく『日本浪曼派』の同人にもなり、小林などとの鼎談で「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」と「一億玉砕」を美化するような発言をしていた林房雄も、「大東亜戦争肯定論」という題名で先の戦争を肯定する評論を『中央公論』に1963年から16回にわたって連載していたのです。

堀田善衞は復権した岸首相が「満州国の高級官吏」であったことを指摘して、1960年の事態を権力の「痙攣(けいれん)」と呼び、「自民党主流というものが満州事変以来」の「昭和史をむき出しのままで」うけついでいることがはっきりしたと書いていましたが(「新しい日本の出発点」)、元A級戦犯だった岸信介首相が結んだ「新安保条約」と「日米地位協定」では、後に明らかになるように施設の提供だけでなくアメリカ軍の特権も定められていました。

それゆえ、「マチネ・ポエティクス」の詩人の中村真一郎や福永武彦とともに堀田が書いた映画《モスラ》の原作『発光妖精とモスラ』では、当時の日本の政治状況を反映してネルソンが「外交特権でケースを開けさせずに小美人を連れ去った」ことも描かれていたのです。

Mosura trailer - Mothra airport.png

その一因としては、反核的な要素も強い映画《ゴジラ》の後で映画《モスラ》を公開した本多猪四郎監督の戦争観も反映されていると思えます。彼は二・二六事件の際に将校に率いられた反乱部隊に所属していたために満州に送られ、軍に再召集されるなど苦労をしていたのです。

原作『発光妖精とモスラ』の著者の一人・堀田善衛が一九六〇年春に「私はつくづくと、ほとんど自分のこれまでの全生涯をさかのぼって再体験をするような思いにかられた」とも書いていることに留意するならば、復活した岸首相や「昭和維新」の再評価についての考察が、自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の構想につながっていることはたしかだろう。

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(2019年5月1日、5月3日、青い字を加筆し最後の個所を次回に移動。リンク先と写真を追加、6月21日誤字を訂正)