高橋誠一郎 公式ホームページ

『破戒』

ロシア帝国の教育制度と日本――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』から『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』へ

59l「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

ニコライ一世治下の帝政ロシアでは、ロシアの貴族にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を「ロシアの理念」として国民に徹底しようとした「ウヴァーロフの通達」が1833年に出されていました。

このような時代に青春を過ごした若きドストエフスキーは初期作品で、権力者の横暴を抑えるための「憲法」の意義や言論や出版の自由の必要性、さらには金持ちのみを優遇する「格差社会」の危険性などを、「イソップの言葉」で説いていました。

『貧しき人々』に始まるこれらの作品を分析することにより、日本における「憲法」や「教育」の問題を考察しようとした拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章では、検閲の問題と芥川龍之介の自殺との関連にも注意を払いながら、『白夜』からの引用がある堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』に注目することで、昭和初期の日本の状況とクリミア戦争直前の帝政ロシアの状況との類似性を明らかにしました。

たとえば、昭和一二年に文部省から発行された『国体の本義』では、大正デモクラシーを想定しながら、その後も「欧米文化輸入の勢いは依然として盛んで」、「今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起」したとして、これらの混乱を収めるべき原則として『教育勅語』の意義が強調されたのです。

さらに『国体の本義解説叢書』の一冊として文部省教学局が発行した『我が風土・国民性と文学』と題する小冊子では、「ロシアの理念を強調した「ウヴァーロフの通達」と同じように、「日本の国体」においては、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」ことを強調していました。

 それゆえ、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』を書き上げた後では、芥川龍之介の自殺の問題も描かれている堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』を詳しく考察することで、昭和初期に書いた「『罪と罰』についてⅠ」などの評論や『我が闘争』の書評で当時の若者や知識人に強い影響を与えていた小林秀雄のドストエフスキー論の問題点を明らかにしたいと考えました。

しかし、幕末だけでなく昭和初期に再び強い勢力を持つようになっていた平田篤胤の「復古神道」について理解が乏しかったために、その構想は先延ばししなければなりませんでした。

ようやく前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』で、明治の文学者たちの視点で差別や法制度の問題、「弱肉強食の思想」と「超人思想」などの危険性を描いていた『罪と罰』の現代性に迫りました。さらに、『罪と罰』の人物体系や内容を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書いただけでなく、『夜明け前』では平田篤胤没後の門人となって古代復帰を夢見た主人公の破滅にいたる過程を描いた島崎藤村の作品を分析することにより、明治政府の宗教政策や昭和初期の「復古神道」の問題をも考察することができました。

こうして、芥川龍之介の自殺と堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』との関連を論じることのできる地点までようやく来ましたので、次の著書『堀田善衞と小林秀雄――「若き日の詩人たちの肖像」を読み解く』(仮題)ではこの問題を正面から論じることにします。

そのためにも、徳富蘇峰の「教育改革」論の後で生じた事態を、芥川龍之介の自殺と堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』との関連をとおして考察した箇所を、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』から、「主な研究」に転載することにより確認することにします。(引用に際してはわかりやすいように、一部改訂を行いました。)

芥川龍之介の自殺と『若き日の詩人たちの肖像』――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章より

「ラピュタ」6、「腐海の森」から「生命の樹」へ――「科学と自然」と「非凡人と凡人」の関係の考察

「天空の城ラピュタ 画像」の画像検索結果(画像は matome.naver.jp より)

 『風の谷のナウシカ』(1984)における圧倒的な存在感のある「腐海の森」のテーマは、「高度に進んだ科学と自然」との関係を問いただすものでした。この映画では夢の中でナウシカが子供の頃に戻って、「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれています。

このシーンを見て連想したのは、近代西欧の「弱肉強食の思想」から強い影響を受けた『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが「非凡人の理論」を編み出して、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」を殺害しようと計画を練りはじめた頃に見た「やせ馬が殺される夢」のことでした。そこでも夢の中で子供に戻った主人公は、やせ馬を「殺さないで」と叫んでいたのです。『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフは「人類滅亡の悪夢」を見て、その夢がきっかけとなり「非凡人の思想」の危険性を理解するようになることが示唆されています。

一方、『風の谷のナウシカ』の最期のシーンでナウシカは「怒り」のために走り出した王蟲の群れによって「風の谷」の住民が全滅しようとするところに、自分の身を顧みずに自分が助けた「王蟲の子供」とともに降り立つという献身的な行動をとるのです。

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

宮崎駿はこのシーンに、「国家」のために「特攻」することで「神」となるような「美しい物語」とは異なり、深い傷を負ったナウシカが王蟲たちによって癒され、復活するという『罪と罰』のエピローグ的な構造を与えています。(『罪と罰』の場合は肉体的な傷ではなく精神的な傷ですが、それでも致命傷に近い精神的な傷から長い時間をかけて蘇ることになるのです)。

 『天空の城ラピュタ』には『風の谷のナウシカ』で描かれていた「腐海の森」は欠けていますが、その代わりに徐々に「生命の樹」のテーマが姿を現してくることになります。

 龍の巣と呼ばれる嵐を乗り越えてラピュタに上陸した主人公のパズーとシータが、灌木をかき分けていくと中央にそびえる天まで届くような巨木に出会います。それでも最初のうちは「生命の樹」のテーマはパズーが必死で掴まる根っこの形で示されるに過ぎません。

 しかし、自分以外の者を「バカども」と見下すムスカが「王族しか入れない聖域」にまで入り込んでいた木の根を見て「一段落したら全て焼き払ってやる」と語るところから「科学と自然」と「非凡人と凡人」のテーマが明確に現れてきます。

 たとえば、「素晴らしい! 700年もの間、王の帰りを待っていたのだ!」と語ったムスカはその一方で、「素晴らしい!!最高のショーだとは思わんかね」と問いかけ、ラピュタから落ちていく兵士たちを見ながら「あっはっは、見ろ。人がゴミのようだ」と楽しそうに語るのです。

 さらに、「これから王国の復活を祝って、諸君にラピュタの力を見せてやろう」とし、旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の火」である「ラピュタの雷(いかずち)」を見せて、「全世界は再びラピュタの元にひれ伏すことになるだろう!」と語ります。

すると、恐怖心から「すばらしい、ムスカ君。君は英雄だ。大変な功績だ」と急に態度を一転させた将軍に対しても「君のアホづらには、心底うんざりさせられる」と続けたのです。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 このようなムスカの言葉は、「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定していた『罪と罰』のラスコーリニコフの言葉を想起させます(三・五)。しかも彼も自分の望みを「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」とも語っていました(四・四)。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーはラスコーリニコフに、自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

 一方、フランス文学者の鹿島茂氏は小林秀雄がランボーを「人生斫断家(しゃくだんか)」と定義していたことに注目して、「斫断」というのは辞書にはないので「同じ意味の漢字を並べて意味を強調する」ための造語で、「いきなりぶった切る」という意味を出したかったのではないかと記しています。

 そして鹿島氏は、「昭和維新」を熱心に論じあい、「斎藤実や高橋是清を惨殺した二・二六の将校」と、小林が「その深層心理ないしは無意識において」は、「それほどには違っていなかったのではあるまいか?」と推定しています。きわめて大胆な仮定ですが、「いきなりぶった切る」という意味の「斫断」という単語は、「一思いに打ちこわす、それだけの話さ」と語り、「いやなによりも権力だ!」と続けていたラスコーリニコフの言葉を想起させるのです。

ドーダの人、小林秀雄

 小林秀雄が1940年に書いた『我が闘争』の短評でヒトラーの思想を賛美したことも鹿島説の正しさを示していると思えます。こうして、青年将校たちが「昭和維新」を熱心に論じあっていた頃に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論は、若者たちに強い影響を及ぼしました。たとえば、ドストエフスキーの作品論をとおして「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と主張した堀場正夫は、著書『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』(白馬書房、昭和一七年)の「序にかえて」で日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美しました。そして、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎える直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であった」と記して、それまでの平和な時代を罵っていたのです。

 しかし、『罪と罰』の中心的なテーマである「良心」の問題などは無視して、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈した小林秀雄の評論は、自分に引き付けた原作とは正反対のテキスト解釈でした。

 その解釈には――1,作品の人物体系や構造を軽視し、自分の主観でテキストを解釈する。 2,自分の主張にあわないテキストは「排除」し、それに対する批判は「無視」する。 3,不都合な記述は「改竄」、あるいは「隠蔽」する――などの特徴があります。

 しかし、権力者によって都合がよかったためにその評論は戦後も影響力を保って、「評論の神様」と奉られるようになったことになった小林秀雄は、1960年の「ヒットラーと悪魔」でも大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用に注目しながら再び『我が闘争』について詳しく論じました。

作家の坂口安吾は小林秀雄のことを「教祖」と呼びましたが、小林はヒットラーと悪魔」を書いた翌年からは「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎に招かれて「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会で本居宣長などについて5回も講演を行い、それらの講演の後では青年たちとも「対話」も行われていたので、そこからは「日本会議」系の論客も育っていました。

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しかし、邦訳を行った内田魯庵ばかりでなく、北村透谷や島崎藤村など明治の文学者たちは特定の個人に焦点を当てて解釈するのではなく、登場人物の人物体系や全体的な筋の流れを踏まえて『罪と罰』を精緻に分析していました。

明治の文学者たちと同じように宮崎駿のアニメを読み解く際にも、登場人物の人物体系や全体的な筋の流れを踏まえて鑑賞することが必要だと思えます。

 『天空の城ラピュタ』では、パズーが「このままではムスカが王になってしまう。…略奪より、もっとひどいことが始まるよ!」と語って「非凡人の思想」を厳しく批判すると、「飛行石を取り戻したって、わたしどうしたらよいか」と悩んだシータが思い出したのが「滅びの呪文」だったのです。 

 そして、ムスカに「国が滅びたのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ」と告げたシータは、「ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。 『土に根をおろし、風と共に生きよう(中略)』 どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!」と続けています。

小林秀雄の『罪と罰』論の手法は、安倍政権による国会の議論の手法や公文書の改竄と隠蔽にも共通していると思えますが、「ラピュタのいかずち」による巨大な雲の形は明らかに原水爆の非人道性を示しています。

二度の原爆投下だけでなく水爆実験の被害にもあったにもかかわらず、身内の者のみを優遇していまだに「核兵器禁止条約」の批准も拒み、原発の推進を行っている政治家たちの前近代な「道徳」観や「公共」観の危険性を『天空の城ラピュタ』は、30年以上も前に予告していたと言えるでしょう。

こうして、科学技術の過信や「最終兵器」が世界を滅ぼすという『風の谷のナウシカ』から一貫して描かれているテーマとともに、「非凡人の思想」や独裁者の危険性が『天空の城ラピュタ』ではより明確に描写されることで、愛する地球を守るために、自分たちの生命をも危険にさらしてパズーとシータが声をそろえて「バルス!」と叫ぶシーンが感動を呼ぶのです。

 一方、このアニメでは「天空の城ラピュタ」が崩壊したかに見えた後で、圧倒的な姿を現すのが「生命の樹」のテーマです。巨木の根で覆われたラピュタは、基底の高度な文明の部分が崩れ落ちたあとも、完全に崩壊することはなく、上部の美しい森や公園を残したまま、天空へと上昇していくのです。

こうしてこのアニメ『天空の城ラピュタ』は、すぐれた民話と同じように分かり易い映像で子供たちに普遍的で大切な英知を伝えているのだと思います。

 

『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈(1、改訂版)テーマの継承と発展――『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』へ(+「目次」)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

はじめに、『若き日の詩人たちの肖像』の時代の「祝典的な時空」

自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる昭和11(1936)年の二・二六事件に遭遇した主人公が「赤紙」で召集されるまでの重く暗い日々が若い詩人たちとの交友をとおして克明に描かれています。

しかし、この時期には「祝典的な時空」という華やかな側面もありました。すなわち、「天皇機関説」事件が起きた昭和10年には神武天皇の即位を記念する「祝典準備委員会」が発足し、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』でふれたように、それから5年後の昭和15年には、「内務省神社局」が「神祇院」に昇格して、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」の祝典が盛大に催されたのです。

(出典は「「ウィキペディア」)

皇紀の末尾数字を取ってゼロ戦と名付けられた戦闘機などによる真珠湾攻撃の大戦果などを踏まえて、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした堀場正夫は、昭和17年に出版したドストエフスキー論に『英雄と祭典』という題名つけましたが、それはこの著がそのような祝典的な雰囲気の中で著わされていたことをも物語っているでしょう。

評論家の橋川文三は『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」(太字は原文では傍点)あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促し、「私が『耽美的パトリオティズム』と名づけたものの精神構造と、政治との関係が改めてとわれねばならない」と記しています。

それゆえ、ここではまず『若き日の詩人たちの肖像』の複雑な構造に迫る前に主人公の視線をとおしてこの時代の雰囲気を概観することで、この長編小説における「耽美的パトリオティズム」の批判の一端に迫りたいと思います(本稿では、敬称と注を略した)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

一、真珠湾の二つの光景

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃の成果を知った主人公が「ひそかにこういう大計画を練り、それを緻密に遂行し、かくてどんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と感じたと書かれています。

しかし、それに続いて「それは掛値なしにその通りであったが、そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなっていた」ことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と記した作者は、軍神に祭られても「親御さんたちゃ、切ないぞいね」という一緒に住むお婆さんの言葉も記しているのです。

しかも、年が明けて1月になり主人公の仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てきたことを記した著者は、「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」という主人公の思いを記していますが、この批判は文芸評論家の小林秀雄にも向けられていると思えます。

なぜならば、「文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」時に、「僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」と「三つの放送」で書いた小林は、元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃の航空写真を見た印象を「戦争と平和」というエッセーでこう記していたからです。

「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとした思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に眞つ白な水脈を曵く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作つて拡がつたのだ。そしてさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかつた筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去つた彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映つたに違ひない。」

そして、「冩眞は、次第に本当の意味を僕に打ち明ける様に見えた。何もかもはつきりしているのではないか」と書いた小林は、トルストイの『戦争と平和』にも言及しながら、「戰は好戰派といふ様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戰だから起こるのである」と結んでいたのです。

 ここには写真には写っていない特殊潜航艇に乗り込んで特攻した乗組員の心理も考察している『若き日の詩人たちの肖像』の主人公の視点と、海の底に沈んだ特殊潜航艇のことには触れずに航空写真を見ながら「爆撃機上の勇士達」の気分で戦争を描いた小林との違いが明確に出ていると思えます。(続く)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

(3、増補版)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

          (2019年4月21日、改訂。6月14日、リンク先を追加)

書評〔飛躍を恐れぬ闊達な「推論」の妙──「立憲主義」の孤塁を維持していく様相〕を読む

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

 拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)の書評が『図書新聞』4/13日号に掲載された。→http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/ … 

 評者は『溶解する文学研究 島崎藤村と〈学問史〉』(翰林書房、2016)などの著書がある日本近代文学研究者の中山弘明・徳島文理大学教授で、〈学問史〉という新視点から島崎藤村を照射する三部作の筆者だけに、島崎藤村についての深い造詣に支えられた若干辛口の真摯な書評であった。

 以下、その内容を簡単に紹介するとともに、出版を急いだために書き足りなかったことをこの機会に補記しておきたい。

     *   *   *

 まず、「積年の諌題、『罪と罰』が太い糸となっていることは事実だが、それといわば対極の徳富蘇峰の歴史観への注視が、横糸になっている点にも目を引く」という指摘は、著者の問題意識と危機意識を正確に射ている。

 また、次のような記述もなぜ今、『罪と罰』論が書かれねばならなかったについての説明ともなっていると感じた。

 〔この魯庵が捉えた「良心」観から、通説の通り、透谷と愛山・蘇峰の著名な「人生相渉論争」を俎上にのせると同時に、著者はユーゴーの『レ・ミゼラブル』の受容へと展開し、蘇峰の「忠孝」観念と、「教育勅語」の問題性を浮かび上がらせ〕、〔自由を奪われた「帝政ロシア」における「ウヴァーロフ通達」と「勅語」が共振し、その背後に現代の教育改悪をすかし見る手法を取る〕。

 明治の『文學界』や樋口一葉にも言及しつつ、〔木下尚江が、透谷の『罪と罰』受容を継承しながら、暗黒の明治社会を象徴する、大逆事件を現代に呼び戻す役割を果たし、いわゆる「立憲主義」の孤塁を維持していく様相が辿られていくわけである〕との指摘や、『罪と罰』と『破戒』の比較について、「はっとさせられる言及も多い」との評価に励まされた。

 ただ、『夜明け前』論に関連しては辛口の批判もあった。たとえば、昭和初期の日本浪漫派による透谷や藤村の顕彰に言及しながら、「『夜明け前』が書かれたのが抑圧と転向の時代であり、その一方で昭和維新が浮上していた事実はどこに消えてしまったのだろうか」という疑問は、痛切に胸に響いた。

 昭和初期には「透谷のリバイバルが現象として起こって」おり、「亀井勝一郎や中河與一ら日本浪漫派の人々は透谷や藤村を盛んに顕彰してやまなかった」ことについての考察の欠如などの指摘も、問題作「東方の門」などについての検討を省いていた拙著の構成の弱点を抉っている。

 それは〔同時代の小林秀雄の「『我が闘争』書評」への批判を通じて、『罪と罰』解釈の現代性と「立憲主義」の危機を唱える〕のはよいし、「貴重である」が、「小林批判と寺田透や、堀田善衞の意義を簡潔に繋げていくのは、やはり違和感がある」との感想とも深く関わる。

 実は、当初の構想では第6章では若き堀田善衞をも捉えていた日本浪漫派の審美的な「死の美学」についても、『若き日の詩人たちの肖像』の分析をとおして言及しようと考えていた。

 しかし、自伝的なこの長編小説の分析を進める中で、昭和初期を描いたこの作品が昭和60年代の日本の考察とも深く結びついていることに気付いて、構想の規模が大きくなり出版の時期も遅くなることから今回の拙著からは省いた。

 小林秀雄のランボオ訳の問題にふれつつ、〔堀田善衞が戦時中に書いた卒論で「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を論じていたことを考慮するならば、これらの記述は昭和三五年に発表された小林秀雄のエッセー「良心」や彼のドストエフスキー論を強く意識していた〕と思われると記していたので、ある程度は伝わったのではないかと考えていたからである。

 自分では説明したつもりでもやはり書き足りずに読者には伝わらなかったようなので、なるべく早くに『若き日の詩人たちの肖像』論を著すように努力したい。

 今回は司馬遼太郎に関しては「神国思想」の一貫した批判者という側面を強調したが、それでも司馬遼太郎の死後の1996年に勃発したいわゆる「司馬史観論争」に端を発すると思われる批判もあった。これについては、反論もあるので別な機会に論じることにしたい。

 なお、『ドストエーフスキイ広場』第28号に、拙稿「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」が掲載されているので、発行され次第、HPにもアップする。

 著者の問題意識に寄り添い、かつ専門的な知識を踏まえた知的刺激に富む書評と出版から2ヶ月足らずで出逢えたことは幸いであった。この場を借りて感謝の意を表したい。

*   *   *

 追記:5月18日に行われる例会で〔堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に〕という題目で発表することになりました。 リンク先を示しておきます。→第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

     (2019年4月8日、9日、加筆)

 

「明治維新」150年と小林秀雄の『夜明け前』論

 『世界文学』の「時代と文学Ⅰ」特集号に、「明治維新」の問題を考察した標記のエッセイが掲載されました。

journal126(書影は『世界文学』126号、2017年)

以下にそのエッセイを転載します。

   *   *   *

2018年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出した安倍首相は、「これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から解き」放ったと「明治維新」を讃美していました。

  これに対して夏目漱石や司馬遼太郎についての造詣が深い作家の半藤一利は、夏目漱石の用語などを分析してこの言葉が使われだしたのは明治14年の政変の前年頃からであることを指摘し、「薩長政府は、自分たちを正当化するために」、「『維新』の美名」を使いだしたのではないかと指摘していました。(→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

  実際、夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙で島崎藤村の長編小説『破戒』を、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞しましたが、『罪と罰』からの強い影響が指摘されているこの長編小説では、「忠孝」についての演説を行う一方で、明治維新で唱えられた「四民平等」に反して被差別部落民の主人公に対する「差別」的な発言を繰り返していた校長や教員、政治家たちの言動が詳しく描き出されているのです。

 こうして藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、明治4年に出された「解放令」以降も現代のヘイトスピーチを連想させるような激しい言葉などによる差別が実質的には続いていたことを明らかにしていたのです。

 さらに藤村は、「治安維持法」の発布から言論の自由が厳しく制限されるようになる時期には、武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった頃に平田派の国学者となった自分の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を雑誌に連載していました。

 この長編小説で主人公の気持ちだけでなく「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」という寿平次などの批判的な言葉も記した島崎藤村は、新政府の政策に絶望して「いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか」という半蔵の深い幻滅を描いていたのです。

 こうして、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて「異教」と見なしたキリスト教だけでなく仏教をも弾圧して「廃仏毀釈」運動などを行っていた主人公は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死します。

 自分の信じる宗教を絶対化して他者の信じる仏像などを破壊する廃仏毀釈を強引に行い、親類からも見放されて狂人として亡くなった半蔵の孤独な姿の描写は、シベリアの流刑地でも孤立していた『罪と罰』のラスコーリニコフの姿をも連想させるような深みがあります。

 一方、文芸評論家・小林秀雄は明治時代に成立していた「立憲主義」が「天皇機関説」論争で放棄されることになる前年の1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

 そして、「天皇機関説」事件の翌年に行われた『文学界』合評会の「後記」では、古代復帰を夢見て破滅した主人公の気持ちに焦点をあてて、「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配してゐるといふ事は言へる」と『夜明け前』を解釈していたのです。

 長編小説に記された登場人物の体系を軽視して、きわめて情念的で主観的に作品を解釈するこのような小林の批評方法は、「信ずることと考えること」と題して行われた1974年の講演会の後の学生との対話でより明確に表れています。

 そこで「大衆小説的歴史観」と「考古学的歴史観」を批判した小林秀雄は、「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」と語って平田派的な歴史観を主張していたのです(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年、127頁)。

 注目したいのは、今年2月に雑誌『正論』に掲載された評論で、「感服したのは、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢(あふ)れている事」だと記した小林の『夜明け前』論を引用した評論家の新保祐司が、小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」には「紛れもなく『日本』があると感じられる」と賛美して、「戦後民主主義」の風潮から抜け出す必要性を主張していました。

 しかし、「明治維新」を賛美した安倍政権下の日本では、韓国や中国の人々にばかりでなく、福島の被爆者や沖縄県民や意見を異にする人々に対する激しいヘイトスピーチが再び横行するようになっているのです。

 この意味で注目したいのは、2・26事件の前日に上京した若者を主人公とし、「暗黒の30年」と呼ばれる時期に書かれたドストエフスキーの『白夜』の冒頭の文章が第1部の題辞として用いられている堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が、政府主催による「明治百年記念式典」が盛大に行われた1968年に発行されていたことです。

 登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせていました。

 小林秀雄が「『白痴』についてⅠ」で「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを批判していたことに注目するならば、「立憲主義」を敵視する復古主義的な傾向が再び強くなり始めていた年に刊行された『若き日の詩人たちの肖像』は、小林秀雄の『夜明け前』観に対する厳しい批判をも秘めていると思われます。

(本稿では敬称は略した。『世界文学』128号、2018年、78~79頁)

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

(2019年2月24日、リンク先を追加)

新刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

(装丁:山田英春)

ISBN978-4-86520-031-7 C0098
四六判上製 本文縦組224頁
定価(本体2000円+税)
2019.02

→ http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-031-7.htm

〔青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解き、島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』との関連に迫る。→  https://twitter.com/stakaha5/status/1087718612624764929

〔さらに、「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する過程を考察し、蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性を明らかにする。→ https://twitter.com/stakaha5/status/1087720436148985856

 

目次

はじめに 危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容   

 

第一章 「古代復帰の夢想」と「維新」という幻想――『夜明け前』を読み直す

はじめに 黒船来航の「うわさ」と「写生」という方法

一、幕末の「山林事件」と「古代復帰の夢想」

二、幕末の「神国思想」と「天誅」という名のテロ

三、裏切られた「革命」――「神武創業への復帰」と明治の「山林事件」

四、新政府の悪政と「国会開設」運動

五、「復古神道」の衰退と青山半蔵の狂死

 

第二章 一九世紀のグローバリズムと日露の近代化――ドストエフスキーと徳富蘇峰

はじめに 徳富蘇峰の『国民之友』と島崎藤村

一、人間の考察と「方法としての文学」

二、帝政ロシアの言論統制と『貧しき人々』の方法

三、「大改革」の時代と法制度の整備

四、ナポレオン三世の戦争観と英雄観

五、横井小楠の横死と徳富蘇峰

六、徳富蘇峰の『国民之友』とドストエフスキーの『時代』

 

第三章 透谷の『罪と罰』観と明治の「史観」論争――徳富蘇峰の影

はじめに 北村透谷と島崎藤村の出会いと死別

一、『罪と罰』の世界と北村透谷

二、「人生相渉論争」と「教育勅語」の渙発

三、「宗教と教育」論争と蘇峰の「忠君愛国」観

四、透谷の自殺とその反響

 

第四章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化

はじめに 『文学界』と『国民之友』の廃刊と島崎藤村

一、樋口一葉と明治の『文学界』

二、『文学界』の蘇峰批判と徳冨蘆花

三、『罪と罰』における女性の描写と樋口一葉

四、正岡子規の文学観と島崎藤村――「虚構」という手法

五、日露戦争の時代と言論統制

 

第五章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く――差別と「良心」の考察

はじめに 『罪と罰』の構造と『破戒』

一、「事実」の告白と隠蔽

二、郡視学と校長の教育観――「忠孝」についての演説と差別

三、丑松の父と猪子蓮太郎の価値観

四、「鬱蒼たる森林」の謎と植物学――ラズミーヒンと土屋銀之助の働き

五、「内部の生命」――政治家・高柳と瀬川丑松

六、『破戒』と『罪と罰』の結末

            

第六章 『罪と罰』の新解釈とよみがえる「神国思想」――徳富蘇峰から小林秀雄へ

はじめに 蘇峰の戦争観と文学観

一、漱石と鷗外の文学観と蘇峰の歴史観――『大正の青年と帝国の前途』

二、小林秀雄の『破戒』論と『罪と罰』論――「排除」という手法

三、小林秀雄の『夜明け前』論とよみがえる「神国思想」

四、書評『我が闘争』と『罪と罰』――「支配と服従」の考察

五、小林秀雄と堀田善衞――危機の時代と文学

あとがきに代えて   「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

初出一覧

参考文献

 

書評・紹介

(ご執筆頂いた方々に、この場をお借りして深く御礼申し上げます。)

‘19.07.20 書評 『世界文学』129号(大木昭男氏)

‘19.06.30 書評 「長瀬隆のホームページ」(長瀬隆氏)新著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』に寄せて

‘19.04.06 書評 『図書新聞』04.13号(中山弘明氏)飛躍を恐れぬ闊達な「推論」の妙──「立憲主義」の孤塁を維持していく様相

      (成文社のHPより)

(2018年12月23日、改訂。2019年1月22日、カバーの写真を追加。2019年2月15日発行、7月29日、書評を追加)

危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社〔四六判上製/224頁/2000円/2019年2月〕 

 

危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容

 憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台に、自分を「非凡人」と見なした元法学部学生ラスコーリニコフの犯罪とその結果が描かれている長編小説『罪と罰』が雑誌「ロシア報知」に連載されたのは、幕末の慶応二(一八六六)年のことでした。

 一方、日本では一八五三年にアメリカだけでなくロシアからも「黒船」が来航し、ことにペリーが武力を背景に「開国」を要求したことからナショナリズムが高揚して倒幕運動が高まっていました。そのような激動の時期に日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の没後の門人となった自分の父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いたのが島崎藤村の歴史小説『夜明け前』でした。

 「明治維新」により奈良時代の「神祇官」が再興されると平田派の国学者たちの影響は広まりましたが、キリスト教の弾圧だけでなく「廃仏毀釈」運動なども展開したことに対する反発が高まり、新政府は「祭政一致」から「政教分離」に政策を変えました。その時期に宮司を罷免された島崎正樹は、先祖の建立した島崎家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

 放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化することで仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという正樹の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの犯行と苦悩が連想されます。

 それゆえ、本書では幕末から明治初期にいたる激動の時代を描いた島崎藤村の『夜明け前』をとおして一九世紀のグローバリズムとナショナリズムの問題をまず考察することにします。明治の文学者たちの父親の世代が体験した「明治維新」にいたる時期と激動の明治初期を考察することは、日本における『罪と罰』との出会いとその衝撃を理解する上でも重要だと思えるからです。

 その後で日露の近代化の問題にも注意を払いながら、ナポレオンのような英雄にあこがれる若者を主人公とした『罪と罰』にいたるまでのドストエフスキー(一八二一~一八八一)の歩みと文学的な試みの意義を考察することにします。

 ナポレオンとの民族の存亡を賭けた「祖国戦争」に奇跡的な勝利を収めたロシアではナショナリズムが高まり、一八三三年には「自由・平等・博愛」に対抗する、ロシア独自の「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調したロシア版の「教育勅語」が出され*1、それに反する者は厳しく罰せられるようになりました。「暗黒の三〇年」とも呼ばれたそのようなニコライ一世の治世の時代に、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて活動していたのが若きドストエフスキーだったのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

 フランスで起きた一八四八年の二月革命の影響を恐れたロシア政府によってペトラシェフスキー事件で逮捕されたドストエフスキーは、偽りの死刑宣告を受けた後でシベリア流刑となりました。しかし、クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに創刊した総合雑誌『時代』で、自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載していました。 

 新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度や社会ダーウィニズムなどの新しい思想の考察の上に成立していたのです。

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(『罪と罰』の図版はロシア版「ウィキペディア」、内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

 一方、明治に改元される直前の慶応四年五月に生まれた内田魯庵が英訳で『罪と罰』を読んだのは「憲法」が発布された明治二二年のことでした。この長編小説を読み始めたものの興が乗らずに最初の百ページほどを読むのに半月近くもかかった魯庵は、「それから後は夜も眠らず、ほとんど飯を食う暇さえないぐらいにして読み通した」のです*2。

 そして魯庵はこの長編小説は「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る」筋と、「マルメラードフと言う貴族の成れの果ての遺族が、次第しだいに落ぶれて、ついには乞食とまで成り下る」という筋が組み合わされて成立していると指摘していました。

 さらに、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していた『罪と罰』との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエ フスキーへの思いを魯庵は大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています*3。

 「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

 こうして『罪と罰』から強い感銘を受けた魯庵は「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、二葉亭四迷の助力を得て長編小説『罪と罰』の前半部分を、日本で初めて訳出して二回に分けて刊行したのです。

 ただ、『罪と罰』の売れ行きが思わしくなかったために前半のみの訳出で終わりましたが、内田訳を読んでこの長編小説の思想に深く迫ったのが、明治の雑誌『文学界』の精神的なリーダーだった北村透谷でした。

 すなわち、透谷は『文学界』の前身の『女学雑誌』に載せた評論で「心理的小説『罪と罰』」が、暗黒な社会の側面を暴露していることを指摘して、ロシアでは「貴族と小民との間に鉄柵」が設けられていることを指摘していました*4。

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(長女を抱いた北村透谷。小田原市立図書館所蔵)

 この記述からは西欧の大国に対抗するために短期間で「富国強兵」を成し遂げて貴族は特権を享受する一方で、農民が「農奴」の状態に陥っていた帝政ロシアの体制の問題点を透谷がよく理解していたことが感じられます。

 透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」はそのようなロシアの状況を踏まえて、「最暗黒の社会」には「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事」をたくらませるような「魔力」が潜んでいることをこの長編小説は明らかにしていると指摘していました*5。

 しかも透谷は大隈重信や来日したロシア皇太子ニコライへのテロにも言及しながら「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なり」と笑って退けてはならないと記していましたが、憲法発布の際にも文部大臣の森有礼が襲われて亡くなるという事件が起きていました。さらに、それから一年後に臣民の「忠孝」を強調した「教育勅語」が渙発され、学校での奉読式でそこに記された天皇の署名と印に最敬礼をしなかったキリスト教徒の内村鑑三が「不敬漢」とのレッテルを張られて退職させられるという事件が起きると「国粋主義」が台頭していたのです*6。

 明治四一年に朝日新聞に連載された夏目漱石の『三四郎』の第一一章では、広田先生が高等学校の生徒だった時に体験した出来事を三四郎にこう語っています*7。

 「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった」。

 憲法が発布された頃に青年期を迎えていた漱石によって書かれたこの記述は、文部大臣が暗殺された後に起きた事態の重要性を示唆しています。この後で総理大臣となった山県有朋は第一回帝国議会の開会直前に「教育勅語」を渙発していたのです。

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(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

 『三四郎』の前に朝日新聞に連載された自伝的な長編小説『春』で、北村透谷や『文学界』の同人たちとの交友を描くことになる島崎藤村も、日露戦争直後の明治三九年に発行した長編小説『破戒』で、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により、郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

 夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙でこの長編小説を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と激賞しましたが*8、本編で詳しく分析するように、島崎藤村は『罪と罰』の人物体系や構造を深く研究した上で長編小説『破戒』を著していたのです。

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(夏目漱石、「「ウィキペディア」より)

 一方、平民主義を標榜して『国民之友』を創刊してドストエフスキーの『虐げられた人々』など多くの外国文学の翻訳も掲載していた徳富蘇峰は、「教育勅語」が渙発された後で起きたいわゆる「人生相渉論争」では北村透谷を厳しく批判し、日清戦争の後では「帝国主義」を唱えることになります。

 さらに、幸徳秋水など多くの者が冤罪で死刑となった「大逆事件」後の明治四五年に美濃部達吉の『憲法講話』が公刊されると、蘇峰は『国民新聞』に「美濃部説は全教育家を誤らせるもの」で「帝国の国体と相容れざるもの多々なり」とした記事を掲載しました。

 これに対して「大逆事件」の時に修善寺で大病を患っていた漱石は、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記し、彼が恩赦という形で死刑をまぬがれたことを「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けていました*9。この漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます*10。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 しかし、昭和三年の「治安維持法」改正によって日本では共産主義者だけでなく生徒に写実的な描写を教えた教師たちまでも逮捕されるようになりました。 そのような時期に評論「現代文学の不安」で自殺した芥川龍之介を批判する一方で、ドストエフスキー文学への強い関心を示したのが文芸評論家の小林秀雄でした。本書の視点から注目したいのは、小林の歴史認識が徳富蘇峰の「英雄観」や「史観」を受け継いでいる点が意外と多いことです。

 それゆえ、徳富蘇峰の『国民之友』と『文学界』との対立に注目しながら『罪と罰』理解の深まりを考察した後で、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊した昭和一〇年に書かれた小林秀雄の『破戒』論に注意を払いつつ、その前年の『罪と罰』論を詳しく分析することします。そのことによって小林が作品の人物体系や構造を無視し、自分の主張に合わないテキストの記述を「排除」して『罪と罰』論を展開していたことを明らかにできると思うからです。

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 さらに、『夜明け前』論と書評『我が闘争』を『罪と罰』と比較しながら分析することにより、イデオロギーに捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張されている「様々な意匠」以降の小林の批評方法には、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田国学的な「意匠」が隠されていることを明らかにすることができると思います*11。

 それらを検証することによって「評論の神様」とも称される小林秀雄の手法が、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることをも示唆することができるでしょう。

 最後に、『白夜』などドストエフスキーの作品にたびたび言及しながら、この暗い時代に生きた若者たちを描いた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が、島崎藤村や明治の文学者たちの骨太の文学観を受け継いでいることを示すことで危機の時代における文学の意義に迫ります。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

(注は略し、ルビのふりがなは括弧内に記した。2018年12月30日、2019年1月14日、加筆。2月23日、改訂・図版を追加)。

『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

本書の構想を何回か変更したために予想以上に手間取りましたが、ようやく原稿を脱稿しました。

日露戦争の直後に自費出版された島崎藤村の長編小説『破戒』については学生の頃からずっと気になっていました。『罪と罰』から強い影響を受けていることが以前から指摘されているこの長編小説では、激しい差別ばかりでなく教育制度の問題の考察をとおして、危機の時代における「支配と服従」の問題にも鋭く迫っているからです。

しかも、暗い昭和初期の時代に島崎藤村は、武家社会の横暴を見たことから平等な世の中を目指して「平田篤胤没後の門人」となり、「維新」のために奔走した彼の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を連載していました。

この長編小説の完結後に日本ペンクラブの初代会長に就任した藤村の作品を論じた文芸評論家・小林秀雄の評論と「『罪と罰』についてⅠ」とを考察するとき、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年に書かれ、現在も影響力を保っている小林のドストエフスキー論の問題点が浮かび上がってきます。

ただ、私が日本文学の専門家ではないことや、幕末から明治初期までの激動の時代が描かれている『夜明け前』を読み解くためには、「復古神道」だけでなく維新後の藩閥政府による宗教政策をも理解しなければならなかったために執筆を躊躇していました。

しかし、グローバリズムの強い圧力に対抗して世界の各地でナショナリズムが台頭する中、日本でも二〇一八年が「明治維新」の一五〇年ということで、「維新」を讃美する発言や評論だけでなく、独裁的な藩閥政府との厳しい闘いをとおして獲得した「立憲主義」をも揺るがすような発言や動きも強まっています。

それゆえ、本書では日露の近代化の比較という視点から、北村透谷の評論や島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』などの作品をとおして、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ権力と自由の問題に肉薄していた『罪と罰』を詳しく読み解くことにしました。『罪と罰』の受容とその変容をとおして幕末から昭和初期にいたる日本の歴史を振り返ることは、「明治維新」一五〇年を迎えた現代の日本を考えるうえでも重要だからです。

たとえば、江戸時代に起きた日露の戦争の危機を防いだ商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』を書いた作家の司馬遼太郎氏はエッセー「竜馬像の変遷」で「明治国家」をこう記していました。

「人間は法のもとに平等である」というのが「明治の精神であるべき」で、「こういう思想を抱いていた人間がたしかにいたのに、のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」。そして司馬氏は「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていたのです。

明治が四五年で終わったことを考えると、「明治国家が八十年で滅んでくれた」という記述は不正確のようにも思えますが、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、明治国家の賛美者とされることの多い司馬氏は、「明治国家」を昭和初期の敗戦まで続いた国家として捉えていたといえるでしょう。

しかも『竜馬がゆく』で、幕末の「神国思想」が「明治になってからもなお脈々と生き続けて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし国定国史教科書の史観」となったと記し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループ」にひきつがれたと書いた司馬氏は、『この国のかたち』の第五巻で幕末における「復古神道」の影響の大きさを「篤胤によって別国が湧出したのである」と説明していました。

幕末と昭和初期の「神国思想」の連続性を指摘した司馬氏が、「昭和初期」を「別国」あるいは「異胎」の時代と呼んで批判していたことを想起するならば、ここでも「別国」という独特の単語が用いられていることは、昭和の「神国思想」と平田篤胤の「復古神道」との関係をも強く示唆していると思われます。

一九三八年の日中戦争で戦死した戦車隊の陸軍中尉西住小次郎が「軍神」とされたことについても、司馬氏は「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった」と『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に指摘していました(『歴史と小説』、集英社文庫)。

このとき司馬氏の批判は小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性が高いと思われます。なぜならば、一九三九年に書いた「疑惑 Ⅱ」というエッセーで「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪えられないのである。思想の古さに堪えられないとは、何という弱い精神だろう」と書いた小林はこう続けていたからです。

「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いている様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪えぬ様な、一と口に言えば大和魂という(……)思想にほかならないのではないか」(『小林秀雄全集』第七巻)。そして小林は「伝統は生きている。そして戦車という最新の科学の粋を集めた武器に乗っている」と書いて国民の戦意を煽っていました。

一方、一九七二年に発表したエッセーで当時の日本の戦車はソ連などと比較するとすでに時代遅れのタイプであると指摘した司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたのです(「戦車・この憂鬱な乗り物」)。

こうして、一九〇二年には日英同盟の締結に沸いていた日本は、それからわずか四〇年足らずの一九四一年にイギリスとアメリカを「鬼畜米英」と断じて、「神武東征」の神話と「皇軍無敵」を信じて無謀な太平洋戦争へと突入していました。それは日米同盟を強調しつつ復古的な教育改革をおこなっている日本の未来をも暗示しているでしょう。

それゆえ、戦前の「大和魂」の美化と「神国思想」を批判した司馬氏は、劇作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と続けていたのです。(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』講談社)。

司馬氏との対談もある憲法学者の樋口陽一氏も、「幕末維新の時代には『一君万民』という旗印で平等を求める動き」があり、その後も「全国各地で民間の憲法草案が出ていた」ことに注意を促して「日本国憲法」が明治の「立憲主義」を受け継いでいることを明らかにしています。

さらに、樋口氏は井上氏との共著『日本国憲法を読み直す』(岩波現代文庫)の「文庫版あとがき」で、「井上ひさしの不在という、埋めることのできない喪失感を反芻しながら、一九九三~九五年の対論を読み返した。(……)そのことにつけても、日本の現実を私たち二人と同様に――いや、もっとはげしく――憂えていた司馬遼太郎さんのことを、改めて思う」と記しているのです。

 このような日本の状況や「憲法」についての議論を踏まえて、本書では司馬氏が深く敬愛していた正岡子規や夏目漱石の「写実」や「比較」という方法に注目しながら、広い視野を持っていた明治の文学者たちの考察をとおして、「弱肉強食の理論」や「非凡人の理論」の危険性を描いていた『罪と罰』の現代的な意義に迫ろうとしました。

一九世紀のグローバリズムにも匹敵するような強い圧力に対抗するために、世界中で広がっている「自国第一主義」の影響下に歴史修正主義やヘイトスピーチが横行し、国の公文書の改竄や隠蔽すらもなされ、各国で軍拡が進んでいる現在、『罪と罰』をきちんと読み解くことによって原水爆の危険性を踏まえて成立した日本国憲法の現代的な意義をも明らかにできると考えたからです。(「あとがきに代えて」より) 

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

→ 第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

(「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」)

 (2019年1月5日、加筆。2月24日、5月2日、リンク先を追加)

教育制度と「支配と服従」の心理――『破戒』から『夜明け前』へ

日露戦争の最中に詩「君死にたまふこと勿(なか)れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)」を書いた与謝野晶子が、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したとして激しく非難されるという出来事が起きたのは明治三七年のことでした。

このような日本の状況を北村透谷の評論をとおして深く観察していたのが、日露戦争直後の明治三九(一九〇六)年に『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』を自費出版する島崎藤村でした。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

この長編小説において藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、現代の「ヘイトスピーチ」を思わすような「憎悪表現」による激しい「差別」をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに反して、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従って生きることとの葛藤を「良心」に注目しながら詳しく描いたのです。そして藤村は、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を、「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

夏目漱石が『破戒』を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と森田草平宛の手紙で激賞していたことを想起するならば、憲法が発布された頃に青年期を迎えていたこれらの作家は、第一回帝国議会の開会直前に渙発された「教育勅語」の問題を深く理解していたように思えます。

しかも、『三四郎』の連載から二年後の明治四三年には「大逆事件」で幸徳秋水などが死刑となりましたが、この時に修善寺で大病を患っていた漱石は、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて偽りの死刑宣告を受け、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記したのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

この時、ドストエフスキーは皇帝による恩赦という形でシベリア流刑となっていたのですが、「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けた漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに総合雑誌『時代』を創刊しましたが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度について、さらに社会ダーウィニズムなどの新しい思想の真摯な考察の上に成立していたのです。

『罪と罰』を邦訳した内田魯庵も、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していたこの長編小説との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエフスキーへの思いを大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています。

「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

そのことを想起するならば、漱石の記述には「大逆事件」をきっかけに日本で言論の自由が奪われて、「憲法」がなく皇帝による専制政治が行われていた帝政ロシアと同じような状況になることへの日本への強い危惧が示唆されていると言えるでしょう。

 実際、「治安維持法」の改正によって日本では昭和初期になると、共産主義者だけでなく「立憲主義」的な価値観を持つ知識人も逮捕されるようになるのですが、その時期に藤村が連載したのが父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いた歴史小説『夜明け前』でした。

武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった時期に、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて、キリスト教や仏教を弾圧した平田派の国学者となった島崎正樹は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化して仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという半蔵の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの苦悩と犯行が連想されます。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

極端な「国粋主義」との関連で注目したいのは、ドイツ民族を絶対化したナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において、自らを「非凡人」と見なしたヒトラーが「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことに注意を促すとともに、「権威主義的な価値観」に盲従する大衆の心理にも迫っていたことです(日高六郎訳、東京創元社、1985)。

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(『自由からの逃走』、図版は英語版「ウィキペディア」より)

すなわち、心理学の概念を用いながら人間の「服従と支配」のメカニズムを分析したフロムによれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです。

しかも、第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、ヒトラーがなぜ権力を握りえたのかを明らかにしたフロムは、自分の分析の例証としてドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していました。

注目したいのは、『罪と罰』においてドストエフスキーがラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定させているばかりでなく(三・五)、「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)とも語らせていたことです。

こうして、ラスコーリニコフに自分の「権力志向」と大衆の「服従志向」にも言及させることで「権威主義的な価値観」の危険性を見事に表現していたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」をとおして「自分」や「自民族」を「非凡」と見なして「絶対化」することが大規模な戦争を引き起こすことをすでに示唆していたのです。

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江川卓訳『罪と罰』上中下(岩波文庫)

一方、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の昭和九年に、内田魯庵や北村透谷とは正反対の危機から眼をそらすような『罪と罰』論を展開したのが、文芸評論家の小林秀雄でした。彼は司法取締官ポルフィーリイや弁護士ルージンなどとラスコーリニコフとの激しい議論についての考察を省くことにより、「超人主義の破滅」や「キリスト教的愛への復帰」などの当時の一般的なラスコーリニコフ解釈では『罪と罰』には「謎」が残ると断言しました。(『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻)。

こうして、自分の主張に合わないテキストの記述は無視しつつ時流に迎合して「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」との結論を記した小林秀雄は、自分の主張とは合わない解釈をする者に対しては、「権威主義的な」態度で「不注意な読者」と決めつけていたのです。

このような小林のドストエフスキー論の問題点は、北村透谷の『罪と罰』論なども踏まえつつ、小林の『破戒』論や『夜明け前』論を考察することによりいっそう鮮明に浮かび上がらせることができるでしょう。

以下、本書では「写生」や「比較」という方法を重視した明治の文学者たち評論や小説だけでなく彼らの生き方や、明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、『罪と罰』の受容を分析することにします。

そのことにより日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期に書かれた小林秀雄のドストエフスキー論の手法が、現代の日本で横行している歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることも明らかにできると思います。

(注はここでは省き、旧かなと旧字は、現代の表記に改めた。2018年10月16日、改題と改訂)

 一、「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 

島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』の現代性

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社〔四六判上製/224頁/2000円/2019年2月〕

成文社 http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-031-7.htm

 

島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』の現代性

島崎藤村が長編小説『破戒』を自費出版したのは、日露戦争直後のことでしたが、夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙で島崎藤村の長編小説『破戒』を、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞しました。

この長編小説で島崎藤村は、「教育勅語」の「忠孝」の理念を説く校長や教員、議員たちの言動をとおして、現在の一部与党系議員や評論家によるヘイトスピーチに近いような用語による差別が広まっていたことを具体的に描いていたのです。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

ただ、批評家の木村毅は『罪と罰』と『破戒』の類似性についてこう指摘していました。「この英訳『罪と罰』を半ばも読み進まぬうちに、重大な発見をした。かつて愛読した藤村の『破戒』は、この作の換骨奪胎というよりも、むしろ結構は、『罪と罰』のしき写しと云っていいほど、酷似している」(「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』、昭和47年、筑摩書房)。

 実際、主人公の瀬川丑松はラスコーリニコフと対応していますし、飲酒が原因で退職となる教員・風間敬之進とその妻の描写は、マルメラードフ夫妻を連想させます。また、敬之進の前妻の娘で蓮華寺の養女に出されるお志保もソーニャを思い起こさせるだけでなく、彼女にセクハラを仕掛ける蓮華寺住職とその妻の関係は、スヴィドリガイロフと妻マルファに似ているなど多くの人物造型が『罪と罰』に依拠しているように思われます。

 しかし、先の文章に続けて木村が「『破戒』が日露戦争後の文壇を近代的に、自然主義の方向へと大きく旋回させた功は否めず、それはつまり、ドストイエフスキイの『罪と罰』の価値の大きさを今更のように見直すことになった」と書いているように、この類似性は『破戒』の価値をさげるものではありません。

 『罪と罰』の初めての邦訳を行った内田魯庵は、この長編小説の大きな筋の一つは「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る経路」であると指摘して、「良心」の問題の重要性に注意を促していました。(明治四五年、「『罪と罰』を読める最初の感銘」)。

 実際、「大改革の時代」に発表された『罪と罰』では裁判制度の改革に関連して創設された司法取調官のポルフィーリイの、殺人を犯した「非凡人」の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフは、「いや、なに、人道問題として」と問い質されると、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」と答えていたのです(三・五)。

 この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くには、「弱肉強食の思想」などの近代科学に影響されたラスコーリニコフの誤った「良心」理解を示唆するかのような、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです。

「日本国憲法」では「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められていますが、独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験した内田魯庵は、絶対的な権力を持つ王や皇帝の無法な命令や行為に対抗するためにも、権力者からの自立や言論の自由などを保証する「良心」の、『罪と罰』における重要性を深く認識していたのです。

そして島崎藤村もドストエフスキーについて、「その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう」と記していました(かな遣いは現代表記に改めた。『春を待ちつつ』、大正一四年)。

「民衆の良心」という用語に注目して『破戒』を読み直すとき、使用される回数は多くないものの「良心」という単語を用いながら主人公の「良心の呵責」が描かれているこの長編小説が、表面的なレベルだけでなく、深い内面的なレベルでも『罪と罰』の内容を深く理解し受け継いでいることが感じられます。

すなわち、「非凡人の理論」を考え出して「高利貸しの老婆」の殺害を正当化していたラスコーリニコフの「良心」理解の誤りを多くの登場人物との対話だけでなく、彼の「夢」をとおして視覚的な形で示したドストエフスキーは、ソーニャの説得を受け入れたラスコーリニコフに広場で大地に接吻した後で自首をさせ、シベリアでは彼に「人類滅亡の悪夢」を見させていました。

 『破戒』において帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及していた島崎藤村も、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従っていた主人公の瀬川丑松が、「差別」の問題をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに背くことに「良心の呵責」を覚えて、猪子が暗殺されたあとで新たな道を歩み始めるまでを描き出したのです。

 さらに北村透谷は「『罪と罰』の殺人罪」を発表した翌月に、幕末に「尊王攘夷思想」を讃えた山路愛山の「頼山陽」論を、「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と呼んだ厳しく批判した評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」を『文学界』の第二号に発表していました。

友人の愛山を「反動」と呼んだ透谷の語気の激しさには驚かされますが、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏が書いているように、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたのです。

靖国史観(図版は紀伊國屋書店より)

日露戦争の最中には与謝野晶子の詩「君死にたまふこと勿(なか)れ」でさえも、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したと批判され、「晶子の詩を検すれば、乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるべきもの也」と厳しく非難されるようになりました(井口和起『日露戦争』)。

それゆえ、『罪と罰』を深く研究した上で日露戦争が終わった直後の一九〇六年に自費出版された『破戒』は、ロシア革命や太平洋戦争での敗戦に至る日露の教育制度や近代化の問題点をも明らかにしているといえるでしょう。

この意味で注目したいのは、第一次世界大戦後に「ドイツの青年層が、自分たちにとってもっとも偉大な作家としてゲーテでもなければニーチェですらなく、ドストエフスキーを選んでいること」に注意を向けたドイツの作家ヘルマン・ヘッセがドストエフスキーの作品を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものである」と指摘していたことです。

 実際、ポルフィーリイに「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれないんだし」と語らせたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」で「自己(国家・民族)の絶対化」の危険性を示していました。

このように見てくる時、明治の文学者たちがドストエフスキーの作品を高く評価したのは、そこに「憲法」がなく権力者の横暴が看過されていた帝政ロシアの現実に絶望した主人公たちの苦悩だけでなく、制度や文明の問題も鋭く描き出す骨太の「文学」を見ていたからでしょう。

 現在の日本ではこのような制度に絶望した主人公たちの過激な言動や心理に焦点があてられて解釈されることが多くなっていますが、それは自由や平等そして生命の重要性などの「立憲主義」的な価値観の重要性を描いていたドストエフスキーの小説の根幹から目を逸らすことを意味します。

明治時代の文学者たちの視点で、「大逆事件」の後では「危険なる洋書」とも呼ばれるようになる『罪と罰』を詳しく読み直すことは、国会での証人喚問で「良心に従って」真実を述べると誓いながら高級官僚が公然と虚偽発言を繰り返し、「事実」が記されている「公文書」の改竄や隠蔽がまかりとおるようになった現代日本における「立憲主義」の危機の遠因にも迫ることになるでしょう。

 → https://twitter.com/stakaha5/status/948002340728053760

(2018年9月2日、改訂。2019年2月9日、ツイッターのリンク先を追加)