高橋誠一郎 公式ホームページ

04月

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (5)「人類滅亡の悪夢」の直視

 堀場正夫は真珠湾攻撃の翌年に出版された『英雄と祭典』において 、『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしていた。 むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、明らかな「誤読」であると言える。

 しかし、堀場正夫の「誤読」には、時代的な背景もあった。ニーチェによるドストエフスキー理解を踏まえたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人とした。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在になっていると指摘して、書かれている彼の更生を否定していた(小林秀雄『ドストエフスキイ』講談社、昭和四一年、二七五頁)。それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした彼の近代観から導かれたものでもあった (河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和五四年、二四七頁)。

一方、司馬遼太郎は真珠湾攻撃の後で「近代の超克」を謳って河上徹太郎や小林秀雄など日本の一流の知識人が行い、この「当時の読者に大きな衝撃を与えた」座談会について、当時は「読みはしたものの難しかった」ので、「よくわからなかった」と認めた。しかし司馬は、現在読み返してみると「基本的におかしなことは」、「ここでいう超克すべき近代というのは、要するにヨーロッパの近代」であり、当時の一流の知識人たちが江戸時代に培われた日本の文化的伝統をまったく無視していると指摘している。こうして司馬は、「ヨーロッパの近代に対して、太平洋戦争の開幕のときの不意打ち成功によって、日本のインテリは溜飲を下げた」が、「それは嘘の下がり方なんですよ」と厳しく批判したのである(「買い続けた西欧近代」『「昭和」という国家』)。

 この時司馬は「西欧派とスラヴ派」の激しい対立にゆれた近代ロシアにおいて、「大地主義」の視点から「西欧派と国粋派」の和解だけでなく、「知識人と民衆」との和解の可能性をも探求した『罪と罰』の意義を理解していたと言えるだろう。つまり、彼が『菜の花の沖』の主人公で、ナポレオンと同じ年に生まれた高田屋嘉兵衛に「好んでいくさを催し、人を害する国は、国政悪しき故」と語らせている背景には、ナポレオン以降の「自国中心」の歴史観を、「自己中心の迷妄」と断じたトインビーと同じような歴史認識があったのである(トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究』第二巻、社会思想社、昭和四二年、七五~六頁)。

加筆(2022/04/30)【東京大空襲を体験した後で国際文化振興会の上海資料調査室に赴任した堀田善衞は、広島と長崎に原子爆弾が投下された後には「日本民族も放射能によって次第に絶えて行くのだ」という流言を聞いて、『ヨハネの黙示録』の次のような文章の恐ろしさを実感していた。

「第一の御使(みつかひ)ラッパを吹きしに、血の混りたる雹(へう)と火とありて地にふりくだり、地の三分の一焼け失せ、樹(き)の三分の一、焼け失せ、もろもろの青草(あをくさ)焼け失せたり」

 この時、堀田は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが流刑地のシベリアで見た、「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという夢が、単なる悪夢ではなく、現実にも起こりうることを実感したはずである。

 実際、「高利貸しの老婆」を悪人と規定して殺害していたラスコーリニコフに対して司法取締官のポルフィーリイは、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」とラスコーリニコフに語っていたが、ヒトラーの「非凡民族」という理論は実際にユダヤ人虐殺という醜悪な結果を招いていた。 さらに化学兵器はその非人道性ゆえに禁止されたが、広島と長崎に投下された原子爆弾の悲惨さが隠蔽されたために、原水爆は禁止されなかったためにその実験でも多大の被害を生み出し、それはチェルノブイリ原発事故と福島第一原子力発電所の事故にもつながった。】

 一方、ドストエフスキーは長編小説『罪と罰』において、「近代的な知」に囚(とら)われて自分をナポレオンと同じ様な「非凡人」と考え、自分が「悪人」とみなした「他者の殺人」をも正当化したラスコーリニコフの悲劇を描き出すとともに、そのエピローグではシベリアの流刑地で「人類滅亡」の悪夢を見させることにより、自己中心的な「非凡人の思想」が、自国中心的な「国民国家」史観に基づいていることを示唆して、「自国の正義」や「報復の権利」を主張して、限りなく大規模化する近代戦争の危険性を明らかにしていた。

 そして、エピローグでは主人公をぺテルブルクから遠く離れたシベリアの大地で暮らさせることにより、森や泉の尊さや民衆の「英知」にも気づいた彼の「復活」を描き出して、「自然支配」の思想との決別をも描いていたのである(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇〇年、第九章「鬼」としての他者、および第一〇章「他者としての自然」参照)。

  「地面を投機の対象にして物狂い」をした現象に対して司馬も、「日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである」とし、「大地」に対する哲学的な見方の変革を求め、「でなければ、日本国に明日はない」と結んだ(『風塵抄』Ⅱ)。さらに、「樹木と人」という講演で司馬は、「ソ連のチェルノブイリの原子炉」の事故で「死の灰が各地で降って大騒ぎ」になったことにふれて、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語り、言葉を続けて一九八〇年代になって、「ようやく、われわれは地球の緑をすべて守らなければいけない、切ったら必ず植えなければいけない、そして生態系を変えるような切り方はしてはいけない」ことに気づいたのだと強調した(「樹木と人」『十六の話』)。

 しかも、ロシア帝国の貴族たちと日本の高級官僚との類似を意識しながら司馬は、日露戦争のあとで「教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた」が、「官僚であれ軍人であれ」、「それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた」彼らは、「かつて培われたものから切り離されたひとびとで」あり、「わが身ひとつの出世ということが軸になっていた」とした(「あとがき」『ロシアについて』)。それはロシアの大地から遊離したロシアの知識人に対するドストエフスキーの鋭い批判とも重なり合うのである。そして司馬は、これらの官僚や軍人たちは「自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対し、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた」とし、「それを支持したり、煽動したりする言論人の場合も、そうだった」と厳しく批判したのである。

 さらに、ノモンハン事件の研究者クックは、戦前の日本では、国家があれほどの無茶をやっているのに、国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったではありませんかと司馬に問い質したが、この指摘の正しさを認めた司馬も、大蔵省のかけ声のもとに国民がこぞって金儲けに走った問題にふれて、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。そのことを、ほとんどの人が感じ始めている。『ノモンハン』が続いているのでしょうな」と続けた(「ノモンハンの尻尾」『東と西』)。

 加筆(2022/04/30)【「司馬史観」論争で司馬が右派の思想家とされてしまったために、残念ながら司馬の言説は説得力を失ってしまった。しかし、すでに『竜馬がゆく』(文春文庫)で幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬遼太郎は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記していた。

 晩年の『この国のかたち』(第五巻)でも司馬は 、「キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」平田篤胤によって、「別国が湧出したのである」と書いていた。「昭和別国」という特徴的な用語を使っていた司馬氏がここでも「別国」と記していることは、『若き日の詩人たちの肖像』に記された堀田善衞の平田篤胤批判に通じる考えを司馬も持っていたと思われる。】

 こうして司馬は、「国際化」に対応するために個性の尊重を謳いながら、多発するようになった青少年犯罪を「行きすぎた欧化」のせいであるとして、「権威」や「国家」への「服従」を求める「国粋」的な傾向を強めている教育のもとで、日本の国民は再び「従順な羊」になり始めているのではないかという深刻な不安を示したのである。実際、自国の「国益」を優先しつつ、グローバリゼーションを押し進めるアメリカ政府に対する反撥から、世界では各国においてナショナリズムが野火のような広がりを見せつつある。

 このように見てくる時、日露の「文明開化」の比較をとおして、「欧化と国粋」のサイクルの危険性を認識し、「自国の正義」を主張して「野蛮」と規定した「他国」の征伐を正当化するような歴史観を鋭く批判した司馬遼太郎の文明観は、プーシキンの広い視野を受け継いでいたドストエフスキーの文明観を理解するうえでも有益だろう。

加筆(2022/05/3)【 このような司馬遼太郎の認識と重なるだけでなく、核兵器の危険性を直視するとともに、その克服の方法についても考察していたのが原爆パイロットを主人公の一人とした長編小説『審判』などを書いた堀田善衞であった。堀田善衞のドストエフスキー観と戦争観については新著で考察したが、ウクライナ危機をも視野に入れてつつ今後も研究を深めたい。 】

(2022/05/3、加筆と改題)

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (4)「教育勅語」と「ウヴァ一ロフの通達」

 福沢諭吉は日本の「文明開化」のモデルの一つがピョートル大帝のロシアであることを十分に知っていたが、『坂の上の雲』を書き終えた後での司馬遼太郎の認識の深さは、日露戦争に勝って「神州不滅」を唱えるようになる日本の近代化が、ニコライ一世の独裁制をモデルにしていたことを明らかにしていることである。

 たとえば、司馬遼太郎は山県有朋にとって、「国家的象徴に重厚な装飾を加える」ことが「終生のテーマだった」とし、その理由を「ニコライ二世の戴冠式に、使節として出席し」て、「ギリシア正教で装飾された」、「戴冠式の荘厳さ」を見た彼が、強いショックを受けたからであると説明している(「竜馬像の変遷」『歴史の中の日本』)。

 しかも司馬は、「教育勅語」はその意味が分かりにくかったが、それは文章が「日本語というよりも漢文」だったためとして、この「勅語」が形式的にはかつての「文明国」中国をモデルとすることで権威付けされていたことを明らかにしていた(「教育勅語と明治憲法」『語る日本』)。実際、西村茂樹は「修身書勅撰に関する記録」において、清朝の皇帝が「聖諭広訓を作りて全国に施行せし例に倣い」(太字引用者)、我が国でも「勅撰を以て」、「修身の課業書を作らしめ」るべきだと記していたのである。

 さらに、「教育勅語」の執筆者の一人である元田永孚は「国教大教」において、「天皇は全国治教の権を統べられること」を強調していたが、西村茂樹も「修身書勅撰に関する記録」の冒頭で「西洋の諸国が昔より耶蘇教を以て国民の道徳を維持し来れるは、世人の皆知る所なり」とし、ことにロシアでは形式的には皇帝と総主教に分かれてはいるが、実質的には、「其国の皇帝と宗教の大教主とを一人」で兼ねており、それゆえ「国民の其の皇帝に信服すること甚深く世界無双の大国も今日なお君主独裁を以て其政治を行えるは、皇帝が政治と宗教との大権を一身に聚めたるより出たるもの亦多し」と述べた (西村茂樹「修身書勅撰に関する記録」『教育に関する勅語換発五〇年記念資料展覧図録』教学局編纂、一九四一年、一〇〇頁)。こうして彼は、我が国でも「皇室を以て道徳の源となし、普通教育中に於て、其徳育に関することは 皇室自ら是を管理」すべきであると説いたのである。この箇所は日本における「修身教育」の実質的なモデルが、ロシアの国教である正教への信仰と、皇帝への忠誠心を持つことを徹底させたロシアの教育制度であったことを物語っているだろう。

 しかも、司馬遼太郎が中学に入学した翌年の一九三七年には文部省から『国体の本義』が発行されたが、「国体の本義解説叢書」の一冊として出版された『我が風土・国民性と文学』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無い」と強調されていた(教学局編纂『我が風土・国民性と文学』(国体の本義解説叢書)、昭和一三年、六一頁)。それは「正教・専制・国民性」 の「三位一体」こそが、「ロシアの理念」であるとした文部大臣「ウヴァ一ロフの通達」を連想させるのである。

 この意味で注目したいのは、司馬が『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衞や宮崎駿との鼎談を一九九二年に行っていることである。堀田善衞はこの長編小説において、上京した日に二・二六事件に遭遇した主人公の若者が、ラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、厳しい言論弾圧と迫り来る戦争の重圧の中で描かれた『白夜』(一八四八年)の冒頭の美しい文章に何度も言及していた。しかもこの作品で堀田は、ドストエフスキーの作品の鋭い分析を行うとともに、厳しい検閲制度や監視のもとに時勢が「右傾化」する中でドストエフスキーの読み方を変えていった愛読者の姿や、烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていたのである(堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』新潮社、一九六八年)。

 このような堀田の作品理解を踏まえて司馬は、芥川龍之介が自殺した後で中野重治など同人雑誌『驢馬』に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」と指摘している(司馬遼太郎・堀田善衞・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁)。そして、司馬は「後世の人たち」は「その理由がよくわからないでしょう」が、「私は年代がさがるので一度もなったことはないけれども」と断りつつも、「昭和初年、多くの知識青年が左翼になった」「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けていたのである(この時代のドストエフスキーをめぐる日本の状況については、池田和彦「詩人たちのドストエフスキイ」『ドストエーフスキイ広場』第一一号、および菅原純子「『広場』合評会報告」「読書会通信」七五~七七号参照)。

 こうして昭和初期の検閲の厳しく暗い「別国」の時代に青春を過ごした司馬の言葉は、「ロシアの教育勅語」ともいわれる「ロシアの理念」が打ち出されて、自由思想すらも厳しく規制されていたニコライ一世の「暗黒の三〇年」の時期に、なぜドストエフスキーがペトラシェーフスキイ事件に関与するようになったのかをも説明し得ているであろう。

 つまり、言論や集会の自由が奪われて厳しい監視下におかれ、自国の欠点に対する批判も禁じられていた日露両国においては、「出口」が見いだせないなかで、ドストエフスキーや堀田善衞のように感受性豊かな青年たちが、極端な「国粋思想」に対する反発から新しい「原理」を示した「左翼」に共感を示すようになったのである。

 たとえば、立花隆は「私の東大論」において、「日本中を右傾化させた」事件として、一九三二年(昭和七年)の五・一五重件と神兵隊事件を挙げるとともに、「ほとんどこの事件と重なるようにして」、滝川幸辰教授に辞職を求めた文部大臣に対して、京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した、いわゆる滝川事件が起きていたことを指摘している。そして立花はこの時の辞任要求の真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかという説を展開している(立花隆「私の東大論」『文藝春秋』二〇〇二年九月号~一一月号参照)。

 すなわち、治安維持法は一九二五年(大正一四年)に制定されたが、同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになると、これに対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展したが、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に運用して一斉検挙を行ったのである。しかもこの京都学連事件では、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎は、治安維持法への違反が咎められただけでなく、中学時代の日記に天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである(立花隆『文藝春秋』二〇〇二年一一月号、三七二~三七九頁参照)。

 こうして、司馬が青春を過ごした昭和初期は、外国の書物の輸入が禁止されたばかりでなく、国内での検閲も強まり学校でも軍事教練が行われるなど、福沢諭吉が「野蛮」と見なして厳しく批判したニコライ一世の「暗黒の三〇年」ときわめて似た政治状況に陥っていたのである。

 晩年の『風塵抄』で司馬は、「健全財政の守り手たちはつぎつぎに右翼テロによって狙撃された。昭和五年には浜口雄幸首相、同七年には犬養毅首相、同十一年には大蔵大臣高橋是清が殺された」と記し、「あとは、軍閥という虚喝集団が支配する世になり、日本は亡国への坂をころがる」と厳しく批判した(『風塵抄』Ⅱ)。

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (3)自国への絶望とその克服

 以上のことに注目する時、司馬遼太郎の「作風の変化」が、実は、日露文明の比較の深まりや「近代化」の問題点の認識と対応していることに気づく。たとえば、日露の衝突を防いだ商人高田屋嘉兵衛を主人公としつつ、江戸時代の文化的な成熟度の高さを丹念に描いた『菜の花の沖』において司馬は、「『国家』という巨大な組織は、近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くと鋭く指摘するのである。つまり、司馬遼太郎は「欧化と国粋」のサイクルの問題を踏まえた上で、それを乗り越え多様性を許容するような新たな文明のあり方を考察していたと言えよう。

 沼野充義は司馬遼太郎のロシア観について、「それは自由で因習に捕らわれない発想に満ちていながら、深い学識に裏打ちされて」いるとし、『ロシアについて - 北方の原形』を「ロシアの専門家には決して書けないような種類の非常に優れたロシア論であることは、確かである」と結んでいるが、それは決して誉めすぎではないのである(沼野充義「司馬遷太郎とロシア」『大航海』No.13、一九九六年、六九頁)。

 注目したいのは、『菜の花の沖』の中の嘉兵衛がロシア人に捕らえられるきっかけとなったゴロヴニーンの日本での抑留のエピソードをめぐる考察の中で、司馬がドストエフスキーに言及していることである。この抑留という状態について司馬は、「被抑留者の精神はそれを味わったものでしかわからない。『生命』というものを相手ににぎられてしまっているのである」と説明し、このような中で、一人の青年士官が「監禁と死の恐怖」から精神に異常をきたしたことを伝えて、「幽囚が、人間としていかに耐えがたいものであるかが、この一事でもわかる」と解説している。それは「戦車」の中に閉じこめられて死を待っていた司馬自身や「独房」の中にいたドストエフスキーにも通じることだろう。

 この後、司馬はこの青年士官の変節についてゴロヴニーンがくわしく書いた文章にふれて、そこには「すこしの攻撃的なにおいもないばかりか」、若者の弱さに対する「理解といたわりがあった」ことに注目し、「背信に対し、相手を人間として理解すべく努めようとする知的寛容さは、…中略…近代が生んだ精神といっていい」とし、「この時代、ロシアの知識階級にはすでに『近代』があったということをあざやかに思うべきである」と記している。そして、司馬はこの十年後に、「人間の心理の中の質と相剋をつきつめた」ドストエフスキーが生まれていることに注意を喚起している(Ⅴ・「カムチャツカ」)。こうして新しい視野を得た後で司馬は、心理的なタブーを克服して醜い現実をも直視できるようになったドストエフスキーの作品を高く評価するのである。

 この意味で注目したいのは、一九三九年のノモンハン事件を主題にした長編小説をも描こうとして膨大な資料類を集めていた司馬が、「戦闘というより一方的虐殺」となった、「ばかばかしい戦闘を現場でやらせられた」、「有能な指揮官」が発狂したことを怒りをこめて書き記していることである(「戦車・この憂鬱な乗り物」『歴史と視点』)。

実は、このような発狂の可能性は戦車中隊の指揮官であった司馬自身にもあった。すなわち、司馬は終戦間際にアメリカ軍との本土決戦のために満州から引き揚げて北関東に配置されたが、そこで敵の邀撃(ようげき)作戦などを説明するために大本営から来た将校は、「東京方面から大八車などに家財道具を積んで逃げてくる物凄い人数の人々をどのように交通整理するのか」との問いに対して、「昂然と、『轢っ殺してゆけ』と、いった」のである。司馬は「国家」のために死を覚悟したが、ここでは民衆を守るはずの「国家」が「同じ国民」を殺すことを命じたのである。

 この言葉を聞いた瞬間、若き司馬遼太郎の脳裡をどのような思いが走ったのだろうか。そして、彼はどのようにしてその思いを耐えたのだろうか。松本健一は「司馬さんが、天皇制イデオロギーにほかならない皇国史観ばかりでなく、五・一五事件や二・二六事件に対する違和感、いや憤りのような感情をいだいていた」と書いている(松本健一『司馬遼太郎 歴史は文学の華なり、と』小沢書店、一九九六年、三八頁)。

 追記(2022/04/30)
【 一方、華族のための学習院の初等科6年生の時に2・26事件と遭遇していた三島由紀夫は『英霊の聲』ではこの事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記し、青年将校たちの精神を美化していた。

 ただ、それは思想や見方の違いだけに帰着するのではなく、年代の差によるところが大きいだろう。司馬と三島の年齢差はわずか二歳であったが、三島が徴兵を免れたのに対して、司馬は満州の戦車隊に徴兵されていたのである。堀田の親友・中村真一郎はそのことについてこう記している。

 「私だけの経験で云えば、昭和になってからの十数年は、まことに慌ただしいもので、昭和元年の二十歳と昭和十年の二十歳とでは、殆んど会話が不能であり、いや、昭和十三年に二十歳であった私には、昭和十年に二十歳であった野間宏とも、非常に大きな感覚的な相違が感じられることがある。」(『全集』、解説「同時代者堀田善衞」)】

 堀田が『若き日の詩人たちの肖像』で詳しく記しているように彼の世代にはすでに体制に批判的な行動を起こすことはできなかったが、まだ批判的に見ることはできた。しかし、それから5年後の司馬遼太郎の世代やそれから2年後の三島の時代には、「昭和初期の政治的軍人」を批判的に見るような自由も残されていなかったように思える。

「革命思想」の正当性をめぐって内ゲバをくり返していた学生運動を鋭く批判した次の文章はこの時司馬が受けた「絶望」に近い衝撃の大きさを正確に物語っていると思われる。「昭和初期の政治的軍人とそっくりの、つまり没常識・非論理的のなかでこそ大閃光を発するという貧相で陰惨なしかし、であればこそ民族的な深層心理に訴えやすいという日本的ファナティズムが学生運動の分裂のあげくに出てきているようである。幻想と没常識のタイプも酷似しているし、他民族への(学生運動の場合は他の分派への)残忍さまでそっくりである。…中略…それはかつての日本軍が中国人に対して加えたそれとひどく似ているようにおもえて、暗然とした。日本人は地球から消えてしまえと思いたくなったほどだが」(「戦車・この憂鬱な乗り物」『歴史と視点』)。

 この文章は、説得力が豊かで穏やかな司馬の普段の文体とは全く異なる。ここで、司馬は論理的な考察を拒絶して、感情的に自分より「次の世代」の学生たちを論じつつ、「日本人」を全否定している。そしてこの時、司馬遼太郎は自分の信じるイデオロギーを唯一の「普遍的な正義」とした学生たちの考えと、「自国」を「神国」と称して太平洋戦争を導くにいたる自分より「前の世代」の国粋主義的な政治的軍人たちとのあいだに明らかな類似性を見ていたのである。

 最初、この文章と出会ったとき私は司馬を捉えていた絶望の深さに愕然としたが、何度か読み返す中で、母親や農民たちに対する実の父親の暴虐ぶりに暗澹たる思いをしたであろうドストエフスキーの絶望が重なり合った。卓越した心理描写で読者を驚かせたドストエフスキーが、父親の欠点をも直視しつつ、「父親殺し」のテーマを真正面から描いたのは、ようやく最後の作品『カラマーゾフの兄弟』においてであった。ドストエフスキーにおける「父親殺し」のテーマと比較する時、この文章こそが「司馬史観」の争点の一つとなっている「昭和初期の(別国)」論を解く鍵だとも言えるだろう。

 ジラールは父と息子の対立のテーマを分析しながら、「ある意味で父親と息子は同一である」ので、非道な「父親は『他者』として憎まれるが、もっと深いところでは『自己』としての羞恥心の対象」であり、「圧制者=父親に向けられた奴隷=息子の犯罪」といえる「父親殺し」は、「殺人であると同時に自殺」でもあると結論している(ルネ・ジンラール、鈴木晶訳『ドストエフスキー二重性から単一性へ』法政大学出版局、一九八三年、前掲訳書、一二二~三頁)。「父親」の欠点は、父という存在がきわめて大切で身近であり、それらが直接「自分」にもつながっているだけに、それらの欠点が直前に示された場合には、それを論理的に考察するのは精神的につらいので、できれば自分の前から消えて欲しいと願うのであろう。

 同じことが、「自分」と「祖国」の関係についてもほぼ当てはまる(ついでながら、ロシア語では「親」と「祖国」の語源は同じである)。つまり、ニコライ治世下のロシアで育ったドストエフスキーは少年の時に「正教、専制、国民性」をロシアの理念として教育されたが、五・一五事件の二年前の一九三〇年に尋常小学校に入学した司馬も「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」と語っているように、文部省が『国体の本義』を発行して国粋的な教育をいっそう強化していた時代に青少年時代を過ごしたのである。おそらく、子供から青年期の時代に、論理だけでなく感性的なレベルで教育を受けた者にとって、「国家」と「自分」を距離を置いて客観的に考えるのは難しかったのである。

 このように見てくる時、ドストエフスキーが「父親殺し」を直接のテーマとして描くには多くの歳月を必要としたが、昭和前期を司馬が『十数年の“別国″』と見なしたのも、「日本人」全体を否定したくなるような衝動や深い絶望を抑えるための、一種の『仮構』だったと言っても過言ではないように思える。

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (2)日露戦争と日露両国の近代化の考察

 日露戦争を中心に措いた『坂の上の雲』の初期においては、司馬は「憲法」を持たなかったことから未曽有の大混乱となりついには革命に至ったロシアと、アジアで最初に「憲法」を持つようになった民主的な国家日本を比較しながら、祖国の防衛戦争として日露戦争を位置づけて、その意義を強調していた。

 たとえば、司馬は福沢と共に「当時の西ヨーロッパ人からみれば半開国にひとしかった」ロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝の改革を高く評価し、彼が使節団を西欧に派遣したり「ひげをはやしている者には課税」するなど岩倉使節団や断髪令など日本の明治維新に先行して「つぎつぎに改革と西欧化を断行した」ことを指摘している(Ⅱ・「列強」)。その一方で司馬は、民衆には将校になる可能性がほとんどなかったニコライ一世治下のロシアと比較しながら、「日本ではいかなる階層でも、一定の学校試験にさえ合格できれば平等に将校になれる通がひらかれている」明治の新しい教育制度のよさに注意を向けている(Ⅰ・「七変人」)。

 この時、司馬は主人公の一人である秋山好古が福沢諭吉を尊敬していたことを強調することによって、自由民権運動や教育における福沢の意義に注意を促していたが、ロシアを「野蛮」とする見方は、福沢諭吉が『民情一新』において示したロシア観とも重なるものだったのである。だが、このような日露観は日露戦争という悲劇的な形で現れた日本とロシアという二つの強国の接触を、雄大な構想のもとに具体的な事実を丁寧に調べ直しながら描いていた『坂の上の雲』を書く中で次第に変化していく。

 第四巻のあとがきには「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記され、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることが挙げられている(Ⅷ・「あとがき四」)。事実に対する「冷厳な感覚」によって日露戦争の実態を綿密に調べながら書くことによって、彼は日本の近代化の問題点についての理解も深めていくのである(中島誠〈 文 〉、清重仲之〈 イラスト 〉『司馬遷太郎と「坂の上の雲」』現代書館、二〇〇二年参照)。

 さらに、第五巻でロシア側が都市を要塞化して守っていた旅順攻防の悲惨な戦いを描く中でクリミア戦争に言及した司馬は、二十七歳の時にクリミア戦争に「下級将校として従軍」していたトルストイがロシア要塞の攻防を描いた小説『セヴァストーポリ』を「籠城の陣地」で描いていたことに言及している。そして、トルストイがそこで「愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戦だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」ことに注目している(Ⅴ「水師営」)。

 こうして、日露戦争における旅順の攻防とクリミア戦争のセヴァストーポリの攻防との類似性に気づいた司馬は、日露戦争以降に顕著になった「時世時節の価値観が事実に対する万能の判定者になり、都合のわるい事実を消す」という傾向を指摘し、日露戦争の戦史が事実を伝えていない事が多いことに触れて、「日本人は、事実を事実として残すという冷厳な感覚にかけているのだろうか」という深いため息にも似た言葉をも記すようになるのである(「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』)。

 この時司馬は、「祖国戦争」によってヨーロッパの大国・フランスに対する勝利を奇跡的に収めた後では、ヨーロッパ文明に対するそれまでの劣等感の反発から「自国」を神国化する「国粋」的な思想が広がったロシアと、強国ロシアを破って日露戦争に勝利した後の「明治国家」との間にある類似性に気づいたと言えよう。

 この意味で興味深いのは、木下豊房が「空想家の系譜――ネフスキー大通りから地下室へ」において、「空想家に特有のロマン主義的現実離脱の願望が、時代閉塞状況での『弱き心』から生まれることをいみじくも指摘したのは、石川啄木であるが、ニコライ一世の専制体制下と明治絶対天皇制下に類似する精神的閉塞の状況において、ドストエフスキーと啄木のエッセイに次のような似通った記述が見られるのは興味深い」と指摘していることである(木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、二〇〇二年、八九~九〇頁)。

 すなわち、ドストエフスキーは一八四七年のフェリエトン「ぺテルブルグ年代記」において、「二人の親しいぺテルブルグ人がどこかで出会って、挨拶を交わしたあと、『声を合わせたように、何か新しいことはないか? とたずねると、どんな声の調子で会話が始まったにせよ、しみいるような憂鬱な気分が感じられる』」と書いていた。石川啄木も一九一〇年に起きた大逆事件の頃にエッセイ「硝子窓」で、その頃、若い人々の間で、「何か面白いことは無いかねえ」がはやり言葉になり、「“無いねえ”、“無いねえ″、そういって口を噤むと、何がなしに焦々した不愉快な気持ちが滓(かす)のように残る」と書いていたのである。

 比較文明学の視点からロシアと日本の近代化を比較した山本新は、「一〇〇年以上の距離をおいて二つの文明のあいだに並行現象がおこっている」と分析していた( 山本新著、神川正彦・吉澤五郎編『周辺文明論――欧化と土着』刀水書房 )。司馬遼太郎も『坂の上の雲』を書き終えた後では、「自分たちは西のほうに行けばロシア人だといってばかにされるけれど、東に行けば自分たちは西洋人でもある」とドストエフスキーが言っていたはずだと先のエッセイで書いている。この時、司馬遷太郎は強い近代化(欧化)への圧力の中でロシアの知識人もまた、「拝外と排外」という心理の揺れを持っていたことを認識したのであり、名誉白人であることを望む日本人の心理にもロシア人の場合と同じような「欧化と国粋」のねじれがあることに気付いたと思える(高橋誠一郎『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、二〇〇二年、第二章参照)。

司馬遼太郎のドストエフスキー観 ――満州の幻影とぺテルブルクの幻影  (1)昭和初期の「別国」とニコライ一世の「暗黒の三〇年」

はじめに

 ロシアと日本の近代化の類似性に注目して司馬遼太郎の2・26事件観にふれていた「司馬遼太郎のドストエフスキー観」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年)を、旧かなづかいと旧字を現代の表記に改めるなど文体を一部修正し 、 註を本文中の()内に記す形で再掲する。
 なぜならば、堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』にも言及していた本稿は、新著『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社)の内容と深く関わっているだけでなく、プーチンのロシアと帝政ロシアの類似性と危険性をも示唆していたからである。

一、昭和初期の「別国」とニコライ一世の「暗黒の三〇年」

 「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」若き司馬遼太郎は、「外務省にノンキャリアで勤めて、どこか遠い僻地の領事館の書記にでもなって、十年ほどして、小説を書きたい」という自分の人生計画を持っていた(司馬遼太郎・井上ひさし「普遍性なき『絶対主義』」『国家・宗教・日本人』)。

 しかし太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になった時、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることも知って、司馬は「観念」したのであった(「あとがき」『この国のかたち』Ⅴ。 本稿においては、司馬遼太郎の作品は、章と作品名、および巻数をローマ数字で本文中に示す)。

 しかも学徒出陣で彼が配属されたのは、満州の戦車隊であった。司馬は後に戦車について「悲しいほど重要なことは、あれは単なる機械ではなく、日本国家という思想の反映、もしくは思想のカタマリであった」と記して、「無敵皇軍とか神州不滅とかいう」用語によって、「自国」を「他と比較すること」を断った当時の日本を厳しく批判した。つまり日本軍の戦車は「敵よりもはるかに鋼材が薄く、砲が敵にかすり傷も与えることができないほどに小さすぎた」ので、「敵戦車が出現した瞬間が私の死の瞬間になる」ことを意味していた。そして、敵の強力な戦車とは、ロシア(ソ連)の戦車に他ならなかったのである。

 司馬は戦車の閉ざされた空間の中で「国家とか日本とかいうものは何かということ」を考え込んでいるうちに、「むこうの外界にあらわれたのは敵の戦車ではなく、…中略…成立後半世紀で腐熱しはじめた明治国家が、音をたてて崩れてゆく」という幻影を見、もし生きて帰れたら「明治国家成立の前後や、その成立後の余熱の限界ともいうべき明治三十年代というものを、国家神話をとりのけた露わな実体として見たいという関心をおこした」と記している。 明治国家の「露わな実体」に迫ろうとした司馬は、同時に自分に死を宣告する筈だったロシアの「露わな実体」をも明らかにしたいと思った筈であり、このことが司馬に日露戦争を主題とした『坂の上の雲』を書かせたといっても過言ではないだろう。

 ところで、司馬遼太郎が深く尊敬していた福沢諭吉は、一八七九年に書いた『民情一新』で、日本に先駆けてロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝の改革を高く評価した。その一方で彼は、西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、国内の学校においては「有名なる論説及び学校読本を読むを禁じ」、さらには「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世治下の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じ、このような結果、「人民も政府も共に狼狽して方向に迷う者」の如くになったと批判した。

 実際、ロシアは「富国強兵」策によって強国となり、貴族の富は増大したものの、それに反比例する形で民衆、ことに農民の「奴隷化」が進んだのである。しかも、ロシアの文部大臣となったウヴア一ロフは、西欧化の流れの中で若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とし、国民にたいしてこの理念の遵守を求めた通達を一八三三年に出した。しかし、国内の劣悪な政治状況を放置したまま「為政者」にではなく「国民」に「道徳」を課し、これを批判する者を厳しく罰したこの理念は、ロシアにおける「欧化と国粋」の対立の激化を招いたのである ( 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年、四八~五三頁参照 )。

 ドストエフスキーが生涯敬愛し続けたプーシキンは、このようなロシアの二重性を叙事詩『青銅の騎士』(一八三三)において見事に描き出していた。すなわち、この作品の主人公である若い官吏エヴゲーニイは、ペテルブルグを襲った大洪水で最愛の婚約者を失った悲しみから茫然として街をさまよい、ついにはピョートル大帝の「青銅の騎士」像に追いかけられるという強迫観念に駆られて狂死したのである。

 ドストエフスキーもフランス二月革命が起きた一八四八年に書いた小説『弱い心』で、最愛の娘との婚約にまでこぎつけた主人公の若い官吏が、有頂天になって仕事に手が着かず、「職務不履行のために兵隊にやられる」のではないかと恐れて「発狂」するという悲劇を描いた。こうして、農奴制の改革などを求めて、ペトラシェフスキーの会に参加していたドストエフスキーは、佳作『白夜』の発表から間もなく捕らえられて刑が決まるまでの約八か月、サンクト・ぺテルブルクの中心部に位置したペトロパヴロフク要塞の独房に監禁された。

 司馬は「私はいまでもときに、暗い戦車の中でうずくまっている自分の姿を夢にみる」と書いていた(「石鳥居の垢」『歴史と視点』)。ドストエフスキーもまた、いつ看守が死刑を告げにくるかも知れぬ暗い独房の中で、「うずくまっている自分の姿を夢に」見てうなされたことであろう。そして、そのような閉ざされた空間の中で、「ロシアとかいうものは何かということ」を考え込んでいるうちに、彼が見たのはピヨートル大帝によって造られた壮麗な都市サンクト・ぺテルブルクが「音をたてて崩れ」、もとの沼地に戻るという光景だったのではないだろうか。

 譜の作成者は司馬遼太郎が学生時代には『史記』だけでなく、ロシア文学を耽読していたことも記している(山野博史編「司馬遼太郎の七二年」『司馬遼太郎の跫音』中公文庫、一九九八年、六九二頁)。司馬遼太郎がドストエフスキーに言及している箇所はそれはど多くはないが、以下に詳しく見るように、言及されている箇所は司馬の「作風」や文明観の変化にも係わる重要な役割を担っているのである。本稿ではドストエフスキーが青春を過ごしたニコライ一世の「暗黒の三〇年」と、司馬が「別国」と呼んだ昭和初期の類似性に注目しながら、司馬のロシア観の変化を追うことによって、ドストエフスキーヘの言及の意味に迫りたい。

ウクライナ危機と1986年以降のロシア危機(2)――   「民族的憤激」の危険性

今回の再掲にあたって副題に付けた「民族的憤激」という用語は、週刊朝日の1967年8月11日号に書いた三島由紀夫の「民族的憤激を思ひ起せ-私の中のヒロシマ」から引用したもので、三島はそこで原爆投下のニュースを知ったときの衝撃についてこう記していました。

「広島に〝新型爆弾″が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。神奈川県の高座(かうざ)にある海軍の工場に勤労動員中だつたが、ひどく虚無的な気分になつてゐて、「新型爆弾に白い衣類は危険だ」といふので、わざと自シャツ姿で町を歩いたりした。/ それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。」 (447)

だが、その前年に 2・26事件の指導者の一人であった将校 ・磯部浅一の霊に憑かれたような作品 『英霊の聲』を発表していた三島は、そのあとこう続けて
核武装」を正当化していたのです 。

「われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起こすべきではないのか」 。

三島由紀夫作品でウクライナ危機を考える――「民族的憤激」の危険性

 一方、 堀田善衞は『小国の運命と大国の運命』の終わり終章でヨーロッパと比較しつつ、「われわれの日本、中国、ヴェトナム、南北朝鮮、インドネシアなどの、相互にまったく不均衡かつ共通項を欠いた情況をもつアジアの方が、実はずっと危険でもあり深刻な様相にあるものである、と私は思う」(314)と書いています。  

極東の諸国は日本に侵略されたり併合されたりして民族的な自尊心を著しく傷つけられた過去を持っています。 右派の政治家が三島が敬愛する2・26事件の将校たちと同じような「民族的憤激」を煽って、軍拡や核武装に踏み切ることになれば、極東から核戦争が始まる危険性が高まると思われます。

冷静に国家の未来を創造すべき政治家が「民族的憤激」を煽ることは、地震大国でありながら54基もの原発を建設した日本だけでなく、極東を滅亡の危機にさらすことにつながるでしょう。

ウクライナ危機にロシア危機を振り返る――「民族的憤激」の危険性

『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年) の「あとがき」より。

 本書に推理小説的な手法を持ち込むきっかけとなったことが他にもありました。それは現代ロシアの犯罪状況が、『罪と罰』当時のロシアの状況ときわめて似ていることを実感したことです。ラズミーヒンはラスコーリニコフの母と妹にサンクト・ペテルブルクの危険性を指摘していますが、この言葉は現在のロシアの大都市にもそのままあてはまります。

つまり、新たに市場経済を採用したロシアでは、まだ経済のルールが確立されておらず、「儲ける」ためには「あらゆることが許されている」と考える者も少なくなく、そのような中、最も手っ取り早い儲けの手段として強盗や泥棒などの犯罪が多発しているのです。実はこの年(九三年)の夏に学生を引率してモスクワを訪れた際、私自身が強盗にあって殺されかけるという経験をしました。ピストルをこめかみに当てられながら、私を殺しても彼らはラスコーリニコフのように後悔することはないだろうとふと思い、『罪と罰』の世界がとても身近なものに感じられたのです。

 また、この時期に、モスクワ大学の本屋などに英語で書かれたビジネス書や様々な英語の雑誌が急に増えていたことに驚かされましたが、本論で見たように、農奴解放がなされる一八六一年の前後にもロシアには西欧の様々な思想がどっと入り、それらをめぐって鋭い論戦が行われていたのです。さらに、既存の思想やモラルが根底から揺れ動き、激しいインフレと失業率の増大、犯罪の多発に苦しむ現在のロシアや旧ユーゴスラヴィアの状況は、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊して第一次世界大戦へと至った頃や、その戦いに破れたドイツ帝国の社会的状況とも似ているように思えます。

一九九二年の夏に、私はロシアのいくつもの本屋でヒトラーの『わが闘争』のロシア語訳を見かけ、なぜドイツとの戦いであれほどの犠牲者を出した国で、この本が売れているのか不思議に思いました。しかし、その後に行われたロシアの総選挙で過激な民族主義者のジリノーフスキイが率いる党が勝利をおさめたのを見るとき、その理由の一端が分かったように思いました。チェチェン紛争に際しては、彼の主張にきわめて近い政策が取られて四万人以上とも言われる死者を出していますが、政治的・経済的混乱の中では、自国民の優秀さを訴えるとともに、闘争の必然性とその勝利を説く者が、民衆の傷ついた自尊心を強く刺激するようです。この意味において、わかりやすい言葉でドイツ民族の優秀さと権力への意志を訴えた『わが闘争』は、論理の一貫した説得力のある書物と言わねばならないのです。

一方、戦後めざましい経済復興を遂げ、繁栄を謳歌しているかに見える日本も、環境破壊やバブル経済の破綻、さらには「地下鉄サリン」事件や頻発するいじめ問題など、社会の抱える問題の根は深いように思われます。

 こうして、本書では殺人を引き起こすことになったラスコーリニコフの考えが現代の問題ともつながっていることも視野に入れながら、彼の思索や行動、さらに他者との議論の考察などを通して、彼の理論と当時のヨーロッパ思想との深い係わりを文明論的な視点から検証しました。文学作品『罪と罰』には様々な読み方が可能だと思われますが、本書がより広い視野と百年単位の長い視点から自分や社会について考察するきっかけとなれば幸いです。またこれを機会に『罪と罰』やその研究書だけでなく、ここで言及した多くの文学作品や思想書にも挑戦してもらえればと思っています。

 (2022/04/15、改訂)

 

ウクライナ危機と1986年以降のロシア危機(1)

ロシア軍によるウクライナ侵攻と蛮行が未だに収まらない状況を知らせるニュース報道を見、新聞記事を読みながら、なにも出来ないことに苛立ちながら、「チェコスロヴァキア事件とウクライナ危機」という論考を書いていました。

その中で鮮明に思い起こしたのは、学生を引率していた際に経験した1986年のチェルノブイリ原発事故や1990年初頭に学会や引率で度々モスクワを訪れていた時のロシア危機のことでした。

今回のロシア軍のウクライナ侵攻では、 1986年に史上最悪の原発事故を起こした チェルノブイリ原発も一時、占領されるという事態も発生しました。この事故については、 ホームページのグラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(1988年)」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」でも言及しました、

 また、ドストエフスキーにこだわり続けた 黒澤明と小林秀雄が 1956年12月に対談をっていたことに注目して、二人の原爆観や核エネルギー観の問題に迫った 『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)でも映画《生きものの記録》や映画《夢》の分析を通して行いました。

 1990年初頭の体験は、私のドストエフスキー観や文明観とも深く結びついているので、教養科目「現代文明論」の授業のために編んだ『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)の「あとがき」に記していました。

 以前にこのブログではエリツィンが急激な市場経済を導入したために、一時はモスクワのスーパーの棚にはロシア産の商品がないような状態も生じて、「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行ったことを紹介しました。

急激な市場化によってスーパーインフレに襲われ一般庶民が塗炭の苦しみを味わったこの時期に、ロシア人の多くが反欧米の感情を持つことになったと思えるので、まだホームページには掲載していなかった 「あとがき」 の該当部分をブログに、全文を「著書・共著と書評・図書紹介」のページにアップすることにしました。

ウクライナ危機にロシア危機を振り返る――「民族的憤激」の危険性

(2022年4月15日、改稿)

(10)第一次世界大戦での「チェコ軍団」の動向とシベリア出兵の問題

前回はオーストリア帝国からハンガリーへの派兵の要請を受けたニコライ一世が、1849年に10万を超えるロシア軍を派遣していたことを見たが、『若き日の詩人たちの肖像』第一部の題辞で『白夜』冒頭の文章を引用した後で重苦しい昭和初期を活き活きと描き出した堀田善衞は、1970年に発表した小文「『白夜』について」では、「ドストエーフスキイの後期の巨大な作品のみを云々する人々を私は好まない。それはいわばおのれの思想解明能力を誇示するかに、ときに私に見えて来て、そういう『幸福』さが『やり切れなく』なって来るのだ」と記している。

この文章は彼がハンガリー出兵の前に発表された『白夜』という作品が持つ重みを深く認識していたことを示しているばかりでなく、ハンガリー出兵と1918年のシベリア出兵の類似性をよく理解していたと思える。

「なぜならば、エッセイ「砂川からブダペストまで――歴史について」(一九五六)で、「砂川町での基地反対運動についてだけでなくソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧についても言及した堀田は「歴史を重層的なものとして見る」ことの重要性を強調しているからである」(『堀田善衞とドストエフスキー』、45頁)。

実際、フランス2月革命の影響が国外の諸民族にも波及し始めるとニコライ一世は、「不遜極まりなき暴挙」が、「朕の統治するロシアの神を冒涜せん」としつつある今、「われらが正教徒たる先祖の遺訓に基づき、全能の神の助けをもとめて、朕はわが外敵の出現するところ、労をいとわず、進んで迎え撃つ覚悟であり」、「わが国境の不可侵権を擁護する所存である」としてハンガリー進軍の内命を三月一四日(ロシア歴二六日)に出し、さらにはペトラシェフスキー会の内偵も始めていた*3。」(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、167~168頁)

一方、第一次世界大戦の末期に行われた連合軍と日本軍によるシベリア出兵は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」ことを名目として、革命政府の打倒のために軍隊が派兵された。

なぜシベリアに「チェコ軍団」がいるのだろうか。細谷千博『シベリア出兵の史的研究』によって簡単にその経緯を確認しておきたい(129~133)。

「多年オーストラリア帝国の圧政の下で早くから民族意識に目覚め、民族的自由を獲得する運動を継続していた」チェコ人とスロヴァキア人にとって、「第一次世界大戦の発生は民族的独立を達成するための得難い機会」と映り、「両民族は続々とロシア側に投降」して、「その数は五万人にも達した。」

ソヴィエトとドイツとの停戦協定が成立すると「チェコ国民評議会(在パリ)とフランス政府との間には」、オーストリアとの戦闘のために「チェコ軍団をフランスの最高指揮官の下に属しめ、これをフランスに転送する」との協定がまとめられ、ソヴィエト軍の指揮官も「シベリア経由でロシアを去る」ことを許可して、5月末にはウラジオストックに1万人が到着した。

しかし、シベリアで反革命軍が活動を始めたことを警戒したソヴィエトが行く先の変更などを求めたために、長く待たされたことや武器の放棄を求められた「チェコ軍団」と赤軍との武力衝突が始まり、チェコ軍はペンザ、オムスク、サマラなどの都市を占領し、それらの都市では5月末から6月初旬に反ボリシェヴィキ政権が樹立されていた。このように見てくるとき「チェコ軍団」は、「革命軍によって囚われた」どころか、「革命軍に到る所で勝利していた」のである。

シベリア出兵をテーマとした堀田善衞の長編小説『夜の森』(1955)でも先陣として派兵され、8月13日にウラジオストークに上陸した小倉の歩兵第14連隊の巣山忠三・二等兵の日記の冒頭でも、「ウラジオでの大隊長の訓示によると、チェック・スロヴァキアの軍がウラジオでことを挙げ、過激派を我が陸戦隊とともに七月初旬に追っ払ってしまった」ことが描かれている(『全集』3巻・149頁)。

さらに、「我々日本軍は、聯合与国とともに国際警察隊をかたちづくっているのであって、われわれの行動作戦は、警察行動というのが建前である」という聯隊長の訓話や主人公が看護にあたった少尉の「今度の出兵は、日清日露などとはまるきり性質のちがう、出兵で」あり、「日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」であると主人公が看護にあたった少尉に、「今度の出兵は、日清日露などとはまるきり性質のちがう、出兵で」あり、「日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」(『全集』3巻・359)であるという言葉の記述もある。

これらの言葉は「日本浪曼派」の保田與重郎が「八紘一宇」などの理念が唱えられた「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていたことや太平洋戦争に際してはそれまでの「日・満州・支」に東南アジア、インド、オセアニアの一部を加えた範囲が「大東亜共栄圏」とされたことを思い起こさせる。

しかし細谷によれば、日本軍の出兵数は一万二千以下であり、ウラジオストック以外の方面に出動したり」することは決してないと約束したにもかかわらず、重要な軍事拠点のブラゴヴェシチェンを占領してイルクーツクまで進出し、10月末には日本軍の人数は7万2千に上っていたのである。

さらに、この長編小説ではピカライ金山やメリワン金山の戦いも描かれているが(『全集』3巻・176、178)、それらの金山をめぐる攻防は、「過酷な軍政か反動的な傀儡政権の樹立を通じて行われ、戦争遂行のための物資と労働力の一方的な収奪に終始し、〈共栄圏〉の美名にはほど遠かった」太平洋戦争を先取りしていた観すらある(岡部牧夫「大東亜共栄圏」『世界大百科事典』平凡社)。

チェコスロヴァキア事件にふれたイギリスの詩人W・H・オーデンの詩の内容から画家ゴヤの『わが子を喰うサトゥルヌス』の絵を想起したと書いていた堀田は、「毎日新聞」朝刊に掲載されたエッセイ 「『戦争の惨禍』について―乾いた眼の告発―」(1971年 11月11日)では、「私がはじめてこの版画集を見たのは、支那事変中のことであった。『南京虐殺事件』という言葉が、密々に、どこからともなく耳に聞こえはじめていた頃のことであった」(『全集』16巻・378頁)と書いている。

堀田が短編『『「ねんげん」のこと』(一九五五)で主人公に証言させているように、「五族協和」などのスローガンを掲げて建国されたこの「新天地」には、阿片を販売するための「阿片管理部」という機関が作られており、朝鮮には「阿片、ヘロイン、コカインなどを精製する大工場」があったのである。

さらに、堀田善衞の『夜の森』で主人公からロシア革命について尋ねられた通訳の花巻に、「戦争と米価騰貴に疲れ、不平不満の民衆一揆みたいに立ち上って、これと職工や兵隊がいっしょになって米騒動が革命になったのですよ」と説明させた堀田は、1919年には「人の数でなら米騒動の上をゆくような大騒動」が韓国でも起きていたと三・一独立運動についても伝えさせている。帰国直前に得た6月30日の日本の新聞記事で中国の五四運動について知ったことも記されている(『全集』3巻・281~282頁)、

それらのことに留意するならばこの長編小説で記されているシベリア出兵時に占領した地域が驚くほど後の「満州国」の版図と重なっていることが分かる。『夜の森』はシベリア出兵から満州事変を経て太平洋戦争に至るその後の日本の歴史の骨格を見事に示唆していたのである。

(9)日露の併合政策と教育制度の類似性

日本ではウクライナ危機を契機に自民党のタカ派や維新の議員が声高に軍拡や「改憲」を訴え、公明党や国民民主党などもその主張に流されているように見える。

しかし、ウクライナ危機が1968年の事件の際と決定的に異なるのは、ロシアに武力で攻撃されたことのなかったチェコスロヴァキアが武力による抵抗をしなかったのに対して、ロシア帝国に併合されていたという過去を持っていたウクライナが人的な被害をも顧みずに徹底的な抗戦をしていることである。

おそらく併合された民族の怒りや心的な深い傷について考えたことのなかったプーチン大統領はチェコスロヴァキア型の解決を予想していたのだと思われる。今回のウクライナ危機に際して、戦争に関連して日本人が考察すべきは、過去に併合されたことのある隣国の心的な傷の深さだろう。

『若き日の詩人たちの肖像』で日本に住む韓国人の屈折した心理をも描いた堀田善衞は、上京してからギターも習い始めた主人公の若者が、ロシア帝国によるポーランド併合と日韓併合についての類似性について、「ショパンの音楽は、たとえば朝鮮のアリラン節を洗練したようなものであり、ポーランドの旋律のもつ、あるあわれさとポーランド自身の運命は、東方における朝鮮のそれに酷似していた」(上巻・40頁)という感想を抱いたと描いている(『堀田善衞とドストエフスキー』群像社、57頁)。

ドストエフスキーが受けた教育とウクライナやポーランドとの関りについては、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でゴーゴリの場合などをとおして考察していたので、少し長くなるがまずそれらの個所を引用する〔文章中の「」はそのまま記し、省略した個所は(……)で示す〕。

「ドストエフスキー兄弟が学校に通い始めた頃、ロシアでは「祖国戦争」後に属国として併合したポーランドの政情ともからんで、大きな「教育改革」が始められていた。

 すなわち、デカブリストの乱の後に、自由主義的な思想の排除に努めていたニコライ一世は、一八二九年にポーランド王に即位すると、それまでポーランドには認められていた憲法の破棄などを断行しようとした。そのためにこれに対する激しい反発からポーランドでは翌年の一一月に蜂起が勃発していたが、これを鎮圧したニコライ一世はポーランドにおける憲法の無効を宣言し、ワルシャワやヴィリノ大学を閉鎖したのである。

 このような「教育改革」はすでに属国として併合されていたウクライナでも行われていた。ドストエフスキーが学んだチェルマーク寄宿学校の雰囲気を想像する手がかりとするためにも、少し回り道をすることになるが、作家のゴーゴリが一八二一年から二八年にかけて学んだウクライナの高等中学校(ギムナジウム)でおきたいわゆる「自由主義事件」をとおして、ウクライナの「教育改革」の問題を簡単に見ておきたい*7。

 ゴーゴリが入学したときのオルライ学長は医学と哲学の博士号をもった知識人で、一八一二年の「祖国戦争」に際しては、軍医として負傷者の手術にもあたったことがあり、時には他の学校と同じように鞭による体罰も行ったが、ペスタロッチの教授法による自由な学風を確立していた。それゆえ、学校では語学の修得のためにも演劇が推奨され、ドイツ語、フランス語やさらには、学校の正課には入っていなかったウクライナ語の劇が上演され、ゴーゴリも俳優としての才能を発揮していた。

 だが、学長が学校を去って問題が起きた。一八二五年のデカブリストの乱の後から密告が推奨され(……)寮生の持ち物検査をすると、学生たちの持ち物に当時は上演が禁じられていたグリボエードフの『知恵の悲しみ』や、危険視されていたプーシキンの『コーカサスの虜囚』や『強盗の兄弟』などの書物が見つかった。

 (……)卒業の時期が近づいて来るに従って、それまでベロウーソフを弁護していた学生たちが証言を覆し始めた。なぜならば、卒業時に与えられる官等は、その評価によって一二等官から一四等官までの差が出るからであり、学長も保守的なヤスノスキーに代わっていたのである。こうした結果、ベロウーソフ教授と最も親しいと見なされていたゴーゴリは、彼より出来ない学生が一三等官の官等を得たにも係わらず、結局、最下位の一四等官の地位しか与えられなかった。

 こうして、学校ではウクライナ語の詩も書いたりしていたゴーゴリは、卒業に際して「秩序」の厳しさを身にしみて味わわされ、ロシア語で作品を書く作家としてデビューすることになるのである。」(50~52頁)

 一方、ロシア帝国でもドストエフスキーが寄宿学校に入る前年の一八三三年に「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とする通達を学校関係者や教育行政官に出されていた。

 「(ニコライ一世は)革命の成果を守るために国民軍の導入を果たしていた「国民国家」フランスとの国家の存亡を賭けた「祖国戦争」で辛うじて勝利をおさめた経験から、「普遍的な理念」とされロシアの若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念によって西欧文明への崇拝者が増え、自国の「国家」としての骨格を崩されることを怖れて、ロシアの「伝統」に根拠を置いた「正教・専制・国民性」の「三位一体」を「ロシアの理念」として国民に徹底しようとしていたといえよう。

 しかし問題は、「ヨーロッパの理念」に対抗するために、西欧近代の「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」の批判をできるようなロシア発の「普遍的な理念」を打ち立てるのではなく、ロシアの貴族が既得権益を失うことのないように、ロシアの「伝統」が強調されたことである。

 農奴制の問題を手つかずで残したままで、「正教・専制・国民性」を「ロシアの理念」として強調したことは、ロシアの「野蛮性」を批判する西欧諸国の批判に根拠を与えることとなってしまった。それゆえ、厳しく禁じられた「自由・平等・友愛」という理念に憧れる若者が増えることを未然に防ぐために、ロシアは西欧からの厖大な情報に対する検閲を強化し、その措置が西欧からの新たな批判を生むという悪循環を招くこととなったのである。」(52~54頁)

 若きドストエフスキーがデビュー作『貧しき人々』でプーシキンの『駅長』とゴーゴリの『外套』を詳しく分析していたことの意味については、拙著で詳しく考察したが、ニコライ一世の頃の国粋主義的な歴史理解の弊害をもドストエフスキーは深く理解していた。検閲で禁じられたベリンスキーのゴーゴリへの手紙をペトラシェフスキーの会でドストエフスキーが朗読したことは、そのことをよく示しているだろう。

すなわち、ゴーゴリは一八四七年の初めに『友人達との往復書簡選』(以下、『書簡選』と略す)を出版し、ここで「官製国民性」を高く掲げて、自己を棄てた「国家への奉仕」こそがロシアの危機を救うと主張した。

「この頃ゴーゴリは、『死せる魂』の第二部で主人公チチコフの回心を描こうとしていたが、この試みはなかなかうまくいかず、それまで書きためていた原稿をすべて燃やしてしまうなど精神的に追いつめられていた。こうした精神的危機の中で出版されたのがこの著作であった。

 ゴーゴリはこの『書簡選』でも「汚職」や「裏取引」が「人間の手段をもってしてはどうにもならぬほど多い」ロシアの現実を厳しく指摘して、「ロシアはまさに不幸である」と断言してはいる。

 しかし、このような現状認識を示しつつもゴーゴリは、ここでその原因をロシアにおける法律の不備や憲法の欠如に求めるのではなく、人々が「物質的利益に誘惑されエゴイズムに盲いて、よきロシア的伝統を見失っている」ためだとした。そしてゴーゴリは、「自己のための自己を全て殺し、全てをロシアに捧げ、ロシアにあって活動しなさい」として、制度的な腐敗を生み出している政府ではなく、その腐敗に苦しむ国民に対して道徳を説いたのである*44。

 しかも、ゴーゴリは神によって支配する者と支配される者が選別されているのだとして、「支配される立場に生まれた彼ら百姓たちが、その下に生を受けた権力に従順たらねばならぬ」ことを強調し、「国家内の全ての階級・全ての個人が己の分と義務を弁え」るように、ロシア人の教育にあたっては、「彼の属する階級の諸々の義務を教えこむこと」が必要だとも記していた。このようなゴーゴリの記述の方法は、個人の自立を阻むものとしてまさにドストエフスキーが『貧しき人々』で否定していたものであった。(……)

 注目しておきたいのは、ゴーゴリの『書簡選』が出版された年に、ウクライナ語で詩を書いていたシェフチェンコなど「キリル・メトディ団」が逮捕されるという事件が起きていたことである。」ウクライナ語を積極的に用いることは、「「国民国家」フランスの成立以降、どの国でも「中央」の言語として重要視されてきた「国語」の権威を揺るがすものとして危険視されたのである*45。」(157~158)

1848年にはフランスで2月革命が起きてヨーロッパは騒然としたが、「このような政治情勢下でドストエフスキーは文筆活動を続けるかたわら空想社会主義者フーリエの考えを信じて、「農奴制の廃止」や「言論集会の自由」などロシア社会の変革を求めて、印刷所を設けようとするなどの活動を秘密裏に行っていた。その年の一二月に『祖国雑記』に発表された作品」(168)が、堀田善衞が『若き日の詩人たちの肖像』第一部の題辞としてその冒頭の文章を引用した『白夜』だったのである。

「一八四九年四月二三日未明、ドストエフスキーは寝入りばなを起こされ逮捕された。その容疑はペトラシェフスキー・サークルの「集会に出席」し「出版の自由、農民解放、裁判制度の変更の三問題に関する討論に加わりゴロヴィンスキイの意見に賛成」したこと、および「ベリンスキーのゴーゴリへの手紙を朗読」したことであった。」(196)

「一方、オーストリア帝国からハンガリーへの派兵の要請を受けたニコライ一世は、一八四九年の七月に一〇万を超えるロシア軍を派遣して、八月には革命軍を降伏させた。このために国内で極端に保守的な政治を行っていたニコライ一世は、「ヨーロッパの憲兵」とも呼ばれるように」なったのである(205)。

この不幸な歴史は1956年のソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧で繰り返されることになり、私事になるが、かつてポーランドを旅していた際に私がロシア語で語りかけても返事をされないという経験をして、ロシアに併合された過去を持つポーランドにおけるロシア語に対する拒否感の強いことに驚かされ、創氏改名を強制した日本の韓国併合政策の過酷さを連想したことがある。

ソ連軍の侵攻の後でチェコスロヴァキアに入った堀田善衞も、「モスクワから来ていたある日本人特派員氏と食事をしていたとき、思わずこの特派員氏がロシア語を口にすると、『ここではそんなことばを使わないでくれ』」と鋭く告げらたことを記している(268)。

この侵攻の後ではチェコスロヴァキアにおいてもそれまでの信頼が崩壊し、ロシアは侵略国と見なされるようになっていたのである。