高橋誠一郎 公式ホームページ

11月

自著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の紹介文を転載

「桜美林大学図書館」の2015年度・寄贈図書に自著の紹介文が表紙の図版とともに掲載されましたので転載します。

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木曽路の山道を旅して「白雲や青葉若葉の三十里」という句を詠み、東京帝国大学を中退して新聞『日本』の記者となった正岡子規は、病を押して日清戦争に従軍していました。

本書では子規の叔父・加藤拓川と幼友達の秋山好古や、新聞『日本』を創刊する陸羯南との関係にも注意を払うことにより、正岡子規の成長をとおして新聞報道や言論の自由の問題が『坂の上の雲』でどのように描かれているかを考察しました。「写生」や「比較」という子規の「方法」は、親友・夏目漱石に強い影響を及ぼしているだけでなく、秋山真之や広瀬武夫の戦争観を考える上でも重要だと思えるからです。

『坂の上の雲』において一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定し、「憲法」のない帝政ロシアとの比較を行った司馬氏は、西南戦争に至る明治初期の時代を描いた『翔ぶが如く』では、子規を苦しめることになる「内務省」や新聞紙条例などの問題を詳しく分析していました。

今世紀の国際情勢はこれまで以上に複雑な様相を示していますが、「文明の岐路」に立っている日本の今後を考えるためにも、文明論的な視点からこれらの司馬作品を考察した本書を一読して頂ければ幸いです。

(リベラルアーツ学群  高橋 誠一郎)

リンク→ 『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、目次詳細

 

国際比較文明学会での発表論文(英文)を「主な研究」に掲載

前回の記事では、サンクト・ペテルブルクで行われた国際比較文明学会で発表した拙論の要旨を記すとともに、科学アカデミーの学術センター会議室で行われた「サンクト・ペテルブルク――文明間の対話の都市」、「東西の諸文明と諸文化の交流におけるロシア」、「グローバリゼーションと文明の未来」の3つの部会の模様と、「北西ロシア――ロシア文明の源とその絶頂」と題して行われた学術旅行の簡単な紹介をしました。

 リンク→サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会の報告

今回は国際比較文明学会での発表論文”The Acceptance of Dostoevsky in Japan — the theme of St.Petersburg and dialogue as the means”を「主な研究」に掲載します。

 リンク→The Acceptance of Dostoevsky in Japan

大阪からの危険な香り――弁護士ルージンと橋下徹氏の哲学

〈「道」~ともに道をひらく~〉というテーマで大阪で行われた先日の産学共働フォーラムの一般発表発表で私は、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏が、高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であると描いていたことを比較文明学的な視点から確認しました。

リンク商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

しかし、2015年11月22日に行なわれる大阪府市長ダブル選挙についての各社世論調査では、政界引退を表明している橋下徹・大阪市長が率いる「大阪維新の会」系の松井府知事と吉村候補が有利との選挙予測が出たとのことです。

他府県のことなので、あまり関与すべきではないとも考えて発言を控えていましたが、国政選挙にも関わることなので、このブログでも取り上げることにしました。

*   *   *

実は、〈なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義〉と題したこのブログの記事でルージンという弁護士について論じた際に思い浮かべたのは、権力を得るためには何をしてもよいと考えているかのように思える弁護士の橋下氏のことでした。

「経済学の真理」という視点から「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張したルージンは、ドゥーニャとの結婚の邪魔になるラスコーリニコフを排除するために、策略をもってソーニャを泥棒に陥れようとしていました。

一方、地方行政のトップであり、かつ法律を守るべき立場の弁護士でもある橋下氏が、公約を覆して府民や市民の多額の税金を費やして自分の有利になるような選挙を行うことが正当化されるならば、民主政治だけでなく学校教育の根本が揺らぐようになる危険性があると思われます。

*   *   *

かつての日本では、約束を守ることや誠実さが人間に求められていましたが、そのような価値観が大きく変わり始めていると感じたのは、大学で『罪と罰』の授業を行い始めてから10年目のころでした。

その授業で私はラスコーリニコフの「非凡人の理論」が、後にヒトラーによって唱えられる「非凡民族の理論」を先取りしている面があり、その危険性をポルフィーリイに指摘させていたことに注意を促していました。

しかし、20世紀の終わりが近づいていた頃から、ヒトラー的な方法で権力を奪取することも許されると、ヒトラーを弁護する感想文が出てきたのです。人数としては100人ほどのクラスに数名ですから少ないとは言えますが、そのように公然と主張するのではなくとも内心ではそのように考える学生は少なくなかったのではないかと思えるのです。

「今の日本の政治に一番必要なのは、独裁ですよ」と語ったとも伝えられる橋下徹市長の手法は、まさにこのような学生たちの主張とも重なっているようにも感じられます。

「島国」でもある日本では「勝ち馬に乗る」のがよいという価値観も強いのですが、ヒトラーが政権を取った後のドイツや岸信介氏が商工大臣として入閣した東條英機内閣に率いられた日本がその後、どのような経過をたどって破滅したかに留意するならは、ギャンブル的な手法での権力の維持を許すことの危険はきわめて大きいと思われます。

安倍政権による新たな「琉球処分」と司馬遼太郎の沖縄観

 

新たな「琉球処分」とも呼ばれる安倍政権による辺野古新基地の強行が進む中、ついに警視庁の機動隊が100人規模で投入されました。

沖縄がようやくアメリカから返還された2年後の1974年に沖縄を訪れた司馬氏は、『沖縄・先島への道』で東南アジアでの交易で栄えた琉球王朝の華やかな歴史を振り返りながら、薩摩藩による琉球支配以降の沖縄の歴史を詳しく考察していました。

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(グスク跡、写真は「ウィキペディア」より)

ここでは拙著 『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第三章〈「国民国家」史観の批判――『沖縄・先島への道』(1974)〉から、一部記述を改めた上で引用しておきます。

*   *  *

東南アジアでの交易で栄えた琉球王朝の華やかな歴史や、一六〇九年以降の薩摩藩による琉球支配を振り返ったあとで、司馬は「明治国家は、島津のような遣らずぶったくりではなく、多少の施設はつくった。明治十七年に診療所ができ、明治十八年に小学校ができた」と沖縄の近代化を一応は評価した。だが司馬はそれに続けて「明治国家が、あの世界税制史上もっとも非人間的なものとされる人頭税を廃止するのは、明治三十六年になってからである」とし、「昭和前期国家はさらにそれ以前の国家よりも重く、ついに沖縄本島を戦場にしてしまう」と書き、本来は「軽ければ軽いほどよく、単に住民の世話機関にとどまるべき」、国家が「取り憑いて血を吸う化けもののようなものであった」とすら書いた(「与那国島」)

それゆえ『沖縄・先島への道』における司馬の課題の一つは、近代西欧への追随となった「文明開化」の問題を根本から再検討することであったといえる。次のような文章はこのことと深く係わっていると思える。司馬は「嘉永六(一八五三)年江戸湾において幕府を脅しあげて開国をせまったペリーとその米国東洋艦隊が、『来年、もう一度くるからそれまでに返事をせよ』と言いのこしていったん上海にむかって去ったとき、途中、この海中にそびえる西表島に目をつけ、島陰に投錨している」ことに注意を促し、その時、艦隊に乗り組んでいた技師が「上陸して地質調査をしたところ、石炭が豊富であることがわかった」(「石垣・竹富島」)と書いた。

実際、幕府との交渉に際し「武力による上陸」を考えて、「戦時中と同様に乗組員を徹底的に訓練」していたペリー提督は、再度日本に訪れる前に沖縄で、「自分の要求全部に対して満足な回答を貰わなかったら、二百人の兵士を上陸させ」、「王宮を占領」すると言明して、「貯炭所の建設」などの要求を認めさせていたのである*2。

長崎で開国交渉を行っていたプチャーチン提督の秘書官であった作家のゴンチャローフは、ロシア艦隊がアメリカの艦隊よりも少し遅れて沖縄の那覇にも訪れた時に、七隻の艦隊を率いて江戸に出航したペリー提督が、沖縄に「石炭をストックする小屋」を建てているただけでなく、他国の艦船に対しては「この諸島を自国の保護下に引き取った」と書面で通告していることへの怒りを記している*3。

つまり、『沖縄・先島への道』での司馬の視線は、日本の近代化に大きな役割を果たしたペリーの開国交渉が、すでに沖縄の位置の戦略的な重要性を踏まえており、現在の基地の問題にも直結していることを見ていたのである。

こうして、この作品の冒頭近くにおいて司馬は、「住民のほとんどが家をうしない、約十五万人の県民が死んだ」太平洋戦争時の沖縄戦にふれつつ、「沖縄について物を考えるとき、つねにこのことに至ると、自分が生きていることが罪であるような物憂さが襲って」くると書いている。

さらに、その頃論じ始められていた沖縄の独立論に触れつつ、「明治後、『日本』になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年間そのことを考えてみたが、圧倒的に同じになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える」という重たい感想を記すのである(「那覇・糸満」)。

*    *

現在、安倍政権によって行われている新たな「琉球処分」のニュースを見ていると日本の政治が明治維新以降もほとんど変わっていないという感を深くします。

比較文明学者の神川正彦氏は西欧の「一九世紀〈近代〉パラダイム」を根本的に問い直すには、「欧化」の問題を「〈中心ー周辺〉の基本枠組においてはっきりと位置づけ」ることや、「〈土着〉という軸を本当に民衆レベルにまで掘り下げる」ことの重要性を指摘していました(『比較文明文化への道――日本文明の多元性』刀水書房、2005年)。

方法論的にはそれほど体系化はされていないにせよ司馬遼太郎氏も、明治維新や日露戦争などの分析と考察を通して同じ様な問題意識にたどり着き、「辺境」に位置する沖縄の歴史の考察を行った『沖縄・先島への道』を経て、ナポレオンと同じ年に淡路島で生まれた高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』(1979~82)では、日露の「文明の衝突」の危険性を防いだ主人公を生みだした「江戸文明」の独自性とその意味を明らかにしていたのです。

少し長くなりますが、「[警視庁機動隊投入]辺野古から撤退させよ」という題名の11月6日付けの「沖縄タイムズ」の社説を以下に掲載します。

*    *

名護市辺野古の新基地建設をめぐり、市民の抗議行動が続く米軍キャンプ・シュワブゲート前に、警視庁の機動隊が100人規模で投入されている。辺野古で県外の機動隊が市民に直接対峙(たいじ)するのは初めてだ。少なくとも年内の予定で、来年まで延長する可能性もあるという。

警視庁の機動隊といえば、「鬼」「疾風」などの異名を各隊が持つ屈強な部隊。都内でデモ対応などの経験があり、即応力を備える「精鋭」たちだ。

かたやゲート前で反対の声を上げるのは、辺野古に新基地を造らせない、との一念で集まった市民ら。過酷な沖縄戦やその後の米軍支配下を生き抜いてきたお年寄りの姿もある。

国内外の要人が出席するイベント開催に伴う一時的な警備ならともかく、非暴力の市民の行動に対応するために、「精鋭」部隊を投入するのは極めて異例だ。

ゲート前の警備態勢が長期化し、県警内での人繰りが厳しくなる中、県公安委員会を通し警視庁に応援部隊の派遣を要請していたという。

政府側は県警の要望だったと強調し、関与を否定している。だが、何が何でも新基地を造るという強硬姿勢を再三見せられてきた県民にとって、反対運動を萎縮させ、弱体化を狙う意図が働いているとしか思えない。

そもそも、これまでの政府の強権的な姿勢が、抗議活動の「激化」を招いた。政府はその事実を重く受け止めるべきだ。

■    ■

警察法は、警察の責務の遂行に当たり「日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用(らんよう)することがあってはならない」と定めている。

抗議のために座り込みをする市民を警察官が強制的に排除し、老若男女を問わず力ずくで押さえ込む。機動隊とのもみ合いの中でけが人も出ている。こうした状況は、法の理念に反しているというほかない。

環境保護団体グリーンピース・ジャパンへの沖縄総合事務局の対応も疑問だ。同団体の船「虹の戦士号」が辺野古沖に停泊するための申請を、総合事務局が却下した。「混乱が生じやすくなるため安全確保ができない」というのが理由だ。

だが、詳細な予定行動表や停泊ポイントは事前に海上保安庁に伝えていた。停泊を認めないのは、辺野古の実態を世界に発信するのを阻むためではないか。

■    ■

地方自治法に基づく国の代執行の手続きで、翁長雄志知事は6日、埋め立て承認取り消しの是正を求めた国土交通相の勧告に対し、拒否する意向を文書で通知する。これを受け国交相は、勧告の次の段階に当たる是正の「指示」をするとみられる。

沖縄の民意を無視し、権力で押さえ付けて意に沿わせようとする。新たな「琉球処分」とも指摘されるこうした事態が進めば、不測の事態が起こりかねない。政府は、正当性のない新基地建設工事を止め、警視庁機動隊を撤退させるべきだ。

国際比較文明学会の報告を「主な研究」に掲載

 

先日は大阪で行われた地球システム・倫理学会と京都フォーラムとの産学共働フォーラムで発表した口頭発表の資料を掲載しました。

その後で、ドストエフスキーの『罪と罰』だけでなく司馬氏の『菜の花の沖』にも言及していた2003年に行われた国際比較文明学会ついての報告と学会誌に掲載された拙論をまだこのブログに載せていなかったことに気づきました。

国際比較文明学会でも日本側の参加者の方々やロシア側の関係者の方々にたいへんお世話になりましたので、古い資料になりますが、「日本の伝統的な平和観」を覆すような好戦的な姿勢を見せ始めている安倍政権の危険性を確認するためにも、まず学会の報告を「主な研究」のページに載せます。

リンク→サンクト・ペテルブルクの国際比較文明学会報告

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原子力艦の避難判断基準の見直しと日本の「原子力の平和利用」政策

「東京新聞」の朝刊(11月7日)に「原子力艦も5マイクロシーベルト超に 避難判断基準原発と統一」との見出しで、下記の記事が掲載されていました。

比較的小さな出来事のようですが、安倍政権の「安全保障」政策を検証する上でも重要な出来事と思えますので、以下に引用します。

  *   *   *

米海軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)に配備されている空母など原子力艦で事故が起きた際の避難判断基準を定めた国の災害対策マニュアルが、近く改訂されることになった。住民が避難や屋内退避を始める放射線量を毎時五マイクロシーベルト超に引き下げる。これまでは原発事故の二十倍の同一〇〇マイクロシーベルトだった。

有識者や関係省庁による作業委員会の初会合が六日、基準を原発の災害対策指針と合わせることが合理的との結論で一致した。国の中央防災会議の課長クラスによる会議を一カ月以内に開き、マニュアルを改訂する。横須賀市が基準の見直しを求めていた。

作業委の初会合は東京・永田町で開催。河野太郎防災相は「基準が原発と違っていることは論理的におかしい」と指摘した。

  *   *   *

この記事を読んで私が思い出したのは、地震大国という地勢的な条件や1954年の「第五福竜丸」事件など原水爆の悲惨さから目をそらして、日本が原子力大国への道を歩み出し始めた1955年の「原子力基本法」成立前後のことでした。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

このことについては拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の第二章「映画《生きものの記録》と長編小説『死の家の記録』」で次のように考察していました。

〈アメリカ政府の「原子力の平和利用」政策に呼応するように一九五五年に「原子力潜水艦ノーチラス号」を製造した会社の社長を「原子力平和利用使節団」として招聘した読売新聞社の正力松太郎社主は、映画《生きものの記録》が公開されたのと同じ一一月からは「原子力平和利用大博覧会」を全国の各地で開催し、「原子力発電」を「平和産業」として「国策」にするための社運を賭けた大々的なキャンペーンを行った。

この結果、原水爆反対運動は急速に冷え込むこととなり、「民衆」の本能的な怖れや一部の良心的な科学者たちの激しい反対にもかかわらず、一二月一九日には「原子力基本法」が成立した。「原子力基本法」を成立させた日本政府は、「原子力の平和利用」を謳いながら、再び経済面を重視して原子力発電の育成を「国策」として進めるようになり、原子力発電の危険性を指摘した科学者を徐々に要職から追放しはじめた。〉

原子力艦の避難判断基準が「原発と違っていることは論理的におかしい」と指摘した河野太郎防災相の発言はきわめて正当なのですが、私たちは敵と戦うことを目的としている原子力空母が日本の基地に配置されていること自体を「間違っている」と厳しく批判しなければならないでしょう。

「東京新聞」の解説記事では、<原子力空母>について「原子炉で核燃料を燃やすことで動く航空母艦。原子炉の仕組みは普通の原発とほぼ同じ。燃料の交換が少なくてすみ、安定した航行ができるとされる」と説明されています(太字は引用者)。

しかし、敵への威嚇だけでなく交戦を目的としている以上、<原子力空母>が攻撃されて甚大な被害を蒙り、原子炉が破損することも十分に考えられるのです。

そのような事態をも考慮しないのであれば、太平洋戦争以降のアメリカ軍の戦略や安倍政権の「安全保障」政策も、「戦艦大和」を「不沈戦艦」とした旧日本軍と同じような安全神話の上に成り立つ危険な戦略であると思われます。

 

岸・安倍両政権の「核政策」についての記事

リンク安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論

リンク→原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

リンク→「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

リンク→「安全保障関連法案」の危険性――「国民の生命」の軽視と歴史認識の欠如

 

なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

一、小林秀雄の『罪と罰』論と弁護士ルージン考察の欠如

熱気に包まれた小林秀雄の『罪と罰』論を何度か読み直すうちに、小林秀雄の評論からは『罪と罰』の重要なエピソードや人物が抜け落ちていることに気づきました。たとえば、小林秀雄の『罪と罰』論では、原作ではきちんと描かれていたラスコーリニコフやソーニャの家族関係はほとんど言及されていません。

さらに、ポルフィーリイとの対決をとおしてその危険性が鋭く示唆されている「非凡人の理論」は軽視されており、功利主義的な考えを主張してラスコーリニコフと激しく対立する弁護士ルージンにはほとんど触れられていないのです。

しかし、『罪と罰』という題名を持つこの長編小説の主人公であるラスコーリニコフが、元法学部の学生であるばかりでなく、犯罪者の心理について考察した彼の論文が法律の専門誌にも掲載されていると記されていることに留意するならば、妹ドゥーニャの婚約者であり、ラスコーリニコフと激論を交わすなど長編小説の筋においても重要な役割を果たしている弁護士のルージンについてふれないことは、小説の理解をも歪めることになるでしょう。

二、弁護士ルージンの「新自由主義的な」経済理論

ここでは『罪と罰』の記述に注意を払いながら、ラズミーヒンの反論をとおしてルージンの経済理論の問題点に迫ることにします。

注目したいのは、ルージンが衣服の例を出しながら、「今日まで私は、『汝の隣人を愛せよ』と言われて、そのとおり愛してきました。だが、その結果はどうだったでしょう? …中略…その結果は、自分の上着を半分に引きさいて隣人と分けあい、ふたりがふたりとも半分裸になってしまった」と主張していることです。

 そして、ルージンは「経済学の真理」という観点から「安定した個人的事業が、つまり、いわば完全な上着ですな、それが社会に多くなれば多くなるほど、その社会は強固な基礎をもつことになり、社会の全体の事業もうまくいくとね。つまり、もっぱらおのれひとりのために利益を得ながら、私はほかでもないそのことによって、万人のためにも利益を得、隣人にだって破れた上着より多少はましなものをやれるようになるわけですよ」と説明していたのです。

さらに、彼は「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張し、「実に単純な思想なんだが、…中略…あまりにも長いことわれわれを訪れなかったのです」と結んでいました(2・5)。

三、ラズミーヒンの批判と「アベノミクス」のごまかし

一方、この場に居合わせてルージンの経済理論を聞いたラズミーヒンは「あなたが早いとこ自分の知識をひけらかしたかった気持ちは大いにわかる」が、「近ごろではその全体の事業とやらに、やたらいろんな事業家が手を出しはじめて、手あたりしだい、なんでもかでも自分の利益になるようにねじ曲げてしまうし、あげくはその事業全体を形なしにしてしまう状態ですからね」とルージンの理論を厳しく批判していました(太字は引用者)。

このようなラズミーヒンの説明は、「アベノミクス」やレーガン大統領の頃の経済理論であるレーガノミクスの理論的な支柱となった「トリクルダウン理論」の批判につながると思われます。

すなわち、「トリクルダウン理論」でも、結婚式などで用いられるシャンパングラス・ツリーの一番上のグラスにシャンパンを注ぐと、あふれ出たシャンパンは、次々と下の段のグラスに「滴り落ち」るように、最初に大企業などが利益をあげることができれば、次第にその利益や恵みは次々と下の階層の者にも「滴り落ちる」と説明されているのです。

しかし、頂点に置かれてシャンパンを注がれるグラス(大企業)は、大量のシャンパン(金)を注がれてますます巨大化するものの、それらを内部留保金として溜め込んでしまうのです。それゆえ、下に置かれたシャンパングラス(中小企業)や個人には、ほとんどシャンパン(金)が「滴り落ち」ずに、ますます貧困化していく危険性が強いのです。

そして、経済学の分野でも、「実証性の観点からは、富裕層をさらに富ませれば貧困層の経済状況が改善することを裏付ける有力な研究は存在しないとされている」だけでなく、レーガノミクスでは「経済規模時は拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という『双子の赤字』を抱えることになった」ことも指摘されています。

このように見てくるとき、ドストエフスキーは後にソーニャを泥棒に仕立てようとする悪徳弁護士のルージンに、現代の「新自由主義」な先取りするような考えを語らせることにより、「富める者」の富を増やすことで貧乏人にもその富の一部が「したたる」ようになるとする「アベノミクス」のごまかしを暴露しているようにさえ思えます。

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

司馬氏の長編小説『菜の花の沖』(1979~82)では、淡路島の寒村に生まれ、兵庫に出て樽廻船の炊(かしき)から身を起こして北前船の船長となり、折から緊張の高まりつつあった北の海へと乗り出して、江戸時代に起きた日露の衝突の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛を主人公としています。

注目したいのは、この長編小説で高田屋嘉兵衛とナポレオンが同じ年に生まれていただけでなく「両人とも島の出身だった」と描いた司馬氏が、ナポレオンがロシアに侵攻してモスクワを占領したのと同じ1812年に嘉兵衛がロシア側との和平交渉を行っていたことを比較することで、「江戸文明」が世界的に見ても進んでいたことを明らかにしていたことです。

ブルガリアなどに留学していたこともあり、『菜の花の沖』の後で『坂の上の雲』(1968~72)を読んだ私は、日露戦争をクライマックスとしたこの長編小説では、フランスとアメリカに留学した秋山好古、真之の兄弟だけでなく、ロシアで学んだ広瀬武夫やイギリスに留学した夏目漱石などをとおして、これらの国々と日本が文明論的な方法で比較されていると感じました。

さらに、新聞『日本』で「文苑」欄を担当することになる、もう一人の主人公である俳人の正岡子規のことを調べるうちに、彼が松山から上京して間もない頃に「比較」という題で次のように書いていたことを知りました。

「世の中に比較といふ程明瞭なることもなく愉快なることもなし 例へば世の治方を論ずる場合にも乱国を引てきて対照する方能く分り 又織田 豊臣 徳川の三傑を時鳥(ほととぎす)の句にて比較したるが如き 面白くてしかも其性質を現はすこと一人一人についていふよりも余程明瞭也」。

正岡子規は日露戦争の前に亡くなってしまうのですが、子規の「比較」や「写生」という方法に注目するならば、秋山好古・真之の兄弟だけでなく、広瀬武夫や夏目漱石の視線は、子規の視線とも重なっていると思えます。

危機的な時代には「自国中心的な」価値観が強調されてきましたが、そのような認識と宣伝が戦争を拡大させてもきたのです。

そのことに留意するならば、今、必要とされているのは、「比較」や「写生」という方法による冷静な歴史の認識でしょう。

リンク『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年

『菜の花の沖』と日本の伝統に基づく「積極的な平和政策」

〈「道」~ともに道をひらく~〉というテーマで行われた産学共働フォーラムでは、地球システム・倫理学会や京都フォーラムの関係者の皆様にたいへんお世話になりました。

「商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代」という題の一般発表では、『坂の上の雲』における「比較」という方法にも注目しながら、江戸時代の日本とロシアや近代西欧との比較を行いました

その際には多くのご質問を頂きましたが、時間的な都合で十分にはお答えできなかった点についてはいずれ論文などの形で詳しく記すようにしたいと思っていますが、さしあたってここでは発表の際の配布資料を「主な研究」のページに掲載します。

リンク商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

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残念ながら、今年の9月には「安全保障関連法」が「強行採決」されて、原爆の悲惨さを踏まえたそれまでの日本の「平和政策」から「武器輸出」や原発の推進へと舵が切られました。

しかし、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏は、高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であると描いていました。

リアリズムと「比較」という方法によって描かれたこの長編小説を深く理解し、広めることは、悲惨な「核戦争」の勃発を防ぐことにもつながると思われます。

リンク→正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

  (2015年11月7日。改訂)

「文化の日」の叙勲とブレア元首相のイラク戦争謝罪――安倍政権の好戦的な価値観

ここ数日は長崎で開催されていた「パグウォッシュ会議」に関連して、安倍政権の核政策を検証する記事を書いてきましたが、「文化の日」に異常な事態が起きていました。

「国民の祝日に関する法律」の(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「日本国憲法」の精神に則って「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨として定められた「文化の日」に「大義なきイラク戦争を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官」に、日本政府は勲一等、「旭日大綬章」を贈っていたのです(「日刊ゲンダイ」11月5日デジタル版)。

*   *   *

一方、「大義なきイラク戦争」への英国の参戦を決定したブレア元首相は、10月25日に放映された米CNNのインタビューで『我々が受け取った情報が間違っていたという事実を謝罪する』」と述べていました。

このことを伝えた「朝日新聞」(デジタル版)は、次のように続けています。

〈英メディアによると、ブレア氏がイラク戦争に関して公に謝罪するのは初めて。

イラク戦争は「イラクが大量破壊兵器を開発している」との「証拠」を根拠として米国主導で始まった。しかしその後、これは虚偽だったと判明。ブレア首相の支持率は急落し、07年の退陣につながった。

今回のインタビューでブレア氏は「フセイン大統領(当時)は化学兵器を自国民らに大規模に使ったが、その計画は我々が思っていたようには存在しなかった」と述べたほか、政権崩壊後の混乱について、「政権排除後に何が起こるかについて、一部の計画や我々の理解に誤りがあった」とも認めた。さらに、イラク戦争が過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭した主な原因かと問われると、「真実がいくぶんある」と答えた。〉

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「安保関連法案」が「戦争法案」と呼ばれることを極端に嫌っていた安倍晋三氏は、国会での審議の際にもたびたび「レッテル貼り」と野党を批判していました。

日本政府に軍国化を迫るだけではなく、「第3次アーミテージ・リポート」では、「日本の原発再稼働やTPP参加、特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則の撤廃」をも要求していました。

「大義なきイラク戦争を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官」の二人にたいして「文化の日」に勲一等、「旭日大綬章」を贈ったことは、安倍政権の好戦的な性格を雄弁に物語っていると思われます。

 

リンク→リメンバー、9.17(3)――「安保関連法」の成立と「防衛装備庁」の発足

リンク→戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて