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島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』の現代性

島崎藤村が長編小説『破戒』を自費出版したのは、日露戦争直後のことでしたが、夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙で島崎藤村の長編小説『破戒』を、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞しました。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

ただ、批評家の木村毅は『罪と罰』と『破戒』の類似性についてこう指摘していました。「この英訳『罪と罰』を半ばも読み進まぬうちに、重大な発見をした。かつて愛読した藤村の『破戒』は、この作の換骨奪胎というよりも、むしろ結構は、『罪と罰』のしき写しと云っていいほど、酷似している」(「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』、昭和47年、筑摩書房)。

 実際、主人公の瀬川丑松はラスコーリニコフと対応していますし、飲酒が原因で退職となる教員・風間敬之進とその妻の描写は、マルメラードフ夫妻を連想させます。また、敬之進の前妻の娘で蓮華寺の養女に出されるお志保もソーニャを思い起こさせるだけでなく、彼女にセクハラを仕掛ける蓮華寺住職とその妻の関係は、スヴィドリガイロフと妻マルファに似ているなど多くの人物造型が『罪と罰』に依拠しているように思われます。

 しかし、先の文章に続けて木村が「『破戒』が日露戦争後の文壇を近代的に、自然主義の方向へと大きく旋回させた功は否めず、それはつまり、ドストイエフスキイの『罪と罰』の価値の大きさを今更のように見直すことになった」と書いているように、この類似性は『破戒』の価値をさげるものではありません。

 『罪と罰』の初めての邦訳を行った内田魯庵は、この長編小説の大きな筋の一つは「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る経路」であると指摘して、「良心」の問題の重要性に注意を促していました。(明治四五年、「『罪と罰』を読める最初の感銘」)。

 実際、「大改革の時代」に発表された『罪と罰』では裁判制度の改革に関連して創設された司法取調官のポルフィーリイの、殺人を犯した「非凡人」の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフは、「いや、なに、人道問題として」と問い質されると、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」と答えていたのです(三・五)。

 この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くには、「弱肉強食の思想」などの近代科学に影響されたラスコーリニコフの誤った「良心」理解を示唆するかのような、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです。

「日本国憲法」では「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められていますが、独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験した内田魯庵は、絶対的な権力を持つ王や皇帝の無法な命令や行為に対抗するためにも、権力者からの自立や言論の自由などを保証する「良心」の、『罪と罰』における重要性を深く認識していたのです。

そして島崎藤村もドストエフスキーについて、「その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう」と記していました(かな遣いは現代表記に改めた。『春を待ちつつ』、大正一四年)。

「民衆の良心」という用語に注目して『破戒』を読み直すとき、使用される回数は多くないものの「良心」という単語を用いながら主人公の「良心の呵責」が描かれているこの長編小説が、表面的なレベルだけでなく、深い内面的なレベルでも『罪と罰』の内容を深く理解し受け継いでいることが感じられます。

すなわち、「非凡人の理論」を考え出して「高利貸しの老婆」の殺害を正当化していたラスコーリニコフの「良心」理解の誤りを多くの登場人物との対話だけでなく、彼の「夢」をとおして視覚的な形で示したドストエフスキーは、ソーニャの説得を受け入れたラスコーリニコフに広場で大地に接吻した後で自首をさせ、シベリアでは彼に「人類滅亡の悪夢」を見させていました。

 『破戒』において帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及していた島崎藤村も、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従っていた主人公の瀬川丑松が、「差別」の問題をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに背くことに「良心の呵責」を覚えて、猪子が暗殺されたあとで新たな道を歩み始めるまでを描き出したのです。

 さらに北村透谷は「『罪と罰』の殺人罪」を発表した翌月に、幕末に「尊王攘夷思想」を讃えた山路愛山の「頼山陽」論を、「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と呼んだ厳しく批判した評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」を『文学界』の第二号に発表していました。

友人の愛山を「反動」と呼んだ透谷の語気の激しさには驚かされますが、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏が書いているように、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたのです。

靖国史観(図版は紀伊國屋書店より)

日露戦争の最中には与謝野晶子の詩「君死にたまふこと勿(なか)れ」でさえも、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したと批判され、「晶子の詩を検すれば、乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるべきもの也」と厳しく非難されるようになりました(井口和起『日露戦争』)。

それゆえ、『罪と罰』を深く研究した上で日露戦争が終わった直後の一九〇六年に自費出版された『破戒』は、ロシア革命や太平洋戦争での敗戦に至る日露の教育制度や近代化の問題点をも明らかにしているといえるでしょう。

この意味で注目したいのは、第一次世界大戦後に「ドイツの青年層が、自分たちにとってもっとも偉大な作家としてゲーテでもなければニーチェですらなく、ドストエフスキーを選んでいること」に注意を向けたドイツの作家ヘルマン・ヘッセがドストエフスキーの作品を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものである」と指摘していたことです。

 実際、ポルフィーリイに「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれないんだし」と語らせたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」で「自己(国家・民族)の絶対化」の危険性を示していました。

このように見てくる時、明治の文学者たちがドストエフスキーの作品を高く評価したのは、そこに「憲法」がなく権力者の横暴が看過されていた帝政ロシアの現実に絶望した主人公たちの苦悩だけでなく、制度や文明の問題も鋭く描き出す骨太の「文学」を見ていたからでしょう。

 現在の日本ではこのような制度に絶望した主人公たちの過激な言動や心理に焦点があてられて解釈されることが多くなっていますが、それは自由や平等そして生命の重要性などの「立憲主義」的な価値観の重要性を描いていたドストエフスキーの小説の根幹から目を逸らすことを意味します。

本書では北村透谷や島崎藤村など明治時代の文学者たちの視点と夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら『罪と罰』の受容を分析することにします。

明治時代の文学者たちの視点で、「大逆事件」の後では「危険なる洋書」とも呼ばれるようになる『罪と罰』を詳しく読み直すことは、国会での証人喚問で「良心に従って」真実を述べると誓いながら高級官僚が公然と虚偽発言を繰り返し、「事実」が記されている「公文書」の改竄や隠蔽がまかりとおるようになった現代日本における「立憲主義」の危機の遠因にも迫ることになるでしょう。

  一、『罪と罰』の邦訳と「『罪と罰』の殺人罪」

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』目次(改訂版)

核戦争の危険性を踏まえた「日本国憲法」と「原発ゼロ法案」の意義(再掲)

「日本国憲法」は広島と長崎の悲惨な体験を踏まえて公布されましたが、昨年はようやく「核兵器禁止条約」が結ばれ、ICANにノーベル平和賞が与えられるなど新しい流れが生まれました。

一方で、『原子力科学者会報』は核戦争の懸念の高まりやトランプ米大統領の「予測不可能性」、さらに北朝鮮による核開発などを理由に、今年の「終末時計」の時刻がついに1953年と同じ残り2分になったと発表しました(AFP=時事)。

世界終末時計の推移

(図版は「ウィキペディア」より)

ビキニ環礁で原爆の千倍もの破壊力を持つ水爆「ブラボー」の実験が行われたために「第五福竜丸」や他の漁船の船員たち、そして島の住民たちが被爆したのが、その翌年の1954年のことでした。そのことを考えるならば、世界はふたたび「人類滅亡」の危機を迎えているといっても過言ではないでしょう。

それにもかかわらず、安倍首相の「明治維新」礼賛に現れているように、神話的な歴史観から古代を理想視する閣僚がほとんどを占めている安倍内閣は、核の危険性から眼を背けつつ原発の再稼働ばかりでなく、超大国アメリカに追随して軍拡を進めています。

しかし、危機を回避するためには、厳しい「現実」を直視して、その対策を練ることが必要でしょう。幸い、昨年、結成された立憲民主党が早速、「原発ゼロ基本法タウンミーティング」を開始しているだけでなく、共産党、自由党、社民党など他の立憲野党との協力も育っていく可能性が見えてきました。

それゆえ、メニューの「国民の安全と経済の活性化のために脱原発をに加筆するとともに、新たな図版も加えました。

野党4党、原発ゼロ法案を提出「5年以内の全原発廃炉」:朝日新聞デジタル(2018年3月9日)

https://www.asahi.com/articles/ASL392VZFL39UTFK003.html

原発ゼロ法案「自民にも対案求めたい」 立憲・枝野氏:朝日新聞デジタル(2018年6月10日)

https://www.asahi.com/articles/ASL6B4PQ1L6BUTFK007.html

    (2018年1月26日、6月22日、改訂版を再掲)

ドストエーフスキイの会総会と245回例会(報告者:泊野竜一氏)のご案内

ドストエーフスキイの会第49回総会と245回例会のご案内を「ニュースレター」(No.146)より転載します。

*   *   *  

 下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                          

日 時2018512日(土)午後1時30分~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)   ℡03-3402-7854 

総会:午後130分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

 例会報告者:泊野竜一 氏

題 目: 19世紀ヨーロッパ文学における沈黙する聞き手

   ホフマン、オドエフスキー、ドストエフスキーとの比較考察の試み                           

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:泊野竜一(とまりの りょういち

早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程人文科学専攻ロシア語ロシア文化コース。研究テーマは、ドストエフスキー作品における対話表現としての長広舌と沈黙との問題、さらには19-20世紀ロシア文学における対話表現の問題の研究。2016年9月−2017年6月までモスクワ大学留学。具体的な研究内容として、ドストエフスキーの作品を中心として、その先駆となるもの、あるいは後継となるものとして、オドエフスキー、ゴーゴリ、アンドレーエフ、ガルシン、ブリューソフの作品を取り上げる。そして、それらの間での「分身」「狂気」「内的対話」の問題に取り組む予定。

 

245回例会報告要旨

19世紀ヨーロッパ文学における沈黙する聞き手ホフマン、オドエフスキー、ドストエフスキーとの比較考察の試み

2015年の225回例会では、ドストエフスキーが長編小説中、特に『カラマーゾフの兄弟』の《大審問官》で、一つの独特な対話表現を用いていると考えられること、それは、対話者の片方は長広舌を続け、もう片方は沈黙しそれを拝聴するという形式をもっていること、つまりこの対話は、見かけ上は、一方的なモノローグの様相を呈しているが、通常の相互通行の対話よりも、はるかに豊かな内的対話の表現となっていたのであったということについて発表した。

 しかしドストエフスキーに先行するE. T. A. ホフマンやV. F. オドエフスキーの作品にも《大審問官》の対話と少なくとも形式上は一致しているといえる対話が存在する。具体的にはまず、ホフマンの『砂男』に登場する学生のナターニエルとスパランツァーニ教授の令嬢オリンピアの対話が挙げられる。ナターニエルはふとしたことからスパランツァーニ教授の令嬢である美女オリンピアに恋をする。ところがオリンピアは教授の製作した自動人形であった。オリンピアは、彼女に恋したナターニエルの熱烈なアプローチに対してただ通り一遍の返答をすることしか出来ない。次に、オドエフスキーの〈ベートーベン晩年のカルテット〉に登場するベートーベンとその弟子のルイーザとの対話が挙げられる。〈ベートーベン晩年のカルテット〉は、若者たちが毎晩集まり、世を徹して語るという形式で書かれたオドエフスキーの額縁小説『ロシアン・ナイト』の第六夜で語られる物語である。この物語中でベートーベンはルイーザに対して芸術論を語るのであるが、ベートーベンの一弟子にすぎないルイーザは、ベートーベンの熱弁に対して一切返答することなく、ただひたすら彼の長広舌を拝聴しているのである。

 先行研究から、ドストエフスキーはホフマンやオドエフスキーからさまざまなかたちで影響を受けている作家であると考えられている。本発表では、長広舌を揮う話し手と、通常の対話では脇役としての役割を担うはずの、沈黙し長広舌を拝聴する聞き手という対話表現に注目する。これらの作品の対話の具体的な分析を行いつつ、《大審問官》との関連性について考察する。その上で、19世紀文学におけるこのような独特な対話表現の意義について検討していく。

 

三宅正樹著『近代ユーラシア外交史論集』の書評を「著書・共著と書評・図書紹介」の欄に掲載

『近代ユーラシア』紀伊國屋書店ウェブ頁(書影は、紀伊國屋書店のWEBより)

古代ギリシャや西欧各国だけでなくギリシャ正教を受け入れたロシアや、古代から現代にいたる中国や近代日本の時間概念が比較文明論の視点から考察されている大著『文明と時間』の第一部「比較文明論の視角」については、かつて『文明研究』第31号に掲載された書評で紹介しました。

なぜならば、そこでは湾岸戦争やボスニア・ヘルツェゴビナの紛争、チェチェン紛争などが頻発するようになったソ連の崩壊後の事態を受けて、これからは「イデオロギーの対立」に代わって「文明の衝突」の危険性がますます増えると予測して激しい議論を呼んだ政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)や大著『文明の衝突と世界秩序の再編成』(1996年、邦訳『文明の衝突』)が、トインビーの文明論だけでなく山本新氏の『周辺文明論――欧化と土着』や神川正彦氏の論文の考察をとおして詳しく考察されていたからです。

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三宅正樹著『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)

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広い歴史的視野と比較文明学的な視点で書かれている今回のご著書『近代ユーラシア外交史論集』も、現代の政治や外交の問題を考える上で重要な示唆にとんでおり、その意義はきわめて大きいと思います。

国際政治史は私の専門外なのですが、ロシアの「ユーラシア主義」と司馬遼太郎の文明観との関係に引きつけて論じてみました。東海大学文明学会『文明研究』第36号に掲載された書評を「著書・共著著書・共著と書評・図書紹介」の欄に転載しました。

書評 三宅正樹著『近代ユーラシア外交史論集』(千倉書房、2015)

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日独伊三国同盟については本書でも言及されていましたが、「ヒトラーの戦争計画を史料に則して詳細に展開させ、ヒトラーと日本との関係にも日独伊三国同盟締結の過程で言及した、ユニークなヒトラー伝」の新訂版が5月に刊行されました。

ヒトラーと日本との関係については、昭和初期と現在の日本の政治思想とのつながりを考える上でもきわめて重要だと思えます。それゆえ、日本が無謀な戦争へと突入していく暗い昭和初期を描いた堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』との関連で、本書『ヒトラーと第二次世界大戦 (新訂版)』(清水書院)にも言及したいと考えています。

ここでは取りあえず、本書の書影と目次を以下に掲載しておきます。

新・人と歴史拡大版<br> ヒトラーと第二次世界大戦 (新訂版)

(書影は紀伊國屋書店のwebによる)

目次

1 ドイツ国防軍とヒトラー(ホスバッハ覚書;国防軍掌握まで)
2 中央ヨーロッパの覇者として(オーストリア合併とチェコスロヴァキア解体;独ソ不可侵条約からポーランド分割へ;ヨーロッパ制覇)
3 東京・モスクワ・ベルリン(ベルヒテスガーデン会談と荻窪会談;日独伊三国同盟)
4 ヒトラー・モロトフ会談(モロトフとリッベントロップ;モロトフとヒトラー)

シリアへの空爆のニュースに接して

  昨日、化学兵器使用についての確認がまだ国際機関によってなされておらず、国連安保理決議もない段階で、アメリカが国連憲章に基づかないシリアへの軍事行動を英仏とともに行いました。

むろん、化学兵器も使用したとされるシリアは強く非難されるべきでしょう。

しかし、「イラクが大量破壊兵器を開発している」との「虚偽」の「証拠」を根拠として米国主導で始まった「大義なきイラク戦争」への英国の参戦を決定したイギリスのブレア元首相は、2015年10月25日に放映された米CNNのインタビューで『我々が受け取った情報が間違っていたという事実を謝罪する』」と述べていました(「朝日新聞」デジタル版)。

そしてブレア氏は政権崩壊後の混乱について、「政権排除後に何が起こるかについて、一部の計画や我々の理解に誤りがあった」とも認めるとともに、イラク戦争が過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭した主な原因かと問われると、「真実がいくぶんある」と答えていたのです。

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2017年に『原子力科学者会報』は、テロや原発事故の危険性、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ大統領の地球温暖化や核拡散の問題に後ろ向きな政治姿勢などにより世界終末時計が「残り2分半」に戻ったと発表していました。

アメリカとの軍事的な連携の強化を狙う安倍政権は「戦争法案」と思われる「安保関連法案」を強行採決していましたが、自国は非人道的な核兵器を所有しその使用をも公言しているアメリカが先頭に立ってシリア政府への武力攻撃をすることは、再び軍拡を招く危険性を含んでいると思われます。

「核の時代」と「改憲」の危険性

(2018年4月27日、改題と改訂)

ドストエーフスキイの会、第244回例会(報告者紹介:野澤高峯氏)のご案内

第244回例会のご案内を「ニュースレター」(No.145)より転載します。

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第244回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                          

日 時2018年3月24日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館 1階奥の和室

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854

報告者:野澤高峯 氏 

題 目: 「スタヴローギンとムイシュキン」―人間的価値審級を読み解く

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:野澤高峯(のざわ こうほう)

書家。「謙慎書道会」評議員、「日本書道芸術協会」認定師範、「書象会」無鑑査会員、「ドストエーフスキイの会」会員、「日本ドストエフスキー協会(DSJ)」会員

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第244回例会報告要旨

「スタヴローギンとムイシュキン」人間的価値審級を読み解く

近代文学の基本は「個性=人間性」の表現だと言えるでしょう。そこには答えがなくとも、表現されていることのみで人間の苦境を救います。そのため文学作品は単に現実を描くだけではなく、それを超えたロマンを必ず含んでいます。しかし、そのロマンは、読み手の日常生活の現実感覚に耐えうるものであるか否かが問題となり、過去の文芸批評はこのロマネスクを常に問題として、観念批判(ロマン主義批判)をテーマとしてきました。ドストエフスキー文学はこの観念自体を作品の主題として、なおかつそれを背理として描いています。そのロマンの根拠となる「本来性・倫理性・審美性」(真・善・美)という価値審級(価値の秩序)をどのように扱っているかを、『白痴』と『悪霊』を中心に今回の報告で取り出したいと思います。それはドストエフスキーが無神論で提示した「問い」でもあると思われる為、無神論の現代的意味も浮上させたいと思います。

また、作品の登場人物は独立性が確保された描き方に徹していますが、スタヴローギンとムイシュキンは日常の現実感覚では予想できない謎めいた人物像で設定されています。価値審級を背景に、この謎も解読してみたいと思います。読解の方法としては形而上学や偶喩・説話的理説を排し、実存論的読解で作品に向き合いますが、同様にスタヴローギンとムイシュキン自身にもこの読解で存在論的に向きあいます。これは80年代からの主流であった文学理論、言語論とは逆行しますが、主軸を「エクリチュール」ではなく「パロール」に置き、尚且つ「言語」ではなく「意識」に置く読み方です。読解のスタンスと同様に作品の中でも、価値審級の取り出しにおいて価値の根拠を「本体」として、人間の外部には想定しません。「神はいない」という前提で解読し、「神」に迫る方法です。

今回の考察は『カラマーゾフの兄弟』の主題に迫る為の序奏ですが、考察で設定した無神論の「問い」の一つ目は、イワン・カラマーゾフ的無神論を背景とした次の「問い」です。

「神がいなければ、人間の欲望の存在それ自体が、「真・善・美」に向かう本性をもっているかどうか」

つまり、「本来性・倫理性・審美性」が作品でどの様に描かれ、物語にどの様な意味を持っているかを取り出す事です。私は「真・善・美」については性善説の立場ですが、形而上学を前提としない為、それに向かうことが人間の本来性とは捉えていません(「あってほしい」という願望と「あるべきだ」という要請はロマン主義となります)。それに向かう、その条件を設定することが重要です。

二つ目は、ドストエフスキーが作品(『白痴』『悪霊』)の中での想定していた神とは何かという事です。ここでも無神論の「問い」として、ニーチェの無神論との比較を横にし、暴挙とも受け取られますが、キリスト教の教義も形而上学とみなしこれを前提としません。

考察のポイントは、スタヴローギンの人物像を、その「意識」の地平(超越論的主観)から捉え、『告白』の意味を探ります。また、ムイシュキンの人物像も、その「意識」の地平から捉え、「意識の限界点」とは何かを探ります。補助題材として小林秀雄の『白痴について』と山城むつみの『小林批評のクリティカル・ポイント』を参考に、その意味を探り、スタヴローギンとムイシュキンの遭遇した共通点を見極め、底辺にあるニヒリズムを基にした作品の現代性も浮上させたいと思います。

 

ドストエーフスキイの会、第243回例会(赤淵里沙子氏)のご案内

第243回例会のご案内が未掲載でした。

お詫びの上、「ニュースレター」(No.144)より転載します。

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第243回例会のご案内

 下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                         

日 時2018113日(土)午後2時~5

場 所千駄ヶ谷区民会館

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854  

報告者:赤淵里沙子 氏

題 目:『悪霊』にみる思想、信仰と集団の必然性

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:赤渕里沙子(あかふち りさこ)

 現在、早稲田大学ロシア語ロシア文学コース4年生に在学中。2015~2016年、サンクトペテルブルク国立大学に留学。来年度から同コース修士課程に進学予定。ドストエフスキーとの関連で、19世紀から20世紀初頭までのロシア思想を中心に研究。

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243回例会報告要旨

『悪霊』にみる思想、信仰と集団の必然性

  『罪と罰』において、ドストエフスキーは既存の道徳に不信をもったある個人の精神世界を掘り下げ、社会に開示した。変わらぬ日常の中で、たった一人、変化を経験した個人がどのような末路を辿るのか、それが『罪と罰』では描かれている。時代が進んで、作家は再び罪を犯す人間についての作品に取りかかる。しかしそこでとりあげたのは、個人ではなく集団の心理であった。法と戦うラスコーリニコフという直線的な構図は、『悪霊』においてより複雑なものへと拡大される。疑いを抱いた青年ラスコーリニコフは、その不信の芽を植え付けた40年代の知識人、また、西欧のニヒリズムを体現する革命家、そして彼に魅了され賛同していくロシア国民をはじめ、様々な要素へと分裂し、より詳細に描かれていく。

 この意味で、作家の問題意識が、個人の内面世界での考察を経て、改めて社会を舞台として展開されたのが『悪霊』といえよう。そしてそこで現れてきたのは、ただ一つ五人組という集団のみではない。物語において様々なレベルで形成され、それぞれに思想を抱く集団を観察することで、作品の詳細な理解へとつながり、また集団という概念を念頭に置くことで、スタヴローギンの苦悩を異なる側面から眺めることができると考える。

 この『悪霊』執筆時に、ドストエフスキーがネチャーエフ事件から受けた印象というのも、そもそも集団性への関心が根底にあってのものだった。というのも、彼がこの事件に強いインスピレーションを受けたのは、平凡で善良な人間たちが、ネチャーエフによる思想の感化にさらされたときに、途轍もなく醜悪な殺人をやってのける、つまり集団が思想に食いつくされ、その道徳観が理解しがたいものへと変化してしまう、その過程に驚愕を覚えたからである。西欧から流れ込んでくる無神論的社会主義に若者たちが惹かれていった当時、集団と思想の相互関係への意識が、少なからずドストエフスキーに抱かれていたことは、作品の外において書簡や『作家の日記』でしばしば言及されていることからも明らかである。

 『悪霊』においては、作家の集団性への意識はまず「町」という形で現れてくる。アントン氏による事件の叙述として進められる作品の語りが、実質的にはその情報の大部分に噂や評判といった町の人々の声が介在するもので、それらが登場人物たちの言動を左右する重要な要素として作用していることからも、それは観察できる。また、ピョートルやステパンによる外部からの思想的な脅威に対して、土着の内部として現れてくる「町」は、インテリゲンツィヤに対して浮かび上がってくるロシアの農民層とパラレルで捉えることができる。ドストエフスキ

ーは、国民性として集団に共通して抱かれる思想というものに強い信頼を寄せていたが、彼が当時社会の抱える精神的な揺らぎに対してもっていた危惧が、安定的なロシアという土に根の繋がった民衆を象徴する「町」として現れたのだと考えられよう。

 一方で、対抗する勢力としてピョートルによってもたらされる無神論的革命思想は、人々の抱く既存の道徳を破壊することで、社会を変革しようと試みる。改革は政治形態の置き換えに留まってはならず、集団の精神的な変化を契機とする根本的な部分からの転覆を目指すのであり、その視点から、彼らもまた集団を形成して社会へとアプローチする。物語の舞台である町それ自体も、ピョートル率いる五人組や、それに対抗して現れるフェージカと放火犯たちの一派など、いくつかの集団から成る集合体で捉えられることを確認し、その一方で強烈に作用するスタヴローギンの集団を分裂させる力が、究極の思想としての信仰の非実現を導く要素の一つとして考えられるのではないかという可能性を提示していきたい。

元・原発技術者と木枯し紋次郎――朗読劇「線量計が鳴る」を観る(上演スケジュール) 

朗読劇「線量計が鳴る」上演スケジュール

線量計が鳴る2(←画像をクリックで拡大できます)

一世を風靡したテレビ時代劇《木枯し紋次郎》で主人公を演じた俳優・中村敦夫氏が3年余の苦闘の末に書き上げた朗読劇「線量計が鳴る」を笹塚ボウルで観たのは、初夏の7月16日のことであった。

その後の世界情勢は悪化の一途を辿っているが、そのような中でも原発技術者の視点から原発の危険性を訴えたこの朗読劇・上演の輪は広がり続けており、笹塚ボウルでも10月17日と18日の追加公演が決まった。

少し記憶が薄れている箇所もあるが、新聞記事などによって確認しながらその時の感想を記すとともに、現在の世界や日本の状況との関連にも簡単に触れておきたい(以下、敬称略)。    

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小さな会場ではあったが開演の30分ほど前に着いた時にはすでにほぼ満席で、初老の主人公が線量計を片手に入ってくると劇は始まった。

背景にスクリーンがあるだけの簡素な舞台だったが、原発の町で生れ育った主人公が最初は希望を持って原発で働きながら次第に疑問を抱くようになり、ついに原発事故に遭遇したという自分の物語を、福島弁で語り始めると、観客はすぐにその語りに引きこまれた。

それは戦後に生まれた多くの日本人が程度の差こそあれ、多かれ少なかれ似たようなことを体験していたために、少し聞き取りにくい箇所はあっても、福島弁で語ることによって哀しみや怒りが生の声で観客の心に直接に届いたからだと思われる。

さらに、観客が元・原発技術者の気持ちに同感しやすかったのは、中村が1972年1月1日から放映された笹沢左保原作のテレビ時代劇《木枯し紋次郎》(市川昆監督)の主人公を演じていたことにもあると思える。

「あっしには、かかわりのねえこって」という決めぜりふが物語っているように、ニヒルな渡世人の紋次郎は、最初は他人との関わりを極力避けようとするのだが、結局はか弱い者が置かれた状況を見かねて助けに入り、大人数のやくざたちを相手に大立ち回りをすることになる。

しかも、所有しているのが何度も太刀を交わすと折れる心配もあるような安い刀なので、それまでの時代劇の舞うような華麗な殺陣ではなく、刀を振り回しながら走り回り、取っ組み合って地面を転がるという全身を使った殺陣で相手を倒すのである。

この朗読劇でも中村は希望を持って原発で働いていたが、次第に原発に疑問を抱くようになり、その問題点を指摘して経営者から嫌われできれば関わりたくはないと思いつつも原発の問題を真正面から体当たりで指摘する主人公を熱演している。

「原発は安全だ、安全だぁ」って、自分も他人もだまぐらかして飯食ってきたんだからな。  揚げ句の果て、取り返しのつかねえ原発事故が起ごっちまった。自爆テロみでえなもんだ、これは。この話すんのは、ほんとにつれえわ。んでもな、どうやっだって現実からは逃げられねえべ。

朗読劇「山頭火物語」では「鴉啼いてわたしも一人」などの代表的な句をスクリーンに映し出しながら物語を進めていくという手法をとることで、天才とも酒乱とも呼ばれた漂泊の俳人・種田山頭火をとおしてエコロジーの問題にも鋭く迫っていた中村は、そのような手法をこの朗読劇でさらに深めている。

山頭火物語

すなわち、主人公が「原発立地の浜通りの自治体は、どこも同じように繁栄した。予算をばらまくための法律、電源三法のおかげだね」(太字は引用者)と語った際には、「原発立地に見返りとしての交付金(税金)を与えるための三つの法律」との説明がスクリーンに表示され、さらに「事故隠し」では「2007年北陸電力の臨界事故隠蔽が発覚。その後、全国12電力会社で、事故隠し300件が判明」などとスクリーンに重要な用語の説明やグラフなどが映し出されることで、非常に多くの情報が整理されて観客に伝えられた。

さらに日本ペンクラブでは環境委員会委員長を務めた中村は、チェルノブイリ原発事故の視察にも参加していたが、それはこの劇でも元・原発技術者の主人公が事実を知るためにはチエルノブイリ視察へと行った体験として活かされており、ウクライナでは5ミリシーベルトで避難地域の対象となっているにもかかわらず、先進国と自称している日本ではその5倍の20ミリシーベルトに設定されていることなどが明らかにされる。

こんでも、原発推進派はやめられねえって言う。その根拠つうのは、長い間国民が信じ込まされできたうそ八百だ。日本の原発業界は、技術と知識は最低だけど、うそだけは一流だがんな。まず、原発がねえと電気が足りねえつう大うそだ。 こんだけ理屈に合わねえ危険いっぱいのポンゴツ原発を、事故起ごした責任も取らねえで、なんで再稼働させんのけ。

元・原発技術者の怒りと指摘はきわめて厳しいがそれは抽象的な言葉としてではなく、中村が少年時代を過ごした福島弁で木訥に語られることにより、説得力を持ち得ている。

さらに、それはスクリーンに映し出される「総括原価=必要な経費のすべて盛り込み、さらに利益分を上乗せして予算を作る。その合計が電気料金の総額に相当する」、「原子力損害賠償法=事故が起きたとき、自然災害であれば、電力会社の賠償は1200億円と定められる」などのきわめて具体的な情報によって、複雑な原子力発電の問題を感情的で主観的な思いとしてではなく、事実としての重みのある言葉として観客に伝わり、説得力のある舞台であった。  

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アメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、日本国憲法が発布された1947年に世界終末時計を発表して、その時刻がすでに終末の7分前であることに注意を促していた。

しかし、2015年にはその時刻がテロや原発事故の危険性から1949年と同じ「残り3分」に戻っていたが、2017年1月にはトランプ大統領が「核廃絶」や地球の温暖化に対して消極的な発言を行なったことなどから「残り2分半」になったと発表した。

このような事態を受けて7月7日に国連で「核兵器禁止条約」が国連加盟国の6割を超える122カ国の賛成で採択されたが、原水爆の危険性をよく知り非核運動の先頭に立つべき被爆国の安倍政権は参加すらしなかった。

そして、北朝鮮が水爆実験やミサイルの発射などを繰り返すと、トランプ大統領は「北朝鮮を完全破壊」することもありうるとの恫喝的な発言を国連で行い国際社会からの強い顰蹙を買ったが、安倍首相はその危険性を指摘すらもしなかった。

しかし、狭い国土に世界の7%に当たる110の活火山を有する火山大国であり、地震大国でもある日本には54基もの原発があり、安倍政権によってその稼働が進められていることを考慮するならば、日本をも巻き込んだ極東での戦争がレベル7の大事故だった福島第一原子力発電所事故以上の地球規模の大惨事となることは明白のように思われる。

元・原発技術者は原発推進派の政治家、官僚、電力業界、原子力学会、産業界、マスコミなど既得権益に群がる六つの勢力を「六角マフィア」として断罪していた。木枯し紋次郎の刀を思わせるような主人公の鋭い言葉の切っ先は、「六角マフィア」の頂点にあって国民の生命や財産を危険にさらしながら日本を戦争に巻き込もうとしている安倍政権に突きつけられていると言えるだろう。

ソ連ではペレストロイカ(立て直し)の時期に演劇がグラスノスチ(情報公開)や改革の要求の先頭に立っていた。日本でもこの朗読劇がそのような役割を果たすことを期待したい。  

主な参考文献

商品の詳細(書影は「アマゾン」より)

中村敦夫『簡素なる国』(講談社、2011)
毎日新聞朝刊「インタビュー:朗読劇で原発廃止訴え 俳優・中村敦夫さん」2017年4月29日
日刊ゲンダイDIGITAL 、中村敦夫「避けられない問題」、6月11日
朝日新聞朝刊「人物欄」、8月31日
(2017年9月28日、一部訂正してリンク先と画像を追加。12月25日、書影を追加、2018年6月10日、題名に加筆)

ドストエーフスキイの会、第240回例会(合評会)のご案内

「第240回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.141)より転載します。

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第240回例会のご案内

今回は『広場』26号の合評会となりますが、論評者の報告時間を10分程度とし、エッセイの論評も数分に制限して自由討議の時間を多くとりました。記載されている以外のエッセイや書評などに関しても、会場からのご発言は自由です。多くの皆様のご参加をお待ちしています。

 

日 時 2017年7月15日(土)午後2時~5時

 場 所神宮前穏田区民会館 第2会議室(2F)     ℡:03-3407-1807

 (会場が変更になりました。下記の案内図をご覧ください!)

 

掲載主要論文の論評者

 熊谷論文 ラスコーリニコフの深き欲望 ――太田香子氏

金沢論文  ドストエフスキーと「気球」 ――高橋誠一郎氏

チホミーロフ論文 「思想家達の形象による」思索の問題――熊谷のぶよし氏

杉里論文  《貶められ辱められた子ども》の絶望と救済――近藤靖宏氏

芦川論文  イワン・カラマーゾフのキリスト ―大木貞幸氏

エッセイ:冷牟田、清水、西野、石田、学会報告―フリートーク

司会 高橋誠一郎氏(+近藤靖宏氏)

 

*会員無料・一般参加者-500円

前回例会の「傍聴記」と「会計報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

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会場(神宮前穏田区民会館)の案内図

ドストエーフスキイの会会場

「核兵器禁止条約交渉」への不参加と安倍首相の「積極的平和主義」

昨日(3月28日)のNHKニュースは、「核兵器禁止条約交渉」に日本が不参加を表明したことを伝えるとともに、「唯一の戦争被爆国として核廃絶を訴えてきた日本も参加しないことを表明し、核軍縮をめぐる各国の立場の違いが際立つ形となっています」と説明しています。

日本が交渉に参加しないという方針を表明したことについて、〈被爆者の代表として国連で演説を行った日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の藤森俊希事務局次長は「日本政府はこれまで唯一の戦争被爆国という枕言葉をよく使ってきたが、その唯一の戦争被爆国は私たち被爆者が期待することと全く逆のことをしており、賛同できるものではない。日本政府は世界各国から理解が得られるよう、核兵器廃絶の先頭に立つべきだ」と〉、日本政府の対応を批判したことも伝えています。

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今回の事態により2016年の広島市で行われた平和記念式典のあいさつで核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則に言及しなかった安倍首相の「積極的平和主義」や公明党などの賛成により強行採決された「安全保障法案」の危険な本質がいっそう明らかになったと思えます。

それだけでなく戦争を美化する思想の持ち主であることから防衛大臣に抜擢されながら、自分もかかわっていた森友学園問題で、虚偽答弁を繰り返したかだけでなく、自衛隊の「日報」隠蔽問題にも深く関わる稲田朋美氏を未だに重視している安倍内閣の無責任さや危機管理能力のなさも浮かび上がってきました。

それゆえ、2016年8月7日に書いた「安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論」を再掲します。

このような事態になることを危惧して急いで上梓した拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の書影と関連する記事へのリンク先も記しておきます。

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(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

安倍首相が広島市で行われた平和記念式典のあいさつで、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則に言及しなかったことが波紋を呼んでいます。

以下、新聞などの記事によって簡単に紹介した後で、安倍首相が本気で「核兵器のない世界」を願うならば、「わが国は核武装するしかない」という論文を月刊『日本』(2014年4月22日号)に投稿していた武藤貴也議員を参院特別委員会に呼んでその見解を質し、今も同じ考えならば議員辞職を強く求めるべき理由を記したいと思います。

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平和記念式典の後で行われた被爆者団体代表との面会では、安倍首相は「唯一の戦争被爆国として非核三原則を堅持しつつ、世界恒久平和の実現に向けた努力をリードすることを誓う」と述べ、これに関し菅官房長官も同日午前の記者会見で「非核三原則は当然のことで、考えにまったく揺るぎはない」と説明したとのことです。

しかし、これらの「誓い」や「説明」の誠実さに疑問が残るのは、すでに多くの新聞や報道機関が指摘しているように、その前日に行われた参院特別委員会で中谷元・防衛相が、戦争中の他国軍への後方支援をめぐり、核兵器を搭載した戦闘機や原子力潜水艦などへの補給は「法律上除外する規定はない」として、法律上は可能との認識を示す一方で、「非核三原則があり提供はありえない」とも述べていたからです。

枝野幸男・民主党幹事長が批判をしているように、武器輸出三原則などの大幅な緩和をしたばかりでなく、「弾薬は武器ではない、その武器ではないもののなかに、ミサイルも入る(と言う)。それに核弾頭が載っていてもそれが(輸送可能な弾薬の範囲に)入る」と説明した安倍内閣の閣僚が、「非核三原則があります、(だから輸送しない)と言っても、ほとんど説得力をもたない」でしょう。

さらに、被爆者団体代表との面会で安全保障関連法案が、「憲法違反であることは明白。被爆者の願いに背く法案だ」として撤回を強く求められた安倍首相は、「平和国家としての歩みは決して変わることはない。戦争を未然に防ぐもので、必要不可欠だ」と答えたようですが、すでに武器輸出三原則などの大幅な緩和をしている安倍首相が、「平和国家としての歩みは決して変わることはない」と主張することは事実に反しているでしょう。

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今回の安倍氏の「あいさつ」で最も重要と思われるのは、秋の国連総会で新たな核兵器廃絶決議案を提出する方針の安倍首相が、「核兵器のない世界の実現に向けて、一層の努力を積み重ねていく決意」を表明し、来年のG7(主要七カ国)外相会合が広島で開かれることを踏まえて「被爆地からわれわれの思いを国際社会に力強く発信する」とも述べていたことです。

このこと自体はすばらしいと思いますが、国際社会に向けたパフォーマンスをする前に安倍首相にはまずすべきことがあると思われます。

それは安倍氏が本気で「核兵器のない世界」を願うならば、「わが国は核武装するしかない」という論文を月刊『日本』(2014年4月22日号)に投稿していた武藤議員を参院特別委員会に呼んでその見解を質し、今も同じ考えならば議員辞職を強く求めるべきことです。

参院特別委員会でも「安全保障関連法案」には多くの深刻な問題があることが次々と明らかになっているにも関わらず、「強制採決」に向けて粛々と審議が行われているように見えます。

しかし、国際社会にむけて未来志向の「美しい言葉」をいくら語っても、武藤議員の発言を厳しく問いただすことをしなければ、「日本を、取り戻す。」を選挙公約にした安倍政権の本当の狙いは、戦前の「日本人的価値観」と軍事大国の復活にあるのではないかという疑いを晴らすことはできないでしょう。

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→『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016)

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