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「『古事記と日本国の世界的使命――甦る『生命の實相』神道篇』を読む」を改訂

はじめに

「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という記述がある戦前版の『生命の實相』を「ずっと生き方の根本に置いてきた」と語っていた稲田朋美氏が故安倍首相によって防衛大臣に任命されていました。

それに対して安倍内閣で強い反論は出なかったことでそれ以降の自民党政権では、同じような戦争観を持つ防衛大臣が選ばれているようです。住民約9万4000人の犠牲者を出した沖縄戦を指揮した牛島満司令官の「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦(よみがえ)らなむ」という「辞世の句」が陸上自衛隊HPに掲載されていたことが発覚した際にも中谷防衛大臣はこの句を「平和を願う歌」と弁護しました。

しかし、牛島満司令官の「辞世の句」に現れている死生観は、上海事変の爆弾三勇士などに言及しながら、「戦場に於(お)ける兵士の如く死の刹那(せつな)に『天皇陛下万歳!』と唱えつつ死んで行く人が沢山あります」(205頁)が、「あれは死んだのではない、永遠に生きたのであります」と続けた谷口雅春の死生観に通じているように思えます。

しかも、本書の冒頭で「(『古事記』が)日本に於(お)ける最も古き正確なる歴史であるということになっているのであります」と書いた谷口は、「大宇宙に於(お)ける日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何(いか)に生きて行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかということをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります」と続けていました(4―5頁)。

注目したいのは、キリスト教シオニズムでは旧約聖書と黙示録の預言の記述を結びつけることで強引な歴史の解釈を行っているが、自分たちの歴史理解を正当化しているが、本書でも『古事記』の記述と黙示録の記述を組み合わせた歴史の解釈が行われていることです。

「編者はしがき」は、刊行の目的を「本書によって、一人でも多くの方が天皇国日本の実相と、その大いなる世界的使命について認識を新たにされるなら、編者として幸いこれに過ぐるものはない」と記しています(太字は引用者)。

この記述には編者たちの現在の憲法に対する批判が如実に表れていると思えますが、世界最終戦争を正当化しているキリスト教シオニストに支援されたトランプ氏が大統領に再選したことで、戦争が実際に起きる危険性は高まってきています。それゆえ、初出が2016年8月7日の記事を大幅に改訂して『古事記』と黙示録の解釈の問題を中心に考察することにします。 

『古事記と日本国の世界的使命――甦る『生命の實相』神道篇』を読む(改訂版)

はじめに 世界の終わりに向き合う文学(改訂版)

(近著『黙示録の世界観と対峙する――ドストエフスキーと日本の文学』、群像社より )

*ウクライナとガザ――ふたつの戦争と黙示録

 2021年のドストエフスキーの生誕二百年に際して作家を「天才的な思想家だ」と賛美したプーチン大統領は、その翌年の2月にウクライナ侵攻に踏み切った。

 この戦争がドストエフスキー研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けて『悪霊』における黙示録の重要性を明らかにしたモチューリスキーが「(ドストエフスキーは)世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と『評伝ドストエフスキー』で記していたからである。

 実際、露土戦争の前年に著した『作家の日記』の一八七六年六月号ではトルコによるスラヴ人の虐殺に言及して、ロシアは「正教の統率者として」コンスタンチノープル[現在のイスタンブール]を求める資格があると記したドストエフスキーは、翌年の四月号では「この戦争は、われわれ自身にとっても、必要なのである」と主張していた。こうして、日記の形で綴られた文章や特定の登場人物の言葉として記された文章を読むとドストエフスキーが黙示録的な世界観からロシアの戦争を正当化しているようにも見える。

 さらに、クリミア戦争に衝撃を受けて一八一二年にヨーロッパ諸国の多国籍軍を率いてロシアに侵攻したナポレオンとその甥・ナポレオン三世の政策を分析した博物学者のダニレフスキーは、攻撃的な西欧文明から守るためにはスラヴ同盟を結成しなければならないと主張し、その思想はドストエフスキーの文明観に強い影響を与えていた。

 しかし、ドストエフスキーの文学を黙示録に引き寄せた解釈は多いが、彼は本当に世界史を「神と悪魔の最後の闘いのイメージ」で見ていたといえるだろうか。なぜならば、『罪と罰』で社会ダーウィニズムの影響を受けた主人公の「非凡人の理論」を厳しく批判したドストエフスキーは、『白痴』では主人公に「殺すなかれ」という理念を語らせていたからである。  

 本書ではこの問題を日本の作家の作品も視野に入れて考察することにより、ドストエフスキーがむしろ黙示録の二項対立的な世界観の厳しい批判者であった可能性を示す。

*侵略する「神の国」――キリスト教シオニズムと戦争の正当化

「天井のない監獄」とも呼ばれるガザを拠点とするハマスによる大規模な越境攻撃で一二〇〇人もの犠牲者が出たのは、二〇二三年一〇月七日のことであった。

 それに対してイスラエル政府はジェノサイドとも批判されるような大規模な報復を行ったが、その翌月には日本会議に所属して活発に活動していた日本の「キリストの幕屋」の信者たちがイスラエルの前線部隊を「慰問」して砲弾に祈りの文言を記す映像が公開された。

 一〇九五年に行われた第一回十字軍の派兵に際してローマ教皇は黙示録の解釈によって、遠征に参加する者には「これまでに彼が犯した罪について罰を一時的に赦免」していた。こうして、他宗教や異端派への十字軍の派遣をも正当化した十字軍の派兵は、イスラム教徒だけでなくユダヤ人大虐殺とエルサレムの富の略奪を招き、その後もユダヤ人に対する激しい差別がスペインや他のヨーロッパ諸国で続いていた。

 そのことを考えると日本人の信者が人を殺す砲弾に祈りの言葉を記すという行動は不思議に思えるが、その背景にはキリスト教シオニズムによる特殊なイスラエル認識がある。キリスト教シオニスト・W・U・ブラックストンの『イエスは来る』では、旧約聖書と黙示録の預言の解釈によって「イスラエルはこの世に作られた神の王国」であり、イエスはそこに「再臨」するという預言説が記されていたのである。

 この思想は第一次世界大戦末期にイギリス外相バルフォアが大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めたことで世界に広まり、一九一七年に『イエスは来る』を邦訳した中田重治も、一九一八年から翌年にかけて内村鑑三とともにキリストの再臨運動を行った。そして、中田は一九三〇年代になると「原理主義的な聖書解釈と日本のナショナリズムと」を結び付けて満州への入植をこう呼びかけていた。

 「日本は黙示録七章二節にある日出国の天使である。世界の平和を乱す事のみをして居る四人の天使(欧州四大民族)から離れて宜しく神よりの平和の使命を全うする為に突進すべきである。」

*『悪霊』における「再臨のキリスト」の解釈と「八紘一宇」の理念

 黙示録の「キリストの再臨」論の独自な解釈をとおしてロシア・メシヤ思想を唱える元農奴シャートフの主張も描かれている『悪霊』の最初の邦訳は、第一次世界大戦が勃発した翌年に出版された。作家の埴谷雄高が「吾国の社会状勢に見あってのこと」としながら、昭和初期の日本では「ドストエフスキイの最高作品は『悪霊』だということにまでなった」と記している。

 それゆえ、本書の第一章と第二章では『白痴』に至るまでと『悪霊』におけるドストエフスキーの黙示録観を分析し、第三章から終章までは西欧文学の手法を学ぶとともに時事的な情報も積極的に取り込んで政治と宗教との関りを深く考察したドストエフスキーの方法を重視して、日本の文学における黙示録的な世界観の考察の深まりとその意義を確認する。

 上京した翌日に二・二六事件に遭遇したことから第一部が始まる堀田善衞の自伝的な長編『若き日の詩人たちの肖像』では、キリストの再臨と異端審問という難問について「限りもなく喋りつづけていた」アリョーシャというあだ名の若い詩人の激しい変貌が描かれている。玉砕の報道が続いた頃にアリョーシャは「天皇がキリストだ」と叫ぶことになるのだが、このような一見唐突な彼の発言はシャートフのロシア・メシヤ思想や黙示録の終末観を介することで理解できるだろう。

 一方、関東軍参謀の石原莞爾は国柱会を興した日蓮主義者・田中智學の説いた「八紘一宇」という世界統一の理念に惹かれて一九三一年に満州事変を起こした。この成句は『日本書紀』に記された全世界を一つの家のようにするという「八紘為宇」という用語を元にしていたが、二・二六事件では皇道派の将校たちが「蹶起趣意書」でもこの用語を用いた。さらに、一九四〇年に近衛内閣が基本国策要綱で「八紘一宇」を用いたことで政治スローガンになった。

 第三章では第一次世界大戦の勃発に強い危機感を抱いた内村鑑三やキリスト教シオニストの中田重治のキリストの再臨説だけでなく、大本教の出口王仁三郎をキリストとみなしていたが、後に脱会して「生長の家」を起ち上げる谷口雅春の黙示録観を考察する。その後で米騒動と「白虹事件」の関係や疫病の問題も扱われているシベリア出兵をテーマとした堀田善衞の長編『夜の森』と大本(おおもと)などをモデルに激しい宗教弾圧を受けた「ひのもと救霊会」の受難とその分派 との対立をとおして、大本の分派である生長の家の危険性も描いた高橋和巳の『邪宗門』などを読み解く。さらに、満州国の建国に関わっていた主人公をとおして「八紘一宇」の理念に問題を考察しているが戦後の日本にも受け継がれていることを明らかにしている高橋の堕落――あるいは、内なる曠野』を分析する。

*「大審問官」としての原爆と核戦争の危機

 学生の時に原爆投下のニュースを知ったときの衝撃を三島由紀夫は「世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある」と書いた。

 第一次世界大戦後に化学兵器は非人道的であるとして禁じられたが、それ以上に非人道的な原爆については日本政府がその問題を訴えず岸政権が「核の傘」理論を打ち出したために、日本の社会ではその危険性についての深い議論はなされなかった。

 しかし、一九五九年八月に原爆投下にかかわったパイロットの往復書簡の一部が朝日新聞に掲載されると、それに長編『美しい星』(一九六二)で敏感に反応したのが三島由紀夫だった。第四章では地球を救おうとした家族と核戦争による「人類全体の安楽死」を目指したグループとの対決をSF的な手法で描いた三島の『美しい星』や高橋和巳の『憂鬱なる党派』など核兵器の危険性を直視した作品を読み解く。

 ことに堀田は長編『審判』(一九六三)で従軍牧師からイエス・キリストの名において「主のご加護を」祈られた後に広島の原爆投下にかかわったパイロットと日中戦争で上官の命令で老婆を殺害した兵士の対話と行動をとおして、黙示録的なキリスト像の危険性を描き出した。

 ベトナム戦争が激化するとアメリカでは反戦運動が拡がったが、それに対抗するようにキリスト教シオニズム的な視点での布教活動も拡がり、核戦争を防ぐ手立てがないという黙示録の解釈を説くテレビ伝道師たちの番組が何千万世帯で見られるようになった。黙示録の解釈により文鮮明を「再臨のメシア」とした韓国の統一教会は、一九六六年に出版した教理解説書『原理講論』では「(サタン側と天の側に)分立された二つの世界を統一するための(……)第三次世界大戦は必ずなければならない」と説いた。

 キリスト教シオニズムの研究者G.ハルセルは、ソ連を「悪の帝国」と非難したレーガン元大統領が、「ハルマゲドンを世界最終核戦争に結びつけ、その必然性を信じる解釈を少なくとも一九八六年までは受け入れていた」と記している。

 本書の第五章ではまず、戦争と黙示録的な世界観の関連を具体的に描いた堀田の長編『橋上幻像』や推理小説的な手法で黙示録の危険性を示したウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を考察する。その後で「再臨のキリスト」のテーマに注目しながら堀田の『路上の人』をとおして『カラマーゾフの兄弟』の物語詩「大審問官」を分析することで、ドストエフスキーが黙示録的なキリスト観の厳しい批判者であることを確認する。

*世界最終戦争の渇望「巨大なニヒリズム」との対峙

 ソ連が崩壊したことで冷戦は終わり平和な時代が到来したかと一時的には見えたが、グローバリズムに対抗して民族や宗教の対立が深まった。たとえば、国際政治学者ハンチントンの論文「文明の衝突?」(一九九六)や比較文明論的な構造を持つ大著『文明の衝突』(一九九八)では、敵国を「野蛮」と見なした文明史家バックル的な文明観が記されていたためにロシアなどの強い警戒感を呼び起こした。

 実際、二〇〇一年九月一一日に同時多発テロが起きると「報復の権利」を主張してタリバン政権を撲滅させたブッシュ米大統領はイラク、イランと北朝鮮を「悪の枢軸国」と呼んでイラク戦争に踏み切ったが、開戦の理由とされた大量破壊兵器は発見されなかった。

 一方、大ヒットした『レフト・ビハインド』シリーズ(一九九五~二〇〇七)を元に二〇一四年に制作された映画ではイスラエルがイランやロシアとの戦争に勝利していく姿が描写されていることを紹介した思想史の研究者・加藤喜之はキリスト教シオニストで牧師のジョン・ハギーが世界最終戦争で「世界の終り」が来ても福音派の信徒だけは救済されると主張していると記してこの信仰の危険性に注意を促している。

 しかし、「アメリカ第一主義」を唱えて地球の温暖化などの重大な問題を軽視する一方で宇宙軍を創設していたトランプがキリスト教シオニストやツイッターを買収した大富豪マスクなどの強力な支援で大統領に再選された。「米国に神を取り戻す」と語り、旧統一教会の韓鶴子総裁を「マザームーン」と呼ぶテレビ伝道師ポーラ・ホワイトを「信仰庁」の長官に任命したトランプは、多様性を排除してイスラエルへの軍事支援を明確にした。そのことにより高い科学技術とIT企業を有する軍事的な超大国アメリカは中世的な宗教国家へと変貌したように見える。

 終章ではこのような複雑な国際情勢を踏まえつつ、オーウェルの『一九八四年』や一九八二年から一九九四年まで続いたコミックス版『風の谷のナウシカ』を参照することで、「巨大なニヒリズム」と対峙して核兵器や黙示録的な世界観の危険性を明らかにしてきた日本文学の意義に迫る。

(「はじめに」では敬称を略すとともに注も省いた。二〇二四年四月)

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(2024/11/25、12/01、 加筆)

「黙示録の解釈と核戦争の危機」を主な「主な研究」に掲載

 執筆中の『黙示録の終末観との対峙――ドストエフスキーと日本の文学』の「はじめに」は、全部を脱稿した後にホームページなどでアップしたいと考えていました。しかし、長崎市長が八月九日の平和式典にイスラエルの代表を呼ばないことが判明すると、原爆を投下したアメリカだけでなくイギリスなどG7各国の大使が不参加を表明しました。

 このことは英米などが核兵器禁止条約に参加していない状況とガザ危機におけるキリスト教シオニズムとの深いつながりをも鮮明に浮かび上がらせたと思います。

 さらに、宮崎県沖の大きな地震に続いて、南海トラフ地震の起きる可能性も指摘された中で、日本の原発政策が変わらないのには強い不信の念を抱きますが、おそらく、これも日本政府の核エネルギーに対する危機感の弱さからくる核兵器禁止条約への不参加の問題と直結しているためだろうと思います。

 それゆえ、脱稿した後で少し改訂するようにして、取りあえず「黙示録の解釈と核戦争の危機」を「主な研究」に掲載します。

 その構成は下記の通りです。

*ウクライナ侵攻とドストエフスキーの『悪霊』/*キリスト教シオニズムと「八紘一宇」の理念/*ガザ危機と黙示録的終末観の克服

夭逝した作家・高橋和巳のドストエフスキー観―『悪霊』論を中心に

はじめに

太平洋戦争末期にウォルインスキーの『偉大なる憤怒の書――「悪霊」の研究』を翻訳した埴谷雄高(一九〇九~九七)は、戦後に日本におけるドストエフスキー作品の評価の変化を概観して、「吾国の社会状勢に見あってのことと思いますが」としながら、昭和初期の日本では「ドストエフスキイの最高作品は『悪霊』だということにまでなった」と記していた(「『偉大なる憤怒の書』の訳本」)。

しかも、大江健三郎との対談では埴谷は「(ナスターシヤ・フィリッポヴナは)物心つかないうちに妾にされた。これがある意味でナスターシヤのニヒリズムの条件であって、ナスターシヤが成長し、優れた素質を発揮するのは、そういうことを自覚してはじめて行なわれるようになる」と語っている(「革命と死と文学」)。そのことに留意するならば、先の埴谷の言葉は昭和初期の日本における『白痴』から『悪霊』への流れをよく把握していると思える。

一方、一九四五年の大阪空襲で焼け出されるという体験をしていた高橋和巳(一九三一~七一)は、日本が混沌としていた一九四九年七月に新制京都大学文学部の第一期生として入学し、同人雑誌を刊行した頃について『あのころのこと』でこう記している。「私達の会は『京大作家集団』という倨傲な名称をなのり、同人雑誌を作るのが第一目的で、三十五人ぐらい集まりました。朝鮮戦争がおこるまでガリ版で、五号まで出した。」

そして、「雑誌を出しながら、同時に研究をしようと、ドストエフスキー、次にバルザック、チェーホフと三年間ぐらい」続けたと記した高橋は、「日本のドストエフスキー関係の文献の中では、埴谷雄高氏のが一番いいと思います」と続けていた(一二・二三八~九、以下、本文中のかっこ内の漢数字は、『高橋和巳全集』〔河出書房新社、一九七七~八〇年〕の巻数と頁数を表す。なお、表記は現代表記に改めた)。

本稿では高橋の作品をとおして一九六九年に『日本の悪霊』を上梓するにいたる彼のドストエフスキー観に迫りたい。

一、高橋和巳のドストエフスキー観

大阪のスラム街・釜ヶ崎に隣接した地区で育ち、貧民街の様子とそこでの苦しい生活を『貧者の舞い』などの短編や後述する長編『憂鬱なる党派』で描いた高橋和巳は、「日本の場合は、『貧しい人々』の作者が同時に『悪霊』の作者(……)でもあることはまれだった」(一三・一八七)と書いて日本のドストエフスキー受容の問題を指摘している。

国家から弾圧された分離派に対する関心を強く持っていたドストエフスキーは、シベリア流刑後に自分の体験を踏まえて記した『死の家の記録』では分離派の敬虔な老人を描き、それ以降の大作でも分離派の問題を描いた。このようなテーマを受け継いだ高橋和巳は長編『邪宗門』(一九六六)で女性を開祖とする「ひのもと救霊会」に飢餓状態だったところを救われて育てられた孤児の千葉潔を主人公として黙示録的な終末観を持ち「世なおし」を唱えたために国家神道の価値観と対立して二度にわたり大弾圧を受けた皇国大本をモデルにして新宗教の問題を描いた。

三部からなるこの大作の第一部では弾圧後に独立して戦争に協力した「生長の家」的な分派「皇国救世軍」との対立を公開討論の形で描き出し、第二部では太平洋戦争が始まり活動が禁じられて苦境に立った教団を救うために「皇国救世軍」の指導者の次男との意に沿わぬ結婚に合意した教主の長女・行徳阿礼の苦悩が記されている。さらに、第三部では行徳阿礼の偽書により三代目の教主となった千葉潔が、占領軍に支配された戦後の日本で「剣を持つ」キリストの理念を説いて武装蜂起し、敗れて餓死するまでが記述されている。

『邪宗門』では五族協和や王道楽土の理念によって建国された満州に派遣された「ひのもと開拓団」の悲劇も描かれているが、満鉄の調査部に勤めて満州の建国にもかかわった青木を主人公とした『堕落――あるいは、内

なる曠野』(一九六五)では、「(戦後に)半ば無意識的に忘却されようとしたもののうち、もっとも重大なものの一つ」である、「幻の帝国――満州国の建国とその崩壊」(一四・四一四)の問題がさらに深く考察されている。

『地下生活者の手記』を転回軸として、ドストエフスキーが「《緻密な観察者》からやがて現実とは考察すべき素材にすぎないと知って《巨大な思索者》に成長していった」(一四・一三五)と捉えた埴谷雄高のドストエフスキー観への共感を示した高橋は、「ひたすら知識人の生き方を追求した」ロシア文学作品として「主人公ラスコリニコフの超人思想による無用者の殺害」(一三・一八六)が考察されている『罪と罰』を挙げた。

一方、一六章からなる長編『憂鬱なる党派』(一九六五)では、すでに『悪霊』のテーマが取り入れられており、第八章では党の厳しい査問の後で自殺した古志原の七回忌に集まるようにとの文面を読んだ青戸が「あの五人組組織でも真似るつもりなのか」(五・二九七)と考えたことが記され、七回忌ではネチャーエフ的組織をめぐる激しい議論が交わされている。

しかも、この長編では韓国系の教団・統一教会が黙示録的な視点から「神の罰」と捉えている被爆も重要なテーマをなしており、被爆しながらも「(僕たちの世代は)不意に恩赦を蒙って、平和になったからといって、観念して目をつむっていた首から縄をはずされても、ムイシュキン公爵のような善人には、誰もなれない」(五・二〇三)と暗い諦念を語っていた主人公の西村が、憤怒に駆られて退職し、五年の歳月をかけて原爆で被爆して亡くなった身近な人々の伝記を書きそれを出版しようとしたことも描かれている。

そして、長編の終わり近くでは元特攻隊員の藤堂が、「蛸壷に身をひそめ、頭上を敵の戦車が通過する瞬間、自爆する方法を教えられていた」同世代の若者たちを思い起こした後でこう考えたと記されている(五・四五二~四五三)。

「一たび死刑台に立たされ、不意に許された苛酷な経験のゆえに、もはや正常な生活者の道を歩めず、無限に寛大な〈白痴〉とならざるをえなかったムイシュキン公爵が、この国には何万、何十万といたはずだった。なぜ彼らは皆、黙っているのか? なぜ激怒して、いまだかつてこの世にない思想を、いかなる前人も思い及ばなかった大哲学を築こうとしなかったのか。」

ムイシュキン公爵自身は原作では死刑台に立たされてはいないので、ここでは黒澤映画『白痴』の主人公像を踏まえて考察されているといえるだろう。なぜならば、次節で見る『日本の悪霊』でも登場人物が酔っ払いだが博愛的な精神を持つ医師が描かれている黒澤映画『酔いどれ天使』のことを熱く語るシーンが描かれているからである。

一九六九年に発表された「内的葛藤の原型」の冒頭で「『カラマーゾフの兄弟』は、私にとっては座右の書というよりは、すでに心の中にはいってしまった作品である」と記した高橋はこう続けて自作との深いかかわりを明らかにしていた。
「激情的なドミートリイ、悪魔的な思索家のイヴァン、無限に善意なアリョーシャ、そしててんかん持ちの私生児スメルジャコフ。同じくロシヤの血をうけ、同じく時代の苦悩を背負い、同じくドストエーフスキイの分身として生命をあたえられ、たがいに愛憎しつつそれぞれの運命からはずれ得ぬ劇の構図は、単に革命前夜のロシヤの時代精神の象徴であるばかりか、いつしか私自身の内部の葛藤の原型ともなった。(……)この上は自らも、日本の現代のカラマーゾフ家の人々をつくりだすより他に救われる道はないかのようである。」(一四・四二八)

二、ドストエフスキー作品と長編『日本の悪霊』

全九章からなる高橋和巳の長編『日本の悪霊』は雑誌『文藝』に一九六六年一月から一九六八年の一〇月まで断続的に掲載された。この長編では八年前に軽い罪で捕らえられた主人公・村瀬と戦時中に特攻を志願して敗戦後は大学に戻らずに警官になっていた刑事・落合との追う者と追われる者の鋭い対決が『罪と罰』を思い起こさせる手法で描かれている。

また、大地主の屋敷を襲う犯罪に加担するように主人公の村瀬が友人の峯をなんとか説得しようとしたが、それを拒否した峯が自殺をするという『悪霊』のテーマと重なる場面もある。

さらに、「私のドストエフスキー」において、『死の家の記録』を「リアリスライク(ママ)な観察から、人周の可能性をそのぎりぎりの境界まで押しのばしてみせる巨大な形而上学的世界への飛翔にいたる、その転換点に位置するものといっていいだろう」(一三・四一五)と評価した高橋は、自作のインタビューでもこの長編を「『日本の悪霊』と称しながら」、「むしろ『死の家の記録』の方に近いようなところがある」(一九・二五六)と認めている。

実際、第二章「牢獄と海」で拘置所での裸にされての身体検査の後で村瀬は、強姦常習犯、暴行犯などが収容されている雑居房に入れられ、麦飯を食べていると彼らが脅すように村瀬のまわりを廻り出した。彼らの挑発に怒って暴力をふるった村瀬はその行為をとがめられ、後ろ手に手錠をかけられて懲罰用の独房に入れられた。

第七章「闇の遺産」では留置場の風呂場でのいざこざが克明に描写され、その後では「生爪をはぐ拷問よりも、四六時中の共同生活こそが地獄である」(九・二六六)という『死の家の記録』の記述を思い起こさせるような監獄制度に対する鋭い批判も記されている。

ただ、前節では『カラマーゾフの兄弟』についての考察に現れているように、ドストエフスキーは家族関係、ことに父親の問題を抉りだした。『罪と罰』では子供の養育を放棄したスヴィドリガイロフの問題を示唆し、『白痴』でも孤児のナスターシヤを性的犯罪により愛人としたトーツキーを「白い手」の紳士と描いたドストエフスキーは、『悪霊』でも理想を語る一方で、息子ピョートルの養育を放棄していたステパン氏の生き方と思想を批判的に描いている。

『悪霊』では黙示録的な雰囲気が作品全体を覆っているためにこの父親と息子の関係は、くっきりとは浮かび上がりにくいが、高橋が長編評論『暗殺の哲学』でたびたび言及しているアルベール・カミュは、長編『ペスト』で黙示録的な終末論を説く神父を厳しく批判していた。劇『悪霊』でもカミュは第一幕の冒頭で語り手とカルタをしているステパン氏の姿を示すことにより、教え子・スタヴローギンの母親の屋敷に居候をしながらカルタに大金を賭け、損金は息子が相続した亡くなった妻の領地を密かに切り売りしてその場をしのいできたステパン氏が、過激な思想を持つようになった息子との腹を割った議論からも逃げていことを浮き彫りにしている。

『悪霊』におけるステパン氏と息子・ピョートルとの父と息子とのそのような関係は、『日本の悪霊』では初めは明らかにされないが、徐々にその関係が犯罪にも結び付いていたことが明らかになる。ようやく、第五章の裁判で生年月日や本籍地について問われた村瀬は、本籍地を隠さなければならなかった『破戒』の主人公の悲劇を思い起こしながら、私生児ゆえに雇用されなかったことや、奉公に出された「妹の住み込み先が、港近くの小料理屋」で、そこが実質的には売春もさせる店であることを知って、「いつかはかならず見返ししてやる」と考えたことなどを思い起こす。

『罪と罰』のソーニャが家族のために娼婦になったように、家父長的な価値観が支配的であったロシア帝国や戦前・戦中の日本では、「国家」のために若者が戦場に駆り出されるように、「家」のために女性が犠牲になることは当然とされていたのである。

第七章で主人公の村瀬には「生れた時からして父が存在しなかった」と記した作者は、生れた子供に狷輔などという名を付けた「その姿を見せぬ父が、郡一番の金持であり大地主であり」、「堀をめぐらした邸に住んでいる」と記して、その父への激しい恨みが村瀬を大地主の殺害に踏み切らせていたことを示唆している。

一方、村瀬たちの指導者で僧侶くずれの鬼頭は、「放っておけばいつまでも無明の世界をさまよう者の悪しき因縁を絶ち、往生させてやるのはむしろ菩薩の行(ぎょう)」(九・二一九)と語っていたように、「一殺多生」を唱えて「血盟団事件」を起こした日蓮宗の信者・井上日召を連想させるような人物である。

この長編では刑事・落合の執拗な追及を受けた村瀬は八年前に犯した自分の犯罪を徐々に克明に思い出していくとともに、自分たちを率いた鬼頭の言動の問題点を認識し、暴力団による暴力事件も調べていた落合も警察と暴力団との癒着に気付いて村瀬たちの事件捜査の不可解さに気づくことになる。

ドストエフスキーは『悪霊』でピョートルがロシアの秘密警察にも通じておりそれがばれると国外に逃亡した社会革命党の暗殺団の指導者で二重スパイだったアゼーフのような人物であったことを描き出していた。高橋も開高健、小田実、真継伸彦、柴田翔と創刊した『人間として』(一九七〇年~七二年)での自作の合評会では鬼頭が「アゼーフにあたる人物」(一九・三六六)であることを認めて、この事件にはより大きな闇が秘められていることを示唆しているのである。

おわりに

三島事件の一年後に若くして病死したこともあり、高橋への関心は弱まったように見えたが、黙示録のハルマゲドンを強調したオウム真理教によるサリン事件などが起き、右派による「改憲」が叫ばれるようになると『憂鬱なる党派』や『邪宗門』などの高橋作品への関心が再び高まってきた

たとえば、「生長の家」の学生組織の元書記長で一九六九年には右派学生の全国組織の委員長になったが解任された鈴木邦男は、「挫折につぐ挫折で、『生きている意味があるのか』と何度も思った」が、「そのたびに、『生きていていいんだよと』となぐさめてくれたのが高橋(注:高橋の文学)だったと思う」と記している。

そして、「生長の家原理主義者」たちが「『日本会議』の中心メンバー」になって改憲運動をしていることを、「冗談じゃない。三島は勿論、高橋だって、この問題には強く反対するだろう」と厳しく批判している(アンソロジー『高橋和巳 世界とたたかった文学』二〇一七年)。

実際、黙示録的な終末観を持つ統一教会と右派的な政治勢力の癒着の問題などが明らかになってきた。「苦悩教」の教祖とも称される高橋和巳の多くの作品は悲劇的な終わり方をしている。しかし、高橋作品では問題の解決はできていないものの、ドストエフスキー的な手法で問題の所在は明らかにしていた。

しかも、高橋は『罪と罰』の人物体系を分析して「ラスコリニコフを見舞う親友ラズーミヒンがあり、事件や状況の全体は絶望的であっても、ソーニャと主人公の関係のありかたが、ある救いの感情をともなう情緒を読者につたえる」(一三・一二六)と記していた。

高橋が大病から癒えていたら彼が望んだ『カラマーゾフの兄弟』的な作品を書き得ていたと思えるが、残された作品にもそのような可能性の端緒は感じられる。今後、高橋和巳の研究が深まることを期待したい。

近著『黙示録の終末観との対峙――ドストエフスキーと日本の文学』(改題)

『ドストエーフスキイ広場』第33号、2024年、111~117頁)

『堀田善衞研究論集――世界を見据えた文学と思想』(桂書房)と「堀田善衞の会」通信『海龍』第19号の発行、記念講演会のお知らせ。


桂書房webサイトの本の紹介

堀田善衞研究論集表紙

目次 ⇒ (http://katsurabook.com/booklist/1637/

「500ページ近い大著で、総勢18名の執筆者によるオリジナルな論考の集成である。①堀田善衞との対話、②作品を読む・作品を論じる、③堀田文学の多彩な関わりの世界、④インタビューから成る。」 堀田善衞の会企画、定価:4000円

  「序文」より

 本書は、堀田善衞という人について、またその作品について多角的に論じた一書である。生まれ故郷の伏木町といった日本国内に限らず、中国、朝鮮、スペイン、ロシア、アルジェリアなどとの関わりから世界のなかの堀田文学を比較文学的な観点から論じた論考があり、アジア・アフリカ作家会議での活動や『小国の運命・大国の運命』における社会主義思想のほか、『路上の人』や『海鳴りの底から』『鬼無鬼島』などはキリスト教思想や神道思想にも及んでいて、まさに「世界を見据えた文学と思想」が堀田作品からはうかがえる。本書のサブタイトルは、このような多角的な諸論文によって導かれたものである。これら複数の視座によって、堀田文学の豊かな様相が了解されるであろう。そして、その豊かさの根底にあるのは、権力に対する鋭い批判精神であることも理解されるに違いない。

「堀田善衞の会」通信、『海龍』第19号(2024.5.17) の目次

堀田善衞「O博士会見記」[旧文再見3] …1

丸山珪一「堀田善衞とオッペンハイマー「解題」を兼ねて」…4

由谷裕哉「メノッキオの話(2)」…7

高橋誠一郎「高橋和巳の堀田善衞観と長篇『橋上幻像』」…18

野村剛「伏木震災報告記私記として」…29

後記…32 短信 (『堀田善衞研究論集』刊行など)

記念講演会のお知らせ「堀田善衛の会」のブログより一部省略して転載)

『堀田善衞研究論集 世界を見据えた文学と思想』の刊行を記念し、堀田善衛の会では執筆者の野村剛と竹内栄美子の講演会を行います。伏木が生んだ世界飛翔の文学者・堀田善衛の原点と思索を振り返る企画です。                                                              

日時  2024年6月30日(日) 13:30~16:00  (受付開始:13:00)
場所  高岡市伏木コミュニティセンター 大会議室(2階)            
                     プ ロ グ ラ ム
堀田善衞の会代表あいさつ         (丸山 珪一) 

講演 堀田善衞が語る「北国の小さな港町」  (野村 剛)          

講演 堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』から『方丈記私記』へ (竹内 栄美子)  

堀田の詩 “風はどこから吹いて来る”  

「北日本新聞」に『堀田善衛研究論集』刊行記念講演会・開催の記事が掲載される(6月20日)。

(書影は演劇ユニット「メメントC」のブログより)

「堀田善衞研究」の頁へ → http://www.stakaha.com/?page_id=3116

(2024/06/16、加筆 、06/20、07/16、 改訂・改題 )

都知事選――旧統一教会と裏金自民党に支持された小池都知事との対決

はじめに  「ソビエト蓮舫」というダジャレ風の誹謗

都知事選に先に名乗りを上げた蓮舫(れんほう)議員への批判や揶揄するような記事が目立ってきている。

たとえば、「東スポ」の7日付けデジタル版では「蓮舫参院議員について、「もう存在しない世界№2の国→ソビエト蓮舫」と、ソビエト連邦と引っかけてダジャレにした」デーブ氏のダジャレがSNSで大バズりと紹介している。

たしかに、デーブ氏のダジャレには面白いものもあるが、しかし、蓮舫氏の正式な読みが「れんほう」であることを考えるとこれはダジャレにもなっていないと思える。

ここでは沈黙を守ることで優位に立とうとしているように見える小池百合子氏の問題を少し整理して見たい。

1,「学歴詐称」疑惑

「2020年に刊行された『女帝 小池百合子』(石井妙子著、文藝春秋)では、カイロで小池氏と同居していた北原百代氏が匿名で、小池氏がカイロ大学の進級試験で落第し、卒業できずに帰国したことを具体的に証言。2023年刊行された文庫版では実名での告発に踏み切」った。

「小池氏が政治家になる前の自著『振り袖、ピラミッドを登る』(講談社、1982年)でも、『外国語をどう学んだか』(講談社現代新書、1992年)への寄稿でも、「(1年目に)落第した」と書いていますから、卒業は1977年以降でなければ辻褄が合いません」

日本外国特派員協会で記者会見した小島敏郎氏(2024年4月17日、記者撮影)

「今年4月、カイロ大学の声明文について、当時小池氏の側近だった小島敏郎弁護士が、小池氏の依頼で原案作成に携わったことを『月刊文藝春秋』5月号で告発」。

小池百合子一家のカイロ生活の面倒を見ていた朝堂院大楽氏が、小池氏の学歴詐欺問題について、都庁記者クラブで記者会見。
朝堂院大楽氏 「 政治家が嘘をつきまくると国が亡びる」

2,「銃剣道」と日本会議との強い繋がり

「日本会議国会議員懇談会」副会長

3,排除の論理と独裁的な議会運営

4,「七つのゼロ」と永遠の0

5,偽物の「ゴジラ」

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6,神宮外苑再開発の問題

2024/06/10、2024/06/13、 改題と追加

シオニスト的論者の飯山あかり氏を擁立した日本保守党の危険性


小説『永遠の0(ゼロ)』は、一見、旧日本軍を批判しているように見えながら、 巧妙に読者を誘導して最後は「美化」した戦前や戦時中の価値観へと導く構造を持っている。

日本保守党代表の百田尚樹氏と櫻井よしこ氏の「改憲」論

憎悪表現が多い百田尚樹氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年) がある安倍晋三元首相の「国葬」

日本保守党に擁立された飯山あかり氏は、ガザで集団虐殺を行っているシオニスト政権を擁護し、「”弱者は正義”病におかされたメディアと『専門家』にだまされてはいけない」と主張。

「(非宗教的な)シオニストのユダヤ人たちは」、「帝国の武力を背景にして」、「国を創るということをなんら怪しみませんでした」(岡真理『ガザとはなにか』、52頁)

日本のキリスト教シオニスト組織の 「キリストの幕屋」の信者 も イスラエルの前線部隊を「慰問」して砲弾に祈りの文言を記した。


キリスト教シオニズムと日本

武力を背景としたシオニズムの問題

2024/05/06、 05/12、 加筆

「『若き日の詩人たちの肖像』の考察から『堀田善衞とドストエフスキー』へ」の紹介

 2021年に書いた標記の記事にだいぶ手を入れて、スレッドの形で内容を紹介するようにした。それゆえ、ここでは冒頭の主なツイートとそのページにリンクできる二つのツイートを再掲する。

昭和初期と『白夜』の時代

(中略)

(中略)

当該ページへのリンク先のツイート

(2024/07/14、改訂)