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ドストエーフスキイの会総会と245回例会(報告者:泊野竜一氏)のご案内

ドストエーフスキイの会第49回総会と245回例会のご案内を「ニュースレター」(No.146)より転載します。

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 下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                          

日 時2018512日(土)午後1時30分~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)   ℡03-3402-7854 

総会:午後130分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

 例会報告者:泊野竜一 氏

題 目: 19世紀ヨーロッパ文学における沈黙する聞き手

   ホフマン、オドエフスキー、ドストエフスキーとの比較考察の試み                           

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:泊野竜一(とまりの りょういち

早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程人文科学専攻ロシア語ロシア文化コース。研究テーマは、ドストエフスキー作品における対話表現としての長広舌と沈黙との問題、さらには19-20世紀ロシア文学における対話表現の問題の研究。2016年9月−2017年6月までモスクワ大学留学。具体的な研究内容として、ドストエフスキーの作品を中心として、その先駆となるもの、あるいは後継となるものとして、オドエフスキー、ゴーゴリ、アンドレーエフ、ガルシン、ブリューソフの作品を取り上げる。そして、それらの間での「分身」「狂気」「内的対話」の問題に取り組む予定。

 

245回例会報告要旨

19世紀ヨーロッパ文学における沈黙する聞き手ホフマン、オドエフスキー、ドストエフスキーとの比較考察の試み

2015年の225回例会では、ドストエフスキーが長編小説中、特に『カラマーゾフの兄弟』の《大審問官》で、一つの独特な対話表現を用いていると考えられること、それは、対話者の片方は長広舌を続け、もう片方は沈黙しそれを拝聴するという形式をもっていること、つまりこの対話は、見かけ上は、一方的なモノローグの様相を呈しているが、通常の相互通行の対話よりも、はるかに豊かな内的対話の表現となっていたのであったということについて発表した。

 しかしドストエフスキーに先行するE. T. A. ホフマンやV. F. オドエフスキーの作品にも《大審問官》の対話と少なくとも形式上は一致しているといえる対話が存在する。具体的にはまず、ホフマンの『砂男』に登場する学生のナターニエルとスパランツァーニ教授の令嬢オリンピアの対話が挙げられる。ナターニエルはふとしたことからスパランツァーニ教授の令嬢である美女オリンピアに恋をする。ところがオリンピアは教授の製作した自動人形であった。オリンピアは、彼女に恋したナターニエルの熱烈なアプローチに対してただ通り一遍の返答をすることしか出来ない。次に、オドエフスキーの〈ベートーベン晩年のカルテット〉に登場するベートーベンとその弟子のルイーザとの対話が挙げられる。〈ベートーベン晩年のカルテット〉は、若者たちが毎晩集まり、世を徹して語るという形式で書かれたオドエフスキーの額縁小説『ロシアン・ナイト』の第六夜で語られる物語である。この物語中でベートーベンはルイーザに対して芸術論を語るのであるが、ベートーベンの一弟子にすぎないルイーザは、ベートーベンの熱弁に対して一切返答することなく、ただひたすら彼の長広舌を拝聴しているのである。

 先行研究から、ドストエフスキーはホフマンやオドエフスキーからさまざまなかたちで影響を受けている作家であると考えられている。本発表では、長広舌を揮う話し手と、通常の対話では脇役としての役割を担うはずの、沈黙し長広舌を拝聴する聞き手という対話表現に注目する。これらの作品の対話の具体的な分析を行いつつ、《大審問官》との関連性について考察する。その上で、19世紀文学におけるこのような独特な対話表現の意義について検討していく。

 

三宅正樹著『近代ユーラシア外交史論集』の書評を「著書・共著と書評・図書紹介」の欄に掲載

『近代ユーラシア』紀伊國屋書店ウェブ頁(書影は、紀伊國屋書店のWEBより)

古代ギリシャや西欧各国だけでなくギリシャ正教を受け入れたロシアや、古代から現代にいたる中国や近代日本の時間概念が比較文明論の視点から考察されている大著『文明と時間』の第一部「比較文明論の視角」については、かつて『文明研究』第31号に掲載された書評で紹介しました。

なぜならば、そこでは湾岸戦争やボスニア・ヘルツェゴビナの紛争、チェチェン紛争などが頻発するようになったソ連の崩壊後の事態を受けて、これからは「イデオロギーの対立」に代わって「文明の衝突」の危険性がますます増えると予測して激しい議論を呼んだ政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)や大著『文明の衝突と世界秩序の再編成』(1996年、邦訳『文明の衝突』)が、トインビーの文明論だけでなく山本新氏の『周辺文明論――欧化と土着』や神川正彦氏の論文の考察をとおして詳しく考察されていたからです。

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三宅正樹著『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)

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広い歴史的視野と比較文明学的な視点で書かれている今回のご著書『近代ユーラシア外交史論集』も、現代の政治や外交の問題を考える上で重要な示唆にとんでおり、その意義はきわめて大きいと思います。

国際政治史は私の専門外なのですが、ロシアの「ユーラシア主義」と司馬遼太郎の文明観との関係に引きつけて論じてみました。東海大学文明学会『文明研究』第36号に掲載された書評を「著書・共著著書・共著と書評・図書紹介」の欄に転載しました。

書評 三宅正樹著『近代ユーラシア外交史論集』(千倉書房、2015)

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日独伊三国同盟については本書でも言及されていましたが、「ヒトラーの戦争計画を史料に則して詳細に展開させ、ヒトラーと日本との関係にも日独伊三国同盟締結の過程で言及した、ユニークなヒトラー伝」の新訂版が5月に刊行されました。

ヒトラーと日本との関係については、昭和初期と現在の日本の政治思想とのつながりを考える上でもきわめて重要だと思えます。それゆえ、日本が無謀な戦争へと突入していく暗い昭和初期を描いた堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』との関連で、本書『ヒトラーと第二次世界大戦 (新訂版)』(清水書院)にも言及したいと考えています。

ここでは取りあえず、本書の書影と目次を以下に掲載しておきます。

新・人と歴史拡大版<br> ヒトラーと第二次世界大戦 (新訂版)

(書影は紀伊國屋書店のwebによる)

目次

1 ドイツ国防軍とヒトラー(ホスバッハ覚書;国防軍掌握まで)
2 中央ヨーロッパの覇者として(オーストリア合併とチェコスロヴァキア解体;独ソ不可侵条約からポーランド分割へ;ヨーロッパ制覇)
3 東京・モスクワ・ベルリン(ベルヒテスガーデン会談と荻窪会談;日独伊三国同盟)
4 ヒトラー・モロトフ会談(モロトフとリッベントロップ;モロトフとヒトラー)

シリアへの空爆のニュースに接して

  昨日、化学兵器使用についての確認がまだ国際機関によってなされておらず、国連安保理決議もない段階で、アメリカが国連憲章に基づかないシリアへの軍事行動を英仏とともに行いました。

むろん、化学兵器も使用したとされるシリアは強く非難されるべきでしょう。

しかし、「イラクが大量破壊兵器を開発している」との「虚偽」の「証拠」を根拠として米国主導で始まった「大義なきイラク戦争」への英国の参戦を決定したイギリスのブレア元首相は、2015年10月25日に放映された米CNNのインタビューで『我々が受け取った情報が間違っていたという事実を謝罪する』」と述べていました(「朝日新聞」デジタル版)。

そしてブレア氏は政権崩壊後の混乱について、「政権排除後に何が起こるかについて、一部の計画や我々の理解に誤りがあった」とも認めるとともに、イラク戦争が過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭した主な原因かと問われると、「真実がいくぶんある」と答えていたのです。

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2017年に『原子力科学者会報』は、テロや原発事故の危険性、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ大統領の地球温暖化や核拡散の問題に後ろ向きな政治姿勢などにより世界終末時計が「残り2分半」に戻ったと発表していました。

アメリカとの軍事的な連携の強化を狙う安倍政権は「戦争法案」と思われる「安保関連法案」を強行採決していましたが、自国は非人道的な核兵器を所有しその使用をも公言しているアメリカが先頭に立ってシリア政府への武力攻撃をすることは、再び軍拡を招く危険性を含んでいると思われます。

「核の時代」と「改憲」の危険性

(2018年4月27日、改題と改訂)

ドストエーフスキイの会、第244回例会(報告者紹介:野澤高峯氏)のご案内

第244回例会のご案内を「ニュースレター」(No.145)より転載します。

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第244回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                          

日 時2018年3月24日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館 1階奥の和室

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854

報告者:野澤高峯 氏 

題 目: 「スタヴローギンとムイシュキン」―人間的価値審級を読み解く

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:野澤高峯(のざわ こうほう)

書家。「謙慎書道会」評議員、「日本書道芸術協会」認定師範、「書象会」無鑑査会員、「ドストエーフスキイの会」会員、「日本ドストエフスキー協会(DSJ)」会員

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第244回例会報告要旨

「スタヴローギンとムイシュキン」人間的価値審級を読み解く

近代文学の基本は「個性=人間性」の表現だと言えるでしょう。そこには答えがなくとも、表現されていることのみで人間の苦境を救います。そのため文学作品は単に現実を描くだけではなく、それを超えたロマンを必ず含んでいます。しかし、そのロマンは、読み手の日常生活の現実感覚に耐えうるものであるか否かが問題となり、過去の文芸批評はこのロマネスクを常に問題として、観念批判(ロマン主義批判)をテーマとしてきました。ドストエフスキー文学はこの観念自体を作品の主題として、なおかつそれを背理として描いています。そのロマンの根拠となる「本来性・倫理性・審美性」(真・善・美)という価値審級(価値の秩序)をどのように扱っているかを、『白痴』と『悪霊』を中心に今回の報告で取り出したいと思います。それはドストエフスキーが無神論で提示した「問い」でもあると思われる為、無神論の現代的意味も浮上させたいと思います。

また、作品の登場人物は独立性が確保された描き方に徹していますが、スタヴローギンとムイシュキンは日常の現実感覚では予想できない謎めいた人物像で設定されています。価値審級を背景に、この謎も解読してみたいと思います。読解の方法としては形而上学や偶喩・説話的理説を排し、実存論的読解で作品に向き合いますが、同様にスタヴローギンとムイシュキン自身にもこの読解で存在論的に向きあいます。これは80年代からの主流であった文学理論、言語論とは逆行しますが、主軸を「エクリチュール」ではなく「パロール」に置き、尚且つ「言語」ではなく「意識」に置く読み方です。読解のスタンスと同様に作品の中でも、価値審級の取り出しにおいて価値の根拠を「本体」として、人間の外部には想定しません。「神はいない」という前提で解読し、「神」に迫る方法です。

今回の考察は『カラマーゾフの兄弟』の主題に迫る為の序奏ですが、考察で設定した無神論の「問い」の一つ目は、イワン・カラマーゾフ的無神論を背景とした次の「問い」です。

「神がいなければ、人間の欲望の存在それ自体が、「真・善・美」に向かう本性をもっているかどうか」

つまり、「本来性・倫理性・審美性」が作品でどの様に描かれ、物語にどの様な意味を持っているかを取り出す事です。私は「真・善・美」については性善説の立場ですが、形而上学を前提としない為、それに向かうことが人間の本来性とは捉えていません(「あってほしい」という願望と「あるべきだ」という要請はロマン主義となります)。それに向かう、その条件を設定することが重要です。

二つ目は、ドストエフスキーが作品(『白痴』『悪霊』)の中での想定していた神とは何かという事です。ここでも無神論の「問い」として、ニーチェの無神論との比較を横にし、暴挙とも受け取られますが、キリスト教の教義も形而上学とみなしこれを前提としません。

考察のポイントは、スタヴローギンの人物像を、その「意識」の地平(超越論的主観)から捉え、『告白』の意味を探ります。また、ムイシュキンの人物像も、その「意識」の地平から捉え、「意識の限界点」とは何かを探ります。補助題材として小林秀雄の『白痴について』と山城むつみの『小林批評のクリティカル・ポイント』を参考に、その意味を探り、スタヴローギンとムイシュキンの遭遇した共通点を見極め、底辺にあるニヒリズムを基にした作品の現代性も浮上させたいと思います。

 

「終末時計」の時刻が「残り2分」に――核戦争の危機を踏まえた「日本国憲法」の意義

終末時計、2018

昨年は「核兵器禁止条約」が結ばれ、ICANにノーベル平和賞が与えられるなど新しい流れが生まれました。

一方で、『原子力科学者会報』は核戦争の懸念の高まりやトランプ米大統領の「予測不可能性」などを理由に、今年の「終末時計」の時刻がついに1953年と同じ残り2分になったと発表しました(AFP=時事)。

ビキニ環礁で原爆の千倍もの破壊力を持つ水爆「ブラボー」の実験が行われたために「第五福竜丸」や他の漁船の船員たち、そして島の住民たちが被爆したのが、その翌年の1954年のことでした。そのことを考えるならば、世界はふたたび「人類滅亡」の危機を迎えているといっても過言ではないでしょう。

それにもかかわらず、安倍首相の「明治維新」礼賛に現れているように、神話的な歴史観から古代を理想視する閣僚がほとんどを占めている安倍内閣は、核の危険性から眼を背けつつ原発の再稼働ばかりでなく、超大国アメリカに追随して軍拡を進めています。

しかし、危機を回避するためには、厳しい「現実」を直視して、その対策を練ることが必要でしょう。幸い、昨年、結成された立憲民主党が早速、「原発ゼロ基本法タウンミーティング」を開始しているだけでなく、他の立憲野党や共産党との協力も育っていく可能性が見えてきました。

それゆえ、メニューの「国民の安全と経済の活性化のために脱原発をに加筆するとともに、新たな図版も加えました。今こそ核戦争の危険性を踏まえた「日本国憲法」の意義が認識されるべきでしょう。

ドストエーフスキイの会、第240回例会(合評会)のご案内

「第240回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.141)より転載します。

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第240回例会のご案内

今回は『広場』26号の合評会となりますが、論評者の報告時間を10分程度とし、エッセイの論評も数分に制限して自由討議の時間を多くとりました。記載されている以外のエッセイや書評などに関しても、会場からのご発言は自由です。多くの皆様のご参加をお待ちしています。

 

日 時 2017年7月15日(土)午後2時~5時

 場 所神宮前穏田区民会館 第2会議室(2F)     ℡:03-3407-1807

 (会場が変更になりました。下記の案内図をご覧ください!)

 

掲載主要論文の論評者

 熊谷論文 ラスコーリニコフの深き欲望 ――太田香子氏

金沢論文  ドストエフスキーと「気球」 ――高橋誠一郎氏

チホミーロフ論文 「思想家達の形象による」思索の問題――熊谷のぶよし氏

杉里論文  《貶められ辱められた子ども》の絶望と救済――近藤靖宏氏

芦川論文  イワン・カラマーゾフのキリスト ―大木貞幸氏

エッセイ:冷牟田、清水、西野、石田、学会報告―フリートーク

司会 高橋誠一郎氏(+近藤靖宏氏)

 

*会員無料・一般参加者-500円

前回例会の「傍聴記」と「会計報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

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会場(神宮前穏田区民会館)の案内図

ドストエーフスキイの会会場

「核兵器禁止条約交渉」への不参加と安倍首相の「積極的平和主義」

昨日(3月28日)のNHKニュースは、「核兵器禁止条約交渉」に日本が不参加を表明したことを伝えるとともに、「唯一の戦争被爆国として核廃絶を訴えてきた日本も参加しないことを表明し、核軍縮をめぐる各国の立場の違いが際立つ形となっています」と説明しています。

日本が交渉に参加しないという方針を表明したことについて、〈被爆者の代表として国連で演説を行った日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の藤森俊希事務局次長は「日本政府はこれまで唯一の戦争被爆国という枕言葉をよく使ってきたが、その唯一の戦争被爆国は私たち被爆者が期待することと全く逆のことをしており、賛同できるものではない。日本政府は世界各国から理解が得られるよう、核兵器廃絶の先頭に立つべきだ」と〉、日本政府の対応を批判したことも伝えています。

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今回の事態により2016年の広島市で行われた平和記念式典のあいさつで核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則に言及しなかった安倍首相の「積極的平和主義」や公明党などの賛成により強行採決された「安全保障法案」の危険な本質がいっそう明らかになったと思えます。

それだけでなく戦争を美化する思想の持ち主であることから防衛大臣に抜擢されながら、自分もかかわっていた森友学園問題で、虚偽答弁を繰り返したかだけでなく、自衛隊の「日報」隠蔽問題にも深く関わる稲田朋美氏を未だに重視している安倍内閣の無責任さや危機管理能力のなさも浮かび上がってきました。

それゆえ、2016年8月7日に書いた「安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論」を再掲します。

このような事態になることを危惧して急いで上梓した拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の書影と関連する記事へのリンク先も記しておきます。

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(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

安倍首相が広島市で行われた平和記念式典のあいさつで、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする非核三原則に言及しなかったことが波紋を呼んでいます。

以下、新聞などの記事によって簡単に紹介した後で、安倍首相が本気で「核兵器のない世界」を願うならば、「わが国は核武装するしかない」という論文を月刊『日本』(2014年4月22日号)に投稿していた武藤貴也議員を参院特別委員会に呼んでその見解を質し、今も同じ考えならば議員辞職を強く求めるべき理由を記したいと思います。

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平和記念式典の後で行われた被爆者団体代表との面会では、安倍首相は「唯一の戦争被爆国として非核三原則を堅持しつつ、世界恒久平和の実現に向けた努力をリードすることを誓う」と述べ、これに関し菅官房長官も同日午前の記者会見で「非核三原則は当然のことで、考えにまったく揺るぎはない」と説明したとのことです。

しかし、これらの「誓い」や「説明」の誠実さに疑問が残るのは、すでに多くの新聞や報道機関が指摘しているように、その前日に行われた参院特別委員会で中谷元・防衛相が、戦争中の他国軍への後方支援をめぐり、核兵器を搭載した戦闘機や原子力潜水艦などへの補給は「法律上除外する規定はない」として、法律上は可能との認識を示す一方で、「非核三原則があり提供はありえない」とも述べていたからです。

枝野幸男・民主党幹事長が批判をしているように、武器輸出三原則などの大幅な緩和をしたばかりでなく、「弾薬は武器ではない、その武器ではないもののなかに、ミサイルも入る(と言う)。それに核弾頭が載っていてもそれが(輸送可能な弾薬の範囲に)入る」と説明した安倍内閣の閣僚が、「非核三原則があります、(だから輸送しない)と言っても、ほとんど説得力をもたない」でしょう。

さらに、被爆者団体代表との面会で安全保障関連法案が、「憲法違反であることは明白。被爆者の願いに背く法案だ」として撤回を強く求められた安倍首相は、「平和国家としての歩みは決して変わることはない。戦争を未然に防ぐもので、必要不可欠だ」と答えたようですが、すでに武器輸出三原則などの大幅な緩和をしている安倍首相が、「平和国家としての歩みは決して変わることはない」と主張することは事実に反しているでしょう。

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今回の安倍氏の「あいさつ」で最も重要と思われるのは、秋の国連総会で新たな核兵器廃絶決議案を提出する方針の安倍首相が、「核兵器のない世界の実現に向けて、一層の努力を積み重ねていく決意」を表明し、来年のG7(主要七カ国)外相会合が広島で開かれることを踏まえて「被爆地からわれわれの思いを国際社会に力強く発信する」とも述べていたことです。

このこと自体はすばらしいと思いますが、国際社会に向けたパフォーマンスをする前に安倍首相にはまずすべきことがあると思われます。

それは安倍氏が本気で「核兵器のない世界」を願うならば、「わが国は核武装するしかない」という論文を月刊『日本』(2014年4月22日号)に投稿していた武藤議員を参院特別委員会に呼んでその見解を質し、今も同じ考えならば議員辞職を強く求めるべきことです。

参院特別委員会でも「安全保障関連法案」には多くの深刻な問題があることが次々と明らかになっているにも関わらず、「強制採決」に向けて粛々と審議が行われているように見えます。

しかし、国際社会にむけて未来志向の「美しい言葉」をいくら語っても、武藤議員の発言を厳しく問いただすことをしなければ、「日本を、取り戻す。」を選挙公約にした安倍政権の本当の狙いは、戦前の「日本人的価値観」と軍事大国の復活にあるのではないかという疑いを晴らすことはできないでしょう。

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→『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016)

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正岡子規の時代と現代(5)―― 内務官僚の文学観と正岡子規の退寮問題

「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」(『翔ぶが如く』、「書きおえて」)。

*   *   *

前回、見たように司馬氏は長編小説『翔ぶが如く』で、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクと対談した大久保利通が「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたと書いていました(第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

実は、これに先立ち『坂の上の雲』の「日清戦争」と題した章で司馬氏は、プロシアの参謀本部方式の特徴を「国家のすべての機能を国防の一点に集中するという思想である」と説明していました。これらの文章に注目するとき、司馬氏が「明治国家」のモデルとしてのドイツ帝国の問題をいかに重視していたかが理解できます。

しかも、「日清戦争」の章の冒頭では「正岡は、毒をまきちらしている」、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」と佃一予〔つくだかずまさ〕をリーダーとする「非文学党」といえるような一派によって子規が激しく攻撃され、明治二四年に寄宿舎から退寮させられたという出来事が描かれているのです。

*  *

「佃一予の正義は、時代の後ろ盾をもっている」という文章に注目しながら年表を調べると、この前年に渙発されていた「教育勅語」の天皇の御名・御璽に対してキリスト教の信者であった第一高等学校教師の内村鑑三が少ししか頭を下げなかったことが問題とされたいわゆる「不敬事件」がこの年の一月には起きていたのです。このことがマスコミによってひろまったために、内村は「国賊」という「レッテル」を貼られて疲弊して肺炎にかかり、つききりで看病にあたった新妻は病死し、彼も退職を余儀なくされることとなっていました。

内務官僚となった佃一予たちなどから激しく攻撃された子規が、寄宿舎から追い出されただけでなく、「常磐会給費生という名簿からも削られてしまった」という事件もこのような時代背景とも深く関わっていたのです。(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』、75頁)。

しかも、「佃はよほど青年の文学熱がきらいだったらしく、明治三十年ごろ、常磐会寄宿舎のなかに子規のやっている俳句雑誌『ホトトギス』や小説本がまじっているというので大さわぎをし、監督内藤鳴雪を攻撃し、窮地に追い込んだ」ことを指摘した司馬氏は、『坂の上の雲』で次のように書いているのです(二・「日清戦争」)。

「(佃には――引用者注)大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない。…中略…この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」。

日露戦争の旅順の攻防に際して、「君死にたまふこと勿(なか)れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)」という詩を書いた与謝野晶子が批評家の大町桂月によって「国家の刑罰を加うべき罪人」とまで非難されることになることを考えるならば、この指摘は非常に重要です。(『新聞への思い』、108~109頁)。

*  *

しかも、大町桂月は、社会主義者には「戦争を非とするもの」がいたが、晶子は韻文で戦争を批判したとし、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したと与謝野晶子を激しく非難していましたが、第一次世界大戦の時期に「国体教育主義を経典化した」『教育勅語』の精神の徹底を求めたのが、『国民新聞』社主の徳富蘇峰だったのです。

一方、作家の島崎藤村は明治学院に在学中の明治二三年から二六年までの時期を描いた自伝的な長編小説『桜の実の熟するとき』で、「日本にある基督教界の最高の知識を殆(ほと)んど網羅(もうら)した夏期学校」に参加した際に徳富蘇峰と出会ったときの感激を「京都にある基督教主義の学校を出て、政治経済教育文学の評論を興し、若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」と描いていました。

実際、『将来之日本』(一八八六)において若き蘇峰は、具体的な統計資料に基づいて数字を挙げながら欧米列強における戦争や軍事費がいかに国力や民力を疲弊させてきたかを指摘し、「わが邦に流行する国権論武備拡張主義」を、「その新奇なる道理の外套を被るにもかかわらず、みなこれ陳々腐々なる封建社会の旧主義の変相に過ぎざるなり」と一刀両断に論駁して内閣批判の鋭い論陣を張っていました。

しかし、日清戦争後に欧米旅行から一八九七年に帰国して内務省勅任参事官に任じられた蘇峰は、読者からその「変節」を厳しく批判されて雑誌『国民之友』の廃刊に追い込まれると、その翌年に成立した山県内閣がすすめた大増税・軍備拡張に協力するようになったのです。さらに、『大正の青年と帝国の前途』で蘇峰は、「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」と断言し、「大正の青年諸君に向て、先づ第一に卿らの日本魂を、涵養せんと欲す」として次のように続けていたのです。

「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」。

一方、司馬氏は『子規全集』の解説「文章日本語の成立と子規」において、大町桂月や徳富蘇峰の文章と比較しながら、次のように記していました。

「文章を道具にまで還元した場合、桂月も鏡花も蘇峰も一目的にしか通用しないが、漱石や子規の文章は愚痴も表現できれば国際情勢も論ずることができ、さらには自他の環境の本質や状態をのべることもできる」(『新聞への思い』、152頁)。

子規と漱石について記されたこの言葉に留意するならば、『坂の上の雲』において述べられている歴史観が、徳富蘇峰の歴史認識と異なるばかりでなく、これを厳しく批判するものであることは明らかでしょう。

正岡子規の時代と現代(3)――「特定秘密保護法」とソ連の「報道の自由度」

今回は2013年に安倍政権が強行採決した「特定秘密保護法案」に対する国際社会の懸念と国内の批判記事を振り返ることで、この問題の大きさを確認しておきます。

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まず、アメリカのニューヨーク・タイムズは、この法案が「国民の知る権利を土台から壊す」だけでなく、「東アジアでの日本に対する不信」をいっそう高めるとの厳しい批判を書いていました。

「国連人権理事会」もこの法案が「内部告発者やジャーナリストを脅かす」との懸念を表明していました。

さらに、元NSC高官のハンペリン氏がこの法案を「国際基準」を逸脱しており、「過剰指定 政府管理も困難」との指摘をしていることを伝えています(23日、毎日新聞)。

最も重要なのは「国連関係者を含む70カ国以上の専門家500人以上が携わり、2年以上かけて作成され」、今年の6月にまとまった「ツワネ原則」と呼ばれる50項目の「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則」でしょう。

海渡雄一弁護士はじめ多くの有識者が指摘しているように、問題はすでにこのような国際原則が明らかになっているにもかかわらず、「特定秘密保護法案」にはこの「国際的議論の成果」が反映されていないことです。

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今朝の報道では、「特定秘密保護法」の全容や問題点の討議が十分に行われないまま、政府と与党は法案の衆議院通過をはかるとの記事が載っていました。

安倍政権は、アメリカからの「外圧」を理由にこの法案の強行採決をはかっているようですが、この法案が通った後ではそのアメリカからも強い批判が出て、国際社会から「特定秘密保護法」の廃止を求められるような事態も予想されます。

かつて「国際連盟」から「満州国」の不当性を指摘された日本政府は、国連から脱退をして孤立の道を選びました。「国際社会」から強く批判をされた際に孤立した安倍政権は、どのような道をえらぶのでしょうか。

この法案の廃止や慎重審議を求めている野党だけでなく、政権与党や自民党の代議士にも国際関係に詳しい人はいると思われますので、強行採決の中止を強く求めます。

先ほど、各新聞が一斉にネット版で、「与党が採決を強行」し「特定秘密保護法」が衆議院を通過したとの号外を報じました。安倍首相は「この法案は40時間以上の審議がなされている。他の法案と比べてはるかに慎重な熟議がなされている」と答弁したとのことですが、首相の「言語感覚」だけでなく、「時間感覚」にも首をかしげざるをえません。

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衆議院での「特定秘密保護法」の強行採決を受けて「良識ある」各新聞の朝刊は一斉に批判の記事を掲載しています。

ここでは「民主主義の土台壊すな」という副題を持つ毎日新聞の社説を引用しておきます。

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「あぜんとする強行劇だった」という書き出しで始まるこの記事は、採決前に安倍晋三首相が退席していたこを指摘した後で、次のように続けています

「与党すら胸を張れない衆院通過だったのではないか。採決前日、福島市で行った地方公聴会は、廃案や慎重審議を求める声ばかりだった。だが、福島第1原発事故の被災地の切実な声は届かなかった。

審議入りからわずか20日目。秘密の範囲があいまいなままで、国会や司法のチェックも及ばない。情報公開のルールは後回しだ。

国民が国政について自由に情報を得ることは、民主主義社会の基本だ。法案が成立すれば萎縮によって情報が流れなくなる恐れが強い。審議が尽くされたどころか、むしろ法案の欠陥が明らかになりつつある。」

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ここで注目したいのは、採決前日に福島市で行われた「地方公聴会」での意見が全く無視されていることを指摘した後で、この記事が「情報公開のルール」の必要性を説いていることです。

安倍政権の政策には、地方を無視してでも、中央の利権を確保しようとする姿勢が強く見られるのです。一方、ソ連ではチェルノブイリ原発事故以降に、「情報公開」の要求は強まり、原発事故の危険性の認識が高まっていました。

今回の「特定秘密保護法」の拙速な強行採決は、「特定秘密保護法」が当時のソ連の対応と比較しても明らかに遅れているだけでなく、「テロ」対策を前面に出すことで「原発事故」の問題を「秘密の闇に覆う」ことを密かにねらっているとさえ思えてきます。

最後にソ連における「報道の自由度」とチェルノブイリ原発事故などについて論じた記事へのリンク先を示しておきます。ここでは個性を全く奪われていかなる個人的な会話も記録されるという未来の全体主義国家を舞台にした1922年のザミャーチンの小説『われら』が、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』にも多くの影響を与えていることなどにもふれていました。

→「グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故

(初出、2013年11月26日~27日。改訂およびリンク先を追加、2016年10月31日)

 

19世紀の「自然支配の思想」と安倍政権の原発増設計画

今日(7月23日)の「東京新聞」(デジタル版)は、政府方針達成のために「原発の新増設必要」と電事連会長が語ったとする次のようなの記事と載せています。

「電気事業連合会の勝野哲会長(中部電力社長)は22日、共同通信のインタビューに応じ、2030年度の電源構成に占める原発比率を20~22%とする政府方針を達成するため「発電所の新増設や建て替えが必要だ」と語り、建設計画の前進に向け原発に対する信頼の回復に努めると強調した。」

しかし、地震や火山活動が活発化している日本で原発の増設を目標とする安倍政権とそれに追従して当面の利益を確保しようとする財界の方向性はきわめて危険でしょう。

日本の自然の上に成立した「伝統的な神道」は、今こそ、このような19世紀的な自然観を厳しく批判して、安倍政権や「日本会議」と決別すべきでしょう。

さらに、真の仏教徒も「国民」の生命を軽視して利権を重視する原子炉に、仏教の「文殊」と「普賢」の両菩薩の名前から「もんじゅ」や「ふげん」などと命名している自民党や安倍政権とは決別すべきでしょう。

なぜならば、日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉は、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていたからです。

比較文明学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していましたが、現在は次のように言い直さねばならないでしょう。

「バックルや福沢諭吉のような近代文明観が今日の経済大国をつくったのだが、また同時に1979年にアメリカ・スリーマイル島原発事故を、1986年と2011年にはチェルノブイリと福島でレベル7の原発事故をつくったのである」と。

年表、核兵器・原発事故と終末時計