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小林秀雄

チェコ事件でウクライナ危機 を考えるⅠ

はじめに 堀田善衞と三島由紀夫のチェコ事件観

ロシア軍のウクライナ侵攻というニュースを聞いて、最初に思ったことはソ連軍がワルシャワ条約五カ国軍とともに民主化運動を展開していたチェコスロヴァキアに侵攻した1968年のチェコ事件のことでした。

むろん、ソ連の政権下で起きたチェコ事件とソ連崩壊後の今回の侵攻とでは性格も大きく異なります。しかし、前回考察したように、西欧列強に滅ぼされないためにはナポレオンに勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの考えは、露土戦争以降、ロシア正教を国教としていたロシアで広まりました。また、革命政権が誕生した後の1918年に行われた日本やアメリカなどの連合国によるシベリア出兵で多くの死傷者を出し、この戦争以降も常に外国からの圧力を感じていたソ連や、ソ連時代の情報将校だったプーチン大統領にもその「恐怖」は受け継がれているように思われます。

他方で、ゼレンスキー大統領が今回のロシアの侵略を「真珠湾攻撃」にたとえたことが日本の右派の怒りを買っているようですが、ダニレフスキーの歴史理論は昭和初期の「大東亜共栄圏」の思想にも影響を与えており、今回のドネツク・ルガンスクの建国を図ったロシアのように満州国の建国をしたことなどから経済制裁を受けた日本は戦争を開始する理由として、A・B・C・D包囲網を挙げていたのです。

 ところで、ワルシャワ条約5カ国軍が武力で8月21日にはチェコスロバキア全土を占領下においたことを知った堀田善衞は、1956年のハンガリー事件を連想して、「単純な怒りとともに、呆れてしまい、また同時に、彼らのやりそうなことをやったものだ、という感をもったものであった」と記しています。

しかし、堀田は丸山眞男や久野収らが提唱したチェコ事件をめぐる抗議声明に署名しませんでした。それは、9月20日から25日までタシケントで開催されたアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」からでした。

つまり、この時の事件に堀田はまず現場に行って観察しようという鴨長明と同じような精神で対応していたのです。こうして、9月19日に日本を出発した堀田は記念集会に参加した後で、ヘルシンキ、ストックホルム、ロンドン、パリ、プラハ、ウィーン、ベルリン、ブラティスラバなどヨーロッパ各地を訪問して、ことに不幸なチェコスロヴァキアには前後二回、約1カ月滞在して、さまざまな人々と話し合い、約3カ月後の12月24日に日本に帰国しました。その間に見聞きしたことや考えたことを詳しく記したのが堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』です。

一方、『文化防衛論』に収められた「自由と権力の状況」という論考でチェコ事件について考察した三島由紀夫は、「学生とのティーチ・イン」でもこの問題に言及しており、この事件が「三島事件」を起こすきっかけの一つになっていたことが感じられます。

それゆえ、本稿ではまずチェコ事件をとおして「政治と文学」の問題について考察した三島の「自由と権力の状況」を簡単に見た後で、昭和初期に流行った小林秀雄の『罪と罰』論にも注意を払いながら、三島の革命観とテロリズム観を考察します

そして、最後に堀田の小国の運命・大国の運命』を詳しく分析することにより堀田の視野の広さと考察の深さを示すことにします。

そのことによってウクライナ危機に際しての維新や自民党安倍派の対応と、チェコ事件に対する三島の反応との類似性を明らかにし、報道や言論への圧力を徐々に強めながら昭和初期と同じように戦争へと急速に傾斜している現代日本の危険性を示すことができるでしょう。

1,「政治と文学」の考察――「自由と権力の状況」

三島は「自由と権力の状況」という論考の冒頭でチェコの問題への強い関心の理由をこう記しています。

「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある。それは、力と力の世界の出来事であると同時に、イデオロギーの対立の中に、いかに身を処しうるかという微妙な戦術の心理的出来事でもある。事、表現の自由に触れるかぎり、「政治と文学」の問題も、ここにドラマティックなモデル・ケースを作り出した。それに比べると、日本で語られている政治と文学の対立状況などは児戯に類する。極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである。」(『文化防衛論』、ちくま文庫、119頁、以下頁数のみをかっこ内に記す)。

そして、「安保条約下の日本もアメリカの大国主義に対して警戒し、これを排除し、あるいはこれに抵抗しなければならないと教えるであろう」(123)という意見も紹介した三島は「大国の強大な武力の前には、多少の自衛上の武力など持っても何にもならない。だから非武装中立こそは、国を護る最上の良策である、という考えの論理的矛盾は明らかである」(125)としています。

そして、三島はかろうじて核戦争を回避したキューバ危機後の世界のあり方をも批判して、「われわれにけじめを失わせ、弁別を失わせたものが、冷戦と平和共存の論理」(129)であると結論していました。

2,「みやび」とテロリズム――「文化防衛論」

注目したいのは、「反革命宣言」で神風特攻隊員が遺書に記した「『あとにつづく者あるを信ず』の思想こそ、『よりよき未来社会』の思想に真に論理的に対立するものである」と記した三島がここでも「自由と権力の状況」に言及していることです。

「文化防衛論」で「『みやび』は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には、『みやび』はテロリズムの形態をさえとった」とした三島は、「天皇のための廠起は」「一筋のみやび」を実行した桜田門の変の義士たちのように、「容認されるべきであった」と主張したのです(74)。

ここからは幕末に頻発した「天誅」という名前のテロを称賛する姿勢が感じられますが、このような三島の主張とは正反対の主張をしたのが、『竜馬がゆく』で主人公の坂本竜馬を、殺すことを嫌う武士として描いたにもかかわらず、「新しい歴史教科書をつくる会」から高く評価されたことで誤解されることになった司馬遼太郎でした。

ベトナム戦争や学生紛争の時期にこの長編小説を読んだ私は、「天誅」を「正義の殺人」とする思想に『罪と罰』に描かれている「非凡人の理論」と同じような傲慢さを感じて、司馬作品にも熱中しました。あまり知られていないようですが、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と明確に記していたのです(『竜馬がゆく』文春文庫)。

一方、桜田門外の変を「一筋のみやび」と解釈した三島は、そのような視点から「西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の『みやび』を理解する力を喪っていた」(75)と厳しく批判していました。

たしかに、二・二六事件で処刑された磯部一等主計の視点から描いた『英霊の聲』などにおける三島由紀夫の主張は、亡くなった者たちの無念の思いも伝えて迫力がありますが、しかし、情報将校だったプーチンと同様の「国粋主義」的な視野の狭さを感じます。

一方、堀田善衞は誕生したばかりの革命政権を打倒も意図して日本がアメリカなどの連合国と共に行ったシベリア出兵を描いた『夜の森』で、1919年には日本が併合した韓国で三・一独立運動が起きていたことや、この出兵ではすでに満州国に先立って傀儡国家の樹立もはかられていたことなどを記しています。  

一方、三島の視野には、併合された韓国や「五族協和」というスローガンで樹立されながら、土地を奪われた満洲の人々などの苦悩や不満は入ってきていないのです。

3,「決闘」と「暗殺」をめぐる議論 と『罪と罰』の解釈

「学生とのティーチ・イン」でも三島はチェコの民主化運動についてこう批判しています。「いよいよ世間は米ソ二大強国の共存時代に入ってきた、これなら大抵のことをやったって片一方が手を出すわけはない、キューバ事件もそうだからあれでもそうだろう。これはいまがやり時だ、ここで両方のいいところをちょっと取ってやれば、共産主義体制に属しながらしかも自由というものをアメリカ並みに味わえるのじゃないか、こうしたら世界中に一番いいお手本を示してやれる、という山気があったに違いない。こんな山気に私は同情しない」(288)

しかし、私が「学生とのティーチ・イン」で一番興味を持ったのは、学生Dの「三島先生はさきほど、暗殺的行為は一つの思想が一つの思想を殺すことで、これは決闘である、決闘という行為は非常に美しいものであると、賛美なさいましたけれども、(……)暗殺というのは非常に卑怯な行為だと思うのです」(202)という核心を突いた質問に対して、三島が少したじろぎながら、こう答えていたことです。

「決闘との比較は多少当を得ていなかったと思いますけれども」としながらも、警備がきわめて厳重なことを考慮するならば、「だからプラクティカルな問題として、暗殺が卑怯に見えても、暗殺という形をとらざるを得ないと思うのです」(203)。

こうして三島は学生の批判を受け入れて、「暗殺が卑怯」であることは認めつつも「暗殺という形」の殺人を認めているのです。

 このような主張は一見、不合理で説得力を欠いていると思えます。しかし、なぜ三島がそのような主張をしたのかを考えると、二・二六事件が起きる2年前の1934年に小林秀雄が書いた「『罪と罰』についてⅠ」の構造が浮かんできます。ここで「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とした小林は、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言していたのです(全集、6・45)。

つまり、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害しても「罪の意識」が現れなかったと解釈するならば、「政府要人」を「悪人」と見なして殺した青年将校たちにも「罪の意識も罰の意識も」現れるはずはなかったのです。

このような解釈は、我田引水のように思える人もいるかも知れませんが、「文化防衛論」で「社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言うまでもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明している」と記した三島が、「ソヴィエト革命政権がドストエフスキーを容認するには五十年かかってなお未だしの観があるが」と続けています。

 この記述からはドストエフスキーへの三島の深い関心がうかがえ、当時、流行していた小林秀雄の『罪と罰』論からも影響を受けたことが感じられるのです。

「耽美的パトリオティズム」の批判――「美神との刺違へ」という表現と林房雄の「玉砕」の美化

4,復讐と絶望の分析と人類滅亡の危険性――『罪と罰』から『白痴』へ

 神西清は三島由紀夫論「ナルシシスムの運命」で、「戦争は確かに、彼の美学の急速な確率を促した。(略)美の信徒は、今やはっきりと美の行動者になったからである」と記していました(『神西清全集』第6巻、484頁)。

実際、三島由紀夫はデビュー作といえる『仮面の告白』のエピグラフで、「美の中では両方の岸が一つに出合つて、すべての矛盾が一緒に住んでゐるのだ」という『カラマーゾフの兄弟』のセリフを引用していたのです。

これらのことを紹介した宮嶋繁明氏は、三島にとって「美」が如何に重要な理念として確立したかに注意を促した神西が、さらに「美の殉教者が一変して、美による殺戮者になったのだ。彼は美という兇器をふりかざして、あらゆる敵へ躍りかかって行った」と続けて、「三島事件」を予見するような考察も行っていたことに注意を促しています(『三島由紀夫と橋本文三』弦書房、2011年、46~47頁)。

ドストエフスキーにおける美の問題は『白痴』の理解にも深く関わりますが、先にみたように、「学生とのティーチ・イン」では「暗殺」の正当性を主張するために「決闘」にも言及することで「暗殺」を「美化」しようとした三島がかえって学生から卑怯だと指摘されていました。

実は、この前段階で三島は「私はアウシュビッツを認めるわけじゃない。私はナチスのああいうやり方を認めるわけじゃない。/私があくまでそこを分けたいと思うのは、人間が全身的行為、全身的思想で、人と人とぶつかり合うという決闘の思想というものが私は好きなんです」と語っていました(196)。

さらにスターリンが行った「粛清」とも比較することで、「あれだけ警備の多勢いるところで、死刑を覚悟でやるというのは大変だと思う。私は人間の行動というのは、行動のボルテージの高さで評価する」と語った三島は、一対一で行う「勇気」にも言及して「暗殺」を正当化していました。

そのような人物の一人がドストエフスキーが『罪と罰』で描いたラスコーリニコフであり、 「非凡人の理論」を考え出して、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害したのです。こうして、ドストエフスキーは「小説という方法を生かして「非凡人」の理論を、「他者」の殺人という極限的な事態の中で、主人公の身体や感情の動きをもきわめて具体的に分析しながら考察することにより、フロイトなどに先だって絶望の諸相や人間心理の無意識的な深みにまで迫り得た」のです(『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、9頁)。

『罪と罰』では老婆とその義理の妹を殺害したラスコーリニコフの更生が、エピローグでの「人類滅亡の悪夢」を見た後で示唆されていました。

一方、『白痴』ではスイスでの治療から戻ったムィシキンは出会った絶世の美女ナスターシヤの内に深い「絶望」を見抜いて、なんとか癒そうとしたのですが果たせずに終わります。「決闘」の問題を「復讐」のテーマともからめて考察しているこの長編小説では(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、176~180頁)、さらにより深い「絶望者」が描かれています。

それが自分の余命が長くないことを知らされたイッポリートです。自殺をしようとして失敗していた彼は、自暴自棄となり「もしもいまこのぼくが急に思いたって、好き勝手に十人ばかりも人を殺したり」、あるいは「世の中で一番ひどいと思われることをしでかしたりした」らどうだろうかと問いかけていました。

 「つまり、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」では、他者は軽蔑すべき対象としてでも存在したのにたいし、「自己」の可能性を見失って「絶望」したイッポリートにとっては、「他者の生命」も意味をなさなくなってしまって」いたのです(前掲書、217頁)。

この意味で興味深いのは、三島との討論の際に学生Eが、次のような鋭い質問を投げかけていました。 「たった一人でこの世の中を全(すべ)て破壊できると考える人間が、自分の考えを貫こうとして、この全世界を破壊するしかない」と考えて、「合理的に、自分の自殺と他の全世界の人々を滅ぼすということを同時にやったとして、それで全世界を滅ぼすことになっても、ボルテージの高まったその個人に意義はあるのですか。それを伺いたいのです」(206)。

この質問は私が『白痴』のイッポリート から受けた印象とも重なっていました。 彼が考えたのは「無差別殺人」のことでしたが、核の時代の現代においてそれは核兵器の使用になると思えるからです。

こうして、「憲法」を変えるために三島由紀夫が東部方面総監を人質にして自衛隊のクーデターを呼びかけ、その後、割腹自殺をした事件から私は激しい衝撃を受けたのですが、その一因は 椎名麟三が自殺した芥川龍之介が遺書の『或旧友へ送る手記』で、「僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである」と記していることに注意を促していたことにもありました。

つまり、「三島事件」を知った時には、三島が芥川とは反対に「みずから神」となるために自刃をしたことに強い反発を覚えたのです。

その後、この衝撃的な事件の印象は薄れましたが、その関心は「昭和維新」を掲げた2・26事件に遭遇した若者を主人公とした堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の考察 や、原爆パイロットをモデルにして原水爆の危険性を考察した『審判』の考察へと向かうことになりました。

 次回の「チェコ事件でウクライナ危機を考えるⅡ」では、ドストエフスキーについての言及もある堀田善衞の小国の運命・大国の運命』を詳しく考察することにより、彼の社会主義観や文明観に迫りたいと思います。

(2022年3月21日、加筆、改訂)

(4)「耽美的パトリオティズム」の批判――「美神との刺違へ」という表現と林房雄の「玉砕」の美化

『ドーダの人、小林秀雄』で著者は、1980年にも「小林秀雄信者」の教員による『様々なる意匠』が出題されるなど、当時はまだ「かなりの数のインテリが「参りました! 凄いです。教祖様!」と平伏していた」ことに注意を促している。

そのような状況を踏まえて、それゆえ作家の丸谷才一が「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表した際には「よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだ」と鹿島氏は記しています。

ただ、小林秀雄が後に「日本会議」の代表者の一人にもなる小田村寅二郎の招きに応じて1978年まで学生向けの講演を5回も行っていたために、その講演を聞いた若者たちのなかから戦前の日本を理想視するような教員や政治家もでており、新保祐司氏は小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら、皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」を賛美しています。

さらに、古い戦前への価値観への回帰という意図を隠して美しいスローガンによる「改憲」のプロパガンダを行っていた「日本会議」系の論客から強い影響を受けている自民党や維新の右派の議員は、「改憲」だけでなく、「核武装」への意欲も示しています。

しかし、問題は太平洋戦争が始まる前年の8月に行われた鼎談「英雄を語る」(『文學界』)で作家の林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけられた小林秀雄が「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と続けていたことです。つまり、小林は山本五十六などの海軍の将軍が、日米の国力や戦力を比較して長期戦になれば必ず負けると判断していたのに反して、単なる感情論で戦争の開始に賛成していたのです。しかも、戦後に「大東亜戦争肯定論」を『中央公論』(1963~1965)に連載してこの戦争を美化することになる林房雄は、小林の答えを聞くと「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣い」 と語っていました。

それゆえ、小林秀雄の『本居宣長』を一か月かけて読んだ堀田善衞は、「あなたの宣長さんを読みました。引用されている宣長の文章には、悉く感服しましたが、それにつけてあるあなたのコメントは、よくわかりませんでした。妙な神秘化はいけませんよ」と小林に直接語ったと記しているのです」(『天上大風』)。

鹿島氏は小林秀雄のランボー論に見られる「美神との刺違へ」的イメージが「二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」ことを指摘していますが、『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促した評論家の橋川文三は、「保田の主張に国学的発想がつよくあらわれてくるにつれて、一切の政治的リアリズムの排斥、あらゆる情勢分析の拒否がつよく正面に押し」だされるにいたると記していました。

そして、論文「テロリズム信仰の精神史」では、2・26事件を起こした将校など「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた」とし、こう続けているのです。

 「それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依」であり、「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す」 (『橋川文三 著作集5』筑摩書房) 。

 先にも見たように鹿島氏は小林秀雄のランボー論に見られる「美神との刺違へ」的イメージが「二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」ことを指摘していますが、 それは「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣い」と語って「玉砕」を美化した林房雄などの論客だけでなく、『永遠の0』に記された「死の美学」に魅了される読者にも当てはまる可能性があります。

堀田善衞は長編小説『審判』で核戦争が地球を滅ぼす危険性について詳しく考察していましたが、ロシア軍のウクライナ侵攻に乗じて、「核武装」を煽ることで戦前の価値観を復活させようとしている政治家や論客に引きずられて「改憲」をすることは、日本発の地球規模の悲劇につながる危険性が高いと思われます。

(2022年3月6日、改訂と改題)

「小林秀雄神話」の解体――鹿島茂著『ドーダの人、小林秀雄』を読む(序)


目次/ はじめに/ 1,「他人を借りて自己を語る」という方法――小林秀雄とサント・ブーヴ / 2、『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解/ 3、「人生斫断家」という定義と2・26事件/  4,「小林神話」の拡がりと「核戦争」の危機

はじめに 

「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で」、どこの大学にも「小林秀雄信者」の教員がいて「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』」と迫る出題をしていました。

 そのことを紹介したフランス文学者の鹿島茂氏が「小林神話」の解体を試みた 標記の著書から強い知的刺激を受け た私は、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』(成文社、2019年)の終章では小林秀雄の『地獄の季節』訳と2・26事件との関係について分析した氏の説明を引用しました、

 『地獄の季節』と 『レ・ミゼラブル』とのかかわりを説明している箇所や小林秀雄と長谷川泰子と中原中也の三角関係についての分析も、ドストエフスキー作品の構造とも深く関わっています。それゆえ、今回はそれらのことにもふれつつ 、『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』朝日新聞出版、2016年。以下、題名は『ドーダの人』と略す)についてドストエフスキー研究者の視点から紹介しようと考えました。

 さらに、本稿を執筆中にロシア軍のウクライナ侵攻が始まると、それに乗じて維新の橋下徹氏が 日本の「核武装」についてテレビで論じると、安倍元首相もそれに応じて「改憲」が煽られるという事態が起きました。

  このような状況は関東軍による満州事変が起きると日本では「満州国」の建国を危機の打開策として歓迎するような世論が 一気に 強まり、2・26事件をへて、泥沼の日中戦争から太平洋戦争の悲劇へと突き進んだ事態を連想させます。

 それゆえ、この稿の後半ではドストエフスキー作品の深い考察もある堀田善衞の自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』にも言及することにより、小林秀雄と林房雄の戦争観と死生観を見た後で、『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促した評論家の橋川文三による「日本の右翼テロリスト」の死生観についても紹介しました。

 そのことにより戦前の「五族協和」などと同じような美しいスローガンにより、「核武装」を説く論客の弁舌に乗って、「改憲」の必要性を主張する「#日本会議」系の議員の主張と昭和初期の論客の主張の類似性とその危険性にも迫ることができると思います。 (2022/03/02、改訂)

混迷の時代と新しい価値観の模索―『罪と罰』の再考察

 もうすぐ「ロシア文学研究」の授業が始まります。

昨年度の講義では国際シンポジウムのテーマともなった『白痴』を中心的に考察しました。西欧文学からの影響も強く見られる作品なので難しいかと思われましたが、思いがけず好評でした。

残念ながら、日本では『白痴』の主人公の一人であるナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定した文芸評論家・小林秀雄の『白痴』解釈がいまだに強い影響力を保っています。

しかし、ロシアもまたキリスト教国であり、西欧の文学から強い影響を受けたドストエフスキーはこの作品でも『ドン・キホーテ』や『椿姫』などに言及しています。それらの作品や『レ・ミゼラブル』との関連をとおしてこの作品を分析するとき、浮かび上がってくるのはパワハラや「噂」などで苦しめられた女性の姿なのです。

それゆえ講義では。黒澤映画《白痴》なども紹介することで、小林秀雄が「悪魔に魂を売り渡して了つた」と批判した主人公のムィシキンは、「殺すなかれ」というイエスの理念を伝えようとしていた若者だったことを明らかにしました。

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それゆえ、今年も同じく『白痴』を扱おうかとも考えましたが、結局、『白痴』をも視野に入れながら『罪と罰』を中心に考察することにしました。1866年に「憲法」のないロシア帝国で発表された『罪と罰』で描かれている個人や社会の状況は、現代の日本を先取りするように鋭く深いものがあるからです。

たとえば、ドストエフスキーは1862年に訪れたロンドンでは、ロシアの農奴よりもひどいと思われる労働者の生活や発生していた環境汚染を目撃していました。それらの状況は『罪と罰』における大都市サンクトペテルブルグの描写にも反映されているのです。

合法的に行われていた高利貸しの問題が殺人の原因になっていることはよく知られていますが、この長編小説では悪徳弁護士のルージンが述べる現在のトリクルダウン理論に近い考えも、登場人物の議論をとおして厳しく批判されています。

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そして、ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公にナポレオン三世が記したのと同じような「非凡人の理論」を語らせていますが、社会ダーウィニズムを理論的な根拠にした「弱肉強食の思想」と「超人思想」などはすでに当時の西欧社会を席巻しており、後にヒトラーはこの考えを拡大して「非凡民族の理論」を唱えることになるのです。

こうして、19世紀に書かれた『罪と罰』は、時代を先取りし、現代につながるような思想的な問題をも都市の描写や主人公と他者との対話、さらに主人公の夢などをとおして描き出していたのです。

→ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

   *    *

私が『罪と罰』と出会った当時はベトナム戦争が続いて価値が混迷し、日本では反戦を訴えていた過激派が互いに激しい内ゲバを繰り返して死者も出るようになっていました。その一方で激しい言論弾圧も行われていた隣国の韓国では、朝鮮戦争時の日本と同じように、ベトナム戦争による戦争特需が生まれていたのです。

残念ながら最初に『罪と罰』と出会った頃の現在の日本は軍事政権下の韓国の状況に似て来たように見えます。地球の温暖化や乱立する原発などが状況をより難しくしています。

しかし、ドストエフスキーはロシア帝国だけでなく、おおくの西欧初校も抱えていた多くの矛盾を長編小説という方法で考察し、その矛盾に満ちた世界を改善しようとしていました。

→ 三浦春馬が“正義”のために殺人を犯す青年を熱演!
舞台「罪と罰 …プレビュー 2:44

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また、プーシキンやトルストイの作品などを学ぶことはロシアの歴史や社会を知ることになります。一方、ロシア文学の受容を考察することは、日本の歴史や社会をより深く知ることにもつながります。

ここでは初めての邦訳者・内田魯庵や批評家・北村透谷、そして『罪と罰』を深く研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村など明治の文学者たちの視点で『罪と罰』を読み解くことにより、差別や法制度の問題にも迫ります。

そして、「平民主義者」から「帝国主義者」へと変貌した徳富蘇峰の「教育勅語」観や「英雄史観」にも注目しながら、「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が書いた『罪と罰』の特徴を分析することで、現代にも通じるその危険性を明らかにすることができるでしょう。

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講義概要

この講義では近代日本文学の成立に大きな役割を果たしたロシア文学をドストエフスキーの『罪と罰』を中心に、ロシア文学の父と呼ばれるプーシキンの作品やトルストイの『戦争と平和』などを世界文学も視野に入れながら映像資料も用いて考察する。

  具体的には比較文学的な手法によりシェイクスピアの戯曲やゲーテの『若きヴェルテルの悩み』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてユゴーの『レ・ミゼラブル』と『罪と罰』との深い関わりを明らかにする。そのうえで『罪と罰』の筋や人物体系の研究の上に成立している島崎藤村の長編小説『破戒』などを具体的に分析することで、近代日本文学の成立とロシア文学との深い関わりを示す。

 さらに、ドストエフスキーとほぼ同時代を生きた福沢諭吉の「桃太郎盗人論」や芥川龍之介の短編「桃太郎」と『罪と罰』の主人公の「非凡人の理論」を比較し、手塚治虫や黒澤明、さらに宮崎駿の作品とのかかわりを考察することで、『罪と罰』の現代的な意義を明らかにする。 (ロシア語の知識は必要としない)。

「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 

 

「ラピュタ」(4,追加版)、「満州国」のテーマの深化――『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』へ

「映画 風立ちぬ 画像」の画像検索結果

(画像はoricon.co.jp  より)

はじめに

この考察の第2回で『風の谷のナウシカ』(1984)には「満州国」のテーマも秘められていましたと記しました。ただ、「王道楽土」という用語から「満州国」のテーマが秘められていると記して先に進むのは少し強引すぎたようです。

それゆえ、『天空の城ラピュタ』からは離れることになりますが、「満州国」のテーマを浮かび上がらせるために、今回は『風の谷のナウシカ』と映画『風立ちぬ』との深い関りを記すことにします。分量が意外と多くなりましたので独立させて(3)の後に置いて(4、追加版)としました。

   *   *   *

 作家・堀辰雄の小説『風立ちぬ』を骨格の一つとする映画『風立ちぬ』を公開した宮崎駿監督は、この映画の後で公開された映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造」と厳しく批判していました。

 https://twitter.com/stakaha5/status/1117103001485758464

拙著『ゴジラの哀しみ』の第2部で詳しく分析したように、作家・司馬遼太郎の高級官僚批判をほとんど抜き出したような記述もあるこの映画の原作では、主人公の「僕」に「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」などと語らせることで、反戦小説と誤読されています。

 しかし、長編小説『永遠の0』は反戦を装いつつも、多くの県民を犠牲にした「沖縄戦」を正当化しつつ、「皇紀2600年」を記念して零戦と名づけられた戦闘機を讃えることにより、その結末では「特攻」を讃美していたのです。

 一方、映画『紅の豚』や『風の谷のナウシカ』では、空中戦の空(むな)しさを示唆するような映像も示されていましたが、地上の戦いはいっそう悲惨で、230万ほどの戦死者のうちの6~8割が『餓死』をしており、華々しい戦いで亡くなる「英霊」とは敬われないような戦いを強いられていたのです(藤原彰『餓死した英霊たち』)。

 作家の堀田善衞が自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で描いたのは、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した若者を主人公として、彼が「赤紙」で召集されるまでの、戦争への批判も許されない重苦しい「満州国」建国後の時代でした。

その堀田善衞について宮崎監督は、「堀田さんは海原に屹立している巌のような方だった。潮に流されて自分の位置が判らなくなった時、ぼくは何度も堀田さんにたすけられた」と書いています(『時代と人間』)。

時代と人間

映画『風立ちぬ』では作家・堀辰雄の小説だけでなく零戦の設計者・堀越二郎の伝記をも踏まえていたために厳しい批判も浴びましたが、宮崎監督はこの映画について、「少年時代の堀越二郎の夢に出て来る草原は、空想の世界の草原です。でも、終わりの草原は現実で、『あれはノモンハンのホロンバイル草原だよ』」とスタッフに語り、戦争の悲惨さにも注意を促していました。

 しかも、宮崎が深く敬愛していた作家の司馬遼太郎は劇作家・井上ひさし氏との対談で「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と語り、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」で、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と語り、戦闘に参戦した須見・連隊長の次のような証言をも記しています。

すなわち、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよ」と命じられたことを伝えた須見新一郎元大佐は、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と厳しく批判したのです(『国家・宗教・日本人』)。

 「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いています(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は『坂の上の雲』での考察を踏まえて、「昭和初期」の日本の病理を分析する大作となることが予想されたのですが、この長編小説の取材のためもあり行った元大本営参謀の瀬島龍三との対談が、『文藝春秋』の正月号(1974年)に掲載されたことが、構想を破綻させることになりました。この対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えたのです(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

司馬氏に対する須見元連隊長のこのように激しい怒りは理解しにくいかもしれませんが、シベリアに抑留された後で、戦後に商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになった瀬島は、1995年には「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」顧問の役職に就いているのです。

 一方、「ノモンハンの時の辻らの高級参謀への鋭い批判が記されている『永遠の0(ゼロ)』では、元大本営参謀・瀬島龍三批判は記されていないどころか、彼をモデルとして元海軍中尉で「一部上場企業の社長まで務めた」武田貴則という登場人物を構想し、その彼に新聞記者の戦争観を激しく批判させている可能性が高いのです。

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少し、長くなりましたので映画『風立ちぬ』については後でもう少し詳しくみることにして、(2)の「宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化(隠された「満州国」のテーマ)」に戻って、橋川が保田與重郎とともに「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」と記している評論家・小林秀雄の戦争観を確認して頂ければと思います。

 小林秀雄の『罪と罰』解釈を確認することにより、小林の「超人(非凡人)」観を厳しく批判していた手塚治虫のマンガ『罪と罰』とその考察を踏まえて創られていると思える宮崎アニメの意義をより深く理解できることになると思えます。

 

『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈(1、改訂版)テーマの継承と発展――『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』へ

はじめに

「『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈」の考察が思いがけず長くなったので第一章を大幅に改訂して、題名と副題も「テーマの継承と発展――『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』へ」と変更し、最後に論考の〔目次〕を添付しました。

   *   *   *

8月30日に久しぶりにジブリのアニメ『天空の城ラピュタ』(1986)をテレビで観ました。これまでにも何回か見ているはずなのですが、主人公のパズーとシータと周りの個性的な登場人物たちの触れ合いをとおして文明論的な大きなテーマが軽快で雄大に描かれていました。『風の谷のナウシカ』で重要な役を担っていたキツネリスも出て来て、ロボットとの交流が描かれていました。

天空の城ラピュタ [DVD] (「アマゾン」より)

また、『風の谷のナウシカ』(1984)と『罪と罰』のテーマとの係わりについては何回が記しましたが、ここでも主人公たちとムスカ大佐との係わりをとおして「科学と自然」や「非凡人と凡人」のテーマがいっそう深く掘り下げられていることを改めて感じました。

圧倒的な存在感のある「腐海の森」は描かれていませんが、その代わりに徐々に姿を現してくるのが「生命の樹」のテーマです。また、軍隊と空の海賊との戦いのシーンや空賊たちの描写からは、後の『紅の豚』に通じる要素が強く感じられました。

しかし、『天空の城ラピュタ』を見終わった後でツイッターの投稿記事を調べたところ、宮崎駿監督の意図とは正反対と思われる記述があり唖然としました。たとえば、破滅の呪文である「バルス」という言葉を用いて、「いよいよ、#令和最初のバルス祭り」などの記述があったのです。

「ポピュラー文化を分析することで、日本人の核意識と戦争観の変化を考察」した拙著『ゴジラの哀しみ』(2016)を書く際にも、1954年の映画『ゴジラ』の感想を中心にツイッターでの記述も調べて、核武装などを支持するような記述とも出会ってはいたのですが、 今回のハッシュタグなどには首をかしげてしまいました。

 しばらく考えこみましたが、このような感想には「評論の神様」と奉られた評論家・小林秀雄の文学作品や映画の解釈からの影響があり、その根底には「作者と作品との関係をどうとらえるか」という大きな問題が横たわっているだろうと思うようになりました。

この問題は日本のポピュラー文化だけでなく、ロシア文学の研究などにも深く関わるので、少し時間をかけて文学研究者の視点から考えて見たいと思います。結論を記すのではなく、考えながら書いていきますので、多少、話が前後する場合や内容が一部重複する箇所も出て来ると思いますが、ご了解下さい。

   *   *   *

『天空の城ラピュタ』の理解と主観的な文学解釈」の「目次」

(2)宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化――隠された「満州国」のテーマ

(3、閑話休題)――丸山穂高氏のツイッターの手法と比較という方法の意義

(4,追加版)「満州国」のテーマの深化――『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』へ

(5)ムスカ大佐の人気と古代の理想化――『日本浪曼派』の流行と「超人の思想」

(6)「腐海の森」から「生命の樹」へ――「科学と自然」と「非凡人と凡人」の関係の考察

スレッドの「目次」(2)について

ツイッターのスレッドが増えてきて見にくくなってきたために、「目次」を作成しました。

前回は「目次」のスレッド(1)―― 〔司馬遼太郎の国家観〕、〔『罪と罰』を読み解く〕、〔新聞『日本』から右派メディア新聞『日本』(二代目)へ〕、〔手塚治虫の『罪と罰』観と『アドルフに告ぐ』〕、〔『アドルフに告ぐ』と3つのオリンピック〕、〔満州国の負の遺産と安倍政権〕(Ⅰ)、 〔満州国の負の遺産と安倍政権〕(Ⅱ) ――を掲載しました。

今回は「目次」のスレッド(2)――〔堀田善衞と『日本浪曼派』〕、〔司馬遼太郎の沖縄観と現代の沖縄〕、〔小林秀雄の歴史観と「日本会議」〕、〔参議院選挙と「緊急事態条項」の危険性〕、〔安倍内閣と「日本会議〕(ママ)、〔安倍政権とヒトラー政権〕、〔『#新聞記者』〕、〔株価とアベノミクスの詐欺性〕――を掲載します。

また、参議院選挙の前に急いで掲載した〔参議院選挙と「緊急事態条項」の危険性〕のページも〔安倍内閣と「日本会議〕の前に挿入しました。

   *   *   *

〔堀田善衞と『日本浪曼派』〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1119222465232642049

「昭和維新」をスローガンに皇道派の陸軍若手将校たちが二・二六事件を起こす前夜に上京した若き堀田善衞の視点で、「耽美的パトリオティズム」が流行した時代と文学を考察する。

   *   *

〔司馬遼太郎の沖縄観と現代の沖縄〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1100632728024707072

「(沖縄戦)について物を考えるとき…中略…自分が生きていることが罪であるような物憂さが襲ってくる」((司馬遼太郎『沖縄・先島への道』)

   *   *

〔小林秀雄の歴史観と「日本会議」〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1130663946749325312

評論家の橋川文三は『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促していた。

   *   *

参議院選挙と「緊急事態条項」の危険性

今回の参議院選挙では「年金問題」が焦点の一つとなっているが、ここでは「緊急事態条項」関連の連続ツイートを再掲することによって、問題点を整理した。

   *   *

〔安倍内閣と「日本会議〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1080361123822501889

改憲施行を「早期」とし、(1)自衛隊の明記(2)緊急事態対応(4)教育充実を掲げた自民党の「憲法改正」案は、いずれも戦前の日本への価値観への回帰を目指す「日本会議」の意向に沿っているように見える。

   *   *

〔安倍政権とヒトラー政権〕

https://twitter.com/stakaha5/status/909917695327342593

「神話的な歴史観」を持つ安倍政権は、「王道楽土」と同じような美辞麗句を並べて国民の眼を逸らしつつ、 ヒトラー政権と同じような #緊急事態条項 を盛り込んだ「改憲」を目指す姿勢を明確にしている。

   *   *

〔『#新聞記者』〕 ↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1146243384392081408

この映画は権力による情報の「操作」と「隠蔽」の問題に鋭く切り込むことで、安倍政権の危険性を浮き彫りにすることに成功している。

   *   *

〔株価とアベノミクスの詐欺性〕↓

https://twitter.com/stakaha5/status/1091582848375545856

経済に関して私は素人ですが、ドストエフスキーは『罪と罰』で、いかさま弁護士ルージンのトリクルダウン理論に似た経済理論を厳しく批判していました。

 

自著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』の紹介文を転載

「桜美林大学図書館」の2019年度・寄贈図書に自著の紹介文が表紙の書影とともに掲載されましたので転載致します。

   *   *   *

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

若きドストエフスキーは帝政ロシアの政治体制に抗して、農奴解放や言論の自由、裁判制度の改革を訴えて逮捕され、一度は死刑の判決を受けていた。大逆事件の後でこのことに言及した夏目漱石をはじめ、内田魯庵や北村透谷、そして島崎藤村はその重みをよく理解していた。

本書では「教育勅語」渙発後の北村透谷や『文学界』の同人たちと徳富蘇峰の『国民之友』との激しい論争などをとおして、権力と自由の問題に肉薄していた『罪と罰』を読み解き、この長編小説の人物体系などを深く研究して権威主義的な価値観や差別の問題を描いた『破戒』の現代的な意義に迫った。

その一方で、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の1934年に著した『罪と罰』論で「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と主人公について解釈した小林秀雄の文学論の問題点を、彼の『破戒』論や『夜明け前』論を分析することで明らかにした。

さらに、徳富蘇峰の歴史観や英雄観との類似性に注目しながら小林秀雄の『我が闘争』の書評を分析することで、今も「評論の神様」と称賛されている彼の歴史認識の危険性も示唆した。本書が文学の意義を再認識するきっかけとなれば幸いである。

  高橋誠一郎(リベラルアーツ学群)

『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

はじめに 危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容  

→あとがきに代えて   「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

『若き日の詩人たちの肖像』におけるナチズムの考察Ⅰ

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

はじめに――堀田善衞と小林秀雄のヒトラー観と堀田善衞

小林秀雄の短い書評「ヒットラアの『我が闘争』」が朝日新聞に掲載されたのは1940年9月12日のことであったが、それから間もない9月27日には日独伊三国同盟が締結された。

小林秀雄は後に雑誌『文藝春秋』(1960年5月号)に掲載した「ヒットラーと悪魔」でこの記事についてこう書いている。

「ヒットラーの『マイン・カンプ』が紹介されたのはもう二十年も前だ。私は強い印象を受けて、早速短評を書いた事がある。今でも、その時言いたかった言葉は覚えている。」

しかし、掲載された書評と小林秀雄の記憶とを比較すると、かなり大きな違いがあることがわかる。それについてはすでに別稿で記した。

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

 この問題について堀田善衛はなにも記していないようだが、重苦しい昭和初期の日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出している『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)では、何度もナチスの宣伝相ゲッベルスの演説などについて何度も言及されている。

ことにこの長編小説の終わり近くで作者はは登場人物に、「神仏習合って言うけど、古神道がキリスト教と習合し、いまどきの論文書きどもは、国学とナチズムの習合なんかをやってんだから話しにもなんにもなりゃせんよ」と厳しく「国学とナチズムの習合」を批判させているのである。

以下、本稿では『若き日の詩人たちの肖像』の記述をとおして、小林秀雄のヒトラー観に対する堀田善衛の批判を検証する。

 

1、『若き日の詩人たちの肖像』の構造とナチズムの考察

この長編小説の主人公は、大学受験のために上京した翌日に日本文化を重んじて物質より精神を重視する皇道派の影響を受けた陸軍青年将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンにしたに遭遇する。

この長編小説で注目したいのは、2.26事件だけでなく幕末から明治初期と同じように「昭和維新、尊皇斬奸」が叫ばれるようになっていたこの時期の雰囲気が詳しく描かれていることである。

たとえば、この事件の前年に起きた統制派の中心人物・永田鉄山陸軍省軍務局長が殺害された相沢事件や、1934(昭和9)年に『ファッシズム批判』を出版していた河合栄治郎・東京帝国大学教授の「二・二六事件の批判」(帝国大学新聞)や軍国主義と「国体明徴」運動を批判して伏字ばかりの文章となっていた『中央公論』の巻頭論文も詳しく紹介されている。

こうして、第一部の終わり近くでは主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」が起きる。ラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公は、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出るのである。

その後で作者は、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見た若者が、「星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、題辞でも引用していた『白夜』の冒頭の文章「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた(後略)」を引用して、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している。

『白夜』を発表したドストエフスキーがこの後でペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受けた後でシベリアに送られていたことや、それまで主人公を「少年」と記していた作者がここで「若者」と呼び変えている。こうして、ゲッベルスの演説から「異様な衝撃」を受けた若者は、それまで学んでいたドイツ語を捨てて新たにフランス語の勉強を始めて、昭和15年秋に法学部政治学科から仏文科に転科することになる。

しかも、そこでは仏文科の先輩である白柳君との会話をとおして、日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」ことをが、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことも記されている。

実は1933年1月にナチスが政権を握った後では「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われ、『人権宣言論』などを書いていたユダヤ人の公法学者イェリネックの本も焚書の対象とされた。「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられた美濃部達吉は、その『人権宣言論』を1906年に訳出しており、一方、ゲッベルスは焚書に際して扇動的な演説をしていた。

(ナチス・ドイツの焚書)

 一方、日本は2・26事件が起きた1936年の11月に日独防共協定が結び、主人公が「赤紙」で召集された1940年の9月には日独伊三国同盟を結ぶことになるのである。

 

『日本国紀』と小林秀雄の歴史観――徳富蘇峰の「物語」の手法と「司馬史観」論争

日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

 白蟻は穴の前に硫化銅塊を置かれても「先頭から順次に其中に飛び込み」、「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」(『大正の青年と帝国の前途』)。

   *   *   *

【日本国紀と小林秀雄の歴史観】という題で、昨日からツイッターに連続投稿しました。

 ノンフィクションを謳った小説『殉愛』を書いた作家の『日本国紀』を正面から論じるつもりはまったくないので、このような題名の付け方には問題があるかもしれません。

 ただ、小説『永遠の〇(ゼロ)』で朝日新聞を攻撃の根拠とされていた言論人・徳富蘇峰の歴史観を文芸評論家の小林秀雄も雑誌『文學界』に掲載された作家・林房雄との対談で賞賛していました。

 この時期の小林秀雄の歴史観は1960年に書かれた小林秀雄の「ヒットラーと悪魔」にも受け継がれていると思えます。それゆえ、今回は1996年のいわゆる「司馬史観」論争にも言及しながら、1940年に『文學界』に掲載された「対談 歴史について」の内容を詳しく考察することにします。

 *   *

 太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄が、翌月の『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」とよんでいました。しかも、その後で小林は「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです。

→小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

 この鼎談の翌月に行われた対談の冒頭で、「『英堆を語る』座談会に就いて、こういう大言壮語は実に困る、愚の愚なるもの」であると言った批評家の言葉を紹介して、「僕は非常に面白かった」と語った林は、その理由をこう説明しています。

「現代日本文畢の基調をなしてゐる一つの常識を見せられたような気がしてね。良識といふ意味の常識ではなく、低級で通俗な意味の常識さ。」

 この言葉を受けて小林秀雄が「そうかね、読まなかつたが、君の言う意味も解る」と答えると、林は先の鼎談での小林の英雄観を受け継ぐように、「(そのような常識は)、僕などが考えている、歴史は英雄の営みである、人間の英雄的行為の綜合のみが人生である――という考へ方と全然反対の『常識』なんだ、この常識は現代日本文学を案外根強く支配しゐる(ママ)。」と続けていました。

 興味深いのは、この後で「君は歴史教育について意見を持っているらしいね。」と林が問うと、小林がこう答えていたことです。

「意見は簡単なのだ、日本の歴史教育で、もっと文学化した歴史を教えよと言ったのだ。歴史というものは文学なんだからね。歴史というものは文学なんだからね。」

 実はこのような「意見」は、徳富蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調した坂本多加雄・「新しい歴史教科書を作る会」理事の見解にも強く響いています。

 そして、作家の司馬遼太郎が亡くなった一九九六年に発行した『汚辱の近現代史』で教育学者の藤岡信勝は、長編小説『坂の上の雲』では「日本人が素朴に国を信じた時代があったこと、健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」明治の人々の姿が描かれているとし、自分たちの歴史認識は「司馬史観」と多くの点で重なると誇っていました。

しかし、『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していた司馬遼太郎は、『坂の上の雲』を書き終えたあとでは「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いて、日露戦争の美化を厳しく批判していたのです。

 残念ながら、いわゆる「司馬史観」論争の際に歴史学者の人々が右派の設定した土俵で論争し司馬の批判に終始したために、一般の読者には押しまくられているように映ったようです。

 この論争に強い危機感を抱いた私は、この頃から司馬遼太郎の作品を研究の対象として、日露の近代化の比較という視点で考察し、2002年に出版した『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画)では、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『沖縄・先島への道』、『菜の花の沖』などの作品を読み解くことで、「公地公民」制の実態や「義勇奉公」の理念の危険性を明らかにした「司馬史観」の深まりを明らかにしました。

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しかし、その後の流れから判断すると、「神国思想」のきびしい批判者としての司馬遼太郎を全面に出して論じるべきであったと感じています。その意味でも安倍首相などの政治家や「つくる会」や「日本会議」の論客などの支援を受けながら、「『物語』の構造」を利用しつつ、戦前の価値観を若者に説いている『永遠の0(ゼロ)』の作者の手法は厳しく批判されるべきだと考えています。

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*   *

 少し、話題が逸れましたので、本題に戻りましょう。

 この後で歴史教育の問題を取り上げた林に対して、小林は「国体史観というものは、覚え込ませるのではない、感得させるものだ。だから感得させる様に歴史を教えねばならない。それには、歴史に教えるべき重点を置き、例えば建武の中興とか明治維新とかいう処をくわしく教えるのだ」と語り、さらにこう続けていました。

 「不確実な美談であっても心を唆(そそ)らぬ正確な史実といふ様なものより勝る事万々だ。心を唆られるという処に、歴史のほんとうのセンスが生れるのだ。だから、僕に言わせると、初等の歴史教育では、歴史なぞ教える必要はない、歴史に対するする正しいセンス、正しい情操を教えよ、と言うのだ。それが出来ないから、歴史についていかに精しくなってもおかしな事になるだけなのだ。」(太字は引用者)

 実は、私が「『日本国紀』と小林秀雄の歴史観」という題名で小論を書こうと思ったきっかけは、太字で記した小林の発言にありました。ノンフィクションを謳った小説『殉愛』の作者が『日本国紀』でその間違いなどをいかに批判されても平気なのは、「評論の神様」のお墨付きがあると考えているからでしょう。

 つまり、「教祖」ともいえる小林秀雄の歴史観をきちんと批判しえた時に、『日本国紀』史観に対する批判が作者に対しても効力を持つようになると思えるのです。

 さて、小林の言葉を聞いて、「君が日本勤王史こそ真の歴史であると言い出したのが大変面白いと思ったのだ。」と語り、「僕は君のような深い考えで言ったワケではない。併し、君の言う事は正しいのだ。」という小林の返事を聞くと、『日本浪曼派』の同人でもあった林は次のようにとうとうと自分の「勤王文学史」を語ります。堀田善衞が『若き日の詩人たちの肖像』で描いた当時の文学を知る上で重要なので、少し長くなりますが、引用しておきます。

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

学徒出陣

出陣学徒壮行会(1943年10月21日、出典は「ウィキペディア」)

 「古事記は単なる古典ではない。当時の混乱を正す勤王書、即ち革命の書だった。万葉集もまた人麿や防人の歌に見るが如く勤王の書だった。それから神皇正統記、太平記、大日本史、日本外史、賀茂眞淵、本居宣長、僧契沖、平田文子など国学者の書、藤田東湖を始めとする水戸派の書そういう人達のものが全部革命の書だ。日本では革命の書は復古の書で勤王の書なんだ。ここに日本の本当の文学伝統がある。真の日本文学史は勤王文学史だという新しい常識を我々は打ちたてなければならぬ。

 明治の文筆者及び現代の文学者は他の所に日本の文学伝統を求めている。枕草子、源氏物語、方丈記、徒然草、謡曲、徳川期に於いては近松巣林子(引用者注:門左衛門のこと)西鶴、春水、馬琴、三馬、一九、そういうものを日本文学の伝統であると教えられた。これが大きな間違いだ。この伝統を押して行けば、西洋流の市民文学となり、市井文学となり、やがては階級文学となるのが当然で、真の国民文学はこの伝統の流れからは発見もされず創成もされない。考えてみると、西鶴が発見されたのは明治二十年前後だ。日本に新しい町人文化が再台頭しはじめたころに再発見されて、それがその後フランス自然主義という理論が日本に輸入され、この自然主義の尺度に一番よく当てはまっているのが、西鶴の市井小説で、西鶴こそ真の日本文学である。日本文学の正統はここにあるということになってしまった。」(太字は引用者)

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 このような林の言葉に小林秀雄も「右翼というものの存在をインテリゲンチヤはもっと真面目に考えなければいけないと僕は思うのだ。(……)インテリゲンチヤは右翼を旧文明の残滓だと思っているのだよ。」と語りかけると、「日本の歴史を動かしているのは右翼なんだよ、実は――。」と応じた林は、話題を転じて小林に「君には西鶴は面白いかね。」と問いかけ、「今は詰まらないね。」という答えを得ています。

 そして、「今僕は、歴史による知性の再教育というようなことを考えているのだ。」という林に対して「賛成だ。僕は今面白い仕事はそれだけだと思っているくらいだ。」と応じた小林は、「つくる会」の論客と同じように蘇峰の歴史をこう高く評価しているのです。

 「徳富蘇峰なんか皆悪口を言うが、僕はあの人の歴史を認めている。悪口を言うが、実際に読んでやしないのだよ。あれを読むのだってずい分骨は折れるからね。史観が出鱈目というけれども、あの人の歴史は観方が一番借りもののところがない。」

 そして林房雄もこう応じていたのです。「蘇峰は出発はハイカラだが、非常に日本的な歴史家なんだ。一昨日、読者から手紙が来て、歴史を理解するためにはどの歴史書を読んだらいいんだろうという。僕は徳富蘇峰を推薦した。いつか君も蘇峰をほめていた。」

(2019年5月28日、加筆)