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小林秀雄

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

はじめに、『若き日の詩人たちの肖像』の時代の「祝典的な時空」

自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる昭和11(1936)年の二・二六事件に遭遇した主人公が「赤紙」で召集されるまでの重く暗い日々が若い詩人たちとの交友をとおして克明に描かれています。

しかし、この時期には「祝典的な時空」という華やかな側面もありました。すなわち、「天皇機関説」事件が起きた昭和10年には神武天皇の即位を記念する「祝典準備委員会」が発足し、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』でふれたように、それから5年後の昭和15年には、「内務省神社局」が「神祇院」に昇格して、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」の祝典が盛大に催されたのです。

(出典は「「ウィキペディア」)

皇紀の末尾数字を取ってゼロ戦と名付けられた戦闘機などによる真珠湾攻撃の大戦果などを踏まえて、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした堀場正夫は、昭和17年に出版したドストエフスキー論に『英雄と祭典』という題名つけましたが、それはこの著がそのような祝典的な雰囲気の中で著わされていたことをも物語っているでしょう。

評論家の橋川文三は『日本浪漫派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」(太字は原文では傍点)あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促し、「私が『耽美的パトリオティズム』と名づけたものの精神構造と、政治との関係が改めてとわれねばならない」と記しています。

それゆえ、ここではまず『若き日の詩人たちの肖像』の複雑な構造に迫る前に主人公の視線をとおしてこの時代の雰囲気を概観することで、この長編小説における「耽美的パトリオティズム」の批判の一端に迫りたいと思います(本稿では、敬称と注を略した)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

一、真珠湾の二つの光景

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃の成果を知った主人公が「ひそかにこういう大計画を練り、それを緻密に遂行し、かくてどんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と感じたと書かれています。

しかし、それに続いて「それは掛値なしにその通りであったが、そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなっていた」ことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と記した作者は、軍神に祭られても「親御さんたちゃ、切ないぞいね」という一緒に住むお婆さんの言葉も記しているのです。

しかも、年が明けて1月になり主人公の仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てきたことを記した著者は、「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」という主人公の思いを記していますが、この批判は文芸評論家の小林秀雄にも向けられていると思えます。

なぜならば、「文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」時に、「僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」と「三つの放送」で書いた小林は、元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃の航空写真を見た印象を「戦争と平和」というエッセーでこう記していたからです。

「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとした思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に眞つ白な水脈を曵く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作つて拡がつたのだ。そしてさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかつた筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去つた彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映つたに違ひない。」

そして、「冩眞は、次第に本当の意味を僕に打ち明ける様に見えた。何もかもはつきりしているのではないか」と書いた小林は、トルストイの『戦争と平和』にも言及しながら、「戰は好戰派といふ様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戰だから起こるのである」と結んでいたのです。

 ここには写真には写っていない特殊潜航艇に乗り込んで特攻した乗組員の心理も考察している『若き日の詩人たちの肖像』の主人公の視点と、海の底に沈んだ特殊潜航艇のことには触れずに航空写真を見ながら「爆撃機上の勇士達」の気分で戦争を描いた小林との違いが明確に出ていると思えます。(続く)

(2019年4月21日、改訂)

書評〔飛躍を恐れぬ闊達な「推論」の妙──「立憲主義」の孤塁を維持していく様相〕を読む

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

 拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)の書評が『図書新聞』4/13日号に掲載された。→http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/ … 

 評者は『溶解する文学研究 島崎藤村と〈学問史〉』(翰林書房、2016)などの著書がある日本近代文学研究者の中山弘明・徳島文理大学教授で、〈学問史〉という新視点から島崎藤村を照射する三部作の筆者だけに、島崎藤村についての深い造詣に支えられた若干辛口の真摯な書評であった。

 以下、その内容を簡単に紹介するとともに、出版を急いだために書き足りなかったことをこの機会に補記しておきたい。

     *   *   *

 まず、「積年の諌題、『罪と罰』が太い糸となっていることは事実だが、それといわば対極の徳富蘇峰の歴史観への注視が、横糸になっている点にも目を引く」という指摘は、著者の問題意識と危機意識を正確に射ている。

 また、次のような記述もなぜ今、『罪と罰』論が書かれねばならなかったについての説明ともなっていると感じた。

 〔この魯庵が捉えた「良心」観から、通説の通り、透谷と愛山・蘇峰の著名な「人生相渉論争」を俎上にのせると同時に、著者はユーゴーの『レ・ミゼラブル』の受容へと展開し、蘇峰の「忠孝」観念と、「教育勅語」の問題性を浮かび上がらせ〕、〔自由を奪われた「帝政ロシア」における「ウヴァーロフ通達」と「勅語」が共振し、その背後に現代の教育改悪をすかし見る手法を取る〕。

 明治の『文學界』や樋口一葉にも言及しつつ、〔木下尚江が、透谷の『罪と罰』受容を継承しながら、暗黒の明治社会を象徴する、大逆事件を現代に呼び戻す役割を果たし、いわゆる「立憲主義」の孤塁を維持していく様相が辿られていくわけである〕との指摘や、『罪と罰』と『破戒』の比較について、「はっとさせられる言及も多い」との評価に励まされた。

 ただ、『夜明け前』論に関連しては辛口の批判もあった。たとえば、昭和初期の日本浪漫派による透谷や藤村の顕彰に言及しながら、「『夜明け前』が書かれたのが抑圧と転向の時代であり、その一方で昭和維新が浮上していた事実はどこに消えてしまったのだろうか」という疑問は、痛切に胸に響いた。

 昭和初期には「透谷のリバイバルが現象として起こって」おり、「亀井勝一郎や中河與一ら日本浪漫派の人々は透谷や藤村を盛んに顕彰してやまなかった」ことについての考察の欠如などの指摘も、問題作「東方の門」などについての検討を省いていた拙著の構成の弱点を抉っている。

 それは〔同時代の小林秀雄の「『我が闘争』書評」への批判を通じて、『罪と罰』解釈の現代性と「立憲主義」の危機を唱える〕のはよいし、「貴重である」が、「小林批判と寺田透や、堀田善衞の意義を簡潔に繋げていくのは、やはり違和感がある」との感想とも深く関わる。

 実は、当初の構想では第6章では若き堀田善衞をも捉えていた日本浪漫派の審美的な「死の美学」についても、『若き日の詩人たちの肖像』の分析をとおして言及しようと考えていた。

 しかし、自伝的なこの長編小説の分析を進める中で、昭和初期を描いたこの作品が昭和60年代の日本の考察とも深く結びついていることに気付いて、構想の規模が大きくなり出版の時期も遅くなることから今回の拙著からは省いた。

 小林秀雄のランボオ訳の問題にふれつつ、〔堀田善衞が戦時中に書いた卒論で「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を論じていたことを考慮するならば、これらの記述は昭和三五年に発表された小林秀雄のエッセー「良心」や彼のドストエフスキー論を強く意識していた〕と思われると記していたので、ある程度は伝わったのではないかと考えていたからである。

 自分では説明したつもりでもやはり書き足りずに読者には伝わらなかったようなので、なるべく早くに『若き日の詩人たちの肖像』論を著すように努力したい。

 今回は司馬遼太郎に関しては「神国思想」の一貫した批判者という側面を強調したが、それでも司馬遼太郎の死後の1996年に勃発したいわゆる「司馬史観論争」に端を発すると思われる批判もあった。これについては、反論もあるので別な機会に論じることにしたい。

 なお、『ドストエーフスキイ広場』第28号に、拙稿「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」が掲載されているので、発行され次第、HPにもアップする。

 著者の問題意識に寄り添い、かつ専門的な知識を踏まえた知的刺激に富む書評と出版から2ヶ月足らずで出逢えたことは幸いであった。この場を借りて感謝の意を表したい。

*   *   *

 追記:5月18日に行われる例会で〔堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に〕という題目で発表することになりました。 リンク先を示しておきます。→第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

     (2019年4月8日、9日、加筆)

 

「維新」という幻想と裏切られた「革命」――小林秀雄のドストエフスキー観と『夜明け前』論

序に代えて――『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』を書き終えて

 ブルガリア・ドストエフスキー協会の主催による国際シンポジウムが昨年の10月23日から26日にかけて行われた。この年が長編『白痴』の刊行から一五〇年に当たる年であるため、『白痴』をテーマとした発表が多く行われ、黒澤映画《白痴》の「円卓会議」も行われた。その企画の打ち合わせや発表の準備のために、発行を急いでいた拙著の脱稿は大幅に遅れてしまった。

しかし、私のドストエフスキー論を確立する上でも重要なこの映画について再び考える機会が与えられたのは私にとって幸いだったのでいずれ論文として発表することにしたい。

 ここでは拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)執筆までの私の小林秀雄についての考察の歩みと今後の方向性を覚え書きの形で簡単に書いておきたい。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

一、小林秀雄の復権と「神話」への懐疑

 敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから戦時中の言動を厳しく追及された文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は、「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた。

 作家の坂口安吾も1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

 1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した小林は、徐々に評論家としての復権を果たし、「評論の神様」と称されるようになる。

 一九四九年生まれの私は、いわゆる「小林神話」が強い時期に青春を過ごし、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは私も一時期、強い影響を受けた。

 しかし、原作の文章と比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じるようになった。

 それゆえ、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と書いたフランス文学者の鹿島茂氏同じような感慨を私も強く抱いた。

二、方法の模索

 文壇だけでなく学問の世界にも強く根をはっていた小林秀雄のドストエフスキー論と正面から対峙するには、膨大な研究書や関連書がある小林秀雄を批判しうる有効な手法を模索せねばならず、予想以上の時間が掛かった。

 ようやくその糸口を見つけたと思えたのは、小林秀雄の『白痴』論とはまったく異なったムィシキン像が示されている黒澤映画《白痴》をとおして長編小説『白痴』を具体的に分析した拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を2011年に出版した後のことであった。

 すなわち、『罪と罰』と『白痴』の連続性を強調するために小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と書いていた。しかし、シベリアから帰還したことになると、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解する上で欠かせない、ムィシキンのスイスの村での体験――マリーのエピソードやムィシキンが衝撃を受けたギロチンによる死刑の場面もなくなってしまうのである。

 「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかしそれは、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

 一方、黒澤明は復員兵の亀田(ムィシキン)が死刑の悪夢を見て絶叫するという場面を1951年に公開した映画《白痴》の冒頭で描くことで、長編小説『白痴』のテーマを明確に示していたのである。

 福島第一原発事故後の2014年に出版した『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、長編小説『白痴』に対する彼らの解釈の違いばかりでなく、「第5福竜丸」事件の後で映画《生きものの記録》を撮った黒澤明監督と、終戦直後には原爆の問題を鋭く湯川秀樹に問い詰めていながら、その後は沈黙した小林との核エネルギー観の違いにも注意を払うことで、彼らの文明観の違いをも浮き彫りにした。

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三、「維新」という幻想――明治の文学者のドストエフスキー理解

 ただ、黒澤明は評論家ではなく、映像をとおして自分の考えを反映する映画監督であった。そのために、黒澤明の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー論を批判をするという方法では小林秀雄の問題点を指摘することはできても、言論活動である小林秀雄の評論をきちんと批判すること上ではあまり有効ではなかった。

 一方、2010年にはアメリカの圧力によって「開国」を迫られた幕府に対して、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」というイデオロギーを叫んでいた幕末の人々を美しく描いたNHKの大河ドラマ《龍馬伝》が放映され、2015年には小田村四郎・日本会議副会長の曽祖父で吉田松陰の妹・文の再婚相手である小田村伊之助(楫取素彦・かとりもとひこ)をクローズアップした大河ドラマ《花燃ゆ》が放映された。

 さらに、「明治維新」150年が近づくにつれて「日本会議」系の政治家や知識人が「明治維新」の意義を強調するようになった。そのことを夏目漱石の親族にあたる半藤一利は、漱石の「維新」観をとおしてきびしく批判していたが、それは間接的には小林秀雄の歴史認識をも批判するものであった。

→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

 それゆえ、私は拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』では、『罪と罰』を邦訳した内田魯庵や、明治時代に『罪と罰』のすぐれた評論「『罪と罰』の殺人罪を書いた北村透谷、そして、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村などをとおして、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を明らかにしようとした。

 その第一の理由は彼らの読みが深いためだが、さらに、「明治維新」が強調される現代の政治や社会の状況が、「神祇官」が設置された明治初期の藩閥政府による独裁政治や、「大東亜戦争」に突入する暗い昭和初期と似てきているからである。明治政府の宗教政策や文化政策の問題点を正確に把握していた北村透谷や島崎藤村などの視点と手法で『罪と罰』を詳しく読み解くことは、「古代復帰」を夢見て、武力による「維新」を強行した日本の近代化の問題点と現政権の危険性をも明らかにすることにもつながると考えた。

 拙著では小林秀雄の『罪と罰』論が本格的に考察されるのはようやく第6章にいたってからなので、迂遠な感じもするのではないかとの危惧もあったが、献本した方々からの反応は予想以上によかった。それは、幕末から明治初期に至る激動の時代に生き、平田篤胤没後の門人となって「古代復帰の夢想」を実現しようと奔走しながら夢に破れて狂死した自分の父を主人公のモデルにした島崎藤村の大作『夜明け前』を最初に考察したことがよかったのではないかと思える。

 実は、『夜明け前』の主人公の青山半蔵が「明治維新後」には「過ぐる年月の間の種々(さまざま)な苦い経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか(後略)」と考えるようになっていたとも島崎藤村は記していたのである(『夜明け前』第2部第13章第4節)。

 

 そして、明治の賛美者とされることの多い作家の司馬遼太郎も、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と続けていた(太字は引用者、『竜馬がゆく』文春文庫)。

 →https://twitter.com/stakaha5/status/907828420704395266

こうして、島崎藤村の作品に対する小林秀雄の評論をも参照することにより、「天皇機関説」事件によって明治に日本が獲得した「立憲主義」が崩壊する一方で、「弱肉強食」を是とするドイツのヒトラー政権との同盟が強化されていた昭和初期に評論家としてデビューした小林秀雄のドストエフスキー論には、幕末の「尊王攘夷」運動にも通じるような強いナショナリズムが秘められていることを明らかにできたのではないかと考えている。

そして、それは「政教一致」政策を行うことでキリスト教の弾圧を行ったばかりでなく、仏教に対する「廃仏毀釈」運動を行っていた明治の「維新」を高く評価している現在の政権の危険性をも示唆通じるだろう。

 →https://twitter.com/stakaha5/status/816241410017882112

 

四、小林秀雄の戦後の言論活動と堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』

 ただ、小林秀雄が戦後に評論家として復活する時期の言論活動についての考察まで含めると発行の時期が大幅に遅れるので今回は省いた。

 「評論の神様」として復権することになる小林秀雄の評論の詳しい検証は、稿を改めてドストエフスキーの『白夜』だけでなく、『罪と罰』や『白痴』にも言及しながら、昭和初期の日本を詳しく描くことにより、戦後に復権した岸政権との類似性とその危険視を鋭く指摘していた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』の考察をとおして行うことにしたい。

 最後に、拙著で考察した小林秀雄の文学解釈の特徴と危険性を箇条書きにしておく。

1,作品の人物体系や構造を軽視し、自分の主観でテキストを解釈する。

2,自分の主張にあわないテキストは「排除」し、それに対する批判は「無視」する。

3,不都合な記述は「改竄」、あるいは「隠蔽」する。

 これらの小林秀雄の評論の手法の特徴は、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていると思われる。

https://twitter.com/stakaha5/status/1100621472278536193

 (2019年3月11日、改訂)

 

鹿島茂著『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』を読む (1)―― 「教祖」から「神様」へ(縮小版)

ドーダの人、小林秀雄(朝日新聞出版)

一、「教祖」から「評論の神様」へ

敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は戦時中の言動を厳しく追及された。

小林とは親しかった作家の坂口安吾もその翌年に発表した「教祖の文学――小林秀雄論」で、小林を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判していた。

 ISBN4-903174-09-3_xl

しかし、座談会での追及に対して「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた小林は1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、そして黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した。

こうして、戦後にドストエフスキー論の執筆を再開した小林秀雄は、「団塊の世代」に属する鹿島茂氏が青春を送った「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で、大学の入学試験にはかならずと言っていいほど彼の文章が出題」されるようになっていたのである(13頁)。1980年には小林秀雄信者の教員が、「最も晦渋な(というよりも意味不明な)『様々なる意匠』」が出題して、「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』と迫っていた」。

 それゆえ、小林秀雄と同じフランス文学者の鹿島氏は、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と続けた。

 この意味で注目したいのは、鹿島氏が1987年に、ドストエフスキーを魅了したユゴーの大作『レ・ミゼラブル』を当時の木版画を掲載することで当時の社会情勢をも示しつつ、分かり易く詳しく解説した『「レ・ミゼラブル」百六景』(文藝春秋)を出版していたこtである。

「レ・ミゼラブル」百六景

その鹿島氏が2016年に出版した本書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(以下『ドーダの人、小林秀雄』と略す)をこれから少しずつ考察することにしたい。

 (2019年3月3日、書影を追加。3月10日、改訂)

「明治維新」150年と小林秀雄の『夜明け前』論

 『世界文学』の「時代と文学Ⅰ」特集号に、「明治維新」の問題を考察した標記のエッセイが掲載されました。

journal126(書影は『世界文学』126号、2017年)

以下にそのエッセイを転載します。

   *   *   *

2018年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出した安倍首相は、「これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から解き」放ったと「明治維新」を讃美していました。

  これに対して夏目漱石や司馬遼太郎についての造詣が深い作家の半藤一利は、夏目漱石の用語などを分析してこの言葉が使われだしたのは明治14年の政変の前年頃からであることを指摘し、「薩長政府は、自分たちを正当化するために」、「『維新』の美名」を使いだしたのではないかと指摘していました。(→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

  実際、夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙で島崎藤村の長編小説『破戒』を、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞しましたが、『罪と罰』からの強い影響が指摘されているこの長編小説では、「忠孝」についての演説を行う一方で、明治維新で唱えられた「四民平等」に反して被差別部落民の主人公に対する「差別」的な発言を繰り返していた校長や教員、政治家たちの言動が詳しく描き出されているのです。

 こうして藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、明治4年に出された「解放令」以降も現代のヘイトスピーチを連想させるような激しい言葉などによる差別が実質的には続いていたことを明らかにしていたのです。

 さらに藤村は、「治安維持法」の発布から言論の自由が厳しく制限されるようになる時期には、武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった頃に平田派の国学者となった自分の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を雑誌に連載していました。

 この長編小説で主人公の気持ちだけでなく「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」という寿平次などの批判的な言葉も記した島崎藤村は、新政府の政策に絶望して「いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか」という半蔵の深い幻滅を描いていたのです。

 こうして、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて「異教」と見なしたキリスト教だけでなく仏教をも弾圧して「廃仏毀釈」運動などを行っていた主人公は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死します。

 自分の信じる宗教を絶対化して他者の信じる仏像などを破壊する廃仏毀釈を強引に行い、親類からも見放されて狂人として亡くなった半蔵の孤独な姿の描写は、シベリアの流刑地でも孤立していた『罪と罰』のラスコーリニコフの姿をも連想させるような深みがあります。

 一方、文芸評論家・小林秀雄は明治時代に成立していた「立憲主義」が「天皇機関説」論争で放棄されることになる前年の1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

 そして、「天皇機関説」事件の翌年に行われた『文学界』合評会の「後記」では、古代復帰を夢見て破滅した主人公の気持ちに焦点をあてて、「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配してゐるといふ事は言へる」と『夜明け前』を解釈していたのです。

 長編小説に記された登場人物の体系を軽視して、きわめて情念的で主観的に作品を解釈するこのような小林の批評方法は、「信ずることと考えること」と題して行われた1974年の講演会の後の学生との対話でより明確に表れています。

 そこで「大衆小説的歴史観」と「考古学的歴史観」を批判した小林秀雄は、「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」と語って平田派的な歴史観を主張していたのです(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年、127頁)。

 注目したいのは、今年2月に雑誌『正論』に掲載された評論で、「感服したのは、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢(あふ)れている事」だと記した小林の『夜明け前』論を引用した評論家の新保祐司が、小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」には「紛れもなく『日本』があると感じられる」と賛美して、「戦後民主主義」の風潮から抜け出す必要性を主張していました。

 しかし、「明治維新」を賛美した安倍政権下の日本では、韓国や中国の人々にばかりでなく、福島の被爆者や沖縄県民や意見を異にする人々に対する激しいヘイトスピーチが再び横行するようになっているのです。

 この意味で注目したいのは、2・26事件の前日に上京した若者を主人公とし、「暗黒の30年」と呼ばれる時期に書かれたドストエフスキーの『白夜』の冒頭の文章が第1部の題辞として用いられている堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が、政府主催による「明治百年記念式典」が盛大に行われた1968年に発行されていたことです。

 登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせていました。

 小林秀雄が「『白痴』についてⅠ」で「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを批判していたことに注目するならば、「立憲主義」を敵視する復古主義的な傾向が再び強くなり始めていた年に刊行された『若き日の詩人たちの肖像』は、小林秀雄の『夜明け前』観に対する厳しい批判をも秘めていると思われます。

(本稿では敬称は略した。『世界文学』128号、2018年、78~79頁)

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

(2019年2月24日、リンク先を追加)

教育制度と「支配と服従」の心理――『破戒』から『夜明け前』へ

日露戦争の最中に詩「君死にたまふこと勿(なか)れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)」を書いた与謝野晶子が、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したとして激しく非難されるという出来事が起きたのは明治三七年のことでした。

このような日本の状況を北村透谷の評論をとおして深く観察していたのが、日露戦争直後の明治三九(一九〇六)年に『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』を自費出版する島崎藤村でした。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

この長編小説において藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、現代の「ヘイトスピーチ」を思わすような「憎悪表現」による激しい「差別」をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに反して、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従って生きることとの葛藤を「良心」に注目しながら詳しく描いたのです。そして藤村は、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を、「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

夏目漱石が『破戒』を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と森田草平宛の手紙で激賞していたことを想起するならば、憲法が発布された頃に青年期を迎えていたこれらの作家は、第一回帝国議会の開会直前に渙発された「教育勅語」の問題を深く理解していたように思えます。

しかも、『三四郎』の連載から二年後の明治四三年には「大逆事件」で幸徳秋水などが死刑となりましたが、この時に修善寺で大病を患っていた漱石は、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて偽りの死刑宣告を受け、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記したのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

この時、ドストエフスキーは皇帝による恩赦という形でシベリア流刑となっていたのですが、「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けた漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに総合雑誌『時代』を創刊しましたが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度について、さらに社会ダーウィニズムなどの新しい思想の真摯な考察の上に成立していたのです。

『罪と罰』を邦訳した内田魯庵も、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していたこの長編小説との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエフスキーへの思いを大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています。

「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

そのことを想起するならば、漱石の記述には「大逆事件」をきっかけに日本で言論の自由が奪われて、「憲法」がなく皇帝による専制政治が行われていた帝政ロシアと同じような状況になることへの日本への強い危惧が示唆されていると言えるでしょう。

 実際、「治安維持法」の改正によって日本では昭和初期になると、共産主義者だけでなく「立憲主義」的な価値観を持つ知識人も逮捕されるようになるのですが、その時期に藤村が連載したのが父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いた歴史小説『夜明け前』でした。

武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった時期に、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて、キリスト教や仏教を弾圧した平田派の国学者となった島崎正樹は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化して仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという半蔵の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの苦悩と犯行が連想されます。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

極端な「国粋主義」との関連で注目したいのは、ドイツ民族を絶対化したナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において、自らを「非凡人」と見なしたヒトラーが「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことに注意を促すとともに、「権威主義的な価値観」に盲従する大衆の心理にも迫っていたことです(日高六郎訳、東京創元社、1985)。

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(『自由からの逃走』、図版は英語版「ウィキペディア」より)

すなわち、心理学の概念を用いながら人間の「服従と支配」のメカニズムを分析したフロムによれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです。

しかも、第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、ヒトラーがなぜ権力を握りえたのかを明らかにしたフロムは、自分の分析の例証としてドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していました。

注目したいのは、『罪と罰』においてドストエフスキーがラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定させているばかりでなく(三・五)、「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)とも語らせていたことです。

こうして、ラスコーリニコフに自分の「権力志向」と大衆の「服従志向」にも言及させることで「権威主義的な価値観」の危険性を見事に表現していたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」をとおして「自分」や「自民族」を「非凡」と見なして「絶対化」することが大規模な戦争を引き起こすことをすでに示唆していたのです。

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江川卓訳『罪と罰』上中下(岩波文庫)

一方、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の昭和九年に、内田魯庵や北村透谷とは正反対の危機から眼をそらすような『罪と罰』論を展開したのが、文芸評論家の小林秀雄でした。彼は司法取締官ポルフィーリイや弁護士ルージンなどとラスコーリニコフとの激しい議論についての考察を省くことにより、「超人主義の破滅」や「キリスト教的愛への復帰」などの当時の一般的なラスコーリニコフ解釈では『罪と罰』には「謎」が残ると断言しました。(『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻)。

こうして、自分の主張に合わないテキストの記述は無視しつつ時流に迎合して「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」との結論を記した小林秀雄は、自分の主張とは合わない解釈をする者に対しては、「権威主義的な」態度で「不注意な読者」と決めつけていたのです。

このような小林のドストエフスキー論の問題点は、北村透谷の『罪と罰』論なども踏まえつつ、小林の『破戒』論や『夜明け前』論を考察することによりいっそう鮮明に浮かび上がらせることができるでしょう。

以下、本書では「写生」や「比較」という方法を重視した明治の文学者たち評論や小説だけでなく彼らの生き方や、明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、『罪と罰』の受容を分析することにします。

そのことにより日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期に書かれた小林秀雄のドストエフスキー論の手法が、現代の日本で横行している歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることも明らかにできると思います。

(注はここでは省き、旧かなと旧字は、現代の表記に改めた。2018年10月16日、改題と改訂)

 一、「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 

新著の発行に向けて

 一ヵ月ほど前に目次案をアップしましたが、その後、何度も読み返す中でまだテーマが絞り切れていないことが判明しました。各章に大幅に手を入れた改訂版をアップし、旧版の「目次案」を廃棄しました。

 発行の時期は少し遅れるかも知れませんが、現在、日本が直面している困難な問題がより明確になったのではないかと思えます。専門外の方や若者にも分かり易く説得力のある本にしたいと考えていますので、もう少しお待ち下さい。(2018年6月22日)

 

目次案旧版。新版へのリンク先は本稿の文末参照)

〔青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解く〕

 

はじめに 

危機の時代と文学

→ 一、「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 二、教育制度と「支配と服従」の心理――『破戒』から『夜明け前』へ

 

序章 一九世紀のグローバリズムと『罪と罰』

一、人間の考察と「方法としての文学」

二、帝政ロシアの言論統制と『貧しき人々』の方法

三、「大改革」の時代と法制度の整備

四、「正義の戦争」と「正義の犯罪」

 

第一章 「古代への復帰」と「維新」という幻想――『夜明け前』を読み直す

はじめに 黒船来航の「うわさ」と「写生」という方法

一、幕末の「山林事件」と「古代復帰の夢想」

二、幕末の「神国思想」と「天誅」という名のテロ

三、裏切られた「革命」――「神武創業への復帰」と明治の「山林事件」

四、新政府の悪政と「国会開設」運動

五、「復古神道」の衰退と半蔵の狂死

 

第二章 「『罪と罰』の殺人罪」と「教育と宗教」論争――徳富蘇峰の影

はじめに 徳富蘇峰の『国民之友』と『文学界』

一、『国民之友』とドストエフスキーの雑誌『時代』

二、北村透谷のトルストイ観と「『罪と罰』の殺人罪」

三、「教育勅語」の渙発と評論「人生に相渉るとは何の謂ぞ」

四、徳富蘇峰の『吉田松陰』と透谷の「忠君愛国」批判

五、透谷の死とその反響

 

第三章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化――「虚構」という手法

はじめに 『文学界』と『国民之友』の廃刊――「立憲主義」の危機

一、民友社の透谷批判と『文学界』

二、樋口一葉の作品における女性への視線と『罪と罰』

三、正岡子規の文学観と島崎藤村

四、日露戦争の時代と『破戒』

 

第四章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く――――教育制度と「差別」の考察

はじめに 『罪と罰』の構造と『破戒』の人物体系

一、「差別」の正当化と「良心」の問題――猪子蓮太郎とミリエル司教

二、郡視学と校長の教育観と「忠孝」についての演説

三、「功名を夢見る心」と「実に実に情ないという心地」――父親の価値観との対立

四、ラズミーヒンの働きと土屋銀之助の役割

五、二つの夢と蓮太郎の暗殺

六、『破戒』の結末と検閲の問題

            

第五章 「立憲主義」の崩壊――『罪と罰』の新解釈と「神国思想」

はじめに 「勝利の悲哀」

一、島崎藤村の『春』から夏目漱石の『三四郎』へ

二、森鷗外の『青年』と日露戦争後の「憲法」論争

三、小林秀雄の『破戒』論と『罪と罰』論

四、よみがえる「神国思想」と小林秀雄の『夜明け前』論

 

あとがきに代えて――「憲法」の危機と小林秀雄の『夜明け前』論

→ 一、小林秀雄の平田篤胤観と堀田善衛

→ 二、「神国思想」と司馬遼太郎の「別国」観

      (2018年7月14日、7月31日、8月18日、9月2日更新)

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

先月の3月27日に行われた国会で「森友問題」に関して佐川宣寿・前国税庁長官の「証人喚問」が行われました。 喚問に先立って「良心に従って真実を述べ何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います (日付・氏名)」との宣誓書を朗読したにもかかわらず、佐川前長官は証言拒否を繰り返し、偽証の疑いのある発言をしていました。

その時のテレビ中継を見ながら思ったのは、戦前の価値観への回帰を目指す「日本会議」に支えられた安倍政権のもとで立身出世を果たした高級官僚からは、日本国憲法の第15条には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記されているにもかかわらず、「良心」についての理解が感じられないということでした。

なぜならば、日本国憲法の第19条には、「人間は、理性と良心とを授けられて」おり、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とされ、日本国憲法76条3項には、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められているからです。

そのことを考慮するならば、憲法にも記されている「良心」という用語を用いて、「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」と述べた宣誓はきわめて重たいはずなのですが、佐川前長官はその重みを感じていないのです。 それゆえ、このような高級官僚に対しては、宣誓の文言を「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」の代わりに、「日本人としての尊厳に賭けて真実を述べ何事も隠さず」としなければ本当の証言は出ないだろうとすら感じました。

ただ、「良心」についての理解の欠如は彼らだけに留まらず、学校などで「良心」の詳しい説明がなされていないので、戦後の日本でも「良心」は日本語としてはそれほど定着しておらず、多くの人にとっては漠然としたイメージしか浮かばないでしょう。 「良心」という単語やその理論は、法哲学にもかかわるので、少し難しいかもしれませんが、ここではまず、なぜ「良心」にそのような重要な意義が与えられたのかを、主に吉沢伝三郎氏の記述によりながら、その歴史的な経過を簡単に振り返っておきましょう。

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すでにこの単語は、キリスト教の初期にもパウロなどによって多く用いられ大きな役割を演じましたが、近世に至るとキリスト教会では「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきました。しかし、教皇に神の代理人としての地位が与えられている以上、それを批判することは許されませんでした。

このような中で教会の腐敗を批判したプロテスタントにおいては「知」の働きを持つ「良心」に、神の代理人である「教皇」であろうとも、不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が与えられたのです。

皇帝に絶対的な権力が与えられていた近代のロシアにおいても、皇帝の絶対的な権力にも対抗できるような「良心」が重要視されたのでした。そして、自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「問題はわれわれがそれら(義務や良心――引用者)をどう理解するかだ」という根源的な問いが記されています。

「良心とはなにか」という問いは、ラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの激論の中心をなしており、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かどうかが主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証され、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」は、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

*   *

一方、文芸評論家・小林秀雄は、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて主観的に読み解いて、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と記し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

この評論が書かれる数年前の一九二七年には、小説『河童』で検閲を厳しく批判した芥川龍之介が自殺するなど治安維持法が施行されて言論の自由が厳しく制限されており、評論の一年後には天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が骨抜きになります。

 小林秀雄が敗戦後の1948年11月に書いた「『罪と罰』についてⅡ」では、「事件の渦中にあつて、ラスコオリニコフが夢を見る場面が三つも出て来るが、さういふ夢の場面を必要としたことについては、作者に深い仔細があつたに相違ない」と記されているように、『罪と罰』の夢についての言及があります。 しかし、戦時中の自分の発言については「自分は黙って事件に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」と記していた小林秀雄の戦後の『罪と罰』論でも、中核的なテーマである「良心」の考察には深まりが見られないのです。

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戦後に小林秀雄が「評論の神様」とまで称賛され、教科書でも彼の文章が引用されていることを考えるならば、そのような小林秀雄の「良心」観は、安倍政権によって出世した政治家たちや高級官僚たちの「良心」理解にも反映しているように思われます。

一方、長編小説『破戒』を日露戦争後に自費出版していた島崎藤村は一九二五年に発行した『春を待ちつつ』に収めたエッセーで、日本だけでなくロシアにおいてもドストエフスキーの評価がまちまちであることを指摘したあとでこう記していました。

「思うに、ドストイエフスキイは憐みに終始した人であったろう。あれほど人間を憐んだ人も少なかろう。その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう。」

この言葉からは「明治憲法」の公布に到る時期を体験していた島崎藤村が『罪と罰』における「良心」の問題を深く理解していたことが感じられます。

現在の日本における政治家や高級官僚の「道徳」的な腐敗を直視するためには、北村透谷や夏目漱石、正岡子規など明治の文学者たちの視点で、「立憲主義」が放棄される前年の1934年に書かれて現代にも強い影響力を保っている小林秀雄の『罪と罰』論と「良心観」の問題点を厳しく問い直す必要があると思えます。

(2018年4月27日加筆。重要箇所を太字で表記,2019年3月6日、書影を追加)  

小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

上海事変が勃発した一九三二(昭和七)年六月に書いた評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書いた文芸評論家の小林秀雄は、その一方でドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記しました〔『小林秀雄全集』〕。

しかし、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林は、ラスコーリニコフの家族とマルメラードフの二つの家族の関係には注意を払わずに主観的に読み解き、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」との解釈を記したのです。

そして、小林は新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、『罪と罰』では「マルメラードフと云う貴族の成れの果ての遺族が」「遂には乞食とまで成り下がる」という筋が、ラスコーリニコフの「良心」をめぐる筋と組み合わされていると指摘していた内田魯庵の『罪と罰』理解からは大きく後退しているように思えます。

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(書影は「アマゾン」より) (島崎藤村、図版は「ウィキペディア」より)

 この意味で注目したいのは、天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が崩壊することになる一九三五年に書いた「私小説論」で、ルソーだけでなくジイドやプルーストなどにも言及しながら「彼等の私小説の主人公などがどの様に己の実生活的意義を疑つてゐるにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである」と書いた小林が、『罪と罰』の強い影響が指摘されていた島崎藤村の長編小説『破戒』をこう批判していたことです。

 

「藤村の『破戒』における革命も、秋声の『あらくれ』における爛熟も、主観的にはどのようなものだったにせよ、技法上の革命であり爛熟であったと形容するのが正しいのだ。私小説がいわゆる心境小説に通ずるゆえんもそこにある」。

日本の自然主義作家における「充分に社会化した『私』」の欠如を小林秀雄が指摘していることに注目するならば、長編小説『破戒』を「自然や社会との確然たる対決」を避けた作品であると見なしていたように見えます。

たしかに、長編小説『破戒』は差別されていた主人公の丑松が生徒に謝罪をしてアメリカに去るという形で終わります。しかし、そのように「社会との対決」を避けたように見える悲劇的な結末を描くことで、藤村は差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出し得ているのです。

そのような長編小説『破戒』の方法は、厳しい検閲を強く意識しながら主人公に道化的な性格を与えることで、笑いと涙をとおして権力者の問題を浮き堀にした『貧しき人々』などドストエフスキーの初期作品の方法をも想起させます。

さらに、小林秀雄は「私小説論」で日本の自然主義文学を批判する一方で、「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった」と書いていましたが、この記述からは独裁化した「薩長藩閥政府」との厳しい闘いをとおして明治時代に獲得した「立憲主義」の意義が浮かび上がってはこないのです。

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(創刊号の表紙。1893年1月から1898年1月まで発行。図版は「ウィキペディア」より)

これに対して島崎藤村は「自由民権運動」と深く関わり、『国民之友』の山路愛山や徳富蘇峰とも激しい論争を行った『文学界』の精神的なリーダー・北村透谷についてこう記していました。

「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」。

実は、キリスト教の伝道者でもあった友人の山路愛山を「反動」と決めつけた透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」が『文学界』の第二号に掲載されたのは、「『罪と罰』の殺人罪」が『女学雑誌』に掲載された翌月のことだったのです。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名(なづ)くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡(ひろ)めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」。

愛山の頼山陽論を「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と名付けた透谷の激しさには驚かされますが、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えたこの史論に、現代風にいえば戦争を煽る危険なイデオロギーを透谷が見ていたためだと思われます。

なぜならば、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏は、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたからです。

つまり、北村透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」は「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と深い内的な関係を有していたのです。

このように見てくる時、「教育勅語」の「忠孝」の理念を賛美する講演を行う一方で自分たちの利益のために、維新で達成されたはずの「四民平等」の理念を裏切り、差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出していた長編小説『破戒』が、透谷の理念をも受け継いでいることも強く感じられます。

その長編小説『破戒』を弟子の森田草平に宛てた手紙で、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞していたのが夏目漱石でしたが、小林秀雄は「私小説論」で「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである」と書いていました。

夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、明治の文学者たちによる『罪と罰』の受容を分析することによって、私たちはこの長編小説の現代的な意義にも迫ることができるでしょう。

(2018年4月24日、改訂。5月4日、改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

 主な引用文献

島崎藤村『破戒』新潮文庫。

『小林秀雄全集』新潮社。    

『若き日の詩人たちの肖像』と『夜明け前』――平田篤胤の思想をめぐって 

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』では「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について」喋り続けるアリョーシャと呼ばれる若者が描かれていますが、「ガダルカナルでは陸軍は殲滅的な打撃をうけているらしい」ことが伝わってくるようになると、その彼は「突然正座して膝に手を置き、眼と額をぎらぎらと輝かして」次のように語ります〔下・305~306〕。

「だからキリストがだな、キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしましますんだ」。

そこではどうしてそのような結論になるのかは明かされていませんが、「いずれその日本のために戦って死なねばならぬとなれば、国学というものにはその日本の絶対によい所以(ゆえん)が書いてあるのであろう」と思い、「平田篤胤全集にとりかかった」主人公は、アリョーシャの言葉の論理的な背景を知ることになります〔下・320~323〕。

すなわち、そこでは「義の為にして窘難(きんなん)を被る者は、これ即ち真福にて、その已に天国を得て処死せざるとあるなり。これ神道の奥妙、豈人意を以て測度すべけむや」と書かれていたのですが、それは「幸福(さいわい)なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり」という「マタイ伝第五章にあるイエス・キリストの山上の垂訓」のほとんど引き写しだったからです。

それでも、「平田篤胤は、本当に前人未踏の地で苦闘をしているのである。天地創造の問題を神学的に処理するために彼は苦しみぬいているのである」と評価しようとした主人公は、アリョーシャの論理をこう説明しています。

「キリスト教や西洋天文学までを援用して儒仏を排するというところから発し、アダムもエヴァもわれらの古伝の訛りだということになれば、つづけて世界も宇宙も、つまりは八紘はわが国の天之御中主神の創造になるものであり、従って八紘はわが国の一宇であって、その天之御中主神が天皇陛下の御先祖様であるということになると、それはまったくアリョーシャの言ったように、天皇はキリストを含んで、という次第に、たしかになる。」

しかし、その後で主人公は「この洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである。」と続けていました。

一方、文芸評論家の小林秀雄は1942年7月に行われた座談会「近代の超克」において、「近代人が近代に克つのは近代によってである」として欧米との戦争を評価していましたが(河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和54年)、長編小説の主人公はこの座談会を想起しながら、「とにかく近代の超克もなにもあったものではなかった。近代を超克するというのなら、まず平田篤胤あたりから超克してかからなければならぬだろうと思う」と書いています。

しかも、登場人物に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田氏は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせています。

この言葉は、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末について、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と1934年に書いた「『白痴』についてⅠ」で解釈していた小林秀雄のドストエフスキー観の厳しい批判ともなっているでしょう。

そして、この長編小説で堀田善衛氏は主人公の心境を次のように描いているのです。「平田篤胤の研究は、男を本当にがっかりさせてしまった。何をするのもいやになってしまった。日本精神だとか、国学だとか、あるいはまた皇道ということばが印刷物に矢鱈に沢山出てくる。」(下、327)。

興味深いのは、このような厳しい批判が長編小説『竜馬がゆく』において、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記した作家・司馬遼太郎の指摘と重なることです。

その司馬は『この国のかたち』の第五巻で「篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである」と指摘し、「創造の機能には、産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」と説明した後で、平田篤胤の言説が庄屋など「富める苗字(みょうじ)帯刀層にあたえた」影響を次のように記していました。

「平田国学によって幕藩体制のなかではじめて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである」(太字は引用者)。

「昭和初期」を「別国」あるいは、「異胎」の時代と激しい言葉で呼んでいた司馬氏がここでも「別国」という独特の用語を用いていることは、昭和の「別国」と平田篤胤によってもたらされた「別国」との連続性を示唆していると思われます。

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

このような昭和初期の重苦しい時代に島崎藤村が描いた長編小説が、「黒船」の到来に危機感を煽られて古代を理想視した平田派の学問を学び、草莽の一人として活躍しながら明治維新の達成後には新政府に裏切られて絶望し、ついに発狂して亡くなった自分の父・島崎正樹(1831~86)を主人公のモデルとした『夜明け前』でした。

この長編小説は芥川龍之介が日本の検閲を厳しく批判した小説『河童』を書いたあとで、「ぼんやりした不安」を理由に自殺した2年後の昭和4年から連載が始まり昭和10年に完結しましたが、その年にはそれまで国家公認の憲法学説であった東大教授・美濃部達吉の天皇機関説が「国体に反する」との理由で右翼や軍部の攻撃を受けて、著者は公職を追われ、著書は発禁となるという事件が起きていました。

それゆえ、研究者の相馬正一は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら」島崎藤村が、「『夜明け前』の執筆と取り組んでいた」ことの意義を強調しています(『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年)。

実際、天皇機関説事件で「立憲主義」が否定された日本では、明治5年3月に廃止されて内務省神社局となっていた神祇省が皇紀2600年を祝った昭和15年に内務省の「外局神祇院に昇格」して、「国家神道は名実ともに絶頂期」を迎えました。

皇紀2600年

(1940年の紀元2600年記念式典会場、出典は「ウィキペディア」)

しかし、それは神武東征の神話を信じた日本が、「皇軍無敵」を唱えて無謀な太平洋戦争へと突入することを意味していました。

戦況が苦しくなると神風を信じて特攻隊をも編制してまでも戦争を続けた日本は、広島・長崎に原爆が落とされたあとでようやくポツダム宣言を受け入れたのです。

*   *

注目したいのは、司馬遼太郎や宮崎駿監督と行った鼎談で、堀田善衛が「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていたことです(『時代の風音』朝日文庫、1997年、150頁)。

実際、『夜明け前』には「新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた」などという形で「この国」という表現が度々出てきます。

このように見てくるとき、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの「昭和初期」の重苦しい日々を、若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出した堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)は、馬篭宿の庄屋であり、「篤胤没後の門人」でもあった青山半蔵を主人公とした島崎藤村の『夜明け前』を強く意識して書かれていたといっても過言ではないでしょう。

堀田善衛、時代の風音、アマゾン(書影は「アマゾン」より)