高橋誠一郎 公式ホームページ

11月

〈大河ドラマ《坂の上の雲》から《花燃ゆ》へ――改竄された長編小説『坂の上の雲』Ⅱ〉

はじめに

太平洋戦争における「特攻」につながる「自殺戦術」の問題点と「大和魂」の絶対化の危険性を鋭く指摘した長編小説『坂の上の雲』と子規や漱石の作品との関係については、昨日、拙著の該当部分(第5章第4節)をアップしました。

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』第5章より、第4節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉

しかし、「政治的・時代的な意図」によってこの長編小説を解釈した大河ドラマ《坂の上の雲》が三年間にわたって放映されたことで、著者の司馬遼太郎だけでなく正岡子規や夏目漱石への誤解も広がっているようです。

『坂の上の雲』を「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品」であると作者の司馬が記していた(『「昭和」という国家』、NHK出版、一九九八年)作品を、大河ドラマとして放映したことの問題については、既にブログ記事で論じていました。

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

それを書いた時点では私がまだ俳人・正岡子規にあまり詳しくなかったために、漱石と子規の妹律の発言をめぐる問題点にはふれていませんでした。ツイッターでは大河ドラマ《坂の上の雲》の最終回で描かれた創作されたエピソードについて考察しましたが、字数の関係で抜かした箇所などがありましたので、今回はその箇所や子規の新体詩や島崎藤村との関係、さらに新聞『日本』にトルストイの『復活』が載っていたことなどを補った追加版をアップします。

*   *   *

ヤフーの「知恵袋」というネット上の質問コーナーには、2012年2月に「司馬遼太郎と夏目漱石」という題で次のような質問が載っていました。

「昨年NHKでやっていた『坂の上の雲』の最終回で、夏目漱石役の人が『大和魂』を茶化すような発言をして正岡子規の妹役に諌められ、『すみません』といって謝っていたのですが、あそこのところは原作にもあるんでしょうか?どのような意図が込められているんでしょうか?

夏目漱石といえば近代日本の批判者というイメージですが、『坂の上の雲』や一般に司馬遼太郎その人にとって、漱石はどういう位置づけというか、どういう存在だったのでしょうか。」

この質問に対するベストアンサーには次のような回答が選ばれていました。

「確か原作にはなかったと思います。漱石はその著書『こころ』で、明治天皇の崩御と乃木将軍の殉死を悼み、『明治という時代が終わった。』と登場人物の『先生』に言わせていたと思います。  確か「坊ちゃん」だったと思いますが(引用者註――『三四郎』)、日露戦争後の日本について「日本は滅びるね。」と登場人物に言わせています。

そこら辺の機微をNHKが創作したものだと推測します。『坂の上の雲』では、漱石は子規のベストフレンド(文学的にも)という位置づけだったように思います。」

*   *   *

回答者の「確か原作にはなかったと思います」という指摘は正確なのですが、「夏目漱石役の人が『大和魂』を茶化すような発言をして正岡子規の妹役に諌められ、『すみません』といって謝っていた」というシーンについて回答者は、「NHKが創作した」と解釈することは、子規への誤解を広めることになるでしょう。

この場面は「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした」という文章で始まる新体詩を主人公の苦沙弥先生が朗読するという『吾輩は猫である』の場面を受けて創作されていたと思えます。

しかし、漱石が主人公にこのような新体詩を読ませたのは、盟友・子規が「大和魂」を絶対化することの危険性を記していたことを思い起こしていたためだと思えます。

俳人・子規は、日清戦争に従軍した際に創作した「金州城」と題された新体詩で、杜甫の詩を下敷きに「わがすめらぎの春四月、/金州城に来て見れば、/いくさのあとの家荒れて、/杏の花ぞさかりなる。」と詠んでいました。さらに子規は「髑髏」という新体詩では「三崎の山を打ち越えて/いくさの跡をとめくれば、此処も彼処も紫に/菫花咲く野のされこうべ。」と詠んでいたのです。

評論家の末延芳晴氏が『正岡子規、従軍す』(平凡社、二〇一〇年)で指摘しているように、子規の従軍新体詩が「反戦詩」へとつながる可能性さえあったのです。

新聞記者としても活躍していた子規は、事実を直視する「写生」の大切さを訴え、政府の言論弾圧も批判していたことだけでなく、後に『破戒』を書くことになる島崎藤村との対談で話題となっていたように短編『花枕』などの小説を書き、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の部分訳をも試みていました。

日露戦争の最中に新聞『日本』がトルストイの反戦的な小説『復活』を内田魯庵の訳で連載していたことも考慮するならば(拙著『新聞への思い』、191~192頁)、子規がもし健康で長生きをしたら漱石にも劣らない長編小説を書いていたかもしれないとさえ私は考えています。

なお、回答者は「漱石はその著書『こころ』で、明治天皇の崩御と乃木将軍の殉死を悼み、『明治という時代が終わった。』と登場人物の『先生』に言わせていたと思います」とも記していました。

夏目漱石の乃木観の問題は、乃木大将の殉死をテーマとした司馬遼太郎の『殉死』でも記されていますので、この問題については現在、執筆中の『絶望との対峙――憲法の発布から「鬼胎」の時代へ』(仮題)で詳しく考察したいと考えています。

*   *   *

NHKは大河ドラマ《坂の上の雲》を三年間にわたって放映しばかりでなく、その間には政商・岩崎弥太郎を語り手として幕末の志士・坂本竜馬の波乱の生涯を描いた《龍馬伝》も放映していました。

うろ覚えな記憶ですがこの大河ドラマの脚本家は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』から強い影響を受けたことに感謝しつつ、それを踏まえて新しい『龍馬伝』を書きたいとの心意気を語っていました。

しかし、この大河ドラマでは、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」を叫んでいた幕末の「過激派」の人々が美しく描き出されており、結果としては『竜馬がゆく』で描かれた「思想家」としての竜馬像を否定するような作品になっていたと言わねばなりません。

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

さらに2015年には吉田松陰の妹・文を主人公とした大河ドラマ《花燃ゆ》が放映されましたが、文が再婚した相手の小田村伊之助こそは、山崎氏雅弘が指摘しているように「日本を蝕(むしば)む『憲法三原則』国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」というタイトルの記事を寄稿していた小田村四郎・日本会議副会長の曽祖父だったのです(『日本会議 戦前回帰への情念』)。

このように見てくる時、莫大な予算をかけて製作されているNHKの大河ドラマ大河ドラマ《坂の上の雲》、《龍馬伝》、《花燃ゆ》などが安倍自民党のイデオロギーの宣伝となっていることが分かります。

「日本会議」の憲法観と日本と帝政ロシアの「教育勅語」

本来ならば、自民党の広報が製作すべきこれらの番組の製作費が、国民からなかば強制的に徴収されている視聴料によってまかなわれていることはきわめて問題であり、これから国会などでも追究されるべきだと思います。

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』第5章より、第4節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉

『坂の上の雲』を戦争賛美の小説とした「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」など論客による解釈が広まったために、正岡子規や司馬遼太郎への誤解も広がっているようです。

しかし、私は『坂の上の雲』を太平洋戦争における「特攻」につながる「自殺戦術」の問題点と「大和魂」の絶対化の危険性を鋭く指摘した作品であり、そのような視点を司馬は子規と漱石から受け継いでいると考えています。

その理由を説明した箇所を拙著より引用しておきます。

第4節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉より

司馬氏は「貧乏で世界常識に欠けた国の陸軍が、銃剣突撃の思想で攻めよう」としたために、「おもわぬ屍山血河(しざんけつが)の惨状を招くことになった」南山の激戦での攻撃を次のように描いていました(下線引用者、三・「陸軍」)。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密(ちみつ)な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも日本軍は、勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる。入ると、まるで人肉をミキサーにでかけたようにこなごなにされてしまう」。

*   *

ここで司馬氏は、「虫のように殺されてしまう」兵士への深い哀悼の念を記していましたが、実は夏目漱石も日露戦争直後の一九〇六年一月に発表した短編小説『趣味の遺伝』では、旅順での苛酷な戦闘で亡くなった友人の無念さに思いを馳せてこう描いていました*29。

「狙いを定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬(またた)く間に彼等を射殺した。殺された者が這い上がれる筈がない。石を置いた沢庵(たくあん)の如く積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横はる者に、向へ上がれと望むのは、望むものヽ無理である」。

しかも、この作品の冒頭近くで軍の凱旋を祝す行列に新橋駅で出会った主人公が、「大和魂を鋳固めた製作品」のような兵士たちの中に、「亡友浩さんとよく似た二十八九の軍曹」を見かける場面を描いていた漱石は、「沢庵の如く積み重なって」死んでいる友人への思いを、「日露の講和が成就して乃木大将が目出度(めでた)く凱旋しても上がる事は出来ん」と記していたのです(下線引用者)。

このように見てくるとき、突撃の場面が何度も詳細に描かれているのは、「国家」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや「心意気」を描くためではなく、ひとびとの平等や自由のために「国民国家」の樹立を目指した坂本竜馬たち幕末の志士たちの熱い思いと、長い歴史を経てようやく「自立」した「国民」は、いつ命令に従うだけの従順な「臣民」に堕してしまったのだろうかという重たい問いを司馬氏が漱石から受けついでいたためではないかと思われます。

ただ、ここで注意を払っておきたいのは、漱石も「大和魂」を絶対化することの危険性を、比較という方法を知っていた子規から学んでいたように思われることです。

実は、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」という有名な文章で始まる明治三一年二月一四日の「再び歌よみに与ふる書」で、歌人の「香川景樹(かがわかげき)は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申す迄も無之候」と記していた子規は、翌年に書いた「歌話」の(十二)で香川景樹の『古今和歌集正義総論』を次のように厳しく批判していました*30。

「案の如く景樹は馬鹿なり。大和歌の心を知らんとならば大和魂の尊き事を知れ、などと愚にもつかぬ事をぬかす事、彼が歌を知らぬ証拠なり。…中略…言霊の幸(さき)はふ国といふ事は歌よみなどの口癖にいふ事なれど、こは昔日本に文字といふ者無く何も彼も口にてすませし故起りし言葉にて、今日より見れば寧ろ野蛮を証明する恥辱の言葉なり」。

いささか激しすぎる批判のようにも感じますが、前章では子規の「はて知らずの記」に関連して東北の詩人・石川啄木の「訛り」を詠んだ歌についても考察しました。子規はここで香川景樹が続けて「万の外国其声音の溷濁不清なるものは其性情の溷濁不正なるより出れば也」と断言していることを、「此の如き議論の独断的にして正鵠(せいこく)を誤りたるは当時世界を知らぬ人だちの通弊」であると指摘し、「これを日本国内に徴するも、東北の人は総(すべ)て声音混濁しをれども、性情はかへつて質朴にして偽(うそ)なきが如き以て見るべし」と、東北弁を例に挙げながら批判することで、自分の価値観を絶対化することの危険性を指摘していたのです。

このような子規の問題意識を最も強く受け継いでいるのが、明治三八年(一九〇五)の一月から翌年の九月まで『ホトトギス』に断続的に掲載された『吾輩は猫である』において描かれている主人公・苦沙弥先生の次のような新体詩ではないかと私は考えています。

その新体詩は「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした」という文章で始まり、「起し得て突兀(とつこつ」ですね」という寒月君や東風君など聞き手の感想を間に描きながら読み進められていくのですが、ここでは詩の一部を抜粋して引用しておきます*31。

「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする/東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有つて居る。/(中略)/誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」。

苦沙弥先生の新体詩はここで唐突に終わるのですが、この作品の第十一話で漱石は、「子規さんとは御つき合でしたか」との東風君の問いに、「なにつき合はなくつても始終無線電信で肝胆相照らして居たもんだ」と苦沙弥が応えたと描いているのです。

「大和魂」を絶対化して「スローガン」のように用いることの危険性を主人公に語らせていた漱石の指摘は『坂の上の雲』という長編小説を考える上でも重要だと思われます。なぜならば司馬氏は、小説の筋における時間の流れに逆行する形で、南山の激戦や旅順での白襷隊の突撃を描く前に、「太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想」を、「戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない、『必勝の信念』の鼓吹(こすい)や『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた」と痛烈に批判していたからです(三・「砲火」)。

そして、『坂の上の雲』を書き終わった一九七二年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題したエッセーで司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判しているのです(下線引用者)*32。

〈第三部 「人類滅亡の悪夢」の克服と大自然の輝き――映画《夢》と映画《風立ちぬ》を中心に〉から、『堀田善衞とドストエフスキー』の終章「宮崎アニメに見る堀田善衞の世界――映画『風の谷のナウシカ』 から映画『風立ちぬ』へ」

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序章 風車と水車のある光景

一、映画《モスラ》から《風の谷のナウシカ》へ

アニメ映画《風の谷のナウシカ》の冒頭では、「人口五〇〇人足らずの平和な農業共同体」である「風の谷」を吹く清浄な風が、大国トラキアの巨大な飛行機が運んできた腐海からの胞子や巨大な昆虫によって乱されるシーンが描かれている。

「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」によって科学文明が終わってから一〇〇〇年後の世界が描かれているこの映画と映画《モスラ》との映像的な類似性について、研究者の小野俊太郎は次のように指摘している。

「この二つの作品には、すぐに目につく類似点が多い。幼虫モスラと王蟲(オーム)の形状の類似だけではなく、成虫モスラとウシアブのふんわりとした飛行、腐海(ふかい)の毒と放射能の働きの類比は明白だし、暴走するイモ虫、巨大な繭と熱による孵化、巨大な胞子植物、怪異と意思疎通する少女、といった点も似ている。タイトルバックで神話が碑文や絵巻といった映像でされるのも共通している」*1。

そして、「風」の流れに注意を促して「問題となるのは、ナウシカが住んでいる『風の谷』で、ここには『モスラ』における日本とインファント島問題そのものが拡大して投影されている」と指摘した小野は、「ここに接合されているのは、黒澤明が『生きものの記録』(一九五五)で突きつけた、気流の関係で死の灰が寄ってくる風の谷間に暮らす日本である」と続けている*2。

実際、《風の谷のナウシカ》は核戦争後に発生した「腐海の森」から発生する有毒ガスで、生き残った人々の生存も危うくなる中で、「土壌の汚れ」の原因を突き止めようとする少女ナウシカの活躍を描いているが、《生きものの記録》でも核実験による「死の灰」や核戦争の恐怖からブラジルへの移住という行動を起こそうとした主人公の老人(三船敏郎)が、精神病院の窓に映った夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった」と叫ぶ場面が描かれていた。

二、「王蟲」の子供が殺される夢と「やせ馬が殺される夢」

《風の谷のナウシカ》では、夢の中でナウシカが子供の頃に戻って、「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれている。

このシーンを見てすぐに連想したのは、近代西欧の「弱肉強食の思想」から強い影響を受けた『罪と罰』の主人公が「非凡人の理論」を編み出して、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」を殺害しようと計画を練りはじめた頃に見た「やせ馬が殺される夢」のことであった。

なぜならば、映画《夢》のための「ノート」には、『罪と罰』からこの箇所が長く引用されているだけでなく、「夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」という黒澤のメモも記されていたからである*3。

「やせ馬が殺される夢」で子どもの頃に再び戻り、酔っぱらいの馭者から力まかせに鞭打たれているやせ馬を見て、やせ馬への深い同情心から必死で守ろうとしていた体験を思い出した主人公は、自分の計画がたとえ正しいこととしても老婆を殺害することはできないと感じていた。

残念ながら日本では、文芸評論家・小林秀雄の解釈などもあり、ラスコーリニコフの言動を分析することにより、一九世紀西欧の「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」を厳しく批判した思想家としてのドストエフスキーにはあまり光が当てられていない*4。

しかし、ドストエフスキーはラスコーリニコフが老婆を殺したことを知ったソーニャに「いますぐ、すぐに行って、十字路に立つんです。おじぎをして、まず、あなたが汚した大地に接吻しなさい」と諭させていた*5。この言葉やドストエフスキーの自然観や民話観に注目しながらこの小説を読み直すとき、「やせ馬殺しの夢」が「高利貸しの老婆」の殺害を実行してしまったラスコーリニコフの悲劇を示唆するとともに、流刑地のシベリアの大自然の中で生活するうちに森や泉の意味を認識して「復活」することも予告していたといえるだろう。

ジャーナリストの清沢洌は、一九四三年一月八日の日記でナチスの検閲に言及して、「すでにドイツはドストエフスキーの文学などを禁止したとのことだ」と『暗黒日記』に記していたが*6、戦後にドストエフスキーの長編小説『白痴』を沖縄で死刑になりかけた復員兵を主人公として映画化した黒澤明は、ドストエフスキーについてこう語っていた*7。

「これは実は《羅生門》の前からやろうときめてた。ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んで、どうしても一度はやりたかった。もちろん僕などドストエフスキーとはケタがちがうけど作家として一番好きなのはドストエフスキーですね。生きていく上につっかえ棒になることを書いてくれてる人です」。

全部で八話からなるオムニバス形式の映画《夢》は、ストーリーの流れが読みにくいこともあり、あまりヒットはしなかったが、黒澤明がロシアの作家ドストエフスキーを深く敬愛していたことに注目しながら、『罪と罰』における夢の構造に注意して見直すとき、この映画の構造が『罪と罰』において主人公のラスコーリニコフが見る夢の順番と密接に対応していることに気づく*8。

《風の谷のナウシカ》のタイトルバックで示される絵巻では「その者青き衣(ころも)をまといて金色(こんじき)の野におりたつべし。失われた大地との絆(きずな)を結び、遂に人々を青き清浄の地に導かん」との言い伝えが織られていた。

さらに、ナウシカが見た「王蟲」の子供が殺される夢も自分の危険もかえりみずに傷ついた「王蟲」の子供を守るという感動的なラストシーンへとつながっていることもたしかだろう。しかも、宮崎監督は一九九三年の黒澤監督との対談では、映画《夢》の最終話「水車のある村」で描かれている水車小屋の場面については、自分が「美術やりたかったなと思った」とさえ語っていたのである*9。

それゆえ、次の章では映画《七人の侍》と一九九七年に公開された《もののけ姫》との関係を見た後で「自然支配の思想」に注目しながら、映画《夢》の第一話「日照り雨」から第三四話「トンネル」にいたる流れを考察し、さらに、第四話「トンネル」における「亡霊」に注目しながら、戦死者の問題に焦点を当てて映画《ゴジラ》と『永遠の0(ゼロ)』も再考察する。

第二章では一九九二年公開のアニメ映画《紅の豚》と映画《永遠の0(ゼロ)》の関係を見た後で、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎と本庄季郎という2人の設計士の友情をとおして、当時の日本の社会情勢だけでなく、ナチスドイツとの同盟の危険性もきちんと描かれていた映画《風立ちぬ》を分析することにより、なぜ宮崎が『永遠の0(ゼロ)』を「神話の捏造」と激しく批判したのかに迫る。

終章ではそれまでの考察や映画《風立ちぬ》のラストシーンで描かれたノモンハンの草原のシーンと主人公の視線をとおして映画《夢》の第六話「赤富士」から「鬼哭」を経て「水車のある村」にいたる流れの意味を考えることにしたい。

*1 小野俊太郎、前掲書『モスラの精神史』、二四八~二四九頁。

*2 同右、二五〇頁。

*3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年、一八~一九頁。

*4 高橋、前掲書『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、第四章参照。

*5 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』下巻、岩波文庫、二〇〇〇年、一三五頁。

*6 清沢洌、前掲書、四〇頁、一四二頁。

*7 「世界の映画作家3/黒澤 明」”全自作を語る”聞き手=荻 昌弘(キネマ旬報社)」

*8 高橋黒澤明監督の倫理観と自然観――映画《白痴》から映画《夢》へ」『地球システム・倫理学会会報』第一一号、二〇一六年参照。

*9 黒澤明・宮崎駿『何が映画か――「七人の侍」と「まあだだよ」』徳間書店、一九九三年、四一頁。

ここでの考察は、新著『堀田善衞とドストエフスキー』の終章「宮崎アニメに見る堀田善衞の世界――映画『風の谷のナウシカ』 から映画『風立ちぬ』へ」の考察につながった。

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2023/10/28、加筆・改題

『永遠の0(ゼロ)』の危険な構造を分析する

序章 「約束」か「詐欺」か 

一、「言葉も命も、現代(いま)よりずっと軽かった時代の物語」

『ゴジラの哀しみ』の第二部では一二の章、およびプロローグとエピローグから成る作家・百田尚樹のデビュー作・『永遠の0(ゼロ)』を分析した。二〇〇六年に太田出版から発行されたこの小説はたいへん好評で二〇〇九年には文庫化されて講談社から発行され、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に収められた対談では、もうすぐ三〇〇万部を突破しそうです」と語り、同名の映画が公開されるまでには「四〇〇万部いくのではないか」と語っている*1。

ただ、単行本には「この小説のテーマは『約束』です。/言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代の物語です。」との著者からのコメントが付けられていた*2。

たしかに、「個人」のレベルでならば、そのような場合もありえたとは思える。しかし、戦争中の「時代」に関しては、その記述は歴史的な事実に反するだろう。「無敵皇軍」などのスローガンによって多くの日本の若者が勇躍戦地に赴いたが、この小説の第五章で元海軍飛行兵曹長の井崎が語っているように、ガダルカナル島の戦闘では「三万以上の兵士を投入し、二万人の兵士がこの島で命」を失ったが、「二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人で」、「残りは飢えで亡くなった」ために、ガダルカナルは「餓島」とも書かれるほど悲惨な戦いを強いられていた*3。

さらに、第八章では「玉砕」という言葉について問われた元海軍少尉の岡部が、「全滅という意味です。ひとつの部隊全員が死ぬことです。全滅という言葉を『玉砕』という言葉に置き換えて、悲惨さを覆い隠そうとしたのです。当時、日本軍はそういう言葉の置き換えをあらゆるものにしていました」と説明している。

つまり、これらの作中人物が語る言葉に留意するならば、小説が描いているのは「言葉も命も、現代(いま)よりずっと軽かった時代の物語」なのである。それをあえて「言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代」と言い換えた著者からのコメントは、戦前に語られた「王道楽土」や「八紘一宇」などの標語を美化しようとした著者の秘められた本音が露呈しているように思える。

二、義理の祖父・大石賢一郎の謎

第一章の「亡霊」の章では、祖母の二番目の夫である大石賢一郎について、「ぼくは祖父が好きだった。司法試験を目指したのも弁護士である祖父の影響だ。」と記され、「祖父は国鉄職員だったが、三〇歳を過ぎてから司法試験に合格して弁護士になった努力の人だ」と書かれているばかりでなく、「祖父は貧しい人たちのために走り回る弁護士だった。使い古された言葉で言うなら清貧の弁護士だ。ぼくはその姿を見て弁護士を目指したのだ」とも記されている。

ただ、その祖父の大石がどのような歴史観や宗教観の持ち主であるかは最後の章までほとんどふれられていない。一方、健太郎の母・清子は第二章で「私の本当の父が母を愛していたかどうか、母も父を愛していたかどうかは、永遠の謎だと思う」(太字は引用者)と語りつつも、「父が亡くなったのは二六歳の時よ。今の健太郎と同じなのよ」と自分の父と息子の比較を行い、「父がどんな青年だったのかは、お母さんに教えてもらいたかったわ」と語っていた。

しかし、小説を読み進むと実の祖父の宮部久蔵が強く妻・松乃と娘・清子を愛しており、その写真を常に持っていたばかりでなく、戦時中も絶対に生きて戻ると公言していたことが判明する。しかも、最終章では大石が祖母の松乃に求婚した際には、「宮部さんは私にあなたと清子ちゃんのことを託したのです。それゆえ、わたしは生かされたのです」とまで語っているのである。それにもかかわらず、なぜ大石は義理の娘に本当の父親の生き方を伝えていなかったのだろうか。つまり、大石家では家族関係を支える基本的な愛情についても語られぬままに時間が過ぎていたのである。

映画《永遠の0(ゼロ)》の宣伝文では「六〇年間封印されていた、大いなる謎――時代を超えて解き明かされる、究極の愛の物語」と謳われていた(太字は引用者)。だが、母・清子の言葉に注目するならば、「大いなる謎」とはなぜ義理の祖父である大石が孫たちの実の祖父である宮部のことを六〇年間も封印していたのかということになるだろう。

この意味で注目したいのは、広島と長崎への原爆の投下を知って「もしそうだとすれば、日本という国は本当に滅んでしまうかもしれないと思った」と大石に語らせた作者が、「自分たちが特攻で死ぬ事で祖国を守れるなら、潔く死のうと思った」と続けさせていることである。

この言葉は「命が大切」と語っていた実の祖父・宮部久蔵の考えとは正反対の「一億玉砕」の思想のように思える。以下、言論人・徳富蘇峰や作家・司馬遼太郎の歴史観に注目しながら、登場人物たちの発言を詳しく分析することにより大ヒットしたこの小説に隠された思想に迫ることで、二〇〇六年に発行されたこの小説が「日本会議」の思想と安倍首相の復権に深く関わっていることを明らかにしたい*4。

*1 安倍晋三・百田尚樹『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』ワック株式会社、二〇一三年、六四頁。

*2 ネット・ショップ「アマゾン」の図書紹介による。

*3 百田尚樹『永遠の0(ゼロ)』講談社文庫、二〇一四年、二〇一頁。以下、本書では章のみを表記する。

*4菅野完は、二〇〇六年に「戦後レジームからの脱却」などを掲げて総裁に選出された安倍首相が翌年の参議院選で大敗北を喫し、次の国会で所信表明演説を行ってからわずか二日後に退陣を表明したことで、政治生命が完全に絶たれたように思われたが、保守論壇誌には「極めて早い時間から、安倍晋三の再登板を熱望するかのような記事が並ぶように」なっていたと指摘している(『日本会議の研究』扶桑社新書、二〇一六年、七~八頁)。

百田尚樹氏と日本保守党

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(2023/12/11、2024/05/10、改訂・改題、2024/05/10、改訂)

『ゴジラの哀しみ』 第一部「冷戦の時代とゴジラの変貌」

序章 ゴジラの誕生まで

一、「不敗神話」と「放射能の隠蔽」

「水爆大怪獣」と名付けられた初代の「ゴジラ」がスクリーンに現れたのは、ビキニ沖の環礁で行われた水爆「ブラボー」の実験により、「第五福竜丸」が被曝し、久保山愛吉無線長が亡くなった一九五四年のことであった。

だが、その発端は第二次世界大戦の終戦直前の一九四五年八月にウラン型原子爆弾「リトルボーイ」とプルトニウム型原爆「ファットマン」が、相次いで広島と長崎に投下されたことにあった。オリバー・ストーン監督はその著書で原爆の研究者たちが「議論を重ねるうち、原子爆弾の爆発によって海水中の水素や大気中の窒素に火がつき、地球全体が火の玉に変わるかもしれない」可能性が出て来たので計画が一時中断された時期があったことを記している*1。

アメリカでは今も多くの人々が、原爆投下を多くのアメリカの軍人と日本人の生命を救うためにはやむをえない手段だったと考えているが、それは原発開発を行ったマンハッタン計画の当事者が被爆者の苦しみや痛みを「隠匿する政策」をとったためであり、新しい仮想敵国となったソ連との対決を意識したアメリカは投下を決行したのだった。しかも、その予算は日本の一九四〇年度の国家予算(六十一億円)をはるかに超える総額二十億ドル(当時のレートで約八十五億円)という巨額なものであった*2。

終戦後に広島を訪れたニューヨーク・タイムズのH・ロレンス記者は九月五日付けの記事で、「原爆によって四平方マイルは見る影もなく破壊しつくされ」、さらに「原爆で一瞬に死ぬのは少数であって、多くの死者は数時間、数日間、あるいは十数日間の激しい痛み苦しみの後に死ぬ」と記した。しかし、マンハッタン計画の副責任者の地位にあったというファーレル准将は、この記事が出た翌日に記者会見を開いて「広島・長崎では死ぬべきものは死んでしまい、九月上旬現在においては、原爆放射線のため苦しんでいるものは皆無だ」と声明し、その一週間後にはロレンス記者は先に自分が書いた「広島レポートすら否定する記事」を書いた。このことを明らかにした政治家の宇都宮徳馬はこのような措置が取られたのは、第一次世界大戦に際して用いられた化学兵器が、その非人道的な威力から禁止されたことを想起するならば、「生き残った被爆者が、原爆の後遺症のためにどれだけ苦しんでいるか」が明らかにされれば、「核兵器は明らかに『不必要な苦痛を与える兵器』として毒ガス、細菌毒素とともに、その製造使用を禁ぜられるべき兵器」とされたからであると説明している*3。

しかし、放射能の危険性を隠蔽したのはアメリカ軍だけではなかった。一九四一年一〇月に東条英機内閣は「次年度の政府予算案に理化学研究所への委託研究費として八万円(現在の四億円相当)を計上し」、その二年後には「特に米国の研究が進んでいるとの情報もある。この戦争の死命を制することになるかもしれない。航空本部が中心となって促進を図れ」との命令を原爆研究の第一人者・仁科博士に下していた*4。そして「ペグマタイに含まれるわずかな天然ウラン」に目をつけた陸軍は、「『君たちの掘っている石がマッチ箱一つくらいあれば、ニューヨークなどいっぺんに吹き飛んでしまうんだ。がんばってほしい』」と励まして少年たちをウランの砕鉱に駆り出していた*5。

立川賢の原爆小説『桑港(サンフランシスコ)けし飛ぶ』が、「『新青年』の一九四四年七月号に掲載された」ことを指摘した小野俊太郎は、日本が原子爆弾を先に完成させていれば、原子爆弾がアメリカに対して用いられていた可能性があったことを指摘し、原爆は「敗戦色が濃い中で、一気に情勢を反転できる究極の兵器だった」と説明している*6。

しかも広島に原爆が落とされた後では、「放射能力ガ強キ場合ハ人体ニ悪影響ヲ与フルコトモ考ヘラレル。注意ガ必要」との報告がなされたにもかかわらず、「放射能による被ばくを隠すため」に、「国民はおびえ、戦意を失うのではないか」と恐れた「当時の内閣や軍部はその事実を握りつぶした」*7。「神州不滅」の「神話」を信じ、危機的な事態には元寇の役のときのように「神風」が吹くと信じていた狂信的な政治家や軍人は、最後まで国民を戦争に駆り立てようとしていたのである。そのために、放射能の危険性を知らされなかった「身内の安否確認や救助のため市内に入った」多くの人たちも被曝することになったのである。

二、「新たな神話」と「核エネルギーの批判」

日本を占領したアメリカ軍が原爆の報道の厳しい検閲をしていたために被曝の被害の情報があまり広まらなかったこともあり、一九四六年七月二六日の『読売新聞』にはすでに「原子エネルギー平和産業に活用すれば 慈雨も呼び台風も止める」という題の記事が載っていた。さらに、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞のニュースの報を受けた後の一九四九年一一月五日付けの『読売新聞』は、「今日でこそ原子力はただちに原子兵器と関連して考えられているが」、「やがてそれが生産に応用されて人類の文明に新時代を開く日を期待することは全くの夢想ではないのである」という内容の社説を掲載していた*8。

注目したいのは、その前年に湯川博士と対談した文芸評論家の小林秀雄が、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出し、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語って、いち早く原子力をエネルギーとすることの危険性を鋭く指摘していたことである*9。

それに対して湯川が太陽熱も原子力で生まれており「そうひどいことでもない」と主張すると、「高度に発達する技術」の危険性を指摘した小林は、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と厳しく反論し、湯川が「平和はすべてに優先する問題なんです。今までとはその点で質的な違いがあると考えなければいけない。そのことを前提とした上でほかの問題を議論しないといけない。アインシュタインはそういうことを言っている。私も全然同感です」と答えると、それに同意した小林は、「科学の進歩が平和の問題を質的に変えて了ったという恐ろしくはっきりした思想、そういうはっきりした思想が一つあればいいではないか」と結んでいた。

実際、アメリカは原爆を投下することでその脅威を見せつけることがソ連への圧力になると考えたのだが、それは自国にも投下されるのではないかという恐怖を煽ることになり、一九四七年四月にトルーマン米大統領が原子兵器の使用をためらわないと明言してから半年も経たない九月には、原爆の開発を急いだソ連の原爆保有が明らかになった。それゆえ、原爆などの大量破壊兵器によって人類が滅亡することを恐れたアメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、一九四七年には世界の終末までの時刻を示す時計を発表して、その時刻が終末の七分前であることに注意を促していた。だが、その二年後には世界終末時計の針は三分前を指すようになっていた*10。

このような状況を受けて東京大学総長の南原繁は卒業式の演説で「原子爆弾や水素爆弾の近代科学の粋を集めた世界の次の総力戦は、おそらく有史以来の大戦、全人類の運命を賭けてのものと想像せられる」と語りかけ、この演説は『世界』の一九五〇年五月号に「世界の破局的危機と日本の使命」と題されて掲載されることになる*11。

「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろう」と核の時代における戦争が地球を破滅に導く危険性を指摘し、「あらゆる紛争問題の解決のための平和な手段をみいだすよう勧告する」という湯川秀樹博士ら著名な科学者が署名した「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表されたのが、「第五福竜丸」事件から一年後の一九五五年のことである*12。そのことに留意するならば、科学者が陥る科学技術の盲信に対する先駆的な批判をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても事実を見る勇気と「道義心」を強調していた小林秀雄や南原繁の文明観は、先見の明があったといえよう。

戦争中は三度も徴兵され、一九四六年にようやく中国から復員した本多猪四郎監督も、映画《ゴジラ》と原爆との関連についてこう明確に語っていた。

「『ゴジラ』は原爆の申し子である。原爆・水爆は決して許せない人類の敵であり、そんなものを人間が作り出した、その事への反省です。なぜ、原爆に僕がこだわるかと言うと、終戦後、捕虜となり翌年の三月帰還して広島を通った。もう原爆が落ちたということは知っていた。そのときに車窓から、チラッとしか見えなかった広島には、今後七二年間、草一本も生えないと報道されているわけでしょ、その思いが僕に『ゴジラ』を引き受けさせたと言っても過言ではありません」*13。

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の目次

*1 オリバー・ストーン、ピーター・カズニック、鍛原多恵子他訳『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史1 二つの世界大戦と原爆投下』早川書房、二〇一三年、二九一~二九三頁。

*2 中日新聞社会部編『日米同盟と原発 隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年、三三頁。

*3 宇都宮徳馬『軍拡無用 21世紀を若者に遺そう』すずさわ書店、一九八八年、一四四~一四六頁。

*4 中日新聞社会部編、前掲書、二一頁。

*5 同右、二九頁。

*6 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、二〇一四年、九一頁。

*7 中日新聞社会部編、前掲書、三七頁。

*8 山本昭宏、前掲書、六~七頁。

*9 小林秀雄「対談 人間の進歩について」、『小林秀雄全作品』第一六巻 、新潮社、二〇〇四年、五一~五四頁。

*10 「世界終末時計」の時刻は、「ウィキペディア」の説明による。

*11 山本昭宏、前掲書、一五頁。

*12 「ラッセル・アインシュタイン宣言」、日本パグウォッシュ会議、HP参照。http://www.pugwashjapan.jp/

*13 堀伸雄「世田谷文学館・友の会」講座資料「『核』を直視した四人の映画人たち――黒澤明、本多猪四郎、新藤兼人、黒木和雄」より引用。

第一部の構成

レビュー

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2024/05/10、改題と追加

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』より「はじめに ゴジラの咆哮と悲劇の誕生」

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はじめに ゴジラの咆哮と悲劇の誕生

ゴジラの咆哮がスクリーンで轟いたのは、原爆の千倍もの破壊力を持つ水爆「ブラボー」の実験の際にも、その威力が予測の三倍を超えたために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われた一九五四年のことであった*1。映画《ゴジラ》の予告映画では「人類最後の日来る!」との文言も画面いっぱいに映し出されていたという*2。

このような時代状況にも言及しながら映画《ゴジラ》を製作した本多猪四郎監督はこう語っていた。「第一代のゴジラが出たっていうのは、非常にあの当時の社会情勢なり何なりが、あれ(ゴジラ)が生まれるべくして生まれる情勢だった訳ですね。…中略…ものすごく兇暴で何を持っていってもだめだというものが出てきたらいったいどうなるんだろうという、その恐怖」*3。

つまり、初代の映画《ゴジラ》は、第二次世界大戦後の冷戦の時代に人類が直面することとなった文明論的な課題を直視した映画だったのであり、ゴジラの凶暴で圧倒的な力は台風や海底火山の爆発などの、自然の驚異にもなぞらえられていた。しかも、ことに映画《モスラ》に特徴的なように、娯楽映画でありながら政治や社会への批判的な視点も色濃く持っていた。

それゆえ、本書の第一部では、映画《ゴジラ》から《シン・ゴジラ》までの「ゴジラ」の変貌を中心に核問題を扱ったポピュラー文化をも分析することによって、文明論的な視点から冷戦の時代からグローバリズムの時代にいたる「核エネルギーに対する日本人の意識の変化」を考察したい。

ところで、ウィリアム・M・ツツイは一九九〇年代頃までには、「日本のポップカルチャーにおいて、戦争の功績を祝福する表現を避けようという風潮がだいぶ薄れたが、それは何十年にもわたるゴジラ映画のおかげも少しあると言える」と書いている*4。

一九五四年の初代映画《ゴジラ》の後で生じたそのような「ゴジラ」の変貌は、明治維新一〇〇周年にあたる一九六八年を期に日本でも台頭してきたナショナリズムの問題とも深く関わっていると思える。

たとえば、一九五七年五月に岸信介首相は国会で、「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していたが、長編小説『坂の上の雲』の連載が始まった一九六八年の参院選で当選した作家の石原慎太郎(現「日本会議」代表委員)は、翌年の国会では「非核三原則」を「核時代の防衛に対する無知の所産」のせいだと批判していたのである*5。

さらに、産経新聞に連載された長編小説『坂の上の雲』(一九六八~七二)で、日清と日露戦争の勝利を描いていた作家の司馬遼太郎が亡くなった一九九六年に発行した『汚辱の近現代史』で教育学者の藤岡信勝は、湾岸戦争以後に「社会主義が崩壊し、冷戦が終結した今、日本をとりまく国際環境は根本的に変化した」と強調した*6。そして、長編小説『坂の上の雲』では「日本人が素朴に国を信じた時代があったこと、健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」明治の人々の姿が描かれているとし、自分たちの歴史認識は「司馬史観」と多くの点で重なると誇っていた*7。

同じような論調は、徳富蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調した坂本多加雄・「新しい歴史教科書を作る会」理事の見解にも強く響いている*8

多くの日本人が『永遠の0(ゼロ)』のような「美しい物語」に感動してしまうようになる遠因は、「テキスト」に描かれている事実ではなく、「テキスト」に感情移入して「主観的に読む」ことが勧められるようになってきた文学論や歴史教育にもあると思われる。

このことに注目しながら、『永遠の0(ゼロ)』を読み解くとき、「神風で戦死した海軍航空兵」だった実の祖父のことを知るために、戦友たちへの取材を孫の姉弟が進めるという構造を持つこの小説が「司馬史観」論争を巧みに取り入れて作られていることに気づく*9。

すなわち、ここでは戦時中の日本軍の「徹底した人命軽視の思想」が厳しく批判されている一方で、「君国の為めには、我が生命」などすべてを捧げることを大正の青年たちに求めた徳富蘇峰の思想がむしろ讃美されているのである*10。

しかし、司馬遼太郎自身は復古的な歴史理解には強い危機感を覚えていたようで、『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年には「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」と書いていた*11。さらに、連載の終了後には太平洋戦争に突入する頃には「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書き、「その勝利の勘定書が太平洋戦争の大敗北としてまわってきたのは、歴史のもつきわめて単純な意味での因果律といっていい」と結んでいた*12。

これらの記述に注目するならば、「司馬史観」との同一性を僭称した藤岡信勝が司馬遼太郎の死後にこれらの論考を発表したのは、司馬自身から徹底的に批判されることを恐れたためではないかと思われる。

言論人・徳富蘇峰や作家・司馬遼太郎の歴史観に注目しながら、『永遠の0(ゼロ)』の構造や登場人物たちの発言を文学論的な手法で詳しく分析することにより、大ヒットしたこの小説が戦前の価値観への回帰を目指す「日本会議」のプロパガンダ小説ともいえるような性質を持っていることを明らかにしたい。

その作業をとおして、「戦前・戦中の思想と価値判断を継承」していながら、そのことを隠しつつ、戦前と同じような美しいスローガンによって、「日本国憲法」の「壊憲」を目指している「日本会議」と「安倍政権」の危険性をも浮かび上がらせることがすることができるだろう*13。

この意味で注目したいのは、「一番好きな映画」として黒澤映画《七人の侍》を挙げ、黒澤との対談では映画《夢》の水車小屋のシーンにも言及していた宮崎駿監督が、映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造」と厳しく批判していたことである*14。

宮崎駿監督が一九九二年公開のアニメ映画《紅の豚》ですでに第一次世界大戦後のファシズムの問題をも示唆し、ゼロ戦を設計した堀越二郎を主人公とした映画《風立ちぬ》ではナチスドイツと同盟した当時の日本の問題もきちんと描いていたことを考慮するならば、この批判の意味は明確だろう。本文で詳しく分析するように、『永遠の0(ゼロ)』における新聞批判には、「弱肉強食の理念」を主張しプロパガンダの重要性を強調する一方で、新聞の客観的な報道を非難したヒトラーの『わが闘争』の論調を思い起こさせるのである。

しかも、『永遠の0(ゼロ)』では核の問題はまったく論じられていないが、社会的・文化的な背景をも読み解きながら映画《モスラ》(一九六一)を詳しく分析した小野俊太郎は、この映画と《風の谷のナウシカ》(一九八四)との関係を指摘するとともに、「風」や「気流」に注意を促して水爆実験の恐怖をテーマとした黒澤明監督の映画《生きものの記録》がこれら二つの作品を理解する上でも重要なことを指摘していた*15。

宮崎駿監督が『発光妖精とモスラ』の作者の一人である堀田善衛や司馬遼太郎など自分が敬愛していた作家たちとの鼎談集『時代の風音』を出していることや、「ゴジラ・シリーズ」の監督から降りた後、黒澤映画に演出補佐として参加していた本多猪四郎が、復員してきた将校が全滅した自分の小隊の部下たちの亡霊と出会うという映画《夢》の第四話「トンネル」だけでなく、原発事故の問題を描いた第六話「赤富士」にも深く関わっていたことを想起するならば、この指摘は説得力があるといえるだろう。

日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉は『文明論之概略』において、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていた*16。

このような福沢の「自然支配の思想」について比較文明学者の神山四郎は、「それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していたが*17、映画《夢》の第八話でも水車小屋の老人は、「人間を不幸せにする様なものを一生懸命発明して得意になっている」知識人を批判するとともに、多くの人間が「その馬鹿な発明を奇跡の様」に有難がって、「自然が失われ、自分達も亡んで行くことに気がつかない」と語っているのである*18。

実際、二〇一五年には「世界終末時計」の時刻が冷戦期の一九四九年と同じ「残り三分」に戻ったと発表された*19。黒澤明が敬愛したドストエフスキーは長編小説『罪と罰』のエピローグで、「非凡人の思想」から「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」の殺害を「正義」と見なしていた主人公が見た「人類滅亡の悪夢」を描いていたが*20、人類はその危険性と今も直面しているのである。

その一方で、「安全保障関連法案」が強行採決された以降の日本では、武器の輸出に踏み切るばかりでなく、核兵器の使用も法律的には可能だとする見解が示されるなど、憲法の「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」を全面否定するような政策が次々ととられている。それゆえ、憲法学者の小林節は、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」と書いているのである*21。

こうした政治的な手法だけでなく、安倍政権の閣僚の自然観も大きな問題と思える。宗教学者の島薗進は「国家神道」が「明治維新の国家デザインの延長上に生まれた」ことを指摘している*22。西欧列強に対抗する近代化政策の一環としてために導入された「国家神道」においては、大地や海などへの畏敬の念を持つ伝統的な神道ではなく、むしろ一九世紀的な自然支配の思想が強いと思われる。

本書では映画《ゴジラ》から映画《夢》を経て、映画《風立ちぬ》にいたる流れを考察することで、自然エネルギーを活用できる技術を持ちながら、地震や火山の活動が活発な日本で原発を再稼働させるだけでなく原発の輸出をはかり、核の時代にいまだに戦争という手段で問題を解決しようとすることの危険性を明らかにし、文明論的な視点からそれらの危機を克服する可能性を考察したい。

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の目次

1 中日新聞社会部編『日米同盟と原発 隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年、七二~七四頁。

2 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、二〇一四年、八頁。

3 本多猪四郎・平田昭彦「対談 ステージ再録 よみがえれゴジラ」『初代ゴジラ研究読本』、洋泉社MOOK、二〇一四年、六九頁。

4 ウィリアム・M・ツツイ、神山京子訳『ゴジラとアメリカの半世紀』中央公論新社、二〇〇五年、一三〇頁。

5 山本昭宏『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』中公新書、二〇一五年、一〇五頁。

6 藤岡信勝「はじめに」『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五頁。

7 藤岡信勝「『司馬史観』の説得力」、前掲書、五九頁。

8 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、一九九六年、二八九~三一四頁。

9 百田尚樹『永遠の0(ゼロ)』講談社文庫、二〇一四年。

10 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』、筑摩書房、一九七八年、二八二頁。

11 司馬遼太郎「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、一九七四年、一一四~一一五頁。

12 司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』中央公論社、一九七四年、一〇五~一〇六頁。

13 山崎雅弘『日本会議 戦前回帰への情念』集英社新書、二〇一六年、一二二頁。

14 エンジョウトオル〈宮崎駿が百田尚樹『永遠の0』を「嘘八百」「神話捏造」と酷評〉、「リテラ」二〇一四年六月二〇日、デジタル版。初出は『ビジネスジャーナル』、二〇一三年九月。

15 小野俊太郎『モスラの精神史』講談社現代新書、二〇〇七年、二四八~二五〇頁。

16 『福沢諭吉選集』第四巻、岩波書店、一九八一年、一四四頁。

17 神山四郎、『比較文明と歴史哲学』刀水書房、一九九五年、一一五頁

18 『全集 黒澤明』第七巻、岩波書店、二〇〇二年、二六頁。

19 ハフィントンポスト日本版、〈「『終末時計』残り3分に 「原子力政策は失敗している」〉、二〇一五年一月二三日デジタル版。

20 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』(上中下)、岩波文庫、二〇〇〇年。

21 樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』集英社新書、二〇一六年、頁。

22 島薗進・中島岳志著『愛国と信仰の構造』集英社新書、二〇一六年、一三二頁。

 (2017年7月11日、青い字の箇所を訂正)

『「諸君!」「正論」の研究』を読む(3)――清水幾太郎の核武装論と「日本会議」

上丸洋一(図版はアマゾンより)

三、清水幾太郎の核武装論と「日本会議」

「日本核武装論――清水幾多郎と西村真悟の間」と題された第三章では、1960年には「日米安保条約改定反対運動をリードした」社会学者・清水幾多郎が、1980年に『諸君!』7月号に載せた論文「核の選択」とそれについての反響が紹介されている。

その第一部「日本よ国家たれ」で「国家の本質は軍事力である」と書いた清水は、「世界はすでに核兵器という平面にのぼってしまっている」とし、「被爆国」の「日本こそが真先に核兵器を製造し所有する特権を有している」と記したのである(85~86)。

さらに「自衛隊の元最高幹部といっしょに組織」していた「軍事科学研究会」の名で書かれていた第二部では、「ソ連の脅威が強調され」、「航空・海上・陸上各方面の大幅な軍事増強」を提案していた。

興味深いのはこの論文が『諸君!』に掲載される経緯を清水自身が10月号で書いており、自費で3000部出版した「核の選択」を防衛庁長官と同庁幹部に送っただけでなく、右派団体の日本青年協議会にも2000部を送っていたと明らかにしていたことである(87)。

なぜならば、菅野完が『日本会議の研究』で明らかにしたように、学生運動で左翼と激しく戦った右翼の学生組織を母体とした「日本青年協議会」は現在、安倍政権を支える「日本会議」の「中核」となっており(同書、87頁)、かつては「日本の核武装をも検討すべき」と主張していた稲田朋美氏が防衛相に任命されているからである。

1960年には「反戦・平和の旗を掲げていた」清水の変貌に対しては「猪木正道、野坂昭如などさまざまな立場の知識人が反論」を書き、作家の山口瞳も清水の言説を「デマゴギー」と批判し、その頃はまだ「日本の核武装について総じて否定的な姿勢をとってきた」雑誌『正論』も、翌年には清水には「思想的主体」がないと批判した松本健一の論文などを集めた特集を組んでいた(91~92頁)。

軍事に関しては素人なので専門的な考察はできないが、広島や長崎での「被爆」だけでなく、広島型原爆の1000倍もの威力を持つ水爆ブラボーの実験で被爆した「第五福竜丸」事件だけでなく、前年の1979年にはアメリカでスリーマイル島原発事故が起きていた。

拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の第一部では映画《ゴジラ》や《生きものの記録》などポピュラー文化との関連に注意を払いながら、「日本人の核意識の変化」について考察したが、水爆実験や原発事故なども踏まえて総合的に判断するならば、清水的な政策は19世紀には有効でありえたかもしれないが、核の時代にはむしろきわめて危険な思想に見える。

地殻変動によって国土が形成されて今も地震や火山の噴火が続いている日本においては、核兵器ばかりでなく、核エネルギーの危険性に対する認識の深まりと世界に反核の流れを作り出すことこそが、日本人の本当の意味での「安全保障」につがると思える。

一方、清水はすでに1963年に『中央公論』に論文を発表して、時代の変化に応じた「新しい歴史観」の必要性を唱えていたが(90)、「核武装の必要性」が声高に論じられて戦争の危機が煽られたことで、日本が行った「大東亜戦争」の評価などにも強い影響を及ぼしたようだ。

「空想と歴史認識」と名付けられた第9章で詳しく論じられているように、徐々に復古的な思想が強まる中で、文藝春秋の社長・池島信平が高く評価していた気骨のある歴史学者・林健太郎(1913~2004)は、1994年には雑誌『正論』誌上で「大東亜戦争は解放戦争だった」と主張する「日本会議」の小田村四郎や小堀桂一郎に「侵略戦争だった」との反論を行い、さらに「解放戦争」論者の中村粲(あきら)とも論争していた(380~388)

しかし、「新しい歴史教科書をつくる会」が活動を始めた1996、97年ごろから『諸君!』『正論』両誌の論文では、「反日」という言葉やレッテルをはりつけることが目立つようになったと指摘した著者は、1997年3月に「『自虐史観』を超えて」というテーマで開かれた「自由主義史観」を唱える「新しい歴史教科書をつくる会」の設立記念シンポジウムの模様を「完全収録」した『正論』は、その後は「つくる会の機関誌の様相」を呈するようになったと記している(389頁)。

本書の第2章では、「事実」を「報道」する新聞社でありながら、「産経新聞社には社史がない」ばかりでなく、「縮刷版もない」ことが指摘されていた。1962年の社説で「古い価値体系はくずれさり」と書いていたこの新聞の変質の一因は、「歴史」の軽視によるものであると思える。

1999年に「日本の核武装を国会で議論すべきだ」という発言を行った西村真悟が防衛政務次官を更迭されると産経新聞と『正論』はさらに復古的な論調を強めることとなった。

すなわち、西村真悟の発言に対しては自民党首脳だけでなく、朝日、毎日、読売の各紙も厳しい批判をしたが、産経新聞は「引責責任はやむを得ない」としながらも「憂国の思い」への理解を示した。西村を擁護した『諸君!』と『正論』の両誌は、「さらに熱心に西村を誌上に登場」させたのである(99~100)。

著者は2002年の「阿南大使、腹を切れ! 今こそ興起せよ、大和魂」など「『諸君!』に掲載された一連の対談の過激な題名を挙げているが、2008年に日本の国防を担う航空自衛隊制服組のトップにいた元航空幕僚長・田母神俊雄が「日本は侵略国家であったか」と題する論文で、「日本軍の軍紀が他国に比較して」も「厳正であった」などと書いたことが原因で更迭される波紋は『諸君!』『正論』両誌の論調にも及んだ。

著者によれば、この問題に対する「姿勢は対照的」であり、「「『諸君!』が田母神の主張を相対化してとらえ」、「田母神から距離をおいた」のに対し、『正論』は「田母神を全面的に擁護」していた(370)。

たとえば、2009年4月号の『諸君!』は、ニーチェの専門家でもある「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾幹二が「彼の論文には一種の文学的な説得力もある。細かいことはどうでもいいんでね」と弁護したことに対して、対談者の現代史家・秦郁彦が「やはり、そうはいかんのですよ。田母神さんは私の著書からも引用しているが、趣旨をまったく逆に取り違えている」と厳しい批判をしていたことももきちんと掲載していた。

一方、『正論』は問題となった田母神の受賞論文をそのまま載せるとともに「朝日新聞の恐るべきダブルスタンダード」と題した論文で、「『思想』そのものを問題とし罷免にまで追い込むことになれば、これは明らかに、『思想信条の自由』の侵害であり、憲法違反である」と記した日本会議の常任理事で憲法学者・百地章の論文を載せていた(370)。

しかし、その批判は権力を振りかざして「電波停止」発言をして、「報道の自由」を脅かした高市総務相にこそ当てはまると思える。『正論』の読者投稿欄でデビューした稲田朋美・防衛相も、2005年の演説では「売国奴」という「憎悪表現」を用いて朝日新聞社を壇上から非難したが(第8章「朝日新聞批判の構造」)、その翌年に小説『永遠の0(ゼロ)』でデビューした百田尚樹も小説において新聞記者の高山をあからさまに貶し、後に安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック、2013年)に収められた対談ではそれが朝日新聞の記者であると明かしていた。

拙著『ゴジラの哀しみ』では、『永遠の0(ゼロ)』の思想的骨格には「自由主義史観」からの影響が強く見られることを具体的に示したが、その百田は田母神俊雄が2014年都知事選に出馬すると、NHK経営委員という立場でありながら複数回にわたって応援演説を行い、「この人は男だ」、「本当にすばらしい歴史観、国家観をおもちです」などと大絶賛したのである。

「カリスマの残影」と題された第7章「岸信介と安倍晋三を結ぶもの」では、『諸君!』や『正論』と安倍首相との関わりだけでなく岸元首相の「大東亜戦争観」が分析されており、『永遠の0(ゼロ)』で描かれている義理の祖父・大石と孫・健太郎との関係に注目しながら、この小説を読み解いていた私にとってことに興味深かった。

結語

以上、司馬遼太郎の研究者の視点から本書を読み解いてみた。できれば『諸君!』『正論』両誌における原発問題についての論文にもふれてもらいたかったが、政治史にはうとかった私にとっては両誌の論調の変遷をたどる過程で「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」との関係にもふれられている本書からは多くのことを知ることができた。

本書の第4章では「靖国神社と東京裁判」が、第5章では「A級戦犯合祀」などの重たい問題が考察された後で、第6章「永遠の敵を求めて」では論争のパターンが分析されている。それらは「国家神道」の問題とも深く関わるので機会を改めて考察したい。

 

『「諸君!」「正論」の研究』を読む(2)――『文藝春秋』編集長・池島信平のイデオロギー観と司馬遼太郎

上丸洋一(図版はアマゾンより)

二、文藝春秋の池島信平と司馬遼太郎

1946年に編集長となった池島信平(1909~73)は、「論より事実、論者より当事者」を『文藝春秋』の編集方針としたことにより、雑誌の部数を急速に伸ばして1966年には社長となった。

その池島が理事長に田中道太郎、理事に林健太郎、福田恆存、小林秀雄などの保守派文化人を結集した「日本文化会議」(1968~1994)の機関誌を発行すると発表したのは、70年安保を前にした68年7月のことであった。しかし、社員の半数以上から反対署名が出されたことで提案を変更し、社独自の雑誌として翌年に創刊したのが雑誌『諸君!』であった。

その池島が満州を体験したことで「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死にである」と感じたと記した著者は、彼が「イデオロギーよりも人間を信じる」と語ったという作家・半藤一利の記述を引用して、「衆を恃む人間を嫌悪した」池島が、「反体制運動を過激化させる学生」に危機感を抱いたのだろうとも記している。

それは彼を高く評価して「信平さん記」と題する追悼文を書いた作家・司馬遼太郎にも通じるだろう(31~33)。司馬も「イデオロギーというものは宗教と同様それ自体が虚構である」とし、「たとえて言えばイデオロギーは水ではなく酒であり、それに酩酊できる体質の者以外には本来マボロシのものなのである」と書いて、その危険性を指摘していたのである(『歴史の中の日本』中公文庫)。

しかし、「保守の人」であり、「日本のアジア侵略とファシズム体制」を批判していた池島の死後には「『諸君!』誌上で、先の戦争を『自衛戦争』とする議論が繰り広げられる」ようになった。そして、池島の葬儀の際には友人代表として弔辞を読んだ気骨のある保守的な歴史学者の林健太郎は、戦中さながらの「アジア解放」論が跋扈するようになった『正論』誌上で、「晩年になって歴史認識をめぐる論争」に立ち上がることになる(59)。

この意味で注目したいのは、創刊のいきさつについて初代の編集長・田中健五が、「小林さんが『オイ、団体をつくるのもいいが、雑誌をつくろう』と提案したのを聞き及んで、『版元をウチにさせてくれ』と言ったらしい」と語ったと記しているだけでなく、註では「各分野の一流人を筆者としてプールできる」と語った池島が「私は小林秀雄氏を信頼している」と続けていたことも記されていることである(25、38)。

一方、「日本文化会議に誘われて参加しなかった文化人もいた」と記した著者は、「なんだかきな臭いから断った」と語った作家・大岡昇平が、「参加を断ってからは小林秀雄のところへ行かなくなった」と続けたことも紹介している(34-35)。

そのような大岡には先見の明があったのだろう。なぜならば、小林秀雄などと『文學界』で鼎談「英雄を語る」でアメリカとの戦争を賛美していた作家の林房雄は1963年9月号から『中央公論』に「大東亜戦争肯定論」を連載するようになるが(45)、小林秀雄は1935年から37年にかけて雑誌『文學界』に連載した『ドストエフスキイの生活』の冒頭の「歴史について」と題する「序」において、「歴史は神話である」と宣言していた。小林秀雄の歴史認識についてはこれから詳しく考察したいと思うが、「保守派」というよりは「神国思想」への傾倒を一貫して持っていた作家だったと私は考えている(→「司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって」参照)。

1948年に産経新聞社に入社し、1961年に退社していた司馬遼太郎にとっての悲劇は、1962年から66年まで連載した長編小説『竜馬がゆく』で国民的な人気作家となり、続いて『坂の上の雲』の連載が始まった1968年に「反共・保守主義者」として著名なイデオローグの鹿内信隆が産経新聞社主に就任したことだろう(73)。

しかも、雑誌『諸君!』を創刊した池島信平が亡くなった1973年に鹿内信隆により雑誌『正論』が創刊されたが、その翌年の1974年に「日本会議」の前身団体の一つである「日本を守る国民会議」が設立された際には鹿内信隆が「呼びかけ人」として名を連ね(76)、1985年に制定された「正論大賞」は渡部昇一はじめ、石原慎太郎、藤岡信勝、櫻井よしこなど復古的な価値観を持つ論者に与えられた(80)。

一方、著者が引用している『新聞記者 司馬遼太郎』によれば、鹿内がグループの議長に就任した頃にフジテレビの社員研修の講師を頼まれた司馬遼太郎は、「フジサンケイグループではトップの”私”が横溢している。そのような企業体に発展は望めない」と話して、社員から大喝采を受けていた(82)。

しかし、自分たちのイデオロギーを広めようとする論客たちが、1996年の司馬の死後に彼の名前を利用するような論考を発表したために、司馬作品のイメージも大きく損なわれることになった。

すなわち、「自由主義史観」を唱えた「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝は、1996年に発表した「『司馬史観』の説得力」で自分のイデオロギーに引き寄せて『坂の上の雲』を解釈し、日露戦争の開戦から百周年にあたる2004年には「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という挑発的な題名で日露戦争を賛美した石原慎太郎と八木秀次の対談が『正論』に載ったのである。

上丸洋一著『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店)を読む(1)

上丸洋一(図版はアマゾンより)

 

はじめに

私が本書のことを知ったのは、三笠宮がご逝去された際に多くの追悼記事が新聞やツイッターなどに掲載されて、参謀として南京に派遣された時には〈軍紀の乱れを知り、現地将校を前に「略奪暴行を行いながら何の皇軍か」などと激烈な講話〉をされていたなど、そのお人柄やお考えが詳しく紹介された時でした。

すなわち、南京陥落から約五年後の1943年から1年間、皇族であることを隠すために「若杉参謀」という偽名で、中国・南京の派遣軍総司令部に勤務した際には、捕虜を銃剣で突くことや、毒ガスを使った生体実験を日本軍がしていたことを知って「『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあった」とショックを覚えた、「内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」とその理由を著書で推測していたのです。

しかも、天皇の生前退位が問題となり、現在はその多くが「日本会議」と関係の深い委員で構成されている有識者会議で議論が行われているようですが、三笠宮は1946年には皇室典範改正を審議中の枢密院に「(天皇に)『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八条の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか?」 「(譲位を認めないなら)天皇は全く鉄鎖につながれた内閣の奴隷と化す」との意見書を出しておられたのです。

ことに、東京大学文学部の研究生となり歴史学を学ばれていた三笠宮は、「国家神道」的な考えと結びついた「紀元節」復活の動きに対しては、「二・一一論争と考古学」と題する論考を『日本文化財』13号(1956年5月)に発表されただけでなく、その翌年には歴史学者の会合で「反対運動を展開してはどうか」と呼び掛けられていました。

三笠宮が「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した」。「架空な歴史……を信じた人たちは、また勝算なき戦争……を始めた人たちでもあった」と『文藝春秋』1959年1月号に記していたことを伝えたのが本書の著者である上丸氏のツイッターでした。

序章と終章を含めて全部で10章から成る本書は、『諸君!』『正論』両誌における「核武装論」や「靖国問題」などの重たいテーマや「岸信介と安倍晋三との関係」の分析、さらには新聞批判などさまざまなテーマについての論調の変遷を、その創刊の時期から丹念に分析することで、ほとんどの閣僚が「日本会議」や「神道政治連盟」の「国会議員懇談会」に属する安倍内閣が誕生するに至る過程を明らかにしています。

一方、私が研究している作家の司馬遼太郎も長編小説『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記して、現在の「日本会議」へと続く流れを示唆していました。

そして、日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』を執筆中の1970年には、「歴史を動かすもの」というエッセーで「政治的なイデオロギー」の危険性を指摘しつつも司馬は、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と書いて「日本国憲法」を擁護していたのです(『歴史の中の日本』中公文庫)。

以下、本書の内容を章の流れに沿って私の感想も交えながら具体的に紹介することで、近代に成立した国家の統治体制の基礎を定める「憲法」を古代の神話的な歴史観で解釈し「改憲」しようとしている安倍政権がどのようにして生まれたのかにも迫りたいと思います(本稿では敬称は略し、頁数はかっこ内にアラビア数字で示す)。

一、「紀元節」の復活運動と三笠宮の歴史観

本書の冒頭では「皇紀二六七〇年の今日、神武天皇建国の理想に改めて思いをいたし、紀元節にあたり、奉祝祈念式典を開催します」との言葉で始まった2010年の「日本の建国を祝う会」の式典では、『正論』の2005年6月号に「憲法三原則」が「日本を蝕む」と記していた小田村四郎・「日本会議」副会長が、「神武創業の精神を体し、永遠の繁栄に力を尽くす」との挨拶を行ったことが紹介されている(1)。

当時の民主党政権への批判決議が採択された後では、「正論大賞」受賞者の渡部昇一・上智大学名誉教授が、「日本の建国と日本人の感性」と題して行われた記念講演で、「日本の王朝(天皇家)は、神話が今につながる唯一の王朝です。日本は神話と歴史がつながっています。…中略…シナ文明は朝鮮半島まで到達しましたが、日本には及んでいません」と語って戦前のレベルの日本の歴史学をも否定していた。

このような運動の発端は、占領軍が1945年のいわゆる「神道指令」で、『国体の本義』や『臣民の道』など戦時下に国民教化のために発行された図書の頒布を禁止し、「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの用語の使用も禁止したことに自民党や右派の論客たちが強く反発したことにあった。

すなわち、1952年4月に日本が独立を回復すると、その年のうちに自由党政調会文教部会は紀元節の復活を決定しした。一方、そのような動きに対して『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』の序文で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と記していたのが三笠宮であった。

さらに、1958年に「教員の団体である歴史教育者協議会が紀元節復活に反対する声明を発表」した際には、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡も寄せ、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生したが、自らの見解は曲げられなかった(10)。

陸羯南や正岡子規の新聞『日本』と比較しながら、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)を著していた私にとって非常に興味深かったのは、戦前や戦中に「忠君愛国の精神」の重要性を説き、大日本言論報国会を設立して戦意高揚を叫んでいた言論人の徳富蘇峰が、1955年2月11日に東京日比谷公会堂で開かれた「国の初めを祝ふ会」で「紀元節」の復活を求める次のような講演をしていたことである。

「神武天皇に関することは、日本の歴史の父とも母とも云ふところの、日本書紀に特筆大書せられてあるのであつて、それを我々国民がそのまゝに信仰して、それを行事として行ふて来たのであるので、今日に至って二、三の歴史家の議論で、それを取消すなどといふものは、……軽率至極と云わねばならん」(太字は引用者、9)

蘇峰のこの演説は、「新しい歴史教科書をつくる会」の論客や「日本会議」系の論者だけでなく、一部の読者が「反戦小説」とも見なしている百田尚樹の『永遠の0(ゼロ)』の主要な登場人物である元一部上場企業社長の武田が、なぜ徳富蘇峰の『国民新聞』を高く評価しているのかを雄弁に物語っているだろう。

一方、司馬の『竜馬がゆく』の連載が始まった1962年の終戦記念日に産経新聞が社説でこう記していました。「敗戦とともに古い価値体系はくずれさり、神秘的な超国家は太平洋の波間に沈められて、非合理主義の時代は去った」(11)。

どうして、神秘的な国家観を捨てたはずの産経新聞が、雑誌『正論』を発行して右翼的な言辞を声高に唱えるようになったのだろうか。

 

ETV特集で2月18日深夜に「沖縄”笑いの巨人”伝 ~照屋林助が歩んだ戦後~」が放映

「米国統治下時代に始めた三味線漫談で大スターとなった」照屋林助の生涯をとおして、沖縄と日本の戦後60年を見つめ直した番組。

劇作家・井上ひさしの「吉里吉里国」のような「コザ独立国」を1990年に建国し「大統領」に就任した照屋林助は、沖縄返還後も米軍を重視する日本政府に、「これは独立ゴッコ。ゴッコをしている沖縄から日本国へ向かって『汝よ、いつになったら独立できるのだ』」と問いかけていた。

林助の生涯は、核の時代に19世紀的な「富国強兵」の思想に基づいて、辺野古や高江で強権的に基地の建設を進める安倍政権の政治手法の矛盾をも明らかにしているように思える。

素晴らしい番組だったが放映されたのが深夜だったので、ゴールデンタイムでの再放送を求めたい。

→ http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwip65jsibHQAhVFwrwKHbADAo0QFggbMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.nhk.or.jp%2Fetv21c%2Fupdate%2F2006%2F0218.html&usg=AFQjCNF5rR1duaYziwkOiw4cHvocYJ3MMA …