高橋誠一郎 公式ホームページ

05月

安倍政権の危険性――日本の若者を「白蟻」視した歴史観の正当化

選挙が近づいてきました。

日本の今後を左右する重大な選挙になるので、少しでも発進力を高めるためにブログにツイッター・ボタンを追加しました。

自らを独裁者のように振る舞う安倍首相に「臣下」のように服従している現在の自公政権をなんとか代えるために非力ながら全力を尽くしたいと願っています。

読売新聞や産経新聞、さらにNHKなどのマスコミによって流される情報量に対抗するためにも、これからは同じことも繰り返すことで、安倍政権の危険性を訴えていかねばならないでしょう。

一昨年の総選挙に際して考えた標語とその説明のリンク先を再掲します。

〈若者よ 白蟻とならぬ 意思示せ〉

〈子や孫を 白蟻とさせるな わが世代〉

ここでことさらに「白蟻」という単語を用いたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まった際に高く評価されたのが、「忠君愛国」的な視点から青年には「白蟻」のように勇敢に死ぬことを求めた徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』だったからです。

しかも蘇峰は、太平洋戦争の末期には「神祇を尊崇し、国体を維持」するとの誓約の下立ちあがった「神風連(じんぷうれん)の一挙」を、「大東亜聖戦」との関連で見れば「尊皇攘夷」を実行した彼らは「頑冥・固陋でなく、むしろ先見の明ありしといわねばならぬ」と記していました。

一方、『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想は、明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観」となったと記した司馬氏は、さらに「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判していました(第三巻・「勝海舟」)。

そして、『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していた司馬氏は、『坂の上の雲』を書き終えたあとでは「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いて、日露戦争の美化を厳しく批判していたのです。

徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を高く評価して、日露戦争を「美化」する「変な酩酊者」たちによって支えられた現在の安倍政権にたいして司馬氏が存命ならば、きわめて厳しい批判を行ったことは確かだと思われます。

日本がさまざまな困難に直面している現在、「特定秘密保護法」や「戦争法」を強行採決して、国民の生命を危険にさらしている安倍政権には、早急な退陣をもとめねばならないでしょう。

(2016年5月20日。改題と加筆)

「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』」、(序)と(1)を大幅に改訂

今年は徳富蘇峰が「忠君愛国」的な視点からの歴史教育の必要性を唱えた『大正の青年と帝国の前途』(1916年)を発行してから百年に当たります。

安倍首相が事務局長を務めていた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(1997年設立)という名称は、蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を強く意識して命名されているように思えます。

安倍首相は今年の参議院選挙で「改憲」を目指すと明言しましたので、「改憲」の危険性を知るためにもこの書を詳しく分析する必要があると思えます。

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』をとおしてこの書を読み解く論考を書き進める中でかなり加筆をしましたので、(序)と(1)〈グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代〉も大幅に改訂しました。

以下にリンク先を記しておきます。

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・序)

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・1)

「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって」(5)

目次(最新版

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「国家神話をとりのけた露わな実体」への関心

7、司馬遼太郎の予感――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

このような「拓川居士」の章の主題は忠三郎の親友・タカジと、大正から昭和への変わり目に一年だけ存続した同人誌「驢馬」とのつながりや、詩人だったタカジが革命家へと変貌する過程を描いた「阿佐ヶ谷」の章へと直結している。

しかもそれは唐突なことではなく、すでに司馬は「伊丹の家」の章で、忠三郎が結婚をした一九三七年の七月に「ふたりで外出中、号外で戦争の勃発を知った。宣戦布告という形式こそとられていないが、北京南郊の蘆溝橋で日華両軍が衝突し、交戦がつづいているということは、このあとの段階をどのようにも深刻に予想することができた」として、主人公たちと時代との関わり注意を向けていた。

このような流れは、弟蘆花の厳しい指摘にもかかわらず、「要するに我が日本国民は、国家が剃刀の刃を渡るが如く、只だ帝国主義に由りて、此の国運を世界列強角遂の際に、支持せざる可からざる大道理」を、まだ徹底的には会得していないと主張して、さらなる「平和的膨張」、すなわち侵略を主張していた蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』とも深く関わっていただろう(*37)。

なぜならば、司馬はこのとき「歩いている忠三郎さんの表情が暗くなり、度のつよいめがねだけが、凍ったように光っているのをあや子さんは見た」とし、彼女が自分の夫を「ただの気のいい呑気坊主とは見ていなかった」と続けていたからである(「伊丹の家」)。ここで司馬が「呑気坊主」という少し文章の流れとは違和感のある単語を用いているが、実は蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』には「大正青年は、八方を見廻すも、未だ嘗て日本帝国の独立を心配す可く、何らの事実を見出さざる也」とし、「亦た呑気至極と云ふべし」という表現が用いられていたのである。

そして蘇峰は、このような精神のたるみは「全国皆兵の精神」が、「我が大正の青年に徹底」していないためだとし、『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」ものと評価しつつも(*38)、「尚武の気象を長養するには、各学校を通して、兵式操練も必要也」とし、さらに「必要なるは、学校をして兵営の気分を帯ばしめ、兵営をして学校の情趣を兼ねしむる事也」と記していた(*39)。

一方、小学校時代から「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」が、その意味が分かりにくかったとした司馬は(*40)、「太平洋戦争の戦時下にみじかい学生時代を送った」が、「そのころから軍人がきらいで」あったが、それは「どういう学校のいかなる学生生徒にも好意をもたれなかったはずの学校教練の教師というものが予備役将校で、たえず将校服をきていたことと無縁ではないかもしれない」と記していた(「律のこと」)。こうして、蘇峰が主張した「学校をして兵営」となすという教育方針は大正から昭和にかけて徐々に実現していったのである。

この意味で注目したいのはタカジを中心に描いた「阿佐ヶ谷」の章で、司馬が「大正がおわる一九二六年からその翌年の昭和二年にかけての一年余が、タカジにとって重要な青春であった」とし、「かれらの詩の同人雑誌である『驢馬』ができ、一年余で全十二冊を出し、いさぎよく終刊になった」と記していることである。そして司馬は、「『驢馬』とその同人たちは、「タカジの生涯にとって一塊の根株のようなもの」であり、「さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命運動の徒」になり、「悪法とされる治安維持法違反」で逮捕されたと続けている。

そして司馬はこの前年の一九二五年(大正一四年)に制定された「治安維持法」を、「国体変革と私有財産制否認を目的とする結社と言論活動」に関係する者に対し、国家そのものが「投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」とし、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と鋭く批判した。

治安維持法と同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになったことに注意を促した立花隆の考察は、この法律が「革命家」や民主主義者だけではなく、「軍国主義」の批判者たちの取り締まりをも企てていたことを明らかにしているだろう(*41)。すなわち、軍事教練に対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展すると、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた京都大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に適用して一斉検挙を行ったが、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎が、治安維持法への違反が咎められただけでなく、天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が中学時代の日記に書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである。

そして立花隆は京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した「滝川事件」にふれて、滝川幸辰教授に文部大臣が辞任を要求した真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかと推定している。

二・二六事件の頃に青年時代を過ごした若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衛などと一九九二年に行った対談では司馬も、同人雑誌『驢馬』にも寄稿していた芥川龍之介が一九二七年(昭和二)に自殺し、その後でこの雑誌に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」とていることを指摘して、「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けて、「国家」の名の下に青年から言論の自由を奪い、学校を兵営化することの危険性に注意を向けた(*42)。

しかし、大正の青年に「戦争への覚悟」を求めた蘇峰は、「忠君愛国は、宗教以上の宗教也、哲学以上の哲学也」として(*43)、「日本魂」育成の必要を説き、「然も若し已むを得ずんば、兵器を以て、人間の臆病を補はんよりも、人間の勇気を以て、兵器の不足に打克つ覚悟を専一と信ずる也」と記したのである(*44)。

そして蘇峰は『教育勅語』の徹底とともに、「錦旗の下に於て、一死を遂ぐるは、日本国民の本望たる覚悟を要す。吾人は此の忠君愛国的教育に就ては、日本歴史の教訓に、最も重きを措かんことを望まざるを得ず」と主張していた(*45)。

このような教育によって学徒出陣を強いられた若き司馬は、ノモンハン事件について「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった」ことに注意を促し、「戦車戦は精神力はなんの役にもたたない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさだけで勝負のつくものだ」と書き、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して癈人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」と結んでいたのである(*46)。

ここではこのような事態を生み出した「皇国史観」の担い手であった徳富蘇峰を直接的には批判していない。しかし、吉田松陰を主人公とした長編小説『世に棲む日々』(一九六九~七〇)のあとがきで司馬は、「日本の満州侵略のころ」、自分は「まだ飴玉をしゃぶる年頃だったが、そのころすでに松陰という名前を学校できかされ」、「国家が変になって」くると、「国家思想の思想的装飾として」、「松陰の名はいよいよ利用された」と続け、「いまでも松陰をかつぐ人があったりすれば、ぞっとする」と記していた(*47)。

一方、蘇峰は日露戦争後に改訂した『吉田松陰』(一九〇八)において、「松陰と国体論」、「松陰と帝国主義」、「松陰と武士道」などの章を書き加えていたのである(*48)。 司馬はここで、「松陰という名が毛虫のようなイメージできらいだった」ときわめて感情的な表現を用いていたが、自作では司馬が松陰を明るいすぐれた教育者として描いていることを想起するならば、「毛虫のようなイメージ」は、改訂版の『吉田松陰』において、松陰を「膨張的帝国論者の先駆者」と規定した徳富蘇峰とその歴史観に向けられていたと言っても過言ではないだろう。

実際、『大正の青年と帝国の前途』において蘇峰は、白蟻の穴の前に硫化銅塊を置いても、蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸で硫化銅塊を埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」とする一方で、「蟻や蜂の世界には、彼の非国家文学なきを、寧ろ幸福として、羨まずんばあらず」(*49)と記していたのである。

司馬は「尼僧」の章で、日本の修道女が「布教ということを看板に、親日感情をもたせよう」としてカトリック国のフィリピンに送られることになったときの修道女となった妹たえに対する忠三郎の思いやりを描くとともに、「統帥権という超憲法的な機能を握ることで満州、華北を占領し、やがて日本そのものを占領した軍人たちは、アジアを占領するというばかげたこと」を思いついたとして、「平和的膨張主義」を唱えて侵略を正当化した思想家や昭和初期の軍人たちを厳しく批判した。

こうして司馬は、『この国のかたち』では拓川と同じ様に「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と記して、「愛国心」を強調しつつ、「国家」のために「白蟻」のように勇敢に死ぬことを青少年に求めた蘇峰の教育観を鋭く批判したのである(*50)。

註(5)

*37 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二二一頁。

*38 同上、二一五頁。

*39 同上、二九三頁。

*40 司馬遼太郎「教育勅語と明治憲法」『司馬遼太郎が語る日本』第四巻、朝日新聞社、一九九八年、一六二~五頁

*41 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻、四一~五一頁

*42 司馬遼太郎・堀田善衛・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁。昭和初期の日本とクリミア戦争前のロシアの類似性については、高橋「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」『ドストエーフスキイ広場』第一二号、二〇〇三年参照

*43 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二八四頁。

*44 同上、二九三頁。

*45 同上、三一九頁。

*46 司馬遼太郎「軍神・西住戦車長」『歴史と小説』、集英社。

*47 司馬遼太郎「あとがき」『世に棲む日々』第四巻、一九七五年、二九四頁。

*48 米原謙『徳富蘇峰――日本ナショナリズムの軌跡』、中公新書、二〇〇三年、一〇五頁、一〇八頁。 なお、徳富蘇峰の『吉田松陰』については、拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、二〇〇九年、二三八~二三九頁、三五四~三五七頁参照。

*49 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、三二〇頁。

*50 司馬遼太郎『この国のかたち』(第一巻)文春文庫。

*追記 このような「国民」に「白蟻」となることを強いた徳富蘇峰の歴史観への批判こそが、『坂の上の雲』における度重なる「自殺戦術」の批判となっていると私は考えている。(拙著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年、第三章〈「三国干渉から旅順攻撃へ――「国民軍」がら「皇軍」への変貌〉および、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、二〇一四年、第五章〈「君を送りて思うことあり」――子規の視線〉、第四節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉参照。

 

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(4)

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期「別国」の考察

6、記憶と継続――窓からの風景

7、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性

 

4,ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

「伊丹の家」の章は、秋山好古の娘である土井健子の仲人によってあや子と所帯をもつにいたった忠三郎を中心に話が進められていく。それとともに、ほとんど同年の生まれであった子規と秋山真之と同じように、忠三郎の実父拓川が好古と同じく「井伊直弼が大老職にあった安政六年(一八五九)のうまれで」、幕藩の世に呼吸しており、藩校明教館に入った彼らが「めずらしいことに、九歳で相並んで助手」を命ぜられたことや二人ともほぼ同じ時期にフランス留学を経験したことも紹介している。

そして、拓川について「天性、文明と人間を批評する資質にめぐまれていたし、ルソーの刺激をうけて独自の自由主義思想をもっていたが、かといって思想家としてなにごとかを遺したひとでもなかった」と述べた司馬は、「忠三郎さんは世俗のなかでは、世間と不調和になることを案じつつも秘かに独自の倫理的スタイルをもっていた点、拓川に酷似している」とも記している。

さらに「子規旧居」、「子規の家計」では、患っていた子規の面倒を見続けた大原・加藤家や拓川の親友であった陸羯南とその家族のことが中心に記されている。すなわち、司馬は子規の父が亡くなった後、「正岡家は大原家の家督をついだ伯父恒徳(つねのり)(拓川の長兄)の後見をうけ」、「大原恒徳の手をへて出されてくるこの金を小出しにして食べていた」ことに注意を向け、「子規の拓川あての書簡が幾通も伊丹の忠三郎家にのこっている」が、「内容は一、二の例外をのぞき、月々の家計の不足を告げ、援助を乞うというものであることにおどろかされる」とし、拓川は「貯えはつねに乏しかった。それでも子規から手紙がくると、そのつど応じ、一度も渋い色を見せたこと」がなかったと書いた。

そして、「子規の東京での学資は、旧松山藩の奨学制度である、常磐会から出ていた」が、「大学国文科二年の学年試験に落第し、中退したことで、この支給は絶え」、中退を決意したとき、子規が働くことにしたのが拓川の親友だった陸羯南の「主宰する日本新聞社」であり、月俸は十五円と少なかったが、子規が「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライひとぞな。…中略…人は友を択ばんといかん。『日本』には正しくて学問の出来た人が多い」(「子規の家計」)として、他の新聞社ではなく『日本』を選んだことを誇りにしていたと記したのである。

こう記したとき『坂の上の雲』においてはあまり『日本』に言及していなかった司馬もまた『日本』に強い関心を評価をするようになっていたといえるだろう。なぜならば、司馬は、『子規全集』の刊行に尽くした自分と同年生まれの松井勲が亡くなった後に、友人たちの手で出版された非売品の遺稿集には、『新聞「日本」の人々』という題がついていることに注意を促して、「かれは編集という埒から、そういうことを調べるところにまで入りこんでいた」と後に書いているからである(下・「洗礼」)。そして、司馬自身も後に後輩の青木彰に手紙で、「たれか、講師をよんできて、”陸羯南と新聞『日本』の研究”というのをやりませんか」と呼びかけただけでなく、さらに「もしおやりになるなら、小生、学問的なことは申せませんが、子規を中心とした『日本』の人格群について、大風に灰をまいたような話をしてもいいです。露はらいの役です」とも記したのである(*26)。

この手紙は『ひとびとの跫音』を執筆していた当時の司馬の陸羯南に対する関心のあり方をも語っているように見える。なぜならば、蘇峰は一八九九年に「帝国主義の真意」と題する記事で、「帝国主義」は、「平和的膨張主義」であると主張していたが、陸羯南はその翌日に「帝国主義」は「侵略主義」であるとしてこれを批判した論文を新聞『日本』に掲載して、「膨張主義」の危険性を指摘していたのである(*27)。

この意味で注目したいのは、鹿野政直氏がついに太平洋戦争にまで突き進むことになった日本のナショナリズムについて考察して、「なにか別の可能性はなかったのだろうか」と問い、このような視点から見るとき、最初に現れるのは「明治二十年代のナショナリズム」であり、「その代表的な思想家としての陸羯南(一八五七~一九〇七)と三宅雪嶺(一八六〇~一九四五)」であるとし、彼らはいずれも、「それまで<欧化>へのみちを追求してきた日本の思想界にあたらしい視点を提供した」と高く評価していることである(*28)。

そして、鹿野氏は『日本』が、「一八八九年の大日本帝国憲法発布とともに第一号を出した」ことを紹介しつつ、「国粋主義もしくは日本主義と称されるこの思潮は、この当時の表面において、政府のとる”貴族的欧化主義”および徳富蘇峰の主宰する『国民之友』『国民新聞』の”平民的欧化主義”と鼎立した。とりわけ蘇峰の平民主義と、羯南や雪嶺らの国粋主義は、ともにあたらしい世代の明治青年たちの自己主張として、大きく論壇をリードしてゆくことになった」と説明している。

ただ、鹿野氏は一年前に発行されていた三宅雪嶺の『日本人』における定義や、それまでの慣例に従って『日本』の思潮を「国粋主義」と規定している。しかし陸羯南自身は、自分たちの思潮を「国民論派」と呼び、これが「欧化風潮に反対して」起こったことを認めつつも、「国粋保存と言える異称」が自国の伝統以外を認めない「守旧論派の代名詞」として、「国民論派の発達を妨げる一大妨障なりき」とこの呼び方を批判している(*29)。

実際、「創刊の辞」において陸羯南は、「『日本』は国民精神の回復発揚を自任すといえども、泰西文明の善美はこれを知らざるにあらず。その権利、自由道義の理はこれを敬し、その風俗慣習もある点ではこれを愛し、とくに理学、経済、実業のことはもっともこれを欣慕す」としている(*30)。このことを考えるならば、本稿では『日本』の思潮を陸羯南の用語にならって「国民主義」と呼ぶ方がよいと思われる。

なぜならば、鹿野氏が指摘しているように、「大日本帝国憲法で、日本が『臣民』と規定されたのをよそにみながら、かれがあえて『国民』の名に固執したのは、やはり、国家の設定した臣民的コースからの抵抗であった」と考えられるからである。

このことは、『国民新聞』などで相変わらず「国民」という用語を用いながらも、一九一六年に著した『大正の青年と帝国の前途』においては、「されば帝国臣民 の教育は、愛国教育を以て、先務とせざる可らず」(*31)として、「国民」を「臣民」と考えるようになっていた蘇峰の場合と比較すればより明白であろう。すなわち、蘇峰はここで「明治の元勲」が「愛国心」を持ちつつも、「怖外心と崇外心とを長養」する一方で、「力の福音を閑却」し、「無差別的な欧化主義を宣伝」し、「自屈的外交」を行ったと鋭く批判した(*32)。そして、蘇峰はスペンサーが「日本人種」を「劣等人種」と見なしたとして(*33)、「白閥を打破し、黄種を興起」することが、「我が日本帝国の使命にして、大和民族の天職」であるとして、そのためには青年が「日本帝国を愛し、日本帝国に全身を献げ」るように、「国家を宗教とせんことを望む」としたのである(*34)。

一方、陸羯南は「創刊の辞」において、「ゆえに『日本』は狭隘(きょうあい)なる攘夷論の再興にあらず、博愛の間に国民精神を回復発揚するものなり」とも述べている。私たちの視点からきわめて興味深いのは、このような蘇峰の「国民主義」の主張が、大改革の時期にドストエフスキー兄弟が「欧化」を批判し、自己中心的な「国粋」をも諫めて、自分の大地であるロシアに立脚しつつ、そこから世界にも通じる普遍的な理念を生み出すべきだと主張したドストエフスキー兄弟の『時代』誌の「大地主義」に似ていることである(*35)。

このように見てくるとき、司馬遼太郎が下巻の冒頭に「拓川居士」の章をおいて中江兆民と陸羯南や拓川との関わりを再考察していることはきわめて重要である。すなわち、司馬は明治初年には「私塾は相変らず貧困であった」が、「このようなありさまのなかで、明治七年、フランスから帰ってきた土州人兆民中江篤介の存在」は大きく、「明治十年、私塾仏蘭西学会(のち仏学塾)を麹町中六番四十五の借家でひらいた」。一方、正岡子規に頼られることになる若い伯父の拓川は、「廃刀令が出た明治九年」に、「十八歳で給費の官吏養成所である司法省法学校に入り、フランス語とフランス法」を学んだが、「司法省法学校を退学した明治十二年に、この兆民の塾に入っている」とした。

そして司馬は、「兆民の第一の門弟ともいうべき同郷の幸徳秋水」が、『兆民先生』で「先生は仏蘭西学者として知られて居たけれど一面立派な漢学者であった」と記していたことに注意を促して、「この言葉は、拓川についてもあてはまるようである」とした。

さらに司馬は「拓川にとって法学校以来の友人である陸羯南」が、「明治二十四年、一種の同時代史として『近時政論考』(日本新聞社刊)一巻をあらわし、維新以来の政論の変遷を分類」して、「兆民らの思想と運動」を「それ以前の悒鬱(ゆううつ)民権や翻訳民権よりも「一層深遠」で、「西洋十八世紀末の法理論を祖述し多く哲学理想を含蓄した」と高く評価したことに注意を促している(「拓川居士」)。

興味深いのは「フランスのベトナム侵略を機に始まった清仏戦争」を論じた福沢諭吉が、個人における「修身」とは異なり、国家間の外交では「国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではない」と主張し、フランスが「国益」のために「力を尽くして罪を支那に帰するの策」を講じるのは当然であるとしたが、拓川の反応が福沢諭吉とはまったく反対であったことである(*36)。

すなわち、司馬は「兆民の徒である拓川にとって不幸なことに、かれがながい船旅のあげくにパリについたとき、仏蘭西の新聞は、フランス政府が極東侵略(ヴェトナム支配や対清戦争)に熱中しているのを、連日、記事や銅版画で報じつづけていたことであった」と指摘した。そして司馬は拓川がフランス留学をすることになった時期に、故国日本では官憲が「沸騰する民権運動やその刊行物をおさえこむことで、気ぐるいしたようになって」、「新聞、出版に関する取締条例を強化し、さらには政論に関する集会を綿密に監視し、ささいなことでも解散を命じたり」するようになっていたことにもふれてと、拓川は「維新を経た少年のころの攘夷家として憤りを感じた」にちがいなく、「国家や愛国ということの本質を、そこざらえにして考えざるをえなかったのではないか」とした。

そして、司馬は「世間に瀰漫している愛国主義を嫌悪」した拓川がフランスで書いた論文「愛国論」の本文は七章から成り、「第一章は愛国の本義、次いで愛国心の過去未来、土地所有権と愛国心の関係、電信鉄道と愛国心の関係、愛国心より起る古今経済学者(註・この場合の経済は政治という意味)の謬説」とつづき、「第六章にいたって『天下を乱るものは愛国者なり』という見出しがつき、第七章では『愛国の臣たらんよりは寧ろ盗臣たれ』とまことにはげしくなる」と記した。

すなわち、拓川によれば「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き、外国の怨は人類相対の怨となる」のである。そして司馬は、こうして人間世界に愛国心があると「天下太平は望みがたし」と考えた拓川が、「孔子が説きつづけた仁の実践方法というべきもの」である、「おのれのまごごろをつくし、他人への無限の思いやりをもつという忠恕」こそが、「地球を『同類相喰』の場から救う」と考えたのだと説明した。そして、拓川が「たとへ我国人に利あるも世界の人に害ある事は是罪悪なりと仏国の学者(モンテスキュー)は言へり」とも説いていたこと紹介していたのである。

司馬は、もし拓川が「このまま思想と文章による在野活動をしていれば」、「幸徳秋水よりもさきに似たような思想を先唱する人になっていたかもしれない」と結んでいた。実際この先の文章は拓川の思想が、日露戦争後に政府やジャーナリズムなどによって煽り立てられるナショナリズムの危険性を鋭く認識して「爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明した徳冨蘆花や将来の世界大戦の「帝国主義」の危険性を指摘した幸徳秋水の思想に先んじていたことを明らかにしていたといえよう(*37)。

註(4)

*26 青木彰『司馬遼太郎の跫音』、三六八頁。

*27 宇野田尚哉「成立期帝国日本の政治思想」『比較文明』第一九号、行人社、二〇〇三年、二六頁。

*28 鹿野政直「ナショナリストたちの肖像」、『陸羯南・三宅雪嶺』、(『日本の名著』第三七巻)、中央公論社、一九八四年、一一頁。

*29 陸羯南「国民論派の発達」、前掲書(『陸羯南・三宅雪嶺』)、一二四頁。

*30 同右「創刊の辞」、二三一~二頁。

*31 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二八一頁。

*32 同上、一五八頁。

*33 同上、一六三頁。

*34 同上、三一六頁。

*35 ドストエフスキー兄弟が掲げた「大地主義(土壌主義)」については、高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年参照。

*36 松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』中公新書、二〇〇一年、一四七~八頁。

*追記 加藤拓川および陸羯南と正岡子規との関係については、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、二〇一五年)の第四章〈「その人の足あと」――新聞『日本』と子規〉を参照。

論考の題名を「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』」に改題

「はじめに」で記したように最近の相次ぐ出版により「つくる会」が生まれた1996年が日本の歴史の大きな転換点になっていたことが明らかになりました。それゆえ、「ナショナリズムの克服――『ひとびとの跫音』考」という題名で発表し、現在は日本ペンクラブの「電子文藝館」に掲載中の論考を〈司馬遼太郎の徳富蘇峰批判――「新しい歴史教科書をつくる会」の教育観と歴史認識をめぐって〉と改めてHPに掲載してきました。

しかし、少し題名が抽象的であるばかりでなく、本稿で論じている徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』との関係は、安倍晋三氏が初代の事務局長を務め、現在は内閣総理大臣補佐官の衛藤晟一(えとうせいいち)氏が幹事長を務めている「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の方が近いと思われます。

それゆえ、題名をより内容に近づけて「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって」と改題します。

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「国家神話をとりのけた露わな実体」への関心

7、司馬遼太郎の予感――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(3)

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立の考察――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』(1916)を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観

5、治安維持法から日中戦争へ――昭和初期「別国」の考察

6、記憶と継続――窓からの風景

7、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性

 

3,大正時代と世代間の対立の考察――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』(1916)を中心に

「丹毒」の章で司馬は、「大正デモクラシーの時代に青春を送った世代である」忠三郎とタカジを、世代論的な視点から子規の青春時代と次のように比較している。

「正岡子規のように、明治期の一ケタのころの青年が、東京にしかない大学予備門をめざして田舎から笈を負ってやってきて、自分の人生と天下国家を重ねて考えたという時代は、すでに遠くなったのである。忠三郎さんの二高入学は、大正八年であった。第一次大衆社会というべきものが現出しつつあり…中略…自分の運命と国家をかさねて考えるなど大時代な滑稽さとしてうけとられる時代がはじまって」いると指摘されていたことである。

ここで思い起こされるのは、蘇峰が第一次世界大戦中の一九一六年(大正五)に書いた『大正の青年と帝国の前途』において、明治時代の自分から「飜つて大正時代の青年を見れば、恰も金持三代目の若旦那に似たり」としていたことである(*20)。そして蘇峰は大正の青年を「されば彼等は新聞、雑誌、小冊子、講演、遊説、其他あらゆる目より入り、耳より入る学問にて一通り世間と応酬するに差支なき智識を得、且つ得つゝある也」としてその情報量の多さを指摘しつつも、「彼らに共通する特色の一は、時代と無関係なり、国家と没交渉なり。而して彼ら一切の青年を統一す可き、中心信条なく、糺合す可き、中枢心系なく、協心戮力して、大活動せしむ可き、一大根本主義なきにあり」とした(*21)。

このような時代にタカジや忠三郎は青春を送っていたのだが、司馬は「手紙のことなど」の章で、関東大震災の翌年である一九二四年(大正一三)は、「タカジが京都大学に入ったばかりの忠三郎さんあてにしばしば手紙を――富永太郎もそうだが――書いていた時期であった」とし、タカジは前々年に二高を退学して仙台を去り、東京でなすこともなく日をすごしていた」と書いていた。そして司馬は忠三郎にあてた手紙でタカジが、父から「小説家(註・タカジのいう”志望”がそれであるらしい)なんて云う物は世の中にいらん物だ」と言われたと手紙に書いていることを紹介している。

この言葉は自分は「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」と断言した蘇峰の言葉を想起させるのである(*22)。文学に夢中になって青春を過ごしていた忠三郎とタカジもまさに典型的な大正青年であり、かれらもまた徳富蘇峰的な教育観の批判の対象であったといえよう。

さらに司馬は、当時の忠三郎について富永太郎が、「独自のボヘミアン的孤立生活者のスタイルを作り出していた」と言っていたと大岡昇平から教えられたと記しているが、樋口覚は子規全集の編集に拘わっていた司馬と大岡の忠三郎への関心を「出征から帰って来て戦後に小説家になった二人それぞれが忠三郎の前半生と後半生を見ているという感じ」であるとし、司馬は富永三郎や中原中也など「詩人たちの生涯については大岡さんにおまかせして、自分はあくまで関西で知った忠三郎、詩を捨てて一般人として、一個の虚無として生きた人生に関心をもった」と説明した後でこう続けた。「つまり対象の描くべきところをそれぞれ棲み分けをしたというようなことですが、この二人にとって忠三郎の存在はそれほど大きい」(*23)。

実際、司馬はここで忠三郎がタカジだけでなく二高の同窓富永太郎からも手紙をしばしば受け取っていたことにふれて、「太郎にそれを書きつづけさせた若いころの正岡忠三郎という存在がある」とし、「太郎の場合、忠三郎さんというのは一個の巨大なふんいきで、それにくるまれてさえいれば自己を解放でき、手紙をかきつづけることによって自己が剥き身になり、意外なものを自分の中に見出すことができるという存在であったろう」と記した。

ここで注目したいのは、そのような「忠三郎さんにおける手紙の保ちのよさ」にふれつつ司馬が、「私は大正十二年に生まれたために、大正も知らぬままにその年号を半生背負ってきた。いまタカジや富永太郎や忠三郎さんのことを考えねばならない必要から、その時代の青春のにおいをむりやりに嗅ごうとしている」として、手紙に張られていた切手について次のように考察していることである。

「切手はいずれも赤地で、三銭もしくは参銭とある。切手の意匠も印刷インキもいたいたしいほどに安っぽい。『三銭』のほうは中央やや上に十六弁菊花章があり、その 両側に満開のサクラがあしらわれ、下に富士山が描かれているのは、花札の意匠に影響された感覚かもしれない」。

そして司馬は「赤っぽい花札風の切手一枚で大正期の国家や社会という巨大なものを想像することはまちがっている。ただ、(こんな切手の時代にうまれたのか)と、自分のことを思い、くびをすくめるような思いがしないでもなかった」と記して、「大正国家」の薄っぺらさに注意を促していたのである。

これに対して蘇峰は、「大正青年に愛国心の押売を試み」ようとするものではないと断りつつも(*24)、自分は「大正の青年諸君に向て、先づ第一に卿らの日本魂を、涵養せんと欲す」して、「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也。如何なる場合にも、君国を第一にし、我を第二にするの精神也」と記し、「若し日本国民にして、此の忠君愛国の精神を失墜せん乎、是れ帝国は精神的に滅亡したる也」として、「此の精神」の「涵養」と「応用」に「国民教育の要」があると主張したのである(*25)。

こうして蘇峰は「大正の青年」の教育という視点から論を展開しているのだが、興味深いのは司馬が、蘇峰と同じく「明治の青年」であった西沢隆二の父親である吉治が、軍部と結んで事業を大きくしたことについても触れることで、「大正の青年」たちが父親の世代の政治に不安を覚えた理由を記していることである(「手紙のことなど」)。

すなわち吉治は日清戦争の末期に「近衛師団に従って、酒保(日用品販売所)の業者として師団とともに渡海」し、その後この師団が「土匪討伐」などということで台湾に行くと、「台湾開発」によるセメント事業の波に乗ってまたたくまに事業を大きくしたのである。しかも、吉治は台湾の近くの無人島で燐鉱石が産出されることを知ると、明治四十年にはそこを占拠して西沢島としたが、後に清国政府から日本政府への抗議が来て、島は清国が買い取ることになったので、吉治は「投下した資本」に見合わぬ膨大な負債を背負って台湾を去ることになっていたのである。

このとき日本はペリーと同じように三隻の軍艦を背景に「砲艦外交」を行ったが、その時の委員長が軍艦「明石」の艦長である鈴木貫太郎であり、もう一人が秋山真之であった。それゆえ、このとき始まった海軍との交際から一九一四年(大正三)の第一次世界大戦を契機にふたたび吉治にチャンスが回ってくる。

すなわち、「タカジが中学校一年、忠三郎さんが二年のときに、日本が第一次大戦――日本側は日独戦争とよんでいた――に参戦し、多分に欧州のどさくさにつけ入るようなかたちで、アジアのドイツ領や権益をおさえたとき、海軍はドイツ領南洋諸島を占領した」。その中に燐鉱石が産出されるアンガウル島があったが、海軍によって「この島の開発と採掘」を命じられたのが、民間人の吉治だったのであり、「資金については、この当時、大正の船成金の象徴的人物といわれた内田信也から出た」。しかし、今度も「わが国の新領土の開発を一私人の手にゆだねていいのか」ということが帝国議会で問題となり、結局、一年で海軍省直営となったのである。

こうして挫折したかに見えた吉治の事業は、司馬が「古風な表現でいえば涜武の典型」であり、「国家的愚挙のはじまりであった」と厳しく批判したシベリア出兵(一九一八)のときにもう一度だけ希望がみえたかに思えた。すなわち、吉治はこれに乗じて「シベリア開発会社」を設立したのだが、「吉治の沿海州・樺太の夢も、反革命軍の崩壊と大正十一年の撤兵によってやぶれた」とし、「吉治の生涯は、噴火口から噴出する熱いガスのなかで熱気球を挙げようとする図に似ていた。たかく太虚に舞いあがっては、気球が破裂して墜落してゆく」と記したのである。

タカジや忠三郎たち大正の若い知識人が、海外へと「膨張」を続ける日本の将来に抱いた不安は大きかったのであり、このような時代に青春を送っていたタカジは二高を落第したのちに東京で、詩人たちの同人誌「驢馬」の会に近づき、次第に革命家へと変貌していくことになる。司馬はその変貌の過程を「阿佐ヶ谷」の章で描くことになるのだが、その前の一連の章で子規に強い影響を与えた叔父・加藤拓川と陸羯南の人物と思想に触れている。

 

註(3)

*20 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、六九頁。

*21 同上、七八~九頁。

*22 同上、二八一頁。

*23 樋口覚「歌のわかれ、英雄の陰に魅かれて」『司馬遼太郎 幕末・近代の歴史観』(『別冊文藝』)、一八三頁

*24 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、八一頁。

*25 同上、二八二~三頁。

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(2)

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3、大正時代と世代間の対立の考察

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観

5、治安維持法から日中戦争へ――昭和初期「別国」の考察

6、記憶と継続――窓からの風景

7、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性

 

2,父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

『ひとびとの跫音』(中公文庫)は次のような章から成り立っている。

(上巻)電車、律のこと、丹毒、タカジという名、からだについて、手紙のことなど、伊丹の家、子規旧居、子規の家計/(下巻)拓川居士、阿佐ヶ谷、服装、住居、あるいは金銭について、ぼたん鍋、尼僧、洗礼、誄詩

「電車」と名付けられたこの小説の最初の章で司馬遼太郎は、かつて阪急電鉄株式会社に車掌としてつとめていた「忠三郎さんのことを書こうとしている」とし、「昭和五一年九月十日の朝、忠三郎さんは脳出血による七年のわずらいのあと、伊丹の自宅の近所の病院でなくなった。七十五歳であった」(太字引用者)と記した。

市井に生きる無名の人々の人情や自然の風景を、とぎすまされた感性で描いた藤沢周平は、司馬遼太郎の主な長編歴史小説を読んでいないことを認めつつも、自分が『この国のかたち』や『街道をゆく』シリーズの「人後に落ちない愛読者であった」と認め、さらに「『ひとびとの跫音』一冊を読んだことで後悔しないで済むだろうと思うところがある」と書き、『ひとびとの跫音』においては「ふつうの人人が司馬さんの丹念な考証といくばくかの想像、さらに加えて言えば人間好きの性向によって一人一人が光って立ち上がって見えてくる」として絶讃した(*8)。

実際、随筆風に書き進められているかに見えるこの小説でも、やはり読んで行くに従って、司馬遼太郎に独特の堅固で緻密な構成と明確な主題を持っていることに気づかされる。

たとえば、後にこの忠三郎が加藤拓川の実子であるとともに、正岡子規の死後に家を継いだ妹律の養子となった人物であることが明らかにされるのだが、この小説を読んでいくと最初の章に記されたさりげない多くの文章が次第に重要な意味を持ち、次の章の主題と直結していることがわかる。

たとえば、忠三郎の「七年のわずらい」を看病した妻のあや子についての描写は、「二十代から三十代にかけての七年間、兄の看病のために終始し、そのことにすべてを捧げた」子規の三歳下の妹律を描いた「律のこと」や「丹毒」の章へとつながるのである。しかも、そこで司馬は兄の死を看取った後で律が東京の共立女子職業学校で学んだことや、さらにそこを卒業した後は母校で教鞭をとっていたこと、さらにその律の養子となった忠三郎と律や実母ひさ、さらにはあや子と二人の義母との関わりなど、それまでほとんど知られていなかった事実を淡々と描いている。

さらに名字を省いて主人公を単に「忠三郎さん」と紹介するという方法は、自らを「タカジ」と呼ばせた西沢隆二について描いた「タカジという名」や「からだについて」の章にも直結しており、それに続く「手紙のことなど」の章では二高時代のタカジと忠三郎との友情が描かれることになる。

そして、「伊丹の家」、「子規旧居」、「子規の家計」などの章でも日中戦争の年に結婚した忠三郎とあや子との結婚の話を核としながら、彼らの生活を通して母となった律や実父加藤拓川、実母との関わりが描かれているだけでなく、実父加藤拓川と秋山好古や陸羯南との関わりなど子規を形作った人々について記されているのである。そして、これらの章の後に本書のクライマックスの一つといえる「拓川居士」において、拓川の愛国論批判が紹介されることになる。

忠三郎の葬儀がカトリックの教会で行われたことも第一章でさりげなく記されているが、このことは彼の「六つ下の末の妹」の「たへ」が洗礼を受けて「ユスティチア」となったいきさつや、彼女たち修道女が日本軍の占領政策のためにフィリピンへと行くことが描かれる後半の章「尼僧」や、忠三郎が妹の意をくんで洗礼をうけることになる「洗礼」の章とも深く関わっていたのである。

そして、忠三郎の葬式に際して葬儀委員長を引き受ける羽目になった司馬がなれぬ葬儀場の手配や「死亡記事」の扱いなどで振り回されたいきさつが記されているのだが、続いて彼はさりげなくこう書いていたのである。「そのあと八日たち、伊丹の正岡家の通夜の日、薄暗い台所で音をたてていたひとの亭主が、信州の佐久でなくなった」。そして、「ほどなく私事だが」、「私自身の父親が死んだ」。こうして、ここには「誄詩(るいし)」と題された終章につながる主要なことが提示されていたのである。

司馬はこの作品の執筆理由の一つとして「忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった」と書いているが、彼らは大正時代に青春を過ごした司馬自身の父親と同じ世代の人々であり、さらに司馬は忠三郎の父親の世代である正岡子規や律などを調べることによって、明治以降の三代の世代をも再考察しているのである。

この意味で注目したいのは、この作品では大正時代に生きた人々が主人公として選ばれていることに注目した評論家の小林竜雄氏が、この小説には「さりげなく隠されたものもある」とし、「司馬遼太郎自身の父親」のテーマも根底にあることを指摘していたことである(*9)。まず、小林氏は「誄詩」の章で短く触れられた次の文章に注意を向けている。「私の身辺にも、タカジよりすこし年上の父が、食道や気管にできた癌で入院していた。このとしは、その種のことで多忙だった。父は、忠三郎さんやタカジが亡くなってから、ほどなく死んだ」。

そして、小林氏は司馬の父「是定は頑固な父・惣八のせいで、江戸期のように寺子屋で学ばされ中学校にも行けなかった。そこで独立して試験を受け薬剤師となったのである。そこには”明治の父”に振り回された”大正の父”の姿があった」とし、「司馬はその父の『跫音』もこの物語から聞いていたのだろう」と書いた。

司馬の内面にも踏み込んだ鋭い指摘であり、大正末期に生まれた司馬が昭和初期に青春を迎えていることを考慮するならば、ここには明治から昭和にいたるまでの市井の人々の生き方が淡々と描かれているといっても過言ではないのである。クリミア戦争に負けて価値が混乱したロシアでは、価値観を巡る世代間の対立が激化して、ツルゲーネフの『父と子』やドストエフスキーの『虐げられし人々』などの作品が書かれたが、『ひとびとの跫音』においても大正時代に青春を過ごした忠三郎と父親の世代の子規や加藤拓川との関わりや、さらに忠三郎の子供の世代ともいえる大岡昇平や司馬遼太郎の世代にいたる三代の青春が描かれていることに気づく。

実際、司馬は忠三郎が中学校二年の一九一四年に、日本が日独戦争と呼んだ第一次世界大戦が始まったこと、司馬が生まれた一九二三年(大正一二)には関東大震災があったこと、忠三郎が就職した一九二七年(昭和二)には、「金融恐慌が進行して」いたこと、さらに忠三郎があや子と結婚した一九三七年が日中戦争の勃発の年であったことなど、個人の体験を日本史の流れの中に位置づけつつ描いているのである。

ただ、小林氏は司馬の父是定を「”明治の父”に振り回された”大正の父”」としたが、単に「振り回された」と言い切れるだろうか。司馬は最後の章「誄詩」で、「この稿の主題は」、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったかと思っているとしているが、「言語についての感想(七)」という随筆や『坂の上の雲』のあとがきで司馬は正岡子規や徳冨蘆花の小説と出会ったのは、父親が買った全集によってであったと記しているのである(*10)。

すなわち、司馬はここで「私は少年のころ、父の書架に、正岡子規と徳冨蘆花の著書またはそれについての著作物が多く、つい読みなじんだ。この二人はほぼ同時代でありながら文学的資質に共通点を見出すことがむずかしい。また明治国家という父権的重量感のありすぎる国家にともに属しつつも、それへの反応はひどくちがっていた」と記して子規だけでなく、蘆花の全集にもふれていた。そして司馬は「蘆花の父一敬は横井小楠の高弟で、肥後実学を通じての国家観が明快であった人物で、蘆花にとって一敬そのものが明治国家というものの重量感とかさなっているような実感があったようにおもわれる」とし、「また父の代理的存在である兄蘇峰へも、一敬に対する嫌悪と同質のものがあり、しだいに疎隔してゆき、晩年は交通を絶った」と続けて父や兄との世代間の葛藤や対立にもふれていたのである(Ⅷ・「あとがき五」)。

つまり、「私事」としてあまり強くは語られてはいないが、「生涯、記録に値するような事跡はみごとなほどのこさなかった」が、「そのことでかえっていぶし銀のような地張りを感じさせてしまう」市井のひと、忠三郎という人物の姿は、強烈な個性を持ち、政府の欧化政策に反抗して学校にも入れなかった祖父のもとで、あまり反抗的な自己主張はしなかったが、子規や蘆花の全集を買い求めて読み込んでいた父親への思いが重なっていたように思えるのである。

徳冨蘆花は日露戦争後に書いた「勝利の悲哀」と題するエッセーにおいて、「一歩を誤らば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明していた(*11)。

司馬も「勇気あるジャーナリズム」が、「日露戦争の実態を語っていれば」、「自分についての認識、相手についての認識」ができたのだが、それがなされなかったために、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」、放火にまで至ることになったと記して、ナショナリズムを煽り立てる報道の問題を指摘した(*12)。さらに『この国のかたち』の第一巻において司馬は、戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と記して、当時の新聞報道を厳しく批判した。

蘇峰が『蘇峰自伝』の「戦時中の言論統一と予」と題した節で、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていることを考えるならば、司馬の鋭い批判は、蘇峰と彼の『国民新聞』に向けられていたと言っても過言ではないだろう。実際、ビン・シン氏の考察によれば、「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質した蘆花に対して、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」として、敵と交渉をするためには味方を欺くことも必要だと答えていたのである(*13)。

しかも、天皇機関説論争が激しさを増した一九三五年(昭和一〇)に「第一天皇機関などと云ふ、其の言葉さへも、記者は之を口にすることを、日本臣民として謹慎す可きものと信じてゐる」と徳富蘇峰が書いていることを紹介した評論家の立花隆氏は、明治四五年に美濃部の『憲法講話』が公刊された際にも、すでに蘇峰の『国民新聞』に「美濃部説は全教育家を誤らせるもの」という批判記事が載っていたことを記している(*14)。

実際、歴史家の飛鳥井雅道氏によれば、この記事の筆者は「しきりに乱臣賊子にあらざることを弁解するに力(つと)むるも、其言説文字は、則ち帝国の国体と相容れざるもの多々なり」として美濃部達吉を厳しく批判し、『国民新聞』も社説などで美濃部の説を「遂に国家を破壊せざれば、已まざるなり」とした職を去ることを強く求めるキャンペーンを行っていたのである(*15)。

『ひとびとの跫音』においてもタカジと父親との対立も描かれていることを考えるならば、私たちはこの小説に「さりげなく隠された」テーマとして日露戦争後に平和を主張した蘆花と蘇峰の対立の問題も考慮にいれる必要があるだろう。

ところで司馬はこの小説について「歴史小説などとは違い、主人公たちは、ついさっきまで市井(しせい)を歩いていたのですからまずファクト(事実)がある。だから読めば気楽に読めますけれど、一点一画もおろそかにしてはいけないという気持ちで執筆しました」(太字引用者)と書いていた。

この言葉の意味は非常に重く、司馬遼太郎の歴史認識と作風の変化自体にもかかわっていると思える。この意味で注目したいのは、司馬が歴史小説を書き始めた頃に司馬が「私の小説作法」として、自分が鳥瞰的な手法をとることを明言していたことである。「ビルから、下をながめている。平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。そんな視点の物理的高さを私はこのんでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。同じ水平面上でその人を見るより、別なおもしろさがある」(*16)。

司馬の歴史小説のおもしろさの一端がここにあったのは間違いないだろう。磯田道史氏は蘇峰や司馬の歴史観が「大衆から圧倒的支持をうけた」と指摘し、「支持された理由は簡単である。ものの見方が実に大局的であり、わかりやすい言葉で語りかけたからである」と説明していた(*17)。実際、多くの読者が書き手である司馬と同じ歴史上の場面を見ながら、司馬の断言的で明快な解説により、それまで複雑で難解だと思っていた歴史に対する興味を持つようになったのである。

ただ、司馬は「鳥瞰的な手法」で歴史を描くとしたが、そのような視野を得るためには何らかの「基準」や「史観」が必要とされていたはずであり、それなくしては上からの風景は単なる「無秩序」になったと思える。それゆえ、「皇国史観」や「唯物史観」という特定の見方からの歴史観を排しつつ、『竜馬がゆく』など「国民国家」を形成する歴史上の人物を主人公とする作品を描き始めたとき、司馬自身はあまり意識していなかったにせよ、彼が依拠していたのは「自由や個性」を重視していた福沢諭吉の歴史観だったと思える。

しかし、すでにドストエフスキーが『地下室の手記』において厳しく批判していたように、福沢諭吉が依拠したバックルの『イギリス文明史』などの近代西欧の歴史観では、「文明」による「野蛮」の征伐が「正義の戦争」として認められており、また、「国益」が重視されることにより、個人間の場合の道徳とは異なり、自国の「国益」にかなわない「事実」は無視されるか、「事実」とは反対のことさえも主張されていたのである(*18)。

このことに気づいたあとでの執筆上の苦悩を司馬は『坂の上の雲』の中頃、正岡子規の死を描いた「十七夜」の次の章の冒頭でも次のようにうち明けている。「この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる。/子規は死んだ。/好古と真之はやがては日露戦争のなかに入ってゆくであろう。/できることならかれらをたえず軸にしながら日露戦争そのものをえがいてゆきたいが、しかし、対象は漠然として大きく、そういうものを十分にとらえることができるほど、小説というものは便利なものではない(太字引用者、Ⅲ・「権兵衛のこと」)。

そして司馬は第四巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることを挙げるようになるのである。

ここには大きな歴史認識の変化が現れているといえるだろう。つまり、後期「福沢史観」と決別したとき司馬は、比喩的にいえば、羽を失って飛べなくなった鳥と同じ様に鳥瞰的な視野を失ったのである。こうして司馬は「国家」の作成による「歴史」ではなく、日露の歴史書を比較しながら自ら判断して書かざるをえないという事態と直面したのである。

それゆえ、『坂の上の雲』を書き終えた司馬遼太郎にとって、大きな課題として残されたのは、「国民」を幸せにすることを約束しつつ、富国強兵に邁進して「国民」を戦争や植民地の獲得へと駆り立てた近代西欧の「国民国家史観」や、そのような歴史観に対抗するために、「自国を神国」と称する一方で、「鬼畜米英」に対する防衛戦争の必然性を唱えて無謀な「大東亜戦争」へと突入することになった「皇国史観」に代わる歴史観を模索し、それを提示するという重たい課題であったと思われる。

この意味で注目したいのは、評論家の関川夏央氏との対談で歴史家の成田龍一氏が「『ひとびとの跫音』は時として異色の作品といわれることもあるようですが、私は非常に司馬遼太郎らしい作品だと読みました。同時にここでは司馬遼太郎が一九八〇年前後に新たな試みをはじめている」ことに注意を向けるとともに、司馬自身が登場人物の一人となっていることにも注意を促していることである(*19)。

つまり、この作品で司馬は鳥瞰的な視点から人物や歴史を描いているのではなく、司馬遼太郎自身が同じ平面にたって彼らと対話を交わしながらこれらの人物を描いているのである。そしてこの作品では司馬自身も自分が敬愛した正岡子規を同じように敬愛し、「子規全集」を出版しようとする熱意に燃えるひとびととの交友をとおして、新しい歴史観と文明観を提示し始めていたのである。

 

註(2)

* 8 藤沢周平「遠くて近い人」『司馬遼太郎の世界』、一九九六年

* 9 小林竜雄『司馬遼太郎考――モラル的緊張へ』中央公論社、二〇〇〇年

*10 司馬遼太郎『この国のかたち』第六巻、三二七頁

*11 徳冨蘆花「勝利の悲哀」『明治文学全集』(第四二巻)、筑摩書房、昭和四一年、三六七頁

*12 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、一九九八年、三六頁

*13 ビン・シン『評伝 徳富蘇峰――近代日本の光と影』、杉原志啓訳、岩波書店、一九九四年、および徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、昭和一〇年参照

*14 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻・一三五頁、上巻・四三四頁

*15 飛鳥井雅道『明治大帝』講談社学術文庫、二〇〇二年、四七~五一頁。なお、日露戦争後の教育をめぐる状況については、高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年参照

*16 司馬遼太郎『歴史と小説』集英社文庫、一九七九年(初出は一九六四年)、二七五~六頁

*17 磯田道史、前掲エッセー、二二頁

*18 科学的な装いをこらした西欧近代の「自国中心的」な歴史観に対するドストエフスキーの批判については、高橋「『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』第四章参照(刀水書房、二〇〇二年)

*19 関川夏央・成田龍一「(特別対談)『ひとびとの跫音』とは何か ある大正・昭和の描き方」(『文藝別冊 司馬遼太郎 幕末・近代の歴史観』河出書房新社、二〇〇一年、四〇頁、四八頁

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・1)

1、グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「想念のなかで、子規の視線」と合わせる

7、後書きに代えて 司馬遼太郎の不安――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

1,グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代

国際政治学者のハンチントンはソ連が崩壊して、旧ユーゴスラビアなどで紛争が頻発するようになった二〇世紀末の世界を分析した大著『文明の衝突』において、「世界的にアイデンティティにたいする危機感」が噴出した結果、世界の各地で旗などの「アイデンティティの象徴」が重要な意味を持つようになり、「人びとは昔からあった旗をことさらに振りかざして行進し」、「昔ながらの敵との戦争をふたたび招くのだ」と指摘した(*1)。実際、彼の指摘を裏付けるかのように、インド・パキスタンの相次ぐ核実験やイラク戦争など、「文明の衝突」が続いて起こり、世界の各国でナショナリズムの昂揚が野火のように広がっている。

日本でも司馬遼太郎が亡くなって「司馬史観」論争が巻き起こった1996年には「『坂の上の雲』では「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈もなされた*4。その翌年の一九九七年には、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まっていた。

こうした中、イラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、この二つの戦争を結びつけながら、日露戦争を肯定的に描いた作品として『坂の上の雲』を再評価しつつ、「教育基本法」を改正して、平成の青少年に「愛国心」や戦争への気概を求めようとする論調が強くなってきている。

たとえば、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルの対談で石原慎太郎・前東京都知事は、「わが国の風土が培ってきた伝統文化への愛着、歴史を担った先人への愛惜の念」や「集団としての本能に近い情念」の重要性を強調するとともに、日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価しながら、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を主張していた(*2)。さらに、石原氏は「もっとこの国に危機が降り積もればいいとさえ考えている」とし、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」とさえ語って、戦争を煽ってさえいたのである。

たしかに『坂の上の雲』(一九六八~七二)の前半で司馬は日清戦争を考察しながら、「侵略だけが国家の欲望であった」一九世紀末において、「ナショナリズムのない民族は、いかに文明の能力や経済の能力をもっていても他民族から軽蔑され、あほうあつかいされる」と書いて、ナショナリズムを「国民国家」に必須のものとしていた(Ⅱ・「列強」)(*3)。

しかし、『坂の上の雲』の前半と同時期に、徳富蘇峰の『吉田松陰』を意識しながら『世に棲む日々』(一九六九~七〇)書いていた司馬は、史実を詳しく調べながら日露戦争を描いていく過程で、次第にナショナリズムの危険性を明らかにしていくのである(*4)。

しかも「司馬史観」は、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させていると厳しく批判されることが多い(*5)。しかし、日露戦争を考察した『坂の上の雲』の後日譚ともいえるような性格をもつ『ひとびとの跫音』(一九七九~八〇)において司馬は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公として描いていた。

そして司馬はこの長編小説のクライマックスの一つにあたる「拓川居士」の章で、正岡子規にも大きな影響を与えた伯父・加藤恒忠(拓川、一八五九~一九二三)の「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き」やすいと指摘した文章に注意を向けているのである。

この意味で注目したいのは、歴史家の磯田道史氏が「たった一人で日本人の歴史観を一変」させた「在野の歴史家」として頼山陽(一七八〇~一八三二)、徳富蘇峰(一八六三~一九五七)とともに司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の名前を挙げ、戦前から戦中の日本で大きな位置を占めた蘇峰の「尊皇攘夷」の歴史観と比較しつつ、司馬が「日本人に染み付いた徳富史観を雑巾でふきとり、司馬史観で塗りなおしていった」と指摘していることである(*6)。

実際、第一次世界大戦の最中の一九一六年(大正五)に書いた大作『大正の青年と帝国の前途』で、徳富蘇峰は明治期の青年と大正期の青年を比較しながら、「此の新時代の主人公たる青年の、日本帝国に対する責任は奈何」、さらに「日本帝国の世界に於ける使命は奈何」と問いかけて、「吾人は斯の如き問題を提起して、我が大正青年の答案を求むる」と記して、「世界的大戦争」にも対処できるような「新しい歴史観」の必要性を強調していた(*7)。

ここで蘇峰が示した方向性は、大正や昭和の青年たちの教育に強い影響力を有してその後の「帝国の前途」を左右したばかりでなく、これからみていくように平成の青年たちの未来にも深く関わっているように思える。なぜならば、「はじめに」でふれたように「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調していたからである。

実際、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルの対談で石原慎太郎氏との対談を行っていた「新しい歴史教科書を作る会」第三代会長の高崎経済大学助教授・八木秀次氏は、同じ号に掲載された「今こそ”呪縛”憲法と歴史”漂流”からの決別を」という題の鼎談で、衆議院議員の安倍晋三氏やジャーナリストの櫻井よしこ氏と「改憲」への意気込みを語ってもいた*5

創刊31年を記念した『正論』のこの号には、「内閣法制局に挑んだ注目提言」も一挙掲載されていたが、「特定秘密保護法」や「安全保障関連法案」などが安倍政権によって強行採決された後では、原発だけでなく武器の輸出などが、この提言を行っていた財界の意向にそって実施されたように、平成の歴史も蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で示した方向性に多くの点で沿っているように見える*6

しかし、問題は蘇峰の示した歴史認識や教育観がどのような結果を招いたかを、きちんと検証することであり、さもないと日本は東条内閣の頃と同じ愚を繰り返すことになると思える。以下、本稿では蘇峰の歴史観にも注意を払いながら、大正の青年たちを主人公にした小説『ひとびとの跫音』で司馬がどのように教育の問題を考察しているかを分析したい。この作業をつうじて私たちは大正時代に生きた若者たちを主人公としたこの小説で、司馬がナショナリズムの危険性を鋭く指摘しながら、明治末期から大正を経て昭和に至る戦争への流れとその危険性を見事に描き出していることを明らかにしたい(本稿においては、歴史的な人物の敬称は略す)。

註(1)

* 1 ハンチントン『文明の衝突』、鈴木主税訳、一九九八年、集英社、一八五~六頁

* 2 石原慎太郎、『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、五八頁。

* 3 司馬遼太郎、『坂の上の雲』、文春文庫、第三巻。以下、巻数をローマ数字で、章の題名とともに本文中に記す。なお、『ひとびとの跫音』(中公文庫)も同様に記す。

* 4 高橋「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『コンパラチオ』九州大学・比較文化研究会、第八号、二〇〇四年参照。

* 5 中村政則『近現代史をどう見るか――司馬史観を問う』岩波ブックレット、一九九七年参照。

* 6 磯田道史「日本人の良薬」『一冊の本』(二〇〇三年一〇月号)、朝日新聞社、二二~三頁。

* 7 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、六五頁。

 

*4 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁。

*5 八木秀次・安倍晋三・櫻井よしこ、『正論』産経新聞社、二〇〇四年、八二~九五頁。

*6 日本経済調査協議会葛西委員会編、「内閣法制局に挑んだ注目提言」、『正論』産経新聞社、2004年、九六~一一五頁。

(青い字は、改訂版で追加した註の数字)。

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・序)

はじめに

今年は「忠君愛国」的な視点からの歴史教育の必要性を唱え、青年に対しては「白蟻」のように勇敢に死ぬことを求めた『大正の青年と帝国の前途』(1916年)を徳富蘇峰が発行してからちょうど百年に当たる。

この書については、大正デモクラシーの立役者となった吉野作造(1878~1933)の「蘇峰先生の『大正の青年と帝国の前途』を読む」があるが、この時代のことは遠い昔となっており詳しい内容はあまり知られていない。

一方、この書における「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価した*1。そして、「若い世代の知識人たち」からは冷遇されたこの書物の発行部数が百万部を越えていることを指摘して、「一般読者の嗜好」には適うものであったとしながら、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調していた*2。

第一次世界大戦の時期に書かれた蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』の再評価は、「大正」を「平成」と入れ替えただけで、「グローバリゼーション」の圧力や「テロ」との「新しい戦争」を強調しながら、青少年に対して「愛国心」や戦争への覚悟を求めるような教育改革の方向性と重なっているだろう。

この意味で注目したいのは、安倍首相が今年の参議院選挙では「改憲」を目指すと明言したことである。安倍首相が事務局長を務めた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」は、「新しい歴史教科書を作る会」の翌年、1997年に設立されていたが、その名称は蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を強く意識して命名されているように思える。

司馬遼太郎氏の歴史認識に関しては、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させていると厳しく批判されることが多い*3。しかし、本文で詳しく考察するように日露戦争を考察した『坂の上の雲』の後日譚ともいえるような性格をもつ『ひとびとの跫音』(一九七九~八〇)において司馬氏は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公として描いていた。

それゆえ、「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって」と題した本稿では、蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』の記述と比較しながら、この小説を詳しく分析することにしたい。この作業をとおして、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を立ち上げた安倍首相の意図にも迫ることができるだろう。

本稿の構成は下記のとおりである。

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「想念のなかで、子規の視線」と合わせる

7、後書きに代えて、司馬遼太郎の不安――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

*1 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、一九九六年、一二九~一三六頁。

*2 同上、二八九~三一四頁。

*3 中村政則『近現代史をどう見るか――司馬史観を問う』岩波ブックレット、1997年参照。

(2016年5月18日。改題に伴って内容を大幅に改訂)

ドストエーフスキイの会、第47回総会と233回例会(報告者:杉里直人氏)のご案内

 「第47回総会と第233回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.134)より転載します。

*   *   *

下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                                           

 日 時2016年5月21日(土)午後1時30分~5時         

場 所千駄ヶ谷区民会館第一会議室(JR原宿駅下車7分)℡:03-3402-7854

総会:午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

例会報告者:杉里直人 氏

 題 目:  『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:杉里直人(すぎさと なおと)

1956年生まれ。早稲田大学、明治大学ほか非常勤講師。2007年以降、マヤコフスキー学院にて『カラマーゾフの兄弟』を講読しており、まもなく読了の予定。最近『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えた。主要訳書:バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(水声社)。

*   *   *

第233回例会報告要旨

 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして

アリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」(第六編第二章)には、子供についてゾシマ長老が述べた印象深い一節がある――「とくに子供を愛されよ、なぜなら、子供も天使のごとく罪なき者であり、私たちを感動させ、私たちの心を浄化するために生き、私たちにとってある種の啓示のようなものだからである。幼子を辱しめる者は嘆かわしい」

「辱められた子供」は『カラマーゾフの兄弟』のもっとも重要な主題の一つである。そもそもカラマーゾフの三兄弟はみな親に遺棄(ネグレクト)され、成年に達するまでその愛情を知らずに生きてきたし、幼時より下(ホ)種(ド)な(レー)男(ツ)だ、嫌(スメ)な(ルジ)臭い(ャーシ)の(チャ)女(ヤ)から生まれた父なし子だと差別され続けてきた、異母兄弟スメルジャコフにいたっては、「この世に生まれないですむなら、腹の中で自殺するのも辞さない」と慨嘆するほどの黒々とした絶望と怨嗟に苛まれている。

幼児凌辱と言えば、読者の胸にもっとも強烈な印象を刻むのは、「反逆」(第五編第四章)のイワンであろう。子供が大好きだというイワンは、古今東西の幼児虐待事件の記録のコレクターで、トルコ、フランス、ロシアでのその種の残虐な事件を弟に縷々語る。彼が結論として引きだすのは、罪のない子供の苦しみ、彼らが流さなければならない不条理な涙は何によっても贖われることがない以上、神の創った世界と、その終末に到来する一切の罪の赦しと永遠の調和を拒否し、神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しないという決意である。

一方、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けて疲労困憊したドミートリーは眠りこみ、奇妙な短い夢を見る。火事で焼けだされた村落で一滴の乳も出なくなった痩せた女に抱かれて泣く赤ん坊の夢。それに魂を震撼されたドミートリーは夢の中で誓う――「もう二度と童(ジチョー)が泣かずにすむように…一刻の猶予もなく、万難を排して、あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」(第九編第八章)。この夢は彼の回心・新生への転回点となる。裁判の前日、彼は監獄を訪ねたアリョーシャに向かって、自分は親父を殺してはいないが、あの童のために懲役に行く、なぜなら「人はみな、万人の犯した罪に対して責任があるからだ」、そして徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌(ギムン)》を歌うと宣言する(第十一編第四章)。その彼にどこまでも寄り添おうとするのが、みずからも「虐げられた子供」の一人でありながら、「一個のタマネギを恵む」女グルーシェンカである。

虐げられた子供の涙を前にして、二人の兄弟を分かち、異なる道に向かわしめるのは、ドミートリーにあって、イワンにはない啓示――「人はみな…」という贖罪意識である。この認識はドミー―トリーとイワンとを遠ざけるだけはない。彼をゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけることにもなる。

兄と弟はそれぞれ独自の子供への愛を語るが、イワンはもちろん、ドミートリーにしても、ゾシマ長老の語る「空想の愛」にとどまることもいなめない。「人はみな…」だけでは、「実践的な愛」には到達しえない。私見によれば、「人はみな…」は、マルケル、ジノーヴィー(ゾシマの俗名)、そしてジノーヴィーの軍隊時代の従僕アファナーシーを貫く「自分にそんなことをしてもらう値打ちがあるだろうか」という謙譲(スミレ)=(ー)忍従(ニエ)をともなわないかぎり、「実践的な愛」には到達しえないのだ。

では、「実践的な愛」の人アリョーシャは、子供にどのように対しているか。あるいは三世代を扱うこの小説にあって、「少年たち」は具体的にどう描かれているか。今回の報告では「子供」を鍵にして、「実践的な愛」と「空想の愛」の諸相について考えてみたい。