高橋誠一郎 公式ホームページ

01月

「特定秘密保護法」と司馬遼太郎のナショナリズム観

特定秘密保護法」は国会できちんと議論されることなく政府与党によって強行採決されましたが、このことについてNHK新会長は、「一応(国会を)通っちゃったんで、言ってもしょうがない。政府が必要だと言うのだから、様子を見るしかない。昔のようになるとは考えにくい」と会見で語りました。

ジャーナリストとしての自覚に欠けたこのような発言からは、国民の不安とナショナリズムを煽ることでこの法案の正当性を主張した政府与党の方針への追従の姿勢が強く感じられ、戦前の日本もこのような認識からずるずると戦争へと引き込まれていったのだろうと痛感しました。

今回は「自らの戦争体験から危険性を訴え、廃止を求めている」瀬戸内寂聴氏への朝日新聞のインタビュー記事を引用し、その後で司馬氏のナショナリズム観を紹介することでこの法律の危険性を示すことにします。

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「朝日新聞」(1月11日)

 年内に施行される「特定秘密保護法」に対し、作家の瀬戸内寂聴さん(91)が「若い人たちのため、残りわずかな命を反対に捧げたい」と批判の声を上げた。10日、朝日新聞のインタビューに答え、自らの戦争体験から危険性を訴え、廃止を求めている。

 表面上は普通の暮らしなのに、軍靴の音がどんどん大きくなっていったのが戦前でした。あの暗く、恐ろしい時代に戻りつつあると感じます。

 首相が集団自衛権の行使容認に意欲を見せ、自民党の改憲草案では自衛隊を「国防軍」にするとしました。日本は戦争のできる国に一途に向かっています。戦争が遠い遠い昔の話になり、いまの政治家はその怖さが身にしみていません。

 戦争に行く人の家族は、表向きかもしれませんが、みんな「うちもやっと、お国のために尽くせる」と喜んでいました。私の家は男がいなかったので、恥ずかしかったぐらいでした。それは、教育によって思い込まされていたからです。

 そのうえ、実際は負け戦だったのに、国民には「勝った」とウソが知らされ、本当の情報は隠されていました。ウソの情報をみんなが信じ、提灯(ちょうちん)行列で戦勝を祝っていたのです。

 徳島の実家にいた母と祖父は太平洋戦争で、防空壕(ごう)の中で米軍機の爆撃を受けて亡くなりました。母が祖父に覆いかぶさったような形で、母は黒こげだったそうです。実家の建物も焼けてしまいました。

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長編小説『坂の上の雲』において常に皇帝や上官の意向を気にしながら作戦を立てていたロシア軍と比較することで、自立した精神をもって「国民」と「国家」のために戦った日本の軍人を描いた司馬遼太郎氏は、その終章「雨の坂」では主人公の一人の秋山好古に、厳しい検閲が行われ言論の自由がなかったロシア帝国が滅びる可能性を予言させていました。

そして日露戦争当時のロシア帝国と比較しながら司馬氏は、「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と指摘していたのです(『この国のかたち』第一巻、文春文庫)。

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司馬氏は明治維新後の「征韓論」が藩閥政治の腐敗から生じた国内の深刻な対立から眼をそらさせるために発生していたことを『翔ぶが如く』(文春文庫)で指摘していました。

現在の日本でも参議院選挙の時と同じように、近隣諸国との軋轢については詳しく報道される一方で、国内で発生し現在も続いている原子炉事故の重大な危険性についての情報は厳しく制限されていると思えます。

今回のNHK会長の発言だけでなく、その発言を問題ないとした菅官房長官の歴史認識からは、戦争中に大本営から発表された「情報」と同じような危険性が強く感じられます。

NHK新会長の発言と報道の危機――司馬遼太郎氏の報道観をとおして

 

私は1994年4月から1年間、1876年創設という古い伝統を持つイギリス・ブリストル大学で、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして研究する機会を与えられました。そのことが私のドストエフスキー研究に大きな意味を持っていることはすでに書きました。

このときのイギリスでの滞在はロシア文学の研究だけでなく、植民地の問題やアヘン戦争などイギリスの近代化の問題の考察の面でも大きな意味がありましたが、それ以外にも自然保護を行うナショナルトラスト運動やイギリスにおける公共放送の役割の認識も深めることができました。

たとえば、BBCやITNといったテレビ局のニュースの解説者にアフリカ系の黒い肌の人がいたりして、民族問題に対する姿勢を感じたりもしました。これは過去に植民地を持っていたイギリスや民族問題をつねに抱えているアメリカなどでは常識なのでしょうが、新鮮な驚きでした。

また、公共放送としても、NHKと比較すると報道も国際情勢を広い視点からなるべく客観的に伝えようとしていることにも強い共感を覚え、戦前や戦中の日本における報道のあり方が自国中心主義であったことを鋭く批判していた作家の司馬遼太郎氏の言葉を改めて思い出してもいました。

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すでに多くの新聞が報じていますが、NHKの籾井(もみい)勝人会長は25日の会見で、日本の戦時中の行動や植民地支配に対する反省が感じられないような発言を繰り返し、その後「就任の記者会見という場で私的な考えを発言したのは間違いだった。私の不徳の致すところです。不適当だったと思う」と反省の弁を述べたとのことです。

しかし、公共放送のトップが私的な見解とはいえ、会見でこのような発言をすることは、報道機関のトップとしての資質に欠けると言わねばならないでしょう。

ここでは「報道」根幹に関わる「特定秘密保護法」についての発言を大きく取り上げた「東京新聞」の本日付の社説の一部を引用しておきます。

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籾井氏は、NHKが従うべき放送法第一条の「目的」に掲げられた「不偏不党」の意味を取り違えてはいないか。例えば、昨年暮れの臨時国会で与党が強行可決した特定秘密保護法である。

籾井氏は就任会見で「一応(国会を)通っちゃったんで、言ってもしょうがない。政府が必要だと言うのだから、様子を見るしかない。昔のようになるとは考えにくい」と述べた。

 同法は、防衛・外交など特段の秘匿が必要とされる「特定秘密」を漏らした公務員らを厳罰に処す内容だが、法律の乱用や人権侵害の可能性が懸念されている。

にもかかわらず「昔の(治安維持法の)ようになるとは考えにくい」と言い張るのは、一方的な見解の押し付けにほかならない。

秘密保護法を推進した安倍晋三首相側への明らかなすり寄りで、もはや不偏不党とはいえない。

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原発事故の大きさを隠蔽していると思えるような報道からは政権との癒着が疑われるような感じを強く受けていましたが、今回の会見からはNHKが自立した公共放送の資格を放棄した観すらあります。

最近はNHKのニュース番組や報道番組をあまり見なくなっているので、詳しい状況を分析することはできませんが、本日付けの「沖縄タイムス」には新会長の発言に関連して次のような社説が載っていました。

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24日夜に放送されたNHKスペシャル「返還合意から18年 いま“普天間”を問う」は、政府の広報番組のような内容だった。

小野寺五典防衛大臣の言い分をえんえんと流すだけ。名護市長選の意味を問い直すこともなく、辺野古移設反対の民意を丁寧に伝えることもなかった。

NHKの内部で何が起きているのか。受信料を徴収している以上、説明責任を果たすことが不可欠である。

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このブログでも書いたように司馬氏の原作を元にしたスペシャルドラマ《坂の上の雲》が、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」を叫んでいた幕末の人々を美しく描き出した大河ドラマ《龍馬伝》を挟んで放映されたことは、イデオロギーの危険性を指摘していた司馬氏の意向に反していたばかりでなく、日本のナショナリズムを煽ることになり、選挙結果にも大きく影響したと考えています(ブログ記事〈改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」〉参照)。

そればかりではなく、近隣の国々のナショナリズムをも煽り建てることになり、東アジアの緊張を高める結果になったと思えます。

「国家」の名の下に「国民」に「沈黙」と「犠牲」を強いて「亡国への坂」をころがった「昭和初期の日本」の問題点を鋭く指摘した司馬氏の考察は、ブログ記事「司馬作品から学んだことⅨ――「情報の隠蔽」と「愛国心」の強調の危険性」で紹介していましたが、現在の日本はその時と非常に似てきていると思えますので、再掲しておきます。

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ロシア帝国の高級官僚たちとの類似を意識しながら司馬は、日露戦争のあとで「教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた」が、「官僚であれ軍人であれ」、「それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた」彼らは、「かつて培われたものから切り離されたひとびとで」あり、「わが身ひとつの出世ということが軸になっていた」とした。

そして、「かれらは、自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対し、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた」とし、「とくに軍人がそうだった」とした後で司馬は、「それを支持したり、煽動したりする言論人の場合も、そうだった」と続けたのである(「あとがき」『ロシアについて』、文春文庫)。

 このような考察を踏まえて司馬はこう記すのである。「国家は、国家間のなかでたがいに無害でなければならない。また、ただのひとびとに対しても、有害であってはならない。すくなくとも国々がそのただ一つの目的にむかう以外、国家に未来はない。ひとびとはいつまでも国家神話に対してばかでいるはずがないのである」。

 さらに晩年の『風塵抄』で司馬は、「昭和の不幸は、政党・議会の堕落腐敗からはじまったといっていい」と書き、「健全財政の守り手たちはつぎつぎに右翼テロによって狙撃された。昭和五年には浜口雄幸首相、同七年には犬養毅首相、同十一年には大蔵大臣高橋是清が殺された」と記し、「あとは、軍閥という虚喝集団が支配する世になり、日本は亡国への坂をころがる」と結んだ(『風塵抄』Ⅱ、中公文庫)。

近刊『黒澤明と小林秀雄』の副題と目次の改訂版を、「著書・共著」に掲載しました

 

昨年末から本書の執筆に取り組んでいましたが、序章にあたる箇所を書き直す中で、第2部の独立性が強すぎることに気づきました。

また、拙著では映画《夢》だけではなく「第五福竜丸」事件の後で撮られた《生きものの記録》や《赤ひげ》、さらには《デルス・ウザーラ》なども、小林秀雄のドストエフスキー観と比較しながら考察しています。

それゆえ、全体の流れを重視して第2部を半分ほどの分量に縮小して第4章としました。

「著書・共著」のページの近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の目次案を更新するとともに、〈「罪と罰」で映画《夢》を読み解く〉という当初の副題も〈「罪と罰」をめぐる静かなる決闘〉に変更しました。

 構成などの大幅な改訂に伴い発行時期が遅れることになりますが、3月1日には成文社のHPに拙著のページ数や価格などのお知らせを掲載できるものと考えています。

 

ボルトコ監督のテレビ映画《白痴》の感想を「映画・演劇評」に掲載しました

 

黒澤明監督の映画《白痴》は、観客の入りを重視した経営陣から「暗いし、長い。大幅カットせよ」と命じられてほぼ半分の分量に短縮されたために、字幕で筋の説明をしなければならないなど異例の形での上映となり、日本では多くの評論家から「失敗作」と見なされました。

しかし、黒澤監督は自分にとってのこの映画の意味を次のように語っていました。

「これは実は《羅生門》の前からやろうときめてた。ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んで、どうしても一度はやりたかった。もちろん僕などドストエフスキーとはケタがちがうけど作家として一番好きなのはドストエフスキーですね。生きていく上につっかえ棒になることを書いてくれてる人です。更に僕はこの写真を撮ったことによってドストエフスキーがずいぶんよく判ったと思うのだけど、あの作家は一見客観的でないような場面も、肝心のところになると見事に客観的になってるのね。…中略…あれは僕の失敗作という定説だけど、結果としちゃ僕にとっては失敗じゃなかった。」

実際、ドストエフスキー研究者の新谷敬三郎氏は、「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いていましたが、この映画は『白痴』の原作を熟知している本場ロシアや海外、そして日本の研究者たちからはきわめて高く評価されました。

事実、黒澤映画《白痴》はナスターシヤをめぐるムィシキンとロゴージンとの「欲望の三角形」だけに焦点を絞ることなく、かつての父親の同僚だったエパンチン将軍の秘書として仕えることになったばかりでなく、莫大な持参金の見返りにすでに関心を失い始めていた美女ナスターシヤとの結婚を強要されたイーヴォルギン家の長男ガヴリーラの屈辱と、将軍の三女アグラーヤへの秘めた野望を、二つの家族の構成やそれぞれの性格をきちんと説得力豊かに描いていたのです。

それゆえ、最近も比較文学者の清水孝純氏が長編小説『白痴』を映画化した「黒澤のこの小説に対する深い愛着」を指摘するとともに、その際に黒澤監督が「『白痴』という小説から得た感動を回転軸として、文学言語を映画言語に転換する」という「戦略」をとっていることを指摘しています(「黒澤明の映画『白痴』の戦略」、『『白痴』を読む――ドストエフスキーとニヒリズム』(九州大学出版会、2013年)。

ただ、舞台を日本に移したこともあり黒澤映画《白痴》では、ギリシア正教を受け入れたロシアの歴史や思想の背景や、カトリックを受け入れたポーランドや西欧との激しい思想的対立を扱うことはできませんでした。また、時間的な制限のために黒澤映画では、トーツキーとの縁談話がおきていた長女アレクサンドラと、絵画の才能に恵まれて鋭い観察眼も有している次女のアデライーダの二人を一人にして描いていました。

一方、黒澤映画からの影響も強くみられるボルトコ監督のテレビ映画《白痴》では、全10回のシリーズとして放映されたために、原作のとおりにエパンチン家の三姉妹をボッティチェリの絵画《春》に描かれた「三美神」のように美しい姉妹として、それぞれの個性をきちんと描き出していました。

だいぶ前に書いたものですが、このテレビ映画について書いたエッセーを「映画・演劇評」に掲載しました。

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4、開催のお知らせと追記

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4が、「福島原発事故 ―総理大臣として考えたこと」をテーマに次のような形で開催されます。

講師:菅直人氏

日時:3月15日(土)14時より

場所:専修大学神田校舎

共催:日本ペンクラブ・環境委員会と専修大学

(入場無料、申込不要・先着順)。

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日本ペンクラブ・環境委員会は昨年の6月29日(土)に、専修大学人文ジャーナリズム学科との共催でシンポジウム【脱原発を考えるペンクラブの集い】part3「動物と放射能」を専修大学で行いました。

(その時に公開されたドキュメンタリー映画《福島 生きものの記録》については、映画評「映画 《福島 生きものの記録》(岩崎雅典監督作品 )と黒澤映画《生きものの記録》」を参照)。

さらに、昨年の12月には事故当時に内閣官房副長官として震災と原発事故の対応に当たっていた参議院議員の福山哲郎氏を講師として、「環境委員会主催・脱原発研究会2013 ――その時、官邸で何が起きていたか――」を行いました。

今回の菅直人氏による講演はその研究会を踏まえて行われるものです。

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私自身は政治的には無党派で、その時々の各党の政策によって投票していますが、福島第一原子力発電所事故が起きたときに政権を担当していた民主党の菅直人総理は、原発を強力に進めてきた長年の自民党政権の「つけ」を払わされたたばかりか、自民党政権や東京電力の問題点を新聞やテレビなどで指摘する時間も与えられずに責任を押しつけられて退任に追い込まれたと考えています。

東京電力・福島第一原子力発電所の大事故の際には、事故直後にロシア政府が避難民をシベリアで受け入れる旨の発表をしていましたが、東北だけでなく首都東京を含む関東一帯が被爆の危機にさらされて、これらの地域の人々は小松左京氏が小説『日本沈没』で描いたような大規模な避難をしなければならないような事態と直面していたのです。

地殻変動によって形成され、いまも大規模な地震が続いている日本で生活している私たちが正確な判断を行うためにも、多くの方にご参加頂きたいと願っています。

 

追記:詳しくは日本ペンクラブの下記のリンク先で確認してください。

 「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4  3月15日開催(1月28日)

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参考文献

1,菅直人『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』幻冬舎新書、2012年

2,福山哲郎『原発危機 官邸からの証言』ちくま新書、2012年

  

原発事故の隠蔽と東京都知事選

 

「原発ゼロ」を公約に掲げて立候補していた前日本弁護士連合会長の宇都宮健児氏に続いて、14日に記者団に対して出馬を正式表明した細川護熙元首相が「原発ゼロ」の方針を打ち出し、小泉純一郎元首相も全面支援を約束しました。

これにより都知事選挙では「脱原発」が主な争点となることが明らかになってきましたが、これにたいして「絶対安全」を謳いながら「国策」として原発を推進してきた政権与党の自民党からは、「原発」の問題は国政レベルの問題であり、「都政」に持ち込むべきではないとの強い批判も出されるようになりました。

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しかし、福島第一原子力発電所の大事故の際には、東京電力の不手際と優柔不断さにより、東北や東京のみならず、関東一帯の住民が避難しなければならない事態とも直面していました。

作家の小松左京氏が『日本沈没』で描いたように地殻変動により形成された日本列島では、いまもさかんな火山活動が続き地震も多発しています。このような日本の「大地」の上に原子力発電所を建設することは庶民の「常識」では考えられないことでした。

そのような「庶民の健全な常識」が覆されたのは、すでに司馬氏が日露戦争の問題として指摘してような情報の隠蔽が、戦後の日本でも続いており原発の危険性についての多くの情報が「隠蔽」されてきたためだったのです。

今回、「脱原発」を打ち出した小泉氏がかつては原発の強力な推進者だったことを批判する人もいますが、しかし、ロシアには「遅くてもしないよりはまし」という諺があります。

映画《夢》を撮った黒澤明監督がすでに指摘していた使用済み核燃料の問題も解決できない中で、原発の再開をすることは、自ら首を絞めるに等しい行為だと思えます。

重要なのは今、「脱原発」に向けた行動や発言をすることでしょう。

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このブログを読まれている読者にはすでに周知のことと思われますが、今年に入ってからも信じられないような事態が次々と発覚しています。

たとえば、「東京新聞」は「東電、海外に210億円蓄財 公的支援1兆円 裏で税逃れ」と題した1月1日付けの記事で、次のような事実を指摘しています。

「東京電力が海外の発電事業に投資して得た利益を、免税制度のあるオランダに蓄積し、日本で納税していないままとなっていることが本紙の調べでわかった。投資利益の累積は少なくとも二億ドル(約二百十億円)。東電は、福島第一原発の事故後の経営危機で国から一兆円の支援を受け、実質国有化されながら、震災後も事実上の課税回避を続けていたことになる」。

また、「朝日新聞」も1月9日付けの記事で「東京電力が発注する工事の価格が、福島第一原発事故の後も高止まりしていることが、東電が専門家に委託した調達委員会の調べでわかった。今年度の原発工事などで、実際にかかる費用の2~5倍の価格で発注しようとするなどの事例が多数見つかった」ことを指摘し、「東電などが市場価格よりも高値で発注することで、受注するメーカーや設備・建設事業者は多額の利益を確保できる。調達費用の高止まり分は電気料金に上乗せされ、利用者が負担している」と続けています。

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高い放射線量のためなどからいまだに溶けた核燃料がどこにあるかも分からないなか、現在も地上タンク群のせきから大量の汚染水が流出する事態が続いています。

今年の3月には「第五福竜丸」事件から60年になりますが、広島・長崎での原爆投下により核の被害者となってきた日本国民は、東京電力・福島第一原子力発電所の大事故では加害者の側に立つことになってしまったのです。

「原発」の問題は東京都民の生命に関わるだけで亡く、東北や関東一帯の住民の生命や地球環境にも深く関わっています。

「被爆国」日本から「脱原発」の力強いメッセージを世界に発するためにも、今回の都知事選挙では「原発の危険性の問題」が徹底的に議論されることを望んでいます。

 

《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」

 

ブログ記事「《かぐや姫の物語》考Ⅰ」に書いたように、高畑勲監督のアニメ映画《かぐや姫の物語》は、竹から生まれた「かぐや姫」が美しい乙女となり五人の公達や「帝」から求婚されながら、それを断って月に帰って行くという原作のSF的な筋を忠実に活かしながら、日本最古の物語を現代に甦えらせていました。

ただ、「かぐや姫の罪と罰」というこの映画のキャッチフレーズにひかれて見たこともあり、『罪と罰』のとの関連では今ひとつ物足りない面もありました。なぜならば、レフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》でもラスコーリニコフが殺した老婆たちの血で「大地を汚した」ことの「罪」を批判するソーニャの次のような言葉もきちんと描かれていたからです。

「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

また、ドストエフスキーには夢の中で他の惑星に行くというSF的な短編小説『おかしな男の夢』もあります。

それゆえ、「かぐや姫の罪と罰」というキャッチフレーズを持つこのアニメ映画でも福島第一原子力発電所の事故で明らかになったような環境汚染の問題が、「月」からの視線で描かれているのかもしれないとの期待を密かに抱いていたのです。

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結果的にいうとそれは過大すぎる期待でしたが、「かぐや姫の罪と罰」こそ描かれてはいないものの、庶民たちから集めた税で優雅に暮らしながらもその問題には気づかない「殿上人」たちの「罪と罰」は、きちんと描かれているという感想を持ちました。

先日のブログ記事では 『竜馬がゆく』における「かぐや姫」のテーマに言及しましたが、司馬氏は『竹取物語』が書かれたと思われる平安時代の頃の制度を鎌倉幕府の成立との関係をとおして,明治維新後の日本における「公」という理念の問題点を鋭く指摘していたのです。ここでは拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』 (人文書館、2009年、120頁)からその箇所を引用しておきます。

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司馬は武士が「その家系を誇示する」時代にあって、竜馬に自分は「長岡藩才谷村の開墾百姓の子孫じゃ。土地をふやし金をふやし、郷士の株を買った。働き者の子孫よ」とも語らせているのである(四・「片袖」)。

ここで竜馬が自分を「開墾百姓の子孫」と認識していることの意味はきわめて重いと思われる。なぜならば、「公地公民」という用語の「公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、『公家(くげ)』という概念に即した公」であったことを明らかにした司馬が、鎌倉幕府成立の歴史的な意義を高く評価しているからである(『信州佐久平みち、潟のみちほか』『街道をゆく』第9巻、朝日文庫)。

すなわち、司馬によれば「公地公民」とは、「具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた制度」だったのである。そして、このような境遇をきらい「関東などに流れて原野をひらき、農場主になった」者たちが、「自分たちの土地所有の権利を安定」させるために頼朝を押し立てて成立させたのが鎌倉幕府だったのである。

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それゆえ、『坂の上の雲』において農民が自立していた日本と「農奴」とされてしまっていたロシアの農民の状態を比較しながら、戦争の帰趨についても論じて司馬遼太郎氏は、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた」と指摘したのです。

そして「大地」の重要性をよく知っていた司馬氏は、「土地バブル」の頃には、「大地」が「投機の対象」とされたために、「日本人そのものが身のおきどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっている」ことも指摘していました。

さらに、明治以降の日本において「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促した司馬氏は、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

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実際、司馬氏が若い頃には「俺も行くから 君も行け/ 狭い日本にゃ 住み飽いた」という「馬賊の唄」が流行り、「王道楽土の建設」との美しいスローガンによって多くの若者たちが満州に渡ったが、1931年の満州事変から始まった一連の戦争では日本人だけでも300万人を超える死者を出すことになったのです。

同じように「原子力の平和利用」という美しいスローガンのもとに、推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた戦後の日本でも「大自然の力」を軽視していたために2011年にはチェルノブイリ原発事故にも匹敵する福島第一原子力発電所の大事故を産み出したのです。

それにもかかわらず、「積極的平和政策」という不思議なスローガンを掲げて、軍備の増強を進める安倍総理大臣をはじめとする与党の政治家や高級官僚は、「国民の生命」や「日本の大地」を守るのではなく、今も解決されていない福島第一原子力発電所の危険性から国民の眼をそらし、大企業の利益を守るために原発の再稼働や原発の輸出などに躍起になっているように見えます。

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日本の庶民が持っていた自然観をとおして、「タケノコ」と呼ばれていた頃からの「かぐや姫」の成長を丁寧に描き出すとともに、「天」をも恐れぬ「殿上人」の傲慢さをも描き出して日本最古の物語を現代に甦えらせたアニメ映画《かぐや姫の物語》は、現代の「大臣(おおおみ)」たちの「罪」をも見事に浮き彫りにしているといえるでしょう。

名作《となりのトトロ》と同じように、時の経過とともにこの作品の評価も高まっていくものと思われます。

 

ドストエーフスキイの会、「第219回例会のご案内」と「報告要旨」を転載します

 

お知らせが遅くなりましたが、「第219回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.120)より転載します。

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下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                

日 時:2014年1月25日(土)午後6時~9時

場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分) ℡:03―3402―7854 

報告者:金 洋鮮 氏(職業:フリー、大阪外国大学地域文化東欧博士前期過程終了、新潮新人賞評論部門、最終候補「三位一体のラスコーリニコフ」)

題 目:謎のトライアングル(スヴィドリガイロフの場合)

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第219回例会報告要旨

 

 芸術作品の粋を評価するうえで欠かせない「韜晦」と「虚実皮膜」、この最も重要なふたつの要素を極めた作家が、ドストエフスキーだと思う。言い換えれば、彼の作品ほど謎とリアリティに満ちた作品は古今東西ないのではないだろうか?

 バフチンの「ドストエフスキーの詩学」によって、登場人物の対話がポリフォニックであることは、今やドストエフスキー読者にとって人口に膾炙したものとなっているが、言葉だけでなく人物そのものが多重であることを付け加えたい。

 作家はピカソに先駆けて、人物を360度の視座から捉えるキュビズム手法を、逸早くその作品に取り入れた。

それゆえ一読ぐらいでは、画期的な描写により衝撃を受けたとしても、その内容の把握はおぼつかない。

『罪と罰』は、彼の全作品においてキュビズムが最も際立った作品で、登場人物の殆どが、キュビズムを把握しやすいアンビヴァレントで描かれているということを、最も謎とされているスヴィドリガイロフと彼の恋を通して確認したい。

スヴィドリガイロフは過去においては少女姦、下男殺し、そして現行では妻を毒殺した、その背後にどれほどの闇があるのか測りようのない真っ黒な人物として現れる。

が、キルポーチンが指摘したように(スヴィドリガイロフはどこにおいても一本調子で書かれていない、彼は、一見そうみるような黒一色の人物ではない[・・・]スヴィドリガイロフは悪党、淫蕩で、シニカルであるくせに小説全体にわたって数々の善行を行うが、それは他の作中人物たちをみんな合わせたよりも多いほどである。)

また「スヴィドリガイロフこそ真の主人公」とミドルトン・マリが指摘する通り、「スヴィドリガイロフの方がラスコーリニコフよりも存在感がある」と感じる読者は結構いる。

清水孝純氏も彼のドーニャとの恋に「謎」を感じ、また(所詮彼の側からは、発動できない受身の求愛の形だったのです)と、従来とは違う新しい見解を述べている。

スヴィドリガイロフ側からすれば、〈私の気持は純粋そのものだったかもしれないし、それどころか、本気でふたりの幸福を築こうと思っていたかもしれませんものね!・・・私の受けた傷のほうがよほど大きかったようですよ!・・・〉と話が逆転する。

今回は反論を覚悟で、大胆な仮説を述べる。

ドストエフスキー作品には、森有正やモチュリスキーが述べたように、有に一大長編となるものが、一挿話として片付けられている。

一挿話を一大長編にするのも、ドストエフスキー作品を読む上での楽しみのひとつであろうし、それが整合性あるものであれば、聞くに耐えられるのでは・・・、このような思いで報告します。

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 例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

 

「研究活動・前史」などを「主な研究(活動)」の固定ページから移動しました

 

「主な研究(活動)」の記事が増えてきましたので、固定ページに記していた以下の文章を「研究活動・前史」というタイトルで、「投稿記事」のページに移動しました 。

「研究活動・前史」/「引率時の体験とIDSでの発表」/「追記」

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「年表」の固定ページも訂正しました。