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汚染水の深刻さと劇《石棺》

汚染水の深刻さと劇《石棺》

前回のブログでは汚染水について記しましたが、今日の報道でも汚染水の問題の悪化が伝えられています。この問題は地球環境にも影響するような大きな問題なので、原子力の専門外ではありますが、このホームページではできる限り汚染水などのことにも触れていきたいと思います。

なぜならば、現在の事態は立っていることも出来ないような激しい揺れに襲われた二〇一一年三月一一日の東日本を襲った大地震とそのご後の状況に似ていると思われるからです。

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大学で会議が行われている時に大地震と遭遇し、その後も余震が続いたために数時間後にようやく研究室に戻った私は、福島の第一原子炉(東京電力福島第一原子力発電所)が危険な状態にあることを知った。

インターネットで情報を見ることができる大学に深夜まで残った私は、生まれ故郷の福島県の城下町二本松市や東北に暮らす親類や知人への不安に駆られて、水素爆発の危険性が指摘された第一原子力発電所の停止画像を見守っていた。

私があまりに真剣に見つめていたので、電車が動かなかったために残っていた同僚からは「日本の技術は進んでいるだから、大丈夫ですよ」と慰められた。

しかし、1995年1月17日には研究留学中のブリストルで、阪神・淡路大震災のことをニュース番組で知り、火の海と化した街の様子や、「他の国の技術とは違うので、絶対に安全」とされた橋脚が無残にも折れて、高速道路が倒壊している映像を見ていた。

それゆえ、画像から目を離すことができずに、事態の展開をかたずを飲んで見守り、自宅に戻ってからもテレビの画面を見つめる日々が続いた。

その後で起きた東京電力福島第一原子力発電所の炉心溶融(メルトダウン)と水素爆発、大量の放射能の流出などの問題については、「映画・演劇評」の「劇《石棺》から映画《生きものの記録》へ」の第三節で記した。

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汚染水の問題の重大さについては、事故後すぐから京都大学助教の小出裕章氏などが指摘していたのですが、根本的な対策がとられなかったために単に福島や日本だけにとどまらず、地球環境にも悪影響をもたらすような危険性が増大しています。

その一因は、歴史的に「外からの危険」に対しては敏感であった日本では、「国家の内部の危険」に対しては鈍感だったことにあると思えます。

すなわち、明治維新後の日本でも「国策」に従順な知識人は優遇されて大きな発言力を持つ一方で、その政策の危険性を指摘した知識人は冷遇されてきました。そしてそれは、ピョートル大帝の改革で上からの近代化が進められ、「国策」に従順な知識人には「貴族」になる道も拓かれていたロシアの場合とも似ているのです。

劇《石棺》から受けた私の衝撃の激しさは、そのことにもよるのでしょう。しかもチェルノブイリ原子力発電所の事故では、「石棺」とすることで放射能の流出は一応止まりましたが、政府によって事故の収束が宣言された福島第一原子力発電所の場合はまだ「石棺」も作られてはいないのです。

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