*ウクライナとガザ――二つの戦争と黙示録
二〇二〇年に大統領経験者とその家族に対する不逮捕特権を認める法律を成立させて独裁を強めていたプーチン大統領は、二〇二一年のドストエフスキーの生誕二百年に際しては作家を「天才的な思想家だ」と賛美した。
しかし、その翌年の二月にプーチン大統領は、ウクライナへの武力侵攻に踏み切った。 この戦争がドストエフスキー研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けて『悪霊』における黙示録の重要性を明らかにしたモチューリスキーが「(ドストエフスキーは)世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と『評伝ドストエフスキー』で記していたからである。
実際、露土戦争の前年に著した『作家の日記』の一八七六年六月号ではトルコによるスラヴ人の虐殺に言及して、ロシアは「正教の統率者として」コンスタンチノープルを求める資格があると記したドストエフスキーは、翌年の四月号では「この戦争は、われわれ自身にとっても、必要なのである」と主張していた。
しかし、ドストエフスキーは、『罪と罰』では現代社会にも通じる主人公の「非凡人 の理論」を厳しく批判し、『白痴』では主人公に「殺すなかれ」という理念を語らせるとともに、黙示録の解釈によって憎悪を煽る人物をも描いていた。
日記の形で綴られた『作家の日記』を読むとドストエフスキーが黙示録的な世界観からロシアの戦争を正当化しているようにも見えるが、彼の戦争観は『カラマーゾフの兄弟』も視野に入れて考察する必要があると思える。
さらに、比較文明論的な視点から見るとき、旧約聖書の預言に依拠して「パレスチナの土地は全てイスラエルのものだ」とするイスラエル政権が、ハマスによる大規模なテロに対する報復としてジェノサイドと批判される大規模な空爆と地上での攻撃を行ったことからはより複雑な深層が見えて来る。
なぜならば、モーセの後継者ヨシュアについて記した旧約聖書の「ヨシュア記」では、神の言葉に従ってエリコの町の住民全員だけでなく、動物も皆殺しにしたことが記されているからである。
旧約の黙示文書の伝統を受け継ぐ黙示録の多くの章でも「幻視者ヨハネ」が視た四騎士による大惨事や天使たちの吹くラッパや七人の天使による疫病や天変地異などの未来の凄惨な出来事とハルマゲドンの戦いが克明に描かれている。
『 #黙示録の四騎士 』(1887年)
黙示録で描かれているこのような二項対立的な価値観を重視したローマ教皇は、一〇九五年の第一回十字軍の派兵に際して遠征に参加する者の罪を赦免した。こうして、他宗教や異端派の迫害をも許された十字軍は、イスラム教徒だけでなくユダヤ人大虐殺とエルサレムの富の略奪を招いていた。
本書の第一章と第二章ではまず黙示録との関係に注目しながら、ドストエフスキーの 初期作品から『悪霊』までの作品を読み直す。
*『悪霊』における「キリストの再臨」の解釈と「八紘一宇」の理念
『悪霊』では元農奴の息子シャートフはロシアで「キリストの再臨」が起きると熱烈に主張していた。第一次世界大戦末期には旧約聖書や黙示録の記述に基づいてユダヤ人がイスラエルを建国した後で「キリストが再臨」すると説く考えが拡がった。日本でも一九一七年から翌年にかけて中田重治や内村鑑三などによりキリストの再臨運動が行われたが、終末論的な教えと世直しを説く新興宗教の教主を「キリストの再臨」と見なす考えも生まれた。
一方、国柱会を興した田中智学が『日本書紀』に記されている全世界を一つの家のようにするという「八紘為宇」という用語を元にして「八紘一宇」という世界統一の理念を唱えると、関東軍参謀の石原莞爾はこの理念に惹かれて一九三一年に満州事変を起こした。
「原理主義的な聖書解釈と日本のナショナリズムと」を結び付けていた中田重治は、ユダヤ人のパレスチナへの入植から強い刺激を受けて、「関東軍に同調する立場をあきらかに」してこう述べた。「日本は黙示録七章二節にある日出国の天使である。世界の平和を乱す事のみをして居る四人の天使(欧州四大民族)から離れて宜しく神よりの平和の使命を全うする為に突進すべきである。」
新興宗教・生長の家の創設者・谷口雅春も一九三六年に教団の雑誌に連載した「古事記講義」では黙示録に依拠しながら、『古事記』に記された八岐大蛇(やまたのおろち)退治と黙示録の「赤い龍」の話を比較して日本の勝利を予言した。
作家の埴谷雄高は「吾国の社会状勢に見あってのこと」としながら、昭和初期の日本では「ドストエフスキイの最高作品は『悪霊』だということにまでなった」と指摘している。それゆえ、第三章では西欧文明が危機に陥った第一次世界大戦以降の日本におけるドストエフスキー作品の受容の問題を黙示録や「八紘一宇」の理念も視野に入れて考察することにより、黙示録に引き寄せた『悪霊』の解釈が『カラマーゾフの兄』の読みをも歪めている可能性を指摘する。
* 黙示録的な世界観と世界最終戦争
作家の武田泰淳はエッセイ「滅亡について」で「黙示録の世界滅亡のくだりを読む」と書いたが、アメリカでは原爆の投下を「神の罰」として正当化し、世界最終戦争(ハルマゲドン)の後で「キリストが再臨」すると説く黙示録的な世界観が拡がった。
思想史家のマーティン ジェイは黙示録とともに旧約聖書の預言を重視し、地球が破滅しても自分たちだけは天に召されて救済されると考えて聖書根本主義とも呼ばれていた福音派の布教者リンゼイの『今は亡き大いなる地球』が七百五十万部以上も売れ、共和党の大統領の政策にも影響を与えたと指摘している。
黙示録の独自な解釈により文鮮明を「再臨のメシア」とする統一教会は、ベトナム戦争への批判が強まった頃に日本やアメリカで布教活動を活発に行い、一九六六年に出版した教理解説書『原理講論』では「〔サタン側と天の側に〕分立された二つの世界を統一するための(……)第三次世界大戦は必ずなければならない」と説いた。
一方、「原爆の父」と呼ばれたオッペンハイマーが一九六〇年に来日した際に会談にも参加していた作家の堀田善衞は、『白痴』の人物体系や原爆パイロットの手紙を踏まえて長編『審判』で原爆投下と黙示録的なキリスト観との関りを指摘した。
激しい宗教弾圧にあった教団で苛酷な体験をした主人公が黙示録的なキリストに魅せられて武装蜂起を命令して破滅するまでを『邪宗門』で描き出した高橋和巳も、ドストエフスキー文学から強い影響が見られる『日本の悪霊』で日本のテロリズムの考察をとおして戦後の日本にも色濃く残っている黙示録的な世界観を厳しく検証している(以上、第四章)。
第五章ではそれまでの考察をふまえて、黙示録を契機とした連続殺人事件を描いた『薔薇の名前』と「キリストの再臨」のテーマや「黙示録を聖書から外すべき」との大胆な提言が記されている堀田善衞の長編『路上の人』を分析する。非ユークリッド幾何学にも言及していたイワンの物語詩「異端審問長官」を読み直すことにより、知識人イワンの深い苦悩を描いたドストエフスキーの考察が、原爆を生み出したアインシュタインの懊悩をも示唆していることを示せるだろう。
ソ連の崩壊後に書かれた国際政治学者ハンチントンの論文「文明の衝突?」は、ロシアや中国、アラブなどの強い警戒感を呼び起こして新たな軍拡を引き起こした。二〇〇一年にニューヨークで同時多発テロが起きると福音派の影響が指摘されるブッシュ大統領は、イラク、イランと北朝鮮を「悪の枢軸国」と呼んで有志国とともに大規模なイラク侵攻を行った。
福音派の牧師ティム・ラヘイが書いた『レフト・ビハインド』シリーズ(一九九五~二〇〇七)が八千万部を売り上げたことを紹介した加藤善之は、このシリーズでは「イスラエルがイランやロシアとの戦争に勝利していく姿がヴィヴィッドに描写される」と指摘している。
こうして、恐怖と憎悪の感情に煽られて各国の軍拡が進み、トランプ大統領が国際法に反してイランの原子炉に対する攻撃を行ったことで「世界の終わり」に近づいているように見える。
しかし、堀田善衞から『路上の人』の映画化権を与えられた宮崎駿監督は、核戦争によって荒廃した世界を舞台に「墓所の主」とナウシカとの激論をとおして黙示録的な世界観との決別をコミックス版『風の谷のナウシカ』で描いた。
終章ではソ連崩壊後の世界情勢も視野に入れて、ニヒリズムと対峙しながら核兵器や黙示録的な世界観の危険性を明らかにしてきた日本の文学の意義に迫る。
【本稿は近著『黙示録の世界観と対峙する――ドストエフスキーと日本の文学』(群像社)の「はじめに」の箇所である。二〇二四年四月、 二〇二五年七月改訂】