高橋誠一郎 公式ホームページ

01月

はじめに 世界の終わりに向き合う文学(改訂版)

(近著『黙示録の世界観と対峙する――ドストエフスキーと日本の文学』、群像社より )

*ウクライナとガザ――ふたつの戦争と黙示録

 2021年のドストエフスキーの生誕二百年に際して作家を「天才的な思想家だ」と賛美したプーチン大統領は、その翌年の2月にウクライナ侵攻に踏み切った。

 この戦争がドストエフスキー研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けて『悪霊』における黙示録の重要性を明らかにしたモチューリスキーが「(ドストエフスキーは)世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と『評伝ドストエフスキー』で記していたからである。

 実際、露土戦争の前年に著した『作家の日記』の一八七六年六月号ではトルコによるスラヴ人の虐殺に言及して、ロシアは「正教の統率者として」コンスタンチノープル[現在のイスタンブール]を求める資格があると記したドストエフスキーは、翌年の四月号では「この戦争は、われわれ自身にとっても、必要なのである」と主張していた。こうして、日記の形で綴られた文章や特定の登場人物の言葉として記された文章を読むとドストエフスキーが黙示録的な世界観からロシアの戦争を正当化しているようにも見える。

 さらに、クリミア戦争に衝撃を受けて一八一二年にヨーロッパ諸国の多国籍軍を率いてロシアに侵攻したナポレオンとその甥・ナポレオン三世の政策を分析した博物学者のダニレフスキーは、攻撃的な西欧文明から守るためにはスラヴ同盟を結成しなければならないと主張し、その思想はドストエフスキーの文明観に強い影響を与えていた。

 しかし、ドストエフスキーの文学を黙示録に引き寄せた解釈は多いが、彼は本当に世界史を「神と悪魔の最後の闘いのイメージ」で見ていたといえるだろうか。なぜならば、『罪と罰』で社会ダーウィニズムの影響を受けた主人公の「非凡人の理論」を厳しく批判したドストエフスキーは、『白痴』では主人公に「殺すなかれ」という理念を語らせていたからである。  

 本書ではこの問題を日本の作家の作品も視野に入れて考察することにより、ドストエフスキーがむしろ黙示録の二項対立的な世界観の厳しい批判者であった可能性を示す。

*侵略する「神の国」――キリスト教シオニズムと戦争の正当化

「天井のない監獄」とも呼ばれるガザを拠点とするハマスによる大規模な越境攻撃で一二〇〇人もの犠牲者が出たのは、二〇二三年一〇月七日のことであった。

 それに対してイスラエル政府はジェノサイドとも批判されるような大規模な報復を行ったが、その翌月には日本会議に所属して活発に活動していた日本の「キリストの幕屋」の信者たちがイスラエルの前線部隊を「慰問」して砲弾に祈りの文言を記す映像が公開された。

 一〇九五年に行われた第一回十字軍の派兵に際してローマ教皇は黙示録の解釈によって、遠征に参加する者には「これまでに彼が犯した罪について罰を一時的に赦免」していた。こうして、他宗教や異端派への十字軍の派遣をも正当化した十字軍の派兵は、イスラム教徒だけでなくユダヤ人大虐殺とエルサレムの富の略奪を招き、その後もユダヤ人に対する激しい差別がスペインや他のヨーロッパ諸国で続いていた。

 そのことを考えると日本人の信者が人を殺す砲弾に祈りの言葉を記すという行動は不思議に思えるが、その背景にはキリスト教シオニズムによる特殊なイスラエル認識がある。キリスト教シオニスト・W・U・ブラックストンの『イエスは来る』では、旧約聖書と黙示録の預言の解釈によって「イスラエルはこの世に作られた神の王国」であり、イエスはそこに「再臨」するという預言説が記されていたのである。

 この思想は第一次世界大戦末期にイギリス外相バルフォアが大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めたことで世界に広まり、一九一七年に『イエスは来る』を邦訳した中田重治も、一九一八年から翌年にかけて内村鑑三とともにキリストの再臨運動を行った。そして、中田は一九三〇年代になると「原理主義的な聖書解釈と日本のナショナリズムと」を結び付けて満州への入植をこう呼びかけていた。

 「日本は黙示録七章二節にある日出国の天使である。世界の平和を乱す事のみをして居る四人の天使(欧州四大民族)から離れて宜しく神よりの平和の使命を全うする為に突進すべきである。」

*『悪霊』における「再臨のキリスト」の解釈と「八紘一宇」の理念

 黙示録の「キリストの再臨」論の独自な解釈をとおしてロシア・メシヤ思想を唱える元農奴シャートフの主張も描かれている『悪霊』の最初の邦訳は、第一次世界大戦が勃発した翌年に出版された。作家の埴谷雄高が「吾国の社会状勢に見あってのこと」としながら、昭和初期の日本では「ドストエフスキイの最高作品は『悪霊』だということにまでなった」と記している。

 それゆえ、本書の第一章と第二章では『白痴』に至るまでと『悪霊』におけるドストエフスキーの黙示録観を分析し、第三章から終章までは西欧文学の手法を学ぶとともに時事的な情報も積極的に取り込んで政治と宗教との関りを深く考察したドストエフスキーの方法を重視して、日本の文学における黙示録的な世界観の考察の深まりとその意義を確認する。

 上京した翌日に二・二六事件に遭遇したことから第一部が始まる堀田善衞の自伝的な長編『若き日の詩人たちの肖像』では、キリストの再臨と異端審問という難問について「限りもなく喋りつづけていた」アリョーシャというあだ名の若い詩人の激しい変貌が描かれている。玉砕の報道が続いた頃にアリョーシャは「天皇がキリストだ」と叫ぶことになるのだが、このような一見唐突な彼の発言はシャートフのロシア・メシヤ思想や黙示録の終末観を介することで理解できるだろう。

 一方、関東軍参謀の石原莞爾は国柱会を興した日蓮主義者・田中智學の説いた「八紘一宇」という世界統一の理念に惹かれて一九三一年に満州事変を起こした。この成句は『日本書紀』に記された全世界を一つの家のようにするという「八紘為宇」という用語を元にしていたが、二・二六事件では皇道派の将校たちが「蹶起趣意書」でもこの用語を用いた。さらに、一九四〇年に近衛内閣が基本国策要綱で「八紘一宇」を用いたことで政治スローガンになった。

 第三章では第一次世界大戦の勃発に強い危機感を抱いた内村鑑三やキリスト教シオニストの中田重治のキリストの再臨説だけでなく、大本教の出口王仁三郎をキリストとみなしていたが、後に脱会して「生長の家」を起ち上げる谷口雅春の黙示録観を考察する。その後で米騒動と「白虹事件」の関係や疫病の問題も扱われているシベリア出兵をテーマとした堀田善衞の長編『夜の森』と大本(おおもと)などをモデルに激しい宗教弾圧を受けた「ひのもと救霊会」の受難とその分派 との対立をとおして、大本の分派である生長の家の危険性も描いた高橋和巳の『邪宗門』などを読み解く。さらに、満州国の建国に関わっていた主人公をとおして「八紘一宇」の理念に問題を考察しているが戦後の日本にも受け継がれていることを明らかにしている高橋の堕落――あるいは、内なる曠野』を分析する。

*「大審問官」としての原爆と核戦争の危機

 学生の時に原爆投下のニュースを知ったときの衝撃を三島由紀夫は「世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある」と書いた。

 第一次世界大戦後に化学兵器は非人道的であるとして禁じられたが、それ以上に非人道的な原爆については日本政府がその問題を訴えず岸政権が「核の傘」理論を打ち出したために、日本の社会ではその危険性についての深い議論はなされなかった。

 しかし、一九五九年八月に原爆投下にかかわったパイロットの往復書簡の一部が朝日新聞に掲載されると、それに長編『美しい星』(一九六二)で敏感に反応したのが三島由紀夫だった。第四章では地球を救おうとした家族と核戦争による「人類全体の安楽死」を目指したグループとの対決をSF的な手法で描いた三島の『美しい星』や高橋和巳の『憂鬱なる党派』など核兵器の危険性を直視した作品を読み解く。

 ことに堀田は長編『審判』(一九六三)で従軍牧師からイエス・キリストの名において「主のご加護を」祈られた後に広島の原爆投下にかかわったパイロットと日中戦争で上官の命令で老婆を殺害した兵士の対話と行動をとおして、黙示録的なキリスト像の危険性を描き出した。

 ベトナム戦争が激化するとアメリカでは反戦運動が拡がったが、それに対抗するようにキリスト教シオニズム的な視点での布教活動も拡がり、核戦争を防ぐ手立てがないという黙示録の解釈を説くテレビ伝道師たちの番組が何千万世帯で見られるようになった。黙示録の解釈により文鮮明を「再臨のメシア」とした韓国の統一教会は、一九六六年に出版した教理解説書『原理講論』では「(サタン側と天の側に)分立された二つの世界を統一するための(……)第三次世界大戦は必ずなければならない」と説いた。

 キリスト教シオニズムの研究者G.ハルセルは、ソ連を「悪の帝国」と非難したレーガン元大統領が、「ハルマゲドンを世界最終核戦争に結びつけ、その必然性を信じる解釈を少なくとも一九八六年までは受け入れていた」と記している。

 本書の第五章ではまず、戦争と黙示録的な世界観の関連を具体的に描いた堀田の長編『橋上幻像』や推理小説的な手法で黙示録の危険性を示したウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を考察する。その後で「再臨のキリスト」のテーマに注目しながら堀田の『路上の人』をとおして『カラマーゾフの兄弟』の物語詩「大審問官」を分析することで、ドストエフスキーが黙示録的なキリスト観の厳しい批判者であることを確認する。

*世界最終戦争の渇望「巨大なニヒリズム」との対峙

 ソ連が崩壊したことで冷戦は終わり平和な時代が到来したかと一時的には見えたが、グローバリズムに対抗して民族や宗教の対立が深まった。たとえば、国際政治学者ハンチントンの論文「文明の衝突?」(一九九六)や比較文明論的な構造を持つ大著『文明の衝突』(一九九八)では、敵国を「野蛮」と見なした文明史家バックル的な文明観が記されていたためにロシアなどの強い警戒感を呼び起こした。

 実際、二〇〇一年九月一一日に同時多発テロが起きると「報復の権利」を主張してタリバン政権を撲滅させたブッシュ米大統領はイラク、イランと北朝鮮を「悪の枢軸国」と呼んでイラク戦争に踏み切ったが、開戦の理由とされた大量破壊兵器は発見されなかった。

 一方、大ヒットした『レフト・ビハインド』シリーズ(一九九五~二〇〇七)を元に二〇一四年に制作された映画ではイスラエルがイランやロシアとの戦争に勝利していく姿が描写されていることを紹介した思想史の研究者・加藤喜之はキリスト教シオニストで牧師のジョン・ハギーが世界最終戦争で「世界の終り」が来ても福音派の信徒だけは救済されると主張していると記してこの信仰の危険性に注意を促している。

 しかし、「アメリカ第一主義」を唱えて地球の温暖化などの重大な問題を軽視する一方で宇宙軍を創設していたトランプがキリスト教シオニストやツイッターを買収した大富豪マスクなどの強力な支援で大統領に再選された。「米国に神を取り戻す」と語り、旧統一教会の韓鶴子総裁を「マザームーン」と呼ぶテレビ伝道師ポーラ・ホワイトを「信仰庁」の長官に任命したトランプは、多様性を排除してイスラエルへの軍事支援を明確にした。そのことにより高い科学技術とIT企業を有する軍事的な超大国アメリカは中世的な宗教国家へと変貌したように見える。

 終章ではこのような複雑な国際情勢を踏まえつつ、オーウェルの『一九八四年』や一九八二年から一九九四年まで続いたコミックス版『風の谷のナウシカ』を参照することで、「巨大なニヒリズム」と対峙して核兵器や黙示録的な世界観の危険性を明らかにしてきた日本文学の意義に迫る。

(「はじめに」では敬称を略すとともに注も省いた。二〇二四年四月)