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憲法

「文明論(地球環境・戦争・憲法)」のページ構成について

リンク→「文明論(地球環境・戦争・憲法)」
新たに作成した「文明論(地球環境・戦争・憲法)」(旧「書評・図書紹介」)のページ構成は、下記のとおりです。
 
Ⅰ、「核の時代」と地球環境
1-1、自然環境
1-2,戦争と原水爆
1-3,原発事故

 

Ⅱ、日露の近代化とグローバリゼーション

2-1、ピョートル大帝の改革と「富国強兵」政策

2-2、ロシア貴族の特権化と農民の没落

2-3,明治維新と「文明開化」

2-4,日本の近代化の光と影

2-5,グローバリゼーションと「文明の衝突」

 

Ⅲ、「核の時代」と日本国憲法

3-1、憲法

3-2、教育制度

3-3,法律と報道

 

 Ⅳ、政治

4-1,「公地公民」という用語

4-2,明治維新と薩長藩閥政府

4-3,「昭和初期の別国」

4-4、安倍政権

(2016年3月17日。改訂)

 

安倍政権の違法性――集団的自衛権行使を認めた閣議決定と内閣法制局

 集団的自衛権の行使を認めた2014年7月の閣議決定に関連して、法制局が内部の検討資料を正式な行政文書として残していないとしてことが明らかになり問題となっていましたが、1月21日に参院決算委が「この閣議決定に関して法制局が作成、保存した全ての文書の開示を要求」したことから、新たな事実が判明しました。

2月17日の「朝日新聞」朝刊は、「内閣法制局が国会審議に備えた想定問答を作成しながら、国会から文書開示の要求があったのに開示していなかったこと」や、「法制局は閣議決定までの内部協議の過程を記録していないこと」も明らかになったと報道していました。

今朝(2月24日)の「東京新聞」はそのような経過も踏まえて「内閣法制局 内部文書を国会に示せ」という社説を載せています。分かりやすく論理的な文章なので、その一部をここで引用しておきます。

*   *   *

「どのように集団的自衛権をめぐる憲法解釈を変更したのか。内閣法制局は内部検討資料があるのに国会への開示を拒んでいる。憲法上の重大問題だけに、解釈変更のプロセスは明らかにすべきだ。

日本は相手から攻撃を受けていないのに、武力で同盟関係にある他国を守る-。簡単に言えば集団的自衛権はそう説明できる。政府は従来一貫して、この行使は認められないとしてきた。

有名なのは一九七二年の政府見解だ。ここでは、自衛の措置をとることはできるが、平和主義を基本原則とする憲法が無制限にそれを認めているとは解されないこと。さらに集団的自衛権の行使は憲法上、許されないことをはっきりと明言している。

むろん、「憲法の番人」といわれる歴代の内閣法制局長官もこの見解を踏襲している。国民に対しての約束事であり、国際社会に対する約束事であったはずだ。

ところが、一昨年七月に安倍晋三内閣がその約束事をひっくり返し、集団的自衛権の行使容認を閣議決定してしまった。…中略…

この閣議決定は憲法改正に等しい事態だった。それを受けた安全保障関連法も憲法違反の疑いが濃厚で、野党から廃止法案が出ている。国会に提示すべき文書といえよう。内閣法制局が重要文書の開示を拒み続けるのは、国民の「知る権利」の侵害と同じだ。

*   *   *

憲法53条は臨時国会の召集について、「いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」と定めており、昨年の秋に野党各党は衆参両院でそれぞれ4分の1以上の議員数により「臨時国会召集要求書」を提出していました。/「憲法」の規定による要求を無視していたことは、「国民」の正当な権利の侵害にあたると思われますが、安倍政権が「国会」開催に躊躇したのは、このような「事実」が明らかにされることを嫌がったためだと思われます。

多くの「憲法」違反と思われる国会運営を行っている安倍内閣と閣僚たちの違法性については、テレビなどできちんと報道されるべきなのですが、戦前の内務大臣を思わせるような「総務大臣」の報道統制についての発言で萎縮しているようにも見えます。

「政権」を選挙で選ぶという民主主義は手間暇のかかる制度ですが、それまでの「武力」による権力の奪取しか方法のなかった時代と比較するときわめて穏健で、妥当な制度だと思われます。その民主主義を守るためにも帝政ロシアの政策を想起させるような危険な「安倍政権」の問題点を、HPを通して指摘していきたいと考えています。

裁判制度と内閣法制局に関係する記事

なぜ今、『罪と罰』か(5)――裁判制度と「良心」の重要性

参院特別委員会採決のビデオ判定を(4)――福山哲郎議員の反対討論

「安倍政権の無責任体制」関連の記事一覧

先ほどの「安倍政権の違法性」と題した記事では、〈多くの「憲法」違反と思われる国会運営を行っている安倍内閣と閣僚たちの違法性については、テレビなどできちんと報道されるべきなのですが、戦前の内務大臣を思わせるような「総務大臣」の報道統制についての発言で萎縮しているようにも見えます〉と記しました。

それゆえ、新聞『日本』の報道姿勢と比較しながら、安倍政権の言論感覚を論じた昨年6月27日と先ほどの記事を追加して更新します。

「犬の遠吠え」見たいな記事であまり影響力はありませんが、日記のようなつもりで忘れてはならないことを少しずつでも記すことにします。

ここでは「安倍政権の無責任体質」に関する記事の題名を「体制」にかえたうえで、これまでに書いた記事一覧を掲載します。

 

安倍政権の無責任体制・関連の記事一覧

安倍政権の違法性――集団的自衛権行使を認めた閣議決定と内閣法制局

宮崎議員の辞職と丸川環境相の発言撤回――無責任体制の復活(9)

安倍政権閣僚の「口利き」疑惑と「長州閥」の疑獄事件――司馬氏の長編小説『歳月』と『翔ぶが如く』

安倍首相の「嘘」と「事実」の報道――無責任体制の復活(8)

アベノミクスと武藤貴也議員の詐欺疑惑――無責任体制の復活(7)

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体制の復活(6)

「新国立」の責任者は誰か(2)――「無責任体制」の復活(5)

デマと中傷を広めたのは誰か――「無責任体制」の復活(4)

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体制」の復活(3)

TPP交渉と安倍内閣――「無責任体制」の復活(2)

「戦前の無責任体制」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

大義」を放棄した安倍内閣(2)――「公約」の軽視

「大義」を放棄した安倍内閣

 新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

(2016年2月24日。文面を一部変更し、リンク先を追加)。

「核の時代」と「日本国憲法」の重要性

リンク→文明論(地球環境・戦争・憲法)

ブログ記事を〈「核の時代」と「日本国憲法」の重要性〉と改題し、「文明論(地球環境・戦争・憲法)」のページとリンクします。

関連記事一覧

「核の時代」と「改憲」の危険性

フィクションから事実へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観

「憲法記念日」と「子供の日」に寄せて――「積極的平和主義」と「五族協和」というスローガン

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

「集団的自衛権の閣議決定」と「憲法」の失効

(2016年3月9日。改題し、リンク先を追加)

「核の時代」と「改憲」の危険性

昨年9月に政府と自民・公明の与党は、日本国憲法の立憲主義をくつがえして、戦後の日本が培ってきた平和主義を破壊する戦争法(安保関連法)案を強行採決しました。

この強行採決が「無効」であったとの見解を法律家だけでなく多くの野党議員や「安全保障関連法に反対する学者の会」や学生組織・シールズ、そしてさまざまの市民団体が示してきました。

それにもかかわらず、「大義なきイラク戦争」を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官に「旭日大綬章」を贈るなど好戦的な姿勢をアメリカに示した安倍晋三首相は、その一方で現憲法を「占領時代につくられた憲法で、時代にそぐわない」と断罪し、衆議院予算委員会の審議においては連日のように「改憲」を明言しています。

しかし、広島・長崎の悲劇を踏まえて1947年5月3日に施行され、「第五福竜丸」の悲劇を経て深化した「日本国憲法」は、1962年のキューバ危機に現れたような「人類滅亡の危機」を救うすぐれた理念を明文化したものであり、世界の憲法の模範となるような性質のものと思われるのです。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

*   *   *

原爆や原発の危険性に眼をつぶって安保関連法案を強行採決した安倍氏の歴史観が、日本とその隣国を悲劇に巻き込んだ東条英機内閣の閣僚を務めながらも、その問題を深く反省しないままに首相として復権した祖父・岸信介氏に近い危険なものであることについては、このブログでもたびたび言及してきました。

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(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

戦争法によって、これまでの政策を一変して武器や原発を売ることができるようにした安倍政権の政策は、世界を破滅寸前まで追い込んだ19世紀の「富国強兵」政策ときわめて似ているのです。

日本の報道機関や経済界は、このような危険性に気づきつつも目先の利益を優先して、「東京オリンピック」が終わるまでは安倍政権に権力を委ねることを選んでいるように見えます。

しかし、麻生副総理が「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と述べた発言は内外に強い波紋を呼びましたが、ヒトラーがユダヤ人や第一次世界大戦の戦勝国への憎しみを煽りつつ戦争への具体的な準備を進めたのは、1936年のベルリン・オリンピックの時だったのです。

フクシマの被災地の現実を隠すようにして行われる「東京オリンピック」には強い疑問もありますが、せめて「平和なオリンピック」とするためには好戦的な本音を隠しつつ、「神社本庁」などの力を借りて「改憲」を目論む安倍政権を早期退陣に追い込むことが必要でしょう。

このHPでは「文学・映画・演劇」を中心的なテーマとして、あまり政治的なテーマは扱いたくはなかったのですが、安倍政権による「改憲」の危険性が差し迫ってきましたので、国民の生命を戦争や原発事故から守るために、「文明(地球環境・戦争・憲法)」(「書評・図書紹介」より変更)のページを設けて、原水爆や原発など原子力エネルギーの問題や戦争や憲法を決定する政治の問題を考察するようにしました。

また、〈「核の時代」と「日本国憲法」の重要性〉のペーともリンクしました。

リンク→「文明論(地球環境・戦争・憲法)」

リンク→〈「核の時代」と「日本国憲法の重要性〉

(2016年2月17日。図版を追加。3月9日、リンク先を追加)

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

前回は校長が「教育勅語」に記された「忠孝」の理念を強調する一方で、「憲法」に記された「四民平等」の理念にもかかわらず差別的な考えを持っていたことや、郡視学の甥・勝野文平がつかんだ情報を用いて丑松を学校から放逐しようとしていたことを確認しました。

*   *   *

『破戒』で日本における差別の問題を取り上げた藤村は、その一方で「人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』(引用者注――キシニョフ、キシナウとも記される。モルドバ共和国の首都。1903年にポグロムが起きた)で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう」とも記して、国際的な状況にも注意を促していました(第1章第4節)。

この意味で注目したいのは、若きドストエフスキーが言論の自由がほとんどなく「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で、女主人公ワルワーラの「手記」において「権力者としての教師」の問題や寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」という差別に深くかかわる問題を描いていたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことです。

*   *   *

田舎で育ったために学校生活にまったく慣れていなかったワルワーラが学校生活の寂しさから、最初のうちは予習もできなかったために、怒りっぽかった女の先生たちから、「教室の隅っこに膝をついて坐らされ、食事も一皿しか貰えない」というような罰を受けたのです。

このような体罰の問題については、『死の家の記録』(1860~62)でより深く考察されることになるのですが、すでにドストエフスキーは『貧しき人々』で、田舎育ちで学校生活に慣れなかったワルワーラを、教師たちが学習の進度を邪魔する「できない子」として体罰を与えるとき、「教室」という一種の「閉ざされた空間」において「いじめ」の問題が発生することを描いていました。

「ワルワーラの手記」では、そのことが次のように記されています。「女生徒たちはあたくしのことを笑ったり、からかったり、あたくしが質問に答えていると横から口をはさんでまごつかせたり、みんなでいっしょに並んで昼食やお茶にいくときにはつねったり、なんでもないことを舎監の先生に告げ口したりするのでした」。

級友たちも「秩序」の受動的な破壊者である「できない子」を批判することで、「権力」を持つ教師に気に入られようとし始めるのです。ワルワーラは「一晩じゅう校長先生や女の先生や友だちの姿が夢にあらわれ」たと書いていますが、それは学校の日常生活の中で次第に追いつめられた彼女の心理状態をもあらわしているでしょう。

しかも、『貧しき人々』の構造で注目したいのは、プーシキンの作品に出会ったことでより広い世界に目覚めるようになる「ワルワーラの手記」がこの作品の中核に置かれることで、それまで自分を「ゼロ」と考えていた中年の官吏ジェーヴシキンが、ワルワーラとの文通や貸し与えられたプーシキンの作品によって、自分の価値を見いだすようになるだけでなく、社会的な意識にも目覚めていく過程も描かれていることです。

たとえば、九月五日付けの手紙では夕暮れ時のフォンタンカの通りを歩く貧しい人々と華やかなゴローホワヤ街やそこを馬車で通る金持ちの人々とを比較したジェーヴシキンは、大金持ちの耳に「自分のことばかりを考えるのは、自分ひとりのために生きていくのはたくさんだ」とささやく者ものがいないことがいけないのであると記しています。

注目したいのは、この作品でも「国庫の利益をなおざりにした」として解雇された元役人ゴルシコーフが、「請負仕事をごまかした商人」と争って、「こね」や「財産」のない者が裁判に勝つことはきわめて難しかったにもかかわらずこの裁判に勝ったものの、それまでのストレスからあまりの興奮に、突然亡くなってしまったという顛末が描かれていることです。

この小説は悲劇的な結末を迎えますが、それは、裁判の公平さや権力の暴走を防ぐことのできるような「憲法」の重要性を、イソップの言葉で読者に示唆するためだったと思えるのです。

(リンク→高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年)

それゆえ、私は初めて『貧しき人々』を読んだ時には、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」にこのような小説を発表していた若きドストエフスキーに、「薩長藩閥政府」から「憲法」を勝ち取ろうとしていた日本の自由民権論者たちとの類似性すら感じていたのです。

*   *   *

一方、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ1932年に発表した評論「現代文学の不安」で文芸評論家の小林秀雄は、芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定する一方で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記して、ドストエフスキーの作品を知識人の不安や孤独に焦点をあてて読み解いていました。

しかも、前期と後期の作品との間に深い「断層」を見て、『罪と罰』の前作『地下室の手記』を論じつつ、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していた哲学者のシェストフから強い影響を受けていた小林は、前期の作品をほとんど無視し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したのです。

「報復の権利」を主張したブッシュ元大統領が始めたイラク戦争の翌年の2004年に、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する著作を発表した小説家の亀山郁夫氏も主人公たちに犯罪者的な傾向を強く見て、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」という独創的な解釈を示しました(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上、285頁)。

さらに亀山氏は前期の作品との継続性も指摘して、『貧しき人々』のジェーヴシキンをも悪徳地主である「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると断定したのです(上、72頁)。

このようなセンセーショナルな解釈は読み物としては面白いものの、その作品で主人公たちの「不安」をとおして「教育制度」などについても深く考察していたドストエフスキーの作品を矮小化していると私は感じました。

さらに大きな問題はこのような主観的な解釈が、「憲法」のない帝政ロシアで検閲を強く意識しながらも、「裁判の公平」や「言論の自由」をイソップの言葉で果敢に主張していたドストエフスキー作品の意味を読者から隠す結果になっていることです。

*   *   *

これらの小林氏や亀山氏のドストエフスキー論と比較するとき、明治時代の北村透谷や島崎藤村は、なぜ文明論的な視野と骨太の骨格を持つ『罪と罰』に肉薄し得ていたのでしょうか。

次回は、ドストエフスキーが弁護士ルージンとラスコーリニコフなどの対決をとおして「法律」の問題を深く考察していることを踏まえて、再び帝政ロシアの時代に書かれた『罪と罰』における「良心」の問題を考えて見たいと思います。

「司馬遼太郎の戦争観」を「主な研究」に掲載 

リンク→司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ

8月14日の安倍談話は日英の軍事同盟によって勝利した日露戦争の意義を強調することで故郷の先輩政治家・山県有朋の政治姿勢を評価した安倍氏は、国会でも十分な審議を行わずに戦争への参加を可能とする「安全保障関連法案」を「強行採決」して、祖父の岸信介氏と同じように軍拡路線を明確にしました。

一方、きわだった個性を持った吉田松陰とその弟子高杉晋作の悲劇的な生涯を生き生きと描いた長編小説『世に棲む日日』(1969~70年)で、「革命は三代で成立するのかもしれない」と分類した司馬氏は、三番目に現れる世代を「初代と二代目がやりちらした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる」と位置づけ、山県狂介(有朋)を「その典型」として挙げていました(三・「御堀耕助」)。

そして、長編小説『坂の上の雲』(1968年~72年)の第四巻の「あとがき」で、「日露戦争の勝利後、日本陸軍はたしかに変質し、別の集団になったとしか思えない」と書いた司馬氏は、「長州系の軍人だけでも二一人」を「華族」などに昇格させた「日露戦争後の論功行賞」の理由は、山県有朋を「侯爵から公爵に」のぼらせるためだったと説明していました(「『旅順』から考える」『歴史の中の日本』)。

つまり、明治維新に際しては「四民平等」の理念が強調されていましたが、1884年に成立した華族令で爵位が世襲とされたことにより、日本の社会は貴族階級のみが優遇される一方で、農民などの一般の民衆が過酷な税金と徴兵制度によって苦しんだ帝政ロシアと似た相貌を、急速に示すようになっていたのです。

(拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年、277~278頁より。引用に際しては、文体を変更した)。

それゆえ、明治期に作られた「新しい伝統」に深い疑問を抱いた司馬氏は、世界でも誇りうる「江戸文明」に次第に関心を向けるようになり、江戸時代にロシアとの戦争を防いでいた町人・高田屋嘉兵衛を主人公とする長編小説『菜の花の沖』(1979~82年)を描くことになったのです。

この長編小説の意義については、昨年、学会で発表しましたが(リンク→「「商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代」、昨年末には「司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ」と題するエッセイを『全作家』に投稿しましたので、「主な研究」に掲載します。

(2016年1月18日。記事を差し替え)

 

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(2)――長編小説『竜馬がゆく』における「神国思想」の批判

ISBN978-4-903174-23-5_xl(←画像をクリックで拡大できます)

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館、2009年)

 

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(2)――長編小説『竜馬がゆく』における「神国思想」の批判

いよいよ今年は、日本の未来をも左右する可能性の強い参議院選(あるいは衆参同時選挙)が行われる重要な年となりましたが、安倍政権の「憲法」観の危険性を認識している人がまだ少ないようです。

それゆえ、昨日は〈安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」〉と題して、安倍首相の「改憲」の本音に対する公明党・山口代表の不思議な批判について考察した記事を掲載しました。

戦後70年を迎えて語った「安倍談話」で、安倍氏が「歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と未来志向を語っていたので、このような批判は当たらないと思う人が少なくないかもしれません。

しかし、このように語り始めた安倍氏が「歴史の教訓」の例として取り上げたのは、明治時代における「立憲政治」の樹立と日露戦争の勝利でした。

昨年の「戦争法案」の強行採決に際しては安倍政権が「立憲政治」を尊重していないことが明らかになりましたが、長編小説『坂の上の雲』のクライマックスで描かれている日露戦争についても、安倍氏は「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と語っていたのです。

司馬氏の『坂の上の雲』は秋山兄弟など軍人に焦点が当てられることで、保守的な政治家や武器の輸出を目指していた大企業の幹部から高く評価されていましたが、『坂の上の雲』の映像化について司馬氏は「この作品はなるべく映画とかテレビとか、/そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品であります」と明確に記していました(『「昭和」という国家』日本放送出版協会、1998年)。

しかも、イデオロギーを「正義の大系」と呼んで、その危険性に注意を促していた司馬氏は、『坂の上の雲』執筆中の1970年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していました(「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、1974年、114~115頁)。

そして、この長編小説を書き終えた後では、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いて、政治家やマスコミの歴史認識を厳しく批判していたのです(「『坂の上の雲』を書き終えて」『司馬遼太郎全集』第六八巻、評論随筆集、文藝春秋、2000年、49頁)。

*   *   *

司馬氏が「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦の時間」を「異胎」と呼び、そのことがマスコミなどで広がり、司馬が昭和初期を「別国」と呼んだこともよく知られており、そのために司馬氏が「明治国家」の讃美者であるかのように思っている読者は今も少なくないようです。

しかし、『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描いた司馬氏は、その頃の「神国思想」が、「国定国史教科書の史観」となったと歴史の連続性を指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判していたのです(二・「勝海舟」)。

この記述に留意するならば、幕末の動乱を描きつつ司馬氏の視線が昭和初期の日本に向けられていたことは確かでしょう。〈拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館)、「序」参照〉。

しかも『翔ぶが如く』で、明治元年に「神事(祭祀(さいし)、大嘗(だいじょう)、鎮魂、卜占(ぼくせん)」をつかさどる奈良朝のころの「神祇官(じんぎかん)」が再興されていたことを説明した司馬氏は、「仏教をも外来宗教である」とした神祇官のもとで行われた「廃仏毀釈」では、「寺がこわされ、仏像は川へ流され」、さらに興福寺の堂塔も破壊されたことを紹介していたのです。

 

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(2017年1月3日、副題を追加)

 

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安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(1)――岩倉具視の賛美と日本の華族制度

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(破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。写真は「ウィキペディア」より)

いよいよ今年は、日本の未来をも左右する可能性の強い参議院選(あるいは衆参同時選挙)が行われる重要な年となりました。

2016年1月11日付けの「東京新聞」朝刊によれば、安倍晋三首相は10日放送のNHK番組で、「おおさか維新もそうだが改憲に前向きな党もある」と指摘して、夏の参院選では自民、公明両党のほか、改憲に前向きな野党勢力と合わせて国会発議に必要な三分の二以上の議席確保を目指す考えを明言したとのことです。

この言葉は、安倍晋三氏の本音でしょう。

なぜならば、去年の2月13日に行った施政方針演説で、〈「日本を取り戻す」/ そのためには、「この道しかない」/ こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。〉と語った安倍首相は、「憲法」の発布には懐疑的な一方で、帝政ロシアの貴族制に似た華族制度を考えていた公家出身の政治家岩倉具視に言及しながら、こう続けていたからです。

〈明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。 /  「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない」

明治の日本人にできて、今の日本人にできない訳はありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。〉

岩倉具視を讃えたこの言葉を素直に読み解くならば、安倍氏が目指しているのは、「明治維新」に際して「神祇官」を復活させ、「廃仏毀釈」*を行ったきわめて神道色の強い政治であることは明らかだと思えます。

*注、「廃仏」は仏を破壊し、「毀釈」は、釈迦の教えを壊すという意味。明治政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に太政官布告(通称「神仏分離令」)が発せられたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破戒や僧侶の還俗強制などがおきた。この項は『広辞苑』を参照した。〉

それゆえ、このような安倍氏の姿勢に共感を寄せるおおさか維新の片山虎之助共同代表も同じ番組で、「憲法改正を考えている。できるだけ早く案をまとめたい」と自民党と連携して党改憲案を早期にまとめる考えを示し、日本のこころを大切にする党の中山恭子代表も参院選で改憲は「最重要課題だ」とし、「自主憲法を日本人の手で作り上げなければいけない」と述べたのも同じ理由からでしょう。

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一方、公明党・山口那津男代表は、このような安倍首相の政治姿勢を〈いきなり(改憲勢力で)3分の2を取って、憲法改正をしようというのは傲慢(ごうまん)だ〉とBSフジの番組で批判したとのことですが、NHKの番組ではいつものように大幅に後退し、「単に国会の中の数合わせだけでは済まない。おおさか維新のみならず、その他の野党も含めた幅広い合意形成の努力が重要だ」と首相をけん制したのみに留まったようです。

本当に「平和」や「憲法」を守ろうとするならば、「大義なきイラク戦争を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官」の二人にたいして「文化の日」に勲一等、「旭日大綬章」を贈った安倍政権の好戦的な姿勢や、彼らの作った案にそって「改憲案」を作っていると思われる自民党・安倍政権の「いかがわしさ」を厳しく批判すべきだったと思えます。

ここには政権与党にいれば、安倍政権の意向を左右できると考えているとおもわれる「平和ぼけ」した公明党幹部のおごりや油断があると思えます。

歴史を振り返ってロシア革命など権力の移行期のことを想起するならば、独裁を許すように「改憲」されたあとではどのような事態が訪れるかは、明らかでしょう。

(2017年1月3日改題)

「憲法」なき帝政ロシアと若きドストエフスキー

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2007年に上梓した拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社)が、思いがけず、昨年の夏以降に再び販売数を伸ばしているようです。

あまり読者数が多いとは思われないドストエフスキーの初期作品を論じたこの本が売れていることに驚いていますが、その理由の一端は〈序章 近代化の光と影――「祖国戦争」の勝利から「暗黒の三〇年」へ〉の末尾で記した次のような文章にあるのかもしれません。

〈この考察をとおして、「祖国戦争」からクリミア戦争にいたるロシアの「暗黒の三〇年」と呼ばれる時期が、日露戦争から「大東亜戦争」にいたる時期と極めて似ていることを明らかにできるだろう。すなわち、ドストエフスキーの変化をきちんと分析することは、「明治憲法」を勝ち取った日本の知識人が、なぜ「憲法」を持たなかったロシアの知識人と同じように破局的な戦争へと突き進むことを阻めなかったのかを考察するためにも必要な作業なのである。〉

それゆえ、「著書・共著」のページに掲載していた『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』の「はじめに」の文章の一部を〈「暗黒の三〇年」と若きドストエフスキー〉と題して、「あとがき」の一部を〈「新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性〉と題して、「主な研究」に掲載します。

 

リンク→「暗黒の三〇年」と若きドストエフスキー(「はじめに」より)

 リンク→「新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性(「あとがき」より)

リンク→『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(目次)