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ドストエフスキーとトルストイⅡ――『死の家の記録』と『罪と罰』をめぐって

ドストエフスキーとトルストイⅡ――『死の家の記録』と『罪と罰』をめぐって

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(『欧化と国粋』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに

前回は、雑誌『時代』や長編小説『虐げられた人々』におけるドストエフスキーのトルストイ作品への言及を考察しましたが、トルストイも1881年2月に評論家のストラーホフに出した手紙で、『虐げられた人々』を読み直して「感動した」と書いていました。

今回はグロスマンが編集したドストエフスキーの伝記や徳冨蘆花の「順禮紀行」によりながら、ストラーホフという批評家を挟んでドストエフスキーとトルストイの関係を分析することで、『死の家の記録』と『罪と罰』についてのトルストイの高い評価の意味を考察することにします(なお本稿では、題名も含めて人名の表記は、ドストエフスキーに統一します)。

 

1,「大改革」の時代と『死の家の記録』

ドストエフスキーが「大改革」の時代に自分が体験したシベリア流刑と監獄での生活を元に描いた長編小説『死の家の記録』では、この小説の書き手を自分と同じ政治犯ではなく、妻殺しの罪で捕らえられたゴリャンチコフと設定し、さらにプーシキンの短編集『ベールキン物語』のように、主人公の描いた記録を別の編者がまとめるという形をとっています。このことによって、ドストエフスキーは小説の「虚構性」を確保して検閲に対処するとともに、内容においては大胆に監獄の実態を明らかにすることができたのです。

「死の家」と名づけられている『死の家の記録』の第一章では、二五〇人ほどの囚人の半数以上が、ロシアではめずらしく読み書きできる能力をもっていたと書き、「その後わたしは、誰かがこうした資料をもとにして、教育が民衆を亡ぼすという結論を出した、という話を聞いた。それはまちがいである」と主人公のゴリャンチコフが断言しています。

つまり、農民を奴隷状態に長いことおいていたロシアでは、農民に様々な知識を与えることは、特権を与えられている「貴族」への批判を生むことになると考えられてきました。しかし、ドストエフスキーはこのような考えに対して、「教育が民衆の自己過信を育てることは、認めざるをえない。しかし、それはけっして欠点ではないはずである」と人間が自己の尊厳を持ち、貴族の間違いを正すためにも教育が必要であることを強調して、この監獄の考察においても「大改革」の当時持ち上がっていた教育の問題を中心的なテーマの一つとして持ち込んでいたのです。

『死の家の記録』の構成で注目したいのは、第一部の終わりに位置する第一一章「芝居」でドストエフスキーが、一八五一年一二月から翌年の一月までの降誕祭の期間に「軍事犯獄舎」に即席に作られた舞台で、貧弱な舞台装置だけで行われた芝居の上演を描いていることです。この上演にはドストエフスキー自身も演出家としてかかわっていましたが、それまでの監獄の構造や殺害者の心理に迫るような暗い描写の後で、この章は際だった明るさを持っています。たとえば、ドストエフスキーは主人公の筆をとおして『恋敵フィラートカとミローシカ』という劇の主人公を演じた元下士官のバクルーシンの演技について「フィラートカをわたしはモスクワとペテルブルクの劇場で何度か見たが、…中略…首都の俳優たちは、いずれもバクルーシンにおとっていた」と讃え、これ以外の劇でも「どの作品にも彼らの独自の解釈が盛られていた」と高く評価しています。これらの記述からは、ドストエフスキーが「民衆」に対する教育の必要性ばかりでなく、「大地」に根ざした「民衆」の知恵を学ぶことの重要性も指摘していたことが感じられるでしょう。

実際、主人公のゴリャンチコフは「民俗研究家の有志が、民衆芝居について新しいいままでよりもいっそう綿密な研究に専念することが、大いに望ましい」と記していますが、演劇研究者のアリトシューレルが指摘しているように『死の家の記録』における監獄での上演の描写は民衆芝居の記録としてもユニークな位置を占めていたのです。(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第3章〈権力と強制の批判――『死の家の記録』と「非凡人の思想」〉参照)。

それゆえ、この長編小説はゲルツェンをはじめ多くの思想家から高く評価されましたが、トルストイもまた1880年に批評家のストラーホフへの手紙で、「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いています(グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁)。

そして、「私は昨日一日中初めて味わうような楽しい気持ちで過ごしました」と続けたトルストイは、「おついでの折りがありましたら何とぞよろしく御鳳声のほどお願い申し上げます」と書いていました。

この言葉を受けて、この手紙を数日後にドストエフスキーに渡していたストラーホフは、サンクト・ペテルブルク・スラヴ慈善協会の副会長だったドストエフスキーが翌年の1881年に亡くなると、その総会で追善会が行われた際には、『死の家の記録』を絶賛したトルストイの手紙を引用しつつ講演を行っていたのです。

2,ストラーホフの「回想」とトルストイ

トルストイはドストエフスキーの死を知るとストラーホフに、「私はこの人に会ったこともなし、格別交渉もなかったけれども、死なれてみると、不意に、私には、この人が、なんと言っても私に一番近い、大切な、必要な人であったことが判りました」と書いて深い哀悼の念を伝えていました(グロスマン、前掲訳書)。

ドストエフスキー死後の1883年にはストラーホフが書いた「ドストエフスキーの回想」も所収されたドストエフスキー全集の第一巻が発行されましたが、ドストエフスキーとトルストイとの関係を考える上で重要なのは、トルストイに宛てた手紙で自分の「回想」にふれたストラーホフが「執筆中小生は、絶えず胸に込み上げてくる憎悪の念と闘いながら、なんとか克服しようと努めました。彼は意地が悪くて、嫉妬深くて、ふしだらで、(中略)彼に一番よく似ている人物は『地下室』の主人公や『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、それから『悪霊』のスタヴローギンです」と書き、「彼の小説は、根本的には自己釈明のかたまり」であると断定していたことです。

著作とともにこの手紙を受け取ったトルストイも「(前略)御作拝読しました。御書面にはいささか気が沈み、失望も致しました。しかしあなたの言われることはよく判ります。(中略)御作ではじめて彼の才能の底のところを知りました」と記して、ストラーホフへの共感を示し、これらの手紙は1914年に『L・N・トルストイ=N・N・ストラーホフ往復書簡集』第2巻に発表されました。

ただ、木下豊房氏は「ストラーホフの中傷」という文章で、「この十年ほどの間に公表された資料によって」、ストラーホフによる誹謗の背景がいくらか明らかになってきたことを指摘しています(『ドストエフスキー ――その対話的世界』(成文社、2002年、279~281頁)。

すなわち、「回想」を編むためにさまざまな資料を読む機会を得たストラーホフは、ドストエフスキーが1875年にアンナ夫人に宛てた手紙で、「あれはいやらしい神学生で、それ以上の者ではない。あれはすでに一度私を見すてた」と書き、さらに、「創作ノート」でも「聖人君子のふりをしていながら、内心は色好みで、脂ぎった粗野な淫蕩行為のためとあれば、誰であれ何であれ売り渡しかねない」と痛烈な批判をしていた文章を読んだ可能性があり、トルストイ宛の自分の書簡が将来公表されることも計算したストラーホフの「意趣返し」だっただろうと説明されているのです。

実際、『L・N・トルストイ=N・N・ストラーホフ往復書簡集』は、ドストエフスキーやトルストイの死後に発行されたので、批判されたドストエフスキーには釈明する機会は与えられず、彼についての暗い噂は一気にロシアの文壇で広がることになりました。

日本でもストラーホフの「回想」などに基づいて、作家ドストエフスキーと『悪霊』のスタヴローギンとの類似性を強調しながら、ドストエフスキーの文学を「父殺しの文学」とする新しい解釈を示した研究書がたいへんに売れて注目されましたが、黒澤明監督が映画《醜聞(スキャンダル)》で描いたように、いつの時代でも週刊誌などのレベルではゴシップ的な記述は好まれるのです。

しかし、望月哲男氏がその「読書ガイド」で記しているように、トルストイ自身はストラーホフの中傷の呪縛から生前中に解き放されていました。すなわち、『芸術とは何か』(英語版、1898年)でトルストイが、「『神と隣人への愛に発した宗教的芸術』の数少ない手本として」、『死の家の記録』を挙げていることを指摘した望月氏は、「たとえば笞打ち刑の残酷さや、それが囚人の精神に与える大きなトラウマを描いた部分が」、「トルストイに、大きな印象を与えたことも十分想像されます」と説明しているのです(望月哲男訳『死の家の記録』、2013年、光文社)。

トルストイの方が現代日本の「最先端」と自認するドストエフスキー研究者よりもドストエフスキー作品の理解が深かったといえるようです。

 

3,トルストイの『罪と罰』観

日本におけるトルストイの受容という視点から注目したいのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花にたいして『罪と罰』の高い評価を語っていたことです。このことについては、すでに『司馬遼太郎とロシア』(東洋書店、2010年)でも記しましたが、ストラーホフをも視野にいれることで、トルストイのドストエフスキー観がより明瞭になると思います。

よく知られているように、トルストイは日露戦争が勃発すると「悔い改めよ」と題する論文をイギリスの『タイムズ』に発表して、殺生を禁じている仏教国と「四海兄弟と愛を公言している」キリスト教国との戦争を厳しく批判しました。この論文は日本でも幸徳秋水と堺利彦によって翻訳され、『平民新聞』に掲載されましたが、その時には賛同しなかった徳冨蘆花は戦争の悲惨さを知って1906年にトルストイを訪れて5日間を過ごし、欧米を「腐朽せむとする皮相文明」と呼んで、力によって「野蛮」を征服しようとする英国などを厳しく批判したトルストイの発言から強い感銘を受けたのです。

私の視点から興味深いのは、自作のうちでどの作品を最も評価するかという蘆花の問いに対して、『戦争と平和』を挙げたトルストイが、そこには「愛国に過ぎたる所あり」と続けていたことです(徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁参照)。

トルストイが『戦争と平和』において、戦争が「人間の理性と人間のすべての本性に反する事件」と明確に規定していたことを思い起こすならば、これは意外な感じのする答えです。

しかし、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』(1869年)を出版したロシアの思想家ダニレフスキーは、そこでトルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって、抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていたのです(Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПБ.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995. Сс.425-426.)

さらに、ダニレフスキーは「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張していましたが、『戦争と平和』がこのような文脈で讃美されることは、トルストイにとっては腹立たしいことだった思われます。

一方、ストラーホフは1880年に行われたプーシキン祭でのドストエフスキーの講演について、スラヴ主義者のダニレフスキーへの手紙で、「ドストエフスキーに感謝している。彼はロシア文学の名誉を救ってくれました」と記しただけでなく、「ツルゲーネフには、またまた腹がたちました」と続けていました。

ドストエフスキーは「創作ノート」に「誰であれ何であれ売り渡しかねない」とストラーホフへのいらだちを記していましたが、同じ時期にトルストイとだけではなく好戦的なスラヴ主義者のダニレフスキーとも親密な交際をしていたストラーホフには、いったいあなたの本心はどこにあるのですかと問い質したくもなります。

この意味で注目したいのは、ロシアの作家のうち誰を評価するかとの蘆花の問いに対して、トルストイが「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」とも語って、ダニレフスキーの歴史観に影響される以前のドストエフスキーの長編小説を高く評価していたことです。(ドストエフスキーとダニレフスキーとの関係については、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年に収録された拙論「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエフスキーの西欧文明観」参照)。

実際、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「弱肉強食の思想」に影響されて「高利貸しの老婆」を殺したラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、そのエピローグではシベリアの流刑地でラスコーリニコフに大地や森、泉の尊さや民衆の「英知」に気づかせて、彼の「復活」を描き出していたのです。

晩年の1906年に蘆花に語られたトルストイの『罪と罰』観が、長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と述べた高い評価につながっていることは確実でしょう(Достоевский,Ф.М..Полное собрание сочинений в тридцати томах,, Ленинград,Наука,Т.9.С.4 19.)。

次回はいよいよトルストイの『白痴』観に迫ってみたいと思います。

 

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(2015年12月13日、図版とリンク先を追加)

 

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