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芥川龍之介

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

三、小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

林房雄の「浪曼主義のために」を論じた昭和11年の短文で、「彼のカンだけは、非常に実際的であり、いつも間違ひなく的の真中に当たっている」と評価した評論家の小林秀雄は、上海事変が勃発した昭和7(1932)に書いた評論「現代文学の不安」では、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』でも「不意に、芥川龍之介の遺書である『或旧友へ送る手記』のことを思い出して勃然たる怒りを感じた」と書かれています。しかし、モデルの一人で作家の中村真一郎は、堀田が「日本文学の壊滅状態のなかで」、「特に芥川と宇野浩二を熱心に読んでいた」ことを記しています(『芥川龍之介』)。この長編小説では芥川の遺児で・俳優、演出家でもあった比呂志との交友も描かれていることを考慮するならば、一見、自殺した芥川が厳しく批判されているかのようにも見える先の文章には、尊敬していた作家が自殺したことへの無念の思いが込められていると思えます。

さらに、島崎藤村が長編小説『春』では明治の『文学界』の同人たちとの交友をとおして、自殺に至るまでの透谷の歩みを詳しく描いていたことを考慮すると、若き詩人たちとの交友が描かれているこの長編小説で芥川にも言及していることには、長編小説『春』の記述を踏まえつつ、芥川の自殺を残念に思った堀田善衞がこの問題を真剣に考察していたことが強く感じられるのです。

『若き日の詩人たちの肖像』には北村透谷や島崎藤村についての言及はありませんが、司馬遼太郎や宮崎駿との鼎談で堀田は、「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていました(『時代の風音』)。この発言からは法律や差別などの問題にも留意しながら『罪と罰』を深く研究した上で『破戒』を著わしていた藤村への敬意が感じられます。

さらに藤村は「祭政一致」を求めて、「神祇官」を設けて廃仏毀釈運動を行った「復古神道」を信じた自分の父親の悲劇的な死を『夜明け前』で描いていましたが、受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まりまる『若き日の詩人たちの肖像』の終わり近くで堀田は、登場人物に「国粋攘夷思想」を唱えた復古神道をこう批判させています。

「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」。

 一方、真珠湾攻撃の翌年の昭和17年に『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』を発行した堀場正夫は、「序にかへて」の冒頭で、日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美して、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎へる直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であつた」と書き、その後で『罪と罰』から受けた印象と2・26事件をこう結び付けてこう記していました。

すなわち、その前夜にポルフィーリイとの激しい議論でラスコーリニコフが、ナポレオンのような「非凡人」は「「たしかに肉体でなくて青銅で出来てゐるに違ひない」と絶叫するに至るあの異様に緊張した場面」を読んでいたと記した堀場は、事件の朝について「白雪におほはれた東京の街は、ただならぬ緊張の中におかれたのである」と書き、「近代の長い夜はこの日から少しづつ白みそめたといつたら間違ひであらうか」と続けていました。

このような記述からは『英雄と祭典』が小林秀雄のドストエフスキー論から強い影響を受けていると思われます。なぜならば小林秀雄は、小林多喜二が拷問で獄死した翌年、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の昭和9年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフについて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していました。

そして、太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄は、『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」と呼び、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです(『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』、183頁)

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

さらに、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンについても「スイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈した小林は、罪の意識のなかったラスコーリニコフと結び付けつつ、ムィシキンをも「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」と見なして、「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と『白痴』の結末について記していたのです。

テキストの記述からも大きく逸脱した小林のこのような解釈は、真珠湾攻撃のⅠ年後に彼が日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していることに留意するならば、昭和6年の満州事件以降、戦争の拡大の危険性が増していた当時の状況を踏まえて政府や軍部に忖度したものだったと言えるでしょう。

 一方、真珠湾攻撃の話題の後で、「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし」、部屋にとじこもってドストエフスキーの『白痴』を読み続けた若者が、ムィシキンを外国からロシアに「入った」」、「天使のような」人物と読み解いていることは、小林秀雄の『白痴』解釈に対する厳しい批判が秘められていると思われるのです。(「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」参照)。

(2019年4月26日、改訂)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

新刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

(装丁:山田英春)

ISBN978-4-86520-031-7 C0098
四六判上製 本文縦組224頁
定価(本体2000円+税)
2019.02

→ http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-031-7.htm

〔青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解き、島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』との関連に迫る。→  https://twitter.com/stakaha5/status/1087718612624764929

〔さらに、「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する過程を考察し、蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性を明らかにする。→ https://twitter.com/stakaha5/status/1087720436148985856

 

目次

はじめに 危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容   

 

第一章 「古代復帰の夢想」と「維新」という幻想――『夜明け前』を読み直す

はじめに 黒船来航の「うわさ」と「写生」という方法

一、幕末の「山林事件」と「古代復帰の夢想」

二、幕末の「神国思想」と「天誅」という名のテロ

三、裏切られた「革命」――「神武創業への復帰」と明治の「山林事件」

四、新政府の悪政と「国会開設」運動

五、「復古神道」の衰退と青山半蔵の狂死

 

第二章 一九世紀のグローバリズムと日露の近代化――ドストエフスキーと徳富蘇峰

はじめに 徳富蘇峰の『国民之友』と島崎藤村

一、人間の考察と「方法としての文学」

二、帝政ロシアの言論統制と『貧しき人々』の方法

三、「大改革」の時代と法制度の整備

四、ナポレオン三世の戦争観と英雄観

五、横井小楠の横死と徳富蘇峰

六、徳富蘇峰の『国民之友』とドストエフスキーの『時代』

 

第三章 透谷の『罪と罰』観と明治の「史観」論争――徳富蘇峰の影

はじめに 北村透谷と島崎藤村の出会いと死別

一、『罪と罰』の世界と北村透谷

二、「人生相渉論争」と「教育勅語」の渙発

三、「宗教と教育」論争と蘇峰の「忠君愛国」観

四、透谷の自殺とその反響

 

第四章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化

はじめに 『文学界』と『国民之友』の廃刊と島崎藤村

一、樋口一葉と明治の『文学界』

二、『文学界』の蘇峰批判と徳冨蘆花

三、『罪と罰』における女性の描写と樋口一葉

四、正岡子規の文学観と島崎藤村――「虚構」という手法

五、日露戦争の時代と言論統制

 

第五章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く――差別と「良心」の考察

はじめに 『罪と罰』の構造と『破戒』

一、「事実」の告白と隠蔽

二、郡視学と校長の教育観――「忠孝」についての演説と差別

三、丑松の父と猪子蓮太郎の価値観

四、「鬱蒼たる森林」の謎と植物学――ラズミーヒンと土屋銀之助の働き

五、「内部の生命」――政治家・高柳と瀬川丑松

六、『破戒』と『罪と罰』の結末

            

第六章 『罪と罰』の新解釈とよみがえる「神国思想」――徳富蘇峰から小林秀雄へ

はじめに 蘇峰の戦争観と文学観

一、漱石と鷗外の文学観と蘇峰の歴史観――『大正の青年と帝国の前途』

二、小林秀雄の『破戒』論と『罪と罰』論――「排除」という手法

三、小林秀雄の『夜明け前』論とよみがえる「神国思想」

四、書評『我が闘争』と『罪と罰』――「支配と服従」の考察

五、小林秀雄と堀田善衞――危機の時代と文学

あとがきに代えて   「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

初出一覧

参考文献

(2018年12月23日、改訂。2019年1月22日、カバーの写真を追加。2019年2月15日、新刊到着)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

先月の3月27日に行われた国会で「森友問題」に関して佐川宣寿・前国税庁長官の「証人喚問」が行われました。 喚問に先立って「良心に従って真実を述べ何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います (日付・氏名)」との宣誓書を朗読したにもかかわらず、佐川前長官は証言拒否を繰り返し、偽証の疑いのある発言をしていました。

その時のテレビ中継を見ながら思ったのは、戦前の価値観への回帰を目指す「日本会議」に支えられた安倍政権のもとで立身出世を果たした高級官僚からは、日本国憲法の第15条には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記されているにもかかわらず、「良心」についての理解が感じられないということでした。

なぜならば、日本国憲法の第19条には、「人間は、理性と良心とを授けられて」おり、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とされ、日本国憲法76条3項には、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められているからです。

そのことを考慮するならば、憲法にも記されている「良心」という用語を用いて、「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」と述べた宣誓はきわめて重たいはずなのですが、佐川前長官はその重みを感じていないのです。 それゆえ、このような高級官僚に対しては、宣誓の文言を「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」の代わりに、「日本人としての尊厳に賭けて真実を述べ何事も隠さず」としなければ本当の証言は出ないだろうとすら感じました。

ただ、「良心」についての理解の欠如は彼らだけに留まらず、学校などで「良心」の詳しい説明がなされていないので、戦後の日本でも「良心」は日本語としてはそれほど定着しておらず、多くの人にとっては漠然としたイメージしか浮かばないでしょう。 「良心」という単語やその理論は、法哲学にもかかわるので、少し難しいかもしれませんが、ここではまず、なぜ「良心」にそのような重要な意義が与えられたのかを、主に吉沢伝三郎氏の記述によりながら、その歴史的な経過を簡単に振り返っておきましょう。

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すでにこの単語は、キリスト教の初期にもパウロなどによって多く用いられ大きな役割を演じましたが、近世に至るとキリスト教会では「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきました。しかし、教皇に神の代理人としての地位が与えられている以上、それを批判することは許されませんでした。

このような中で教会の腐敗を批判したプロテスタントにおいては「知」の働きを持つ「良心」に、神の代理人である「教皇」であろうとも、不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が与えられたのです。

皇帝に絶対的な権力が与えられていた近代のロシアにおいても、皇帝の絶対的な権力にも対抗できるような「良心」が重要視されたのでした。そして、自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「問題はわれわれがそれら(義務や良心――引用者)をどう理解するかだ」という根源的な問いが記されています。

「良心とはなにか」という問いは、ラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの激論の中心をなしており、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かどうかが主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証され、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」は、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

*   *

一方、文芸評論家・小林秀雄は、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて主観的に読み解いて、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と記し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

この評論が書かれる数年前の一九二七年には、小説『河童』で検閲を厳しく批判した芥川龍之介が自殺するなど治安維持法が施行されて言論の自由が厳しく制限されており、評論の一年後には天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が骨抜きになります。

 小林秀雄が敗戦後の1948年11月に書いた「『罪と罰』についてⅡ」では、「事件の渦中にあつて、ラスコオリニコフが夢を見る場面が三つも出て来るが、さういふ夢の場面を必要としたことについては、作者に深い仔細があつたに相違ない」と記されているように、『罪と罰』の夢についての言及があります。 しかし、戦時中の自分の発言については「自分は黙って事件に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」と記していた小林秀雄の戦後の『罪と罰』論でも、中核的なテーマである「良心」の考察には深まりが見られないのです。

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戦後に小林秀雄が「評論の神様」とまで称賛され、教科書でも彼の文章が引用されていることを考えるならば、そのような小林秀雄の「良心」観は、安倍政権によって出世した政治家たちや高級官僚たちの「良心」理解にも反映しているように思われます。

一方、長編小説『破戒』を日露戦争後に自費出版していた島崎藤村は一九二五年に発行した『春を待ちつつ』に収めたエッセーで、日本だけでなくロシアにおいてもドストエフスキーの評価がまちまちであることを指摘したあとでこう記していました。

「思うに、ドストイエフスキイは憐みに終始した人であったろう。あれほど人間を憐んだ人も少なかろう。その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう。」

この言葉からは「明治憲法」の公布に到る時期を体験していた島崎藤村が『罪と罰』における「良心」の問題を深く理解していたことが感じられます。

現在の日本における政治家や高級官僚の「道徳」的な腐敗を直視するためには、北村透谷や夏目漱石、正岡子規など明治の文学者たちの視点で、「立憲主義」が放棄される前年の1934年に書かれて現代にも強い影響力を保っている小林秀雄の『罪と罰』論と「良心観」の問題点を厳しく問い直す必要があると思えます。

(2018年4月27日加筆。重要箇所を太字で表記,2019年3月6日、書影を追加)  

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(3)――『罪と罰』への言及と芥川龍之介の遺書

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

前回は『若き日の詩人たちの肖像』の全体像を確認するために、アリョーシャと呼ばれるドストエフスキーの愛読者の変貌と『罪と罰』を中心に戦争と文学との関わりを考察していた『英雄と祭典』の著者の思想との関連に焦点をあてて、この長編小説の最後までの流れを考察した。

今回はこの長編小説を初めからゆっくりと読み直すことで、第一章の題辞として『白夜』の冒頭の文章を引用していた堀田善衛が小説において『罪と罰』についてどのように言及しているかを確認したい。

*   *

「扼殺者の序章」と題された序章では、序章の冒頭で、「機を見て僕はお前を扼殺したらしい」というフレーズを含む「潟の記憶」と題する詩を載せた著者は、それが、引き揚げ船で上海から帰って来たばかりの一九四七年に書かれたことを明かしたあとで、「記憶を扼殺」した感覚をこう記している。

「自身の指と手のひらに、扼殺者としてのうずくような感覚が、…中略…いまもなお指と手のひらの皮膚になまなましく生きて残っている。男がしめ殺したものが何と何と何であったか」。

その後でこの長編小説でも「冬の皇帝」という呼び名で登場する詩人・田村隆一の「おれはまだ生きている/死んだのはおれの経験なのだ」という句を含む「一九四〇年代夏」という詩が紹介されている。これらの文章からは作家の司馬遼太郎が「鬼胎」と呼んだ昭和初期の異常な時代が、ひしひしと観じられる。

ただ、第一章の題辞に「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。」という言葉で始まる『白夜』のロマンチックな文章が置かれることによって、暗闇が少しやわらぎ小説空間が広がる。

そして、その冒頭では「文学少年」というよりは「音楽少年といったものであった」少年が上京した晩に聞いた「ボレロ」の強烈な印象で身体が反応してしまったという、音楽の力や生命の不思議さが観じられるエピソードが記されている。

しかも、堀田は暗く重苦しい時代をしぶとく生き、「少年」から「若者」を経て「男」となる主人公を時にユーモアを交えて描いており、読者は彼とともに暗い時代を追体験することになるが、それは陰惨なリンチの問題をテーマとした長編小説『悪霊』を、「時に爆笑を誘うほどのユーモアをともなって」描いていたドストエフスキーの手法とも通じているだろう(下巻、102頁)。

少年の生家は「北国の小さな港町に、二百ほどのあいだ、北海道と大阪をむすぶ、いわゆる北前船の廻船問屋をいとなんで来た家」で、少年が生まれた1918年に、「港の対岸にある滑川の女房連が発起」した米騒動が起きていた。しかし、その騒動が少年の生まれた港にも「波及してきた際には、かつて「明治の民権自由運動の壮士たちの後援者でもあった」曾祖母は、「直ちに家の者、店の者の先頭に立っててきぱきと指示をして」、民衆に粥を配って騒ぎを収めていた。

こうして、父が「古い家柄というものと名とをつかって県会議員をやったりして」おり、選挙の際には「政府与党でない者の選挙違反をつくり上げる義務があった」刑事たちが、「電話その他の盗聴に来ていた」のを見ていた少年は法学部政治学科の予科に入っていた。

このような主人公の設定は『罪と罰』や『白痴』を理解する上でも重要だろう。『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で分析したように、これらの長編小説を主観的に分析した小林秀雄の解釈では、ドストエフスキーの作品の骨格をなしている「憲法」や法律、裁判の問題などや強者による弱者の蔑視などの問題は読者の視野には入ってこない。

005l(←画像をクリックで拡大できます)

1954年のエッセー「二つの衝撃」で「裁判を扱う偉大な作品」として『ベニスの商人』『赤と黒』『復活』などとともに『罪と罰』を上げていた堀田善衛は、「キリストもまた、裁判について痛烈なことばをのこし、また自ら十字架に罹っている」と記していた(『堀田善衛全集』第15巻、78頁)。

『罪と罰』では裁判のシーンはエピローグで簡単に描かれているのみなので、むしろ『カラマーゾフの兄弟』が挙げられるべきだと思うが、主人公を法学部の元学生だったとした『罪と罰』でも、弁護士や「司法取調官」などの登場人物をとおして法律の問題点が鋭く描き出されている。

法学部政治学科の学生を主人公とした『若き日の詩人たちの肖像』でも、主人公の『罪と罰』観が記されているばかりでなく、特高警察や検事などが重要な役割を担っており、法律だけでなく拷問などの問題が考察の対象となっている。

たとえば、第一部の冒頭近くでは、大学の保証人になってもらうために従兄のもとを訪ねて行き、「幼いときからなじんでいたこの従兄の表情の険しさに、ほとんど声を出さんばかりに愕いた」と描かれている。

このエピソードを読む現代の読者も拷問の陰惨さに激しく驚かされると思うが、日本の山県有朋などの政治家はロシア帝国の宗教政策や教育政策をモデルの一つとしていた。それゆえ、その強大なロシア帝国が革命によって打倒されたあとでは、大日本帝国の崩壊を怖れて共産党を根絶やしにしようとしていたのである。

「日本共産党の関西関係の、かなりに重要なポストにいたらしかった」従兄は、「思想犯ということで、長く警察にとめおかれ、」「怖ろしい拷問」を三週間も連日受け、「少年の母が司法省の高官の紹介をもって面会に行ったとき、従兄の顔は腫れあがり、手には真新しい軍手をはめさせられていた」が、それは「指、爪、指のつけ根をいためつけられていたからであった」。

そして著者は、母が少年にそのことを詳しく語ったのは、「母にしても、あまりにむごい、警察の非道に就いて、誰かに何かを訴えたかったのかもしれない」と続けた。

それは1918年の米騒動の際には「騒ぎのつづいたあいだじゅう、ずうと人民に粥を配って騒ぎをおさめた」曾祖母が、貧民を助けずに騒動を拡げた問屋たちを「滑川の者(もん)はダラやがいね。心得のないことをしてしもて」と批判し、「問屋というものには問屋としての心得があることをさとした」ことにも通じているだろう。

著者は従兄の面変わりについて、「人はたとえ肉体的には死ななかったとしても、彼のなかで何かが死ぬ、殺される、あるいは殺す、ということがあるものなのであるらしい。/それがそういうふうにしてわかったことは、少年の心の底に、暗く彩られた、ある深い部分をのこした」と記している(27頁)

そして、2・26事件後の6月号に掲載された河合栄治郎の論文が「バッテンばかりで、さっぱり見当もつかなかった」と記されていたように(53頁)、政府を批判する論文への検閲が徐々に厳しさを増していた。

ヒトラーが独裁的な権力を獲得した1933年の2月に『蟹工船』を書いて政府の方針を真っ向から批判していた小林多喜二は拷問で死亡していたが、ドイツではユダヤ人の虐殺のことが一般の民衆には知られていなかったように、日本でも一般大衆は警察による拷問は共産党員に対してのみ行われていたように考え、自分とは関わりの無いかのように処していたように思われる。

このような時期に『罪と罰』を読んで「殺人の場面が、殺人者のラスコリニコフも、また殺される高利貸の婆さんの顔も、またその現場の全体もが黄色一色に塗りつぶされていることに、小説作家というものの心配りの仕方を読みとっていたのである」と書いた主人公もまだこうも記していた。

「『罪と罰』を読んでラスコルニコフは言うまでもなく、あのスヴィドリガイロフなどという怪異な人物は、東京で言えば必ずや大川の向う住んでいる筈」と考えて、「川向うでしばらくを暮した」が、彼らに似た人物とは会えなかったために「あれはやっぱりドストエフスキーという作者の頭のなかの闇でだけ生きている」のかと考えていた。

その彼が『罪と罰』の登場人物に似た人物と会うことになるのは、「理由の説明も何もなく、物品のように若者はどさりと淀橋署の留置場へ放り込まれた」後のことであった。

*   *

2・26事件の余波はなかなか収まらなかったが、主人公がたびたび引っ越しした部屋の一つは、夫が死刑になったあとで軍首脳部の弾劾を続けていた2・26事件の首謀者の未亡人の隣室であった。

そのために右翼係りの刑事がこの「夫人を監視するために隣室の住民である若者の部屋」に、「ご迷惑さんです……」といいながら入り込んで、隣室の模様に耳をこらして」いたが、本人の不在中に家捜しされて部屋に隠していたマルクスやレーニンの本のことを知られたのである。

朝早くに乱暴にアパートの部屋をノックされて、戸を開けると「服を着ろ、警察の者だ」とせき立てられた主人公は、そのまま「ズボンのベルトに腰縄をつけられ」て下北沢の下宿から淀橋署まで連行されたのである。

そのことを記した著者はすでに同級生の二人が授業中に呼び出されて一人が留置場で亡くなっていたことなども記した後で、小林秀雄が訳したランボオ詩集中の「おお城よ/季節よ」というフレーズについて、「張り詰めた呼びかけの、その氷の様に澄み渡った美しさも、これもまたランボオの、詩人として死を賭けていたればこそのものではなかったか」と続けていた。

そして、自分の「氷の様に澄み渡った」という言葉を思い出したことで、「不意に、芥川龍之介の遺書である「或旧友へ送る手記」のことを思い出して勃然たる怒りを感じた」と書き、「所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない」で始まる文章を引用している。

「僕の今住んでゐるのは氷のやうに透(す)み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。…中略…君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期(まつご)の目に映るからである。」(159頁)

この文章の後で著者は「何を言ってやがんだ!…中略…いかにお前さんが、たしかに敢然と自殺したからと言って、こんなことを言う権利があるのか!」というこの文章に対する主人公の激しい反発を記している。

小林秀雄が訳したランボオの詩の紹介に続いて芥川龍之介の遺書に対する怒りが記されているこの箇所からは、堀田もまた小林ととともに芥川龍之介を批判しているようにも読める。しかし、「詩と死」についての考察はこの小説に一貫して流れており、小説では「澄江君」と呼ばれる芥川龍之介の遺児・芥川比呂志との出会い以降は遺書に対する思いが少しずつ変化する一方で、なぜここでランボオが引用されていたかも後に明らかになる。

本稿の視点から興味深いのは、この留置所に13日間拘留された主人公を釈放する前に「我が国は皇国であって、国体というものは」などと説教した中年の男が「自分の言っていることを、自身でほとんど信じていないということは、明らかに見てとれた」と記したあとで、「『罪と罰』に出て来る素晴らしく頭がよくて、読んでいる当方までが頭がよくなるように思われるあの検事のことがちらと頭をかすめた」と続けていることである(170頁)。

この文章は昭和初期の日本の政治状況が、憲法のなかった帝政ロシアでも「暗黒の30年」と呼ばれたニコライ一世の治世下と急速に似てきたことをよく物語っているように思われる。すでにこの頃には大学でも「少年が入る前年に、予科生は髪の毛を切れ、坊主頭になれ、つまりは兵隊頭になれという命令」が出ていた。

さらに、「ヨーロッパで戦争」が始まると「東京の街々では、喫茶店や映画館で、また直接の街頭でさえ、官憲によって“学生狩り”というものが行われていた。ぶらぶらしている学生を、遠慮会釈なくひっとらえて一晩か二晩留置所に放り込み、脅かしておいて放り出す。そういう無法が法の名をおいて」行われるようになったのである。

その理由について著者は、「それが何の用意であるかといえば、答は今の日支事変よりももっと大きな戦争という、そのこと以外にありそうもなかった」と記していた(219頁)。

実際、太平洋戦争の戦況が厳しくなる学生たちも戦場へと駆り出されて230万ほどの戦死者を出し、しかも「どの戦場でも戦死者の6~8割が『餓死』という世界でも例がない惨状」で亡くなることになったのである。

学徒出陣

出陣学徒壮行会(1943年10月21日、出典は「ウィキペディア」)

アメリカ軍機による空襲が行われるようになると、「文化系学生の徴兵猶予がとり消されるのは、もう目前なのだ」と語られるようになったことを記していた著者は〔下、208〕、学徒出陣の壮行会に主人公が遭遇した際のことを詳しく描いている〔下、374~376〕。

「競技場からは、吹奏楽をともなった男女の大合唱による、荘厳な『海行かば』が聞こえて来た。…中略…男は傘をさして樹陰のベンチにいたのであったが、競技場の入口あたりから行進が町に出はじめたらしかったので立って道のところまで出て行くと、行進は学生たちのものであった。」

「男は何度か突きとばされて、はじめて、これが出陣学徒壮行大会であったことに納得が行った。行進して行く学生たちは、いずれもみな唇を噛み、顔面蒼白に、緊張をしている、と見えた。法文系は一切廃止されてしまい、全部が全部、丙種不合格までが一斉に十二月一日に入営することになったのである。男の眼に泪が溢れてくる。」

そして、「こういう学生たちまでをお召しだのなんだのという美辞麗句を弄して駆り出して、いったい日本をどうしようというのだ、という、どこへもぶっつけようのない怒りがこみあげて来る」と主人公の思いを記した堀田は、鎌倉初期に思いを馳せながら「鴨長明がルポルタージュをしていたような事態が刻々に近づきつつあるように予感される。『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった。」と続けていた。

堀田善衛、方丈記私記、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

(2017年12月24日、加筆)

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(1)――『白夜』をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

第一章・題辞

「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。空は一面星に飾られ非常に輝かしかったので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(ドストエフスキー、米川正夫訳『白夜』)

*   *   *

堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』」(1968年)は、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの日々を、若き詩人たちとの交友をとおして司馬遼太郎が「別国」と呼んだ「昭和初期」の重苦しい日々を克明に描き出している。

注目したいのはその第一部のエピグラフには、「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。」(米川正夫訳)という言葉で始まるドストエフスキーの『白夜』の文章が置かれていることである(以下、引用は集英社文庫、1977年による)。

しかも、第一部の終わり近くではナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「なんという乱暴な……。なんという野蛮な……。」という「異様な衝撃」を受けたと記した後で、再び『白夜』の文章を引用した作者は、「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、さらに「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している(上巻、115~117頁)。

フランス2月革命の余波が全ヨーロッパに及んでいた1848年に書かれたこの作品では、拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の第4章で詳しく考察したように、プーシキンにおける「ペテルブルグのテーマ」や「夢想家」やなど後期の作品に受け継がれる重要なテーマが描かれているばかりでなく、「農奴解放」のテーマも秘められていた。

こうして、文筆活動をとおして農奴の解放や言論の自由と裁判制度の改革を求めていたドストエフスキーは、小説『白夜』を発表した後でペトラシェフスキー・サークルの友人たちとともに捕らえられて偽りの死刑宣告を受けた後で皇帝の恩赦という形でシベリア流刑になっていた。

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そのことを想起するならば、拙著でも少し触れたように、堀田善衛がクリミア戦争に向かう時期の専制国家・帝政ロシアとナチスドイツやイタリアと三国同盟を結んで無謀な戦争に突入していくこの時期の大日本帝国との類似性を強く意識していたことはたしかだろう。

なぜならば、「お婆さん(引用者註、母親の年の離れた姉)の言うところを信ずるとすれば、明治の二十年代には、何か素晴らしいことがあったように思われる。それこそ“青春”ということばにふさわしいようななにかがあったように思われる。そうして、その青春は短くて夭折(ようせつ)した」と記されている『若き日の詩人たちの肖像』では(下、22)、大阪事件や北村透谷のことにも触れられているからである(10,37)。

それゆえこの自伝的な長編小説を読み返した時に私は、北村透谷など明治の『文学界』の同人たちとの交友を描いた島崎藤村の自伝的な長編小説『春』を連想した。

それは長編小説『春』でも内田魯庵訳の『罪と罰』が取り上げられているばかりでなく、頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を批判したことで「人生相渉論争」と呼ばれる激しい論争に巻き込まれ、生活苦も重なって自殺した北村透谷の生き方や理念も描かれているためであった。

しかも、拙論「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」(『世界文学』第125号)で考察したように、この論争の背景には「教育勅語」の発布の後で起きた「不敬事件」があった。そのことを考慮するならば、自殺した芥川龍之介に対する小林秀雄の批判の構造が、透谷の自殺後も徳富蘇峰の「民友社」が透谷や『文学界』への批判を続けていたことときわめて似ていることに気付く。

それゆえ、『若き日の詩人たちの肖像』で将来に対する「ぼんやりした不安」を記して自殺した芥川龍之介の遺書についてたびたび言及されているのは、文芸評論家の小林秀雄(1902~83)のドストエフスキー論を強く意識していたためではないかと思われる。

なぜならば、小林秀雄がドストエフスキー作品の本格的な考察への意欲を記したのは、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進む前年の1932(昭和7)年のことだったからである。

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このような時期に発表した評論「現代文学の不安」で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」とドストエフスキーについて記した小林は、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していた(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、17頁)。

そして、『地下室の手記』以降はドストエフスキーが前期の人道的な考えを棄てたと主張したシェストフの考えを受け継いだ小林秀雄は、その後、次々とドストエフスキー論を発表するが、帝政ロシアにおける「憲法」の欠如や検閲などの問題をより明確に示唆していた第一作『貧しき人々』から『白夜』に至る初期作品をほとんど論じていない。

一方、芥川龍之介はドストエフスキーの創作方法の特徴をよく理解していた作家であり、ことに短編「藪の中」(1922)では「一つの事件」を三人のそれぞれの見方をとおして描くことで、客観的に見えた「一つの事件」が全く異なった「事件」に見えることを明らかにして、現代の「歴史認識」の問題にもつながるような「事実」の認識の問題を提起していた。

そして、1922年に書いた小説『将軍』で日露戦争時の突撃の悲惨さだけでなく、父と子の会話をとおして軍人を軍神化することの問題を描いていた芥川龍之介は、治安維持法の発布から2年後の昭和2年に自殺する前には小説『河童』で検閲制度など当時の日本社会を痛烈に風刺していた。

『若き日の詩人たちの肖像』の後半では作家の堀辰雄をモデルとした「成宗の先生」との交友が描かれるようになるが、よく知られているように芥川龍之介との深い交友があった堀辰雄は卒論で「芥川龍之介論」を書き、自伝的な作品『聖家族』(昭和5年)の初版には「私はこの書を芥川龍之介先生の霊前にささげたいと思ふ」という献辞を付けるほど龍之介を深く敬愛していた作家だった。

映画《風立ちぬ》(図版は「アマゾン」より)

堀辰雄の「風立ちぬ」(1936-37年)は宮崎駿監督が映画の題名としたことで再び脚光を浴びたが、注目したいのは、主人公が「成宗の先生」の自宅のそばを通りかかった際に「この家の詩人小説家は肺病で、日本語の小説によくもまあ、と思われるほどにしゃれた、純西洋風な題をつける人であった」とその作風を思い出した後で、再び主人公が暗唱していた『白夜』の冒頭の文章が引用されていることである。

そして、その箇所を「ぶつぶつと口のなかでとなえてみていて、こういう文章こそ若くなければ書けなかったものだったろう、と気付いた」と記した堀田は、「二十七歳のドストエフスキーは、カラマーゾフでもラスコルニコフでもまだまだなかったのだ。けれども、この文章ならば、あるときのムイシュキン公爵の口から出て、それを若者が自分の耳で直接公爵から聞くとしても、そう不思議でも不自然でもないだろう……」と続けていた。

この記述からは、初期と後期のドストエフスキー作品が全く断絶していると解釈していた小林秀雄とは異なり、『白夜』と『白痴』の主人公との連続性を見ていることが分かる。

映画《風立ちぬ》では主人公が、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎の伝記を踏まえて主人公像が形成されていることが話題となったが、主人公の内面はむしろ堀辰雄の作品世界からの影響によって形づくられていると思われる(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』のべる出版企画、2016年、147~162頁)。

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しかも、宮崎駿は敬愛する堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談(『時代の風音』朝日文庫、1997年)の際に司会をしているが、そこでは芥川龍之介の死が堀辰雄の作品ばかりでなく、堀田の『若き日の詩人たちの肖像』を踏まえて語られている可能性が高いのである。

それゆえ、私は日本の近代文学の専門家ではないが、ドストエフスキー研究者の視点から『若き日の詩人たちの肖像』をより詳しく分析することにしたい。

そのことにより帝政ロシアに先駆けて「憲法」を持った日本が、なぜ昭和初期には「無憲法」の状態に陥って無謀な戦争へと突入し、そして戦後72年経った現在、「立憲主義」を否定する動きが起きているのかにも迫ることができるだろう。

(2017年11月8日、加筆、書影を追加。11月28日、第一章の題辞全文を追加。12月28日、加筆)

例会発表「『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に」を終えて

昨日、千駄ヶ谷区民会館で行われた第241回例会には、嵐の前触れとも言うべき雨も降り出すなか多くの方にご参加頂き、下記の順で発表しました。

 はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

Ⅰ.ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」

Ⅱ.正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』

Ⅲ.長編小説『破戒』の構造と人物体系

Ⅳ.「教育勅語」発布後の教育制度と長編小説『破戒』

Ⅴ.『罪と罰』から長編小説『破戒』へ――北村透谷を介して

*   *   *

 発表後の質疑応答では、〔ドストエフスキーの青春と明治初期の「自由民権運動」〕や〔正岡子規の小説『曼珠沙華』と島崎藤村の長編小説『破戒』〕については、好意的なご感想や発表で引用した木村毅氏についての貴重な示唆が木下代表からありました。

正岡子規から島崎藤村への流れを考える際には、夏目漱石との関わりも考察することが必要ですが時間的な都合で今回は省きました。ただ、この問題についいては、「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の本年度の第4回研究会で、〔夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ〕と題して発表した動画がユーチューブにアップされていますので、下記のリンク先をご覧下さい。

http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

また、『罪と罰』の問題と長編小説『破戒』における「戒め」の問題についての本質的な問いかけもあり議論が進むかと思われたのですが、時間的な都合で議論が深まらなかったのは残念でした。

ただ、二次会の席では馬方よりも低い身分とされていた牛方仲間が「不正な問屋を相手に」立ち上がって勝利した江戸末期の牛方事件や、新政府が掲げた「旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ」という一節を信じていた主人公の青山半蔵が、維新後にかえって村人が貧しくなっていくことに深く傷つき、ついには発狂するまでが描かれている『夜明け前』にも話しが及んで議論が盛り上がりました。

古代を理想視した復古神道の問題については「世田谷文学館・友の会」の今年の講座で〔夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして〕と題して発表していましたので、来年出版予定の拙著『「罪と罰」と「憲法」の危機――北村透谷と島崎藤村から小林秀雄へ』(仮題)にも載せるようにしたいと考えています。

なお、参加者の方から質問と発言があった小林秀雄のドストエフスキー論の問題点は、太平洋戦争勃発のほぼ1年前の1940年9月12日に発表されたヒトラーの『我が闘争』の書評と『全集』に再掲された際の改竄、そして日米安保条約が改定された1960年に『文藝春秋』に掲載され、後に『考えるヒント』に収められた「ヒットラーと悪魔」にあると私は考えています。

日本が日独伊三国同盟を結んで太平洋戦争に向かうようになる司馬遼太郎が「昭和初期の別国」と呼んだ時期とロシア史で「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代との類似性についてはすでに何度か書きましたが、ヒトラー内閣が成立した翌年の1934年に発表されたのが、『罪と罰』論と『白痴』論だったのです。

また、「治安維持法」が出た後で自殺した芥川龍之介の『河童』や2.26事件以降の日本をナチスの宣伝相ゲッベルスの演説とドストエフスキーの『白夜』を比較しながら生々しく描いた堀田善衛の長編小説『若き日の詩人たちの肖像』については、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章で考察していました。

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その際には単に示唆しただけに留めていましたが、厳しい言論弾圧のもとに「右傾化」していくアリョーシャのモデルには、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした『英雄と祭典』と題された『罪と罰』論を真珠湾攻撃の翌年に出版した堀場正夫も入っていると思えます。

そのような読者に小林秀雄の『罪と罰』論は強い影響を与えただけでなく、太平洋戦争が始まる前年の8月に行われた鼎談「英雄を語る」(『文學界』)では、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という作家の林房雄の問い対して、「大丈夫さ」と答えていました。しかも、そこで「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と無責任な説明をしていた小林秀雄は、戦争が終わった後では、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語り、「それについては今は何の後悔もしていない」と述べていたのです。

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戦争が近づいているように見える現在も小林秀雄論者が活気づいてくるように見えますが、それは太平洋戦争時のように無謀な戦争を煽りたてることであり、原発が稼働している日本ではいっそう悲惨な結果を招くことになると思えます。

質疑応答のなかで言及した国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄講義 学生との対話』(新潮社、2014)における「殺すこと」などの問題とドストエフスキー論との関連については近いうちに改めて分析したいと考えています。

ただ、小林秀雄の書評『我が闘争』や「ヒットラーと悪魔」などについては知らなかった方も少なくなかったので、とりあえず本稿関連論文のあとに「小林秀雄のヒトラー観」と題した記事のリンク先をアップしておきます。

本稿関連論文

「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年参照)

「『文明の衝突』とドストエフスキー --ポベドノースツェフとの関わりを中心に」(『ドストエーフスキイ広場』第17号、2008年)

 リンク先

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月19日、加筆改訂。2017年11月4日、改題)

相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

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『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』で長編小説『夜明け前』を本格的に論じていた相馬正一氏は、それから二カ月後に発行した『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』((人文書館、2006年11月)の第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」では、戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を厳しく批判していた作家・坂口安吾について詳しく考察していました。

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』でもその文章の一部を紹介しましたが、1947年に著した「教祖の文学──小林秀雄論」で、小林秀雄を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判した坂口安吾は、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘していたのです。

相馬氏はこのような安吾の小林秀雄批判が、1947(昭和22)年に行われた鼎談「現代小説を語る」『文学季刊』〈昭和22年4月、実業日本社〉での盟友・太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で行われていたことを第2章「小説の神様・志賀直哉批判」で明らかにしていました。

私は坂口安吾や太宰治などの研究者ではないので、ここでは彼らの小林秀雄観などに絞って本書を紹介したいと思いますが、その前にまず『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の構成を簡単に見ておくことにします。

*   *   *

はじめに――いま、なぜ安吾なのか

一、倫理としての「堕落論」

二、小説の神様・志賀直哉批判

三、女体の神秘「白痴」の世界

四、自伝的小説という名の虚構

五、教祖・小林秀雄への挑戦状

六、「桜の森の満開の下」の手法

七、盟友・太宰治への鎮魂歌

八、純文学作家の本格推理小説

九、飛騨のタクミと魔性の美少女

十、安吾史譚・柿本人麿の虚実

十一、サスペンス・ドラマ「信長」

十二、巨漢・安吾の褌を洗う女

十三、安吾、全裸の仁王立ち

十四、未完の長篇「火」の破綻

十五、負ケラレマセン勝ツマデハ

十六、無頼派作家の変貌と凋落

十七、風雲児・安吾逝く

おわりに――詩魂と淪落と

坂口安吾・略年譜

あとがき

*   *   *

さて、平野謙の司会で行われた鼎談「現代小説を語る」には、坂口安吾の他に太宰治と織田作之助の三人が出席していました。この鼎談について相馬氏は「三人が一処に会するのはこれが初めてであった」だけでなく、その座談会から一と月後に織田が肺結核が悪化して34歳で亡くなっていることも紹介しています。

そして、「同人誌『現代文学』で安吾と仲間同士だったという気安さもあって」冒頭から挑発的な発言をした平野に太宰治が激しく反撥したことを伝えています。重要な鼎談だと思われるので、少し長く引用しておきます。

平野「大体現代文学の常識からいふと、志賀直哉の文学といふものが現代日本文学のいつとうまつたうな、正統的な文学だとされてゐる。さういふ常識からいへばここに集まつた三人の作家はさういふオーソドックスなリアリズムからはなにかデフォルメした作家たちばかりだと見られてゐるが……。」

太宰「冗談言つちゃいけないよ。」

このような太宰の反撥に共感した織田が、「志賀直哉はオーソドックスだと思つてはゐないけど、さういふものにまつり上げてしまつたんだ。オーソドックスなものに……」と批判したのを受けて、坂口が「あれを褒めた小林の意見が非常に強いのだよ」と語ると、鼎談の流れは一気に小林秀雄批判に傾いていたのです。

織田「さうさう(繰り返し記号)、小林秀雄の文章なんか読むと、一行のうちに『もつとも」といふ言葉が二つくらゐ出て来るだらう。褒めてゐるうちに褒めていることに夢中になつて、自分の理想型をつくつてゐるのだよ。志賀直哉の作品を論じてゐるのぢやない。小林の近代性が志賀直哉の中に原始性といふノスタルヂアを感じたでけで……。』

すると、坂口は「小林といふ男はさういふ男で、あれは世間的な勘が非常に強い。世間が何か気がつくといふ一歩手前に気がつく。さういふカンの良さに論理を托したところがある。だからいま昔の作家論を君たち読んでご覧なさい。実に愚劣なんだ、いまから見ると……。小林の作家論の一歩先のカンで行く役割といふものは全部終つてゐる役割だね」と語っていたのです。

私がこの書からことに強い刺激を受けたのは、この鼎談の翌年に太宰治が「如是我聞(にょぜがもん)」〈昭和23年3~7、『新潮』〉を書いて、自殺した芥川龍之介にも言及しながら「小説の神様」に収まっていた志賀直哉を徹底的に批判した文章を読んだときでした。

このエッセーを「太宰が後進に托した捨て身の〈遺書〉である」とした相馬氏は、太宰が「様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設ける」覚悟で書いたこのエッセーから本書でかなり長い引用をしています。

注目したいのは、志賀を評して「も少し弱くなれ、文学者なら弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るやうに努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまつてゐろ」と書いた太宰が、「君について、うんざりしてゐることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つてゐないことである。/日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。/君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさへしてるやうだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開(あ)いた口がふさがらぬとはこのことである。」と書いていたことです。

そして、「腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。…中略…売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり」と宣言しておきながら、太宰はこの直後に自殺してしまったのです。

本書に掲載されている「略年譜」によれば、昭和2年に安吾は「私淑していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受けて、自殺の誘惑に駆られ」ていました。このことを考えるならば、太宰の自殺から受けた安吾の衝撃の大きさが理解できます。

ただ、第7章「盟友・太宰治への鎮魂歌」で相馬氏は安吾が「不良とキリスト」で『斜陽』などの作品を「傑作として賞賛する一方で」、「死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない」と批判的に捉えていたことも紹介しています。

明治期の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰との関係に関心を持っていた私が注目したのは、内閣情報局の主導で「日本文学報国会」(会長・徳富蘇峰)が結成された1942(昭和17)年6月に、安吾が『現代文学』第7号に「甘口辛口」と題する次のようなエッセーを発表して、国策文学を牽制していたことにも相馬氏が「あとがき」でふれていたことです。

すなわち、ここで「日本文学の確立ということは戦争半世紀以前から主要なる問題であった」と記した安吾は、「ところが戦争このかた、文学の領域では却ってこの問題に対する精彩を失い、独自なる立場を失い、人の後について行くだけが能でしかないという結果になっている」と続けていたのです。

こうして本書からはいろいろと考えさせられることがありましたが、相馬氏は「あとがき」で1948(昭和23)年10月に発表された安吾の「戦争論」にも言及していました。

原子爆弾のような人間の空想を遙かに超えた魔力が現われた以上、これからは「「戦争の力に頼ってその収穫を待つことは許されない。他の平和的方法によって、そして長い時間を期して、徐々に、然し、正確に、その実現に進む以外に方策はない」と当然の理を記した安吾は、すでにこう続けていたのです。

「今日、我々の身辺には、再び戦争の近づく気配が起りつつある。国際情勢の上ばかりではなく、我々日本人の心の中に」。

最後にこのような文筆活動を行っていた「坂口安吾の文学」の全体像を紹介した出版社の文章を引用することでこの小文を終えることにします。

 

坂口安吾の内部には、時代の本質を洞察する文明評論家と

豊饒なコトバの世界に遊ぶ戯作者とが同居しており、

それが時には鋭い現実批判となって国家権力の独善や欺瞞を糾弾し、

時には幻想的なメルヘンとなって読者を耽美の世界へと誘導する。

安吾文学の時代を超えた斬新さ、詩的ダイナミズムの文章力、

そして何よりも、奇妙キテレツな人間どもの生きざまを

面白おかしく説き明かす“語り”の巧さ、

などの魅力の秘密もそこに由来している。」

(2016年3月20日。青い字の部分を加筆)

 

小林秀雄の『夜明け前』評と芥川龍之介観

一,小林秀雄の『夜明け前』評

前回の小文で記したように、長編小説『夜明け前』を正面から論じた相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館)からは、いろいろと教えられることが多くありました。

たとえば、「長年藤村の告白文学に馴染んできた批評家の多くは『夜明け前』をもその延長線上で捉え、父・島崎正樹をモデルにした〈私小説〉だ」と評価してきたことを紹介した相馬氏は、批評家の篠田一士が「もし世界文学というべきものが近い将来構成されるとすれば、『夜明け前』は当然、たとえば、『戦争と平和』の隣りに並ぶことになるだろう」と述べ、作家の野間宏もこの作品を「近代を超えて現代に通じるものを内に大きくかかえこんでいる」、「近代日本文学のもっとも重要な作品の一つ」と絶賛していたことにもふれています。

ここでは昭和11年に『文学界』5月号に掲載された合評会で、この作品の脚色をした村山知義の「人間が充分に描けていない」という批判に対して、小林秀雄が「人間が描けていないという様な議論もあったが、これは作者が意識して人物の性格とかを強調しなかったところからくる印象ではあるまいか」と弁護していたことも記されています。この前年の1月から『文学界』に『ドストエフスキイの生活』(~37年3月号)を連載し始めていた小林秀雄のこのような評価は客観的で『夜明け前』の意義をすでに見抜いていたことはさすがだと感じました。

ただ、相馬氏の少し踏み込みが足りないと感じたのは、この後で出席者の多くが『夜明け前』を特定のイデオロギーで意味づけようとしていたのに対して小林秀雄が、「『夜明け前』のイデオロギイという言葉自体が妙にひびくほど、この小説は詩的である。この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい」と語って、「気質」を強調していたことが批判抜きで紹介されていたことです。

なぜならば、相馬氏は〈結、「夜明け前」と現代〉の章で、この長編小説と時代との関わりについてこう記していたからです。

「藤村が『夜明け前』第二部を発表した昭和七年から十年までは、日本が中国東北部に傀儡(かいらい)政権の〈満州国〉を造り上げて戦争へと突き進んだ時期であり、皇国史観と治安維持法を武器にして自由主義者や進歩的な学者への弾圧を強化した時期である」。

そして相馬氏は、「藤村にとっては、まさに戦前の恐怖政治を見据えての執筆だったのである」と続けていました。

長編小説『夜明け前』の合評会はこのような時期の直後の昭和11年に行われていたのですが、上海事変が勃発した1932(昭和7)年6月に雑誌『改造』に書いた評論「現代文学の不安」で、文芸評論家の小林秀雄は「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました〔『小林秀雄全集』第1巻〕。

こうして芥川文学の意義を低める一方で、小林はドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記し、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と高らかに宣言していました。

執筆中の拙著『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で詳しく考察することにしますが――なお、ここで用いている「『坂の上の雲』の時代」とは、夏目漱石と正岡子規が生まれた1867年から日露戦争の終結までの時期を指しています――、私は絶望して自殺した北村透谷と同じように芥川龍之介もドストエフスキー文学の深い理解者だったと考えています。

それゆえ、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定することは、比較文明的な広い視野と文明論的な深い考察を併せ持つドストエフスキー文学をも矮小化する事にもつながっていると思えるのです。

二、小林秀雄の芥川龍之介論と徳富蘇峰の北村透谷観

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で小林秀雄は、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」と、徳富蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版された『乃木大将と日本人』という邦題の伝記を高く評価していました。

問題はその直後に小林が日露戦争時の乃木大将をモデルにした芥川の『将軍』にも言及して、「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続け、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈していたことです(下線引用者))。

このことについてはすでに(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉(『全作家』第90号、2013年)で書きましたが、実はそのときに思い浮かべていたのが、明治期の『文学界』(1893年1月~1898年1月)の第2号に発表した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論を厳しく批判したことから徳富蘇峰の民友社からの激しい反論にあい、生活苦や論戦にも疲れて次第に追い詰められ日清戦争の直前に自殺した北村透谷と徳富蘇峰の関係のことでした。

徳富蘇峰はなぜが自殺に追い詰められたかを分析するのではなく、北村透谷や戦争中の1895年にピストル自殺した正岡子規より四歳年下の従兄弟・藤野古伯のことを念頭に、「文学界に不健全の空気充満せんとする……吾人は断然此種不健全の空気を文学界より排擠(せい)せんと欲す」と『国民新聞』で断じていたのです。

一方、先に見た昭和11年の『文学界』5月号に掲載された合評会で小林秀雄は言葉を継いで長編小説『破戒』なども視野に入れつつ、『夜明け前』をこう絶賛していました。

「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。この小説の静かな味わいはそこから生れているのである」。

ここで小林秀雄が『夜明け前』を高く評価していることは確かです。しかし、藤村が敬愛した北村透谷と徳富蘇峰との関係をも視野に入れるならば、「日本人の血」が強調されているのを読んだ藤村は、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」などによりながら激動の時代を描いた自作が矮小化されているとの強い不満を感じたのではないでしょうか。

おわりに――島崎藤村から坂口安吾へ

こうして、多くの知的刺激を受けた相馬氏の『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』における小林秀雄の評価には、物足りなさと強い違和感を覚えていたのですが、その二ヶ月後に刊行された『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)を読んだ時に、その印象は一変しました。

太宰治の研究で知られる相馬氏は、太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で、太宰の盟友でもあった坂口安吾の厳しい小林秀雄批判にも言及していたのです。

この本については、稿を変えて紹介することにします。

リンク→相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

〈司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって〉を「主な研究」に掲載

先日、論文〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉を「主な研究」に掲載しました。

しかし、論文のテーマを明確にするために、その後、節の題名を変更するとともに、〈司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって〉と〈司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって〉の二つに分割しました。

今回は、まず「司馬遼太郎と小林秀雄(1)」を「主な研究」に掲載します。

構成/ はじめに

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎の批判

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

 

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

リンク→「様々な意匠」と隠された「意匠」

リンク→作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→(書評)山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

 

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

前回は校長が「教育勅語」に記された「忠孝」の理念を強調する一方で、「憲法」に記された「四民平等」の理念にもかかわらず差別的な考えを持っていたことや、郡視学の甥・勝野文平がつかんだ情報を用いて丑松を学校から放逐しようとしていたことを確認しました。

*   *   *

『破戒』で日本における差別の問題を取り上げた藤村は、その一方で「人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』(引用者注――キシニョフ、キシナウとも記される。モルドバ共和国の首都。1903年にポグロムが起きた)で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう」とも記して、国際的な状況にも注意を促していました(第1章第4節)。

この意味で注目したいのは、若きドストエフスキーが言論の自由がほとんどなく「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で、女主人公ワルワーラの「手記」において「権力者としての教師」の問題や寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」という差別に深くかかわる問題を描いていたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことです。

*   *   *

田舎で育ったために学校生活にまったく慣れていなかったワルワーラが学校生活の寂しさから、最初のうちは予習もできなかったために、怒りっぽかった女の先生たちから、「教室の隅っこに膝をついて坐らされ、食事も一皿しか貰えない」というような罰を受けたのです。

このような体罰の問題については、『死の家の記録』(1860~62)でより深く考察されることになるのですが、すでにドストエフスキーは『貧しき人々』で、田舎育ちで学校生活に慣れなかったワルワーラを、教師たちが学習の進度を邪魔する「できない子」として体罰を与えるとき、「教室」という一種の「閉ざされた空間」において「いじめ」の問題が発生することを描いていました。

「ワルワーラの手記」では、そのことが次のように記されています。「女生徒たちはあたくしのことを笑ったり、からかったり、あたくしが質問に答えていると横から口をはさんでまごつかせたり、みんなでいっしょに並んで昼食やお茶にいくときにはつねったり、なんでもないことを舎監の先生に告げ口したりするのでした」。

級友たちも「秩序」の受動的な破壊者である「できない子」を批判することで、「権力」を持つ教師に気に入られようとし始めるのです。ワルワーラは「一晩じゅう校長先生や女の先生や友だちの姿が夢にあらわれ」たと書いていますが、それは学校の日常生活の中で次第に追いつめられた彼女の心理状態をもあらわしているでしょう。

しかも、『貧しき人々』の構造で注目したいのは、プーシキンの作品に出会ったことでより広い世界に目覚めるようになる「ワルワーラの手記」がこの作品の中核に置かれることで、それまで自分を「ゼロ」と考えていた中年の官吏ジェーヴシキンが、ワルワーラとの文通や貸し与えられたプーシキンの作品によって、自分の価値を見いだすようになるだけでなく、社会的な意識にも目覚めていく過程も描かれていることです。

たとえば、九月五日付けの手紙では夕暮れ時のフォンタンカの通りを歩く貧しい人々と華やかなゴローホワヤ街やそこを馬車で通る金持ちの人々とを比較したジェーヴシキンは、大金持ちの耳に「自分のことばかりを考えるのは、自分ひとりのために生きていくのはたくさんだ」とささやく者ものがいないことがいけないのであると記しています。

注目したいのは、この作品でも「国庫の利益をなおざりにした」として解雇された元役人ゴルシコーフが、「請負仕事をごまかした商人」と争って、「こね」や「財産」のない者が裁判に勝つことはきわめて難しかったにもかかわらずこの裁判に勝ったものの、それまでのストレスからあまりの興奮に、突然亡くなってしまったという顛末が描かれていることです。

この小説は悲劇的な結末を迎えますが、それは、裁判の公平さや権力の暴走を防ぐことのできるような「憲法」の重要性を、イソップの言葉で読者に示唆するためだったと思えるのです。

(リンク→高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年)

それゆえ、私は初めて『貧しき人々』を読んだ時には、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」にこのような小説を発表していた若きドストエフスキーに、「薩長藩閥政府」から「憲法」を勝ち取ろうとしていた日本の自由民権論者たちとの類似性すら感じていたのです。

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一方、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ1932年に発表した評論「現代文学の不安」で文芸評論家の小林秀雄は、芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定する一方で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記して、ドストエフスキーの作品を知識人の不安や孤独に焦点をあてて読み解いていました。

しかも、前期と後期の作品との間に深い「断層」を見て、『罪と罰』の前作『地下室の手記』を論じつつ、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していた哲学者のシェストフから強い影響を受けていた小林は、前期の作品をほとんど無視し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したのです。

「報復の権利」を主張したブッシュ元大統領が始めたイラク戦争の翌年の2004年に、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する著作を発表した小説家の亀山郁夫氏も主人公たちに犯罪者的な傾向を強く見て、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」という独創的な解釈を示しました(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上、285頁)。

さらに亀山氏は前期の作品との継続性も指摘して、『貧しき人々』のジェーヴシキンをも悪徳地主である「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると断定したのです(上、72頁)。

このようなセンセーショナルな解釈は読み物としては面白いものの、その作品で主人公たちの「不安」をとおして「教育制度」などについても深く考察していたドストエフスキーの作品を矮小化していると私は感じました。

さらに大きな問題はこのような主観的な解釈が、「憲法」のない帝政ロシアで検閲を強く意識しながらも、「裁判の公平」や「言論の自由」をイソップの言葉で果敢に主張していたドストエフスキー作品の意味を読者から隠す結果になっていることです。

*   *   *

これらの小林氏や亀山氏のドストエフスキー論と比較するとき、明治時代の北村透谷や島崎藤村は、なぜ文明論的な視野と骨太の骨格を持つ『罪と罰』に肉薄し得ていたのでしょうか。

次回は、ドストエフスキーが弁護士ルージンとラスコーリニコフなどの対決をとおして「法律」の問題を深く考察していることを踏まえて、再び帝政ロシアの時代に書かれた『罪と罰』における「良心」の問題を考えて見たいと思います。