高橋誠一郎 公式ホームページ

地球環境

重大な選挙の年を迎えて――「立憲主義」の確立を!

明けましておめでとうございます。

堀田善衛の生誕100周年を迎えた昨年も

日本はまだ「夜明け前」の暗さが続きました。

安倍政権はいまだにアメリカ第一主義に追随した政策を行っているばかりか、

被爆国でありながら「核兵器禁止条約」に反対し、

国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を発表するなど、

国際的な孤立を深めています。

核兵器禁止条約

©共同通信社、「拍手にこたえる被爆者・サーロー節子さん」

 

しかし、「立憲民主党」が創設され、立憲野党の共闘が進んだことで、

なんとか「立憲主義」の崩壊がくい止められました。

ようやく安倍政権の危険性の認識も世界に拡がり、

日本でもそれを自覚してきた人々が増えてきています。

Enforcement_of_new_Constitution_stamp(←画像をクリックで拡大できます)

今年こそ民衆の英知を結集して

なんとか未来への希望の持てる年になることを念願しています。

本年もよろしくお願いします。

明治時代の「立憲主義」から現代の「立憲民主党」へ――立憲野党との共闘で政権の交代を!

戦前の価値観と国家神道の再建を目指す「日本会議」に対抗するために、立憲野党と仏教、キリスト教と日本古来の神道も共闘を!

→核の危険性には無知で好戦的な安倍政権から日本人の生命と国土を守ろう

→国際社会で「孤立」を深める好戦的なトランプ政権と安倍政権
 
 

追記: 

ここ数年の懸案であった『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』が2月に刊行されました。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

ここでは青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解くことで、徳富蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性を明らかにし、現代の「立憲主義」の危機に迫っています。

→はじめに 危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容  

→あとがきに代えて   「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

明治維新の「祭政一致」の理念と安倍政権が目指す「改憲」の危険性

 
 
(2019年6月1日、加筆)

「環境の日」を知らない安倍内閣の環境相――無責任体制の復活(10)

国が除染の長期目標を年間被ばく線量一ミリシーベルト以下に定めたことに「何の根拠もない」と発言していた丸川珠代環境相が、発言を撤回して被災者に謝罪したものの引責辞任は否定した問題については、このブログでも取り上げていました。

リンク→宮崎議員の辞職と丸川環境相の発言撤回――無責任体質の復活(9)

その丸川大臣が1972年にストックホルムで開催された「国連人間環境会議」を記念して定められ、国連も「世界環境デー」と定めている「環境の日」を知らなかったことが22日午前の衆院予算委員会で明らかになりました。

さらに、15日の衆院予算委員会では丸川氏が7日の長野県松本市での講演で、環境省の仕事を「今まで『エコだ何だ』と言っていればよかった」などとも発言していたことも指摘されていました。ここには「国民の安全」よりも経済を優先する安倍政権に特有の考えが見られると思います。

*   *   *

この問題で思い起こされるのは、最近政権の判断で「電波停止」できるとして、激しい議論を巻き起こしている高市早苗元政調会長が、2013年6月18日に原発の再稼働について「東京電力福島第一原発事故で死者が出ている状況ではない」と、震災関連死を無視して原発再稼働を主張していたことです。

その際には、福島県内で大勢の震災関連死者が出ていることを挙げて「この数字の重さを理解できない人は政権を担う資格がない」との批判や、「深刻な原発事故への影響の認識が甚だ薄い。政治家を辞めるべきだ」との厳しい批判が出ていたのです。

*   *   *

乗客の生命を預かっている運転手の場合は、交通規則を知らなければ運転手になる資格がありませんし、居眠り運転をすればきびしく罰せられます。

「政治家を辞めるべき」と批判された高市氏が内務大臣的な権力を持つ総務大臣となると、政権の独裁的な手法を批判するメディアを敵視して、恫喝的な発言を繰り返していることにはきわめて大きな問題があると思われます。

国民の生命に関わる環境問題に無責任な発言をする大臣を任命したばかりでなく、このような発言のあとでも罷免できない安倍首相の責任はきわめて重いでしょう。

「文明論(地球環境・戦争・憲法)」のページ構成について

リンク→「文明論(地球環境・戦争・憲法)」
新たに作成した「文明論(地球環境・戦争・憲法)」(旧「書評・図書紹介」)のページ構成は、下記のとおりです。
 
Ⅰ、「核の時代」と地球環境
1-1、自然環境
1-2,戦争と原水爆
1-3,原発事故

 

Ⅱ、日露の近代化とグローバリゼーション

2-1、ピョートル大帝の改革と「富国強兵」政策

2-2、ロシア貴族の特権化と農民の没落

2-3,明治維新と「文明開化」

2-4,日本の近代化の光と影

2-5,グローバリゼーションと「文明の衝突」

 

Ⅲ、「核の時代」と日本国憲法

3-1、憲法

3-2、教育制度

3-3,法律と報道

 

 Ⅳ、政治

4-1,「公地公民」という用語

4-2,明治維新と薩長藩閥政府

4-3,「昭和初期の別国」

4-4、安倍政権

(2016年3月17日。改訂)

 

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

 

ここのところ忙しく、原発事故に関連する記事を書くことができませんでしたが、日本だけでなく地球の将来にも大きな影響を及ぼすにできごとが続いています。

少しさかのぼることになりますが、時系列に沿って、原発事故関連の出来事を追って記すことにします。

今回は、事故当時の最高責任者・菅直人氏を講演者に招いて、「福島原発事故 ― 総理大臣として考えたこと」と題して行われた3月15日の「脱原発を考えるペンクラブの集い」での菅氏の講演の内容をまず紹介し、その後で安倍首相が全世界に向けて発した、汚染水は「完全にブロックされている」という発言を検証することにします。

 *    *   *

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4は、五〇〇名を収容できる専修大学神田校舎の大教室で行われので、最初はどの位の聴衆が集まるのか少し不安にも思ったが、講演が始まる少し前には座れない人も出るほどとなった。

 冒頭で司会の中村敦夫環境委員長は、事故から三年も経った現在も放射線や汚染水が毎日、放出されているにもかかわらず福島第一原子力発電所の状況についての報道がほとんどなされていないことを指摘し、メディアをとおしては知り得ないことをこの場で包み欠かさず伝えて頂きたいと語った。

 菅元首相もそれに応じる形で資料なども用いながら、未曾有の大事故と対面した時の危機感と対応をきわめて率直に語り、第二部の質疑応答でも厳しい質問にも深い反省も交えて誠実に答えていたのが、印象的だった。

 事故当時の状況については、新聞や書物、さらには前回行われた環境委員会の研究会などで少しは知っていたが、最高責任者だった菅氏によって肉声で語られた内容はやはり衝撃的だった。

 改めて驚いたのは、原子力発電の専門家の委員たちが原発事故を想定していなかったために、事故が起きた後では首相に適切なアドバイスをすることがまったくできていなかったことである。

 菅氏は政府事故調中間報告の図面資料を用いながら、四号機プールに水が残っていなかったら、二五〇㎞圏に住む五千万人の避難が必要という「最悪のシナリオ」になった可能性があったという背筋がぞっとするような核心部分の話に入った。

一九八六年に起きたソ連のチェルノブイリの原発事故では核反応そのものが暴走し、一機の爆発としては最大のものであったが、ソ連の場合は事故を起こしたのは四号機だけだった。しかし、福島第一原発だけでも六機の原発と七つの使用済みプールがあり、さらに第二原発にも四機の原発と四つのプールがあったので、日本の場合はソ連の場合よりも数十倍から百倍の規模の災害となる危険性が高かったのである。

 菅氏は政財界からだけでなくマスコミからも浴びせられた激しいバッシングについて、ユーモアを交えつつ語ったが、その話からは司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』で指摘していた「情報の隠蔽」の問題――多くの評論家の解釈とは異なり、「情報の隠蔽」の問題が『坂の上の雲』におけるもっとも重要なテーマであると私は考えている――が現在の日本でも続いていることが痛感された。

休憩後に行われた第二部の「質疑応答」では、壇上の茅野裕城子氏(理事・女性作家委員会委員長)、吉岡忍(専務理事)、山田健太(理事・言論表現委員長)だけではなく、会場からも冒頭での浅田次郎会長の質問をはじめとし、下重暁子副会長や小中陽太郎理事からも会場の素朴な疑問を代弁するような質問があった。

たとえば、浅田会長からの、なぜ日本では狭い国土に五四基もの原発が建設され、原発が動いていなくとも困らないのに再稼働の動きがあるのか」という質問に対しては、菅氏は電力会社の宣伝などのために原発がなくても生活ができるにもかかわらず「オール電化」が必要だと思い込まされていたことや、競争相手もないのにテレビコマーシャルを流すなどの手段でメディアに対する支配力をもっているためだろうと答えた。

  原発事故に総理として直面したことを「天命」と受け止めて、「語り部」としてその時のことをきちんと伝えていこうとする菅氏の政治姿勢を司会者の中村氏は高く評価し、今後の変革のエンジンになってもらいたいと語ったが、それは五〇〇名という大教室を埋め尽くした聴衆も同じだったようで、締めの言葉の後では拍手が長く続いた。

 熱い質疑応答は懇親会にも引き継がれ、菅氏は日本ペンクラブの元会長で哲学者の梅原猛氏が今回の原発事故を「文明災だ」と規定していたことにもふれつつ、地震大国でもある日本が「脱原発」へと転換する必要性を強調した。

今回の「集い」では日本の原発産業や政財界だけでなく、マスコミの問題点が浮き彫りになったと思われる。

        (詳しい報告は「日本ペンクラブ会報」第424号に掲載)。

 *    *   *

 5月17日付けの「東京新聞」は、「汚染水 外洋流出続く 首相の『完全ブロック』破綻」との大見出しで、東京電力福島第一原発から漏れた汚染水が、沖合の海にまで拡散し続けている可能性の高いことが、原子力規制委員会が公開している海水データの分析から分かった」ことを報じています。

 以下にその記事の一部を引用しておきます。

 *    *   *

  二〇一一年の福島事故で、福島沖の同地点の濃度は直前の値から一挙に最大二十万倍近い一リットル当たり一九〇ベクレル(法定の放出基準は九〇ベクレル)に急上昇した。それでも半年後には一万分の一程度にまで急減した。

 一九四〇年代から世界各地で行われた核実験の影響は、海の強い拡散力で徐々に小さくなり、八六年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故で濃度は一時的に上がったが、二年ほどでかつての低下ペースとなった。このため専門家らは、福島事故でも二年程度で濃度低下が元のペースに戻ると期待していた。

 ところが、現実には二〇一二年夏ごろから下がり具合が鈍くなり、事故前の水準の二倍以上の〇・〇〇二~〇・〇〇七ベクレルで一進一退が続いている。

 福島沖の濃度を調べてきた東京海洋大の神田穣太(じょうた)教授は「低下しないのは、福島第一から外洋への継続的なセシウムの供給があるということ」と指摘する。

 海水が一ベクレル程度まで汚染されていないと、食品基準(一キログラム当たり一〇〇ベクレル)を超える魚は出ないとされる。現在の海水レベルは数百分の一の汚染状況のため、「大きな環境影響が出るレベルではない」(神田教授)。ただし福島第一の専用港内では、一二年初夏ごろから一リットル当たり二〇ベクレル前後のセシウム137が検出され続けている。沖合の濃度推移と非常に似ている。

神田教授は「溶けた核燃料の状態がよく分からない現状で、沖への汚染がどう変わるか分からない。海への汚染が続いていることを前提に、不測の事態が起きないように監視していく必要がある」と話している。

 *    *   *

 原発事故の後で菅氏追求の急先鋒だった安倍氏は、昨年の9月には国際社会に向かって「汚染の影響は専用港内で完全にブロックされている」と日本の首相として強調していました。

しかし、その説明は現在、完全に破綻しているばかりでなく、原発事故のさらなる拡大の危険性が広がっていると思えます。

原発事故の検証とともに、その発言も検証される必要があるでしょう。

  

「STAP細胞」騒動と原発の再稼働問題

 

 ここのところ連日、「STAP細胞」をめぐる騒動がテレビなどで詳しく報道されています。

科学者の倫理を問うことは、「道徳」という教科の柱ともなる重要なテーマでしょう。

しかし、「STAP細胞」をめぐるこの騒動が大きくなった一因は、理研と産総研(経産省所管の産業技術総合研究所)を特定法人に指定するための法案の今国会での成立を急ぐために、処分を急いだためとも言われています。

*   *   *

 問題はこの騒動に隠れた形で、まだ、福島第一原子力発電所の事故の問題がほとんど解決されていない中、「国民の生命」や「地球環境」の問題にも関わるより大きな「道徳」的テーマと言える「原発」の再稼働が決められたことです。

しかも今回の決定は、先の参議院選挙や衆議院選挙での政府や与党の「原発をゼロに向けて段階的に削減する」という公約にも反していると思われます。 

このような国政レベルでの「国民」への約束が破られるならば、「国の道徳」は成立しないでしょう。

今朝の「東京新聞」が1面を全部割いてこの問題を取り上げていましたので、その一部を引用しておきます。

*   *   *

安倍政権は「エネルギー基本計画」で原発推進路線を鮮明にした。東日本大震災から三年で、東京電力福島第一原発事故を忘れたかのような姿勢。電力会社や経済産業省という「原子力ムラ」が復活した。 (吉田通夫、城島建治)

 計画案の了承に向けた与党協議が大詰めを迎えた三月下旬。経産省資源エネルギー庁の担当課長は、再生可能エネルギー導入の数値目標の明記を求められ「できません」と拒否した。(中略)

原子力ムラの動きの背後には、経産省が影響力を強める首相官邸がある。

 安倍晋三首相の黒子役を務める首席秘書官は、経産省出身でエネルギー庁次長も務めた今井尚哉(たかや)氏。首相の経済政策の実権は、今井氏と経産省が握っている。

 昨年七月。今年四月から消費税率を8%に引き上げるか迷っていた首相は、税率を変えた場合に経済が受ける影響を試算することを決めた。指示した先は財務省でなく経産省だ。

 歴代政権の大半は「省の中の省」と呼ばれる財務省を頼ったが、安倍政権は経産省に傾斜。その姿勢が原子力ムラを勢いづかせた。

 *   *   *

以前、このブログでは明治以降の日本において「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促して、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していた司馬遼太郎氏の言葉を紹介しました(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

その時、私が強く意識していたのは満州事変以降の日本の歴史と原発事故に至る日本の歴史との類似性でした。

繰り返しになりますが、事態に改善がみられないので、ここでも再び引用しておきます。

*   *   *

司馬氏が若い頃には「俺も行くから 君も行け/ 狭い日本にゃ 住み飽いた」という「馬賊の唄」が流行り、「王道楽土の建設」との美しいスローガンによって多くの若者たちが満州に渡ったが、1931年の満州事変から始まった一連の戦争では日本人だけでも300万人を超える死者を出すことになったのです。

同じように「原子力の平和利用」という美しいスローガンのもとに、推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた戦後の日本でも「大自然の力」を軽視していたために2011年にはチェルノブイリ原発事故にも匹敵する福島第一原子力発電所の大事故を産み出したのです。

それにもかかわらず、「積極的平和政策」という不思議なスローガンを掲げて、軍備の増強を進める安倍総理大臣をはじめとする与党の政治家や高級官僚は、「国民の生命」や「日本の大地」を守るのではなく、今も解決されていない福島第一原子力発電所の危険性から国民の眼をそらし、大企業の利益を守るために原発の再稼働や原発の輸出などに躍起になっているように見えます。

《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」(2014年1月14日)

 

*   *   *

「道徳」の問題が焦眉の課題となってきた現在、テレビや新聞は「STAP細胞」で小保方氏のインタビュー記事を書くことよりも大きなエネルギーを、「国民の生命」や「地球環境」にかかわる原発の再稼働を進めている経産省の官僚一人一人へのインタビューなどを行って、検証すべきだと考えますがどうでしょうか。

 

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4のお知らせを「新着情報」に再掲しました

 

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4のお知らせを1月18日にこのブログに記載しましたが、開催日が近づいてきましたので、改めて「新着情報」に掲載しました。

先の東京都知事選挙では脱原発の票が二つに割れただけでなく、公共放送であるべきNHKが原発事故の問題をきちんと伝えなかったこともあり、大きなインパクトを世論に与えることはできませんでした。

しかし、福島第一原子力発電所の事故は収束からはほど遠い状態で、今日も「東京新聞」は下記のような記事を載せています。

「東京電力福島第一原発で、海側敷地の汚染を調べる井戸から、一リットル当たり七万六〇〇〇ベクレルと、放出限度の五百倍を超える地下水としてはこれまでにない高い濃度の放射性セシウムが検出された。東電はタービン建屋と、配管などを収める地下トンネル(トレンチ)の継ぎ目付近から、高濃度汚染水が漏えいしている可能性があるとしており、建屋から外部への直接漏出が濃厚になった」。

   *   *   *

今年の3月は「第五福竜丸」事件が起きてから60周年に当たります。

アメリカの水爆「ブラボー」の実験は、この水爆が原爆の1000倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員が被爆しました。

日本ではこの事件のことは大きく報じられたのですが、その後南東方向へ525キロ離れたアイルック環礁に暮らしていた住民も被爆していたことが明らかになっています(『隠されたヒバクシャ――検証=裁きなきビキニ水爆被害』凱風社、2005年)。

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フクシマの悲劇を再び生むことのないように、なぜ「絶対安全」とされてきた福島第一原子力発電所で事故が起きてしまったのかを、きちんと検証することが必要でしょう。

地殻変動によって形成され、いまも大規模な地震が続いている日本で生活している私たちが正確な判断を行うためにも、多くの方にご参加頂きたいと願っています。

近刊『黒澤明と小林秀雄』の副題と目次の改訂版を、「著書・共著」に掲載しました

 

昨年末から本書の執筆に取り組んでいましたが、序章にあたる箇所を書き直す中で、第2部の独立性が強すぎることに気づきました。

また、拙著では映画《夢》だけではなく「第五福竜丸」事件の後で撮られた《生きものの記録》や《赤ひげ》、さらには《デルス・ウザーラ》なども、小林秀雄のドストエフスキー観と比較しながら考察しています。

それゆえ、全体の流れを重視して第2部を半分ほどの分量に縮小して第4章としました。

「著書・共著」のページの近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の目次案を更新するとともに、〈「罪と罰」で映画《夢》を読み解く〉という当初の副題も〈「罪と罰」をめぐる静かなる決闘〉に変更しました。

 構成などの大幅な改訂に伴い発行時期が遅れることになりますが、3月1日には成文社のHPに拙著のページ数や価格などのお知らせを掲載できるものと考えています。

 

《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」

 

ブログ記事「《かぐや姫の物語》考Ⅰ」に書いたように、高畑勲監督のアニメ映画《かぐや姫の物語》は、竹から生まれた「かぐや姫」が美しい乙女となり五人の公達や「帝」から求婚されながら、それを断って月に帰って行くという原作のSF的な筋を忠実に活かしながら、日本最古の物語を現代に甦えらせていました。

ただ、「かぐや姫の罪と罰」というこの映画のキャッチフレーズにひかれて見たこともあり、『罪と罰』のとの関連では今ひとつ物足りない面もありました。なぜならば、レフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》でもラスコーリニコフが殺した老婆たちの血で「大地を汚した」ことの「罪」を批判するソーニャの次のような言葉もきちんと描かれていたからです。

「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

また、ドストエフスキーには夢の中で他の惑星に行くというSF的な短編小説『おかしな男の夢』もあります。

それゆえ、「かぐや姫の罪と罰」というキャッチフレーズを持つこのアニメ映画でも福島第一原子力発電所の事故で明らかになったような環境汚染の問題が、「月」からの視線で描かれているのかもしれないとの期待を密かに抱いていたのです。

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結果的にいうとそれは過大すぎる期待でしたが、「かぐや姫の罪と罰」こそ描かれてはいないものの、庶民たちから集めた税で優雅に暮らしながらもその問題には気づかない「殿上人」たちの「罪と罰」は、きちんと描かれているという感想を持ちました。

先日のブログ記事では 『竜馬がゆく』における「かぐや姫」のテーマに言及しましたが、司馬氏は『竹取物語』が書かれたと思われる平安時代の頃の制度を鎌倉幕府の成立との関係をとおして,明治維新後の日本における「公」という理念の問題点を鋭く指摘していたのです。ここでは拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』 (人文書館、2009年、120頁)からその箇所を引用しておきます。

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司馬は武士が「その家系を誇示する」時代にあって、竜馬に自分は「長岡藩才谷村の開墾百姓の子孫じゃ。土地をふやし金をふやし、郷士の株を買った。働き者の子孫よ」とも語らせているのである(四・「片袖」)。

ここで竜馬が自分を「開墾百姓の子孫」と認識していることの意味はきわめて重いと思われる。なぜならば、「公地公民」という用語の「公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、『公家(くげ)』という概念に即した公」であったことを明らかにした司馬が、鎌倉幕府成立の歴史的な意義を高く評価しているからである(『信州佐久平みち、潟のみちほか』『街道をゆく』第9巻、朝日文庫)。

すなわち、司馬によれば「公地公民」とは、「具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた制度」だったのである。そして、このような境遇をきらい「関東などに流れて原野をひらき、農場主になった」者たちが、「自分たちの土地所有の権利を安定」させるために頼朝を押し立てて成立させたのが鎌倉幕府だったのである。

*   *   *

それゆえ、『坂の上の雲』において農民が自立していた日本と「農奴」とされてしまっていたロシアの農民の状態を比較しながら、戦争の帰趨についても論じて司馬遼太郎氏は、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた」と指摘したのです。

そして「大地」の重要性をよく知っていた司馬氏は、「土地バブル」の頃には、「大地」が「投機の対象」とされたために、「日本人そのものが身のおきどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっている」ことも指摘していました。

さらに、明治以降の日本において「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促した司馬氏は、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

*   *   *

実際、司馬氏が若い頃には「俺も行くから 君も行け/ 狭い日本にゃ 住み飽いた」という「馬賊の唄」が流行り、「王道楽土の建設」との美しいスローガンによって多くの若者たちが満州に渡ったが、1931年の満州事変から始まった一連の戦争では日本人だけでも300万人を超える死者を出すことになったのです。

同じように「原子力の平和利用」という美しいスローガンのもとに、推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた戦後の日本でも「大自然の力」を軽視していたために2011年にはチェルノブイリ原発事故にも匹敵する福島第一原子力発電所の大事故を産み出したのです。

それにもかかわらず、「積極的平和政策」という不思議なスローガンを掲げて、軍備の増強を進める安倍総理大臣をはじめとする与党の政治家や高級官僚は、「国民の生命」や「日本の大地」を守るのではなく、今も解決されていない福島第一原子力発電所の危険性から国民の眼をそらし、大企業の利益を守るために原発の再稼働や原発の輸出などに躍起になっているように見えます。

*   *   *

日本の庶民が持っていた自然観をとおして、「タケノコ」と呼ばれていた頃からの「かぐや姫」の成長を丁寧に描き出すとともに、「天」をも恐れぬ「殿上人」の傲慢さをも描き出して日本最古の物語を現代に甦えらせたアニメ映画《かぐや姫の物語》は、現代の「大臣(おおおみ)」たちの「罪」をも見事に浮き彫りにしているといえるでしょう。

名作《となりのトトロ》と同じように、時の経過とともにこの作品の評価も高まっていくものと思われます。

 

《かぐや姫の物語》考Ⅰ――「かぐや姫」と 『竜馬がゆく』

 

ブログ記事「新しい「風」を立ち上げよう(2014年1月1日)」では 前評判通りに水彩画を元にした繊細できれいなタッチで描かれていた高畑勲監督の映画《かぐや姫の物語》にも簡単に言及していましたが、この映画は日本の誰もが知っている『竹取物語』をとおして、身近な地域の環境問題を狸の視点から描いた《平成狸合戦ぽんぽこ》(1994年)のように地球環境に対する高畑勲監督の強い思いが反映されている作品でした。

今回はまず司馬遼太郎氏の 『竜馬がゆく』における「かぐや姫」のエピソードをとおして、日本の庶民が持っていた自然観をとおして当時の「殿上人」の価値観を痛烈に批判していた日本最古の物語が持つ世界観の広がりと現代性を考えてみたいと思います。

*   *   *

長編小説『竜馬がゆく』は、師・勝海舟との出会いで世界的な視野を得て日本の改革をめざし、「歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた」土佐の郷士の息子・坂本龍馬(以下、竜馬と記す)の生涯を壮大な構想力で描き出していました。

ことに厳しい身分制度に苦しんでいた土佐の郷士と上士との対立を描いた前半や、薩長同盟を成立させたあとで、その司馬氏が「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断固として規定したもの」と高く評価した「第二策」を含む「船中八策」を書き上げてから暗殺されるまでを描いた後半は圧巻ともいえる迫力で読者を引きつけます。

『竜馬がゆく』においては桂浜の描写だけでなく、江戸に出る途中で上士の娘・お田鶴と相宿となった際には、郷士のせがれの竜馬が堅苦しさを嫌って宿をでて浜で空と海を見ながら野宿する場面などが秀逸で、そのお田鶴様と竜馬の恋愛がこの長編小説の前半を彩っています。しかも興味深いのは、司馬氏が「お田鶴さまはかぐや姫のように美しい」という伝説が城下にあったと記していることです(拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』、人文書館、2009年参照)。

「かぐや姫」への言及は、「世間の男は、その貴賤を問わず皆どうにかしてかぐや姫と結婚したいと、噂に聞いては恋い慕い思い悩んだ。その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつく公達は後を絶たず」と描かれ、さらに「そのような時から、女に求婚することを『よばひ』と言うようになった」と書かれていたことを思い起こさせます。

司馬氏はこのことも踏まえて 書いていたようで、竜馬が家老の妹・お田鶴の部屋に忍んで行こうとしたことを「土佐では若者の夜這いというのはふつうになっていたが、家老屋敷に夜這いにでかける例は、ちょっとなかろう」と簡単に記しています」(「一・「寅の大変」)。

現代の感覚からすると「夜這い」という言葉は少し野卑な感じがしますが、『ウィキペディア』には「『夜這い』の語は本来結婚を求める「呼ぶ」に由来する言葉とされている」との注が付けられています。そして、司馬氏も淡路島に生まれた高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』では、南方の風俗の影響を強く残しているこの「夜這い」という風俗について、「娘のもとに若者が通ってきて、やがて妊ると自然に夫婦になるのである。若者が単数であることのほうがむしろめずらしい」としながらも、娘が「妊ったときは、その子の父となる者に対する指名権は娘がもつ」と詳しく説明しているのです(一・「妻問い」)。

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 『竜馬がゆく』では実在の歴史的人物をモデルに描かれていることはよく知られていますが、「竹取物語」に登場する「好色の」右大臣安倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂などは672年に起きた壬申の乱で功績をあげた実在の人物であり、石作皇子は宣化天皇の四世孫で「石作」氏と同族だった多治比嶋が、もっとも否定的に描かれている車持皇子は、母の姓が「車持」である藤原不比等がモデルになっている可能性が高いとされています(『ウィキペディア』)。

一方、 『竜馬がゆく』で土佐には武家町家をとわず城下の女たちが「着かざって社寺へ物詣に出かけたり、親戚知人の家にあそびに行ったりして、一日、あそび暮らす」という「女正月」の日があることを紹介して、この日に家老の妹お田鶴が江戸の話を聞きたいと福岡家の預郷士である坂本家を不意に訪れたことを記した司馬氏は、「楽しい話だと竜馬の心のなかまで洗われるような笑顔でころころと笑って」くれたお田鶴さまが、「時候のあいさつでもするようなさりげなさで」にこにこしながら、当時は「大公儀」とされていた幕府を、「みなさんで倒しておしまいになれば?」と問いかけたとし、自分は病弱なので結婚をする気持ちはないが、「仮にお嫁にゆくとすれば、坂本さまに貰っていただきたいと思いました」と明かした彼女が、「あす、戌の下刻(夜九時)屋敷の裏木戸をあけておきますから、忍んでいらっしゃいません?」と語ったと続けているのです。

しかも、司馬氏はお田鶴さまは、会話の際に「話ながら膝の上で小さな折り紙を折っていた」お田鶴が帰り際に竜馬に渡したのは、折り紙の船であったと書いています。 身分の違いから叶うことのない恋の形見のように、お田鶴が船好きの竜馬に折り紙の小さな船を織って渡すというこの場面も印象的なシ-ンですが、後に伝奇小説の『風の武士』を読んだ時には、この船と「かぐや姫」の物語がより印象的に用いられていたことを知りました。

このように見てくるとき「お田鶴さま」の章で、「あの桂浜の月を追って果てしもなく船出してゆくと、どこへゆくンじゃろ」と「子供っぽいこと」を考えていた竜馬の視線もまた遠い異国だけでなく、日本の遠い過去にも向けられていたと言えるかもしれません。

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福島第一原子力発電所の大事故はチェルノブイリ原発事故に匹敵するものといわれてきましたが、チェルノブイリでは「石棺」によって放射能の流出は止まったのですが、フクシマからはいまも汚染水の流出は止まらず、日本の大地や海を汚し続けています。

そのようななかで現代の「殿上人」ともいうべき安倍総理大臣をはじめとする与党の政治家や高級官僚は、「国民の生命」や「日本の大地」を守るのではなく、大企業の利益を守るために原発の再稼働や原発の輸出に躍起になっているように見えます。

高畑勲監督のアニメ映画《かぐや姫の物語》は、竹から生まれた「かぐや姫」が美しい乙女となり五人の公達や「帝」から求婚されながら、それを断って月に帰って行くという原作の筋を忠実に活かしつつも、子供のころからの「かぐや姫」の成長を丁寧に描くことで、日本最古の物語を現代に甦えらせているといえるでしょう。

 

『原発ホワイトアウト』(講談社)を推す

 

知人からの強い勧めで「現役キャリア官僚」が書いたとされる『原発ホワイトアウト』(講談社)を購入した。

サスペンス・タッチで原発産業と政官との癒着の構造に迫る内容で、強い説得力とエンターテイメント性もあり、一気に最後まで読み終えた。

11月15日の「東京新聞」に載った広告では、「大反響 10万部突破」の文字が大きく躍っていたが、読み終えた後では現在の日本が抱えている危険性を再確認させられて、しばらく席を立てなかった。

国民的な議論もなく進められている原発の輸出や再稼働の問題をもう一度考えるよい機会に本書はなるだろう。

詳しい内容を記すのは控えたいが、サスペンス感を高めるために本書ではテロリズムの視点から原発の危険性が指摘されている。

日本という国土が地殻変動の結果として形成され、その後も強い地震活動が続いている自然環境を考慮するならば、一刻も早く「脱原発」に踏み切ることが、長い目で見た場合、「国民の生命」だけではなく「経済的な利益」にも叶っていると思われる。

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「現役キャリア官僚」による「リアル告発ノベル」とのうたい文句も売り上げには貢献していると思われる。

しかし、問題はきちんとした国民的な議論もなく「特定秘密現保護法案」の審議が進んでいる現在、この法律がとおると著者の「現役キャリア官僚」も、「国家機密の暴露」の罪に問われて10年間の刑罰を受ける危険性さえあると思われることである。

 『竜馬がゆく』で「維新政府はなお革命直後の独裁政体のまま」であったと書いた司馬氏は、ことに「言論の自由」を封殺した「新聞紙条例」を厳しく批判していたが、政権についた権力者は自分たちが「国策」として進める政策の欠点を正確に批判する官僚や報道関係者をも、このような法律によって厳しく罰してきたのである。

本書は「原発」の問題だけでなく、「情報」の問題についても考えさせられるような知的刺激に富む本である。