高橋誠一郎 公式ホームページ

ドストエフスキー

チェコ事件でウクライナ危機 を考えるⅠ

はじめに 堀田善衞と三島由紀夫のチェコ事件観

ロシア軍のウクライナ侵攻というニュースを聞いて、最初に思ったことはソ連軍がワルシャワ条約五カ国軍とともに民主化運動を展開していたチェコスロヴァキアに侵攻した1968年のチェコ事件のことでした。

むろん、ソ連の政権下で起きたチェコ事件とソ連崩壊後の今回の侵攻とでは性格も大きく異なります。しかし、前回考察したように、西欧列強に滅ぼされないためにはナポレオンに勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの考えは、露土戦争以降、ロシア正教を国教としていたロシアで広まりました。また、革命政権が誕生した後の1918年に行われた日本やアメリカなどの連合国によるシベリア出兵で多くの死傷者を出し、この戦争以降も常に外国からの圧力を感じていたソ連や、ソ連時代の情報将校だったプーチン大統領にもその「恐怖」は受け継がれているように思われます。

他方で、ゼレンスキー大統領が今回のロシアの侵略を「真珠湾攻撃」にたとえたことが日本の右派の怒りを買っているようですが、ダニレフスキーの歴史理論は昭和初期の「大東亜共栄圏」の思想にも影響を与えており、今回のドネツク・ルガンスクの建国を図ったロシアのように満州国の建国をしたことなどから経済制裁を受けた日本は戦争を開始する理由として、A・B・C・D包囲網を挙げていたのです。

 ところで、ワルシャワ条約5カ国軍が武力で8月21日にはチェコスロバキア全土を占領下においたことを知った堀田善衞は、1956年のハンガリー事件を連想して、「単純な怒りとともに、呆れてしまい、また同時に、彼らのやりそうなことをやったものだ、という感をもったものであった」と記しています。

しかし、堀田は丸山眞男や久野収らが提唱したチェコ事件をめぐる抗議声明に署名しませんでした。それは、9月20日から25日までタシケントで開催されたアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」からでした。

つまり、この時の事件に堀田はまず現場に行って観察しようという鴨長明と同じような精神で対応していたのです。こうして、9月19日に日本を出発した堀田は記念集会に参加した後で、ヘルシンキ、ストックホルム、ロンドン、パリ、プラハ、ウィーン、ベルリン、ブラティスラバなどヨーロッパ各地を訪問して、ことに不幸なチェコスロヴァキアには前後二回、約1カ月滞在して、さまざまな人々と話し合い、約3カ月後の12月24日に日本に帰国しました。その間に見聞きしたことや考えたことを詳しく記したのが堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』です。

一方、『文化防衛論』に収められた「自由と権力の状況」という論考でチェコ事件について考察した三島由紀夫は、「学生とのティーチ・イン」でもこの問題に言及しており、この事件が「三島事件」を起こすきっかけの一つになっていたことが感じられます。

それゆえ、本稿ではまずチェコ事件をとおして「政治と文学」の問題について考察した三島の「自由と権力の状況」を簡単に見た後で、昭和初期に流行った小林秀雄の『罪と罰』論にも注意を払いながら、三島の革命観とテロリズム観を考察します

そして、最後に堀田の小国の運命・大国の運命』を詳しく分析することにより堀田の視野の広さと考察の深さを示すことにします。

そのことによってウクライナ危機に際しての維新や自民党安倍派の対応と、チェコ事件に対する三島の反応との類似性を明らかにし、報道や言論への圧力を徐々に強めながら昭和初期と同じように戦争へと急速に傾斜している現代日本の危険性を示すことができるでしょう。

1,「政治と文学」の考察――「自由と権力の状況」

三島は「自由と権力の状況」という論考の冒頭でチェコの問題への強い関心の理由をこう記しています。

「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある。それは、力と力の世界の出来事であると同時に、イデオロギーの対立の中に、いかに身を処しうるかという微妙な戦術の心理的出来事でもある。事、表現の自由に触れるかぎり、「政治と文学」の問題も、ここにドラマティックなモデル・ケースを作り出した。それに比べると、日本で語られている政治と文学の対立状況などは児戯に類する。極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである。」(『文化防衛論』、ちくま文庫、119頁、以下頁数のみをかっこ内に記す)。

そして、「安保条約下の日本もアメリカの大国主義に対して警戒し、これを排除し、あるいはこれに抵抗しなければならないと教えるであろう」(123)という意見も紹介した三島は「大国の強大な武力の前には、多少の自衛上の武力など持っても何にもならない。だから非武装中立こそは、国を護る最上の良策である、という考えの論理的矛盾は明らかである」(125)としています。

そして、三島はかろうじて核戦争を回避したキューバ危機後の世界のあり方をも批判して、「われわれにけじめを失わせ、弁別を失わせたものが、冷戦と平和共存の論理」(129)であると結論していました。

2,「みやび」とテロリズム――「文化防衛論」

注目したいのは、「反革命宣言」で神風特攻隊員が遺書に記した「『あとにつづく者あるを信ず』の思想こそ、『よりよき未来社会』の思想に真に論理的に対立するものである」と記した三島がここでも「自由と権力の状況」に言及していることです。

「文化防衛論」で「『みやび』は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には、『みやび』はテロリズムの形態をさえとった」とした三島は、「天皇のための廠起は」「一筋のみやび」を実行した桜田門の変の義士たちのように、「容認されるべきであった」と主張したのです(74)。

ここからは幕末に頻発した「天誅」という名前のテロを称賛する姿勢が感じられますが、このような三島の主張とは正反対の主張をしたのが、『竜馬がゆく』で主人公の坂本竜馬を、殺すことを嫌う武士として描いたにもかかわらず、「新しい歴史教科書をつくる会」から高く評価されたことで誤解されることになった司馬遼太郎でした。

ベトナム戦争や学生紛争の時期にこの長編小説を読んだ私は、「天誅」を「正義の殺人」とする思想に『罪と罰』に描かれている「非凡人の理論」と同じような傲慢さを感じて、司馬作品にも熱中しました。あまり知られていないようですが、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と明確に記していたのです(『竜馬がゆく』文春文庫)。

一方、桜田門外の変を「一筋のみやび」と解釈した三島は、そのような視点から「西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の『みやび』を理解する力を喪っていた」(75)と厳しく批判していました。

たしかに、二・二六事件で処刑された磯部一等主計の視点から描いた『英霊の聲』などにおける三島由紀夫の主張は、亡くなった者たちの無念の思いも伝えて迫力がありますが、しかし、情報将校だったプーチンと同様の「国粋主義」的な視野の狭さを感じます。

一方、堀田善衞は誕生したばかりの革命政権を打倒も意図して日本がアメリカなどの連合国と共に行ったシベリア出兵を描いた『夜の森』で、1919年には日本が併合した韓国で三・一独立運動が起きていたことや、この出兵ではすでに満州国に先立って傀儡国家の樹立もはかられていたことなどを記しています。  

一方、三島の視野には、併合された韓国や「五族協和」というスローガンで樹立されながら、土地を奪われた満洲の人々などの苦悩や不満は入ってきていないのです。

3,「決闘」と「暗殺」をめぐる議論 と『罪と罰』の解釈

「学生とのティーチ・イン」でも三島はチェコの民主化運動についてこう批判しています。「いよいよ世間は米ソ二大強国の共存時代に入ってきた、これなら大抵のことをやったって片一方が手を出すわけはない、キューバ事件もそうだからあれでもそうだろう。これはいまがやり時だ、ここで両方のいいところをちょっと取ってやれば、共産主義体制に属しながらしかも自由というものをアメリカ並みに味わえるのじゃないか、こうしたら世界中に一番いいお手本を示してやれる、という山気があったに違いない。こんな山気に私は同情しない」(288)

しかし、私が「学生とのティーチ・イン」で一番興味を持ったのは、学生Dの「三島先生はさきほど、暗殺的行為は一つの思想が一つの思想を殺すことで、これは決闘である、決闘という行為は非常に美しいものであると、賛美なさいましたけれども、(……)暗殺というのは非常に卑怯な行為だと思うのです」(202)という核心を突いた質問に対して、三島が少したじろぎながら、こう答えていたことです。

「決闘との比較は多少当を得ていなかったと思いますけれども」としながらも、警備がきわめて厳重なことを考慮するならば、「だからプラクティカルな問題として、暗殺が卑怯に見えても、暗殺という形をとらざるを得ないと思うのです」(203)。

こうして三島は学生の批判を受け入れて、「暗殺が卑怯」であることは認めつつも「暗殺という形」の殺人を認めているのです。

 このような主張は一見、不合理で説得力を欠いていると思えます。しかし、なぜ三島がそのような主張をしたのかを考えると、二・二六事件が起きる2年前の1934年に小林秀雄が書いた「『罪と罰』についてⅠ」の構造が浮かんできます。ここで「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とした小林は、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言していたのです(全集、6・45)。

つまり、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害しても「罪の意識」が現れなかったと解釈するならば、「政府要人」を「悪人」と見なして殺した青年将校たちにも「罪の意識も罰の意識も」現れるはずはなかったのです。

このような解釈は、我田引水のように思える人もいるかも知れませんが、「文化防衛論」で「社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言うまでもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明している」と記した三島が、「ソヴィエト革命政権がドストエフスキーを容認するには五十年かかってなお未だしの観があるが」と続けています。

 この記述からはドストエフスキーへの三島の深い関心がうかがえ、当時、流行していた小林秀雄の『罪と罰』論からも影響を受けたことが感じられるのです。

「耽美的パトリオティズム」の批判――「美神との刺違へ」という表現と林房雄の「玉砕」の美化

4,復讐と絶望の分析と人類滅亡の危険性――『罪と罰』から『白痴』へ

 神西清は三島由紀夫論「ナルシシスムの運命」で、「戦争は確かに、彼の美学の急速な確率を促した。(略)美の信徒は、今やはっきりと美の行動者になったからである」と記していました(『神西清全集』第6巻、484頁)。

実際、三島由紀夫はデビュー作といえる『仮面の告白』のエピグラフで、「美の中では両方の岸が一つに出合つて、すべての矛盾が一緒に住んでゐるのだ」という『カラマーゾフの兄弟』のセリフを引用していたのです。

これらのことを紹介した宮嶋繁明氏は、三島にとって「美」が如何に重要な理念として確立したかに注意を促した神西が、さらに「美の殉教者が一変して、美による殺戮者になったのだ。彼は美という兇器をふりかざして、あらゆる敵へ躍りかかって行った」と続けて、「三島事件」を予見するような考察も行っていたことに注意を促しています(『三島由紀夫と橋本文三』弦書房、2011年、46~47頁)。

ドストエフスキーにおける美の問題は『白痴』の理解にも深く関わりますが、先にみたように、「学生とのティーチ・イン」では「暗殺」の正当性を主張するために「決闘」にも言及することで「暗殺」を「美化」しようとした三島がかえって学生から卑怯だと指摘されていました。

実は、この前段階で三島は「私はアウシュビッツを認めるわけじゃない。私はナチスのああいうやり方を認めるわけじゃない。/私があくまでそこを分けたいと思うのは、人間が全身的行為、全身的思想で、人と人とぶつかり合うという決闘の思想というものが私は好きなんです」と語っていました(196)。

さらにスターリンが行った「粛清」とも比較することで、「あれだけ警備の多勢いるところで、死刑を覚悟でやるというのは大変だと思う。私は人間の行動というのは、行動のボルテージの高さで評価する」と語った三島は、一対一で行う「勇気」にも言及して「暗殺」を正当化していました。

そのような人物の一人がドストエフスキーが『罪と罰』で描いたラスコーリニコフであり、 「非凡人の理論」を考え出して、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害したのです。こうして、ドストエフスキーは「小説という方法を生かして「非凡人」の理論を、「他者」の殺人という極限的な事態の中で、主人公の身体や感情の動きをもきわめて具体的に分析しながら考察することにより、フロイトなどに先だって絶望の諸相や人間心理の無意識的な深みにまで迫り得た」のです(『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、9頁)。

『罪と罰』では老婆とその義理の妹を殺害したラスコーリニコフの更生が、エピローグでの「人類滅亡の悪夢」を見た後で示唆されていました。

一方、『白痴』ではスイスでの治療から戻ったムィシキンは出会った絶世の美女ナスターシヤの内に深い「絶望」を見抜いて、なんとか癒そうとしたのですが果たせずに終わります。「決闘」の問題を「復讐」のテーマともからめて考察しているこの長編小説では(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、176~180頁)、さらにより深い「絶望者」が描かれています。

それが自分の余命が長くないことを知らされたイッポリートです。自殺をしようとして失敗していた彼は、自暴自棄となり「もしもいまこのぼくが急に思いたって、好き勝手に十人ばかりも人を殺したり」、あるいは「世の中で一番ひどいと思われることをしでかしたりした」らどうだろうかと問いかけていました。

 「つまり、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」では、他者は軽蔑すべき対象としてでも存在したのにたいし、「自己」の可能性を見失って「絶望」したイッポリートにとっては、「他者の生命」も意味をなさなくなってしまって」いたのです(前掲書、217頁)。

この意味で興味深いのは、三島との討論の際に学生Eが、次のような鋭い質問を投げかけていました。 「たった一人でこの世の中を全(すべ)て破壊できると考える人間が、自分の考えを貫こうとして、この全世界を破壊するしかない」と考えて、「合理的に、自分の自殺と他の全世界の人々を滅ぼすということを同時にやったとして、それで全世界を滅ぼすことになっても、ボルテージの高まったその個人に意義はあるのですか。それを伺いたいのです」(206)。

この質問は私が『白痴』のイッポリート から受けた印象とも重なっていました。 彼が考えたのは「無差別殺人」のことでしたが、核の時代の現代においてそれは核兵器の使用になると思えるからです。

こうして、「憲法」を変えるために三島由紀夫が東部方面総監を人質にして自衛隊のクーデターを呼びかけ、その後、割腹自殺をした事件から私は激しい衝撃を受けたのですが、その一因は 椎名麟三が自殺した芥川龍之介が遺書の『或旧友へ送る手記』で、「僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである」と記していることに注意を促していたことにもありました。

つまり、「三島事件」を知った時には、三島が芥川とは反対に「みずから神」となるために自刃をしたことに強い反発を覚えたのです。

その後、この衝撃的な事件の印象は薄れましたが、その関心は「昭和維新」を掲げた2・26事件に遭遇した若者を主人公とした堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の考察 や、原爆パイロットをモデルにして原水爆の危険性を考察した『審判』の考察へと向かうことになりました。

 次回の「チェコ事件でウクライナ危機を考えるⅡ」では、ドストエフスキーについての言及もある堀田善衞の小国の運命・大国の運命』を詳しく考察することにより、彼の社会主義観や文明観に迫りたいと思います。

(2022年3月21日、加筆、改訂)

三島由紀夫作品でウクライナ危機を考える――「民族的憤激」の危険性

はじめに 「老い」について

ロシア軍によるウクライナ侵攻は今も続いており、「チェコの春」の際と同じような事態が起きていることに、「戦争反対」の声を挙げることしかできないことに暗澹たる思いに捉われる。

しかし、長い間ロシア文学だけでなく、ロシアの文化や歴史の研究に携わってきた者としては、やはりこの事態に対して「自分の声」で明確な意見を表明することが必要だと思える。

それゆえ、本稿では憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけた後で割腹自殺した三島由紀夫の文化論、歴史観と原爆観をとおして、無謀で野蛮なウクライナ侵攻を開始したプーチン大統領の心理に迫りたい。

二人の歴史観や原爆観を比較するのは奇異と思われる人もいるかもしれないが、後に見るように、昭和初期に唱えられた日本を盟主とする「大東亜共栄圏」の思想は露土戦争の頃に盛んになった「全スラヴ同盟」の思想から強い影響を受けていると思われるからである。

半世紀前の1970年に三島事件が起きた際に、強い衝撃を受けた私はすぐに血盟団事件をヒントとした『奔馬』などが収められている三島の最後の大作『豊饒の海』を読むことで、彼の行動の背景を知ろうとした。

しかし、神風連の乱にも度々言及されていることで『奔馬』の思想的な背景は分かったものの三島の行動の原因を解明することはできず、冒頭の長編小説『春の雪』や、第三作『暁の寺』や『天人五衰』からも文才の豊かさは感じたがあまり内容を理解できずに、それ以降は三島の作品からは遠ざかっていた。

人名もなかなか思い出せないような記憶力の衰えを感じるようになった70歳を過ぎてから、『豊饒の海』を久しぶりに再読したところ、ボディビルなどで鍛えた肉体を見せる事を好んだ三島が45歳の若さで、 転生する各巻の主人公の「観察者」であり、作品全体の主人公でもある本多の肉体の衰えへの怖れや「老い」への不安を見事に描いていたことに感心した。

そして、同じように柔道などの格闘技の写真を掲載させることを好むロシアのプーチン大統領が私より3歳若いだけであることに気付いて、長年、権力の居続けているこのような老人に安倍元首相がすり寄っていくことに不安も覚えた。

1,『豊饒の海』における「美意識」の問題と「テロ」の思想

最初の巻『春の雪』からは三島が若い頃に影響を受けた「日本浪曼派」の 「美意識」 が伝わってくるが、1961年(昭和36年)に二・二六事件に題材をとった『憂国』を発表した三島は、1966年にも「神帰(かむがかり)」となる川崎青年をとおして、自分が「道義的革命」と考えた二・二六事件で処刑された青年将校や特攻隊員の「神霊」(注:憑依した霊)の声を聴いた主人公の思いが、能の修羅物の2場6段の構成で描かれている『英霊の聲』を発表していた。

翌年に発表した「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」で
三島は 、 キリスト教と比較しつつ「テロ」行為だけでなく、自殺を美化する根拠をこう説明していた。

「天皇と一体化することにより、天皇から齎される不死の根拠とは、自刃に他ならないからであり、キリスト教神学の神が単に人間の魂を救済するのとはちがって、現人神は、自刃する魂=肉体の総体を、その生命自体を救済するであろうからである。」(『文化防衛論』ちくま文庫、116)。

この記述だけでは分かりにくいが、『日本浪曼派批判序説』で「耽美的パトリオティズム」の問題を考察した評論家の橋川文三は、「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた」ことに注意を促してこう記していた(「テロリズム信仰の精神史」)

「それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依」であり、「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す」。

この記述に注目するならば、現代の日本社会の問題を描いた諸作品の後で、堀田が一転して、二・二六事件との遭遇や自殺についての考察を記した自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を描き始めたのは、不安な時代に再び「日本浪曼派」的な思想が日本で拡がるのを予感して、昭和初期の時代を振り返ろうとしたためではないかと思える。

なぜならば、保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促していた評論家の橋川文三は、「保田の主張に国学的発想がつよくあらわれてくるにつれて、一切の政治的リアリズムの排斥、あらゆる情勢分析の拒否がつよく正面に押し」だされるにいたると記してからである。

実際、この事件と特攻隊の兵士の霊たちの呪詛を描いた『英霊の聲』は、亡くなった者たちの無念の思いが強く伝わり迫力のある作品となっているが、敵と戦うことが主な任務である軍人の視点には国を思う「純粋さ」はあっても広い国際的な視野や 戦争の被災者 への同情はない。

そのことを痛感するのは、後に見るように「唯一の被曝国」としての「輝かしい特権」として、戦前の貴族階級の子弟のための学習院で学んでいた三島には、「核武装」の権利を主張する一方で、実際に被爆した人々の肉体的、精神的な苦しみの考察が全く欠けているからである。

それは堀田善衞が太平洋戦争時の国策通信会社の社員を主人公とした『記念碑』で描いた特高警察の井田の観察に似ている。井田は「開戦後、わずか七ヵ月」のミッドウェイ海戦で大戦果を挙げたという発表があったが、「本当は我が方の全滅的敗戦」であったと知らされたときにも、「敗戦思想の一掃」を任務とする彼は「そんな風な事実など、知りたくもなかった」と記されているのである。

同じことはプーチン氏にも ある程度当 てはまるであろう。残念ながら、詳しい経歴には不案内だが、旧ソ連の情報将校であった彼は、いわゆるソ連の「赤い貴族」に属しており、やはり庶民階級の状況を詳しく知りえるような環境ではなかったと思える。さらに、エリツィンから権力を受け継ぎ、長年、権力の座にいるためにイエスマンばかりとなって最近では国内での情報統制や反対派への言論弾圧を強めていたプーチンにも正確な情報は入らず、 ウクライナ侵攻を命令した際には正確な情勢判断が出来なくなっていたのではないだろうか。

2,「大東亜共栄圏」と「全スラヴ同盟」の思想

ここで注目したいのは、長編小説『夜の森』でシベリア出兵は「日清日露などとはまるきり性質のちがう(……)日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」(三・二五九)なのだと熱弁をふるう少尉をとおして、この出兵が「五族協和」などの「満州国の理念」を讃えて行われた満州事変にもつながっていることを示唆していたことである。

実際、「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「八紘一宇」などの理念が唱えられた「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えることになる。

しかし、このような「文明理論」はクリミア戦争後に唱えられて露土戦争の頃に盛んになったダニレフスキーのロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」の思想から強い影響を受けていた。

すなわち、かつてドストエフスキーとともにフーリエの思想を広める会で活動していたダニレフスキーは、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』(1869年)の第一章でクリミア戦争がどうして勃発したのかを問題とし、この戦争がこの前年に即位したナポレオン三世が国内の歓心を得るために聖地エルサレムにおけるカトリック教徒の特権をトルコに要求し、スルタンも一七七四年の条約に反してこれを認めて、ギリシア正教徒の権利の復活を実行しなかったために起きたと主張した。

そして、ナポレオン三世にとってこの戦争が「ナポレオン王朝を不信と悪意をもって見ているヨーロッパと和解させる」ために必要であったことを強調し、フランス政府は「戦争の機会を探していたのだ」と説明したダニレフスキーは、ポーランドの分割や二月革命以後のハンガリーの鎮圧の際には、オーストリアやプロシアなど西欧の諸国も関わっていたにもかかわらず、ロシアのみがその反動性を強く非難されており、ここでは不公平な「二重基準」が用いられると批判した。

 それゆえ、ダニレフスキーは「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張した(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、157~163頁参照)。

 しかも「祖国戦争」に勝利したロシアは、ポーランドを祖国の防衛線と捉えてその併合を正当化していたが、「日露戦争」の勝利後には日本も韓国の併合を同じような視点から正当化していたのである。

露土戦争を「十字軍」と捉えたドストエフスキーの『悪霊』や『作家の日記』にも強い影響を与えたダニレフスキーの歴史理論については、テーマが拡散するので拙著では保田與重郎が高く評価した「文明理論」の背景には触れなかったが、昭和初期に小林秀雄のドストエフスキー論が熱狂的に受け入れられた理由には、このような時代的な背景もあったと思える。

一方、『罪と罰』で「非凡人の思想」に囚われて、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフの行動と苦悩を、他者との激しい議論や、主人公の感情や夢の描写をとおして、「他者を殺すこと」と「自分を殺すこと」の問題を極限まで考察したドストエフスキーは、そのエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描き、次作の『白痴』では死刑反対論者のムィシキン公爵を主人公として、混沌とした露西亜社会の問題を浮き彫りにしていた。
 感情の起伏の激しい思想家でもあったドストエフスキーは西欧でロシア皇帝の暗殺未遂事件を知った後では 『悪霊』 などの作品も書いたが、晩年の大作『カラマーゾフの兄弟』』では、「異端審問長官」の危険性も明らかにしていた。

 彼の問題意識を真摯に受け継いだのが、長編小説『審判』で原爆パイロットを主人公の一人とし、被爆者の家族の苦しみも描き、『若き日の詩人たちの肖像』で昭和初期の「祭政一致」的な国家体制の問題点を詳しく描いて、戦争と原爆の危険性を明らかにした 作家の堀田善衞であった。(拙著『堀田善衞とドストエフスキー』群像社)。

3,三島由紀夫とチェチェン武装勢力指導者の神風観と核兵器観

問題はドストエフスキーにも強い影響を与えたダニレフスキーの「文明理論」や西欧列強への恐怖感がその後ソ連でも受け継がれて、ハンガリーや「チェコの春」の際の侵攻につながり、さらにソ連の崩壊後に政治学者ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)がアメリカだけでなく、西欧社会でも拡がったことで、ロシアなどで軍事同盟であるNATOに対する警戒心や恐怖心が強まったことにも注意を払っておく必要があるだろう。

むろん、このような反応を無用な恐怖と一笑に付すこともできるが、第二次世界大戦で多大な被害を受けたイスラエルが そのトラウマからパレスチナ問題などで過激な反応をすることがあるように、プーチンが戦後の生まれとはいえ100万人を超えるともいわれるような多大な犠牲者が出たペテルブルグで誕生していたことにも留意して、NATOには慎重な対応が求められるべきであったとも思える。

第二次世界大戦時のヒトラーや日本のように「恐怖心」や「自尊心」から、自滅をも厭わないような戦争を仕掛けることもあるからである。

たとえば、チェチェン紛争が勃発した時期にイギリスでロシアと日本の近代化の比較を研究していた私は、BBCやイギリスの新聞をとおして、圧倒的に不利な状況だったチェチェンの独立派武装勢力が、 ロシア軍に対して「カミカゼ」と称する自爆攻撃を行っていたことに驚かされた。

一方、 三島は『英霊の聲』で二・二六事件の将校の英霊に語らせただけでなく、「戦(いくさ)の敗れんとするときに、神州最後の神風を起さんとして、命を君国に献げた」神風特別攻撃隊の勇士の英霊に、「われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、そういうことだ。…中略…その具現がわれらの死なのだ」と神道的な視点から「神風」の意義を語らせていた。

さらに、「(日本は)単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない」と主張した三島は、「核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つている。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起こすべきではないのか」とも問い質していた(「私の中のヒロシマ」『三島由紀夫全集』第34巻、448頁)。

威勢のよい「核武装論」だが、 注意を払わなければ成らないのは、このような主張は自分たちの権利が武力で押さえつけられていると考え、自分たちには「復讐する権利」があると考えた者もそのように考える危険性がある。実際にチェチェン独立派武装勢力の指導者ドゥダーエフは、自分たちが核を持ったら「ロシアには核攻撃をしかける」とも語っていたのである。

アメリカののど元とも言えるキューバに核ミサイルが配置されそうになった際には、最悪の場合は核戦争さえも予想されるようなキューバ危機が起きたが、トランプ氏が大統領だった2019 年 2 月には、アメリカが「旧ソ連との間で結んだ INF(中距離核戦力)全廃条約からの一方的離脱を通告」したことで、隣国ウクライナが軍事同盟のNATOに参加することには、「ロシアの安全保障上の懸念」が一層強まっていた。

 日本ではロシア軍のウクライナ侵攻に乗じて、選挙に向けて「改憲」論だけでなく、三島が1967年に記した「核武装論」に似た言動が維新や自民党安倍派議員からなされるようになってきているが、「被爆国」が核武装に踏み切れば、旧植民地などの弱小国はこぞって核武装をしようと望むことになるだろう。

長年、「核の傘」理論などによって説明されてきたために日本では核への危機感が薄くなっているように思われるが、 大国同士の軍事バランスが保たれている状況でのみ「核抑止の思想」が成立するのであり、昭和初期の日本軍人たちの呪詛を汲んで表明された三島の「核武装論」の危険性は、現在、精神的に追い詰められて無謀で野蛮な攻撃に踏み切った民族主義的な政治家・プーチン大統領の心理にも通じていると思える。

 それゆえ、三島的な「民族的憤激」の危険性については 、堀田善衞の『小国の運命と大国の運命』を読み解く「チェコスロヴァキア事件でウクライナ危機を考える」の稿で再び考察することにし、 「『文化防衛論』と『方丈記私記』」はその後に移動する。

(2022年3月13日 改訂と改題。 14日および17日 加筆と移動。 3月28日 改題、
4月9日 加筆と改題)

「小林秀雄神話」の解体――鹿島茂著『ドーダの人、小林秀雄』を読む(序)


目次/ はじめに/ 1,「他人を借りて自己を語る」という方法――小林秀雄とサント・ブーヴ / 2、『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解/ 3、「人生斫断家」という定義と2・26事件/  4,「小林神話」の拡がりと「核戦争」の危機

はじめに 

「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で」、どこの大学にも「小林秀雄信者」の教員がいて「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』」と迫る出題をしていました。

 そのことを紹介したフランス文学者の鹿島茂氏が「小林神話」の解体を試みた 標記の著書から強い知的刺激を受け た私は、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』(成文社、2019年)の終章では小林秀雄の『地獄の季節』訳と2・26事件との関係について分析した氏の説明を引用しました、

 『地獄の季節』と 『レ・ミゼラブル』とのかかわりを説明している箇所や小林秀雄と長谷川泰子と中原中也の三角関係についての分析も、ドストエフスキー作品の構造とも深く関わっています。それゆえ、今回はそれらのことにもふれつつ 、『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』朝日新聞出版、2016年。以下、題名は『ドーダの人』と略す)についてドストエフスキー研究者の視点から紹介しようと考えました。

 さらに、本稿を執筆中にロシア軍のウクライナ侵攻が始まると、それに乗じて維新の橋下徹氏が 日本の「核武装」についてテレビで論じると、安倍元首相もそれに応じて「改憲」が煽られるという事態が起きました。

  このような状況は関東軍による満州事変が起きると日本では「満州国」の建国を危機の打開策として歓迎するような世論が 一気に 強まり、2・26事件をへて、泥沼の日中戦争から太平洋戦争の悲劇へと突き進んだ事態を連想させます。

 それゆえ、この稿の後半ではドストエフスキー作品の深い考察もある堀田善衞の自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』にも言及することにより、小林秀雄と林房雄の戦争観と死生観を見た後で、『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促した評論家の橋川文三による「日本の右翼テロリスト」の死生観についても紹介しました。

 そのことにより戦前の「五族協和」などと同じような美しいスローガンにより、「核武装」を説く論客の弁舌に乗って、「改憲」の必要性を主張する「#日本会議」系の議員の主張と昭和初期の論客の主張の類似性とその危険性にも迫ることができると思います。 (2022/03/02、改訂)

『ドストエフスキーとの対話』(水声社)に「堀田善衞のドストエフスキー観――堀田作品をカーニヴァル論で読み解く」を寄稿

『現代思想』に「大審問官」のテーマと 核兵器の廃絶――堀田善衞のドストエフスキー観 を寄稿

拙著の紹介が沖縄タイムズ、富山新聞、信濃毎日新聞、下野新聞、愛媛新聞に掲載

okinawatimes.co.jp/articles/-/881840…

「今年はドストエフスキー生誕200年。その文学の日本での受容を語る上で欠かせないのが堀田善衛である。終戦直前の東京大空襲と広島、長崎へ原爆投下という事態に出合って彼は、ドストエフスキーの現代的理解を深めていくからだ(…)」

〈新刊〉「堀田善衛とドストエフスキー」高橋誠一郎 著|文化|全国のニュース|富山新聞 (hokkoku.co.jp)

「堀田善衞の会」の例会で北陸にお伺いした際には、 生誕100年記念特別展「堀田善衞――世界の水平線を見つめて」が開かれた「高志の国(こしのくに)文学館」や「徳田秋聲記念館」など多くの文学館でお世話になりました。

拙著の紹介が12月19日の信濃毎日新聞、下野新聞、愛媛新聞にも掲載され、記事の後半では「黙示録的時代と向き合った2人の作家の共鳴の軌跡を追う」と、拙著の『審判』論が的確に紹介されていたことが判明しました。 (1月11日)

ドストエーフスキイの会、255回例会(報告者:杉里直人氏)のご案内

「第255回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.156)より転載します。

*   *   *

第255回例会のご案内    

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                               会場変更にご注意ください !

 日 時2020年1月25日(土)午後2時~5時

場 所早稲田大学文学部戸山キャンパス31号館2階208教室

                                   (最寄り駅は地下鉄東西線「早稲田」)

報告者:杉里直人 氏

題 目: 『カラマーゾフの兄弟』を翻訳して

                                      会場費無料

 

報告者紹介:杉里直人(すぎさと なおと)

1956年生まれ。早稲田大学、明治大学、東京理科大学非常勤講師。2007年に旧マヤコフスキー学院の受講生とともに『カラマーゾフの兄弟』の輪読会を始め、2016年に読了。現在は新しい仲間も加わり、5年計画で『悪霊』を読んでいる。主要訳書:バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(水声社、2007年)。

 *   *   *

第255回例会報告要旨

『カラマーゾフの兄弟』を翻訳して

2020年1月に水声社より杉里訳『カラマーゾフの兄弟』が刊行される。1914年に二浦関造の手で初めて邦訳されてから106年、拙訳は16番目の日本語訳になる。

私は今回、第一に原文を一語一語、忠実に訳すこと、そのうえで平明な訳文の作成をめざした。とはいえ、『カラマーゾフ』は概して一文が長く、構文はねじくれていて、会話は高度のmodalityに富んでいるので、「原文に忠実」と「平明な訳文」の両立は容易ではない。難所にぶつかるたびに、そして無知や思いこみに起因する錯誤を回避するために、座右に置いた13の先行訳を参照した。拙訳には既訳に異を唱え、新しい解釈を提示する箇所がいくつかあるが、それは先人との時空を超えた対話を通してなされた。利用した8つの日本語訳のうち、語学的に正確で、周到に考えぬかれた原卓也の丹念な訳業、巧みな語り口、豊富な語彙、こなれた訳文という点で抜きんでた江川卓の仕事からは学ぶ点が多かった。5つの英・仏・独訳のうち、とくに2つの英訳(Pevear&VolokhonskyとMcDuff)は、日本語訳を批評的に対象化して、異なる見地から再検討し、代々の誤訳を洗い直すために有益だった。

翻訳作業では露和辞典に依存せず、常時複数の露々辞典を引くよう心がけた。主に利用したのは、ダーリ辞典(作家と同時代に編纂)、新アカデミー辞典(現在25巻まで既刊)、旧アカデミー17巻辞典、ウシャコフ辞典、ドストエフスキー語彙辞典、ミヘリソン表現辞典、19世紀刊行の方言辞典などである。ドストエフスキーを読む際、不可欠なのはダーリと新旧アカデミー辞典で、これらを徹底的に読みこめば、誤訳を確実に正すことができる。

拙訳のもう一つの特徴は詳細な注釈である(A5版190頁、1264項目)。140年前に異国で発表された古典作品を深く的確に理解するためには、目配りがよく偏りのない注釈が必須だ。ところが、従来の邦訳のうち、注釈の名に値するものを具備しているのは江川卓訳だけだった。これはナウカ版全集のヴェトロフスカヤによる画期的注釈(1976)に依拠しつつ、江川独自の研究を盛りこんだ労作である。これが成ったのは1979年で、その後40年が経過し、作品研究は長足の進歩をとげた。ヴェトロフスカヤは『カラマーゾフ』関連の単著や論文を集成し、2007年に600頁を超える大著としてまとめ、注釈部分(209頁)も最新の知見を反映させて大幅に増補・改訂した。拙訳の訳注ではヴェトロフスカヤ、江川のほかに、グロスマン(1958)、Terras(1981)の注釈も適宜利用した。

司法、教育などの社会制度、衣服、食事などの習俗、宗教儀礼、文化、自然といった、いわゆるレアリアについてはできるだけ具体的に解説した。ロシア人にとって自明で、注釈が不要な事柄でも、外国人読者にはなじみのない事象が数多くある。それらにはブロックハウス=エフロン百科を始めとする各種事典類を頼りに、独自の注釈を施した。聖書関連ではコンコーダンスをフルに利用した。新規の試みとして絵画などの視覚情報を別丁で掲載した。

『カラマーゾフ』は《引用の織物》と言ってよいほど、古今のテクストが引用され、原著に対する顕在的・潜在的な論争、パロディ、もじり、嘲笑に満ちている。この点も可能なかぎり原典にあたって調査し、作品の読解に益する場合には注釈を付した。従来日本では言語遊戯、新造語・古語・外来語の使用など言葉の芸術家としてのドストエフスキーに関心が向けられることは少なかったが、作家は最後の長編で細部の彫琢に腐心し、さまざまな意匠を凝らしている。注釈では真に驚嘆すべきこの側面にも照明を当てることをめざした。

一連の作業のために作成したノートは最終的に29冊になった。このノートがなければ、私は『カラマーゾフ』の翻訳などという身のほど知らずの蛮行を企てなかっただろう。本例会では、なるべく多くの具体例をあげながら報告する。いくつかの新発見についてもお伝えできればと思っている。

*   *   *

合評会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

ロシア帝国の教育制度と日本――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』から『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』へ

59l「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

ニコライ一世治下の帝政ロシアでは、ロシアの貴族にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を「ロシアの理念」として国民に徹底しようとした「ウヴァーロフの通達」が1833年に出されていました。

このような時代に青春を過ごした若きドストエフスキーは初期作品で、権力者の横暴を抑えるための「憲法」の意義や言論や出版の自由の必要性、さらには金持ちのみを優遇する「格差社会」の危険性などを、「イソップの言葉」で説いていました。

『貧しき人々』に始まるこれらの作品を分析することにより、日本における「憲法」や「教育」の問題を考察しようとした拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章では、検閲の問題と芥川龍之介の自殺との関連にも注意を払いながら、『白夜』からの引用がある堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』に注目することで、昭和初期の日本の状況とクリミア戦争直前の帝政ロシアの状況との類似性を明らかにしました。

たとえば、昭和一二年に文部省から発行された『国体の本義』では、大正デモクラシーを想定しながら、その後も「欧米文化輸入の勢いは依然として盛んで」、「今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起」したとして、これらの混乱を収めるべき原則として『教育勅語』の意義が強調されたのです。

さらに『国体の本義解説叢書』の一冊として文部省教学局が発行した『我が風土・国民性と文学』と題する小冊子では、「ロシアの理念を強調した「ウヴァーロフの通達」と同じように、「日本の国体」においては、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」ことを強調していました。

 それゆえ、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』を書き上げた後では、芥川龍之介の自殺の問題も描かれている堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』を詳しく考察することで、昭和初期に書いた「『罪と罰』についてⅠ」などの評論や『我が闘争』の書評で当時の若者や知識人に強い影響を与えていた小林秀雄のドストエフスキー論の問題点を明らかにしたいと考えました。

しかし、幕末だけでなく昭和初期に再び強い勢力を持つようになっていた平田篤胤の「復古神道」について理解が乏しかったために、その構想は先延ばししなければなりませんでした。

ようやく前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』で、明治の文学者たちの視点で差別や法制度の問題、「弱肉強食の思想」と「超人思想」などの危険性を描いていた『罪と罰』の現代性に迫りました。さらに、『罪と罰』の人物体系や内容を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書いただけでなく、『夜明け前』では平田篤胤没後の門人となって古代復帰を夢見た主人公の破滅にいたる過程を描いた島崎藤村の作品を分析することにより、明治政府の宗教政策や昭和初期の「復古神道」の問題をも考察することができました。

こうして、芥川龍之介の自殺と堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』との関連を論じることのできる地点までようやく来ましたので、次の著書『堀田善衞と小林秀雄――「若き日の詩人たちの肖像」を読み解く』(仮題)ではこの問題を正面から論じることにします。

*新刊 『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社、2021年)

そのためにも、徳富蘇峰の「教育改革」論の後で生じた事態を、芥川龍之介の自殺と堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』との関連をとおして考察した箇所を、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』から、「主な研究」に転載することにより確認することにします。(引用に際してはわかりやすいように、一部改訂を行いました。)

芥川龍之介の自殺と『若き日の詩人たちの肖像』――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章より

 (2023/02/02、新刊 『堀田善衞とドストエフスキー』とツイターへのリンク先を追加)

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

はじめに

 一昨日、原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の二つの作品を考察した研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載しました*1。

ここでは堀田百合子氏の『ただの文士 父、堀田善衞のこと』や『堀田善衞・上海日記』、そして、木下豊房氏の「武田泰淳とドストエフスキー」にも目を配ることで、堀田善衞と武田泰淳の『審判』との関係を考察したいと思います。そのことによって、『若き日の詩人たちの肖像』に記されている『白痴』論の意味にも迫ることができるでしょう。

1、堀田善衞と「あさって会」

 堀田善衞も属していた「あさって会」がどのような会だったかは年譜などからは分からなかったのですが、堀田百合子氏は『ただの文士 父、堀田善衞のこと』で、子供の頃に行われていた「埴谷家のダンスパーティーが、その後の『あさって会(埴谷雄高・椎名麟三・梅崎春生・野間宏・武田泰淳・中村真一郎・堀田善衞)』の集いにつながっていったのだと思います」と書いています。

さらに、彼女は「戦後派と呼ばれる作家たちのこの集まりは、家族ぐるみの付き合いでもあり、文学をタテ、ヨコ、ナナメに、それぞれが勝手にしゃべり、それぞれの栄養にして」いったのですと記しており、この会の雰囲気が伝わってきます*2。

 ことに武田泰淳氏とその家族とは「夏の蓼科、角間温泉、湯田中温泉。父と武田先生、母と百合子夫人、私と花さん。遊んでいました。しゃべっていました」と書いた百合子氏は「父には見た目も、物言いも、かなり鋭角的なところがありますが、武田先生は違いました。何もかもがまーるいのです。時間の回り方が違うのかなと思えるようなまるさでした。人を包み込むような優しさが、子供の私には心地よかったことを覚えています」と続けています*3。

2、武田泰淳と堀田善衞の上海

 このような堀田と武田の深い交友を考えるとき、武田泰淳の『審判』(1947)と堀田善衞の『審判』(1963)との関りの深さが浮かび上がってきます。

すなわち、ドストエフスキー研究者の木下豊房氏は、埴谷雄高が1971年のエッセイで、「同時代者である私達はまぎれもなく同一問題を負わざるをえなくなったドストエフスキイ族であることが明らかになった」とのべ、椎名麟三、武田泰淳、野間宏の名をあげながら、特に、武田の小説『風媒花』で展開される現代の殺人論が「ドストエフスキイの深い殺人論の延長線上」にあることを指摘していたことに注意を促していました*4。

さらに1946年に帰国した直後に書かれた「『審判』(1947・4)、『秘密』(1947・6)、『蝮のすえ』(1947・8)」と武田の作品とドストエフスキーの『罪と罰』との深い関連を木下氏は詳しく考察しているのです。

堀田善衞が『文芸』の1955年12月号に載せたエッセイ「武田泰淳」において、上海では堀田が詩だけを書いていたのに対し、武田は「詩を書きながら、しきりと『罪と罰』のような小説が書ければ本望だ、と云って、世の狂燥をよそにして、漢訳の聖書を一生懸命に耽読していた」と記していることは武田の『罪と罰』への関心の深さを物語っているでしょう*5。

そして、堀田が「そのときの姿勢が、いつまでも僕の眼底にのこっている」と続けていたことからは、武田泰淳と堀田善衞の二つの『審判』の関係の深さが伺えます。

しかも、1976年に発行された雑誌『海』の「武田泰淳追悼特集」に収められた開高健との対談では、上海ではまだドストエフスキーの文学を知らなかった武田に堀田がシェストフやミドルトン・マリなどの「さまざまのドストエフスキー論について武田先生に講義しました」とも語っているのです*6。

3、堀田善衞の原爆のテーマと武田泰淳

原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の『審判』のテーマも武田との交友が深く絡んでいました。

すなわち、武田泰淳の葬儀で弔辞を読んだ堀田は、上海にいたときに「原爆の影響によって、我が国民全部が亡びるというデマ」がまことしやかに伝えられていたことから、武田が「『かつて東方に国ありき』という詩をお書きになったことを、私は忘れません」と語って、原爆のテーマと上海の記憶にも注意を促していたのです*7。

この言葉の意味は重いでしょう。なぜならば、1970年5月に毎日新聞夕刊に書いた記事で、宇宙飛行について書いたメイラーの『月にともる火』について「なぜいったいどこかで広島について、長崎についての言及と考察がなされなかったのか。それなしではアポロもヘッタクレもあるものか、と私は思う。それを欠いていることについて、ノーマンなどという奴はつまらぬ奴だ、と私は思う」と記しているのです*8。

しかも、1990年8月6日にNHK教育テレビで放映された「NHKセミナー 現代ジャーナル 作家が語る自作への旅」で 堀田善衞は自作『審判』の主人公についてこう語っていました*9。

「広島で二十数万人を一挙に殺したということについての、それが一体罪であるのか、あるいはただの戦時行為なのであるか、という判定がつかないわけですがそういう人物を選んだわけです。その人物の容貌、相貌を、私はフランスの画家ルオーの自画像を見ていて思いついたわけです。日本へ行けば、あるいは最終的に広島へ行けば、そこで何らかの解決、あるいは審判というものを受けられるのではなかろうか。再生のための、もう一度生きるための道というものが、日本にあるのではなかろうか。そういうことを考えたわけなんです。」

この文章を紹介した堀田百合子氏は、『掘田善衛全集5』 の「著者あとがき」で堀田が武田泰淳に触れながら記していた文章も引用しています。

 「筆者自身としても、この作品について何かを言うことは、現在でもある苦痛の感を伴うものがあった。(略)/なお、同じく『審判』と題された、故武田泰淳氏の傑作が別にあることを、付記しておきたい。『審判』という命題は、戦争を通過して来た戦後世代にとっては、避けては通れないものである」

こうして、木下氏の考察をも考慮するならば、原爆パイロットを主人公とした堀田善衞の『零から数えて』と『審判』は、武田のこれらの作品を踏まえた上で書かれているといっても過言ではないでしょう。

4、小林秀雄のドストエフスキー観の見直し

注目したいのは、『堀田善衞 上海日記』の冒頭に記されている1945年8月6日の記述で堀田善衞が、「頃日(注:けいじつ、この頃の意)ド〔ドストエフスキー〕氏の「白痴」を読みたしと思ふことしきり」と書いていることです。同じ年の10月13日の日記では、創元社から刊行された小林秀雄の『小説1』『小説2』とともに小林秀雄が1943年の9月に『文学界』で論じていたゼークトの『軍人の思想』を買い求めたと記されていることに注目するならば、この時期に堀田が『白痴』を通して小林秀雄の思想の見直しをしていることが感じられます*10。

なぜならば、小林秀雄は「天皇機関説」事件が起きる前年の1934年に書いた『白痴』論で、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈していましたが、堀田善衞はこの時期を描いた『若き日の詩人たちの肖像』で、「たとえ小説の中でも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、(……)外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」と書いているからです*11。

これらの記述から堀田が『白痴』を通して小林秀雄の思想の見直しをしていると断ずることは強引のように見えるかもしれませんが、先ほど見た『堀田善衞 上海日記』に収められている開高健との対談での終わりの方で堀田は、こう語っていました*12。

「ぼくはほんの一年九カ月ぐらい上海にいただけですが、ものの考え方も感覚もひじょうに変ったと思うんですね。帰ってきて『批評』の同人会へ出ても、かれらが喋っていることがぜんぜん解りませんでね。(……)隣りに小林秀雄さんがいて、『堀田君、君は随分おとなしい人だね』と言ったけれども、おとなしいんじゃなくて、何言っているのか全然解らないんですよ。」

 この言葉からは上海から戻った時に、堀田善衞が昭和の『文学界』や『日本浪曼派』の、「日本回帰」のイデオロギーから完全に解き放されていたと考えることができるでしょう。

こうして武田泰淳との関係も踏まえて、堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の前に書かれた『零から数えて』と『審判』を読むと、いっそう興味と理解が深まると思われます。

 

*1 「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」『世界文学』(127号)、2018年7月、101~107頁。→ホームページ 「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって」

*2 堀田百合子『ただの文士 父、堀田善衞のこと』岩波書店、2018年、22頁。

*3 同上、92頁

*4 木下豊房「武田泰淳とドストエフスキー」、(初出:「ドストエーフスキイ広場」№15.2006)

*5『堀田善衞全集』、第16巻、25頁。

*6 堀田善衞・開高健「対談 上海時代」、紅野謙介編『堀田善衞 上海日記――滬上天下(こじょうてんか)一九四五』集英社、2008年、394頁。

*7 堀田百合子、前掲書、94頁より引用。

*8『堀田善衞全集』、第14巻、309~310頁。

*9 堀田百合子、前掲書、45~46頁より引用。

*10 紅野謙介編『堀田善衞上海日記』、集英社、2008年、13頁、32頁。

*11 高橋誠一郎、「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」『ドストエーフスキイ広場』第28号、2019年、121~127頁。→ホームページhttp://www.stakaha.com/?p=8515。なお、堀田善衞の『審判』とドストエフスキーの『悪霊』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』との関連については、別の機会に譲ることにする。

*12 紅野謙介編『堀田善衞上海日記』、415~416頁。

 

 

「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載

journal127.png 

原爆パイロットを主人公とした堀田善衞(1918―1998年)の二つの作品については、「狂気と文学」が特集された『世界文学』(127号)に寄稿した研究ノートで、ドストエフスキーの『白痴』や『罪と罰』との関連で予備的な考察をしました。

その研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載します。

狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって

ただ、その際には堀田善衞と武田泰淳(1912年―1976年)の二つの『審判』との関係については言及できませんでしたので、それについては別稿で考察することにします。

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』