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ドストエフスキー

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

はじめに、『若き日の詩人たちの肖像』の時代の「祝典的な時空」

自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる昭和11(1936)年の二・二六事件に遭遇した主人公が「赤紙」で召集されるまでの重く暗い日々が若い詩人たちとの交友をとおして克明に描かれています。

しかし、この時期には「祝典的な時空」という華やかな側面もありました。すなわち、「天皇機関説」事件が起きた昭和10年には神武天皇の即位を記念する「祝典準備委員会」が発足し、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』でふれたように、それから5年後の昭和15年には、「内務省神社局」が「神祇院」に昇格して、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」の祝典が盛大に催されたのです。

(出典は「「ウィキペディア」)

皇紀の末尾数字を取ってゼロ戦と名付けられた戦闘機などによる真珠湾攻撃の大戦果などを踏まえて、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした堀場正夫は、昭和17年に出版したドストエフスキー論に『英雄と祭典』という題名つけましたが、それはこの著がそのような祝典的な雰囲気の中で著わされていたことをも物語っているでしょう。

評論家の橋川文三は『日本浪漫派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」(太字は原文では傍点)あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促し、「私が『耽美的パトリオティズム』と名づけたものの精神構造と、政治との関係が改めてとわれねばならない」と記しています。

それゆえ、ここではまず『若き日の詩人たちの肖像』の複雑な構造に迫る前に主人公の視線をとおしてこの時代の雰囲気を概観することで、この長編小説における「耽美的パトリオティズム」の批判の一端に迫りたいと思います(本稿では、敬称と注を略した)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

一、真珠湾の二つの光景

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃の成果を知った主人公が「ひそかにこういう大計画を練り、それを緻密に遂行し、かくてどんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と感じたと書かれています。

しかし、それに続いて「それは掛値なしにその通りであったが、そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなっていた」ことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と記した作者は、軍神に祭られても「親御さんたちゃ、切ないぞいね」という一緒に住むお婆さんの言葉も記しているのです。

しかも、年が明けて1月になり主人公の仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てきたことを記した著者は、「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」という主人公の思いを記していますが、この批判は文芸評論家の小林秀雄にも向けられていると思えます。

なぜならば、「文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」時に、「僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」と「三つの放送」で書いた小林は、元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃の航空写真を見た印象を「戦争と平和」というエッセーでこう記していたからです。

「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとした思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に眞つ白な水脈を曵く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作つて拡がつたのだ。そしてさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかつた筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去つた彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映つたに違ひない。」

そして、「冩眞は、次第に本当の意味を僕に打ち明ける様に見えた。何もかもはつきりしているのではないか」と書いた小林は、トルストイの『戦争と平和』にも言及しながら、「戰は好戰派といふ様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戰だから起こるのである」と結んでいたのです。

 ここには写真には写っていない特殊潜航艇に乗り込んで特攻した乗組員の心理も考察している『若き日の詩人たちの肖像』の主人公の視点と、海の底に沈んだ特殊潜航艇のことには触れずに航空写真を見ながら「爆撃機上の勇士達」の気分で戦争を描いた小林との違いが明確に出ていると思えます。(続く)

(2019年4月21日、改訂)

堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって

二〇一八年が生誕百周年に当たっていた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(一九六八年)は、大学受験のために上京した翌日に二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出している。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

注目したいのはその第一部のエピグラフには「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた」(米川正夫訳)という言葉で始まるドストエフスキーの『白夜』の文章が置かれていることである。

第一部の終わり近くではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「異様な衝撃」と「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公は、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出る(引用は集英社文庫より、巻数は上下で、頁数は漢数字で示す)。

そして、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見て、「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、『白夜』の冒頭の文章を引用した堀田は、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している(上・一一五~一一七)。

こうして、「いますぐ何かをしなければならぬ」と考えた主人公は、かなり習熟していたドイツ語を捨てて、開戦直前に法学部政治学科から当時は敵性言語とされたフランス語を学んで仏文科に転科している。このことについてフランス文学者の鹿島茂は、当時は「それだけが唯一の抵抗」ということだっただろうと書いている(『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』集英社新書)。『白夜』のエピソードは主人公の生涯の転機となる決断とも深くかかわっていたのである。

ドストエフスキーは『白夜』を書いた後で、オーストリア帝国の要請によるハンガリー出兵の前に起きたペトラシェフスキー事件で逮捕されていた。そのことに注目するならば、ここで堀田が主人公の呼び方を「少年」から「若者」に変えているのは、危険な文書の所持で逮捕され、召集令状で戦場へと駆り出されることになる主人公の運命をも示唆していると思える。

実際、『若き日の詩人たちの肖像』では「物品のように」「どさりと淀橋署の留置場へ放り込まれ」、そこで一三日間拘留されたあとで若者に「皇国史観」を説教した人物について、「『罪と罰』に出て来る素晴らしく頭がよくて、読んでいる当方までが頭がよくなるように思われるあの検事のことがちらと頭をかすめた」と記されているのである(上・一七〇)。

この長編小説に登場する「詩人たち」のモデルの一人である作家の福永武彦を父に持つ池澤夏樹は、「プロレタリア文学の人たちもつぶされて」しまった後の時代は、他の作家の小説ではほとんど描かれていないのに対して、「慶応仏文科」や「荒地」、「マチネ・ポエティク」などさまざまなグループの詩人たちの「たくさんの仲間が捕まり、拷問され、殺される」ことが頻繁に起きていたこの時代のことを『若き日の詩人たちの肖像』が描いていることの意義を指摘している。

注目したいのは、この長編小説の中頃で「詩人兼小説家の人」である堀辰雄をモデルとした「成宗の先生」が住んでいる「その家の書斎にも灯がついている」のを見た後で、再び『白夜』の冒頭の句を「口のなかでとなえて」みた若者が、『白夜』の主人公とムィシキンとの精神的な連続性に注意を促していることである。

すなわち、「こういう文章こそ若くなければ書けなかったものだったろう、と気付いた。二十七歳のドストエフスキーは、カラマーゾフでもラスコルニコフでもまだまだなかったのだ」と最初は感じた若者は、その後で「けれども、この文章ならば、あるときのムイシュキン公爵の口から出て、それを若者が自分の耳で直接公爵から聞くとしても、そう不思議でも不自然でもないだろう……」と続けているのである(上・三一一~三一二)。

さらに、太平洋戦争の開戦後に特殊潜航艇による特別攻撃で亡くなった若者たちが軍神とされたことを知って、「腹にこたえる鈍痛」を感じていた若者は、「成宗の先生」と出会って立ち話をしていた際に、特高刑事の目つきから「殺意に燃えたラゴージンの眼」を思い出して、「ほとんどうわの空」で「謎」のような言葉を語っていた(下・八三)。

「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」。

この記述だけではその意味は分からないが、堀田が戦争の時代に急いで書き上げた卒論で、「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を考察していたことに注目するならば、この言葉が主人公の全存在にも関わるような重みをもっていることは確かだろう。

その後で堀田は主人公の若者にとってのムィシキンの意味を、部屋に閉じこもって『白痴』を読みつづけた若者の感想をとおして明らかにしている。長編小説『白痴』に対する作者の強い愛着も示されているので、少し長くなるが引用しておきたい(下・九三~一〇一)。

「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし、若者はとじこもって本を読みつづけた。ドストエフスキーの『白痴』は、何度読んでも、大きな渦巻きのなかへ頭から巻き込むようにして若者を巻き込み、ときには、その大渦巻きの、回転する水の壁が見えるように思い、エドガー・ポオの大渦巻き(メイルストローム)さえが垣間見えるかと思うことさえあった。とりわけて、その冒頭が若者の思考や感情の全体を占めていた。/――なるほど! 絶対の不可能を可能にするには、こうすればいいのか!/と」。

そして、「その冒頭の三頁ほどを、毎日毎日読みかえした。古本屋で買った英訳と、白柳君に借りた仏訳の双方があったので、米川正夫訳と三冊の本を対照しながら読み返してみていた」と書いた堀田は『白痴』冒頭の記述を引用している(表記は現代の表記に改めた)。

「十一月下旬のこと、珍しく暖かいとある朝の九時頃、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。空気は湿って霧深く、夜は辛うじて明け放れたように思われた。汽車の窓からは右も左も十歩の外は一物も見分けることが出来なかった。旅客の中には多少外国帰りの人もあったが、それよりも寧ろ余り遠からぬ所から乗って来た小商人(こあきんど)連の多い三等車が一番こんでいた。こんな場合の常として、誰も彼も疲れ切って、一晩の中に重くなった目をどんよりさせ、体のしんまで凍(こご)えきっていた。どの顔もどの顔も霧の色にまぎれて蒼黒く見える」。

この文章について、「あのロシアの平べったい平原の、ところどころに森や林や広大な水たまりなどのあるところを、汽車がひた走りに走って行く、その走り方のリズムのようなものが、この文章に乗って来ていることが、じかに肌に感じられる」と記した堀田は、ドストエフスキーが主人公のムィシキンをこう描写していることに注意を促している。

「とある三等の窓近く、夜明け頃から二人の旅客が、膝と膝を突き合わせて、腰掛けていた。どちらも若い人で、どちらも身軽げなおごらぬ扮装(いでたち)。どちらもかなり特徴のある顔形をしていて、どちらも互に話でも始めたい様子であった(……)向いの席の相客は、思いもかけなかったらしい湿っぽい露西亜の十一月の夜のきびしさを、顫(ふる)える背に押しこたえねばならなかったのである」。

この後で、「天使のような人物を、ロシアという現実のなかへ、人間の劇のなかへつれ込むのに、汽車という、当時としての新奇なものに乗せた、あるいは乗せなければなかった、そこに、ある痛切な、人間の悲惨と滑稽がすでに読みとられるのである」と書いた堀田は、「この不自由で限りのある人間の世界というものについての、刺すような悲しみが若者に取りついていた」と続けている。

ことに、「たとえ小説の中でも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、(……)外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」(傍点は著者)という文章は、堀田がこの長編小説を正確に読み解いていることを物語っているだろう。なぜならば、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためだったからである。

ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続したムィシキンとロゴージンの共通点を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした主人公と、その大金で愛する女性を所有しようとしたロゴージンとの友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたる帝政ロシアの社会問題を浮き彫りにしていた。

そして、「小説を読み通して行って、その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえないのである」と記した堀田は、「白痴、というと何やら聞えはいいかもしれないが、天使は、人間としてはやはりバカであり阿呆でなければ、不可能、なのであった」と続けた後で、若者が「成宗の先生」に語った「謎」のような言葉の意味をこう説明していた。

「左様――ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランボオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行ってしまい、おまけに生まれのヨーロッパからさえも出て行ってしまった、というのが、若者が成宗の先生に言ったことの、その真意であった」。

実は、二〇〇七年に上梓した拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でも、「昭和初期」の時代を描いた『若き日の詩人たちの肖像』と『白夜』との比較を行っていた。だが、ムィシキンが「外界」から「入って」来たことに傍点をつけて注意を促しているこの文章が、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年の『白痴』論で、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈をした小林秀雄を強く念頭に置いて書かれていた可能性に気付いたのは、『黒澤明で「白痴」を読み解く』を書いていた時のことであった(同書、一八九頁)。

『黒澤明で「白痴」を読み解く』大

「しかしなんにしてもド氏の小説は面白い、面白くてやり切れなかった。とりわけて、ド氏が小説というものの枠やルールを無視して勝手至極なことをやらかしてくれるところが面白かった」と書いた堀田は、「『白痴』はその終末で若者に泪を流させた」と続けて、結末の異常性を強調した小林秀雄とは正反対の解釈を記していたのである。

ド ストエフスキー作品との関連で興味深いのは、堀田がその直後に「これも二度目か三度目のくりかえしにかかった『悪霊』の方は、ところどころ爆笑させられるようなシーンがあって面白かった」と書き、出産の手助けを求められたキリーロフが「僕はお産をすることが下手でね」と語る場面を紹介していることである(下・一〇一)。

『白痴』論から『悪霊』論への移行は唐突のようにも感じられるが、若者がスタヴローギンについて「天使ムィシキン公爵の逆の極みである、絶世の怪物、悪魔である」と規定していることに留意するならば、この文章も一九三七年の『悪霊』論で「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と書いていた小林を強く意識していることが感じられる。

堀田が記した『悪霊』論はこれが最初ではなく、日米安全保障条約の改定に反対する世論が盛り上がり、大規模なデモが行われていた時期を背景にした長編小説『審判』(一九六三年)でも、出産を迎えた被爆者の女子学生との関連でより詳しく記されていた。

しかもこの長編小説では原爆パイロットをモデルとした人物が重要な役割を演じているが、一九六二年には原爆の非人道性を知って自分を犯罪者と見なすようになり、精神病院に収容されたイーザリー少佐の往復書簡の翻訳が『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(篠原正瑛訳、筑摩書房)と題されて発行されていた。

ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫)(書影は「アマゾン」より)

そのことを考慮するならば、『悪霊』にも言及していた長編小説『審判』には、湯川秀樹博士との対談では原爆を産み出した「技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく批判しながら、その後は核問題について沈黙し、「ヒットラーと悪魔」では『悪霊』にも言及しながら戦時中に書いた『我が闘争』の書評を引用していた小林秀雄の科学観や歴史観への強い批判が込められていたと思われる。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の第四部では兵隊検査の終わった主人公の呼び方が「男」となり、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の話に凝っていたアリョーシャというあだ名の若者が「惟道(かんながら)の道」を説くようになり、アッツ島玉砕の報道が入った時には軍神たちを侮辱したとして妻を激しく殴りつけたことが描かれている。

召集令状が来たことを知らせる実家からの電報が届いて「警察で殺されるよりも、軍隊の方がまだまし」と感じた主人公の男は、『白夜』の文章についてこう記している(下・三八九)。

「郵便局からの帰りに空を仰いでみると、冬近い空にはお星様ががらがらに輝いていたが、そういう星空を見るといつも思い出す、二十七歳のときのドストエフスキーの文章のことも、別段に感動を誘うということもなかった」。

この長編小説は出兵前に故郷に帰って北の海を見た男の厳しい感慨で結ばれている。「鉛色の北の海には、男がこれまでに耳にしたありとあらゆる音楽の交響を高鳴らせてどうどうと寄せて来ていた。それだけで、充分であった」。

  *   *   *

私的なことになるが、大学に入ってからドストエフスキーの初期作品の重要性だけでなく、日露の近代化の比較というテーマを研究することの必要性を強く感じたのは、堀田善衞のこの作品と出会ったことが大きな一因となっていた。

この作品を論じたフランス文学者の鹿島も「自分と全く違うものを学ぶということは、比較が可能になるということです」と書き、「比較を進めることによって、逆に、自分とは何かが分かってくる。あるいは、自分たちと比較することによって、他者が分かってくる」と指摘している。

この作品では「戦争に至る大変暗い時代」が如実に書かれていると指摘した池澤も、同じ『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社新書)に収められた論考で「この作品は、自分のものの考え方、思想を支えてくれる大きな柱となっています」と続けている。

近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)では、『若き日の詩人たちの肖像』については、「復古神道」との関連で少しだけ触れた。昨今の日本はますます昭和初期の暗い時代に似てきているので、その厳しい時代を生き抜いた若者を主人公とした堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』を本格的に考察する著作を書きたいと思っている。(本稿では敬称は略した)。

(『ドストエーフスキイ広場』第28号、2019年、121~127頁)

第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

第50回総会と251回例会のご案内を「ドストエーフスキイの会」のホームページより転載します。

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第50回総会と251回例会のご案内

   下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 日 時2019518日(土)午後1時30分~5時

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)   ℡:03-3402-7854 

総会:午後130分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

例会報告者:高橋誠一郎氏

題 目: 堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

      *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、『黒澤明と小林秀雄』など。近著に『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(会員と例会出席者には送料無料、税抜きで頒布、申し込みは→info@seibunsha.net)。

 

第251回例会報告要旨

堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

その第一部の題辞ではペトラシェフスキー事件で逮捕されてシベリア流刑になるドストエフスキーが書いた『白夜』冒頭の文章が引用されています。しかも、この長編小説で堀田は『白夜』ばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、『悪霊』などについての考察をも行っているのです(『ドストエーフスキイ広場』第28号、「堀田善衞の『白痴』観」参照)。

前回の例会で福井勝也氏はアニメ映画の世界的巨匠である宮崎駿氏の言葉を引用しながら、「堀田は日本では珍しい世界文学者のタイプであって、これから評価が高まる作家」と位置付け、「白夜について」(1970)も堀田が自覚的に自分は『白夜』の主人公さながらにフラニョール(遊歩者)であることを表明し、ドストエフスキーのフェリエトニスト的側面に関心を持っていたらしいと指摘しました。

これらの指摘に私も全面的に賛成です。なぜらば、『若き日の詩人たちの肖像』で戦争末期の「学徒動員」を厳しく批判しつつ、「鴨長明がルポルタージュをしていたような事態が刻々に近づきつつあるように予感される。『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった」と記した堀田は、『方丈記私記』で鴨長明について「心よりもからだの方が先に身を起こし、足の方から歩き出してしまう行動人」と規定しているように、『白夜』への関心は『方丈記』につながっているからです。

さらに、私は堀辰雄の小説『風立ちぬ』や『菜穂子』などを組み込んだ宮崎駿監督のアニメ映画《風立ちぬ》には、同時代を描いた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』からの強い影響がみられると考えています。このアニメではナチス・ドイツの秘密警察についても描かれていることも、ゲッベルス宣伝相の暴力的な演説の後に『白夜』冒頭の文章が対置されているこの長編小説の構造と深く関わっているでしょう。

この映画で描かれている関東大震災の直後に発生した火事の広がりの圧倒的な描写も、『方丈記私記』で描かれている東京大空襲後の烈風による「合流火災」の記述から影響を受けていると思えます。

それとともに注目したいのは、『罪と罰』の人物体系を深く研究して『破戒』を書いた島崎藤村が、長編小説『春』で自殺に至る北村透谷の苦悩や考察を詳しく描いていたのと同じように、『若き日の詩人たちの肖像』では芥川龍之介の自殺についての考察が、慶応仏文グループの芥川比呂志との交友などをとおして何度も行われていることです。

さらに、この長編小説では「マチネ・ポエティクス」のグループの詩人たちとの交友も描かれていますが、堀田はその一員であった福永武彦や中村真一郎の三人で、核実験場とされた島から飛来する怪獣を描いた映画《モスラ》(1961)の原作を書いています。

このことに留意するならば、アメリカ人の原爆パイロットをモデルとした『零から数えて』(1960)と『審判』(1963)の二つの長編小説が『若き日の詩人たちの肖像』(1968)と密接なつながりを持っていることは明らかでしょう。

すなわち、『若き日の詩人たちの肖像』は過去を振り返るだけでなく、現在を凝視し未来を見つめるような視点も有しているのです。

ただ、序章と四つの部からなるこの長編小説では詩人だけでなく演劇のグループや、多くの作家も実名で描かれるなど複雑な構造をしています。それゆえ、今回の発表で

は筋や人物体系だけでなく、「題辞」という手法にも注目しながらテキストを忠実に読み込むことにより、主人公が成宗の先生(堀辰雄)に語る「ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」という謎のような言葉の意味に迫りたいと思います。

*   *   *

例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

(2019年4月13日、書影とリンク先を追加)

堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって(『ドストエーフスキイ広場』第28号より転載)

書評〔飛躍を恐れぬ闊達な「推論」の妙──「立憲主義」の孤塁を維持していく様相〕を読む

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

 拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)の書評が『図書新聞』4/13日号に掲載された。→http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/ … 

 評者は『溶解する文学研究 島崎藤村と〈学問史〉』(翰林書房、2016)などの著書がある日本近代文学研究者の中山弘明・徳島文理大学教授で、〈学問史〉という新視点から島崎藤村を照射する三部作の筆者だけに、島崎藤村についての深い造詣に支えられた若干辛口の真摯な書評であった。

 以下、その内容を簡単に紹介するとともに、出版を急いだために書き足りなかったことをこの機会に補記しておきたい。

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 まず、「積年の諌題、『罪と罰』が太い糸となっていることは事実だが、それといわば対極の徳富蘇峰の歴史観への注視が、横糸になっている点にも目を引く」という指摘は、著者の問題意識と危機意識を正確に射ている。

 また、次のような記述もなぜ今、『罪と罰』論が書かれねばならなかったについての説明ともなっていると感じた。

 〔この魯庵が捉えた「良心」観から、通説の通り、透谷と愛山・蘇峰の著名な「人生相渉論争」を俎上にのせると同時に、著者はユーゴーの『レ・ミゼラブル』の受容へと展開し、蘇峰の「忠孝」観念と、「教育勅語」の問題性を浮かび上がらせ〕、〔自由を奪われた「帝政ロシア」における「ウヴァーロフ通達」と「勅語」が共振し、その背後に現代の教育改悪をすかし見る手法を取る〕。

 明治の『文學界』や樋口一葉にも言及しつつ、〔木下尚江が、透谷の『罪と罰』受容を継承しながら、暗黒の明治社会を象徴する、大逆事件を現代に呼び戻す役割を果たし、いわゆる「立憲主義」の孤塁を維持していく様相が辿られていくわけである〕との指摘や、『罪と罰』と『破戒』の比較について、「はっとさせられる言及も多い」との評価に励まされた。

 ただ、『夜明け前』論に関連しては辛口の批判もあった。たとえば、昭和初期の日本浪漫派による透谷や藤村の顕彰に言及しながら、「『夜明け前』が書かれたのが抑圧と転向の時代であり、その一方で昭和維新が浮上していた事実はどこに消えてしまったのだろうか」という疑問は、痛切に胸に響いた。

 昭和初期には「透谷のリバイバルが現象として起こって」おり、「亀井勝一郎や中河與一ら日本浪漫派の人々は透谷や藤村を盛んに顕彰してやまなかった」ことについての考察の欠如などの指摘も、問題作「東方の門」などについての検討を省いていた拙著の構成の弱点を抉っている。

 それは〔同時代の小林秀雄の「『我が闘争』書評」への批判を通じて、『罪と罰』解釈の現代性と「立憲主義」の危機を唱える〕のはよいし、「貴重である」が、「小林批判と寺田透や、堀田善衞の意義を簡潔に繋げていくのは、やはり違和感がある」との感想とも深く関わる。

 実は、当初の構想では第6章では若き堀田善衞をも捉えていた日本浪漫派の審美的な「死の美学」についても、『若き日の詩人たちの肖像』の分析をとおして言及しようと考えていた。

 しかし、自伝的なこの長編小説の分析を進める中で、昭和初期を描いたこの作品が昭和60年代の日本の考察とも深く結びついていることに気付いて、構想の規模が大きくなり出版の時期も遅くなることから今回の拙著からは省いた。

 小林秀雄のランボオ訳の問題にふれつつ、〔堀田善衞が戦時中に書いた卒論で「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を論じていたことを考慮するならば、これらの記述は昭和三五年に発表された小林秀雄のエッセー「良心」や彼のドストエフスキー論を強く意識していた〕と思われると記していたので、ある程度は伝わったのではないかと考えていたからである。

 自分では説明したつもりでもやはり書き足りずに読者には伝わらなかったようなので、なるべく早くに『若き日の詩人たちの肖像』論を著すように努力したい。

 今回は司馬遼太郎に関しては「神国思想」の一貫した批判者という側面を強調したが、それでも司馬遼太郎の死後の1996年に勃発したいわゆる「司馬史観論争」に端を発すると思われる批判もあった。これについては、反論もあるので別な機会に論じることにしたい。

 なお、『ドストエーフスキイ広場』第28号に、拙稿「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」が掲載されているので、発行され次第、HPにもアップする。

 著者の問題意識に寄り添い、かつ専門的な知識を踏まえた知的刺激に富む書評と出版から2ヶ月足らずで出逢えたことは幸いであった。この場を借りて感謝の意を表したい。

*   *   *

 追記:5月18日に行われる例会で〔堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に〕という題目で発表することになりました。 リンク先を示しておきます。→第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

     (2019年4月8日、9日、加筆)

 

「維新」という幻想と裏切られた「革命」――小林秀雄のドストエフスキー観と『夜明け前』論

序に代えて――『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』を書き終えて

 ブルガリア・ドストエフスキー協会の主催による国際シンポジウムが昨年の10月23日から26日にかけて行われた。この年が長編『白痴』の刊行から一五〇年に当たる年であるため、『白痴』をテーマとした発表が多く行われ、黒澤映画《白痴》の「円卓会議」も行われた。その企画の打ち合わせや発表の準備のために、発行を急いでいた拙著の脱稿は大幅に遅れてしまった。

しかし、私のドストエフスキー論を確立する上でも重要なこの映画について再び考える機会が与えられたのは私にとって幸いだったのでいずれ論文として発表することにしたい。

 ここでは拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)執筆までの私の小林秀雄についての考察の歩みと今後の方向性を覚え書きの形で簡単に書いておきたい。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

一、小林秀雄の復権と「神話」への懐疑

 敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから戦時中の言動を厳しく追及された文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は、「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた。

 作家の坂口安吾も1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

 1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した小林は、徐々に評論家としての復権を果たし、「評論の神様」と称されるようになる。

 一九四九年生まれの私は、いわゆる「小林神話」が強い時期に青春を過ごし、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは私も一時期、強い影響を受けた。

 しかし、原作の文章と比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じるようになった。

 それゆえ、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と書いたフランス文学者の鹿島茂氏同じような感慨を私も強く抱いた。

二、方法の模索

 文壇だけでなく学問の世界にも強く根をはっていた小林秀雄のドストエフスキー論と正面から対峙するには、膨大な研究書や関連書がある小林秀雄を批判しうる有効な手法を模索せねばならず、予想以上の時間が掛かった。

 ようやくその糸口を見つけたと思えたのは、小林秀雄の『白痴』論とはまったく異なったムィシキン像が示されている黒澤映画《白痴》をとおして長編小説『白痴』を具体的に分析した拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を2011年に出版した後のことであった。

 すなわち、『罪と罰』と『白痴』の連続性を強調するために小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と書いていた。しかし、シベリアから帰還したことになると、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解する上で欠かせない、ムィシキンのスイスの村での体験――マリーのエピソードやムィシキンが衝撃を受けたギロチンによる死刑の場面もなくなってしまうのである。

 「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかしそれは、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

 一方、黒澤明は復員兵の亀田(ムィシキン)が死刑の悪夢を見て絶叫するという場面を1951年に公開した映画《白痴》の冒頭で描くことで、長編小説『白痴』のテーマを明確に示していたのである。

 福島第一原発事故後の2014年に出版した『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、長編小説『白痴』に対する彼らの解釈の違いばかりでなく、「第5福竜丸」事件の後で映画《生きものの記録》を撮った黒澤明監督と、終戦直後には原爆の問題を鋭く湯川秀樹に問い詰めていながら、その後は沈黙した小林との核エネルギー観の違いにも注意を払うことで、彼らの文明観の違いをも浮き彫りにした。

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三、「維新」という幻想――明治の文学者のドストエフスキー理解

 ただ、黒澤明は評論家ではなく、映像をとおして自分の考えを反映する映画監督であった。そのために、黒澤明の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー論を批判をするという方法では小林秀雄の問題点を指摘することはできても、言論活動である小林秀雄の評論をきちんと批判すること上ではあまり有効ではなかった。

 一方、2010年にはアメリカの圧力によって「開国」を迫られた幕府に対して、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」というイデオロギーを叫んでいた幕末の人々を美しく描いたNHKの大河ドラマ《龍馬伝》が放映され、2015年には小田村四郎・日本会議副会長の曽祖父で吉田松陰の妹・文の再婚相手である小田村伊之助(楫取素彦・かとりもとひこ)をクローズアップした大河ドラマ《花燃ゆ》が放映された。

 さらに、「明治維新」150年が近づくにつれて「日本会議」系の政治家や知識人が「明治維新」の意義を強調するようになった。そのことを夏目漱石の親族にあたる半藤一利は、漱石の「維新」観をとおしてきびしく批判していたが、それは間接的には小林秀雄の歴史認識をも批判するものであった。

→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

 それゆえ、私は拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』では、『罪と罰』を邦訳した内田魯庵や、明治時代に『罪と罰』のすぐれた評論「『罪と罰』の殺人罪を書いた北村透谷、そして、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村などをとおして、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を明らかにしようとした。

 その第一の理由は彼らの読みが深いためだが、さらに、「明治維新」が強調される現代の政治や社会の状況が、「神祇官」が設置された明治初期の藩閥政府による独裁政治や、「大東亜戦争」に突入する暗い昭和初期と似てきているからである。明治政府の宗教政策や文化政策の問題点を正確に把握していた北村透谷や島崎藤村などの視点と手法で『罪と罰』を詳しく読み解くことは、「古代復帰」を夢見て、武力による「維新」を強行した日本の近代化の問題点と現政権の危険性をも明らかにすることにもつながると考えた。

 拙著では小林秀雄の『罪と罰』論が本格的に考察されるのはようやく第6章にいたってからなので、迂遠な感じもするのではないかとの危惧もあったが、献本した方々からの反応は予想以上によかった。それは、幕末から明治初期に至る激動の時代に生き、平田篤胤没後の門人となって「古代復帰の夢想」を実現しようと奔走しながら夢に破れて狂死した自分の父を主人公のモデルにした島崎藤村の大作『夜明け前』を最初に考察したことがよかったのではないかと思える。

 実は、『夜明け前』の主人公の青山半蔵が「明治維新後」には「過ぐる年月の間の種々(さまざま)な苦い経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか(後略)」と考えるようになっていたとも島崎藤村は記していたのである(『夜明け前』第2部第13章第4節)。

 

 そして、明治の賛美者とされることの多い作家の司馬遼太郎も、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と続けていた(太字は引用者、『竜馬がゆく』文春文庫)。

 →https://twitter.com/stakaha5/status/907828420704395266

こうして、島崎藤村の作品に対する小林秀雄の評論をも参照することにより、「天皇機関説」事件によって明治に日本が獲得した「立憲主義」が崩壊する一方で、「弱肉強食」を是とするドイツのヒトラー政権との同盟が強化されていた昭和初期に評論家としてデビューした小林秀雄のドストエフスキー論には、幕末の「尊王攘夷」運動にも通じるような強いナショナリズムが秘められていることを明らかにできたのではないかと考えている。

そして、それは「政教一致」政策を行うことでキリスト教の弾圧を行ったばかりでなく、仏教に対する「廃仏毀釈」運動を行っていた明治の「維新」を高く評価している現在の政権の危険性をも示唆通じるだろう。

 →https://twitter.com/stakaha5/status/816241410017882112

 

四、小林秀雄の戦後の言論活動と堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』

 ただ、小林秀雄が戦後に評論家として復活する時期の言論活動についての考察まで含めると発行の時期が大幅に遅れるので今回は省いた。

 「評論の神様」として復権することになる小林秀雄の評論の詳しい検証は、稿を改めてドストエフスキーの『白夜』だけでなく、『罪と罰』や『白痴』にも言及しながら、昭和初期の日本を詳しく描くことにより、戦後に復権した岸政権との類似性とその危険視を鋭く指摘していた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』の考察をとおして行うことにしたい。

 最後に、拙著で考察した小林秀雄の文学解釈の特徴と危険性を箇条書きにしておく。

1,作品の人物体系や構造を軽視し、自分の主観でテキストを解釈する。

2,自分の主張にあわないテキストは「排除」し、それに対する批判は「無視」する。

3,不都合な記述は「改竄」、あるいは「隠蔽」する。

 これらの小林秀雄の評論の手法の特徴は、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていると思われる。

https://twitter.com/stakaha5/status/1100621472278536193

 (2019年3月11日、改訂)

 

鹿島茂著『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』を読む (1)―― 「教祖」から「神様」へ(縮小版)

ドーダの人、小林秀雄(朝日新聞出版)

一、「教祖」から「評論の神様」へ

敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は戦時中の言動を厳しく追及された。

小林とは親しかった作家の坂口安吾もその翌年に発表した「教祖の文学――小林秀雄論」で、小林を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判していた。

 ISBN4-903174-09-3_xl

しかし、座談会での追及に対して「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた小林は1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、そして黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した。

こうして、戦後にドストエフスキー論の執筆を再開した小林秀雄は、「団塊の世代」に属する鹿島茂氏が青春を送った「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で、大学の入学試験にはかならずと言っていいほど彼の文章が出題」されるようになっていたのである(13頁)。1980年には小林秀雄信者の教員が、「最も晦渋な(というよりも意味不明な)『様々なる意匠』」が出題して、「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』と迫っていた」。

 それゆえ、小林秀雄と同じフランス文学者の鹿島氏は、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と続けた。

 この意味で注目したいのは、鹿島氏が1987年に、ドストエフスキーを魅了したユゴーの大作『レ・ミゼラブル』を当時の木版画を掲載することで当時の社会情勢をも示しつつ、分かり易く詳しく解説した『「レ・ミゼラブル」百六景』(文藝春秋)を出版していたこtである。

「レ・ミゼラブル」百六景

その鹿島氏が2016年に出版した本書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(以下『ドーダの人、小林秀雄』と略す)をこれから少しずつ考察することにしたい。

 (2019年3月3日、書影を追加。3月10日、改訂)

ドストエーフスキイの会、第250回例会(報告者:福井勝也氏)のご案内

第250例会のご案内を「ニュースレター」(No.151)より転載します。

*   *   *

第250回例会のご案内

    下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

日 時2019年3月16日(土)午後2時~5時

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分) 和室

                         ℡:03-3402-7854

報告者:福井勝也 氏

題 目: 堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future

          *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:福井勝也 (ふくい・かつや)

1954年東京都出身。1978年「ドストエーフスキイの会」入会、運営編集委員。

「全作品を読む会」世話人。「読書会著莪」会員(小森陽一講師)。「日本ドストエフスキー協会(DSJ)」研究会員。著書:ドストエフスキーとポストモダン』(2001)、『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』(2008)主要論考対象:ドストエフスキー、ベルクソン(前田英樹氏に師事)、小林秀雄、大岡昇平、三島由紀夫、安岡章太郎など

*   *   * 

第250回例会報告要旨

堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future

 廻り合わせから、次回例会でお話をすることになった。会発足50周年(2019.2.12)を経て最初の、そして30年続いた「平成」最後の例会ということになる。だからといって特別な内容ではないが、自分なりの感慨も重なって発表を引き受けさせて頂いた。

今回論じようと思うのは、作家堀田善衞(1918~98年、大正7~平成10年)の文学、そのドストエフスキー文学との関連である。当方はこの4年程、多摩の読書会で堀田の主要作品を仲間と読み合って来た。ちなみに、2014~15年には『上海にて』(1959)『方丈記私記』(1971)『定家明月記私抄 (正・続)』(1986-88)、2016年には『若き日の詩人たちの肖像 (上・下)』(1968)、2017年には『ゴヤ(第1~4部)』(1974-77)、2018年には『ミシェル 城館の人(第1~3部)』(1991-94)というざっとそんな順であったと思う。そして昨年の堀田生誕100年・没後20年という記念の年を経て、今年の初めに、最初に読んだ『上海にて』に戻るかのように南京事件を扱った長編小説『時間』(1955)を読み始めている。

この多摩の読書会とのお付き合いは、かれこれ四半世紀余になる。講師は当会でもご講演頂いた近代文学研究者の小森陽一氏であるが、小規模な市民サークルで月一度の読書会にずっと参加させてもらって来た。その対象作品は、その時々の選択によるが、漱石から村上春樹までかなりの数になる。

そしてこの4年程は堀田作品を読み合って来た。はじめに断っておけば、当方は堀田善衞のそれ程良い読者ではないかもしれない。しかしここ数年間仲間と読んで来て、作家としてのスケールという点で、われらがドストエフスキーの系譜に連なる文学者であると確信するようになった。その点で、堀田は日本では珍しい世界文学者のタイプであって、これから評価が高まる作家だと感じる。その傍証になるかは不明だが、アニメーション作家の世界的巨匠、宮崎駿氏が堀田文学の愛読者であるということがある。氏は、そのwebサイト(堀田善衞「時代と人間」)の連載欄でこんな風に語っている。

この連載では、堀田氏の考え方たとえば「歴史は直線的に進むのではなく、多層的に存在している」というようなことを、既にあるもの、既に完成したものとして書き、それによって堀田氏を説明するというスタンスをとってきました。しかし、第8回のスペインの項でもわかる通り、堀田氏も最初から、そうした思想へと到達していたわけではありません。戦後、本格的に小説執筆を初め、そこにおいて、いかに自分の体験を消化(昇華)していくかという挑戦の果てに、自分なりの思想を掴み取ったのです。そしてその思想も年齢や時代を経るごとに、深化し、さまざまな側面を見せるようになります。

片や、最近号の「読書会通信」で当方は次の様に書いた。「これらの堀田の生涯をかけた文学作品を貫く「キイワード」を二つだけあげろと言われたら、当方今回の前置きで触れた、「天皇(制)」と「中国」と答えたいと思う。確かに『ゴヤ』のスペイ

ンが、『ミシェル』のフランスもあるわけだが、堀田にアジアからヨーロッパに向かわせる起点になったのは中国の「上海・南京」であり、そのさらに前提となった東京大空襲下で堀田が偶然に見かけた「昭和天皇」とそれを取り巻く戦火で家を焼かれた「日本民衆」の姿であった。」(「通信」No.172、web版もご参照ください。)

堀田文学の全体像を理解するためには、当方の「キイワード」ではおそらく<内向き>に過ぎるだろう。しかしこの間自分が堀田に絡めて、ドストエフスキーを再考するきっかけになったのが堀田の「天皇(制)」と「中国」であった。「通信(連載欄)」の「前書き」にも書いたが、「平成」が終わろうとしている時代の狭間にあって、現在日本人が直面する課題が、この「キイワード」と深く関係してくると思う。今回の発表は、堀田文学の視点から見た「ドストエフスキーと現代」であればとも思っている。

そして多摩の読書会(「著莪」)で考えたことを、その都度話題にして「感想」を書かせてもらって来たのが、われらが読書会「全作品を読む会」ということになる。今回例会でお話しする内容も、その辺からのもので「読書会」の成果だと考えている。

例えば、『若き日の詩人たちの肖像』(1968)の中で語られるドストエフスキー作品への言及、とりわけ当方が関心を抱いた「愛国者」に変貌してゆく一人の「若き詩人」が「アリョーシャ」と愛称されたこと。『ゴヤ』の描くスペイン戦争(対ナポレオン)での民衆をキリストに擬えて語る『五月の三日』の(宗教)絵画評。スペインとロシアをヨーロッパの西と東の「辺境」として語る堀田の地政学的知見。ミッシェル(モンテーニュ)の生きた宗教戦争の時代をドストエフスキーの言葉から見返す歴史的視線。さらに、作品に注目する契機にもなった堀田論考の、安岡章太郎の『果てもない道中記』(1995)に関連して読んだ「大菩薩峠とその周辺」(1959)の机龍之介論。これは日中戦争の時代まで書き継がれた中里介山作『大菩薩峠』(1913~1941)を、ドストエフスキーの作品(『罪と罰』『白痴』他)に言及し、その日本人の罪障観を天皇(制)の問題まで含めて論じようとした問題作だ。

さらには、宮崎氏指摘の堀田の「歴史を重層的なものとして見る見方」、さらにその視線を支えていると考えられる「時間論」「過去と現在が眼前にあって、未来が背後にあるもの」「未来からの挨拶」、今回新たな興味を抱かされたことなどもある‥‥。

*   *   * 

前回の「傍聴記」と「事務局便り」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

ベトナム戦争の頃に『罪と罰』を読んだ私は、主人公の心理の詳しい描写やその文明論的な広い視野に魅せられた。ことに、「非凡人の理論」を考え出して高利貸しの老婆を「悪人」と規定してその殺害を正当化した主人公のラスコーリニコフが、後に老婆を殺したことによって「自分を殺したんだ、永久に!」 (第五部第四章)と語る場面からは、自己と他者についての深い哲学的な考察がなされていると感じた。

こうして私はドストエフスキーの作品をはじめとするロシア文学を耽読するようになり、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った文芸評論家の小林秀雄のドストエフスキー論も強い関心を持って読んだ。

しかし、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の1934年に書かれた「『罪と罰』についてⅠ」で、小林がラスコーリニコフについて、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していたことに気付いた時から小林のドストエフスキー理解に強い疑念を抱くようになった。実際、同じ年に書いた「『白痴』についてⅠ」でも、小林はドストエフスキーが構築していた作品の人物体系や構造に注意を払うことなく、「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と解釈していた。

それゆえ、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014)を執筆していたときに、原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく、自分に引き寄せて解釈した新たな「創作」のようなものではないかと感じた。実際、一九二九年のデビュー作「様々なる意匠」で小林秀雄は「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していたのである。

しかも、小林は「様々なる意匠」を次のように結んでいた。「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。

ここで小林は、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張している。しかし、この時期に彼が書いた評論には当時の文壇の考え支配していた重要な「意匠」が隠されていると思える。

たとえば、昭和一六年に書かれた評論「歴史と文学」で小林が「僕は、日本人の書いた歴史のうちで、『神皇正統記』が一番立派な歴史だと思っています」と記して強調していた。このような歴史観を持っていた小林秀雄は、島崎藤村の長編小説『夜明け前』を論じた合評会の「あとがき」ではこの長編小説の人物体系や構造を分析することなく、自分の心情に引き寄せて彼が共感した主人公の心理と行動に焦点をあてて、「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配しているという事は言える」と解釈していたのである。

「明治維新」150年と小林秀雄の『夜明け前』論

journal126(書影は『世界文学』126号、2017年)

それゆえ、近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)では、青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解く。そのことによって、いまでも「評論の神様」と評されている小林秀雄の『罪と罰』論の問題点を明らかにした。

そのことによって、戦後も教科書に掲載されたり試験問題にも出されたりして強い影響力を保っている小林秀雄の評論の手法が、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることをも示唆することができるだろう。

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

(2019年2月13日、図版を追加し改訂)

拙著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲』を読み直す』などの図書紹介

待たれていた「東海大学文明学会」の立派なホームページが立ち上げられました。

まだ構築中の箇所もありますが、これに伴い『文明研究』に掲載された論文や図書案内などもアップされました。

そこには拙著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲』を読み直す』についての杉山文彦先生の図書紹介なども掲載されていました。

ご快諾をえましたので、私が書いた芦川氏の著書の書評とともに、リンク先をアップさせて頂きます、

 この場を借りて改めて学会役員の方々とご執筆頂いた方々に深く御礼致します。

 

(図書紹介)

『「龍馬」という日本人司馬遼太郎が描いたこと』(中川久嗣氏、2010年)

『司馬遼太郎の平和観―「坂の上の雲」を読み直す―』(杉山文彦氏、2005年)

『欧化と国粋―日露の「文明開化」とドストエフスキー―』(木下直俊氏、2004年)

   *   *

芦川進一著『福沢諭吉とドストエフスキィ:堕ちた「苦艾」の星』(高橋誠一郎 、1998年)

 

黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

 黒澤監督没後二〇周年を記念した黒澤明研究会の『会誌』No.40が届きました。この号に入会のいきさつや映画《白痴》の円卓会議についての経過報告を投稿ましたので、以下に転載します。

   *   *   *

『白痴』の発表から一五〇周年に当たる今年の一〇月にブルガリアの首都ソフィア大学で開催されるドストエフスキーのシンポジウムでは、『白痴』が主なテーマの一つとなり、シンポジウムの最後を飾ることになる円卓会議では映画《白痴》が取り上げられることになりました。

ブルガリア、ソフィア大学(ソフィア大学、ブルガリア語版「ウィキペディア」)

この円卓会議では会員の槙田氏が基調講演を行い、その後で日本からは九州大学の清水孝純名誉教授と私の発表と、ブルガリア・ドストエフスキー協会のディミトロフ会長の発表が予定されています。

私は拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)の発行後に堀会員の強い勧めで入会しました。『会誌』の「黒澤明研究会四〇周年記念特別号」(第二七号、二〇一二年)を読み返していたところ、映画《白痴》についての思いと今後の抱負を記している記述がありましたので、要約して再掲します。

【高校時代にドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』を読んでロシア文学の研究を目指すようになったが、留学先のブルガリアでポーランドなどの東欧の学生から、ことに後期のドストエフスキー作品に対する厳しい批判があることを知ったことなどから、『白痴』に対する思いが揺らいだこともあった。しかし、映画『白痴』を見た際には、日本に舞台が移し替えられているものの、主人公の亀田(ムィシキン)をはじめとする登場人物が見事に描かれ、原作の理念が正しく伝えられていることに深い感動を受けた。

黒澤監督はドストエフスキーを「つっかえ棒」になってくれた作家と呼んでいたが、映画『白痴』も私にとってはドストエフスキー研究を続ける「支え」の役割を果たしてくれた。黒澤明監督が一九世紀のロシア文学をきわめ深く理解していたことを明らかにすることで、黒澤映画の魅力やその現代的な意義を伝え、黒澤映画を広めていきたい。】

 今回、映画《白痴》の円卓会議の企画にも関わることで、入会時の念願を果たすことができることになりました。

通常の三年ごとの大会の他に急遽、設定されたシンポジウムだったので、参加者がどのくらい集まるかに、最初は多少・不安がありました。しかし、ロシアからの出席者にはサンクトペテルブルクとモスクワの「ドストエフスキーの家博物館」の両館長もいます。

盛り上がった学会となり長編小説『白痴』とともに映画《白痴》の理解が深まることが期待されます。詳細については帰国後に報告することにし、ここでは六五名の参加者の国名と人数のみを記しておきます。

ロシア 二〇/ ブルガリア 一三 / イタリア 一〇/ 日本 五/ アメリカ合衆国 四/ ウクライナ 三 / イギリス 一/ ギリシア 一/ セルビア 一/ ドイツ 一/ ハンガリー 一/ ブラジル 一/ フランス 一/ ベラルーシ 一/ ポーランド 一/マケドニア 一/

(黒澤明研究会編『研究会誌』)、No.40号、2018年、16~17頁、転載に際して一部記述を変更した)