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「戦前の無責任体質」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

「戦前の無責任体質」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

本日付けの『日刊ゲンダイ』は、「新国立競技場」建設計画の「白紙撤回」について、森元首相が22日の記者会見で「(責任の所在が)どこにあるのかというのは難しく、犯人を出してもプラスはない」と語ったと伝えるとともに、元法大教授五十嵐仁氏(政治学)の次のような批判を紹介しています。

「政治思想史の丸山真男氏は、日本が無謀な戦争に突き進んだ理由として『無責任の体系』を挙げました。…中略…戦後70年の今も、同じく、無責任の体系が脈々と息づいているとしか思えません」。

実際、新しい国立競技場を当初よりおよそ900億円多い2520億円をかけて建設しようとする計画は、多くの国民の反対の声により「白紙撤回」になりましたが、安倍首相や森元首相は人ごとのようにこの問題の責任を取ろうとしていません。

関連装備も含めると総計で約3600億円にものぼるとされ、また国内での事故の危険性も指摘されているオスプレイの購入を決めたことの責任も問われねばならないでしょう。

その思想が危険視されることの多い安倍首相が、アメリカの議会から温かく受け入れられた一因は、日本の国民の大切な資金を差し出していたからだとも思えます。

リンク→安倍政権の経済感覚――三代目の「ボンボン」に金庫を任せて大丈夫か

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 今日は少し早めに帰宅して原稿に取り組もうと思っていたのですが、新聞一面の「無責任国家」という大きな文字を車内で見ているうちに、このような「国家」を復活させた一因は、どこにあったのかということがきちんと問わねばこの問題は、ずっと続いていくだろうという不安にとらわれました。

このような「戦前の無責任体系」の復活は、日本の代表的な知識人であった文芸評論家・小林秀雄の『罪と罰』観とも無縁ではないと思われます。

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈した小林秀雄は、「コメディ・リテレール」では「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語って、言論人としての責任を認めようとしなかったのです。

「アベ政治を許さない」という国民の切実な思いが記されたチラシを目にする機会が増えましたが、このような「無責任」な「アベ政治」を生み出した思想もきちんと解明する必要があるでしょう。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

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