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百田直樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』関連の記事一覧

先ほど、〈「平和安全法制整備法案」と小説『永遠の0(ゼロ)』の構造〉という記事をアップしました。

それゆえ、ここでは百田直樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』および、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に関連する記事の一覧を掲載します。

(下線部をクリックすると記事にリンクします)。

 

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』(1)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(3)

「特定秘密保護法」と「オレオレ詐欺

「集団的自衛権」と「カミカゼ」

「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(1)

『永遠の0(ゼロ)』と「尊皇攘夷思想」

「ぼく」とは誰か ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(2)

沈黙する女性・慶子――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(3)

隠された「一億玉砕」の思想――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(4)

小林秀雄と「一億玉砕」の思想

「戦争の批判」というたてまえ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(5

「作品」に込められた「作者」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(6)

「作者」の強い悪意――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(7)

「議論」を拒否する小説の構造――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(8)

黒幕は誰か――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(9)

モデルとしてのアニメ映画《紅の豚》――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(10)

歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

侮辱された主人公――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(12)

主人公の「思い」の実現へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

 

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

作家でNHK経営委員でもある百田尚樹氏の名前を私が最初に意識したのは、衆議院議員だった土井たか子氏が2014年9月20日に死去したとの報道がなされた後で、氏がツイッターで故人の土井氏を「売国奴」と罵ったことが報じられた際でした。

今回、NHKの経営委員紹介のページを調べると、2013年の11月に経営委員に就任した際には、「公共放送として、視聴者のために素晴らしい番組を提供できる環境とシステムを作ることにベストを尽くしたいと思っています」との抱負を述べていたことが分かりました。

「衆議院」の議長も勤めた故人をNHKの「放送倫理基本綱領」にも反すると思われる用語でいう一方的に罵る人物が、どのようにしてNHKの経営委員に選ばれたのでしょうか。その後、共著を発行したワックという出版社から出版された雑誌『WiLL』に書かれた次のような記事の裁判の判決が見つかりました(「ウィキペディア」)。

〈雑誌『WiLL』(2006年5月号)に「社民党(旧社会党)元党首の土井たか子を「本名『李高順』、半島出身とされる」と記述し、慰謝料1000万円と謝罪広告の請求訴訟を起こされる。2008年11月13日、神戸地裁尼崎支部は「明らかな虚偽」として『WiLL』に200万円の賠償を命じた。この判決は最高裁で確定している。〉

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を発行したのが、雑誌『WiLL』を発行しているワックであることにも注目するならば、NHKの経営委員に選ばれた百田氏がこのような発言をしたのは共著者である安倍首相の権力を背景に、最高裁での判定に意趣返しをしたようにも見えてきます。

さらに、衆議院議長をも勤めた土井たか子氏の「死」が大きく報道された際に、ツイッターでこのような発信をしたのは、その「死」をも利用して自分の存在を政権や有権者に誇示しようとしていたのではないかという「いかがわしさ」も感じます。

*   *   *

先のブログ記事〈 政府与党の「報道への圧力」とNHK問題〉では書き忘れていましたが、安倍政権が復活してから、NHKのニュース番組で取り上げられる回数が増えたばかりでなく、安倍首相の顔がクローズアップされるなど、番組の「公平性」に問題があると思われるような状況が生まれています。

一方、著名人「やしきたかじん」氏と昨年、再婚した妻との「純愛」とその「死」を看取るまでの「美談」を描いた百田尚樹氏のノンフィクション『殉愛』(幻冬舎)が出版される際には、その著作を民放の各局が大々的に取り上げるという事態が起きました。

NHK経営委員の百田氏の著作の宣伝方法には、「首相」という肩書きを用いて自分の見解を反映させるという安倍首相と同じ手法が用いられているように感じます。

*   *

一般の広告だけでなく民放の番組でも「美談」が大々的に報じられたことで、百万部は確実に超えると思われたノンフィクション『殉愛』は、思わぬ所から破綻をきたします。

すでに報道されているように、記載された「事実」とは異なる多くの証拠の写真がウェブ上に流れているだけでなく、屋鋪氏の実の娘にも裁判に訴えられたことで、その「事実性」に疑問が突きつけられたのです。

この記事を書くために著書を買い求めて読んでいますが、読み始めてすぐに感じたのは、どっかで読んだことがあるというデジャブ感です。むろん、様々な記事が出ていますのでそのためもあるのですが、一番の大きな理由は自分が宣伝したい「人物」の「正しさ」を強調するために、それに反対する人物やグループを徹底的にけなし追い詰めるという『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で用いられていた手法にあると思われます。

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)では「売国」などという「憎悪表現」と思われる用語が、民主党という政党や私たちがほとんど接する機会のない政治家に対して投げかけられていました。それゆえ、テーマと範囲が広すぎてわかりにくかったのですが、「家族」の物語を描いたこのノンフィクション『殉愛』(幻冬舎)では、登場人物も多くないためにその構図が分かりやすいのです。

*   *

様々なサイトで紹介されているので具体的な内容には踏み込みませんが、改めて感じたのは百田という人物は、分かりやすく「美しい物語」を創作し、それを宣伝する能力には長けているようだが、「人の「死」や「命」の尊厳をきちんと感じることが出来ない、自分の立身出世のみに関心がある作家だろうということです。

それと全く同じことが「身内」と「お友達」のみを重視する共著者の安倍首相にも当てはまるのではないでしょうか。

安倍氏には過去の「歴史」を美しい物語に創り変え、それを宣伝する能力には長けていても、夫や子供を失った「国民」の苦しさや哀しみ、そして現在の状況に耐えている民衆の痛みをきちんと感じることが出来ない政治家だろうということです。

今度の総選挙では、「国民」が「臣民」とさせられて、「羊」のように戦場へと送られた戦前の歴史を「取り戻させない」ためにも、重要な一票を投じたいと考えています。

追記:「百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性」という記事を書くなかで百田氏の『殉愛』という題名には、「国家」のためには「国民の生命や財産」を犠牲にしてもかまわないとして「戦前」を美化する安倍晋三氏の思想へのおもねりがあると強く感じました。

それゆえ、〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法〉を、〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想〉に改題します。

リンク→憲法96条の改正と「臣民」への転落――『坂の上の雲』と『戦争と平和』

リンク→百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性

(2016年3月9日。〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法〉より改題し、青い字の箇所とリンク先を追加) 

百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性

百田氏は2014年11月にツイッターで、〈たかじん氏の娘が出版差し止め請求の裁判を起こしてきた。裁判となれば、今まで言わなかったこと、本には敢えて書かなかったいろんな証拠を、すべて法廷に提出する。一番おぞましい人間は誰か、真実はどこにあるか、すべて明らかになる。世間はびっくりするぞ。〉と記していました。

その百田氏がノンフィクションを謳った『殉愛』(百田尚樹/幻冬舎)の第9回口頭弁論が、3月2日に東京地裁で開かれたとのことです(「リテラ」3月3日)。

この裁判の模様を伝えた記事は、作者の証言からは「むしろ、百田氏自身の“ずさんな取材”の実態ばかりが露呈した」と記していましたが、3月5日には「リテラ」は次のように報じています。

*   *   *

だが、百田氏は全く懲りていないらしい。4日に配信したメールマガジンで裁判報告をしているのだが、いきなりこう切り出したのだ。

〈その裁判は、私が書いた『殉愛』という小説に関係したものです。〉

え、小説!? この本は〈かつてない純愛ノンフィクション〉(『殉愛』帯の惹句)だったはずだが、小説だったの!? ……一応、百田氏はつづけて〈『殉愛』はやしきたかじん氏の最後の2年間を描いたノンフィクションです。〉とも書いているが、これは今後、「小説のつもり」とでも言い訳するための布石なのだろうか……。

*   *   *

問題は、売るためには「事実」をも歪めて書くことも許されるという「ノンフィクション」観を持つ小説家の百田氏が、安倍政権によって、「事実」を報道することが求められている「公共放送」のNHKの経営委員に任命されていたことです。

このブログでは「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』」と題した一連の記事で、「この小説のテーマは「約束」です。 /言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代の物語です。」との「著者からのコメント」の付けられたこの小説の構造が、「オレオレ詐欺」の手法ときわめて似ていることを指摘し、「言葉も命も、現代(いま)よりずっと軽かった時代の物語」を美化したこの小説の「詐欺」性に注意を促してきました。

同じようなことは、『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)の共著者でもある安倍晋三氏の政治にも当てはまるでしょう、

百田氏の著作の「フィクション性」や関係者の人々への「誹謗」や「中傷」が焦点になっているこの裁判は、戦前の標語と同じように「威勢が良く」、「美しい」スローガンによって原発事故の「事実」から眼を逸らし、「アベノミクス」の負の側面を隠している安倍政治の危険性をも暴露するものになっていると感じます。

 リンク→百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

リンク→〈「昭和初期の別国」と『永遠の0(ゼロ)』〉関連記事一覧

田中沙季氏の「現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か」を聴いて

第231回例会「傍聴記」

今回は2015年にチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されていた四時間半にわたるボゴモロフ監督の長大な劇『カラマーゾフ』を3回見た田中氏の発表で、配布された資料には「ゾシマの死を伝えるニュース番組」の場面や、舞台の上部だけでなく両脇の壁に設置された「左の眼」と「右の眼」に映った映像を示す小さなスクリ-ンの写真もあり、臨場感のある報告となった。

発表では役者の顔をクローズアップしたり、複数の視線を提供するなど映像技術を利用した舞台が詳しく紹介され、アリョーシャを演じたのが白髪の女優であり、スメルジャコフとゾシマを同一の俳優が演じるなど配役の特徴だけでなく、母親が悲しみを訴える場面でロックバンドの音楽が流れたり、グルーシェンカがカリンカを踊るなどの音楽を取り入れた場面が多いとの指摘もなされた。

さらに、俳優名のリストの一番下に「悪魔 ある」と記される一方で、アリョーシャと少年達との交流や大審問官の話、ゾシマの伝記などが省略されていたことに対しては、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と比較して興味深いとの感想や「『悪魔』的にドストエフスキーを読む」ことの面白さを強調する意見が出された一方で、果たしてこれがドストエフスキー劇と呼べるのだろうかといった率直な疑問も出された。実は、私も監督の意図がなかなかつかめずに、この劇も大衆受けするようにセンセーショナルに作られているのかもしれないと戸惑いながら聞いていた。

しかし、千葉大学で行われた国際研究集会で「ドストエフスキイの終末論――地獄の克服」(『ドストエーフスキイ広場』第10号参照)という題の講演をした研究者サラスキナが記したこの劇への肯定的なコメントや、配付資料ではあまり詳しく記されていなかった劇の筋が、参加者の質問に対する答えから明らかになるにつれて印象が変わった。

すなわち、監督のボゴモロフが自分の劇の題名からロシア語でも「同胞愛(ブラーツトヴォ)」という単語の語源となっている「兄弟(ブラーチヤ)」という単語を削除して『カラマーゾフ』と名付けていることに注意を促したサラスキナはコメントで、この題名は「『同胞愛』が存在するためには、『兄弟』が必要だというドストエフスキーの言葉に合致している」と記していた。

実際、この劇では最後にアリョーシャがリーザと心中するだけではなく、イヴァンも死にドミートリイも死刑になって、スメルジャコフのみが生き残り、ゾシマ二世ともいうべき役割を果たしていたのである。つまり、登場人物や基本的な筋は原作に拠りながらも、監督は後半の筋を大きく変えることで重たい問題提起をしていたと思える。

会場からはモスクワ芸術座だけでなくタガンカ劇場でも演出した鈴木忠志監督についての指摘もあったが、「宗教と政治との癒着」を批判する劇も上演していたボゴモロフ監督が、プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』も上演していたことを知って、ロシアの演劇界で一世を風靡したタガンカ劇場のリュビーモフ監督も権力者の「良心の呵責」を描いたこの劇を上演していたことを思い出した。ことに劇『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ作)でリュビーモフは、悪魔の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していたのである。

懇親会では劇『カラマーゾフ』には、ドストエフスキーを深く敬愛し、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の演出も行っていたタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》を示唆するような場面があることもわかり、会話が盛り上がった。実際に見ていないので断定はできないが、「卑俗的なものが付加され、聖なるものが排除されている」この劇も、タガンカ劇場などの前衛的なロシア演劇や映画の伝統を踏まえつつ、原作のテーマをしっかりと受け継いでいる可能性があると思われる。タガンカ劇場の熱気が思い出されるような知的刺激に富んだ報告であった。              

 

甘利問題と「加計学園」問題、そして「共謀罪」――黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》再考

黒澤明、悪い奴ほど

(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

甘利問題と「加計学園」問題、そして「共謀罪」――黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》再考

「森友学園」問題が官僚によって重要な書類が隠されたことでなかなか解明が進まない中、”総理のご意向”とする文書が流出したことでいよいよ本命といされる「加計学園」問題が前面に浮かび上がってきた。

ニュースサイト「リテラ」は、「これは国を揺るがす大問題。総理が腹心の友のため権力を使い便宜を図る行為は金が動いてなくても、収賄やあっせん収賄と同じ。加計理事長は96億円もの利益を得た。韓国前大統領と同じ身内への利益誘導、辞任に値する」と記しているがまさにそのような大問題だろう。

さらに大きな問題は「韓国前大統領と同じ身内への利益誘導」をしながら責任を取ろうともしない独裁的な安倍首相の主導によって、「共謀罪」がまたも強行採決されようとしていることである。

昨年の5月31日に東京地検が甘利前経済再生担当相と元秘書2人を「現金授受問題」で不起訴としたとの報道が「東京新聞」朝刊に載った際には、汚職事件を主題とした黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》を論じた箇所を拙著から引用して掲載していた。

ここではそのページと映画《野良犬》などを論じたブログ記事へのリンク先を示すことにより、映画《夢》で福島第一原子力発電所事故を予告するようなシーンを描き出すことになる黒澤監督が腐敗した政治の危険性も描き出していたことを明らかにしておく。

リンク→長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

リンク→長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

 

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》、を「映画・演劇評」に掲載しました

7月の下旬に「科学者(知識人)の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と長編小説『死の家の記録』」という論文を書き上げました。

この論文の内容については雑誌が発行されてから具体的に記するようにしたいと思いますが、ほぼ書き終えた頃にインターネットの検索で仙台出身の岩井俊二監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事を見つけました。

「大地の激動と『轟々と』吹く風」と題した《風立ちぬ》論Ⅱには、この対談から影響を受けていると思われる箇所がありますので、今回の「映画・演劇評」では「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という日本映画専門チャンネルの特集についての対談記事より、《生きものの記録》について語られている箇所を中心に紹介します(テキスト・構成・撮影:CINRA編集部、2011/12/30)。

「 黒澤明監督の《生きものの記録》と宮崎駿監督の《風立ちぬ》」より改題(8月22日)

無責任な政治家と終末時計の時刻

終末時計(図版は「ウィキペディア」より)

(縦軸には残りの時刻が横軸には年号が示されており、クリックすると画像が鮮明になります)

豊洲市場問題で責任を問われている石原慎太郎元都知事(現「日本会議」代表委員)は今日の記者会見で責任逃れに終始していたが、国会議員に当選した翌年の国会では、「非核三原則」を「核時代の防衛に対する無知の所産」のせいだと批判していた((拙著『ゴジラの哀しみ』4頁)。

さらに、八木秀次・現「日本教育再生機構」理事長との『正論』(産経新聞社)2004年11月号での対談では、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」と語っていた(同上、170頁)。

一方、現実からの逃避とも思えるこのような政治家の無責任な発言や安倍現首相などの無作為などから地球規模の危機は進み、朝日新聞は今年1月27日のデジタル版に次のような記事を掲載していた。

「米国の科学者らが毎年公表している地球滅亡までの残り時間を示す「終末時計」が2年ぶりに30秒進められ、残り2分半になった。核兵器増強を主張するトランプ米大統領の就任や北朝鮮の核実験、地球温暖化などを重く見た。米国と旧ソ連が対立した冷戦時代以来の深刻さという。」

そして今日の「東京新聞」は文化欄に「終末時計が30秒進む 恐怖の時代に刻々と…」の見出しで、次のように結ばれる池内了・総合研究大学大学院名誉教授の記事を掲載している。

「世界が不安定化して一触即発の状況になりつつあるという警告で、軍国主義化する日本も例外ではない。終末時計を見て、今私たち人類が陥っている愚かしさをじっくり考えてみる必要がありそうである。」

国民の安全と経済の活性化のために脱原発を

(はじめに 1、「原爆の申し子」としてのゴジラ 2,水爆「ブラボー」の実験と「第五福竜丸」事件 3,水爆大怪獣「ゴジラ」 4,核戦争の恐怖と映画《生きものの記録》 5,チェルノブイリ原発事故と「第三次世界大戦」 6,福島第一原子力発電所事故と映画《夢》 7,黒澤明と作家ガルシア・マルケスとの対談)

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(↑ 画像をクリックで拡大できます ↑)

【映画《ゴジラ》から《シン・ゴジラ》にいたる水爆怪獣「ゴジラ」の変貌をたどるとともに、『永遠の0(ゼロ)』の構造や登場人物の言動を詳しく分析することによって、神話的な歴史観で原発を推進して核戦争にも対処しようとしている「日本会議」の危険性を明らかにし、黒澤明監督と宮崎駿監督の映画に描かれた自然観に注目することにより、核の時代の危機を克服する道を探る】。

混迷の時代と新しい価値観の模索―『罪と罰』の再考察

 もうすぐ「ロシア文学研究」の授業が始まります。

昨年度の講義では国際シンポジウムのテーマともなった『白痴』を中心的に考察しました。西欧文学からの影響も強く見られる作品なので難しいかと思われましたが、思いがけず好評でした。

残念ながら、日本では『白痴』の主人公の一人であるナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定した文芸評論家・小林秀雄の『白痴』解釈がいまだに強い影響力を保っています。

しかし、ロシアもまたキリスト教国であり、西欧の文学から強い影響を受けたドストエフスキーはこの作品でも『ドン・キホーテ』や『椿姫』などに言及しています。それらの作品や『レ・ミゼラブル』との関連をとおしてこの作品を分析するとき、浮かび上がってくるのはパワハラや「噂」などで苦しめられた女性の姿なのです。

それゆえ講義では。黒澤映画《白痴》なども紹介することで、小林秀雄が「悪魔に魂を売り渡して了つた」と批判した主人公のムィシキンは、「殺すなかれ」というイエスの理念を伝えようとしていた若者だったことを明らかにしました。

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それゆえ、今年も同じく『白痴』を扱おうかとも考えましたが、結局、『白痴』をも視野に入れながら『罪と罰』を中心に考察することにしました。1866年に「憲法」のないロシア帝国で発表された『罪と罰』で描かれている個人や社会の状況は、現代の日本を先取りするように鋭く深いものがあるからです。

たとえば、ドストエフスキーは1862年に訪れたロンドンでは、ロシアの農奴よりもひどいと思われる労働者の生活や発生していた環境汚染を目撃していました。それらの状況は『罪と罰』における大都市サンクトペテルブルグの描写にも反映されているのです。

合法的に行われていた高利貸しの問題が殺人の原因になっていることはよく知られていますが、この長編小説では悪徳弁護士のルージンが述べる現在のトリクルダウン理論に近い考えも、登場人物の議論をとおして厳しく批判されています。

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そして、ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公にナポレオン三世が記したのと同じような「非凡人の理論」を語らせていますが、社会ダーウィニズムを理論的な根拠にした「弱肉強食の思想」と「超人思想」などはすでに当時の西欧社会を席巻しており、後にヒトラーはこの考えを拡大して「非凡民族の理論」を唱えることになるのです。

こうして、19世紀に書かれた『罪と罰』は、時代を先取りし、現代につながるような思想的な問題をも都市の描写や主人公と他者との対話、さらに主人公の夢などをとおして描き出していたのです。

→ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

   *    *

私が『罪と罰』と出会った当時はベトナム戦争が続いて価値が混迷し、日本では反戦を訴えていた過激派が互いに激しい内ゲバを繰り返して死者も出るようになっていました。その一方で激しい言論弾圧も行われていた隣国の韓国では、朝鮮戦争時の日本と同じように、ベトナム戦争による戦争特需が生まれていたのです。

残念ながら最初に『罪と罰』と出会った頃の現在の日本は軍事政権下の韓国の状況に似て来たように見えます。地球の温暖化や乱立する原発などが状況をより難しくしています。

しかし、ドストエフスキーはロシア帝国だけでなく、おおくの西欧初校も抱えていた多くの矛盾を長編小説という方法で考察し、その矛盾に満ちた世界を改善しようとしていました。

→ 三浦春馬が“正義”のために殺人を犯す青年を熱演!
舞台「罪と罰 …プレビュー 2:44

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また、プーシキンやトルストイの作品などを学ぶことはロシアの歴史や社会を知ることになります。一方、ロシア文学の受容を考察することは、日本の歴史や社会をより深く知ることにもつながります。

ここでは初めての邦訳者・内田魯庵や批評家・北村透谷、そして『罪と罰』を深く研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村など明治の文学者たちの視点で『罪と罰』を読み解くことにより、差別や法制度の問題にも迫ります。

そして、「平民主義者」から「帝国主義者」へと変貌した徳富蘇峰の「教育勅語」観や「英雄史観」にも注目しながら、「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が書いた『罪と罰』の特徴を分析することで、現代にも通じるその危険性を明らかにすることができるでしょう。

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講義概要

この講義では近代日本文学の成立に大きな役割を果たしたロシア文学をドストエフスキーの『罪と罰』を中心に、ロシア文学の父と呼ばれるプーシキンの作品やトルストイの『戦争と平和』などを世界文学も視野に入れながら映像資料も用いて考察する。

  具体的には比較文学的な手法によりシェイクスピアの戯曲やゲーテの『若きヴェルテルの悩み』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』、そしてユゴーの『レ・ミゼラブル』と『罪と罰』との深い関わりを明らかにする。そのうえで『罪と罰』の筋や人物体系の研究の上に成立している島崎藤村の長編小説『破戒』などを具体的に分析することで、近代日本文学の成立とロシア文学との深い関わりを示す。

 さらに、ドストエフスキーとほぼ同時代を生きた福沢諭吉の「桃太郎盗人論」や芥川龍之介の短編「桃太郎」と『罪と罰』の主人公の「非凡人の理論」を比較し、手塚治虫や黒澤明、さらに宮崎駿の作品とのかかわりを考察することで、『罪と罰』の現代的な意義を明らかにする。 (ロシア語の知識は必要としない)。

「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 

 

消えた「時論公論」(?)

「映画・演劇評」に書いた「劇《石棺》から映画《夢》へ」という記事にも書いたことですが、「ロシア帝国」の厳しい検閲のもとに作品を書いていた作家ドストエフスキーの研究をしているので、「検閲」のことにどうしても敏感になります。

汚染水の危機と黒澤映画《夢》」と題した8月4日のブログ記事で、8月2日(金)の深夜午前0時から10分間、「原発汚染水危機 総力対応を」とのタイトルで、汚染水への緊急の対策の必要性を訴えた解説委員・水野倫之氏の放送の内容をお伝えしました。

ただ、その時点ではまだ詳しい文字情報が出ていなかったので、(副題などについては、後日確認します)と記していました。

ブログを書いた8月4日の時点では土日を挟んでいるので、まだ記事が掲載されないのだと考えていたのですが、その後、インターネット上の「NHK解説委員室」にある「最新の解説」欄や「最新の解説30本」という欄を見ても、記事が見つからないので気になっています。

8月1日付けの時論公論 「日韓関係に司法の壁」出石直・解説委員)の次に出てくるはずの水野氏の解説記事がなく、

8月3日付けの時論公論 「”夢の降圧剤”問われる臨床研究」(土屋敏之・解説委員)へと飛んでいるのです。

なぜなのでしょうか。私のホームページ上の問題で、私だけが検索ができないのならばよいのですが…。

「国民の生命」にも関わる問題への勇気ある解説だったので、ぜひ再放送をしていただきたいと願っています。

 

消えた〈公論〉と司馬遼太郎氏の危惧

昨日、ブログに書いた「消えた「時論公論」(?)」という記事で、8月2日(金)の深夜午前0時から10分間、「原発汚染水危機 総力対応を」とのタイトルで、汚染水への緊急の対策の必要性を訴えた解説委員・水野倫之氏の放送内容が、その後のインターネット上のNHKの「最新の解説」欄などでは見つからないと記しました。

その後、報道にも携わっている友人から確かに削除されているので、「自主規制」したものと思われるとのメールが入りました。

福島第一原子力発電所における汚染水への緊急対策の必要性を訴えた水野氏の解説は政治的なものではなく、「国民の生命」や日本の大地、さらには地球環境にもかかわる重要な見解だったと思われます。

長編小説『坂の上の雲』において常に皇帝や上官の意向を気にしながら作戦を立てていたロシア軍と比較することで、自立した精神をもって「国民」と「国家」のために戦った日本の軍人を描いた司馬遼太郎氏は、その終章「雨の坂」では主人公の一人の秋山好古に、厳しい検閲が行われ言論の自由がなかったロシア帝国が滅びる可能性を予言させていました。

そして日露戦争当時のロシア帝国と比較しながら司馬氏は、「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と指摘していたのです(『この国のかたち』第一巻、文春文庫)。

現在の日本でも近隣諸国との軋轢については詳しく報道される一方で、国内で発生している原子炉の重大な危険性についての情報は制限されていると思えます。いったい、「公共放送」のNHKは、本来ならばより大々的に報道すべき解説の内容を、誰の意向を気にして「自主的に規制」しなければならなかったのでしょうか。

今日も民間の新聞やニュースは、東電が「地下の汚染水が遮水壁をすでに乗り越えている可能性を認めた」ことを報じています。

「原発汚染水危機 総力対応を」というタイトルの解説は、「国民の生命」を守る勇気ある解説であり、再放送を強く要望したいと思います。