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「作品」に込められた「作者」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(6)

「作品」に込められた「作者」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(6)

 

前回の記事ではテーマが拡散してしまうために触れませんでしたが、『マガジン9』のスタックの寺川薫氏の「コラム」で問題だと思われたのは、「作者と作品の関係」に言及した次の文章です。

〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、「主張の内容」でなく、それを唱えている「人や組織」で事の是非を判断することと似ています。〉

*   *

たしかに、様々な人が存在する「組織」に対して、同じレッテルを「貼る」ことは問題でしょう。

たとえば、勤王派と言われた幕末期の長州藩にも、松陰が処刑された直後は「尊皇攘夷」の過激な行動を行いながら、後には世界的な広い視野を有していた時期の松陰の教えに従って世界を知ろうとした松陰の初期からの弟子・高杉晋作だけでなく、「征韓論」を主張して萩の乱では「殉国軍」を挙兵した前原一誠のような人物もいました。

しかし、〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、…中略…「人や組織」で事の是非を判断することと似ています〉と主張するのは、論理の飛躍になるでしょう。

なぜならば、様々な人が存在する「組織」には多様性があって当然なのですが、作者が苦労して創作した文学作品には作者の思いがつまっており、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとすることは、作品をとおして作者の思想や思いに迫ろうとする文学研究をも否定することになる危険性があるからです。

作者の人間としての幅が非常に広い場合はありますし、作者の思想や作品の傾向が時を経て、変わることもあります。しかし、「作品」にはその時の作者の思いや思想が反映されているのです。

つまり、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとすることは、「文学作品」を他の人(社)から依頼され、その意向を汲んで製作する「コマーシャル的な作品」と同じレベルにしてしまうことになるのです。

*   *

他方で、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとした寺川氏は、〈私は、記憶に新しい都知事選での応援演説をはじめ百田氏の言動には同意できないことだらけです。〉と書き、戦争が起きたときには「9条教の信者」を前線に送りだせばよいとした百田氏のツイートも引用しています。

このツイートの内容は、きわめて重要な問題を含んでいますので、次回はこのツイートの文面と『永遠の0(ゼロ)』との関係をとおして、この小説が「他者」との「対話」を拒否するような構造になっていることを明らかにしたいと思います。

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