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『永遠の0(ゼロ)』と「尊皇攘夷思想」

『永遠の0(ゼロ)』と「尊皇攘夷思想」

百田尚樹氏は小説『永遠の0(ゼロ)』の第9章で元特攻隊員だった武田に、新聞記者の髙山を「報国だとか忠孝だとかいう言葉にだまされるな」と怒鳴りつけさせ、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけさせて次のように語らせていました。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」(太字引用者)

しかし、すでに記したようにそれは「大嘘」で、『蘇峰自伝』によれば蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたのです。

リンク→宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

それゆえ、戦争の状況を「国民」に正しく知らせないまま、戦争を煽っていた『国民新聞』は、政府の「御用新聞」とみなされて焼き討ちされていたのです。

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第一次世界大戦中の1916年(大正5年)に発行された『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は当時としては異例の約100万部にのぼったのですが、そこで蘇峰は白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても「先頭から順次に」その中に飛び込み、「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えていたのです。

徳富蘇峰は、父の師で伯父にもあたる新政府の高官・横井小楠が明治2年に「専ら洋風を模擬し、神州の国体」を汚したとして暗殺され、そのような国粋主義に対する反発もあり、神風連の乱が起きた明治9年には熊本でのキリスト教への誓いに最年少で参加していました。

しかし、敗色が濃厚になった「大東亜戦争」の末期の一九四五年に最も激しく「神風」の精神を讃えたのが同じ蘇峰だったのです。

すなわち、『近世日本国民史』の「西南の役(二)――神風連の事変史」で蘇峰は、「神祇を尊崇し、国体を維持し」、「我が神聖固有の道を信じ、被髪・脱刀等の醜態、決して致しまじく」との誓約の下に団結して立ちあがった「神風連の一挙」を、「日本が欧米化に対する一大抗議であった」とし、「大東亜聖戦の開始以来、わが国民は再び尊皇攘夷の真意義を玩味するを得た」とし、「この意味から見れば、彼らは頑冥・固陋でなく、むしろ先見の明ありしといわねばならぬ」と高く評価したのです(太字引用者)。

リンク→『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)

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