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長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

黒澤明、野良犬黒澤明、天国と地獄

(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

先ほど、「長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)」をアップしましたので、長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画《野良犬》(1949)や《天国と地獄》(1963)との関係を考察した箇所も拙著から引用しておきます。

*   *   *

よく知られているように、クリミア戦争から一〇年後の混迷の首都ペテルブルグを舞台にした『罪と罰』(一八六六)は次のような有名な文章で始まっていた。「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮れどき、ひとりの青年が、S横丁にまた借りしている狭くるしい小部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした」。

一方、終戦後間もない混乱した時期の日本を舞台に、めっぽう暑い日の満員のバスでピストルをすられた刑事と、そのピストルをピストル屋から買い取って次々と凶悪犯罪をかさねる若者の息詰まるような対決を描いた映画《野良犬》(脚本・黒澤明、菊島隆三)も、「それは、七月のある恐ろしく暑い日の出来事であった」という文章から始まるガリバン刷りの同名の小説をもとにして撮られている*6。

そして、ショーウインドウに飾られている服を見て、あんな美しい服を一度着てみたいと語った自分のせいで復員軍人の青年がピストル強盗まで思い詰めたことを明かした若い踊り子は、「ショーウインドウにこんな物を見せびらかしとくのが悪いのよ」と語り、若い刑事から戒められると腐れて、「みんな、世の中が悪いんだわ」と言い訳した。

さらに踊り子は、「悪い奴は、大威張りでうまいものを食べて、きれいな着物を着ているわ」とも語っているが、この言葉は《悪い奴ほどよく眠る》との繋がりをよく物語っているだろう(下線引用者、『全集 黒澤明』第2巻、204頁)。

しかも、この二人の復員軍人の青年がともに戦争から帰った日本で自分の全財産ともいえるリュックサックを盗まれていたという共通の過去を描くことで、混迷の時代には窮地に追い込まれた人間が、犯罪者を取り締まる刑事になる可能性だけではなく、「狂犬」のような存在にもなりうることが示されていた。

こうして《野良犬》は、きわめて的確な時代考察のうえに主人公たちの行動や考え方を描き出したドストエフスキーの『罪と罰』を踏まえつつ、日本が戦前の個人の自由が全くなかった時代から、個人の「欲望」が限りなく刺激される社会へと激しく変貌し、そのような混沌とした日本の社会情勢の中で、価値観を失った若者たちのニヒリスティクな行動を鮮やかに映像化していたのである。

さらに黒澤明は一九六三年にも当時は無給でしかも将来の身分的な保証もなかったインターン制度のもとで、貧民窟に住んでいた貧しい研修医の竹内(山崎努)が、『罪と罰』のラスコーリニコフと同じように高台の豪邸に住む富豪(三船敏郎)を憎んで、彼の息子の誘拐を図るが誤ってその運転手の息子を誘拐するという事件を描いて話題を呼んだ《天国と地獄》(原作・エド・マクベイン、『キングの身代金』、脚本・小國英雄、久板栄二郎、菊島隆三、黒澤明)を公開している。

ただ、『罪と罰』のラスコーリニコフと同じような「インテリ犯罪者タイプ」の犯人の若者は、「ほとんどなんの理由もなく、ただ生まれながらの憎悪の発露としか思えないような調子で犯罪を遂行してゆく」と描かれている。そして、彼を追い詰める戸倉警部(仲代達矢)も、「法律が行う程度の正義ではまだ不足だと考えて、犯人を死刑に追いこむ工夫をする」のである。

それゆえ、この作品を論じて「サスペンス・ドラマとして最高だ」と評価した佐藤忠男は、その一方でこの映画における「黒澤の正義感はあまりに単純にすぎる」と苦言を呈している*7。

実際、『罪と罰』のラスコーリニコフも法律では罰することのできない高利貸しの老婆を殺害してしまうが、その後の主人公の苦悩を詳しく分析したドストエフスキーは、戸倉警部に相当する判事のポルフィーリイには自首を勧めさせていたのである。

こうして、《天国と地獄》と『罪と罰』における犯人や刑事の描き方などには大きな違いも認められるが、結末で描かれる自分が死刑になることを知った犯人の苦悩は、自分の死期を知ったイッポリートの苦悩をも連想させ、黒澤のドストエフスキー作品への関心の深さが感じられる。

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『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年、123~126頁。2017年5月19日、図版を追加)

 

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