高橋誠一郎 公式ホームページ

内田魯庵

新刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

(装丁:山田英春)

ISBN978-4-86520-031-7 C0098
四六判上製 本文縦組224頁
定価(本体2000円+税)
2019.02

→ http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-031-7.htm

〔青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解き、島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』との関連に迫る。→  https://twitter.com/stakaha5/status/1087718612624764929

〔さらに、「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する過程を考察し、蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性を明らかにする。→ https://twitter.com/stakaha5/status/1087720436148985856

 

目次

はじめに 危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容   

 

第一章 「古代復帰の夢想」と「維新」という幻想――『夜明け前』を読み直す

はじめに 黒船来航の「うわさ」と「写生」という方法

一、幕末の「山林事件」と「古代復帰の夢想」

二、幕末の「神国思想」と「天誅」という名のテロ

三、裏切られた「革命」――「神武創業への復帰」と明治の「山林事件」

四、新政府の悪政と「国会開設」運動

五、「復古神道」の衰退と青山半蔵の狂死

 

第二章 一九世紀のグローバリズムと日露の近代化――ドストエフスキーと徳富蘇峰

はじめに 徳富蘇峰の『国民之友』と島崎藤村

一、人間の考察と「方法としての文学」

二、帝政ロシアの言論統制と『貧しき人々』の方法

三、「大改革」の時代と法制度の整備

四、ナポレオン三世の戦争観と英雄観

五、横井小楠の横死と徳富蘇峰

六、徳富蘇峰の『国民之友』とドストエフスキーの『時代』

 

第三章 透谷の『罪と罰』観と明治の「史観」論争――徳富蘇峰の影

はじめに 北村透谷と島崎藤村の出会いと死別

一、『罪と罰』の世界と北村透谷

二、「人生相渉論争」と「教育勅語」の渙発

三、「宗教と教育」論争と蘇峰の「忠君愛国」観

四、透谷の自殺とその反響

 

第四章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化

はじめに 『文学界』と『国民之友』の廃刊と島崎藤村

一、樋口一葉と明治の『文学界』

二、『文学界』の蘇峰批判と徳冨蘆花

三、『罪と罰』における女性の描写と樋口一葉

四、正岡子規の文学観と島崎藤村――「虚構」という手法

五、日露戦争の時代と言論統制

 

第五章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く――差別と「良心」の考察

はじめに 『罪と罰』の構造と『破戒』

一、「事実」の告白と隠蔽

二、郡視学と校長の教育観――「忠孝」についての演説と差別

三、丑松の父と猪子蓮太郎の価値観

四、「鬱蒼たる森林」の謎と植物学――ラズミーヒンと土屋銀之助の働き

五、「内部の生命」――政治家・高柳と瀬川丑松

六、『破戒』と『罪と罰』の結末

            

第六章 『罪と罰』の新解釈とよみがえる「神国思想」――徳富蘇峰から小林秀雄へ

はじめに 蘇峰の戦争観と文学観

一、漱石と鷗外の文学観と蘇峰の歴史観――『大正の青年と帝国の前途』

二、小林秀雄の『破戒』論と『罪と罰』論――「排除」という手法

三、小林秀雄の『夜明け前』論とよみがえる「神国思想」

四、書評『我が闘争』と『罪と罰』――「支配と服従」の考察

五、小林秀雄と堀田善衞――危機の時代と文学

あとがきに代えて   「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

初出一覧

参考文献

(2018年12月23日、改訂。2019年1月22日、カバーの写真を追加。2019年2月15日、新刊到着)

危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社〔四六判上製/224頁/2000円/2019年2月〕 

 

危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容

 憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台に、自分を「非凡人」と見なした元法学部学生ラスコーリニコフの犯罪とその結果が描かれている長編小説『罪と罰』が雑誌「ロシア報知」に連載されたのは、幕末の慶応二(一八六六)年のことでした。

 一方、日本では一八五三年にアメリカだけでなくロシアからも「黒船」が来航し、ことにペリーが武力を背景に「開国」を要求したことからナショナリズムが高揚して倒幕運動が高まっていました。そのような激動の時期に日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の没後の門人となった自分の父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いたのが島崎藤村の歴史小説『夜明け前』でした。

 「明治維新」により奈良時代の「神祇官」が再興されると平田派の国学者たちの影響は広まりましたが、キリスト教の弾圧だけでなく「廃仏毀釈」運動なども展開したことに対する反発が高まり、新政府は「祭政一致」から「政教分離」に政策を変えました。その時期に宮司を罷免された島崎正樹は、先祖の建立した島崎家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

 放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化することで仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという正樹の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの犯行と苦悩が連想されます。

 それゆえ、本書では幕末から明治初期にいたる激動の時代を描いた島崎藤村の『夜明け前』をとおして一九世紀のグローバリズムとナショナリズムの問題をまず考察することにします。明治の文学者たちの父親の世代が体験した「明治維新」にいたる時期と激動の明治初期を考察することは、日本における『罪と罰』との出会いとその衝撃を理解する上でも重要だと思えるからです。

 その後で日露の近代化の問題にも注意を払いながら、ナポレオンのような英雄にあこがれる若者を主人公とした『罪と罰』にいたるまでのドストエフスキー(一八二一~一八八一)の歩みと文学的な試みの意義を考察することにします。

 ナポレオンとの民族の存亡を賭けた「祖国戦争」に奇跡的な勝利を収めたロシアではナショナリズムが高まり、一八三三年には「自由・平等・博愛」に対抗する、ロシア独自の「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調したロシア版の「教育勅語」が出され*1、それに反する者は厳しく罰せられるようになりました。「暗黒の三〇年」とも呼ばれたそのようなニコライ一世の治世の時代に、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて活動していたのが若きドストエフスキーだったのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

 フランスで起きた一八四八年の二月革命の影響を恐れたロシア政府によってペトラシェフスキー事件で逮捕されたドストエフスキーは、偽りの死刑宣告を受けた後でシベリア流刑となりました。しかし、クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに創刊した総合雑誌『時代』で、自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載していました。 

 新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度や社会ダーウィニズムなどの新しい思想の考察の上に成立していたのです。

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(『罪と罰』の図版はロシア版「ウィキペディア」、内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

 一方、明治に改元される直前の慶応四年五月に生まれた内田魯庵が英訳で『罪と罰』を読んだのは「憲法」が発布された明治二二年のことでした。この長編小説を読み始めたものの興が乗らずに最初の百ページほどを読むのに半月近くもかかった魯庵は、「それから後は夜も眠らず、ほとんど飯を食う暇さえないぐらいにして読み通した」のです*2。

 そして魯庵はこの長編小説は「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る」筋と、「マルメラードフと言う貴族の成れの果ての遺族が、次第しだいに落ぶれて、ついには乞食とまで成り下る」という筋が組み合わされて成立していると指摘していました。

 さらに、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していた『罪と罰』との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエ フスキーへの思いを魯庵は大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています*3。

 「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

 こうして『罪と罰』から強い感銘を受けた魯庵は「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、二葉亭四迷の助力を得て長編小説『罪と罰』の前半部分を、日本で初めて訳出して二回に分けて刊行したのです。

 ただ、『罪と罰』の売れ行きが思わしくなかったために前半のみの訳出で終わりましたが、内田訳を読んでこの長編小説の思想に深く迫ったのが、明治の雑誌『文学界』の精神的なリーダーだった北村透谷でした。

 すなわち、透谷は『文学界』の前身の『女学雑誌』に載せた評論で「心理的小説『罪と罰』」が、暗黒な社会の側面を暴露していることを指摘して、ロシアでは「貴族と小民との間に鉄柵」が設けられていることを指摘していました*4。

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(長女を抱いた北村透谷。小田原市立図書館所蔵)

 この記述からは西欧の大国に対抗するために短期間で「富国強兵」を成し遂げて貴族は特権を享受する一方で、農民が「農奴」の状態に陥っていた帝政ロシアの体制の問題点を透谷がよく理解していたことが感じられます。

 透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」はそのようなロシアの状況を踏まえて、「最暗黒の社会」には「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事」をたくらませるような「魔力」が潜んでいることをこの長編小説は明らかにしていると指摘していました*5。

 しかも透谷は大隈重信や来日したロシア皇太子ニコライへのテロにも言及しながら「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なり」と笑って退けてはならないと記していましたが、憲法発布の際にも文部大臣の森有礼が襲われて亡くなるという事件が起きていました。さらに、それから一年後に臣民の「忠孝」を強調した「教育勅語」が渙発され、学校での奉読式でそこに記された天皇の署名と印に最敬礼をしなかったキリスト教徒の内村鑑三が「不敬漢」とのレッテルを張られて退職させられるという事件が起きると「国粋主義」が台頭していたのです*6。

 明治四一年に朝日新聞に連載された夏目漱石の『三四郎』の第一一章では、広田先生が高等学校の生徒だった時に体験した出来事を三四郎にこう語っています*7。

 「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった」。

 憲法が発布された頃に青年期を迎えていた漱石によって書かれたこの記述は、文部大臣が暗殺された後に起きた事態の重要性を示唆しています。この後で総理大臣となった山県有朋は第一回帝国議会の開会直前に「教育勅語」を渙発していたのです。

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(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

 『三四郎』の前に朝日新聞に連載された自伝的な長編小説『春』で、北村透谷や『文学界』の同人たちとの交友を描くことになる島崎藤村も、日露戦争直後の明治三九年に発行した長編小説『破戒』で、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により、郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

 夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙でこの長編小説を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と激賞しましたが*8、本編で詳しく分析するように、島崎藤村は『罪と罰』の人物体系や構造を深く研究した上で長編小説『破戒』を著していたのです。

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(夏目漱石、「「ウィキペディア」より)

 一方、平民主義を標榜して『国民之友』を創刊してドストエフスキーの『虐げられた人々』など多くの外国文学の翻訳も掲載していた徳富蘇峰は、「教育勅語」が渙発された後で起きたいわゆる「人生相渉論争」では北村透谷を厳しく批判し、日清戦争の後では「帝国主義」を唱えることになります。

 さらに、幸徳秋水など多くの者が冤罪で死刑となった「大逆事件」後の明治四五年に美濃部達吉の『憲法講話』が公刊されると、蘇峰は『国民新聞』に「美濃部説は全教育家を誤らせるもの」で「帝国の国体と相容れざるもの多々なり」とした記事を掲載しました。

 これに対して「大逆事件」の時に修善寺で大病を患っていた漱石は、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記し、彼が恩赦という形で死刑をまぬがれたことを「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けていました*9。この漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます*10。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 しかし、昭和三年の「治安維持法」改正によって日本では共産主義者だけでなく生徒に写実的な描写を教えた教師たちまでも逮捕されるようになりました。 そのような時期に評論「現代文学の不安」で自殺した芥川龍之介を批判する一方で、ドストエフスキー文学への強い関心を示したのが文芸評論家の小林秀雄でした。本書の視点から注目したいのは、小林の歴史認識が徳富蘇峰の「英雄観」や「史観」を受け継いでいる点が意外と多いことです。

 それゆえ、徳富蘇峰の『国民之友』と『文学界』との対立に注目しながら『罪と罰』理解の深まりを考察した後で、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊した昭和一〇年に書かれた小林秀雄の『破戒』論に注意を払いつつ、その前年の『罪と罰』論を詳しく分析することします。そのことによって小林が作品の人物体系や構造を無視し、自分の主張に合わないテキストの記述を「排除」して『罪と罰』論を展開していたことを明らかにできると思うからです。

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 さらに、『夜明け前』論と書評『我が闘争』を『罪と罰』と比較しながら分析することにより、イデオロギーに捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張されている「様々な意匠」以降の小林の批評方法には、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田国学的な「意匠」が隠されていることを明らかにすることができると思います*11。

 それらを検証することによって「評論の神様」とも称される小林秀雄の手法が、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることをも示唆することができるでしょう。

 最後に、『白夜』などドストエフスキーの作品にたびたび言及しながら、この暗い時代に生きた若者たちを描いた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が、島崎藤村や明治の文学者たちの骨太の文学観を受け継いでいることを示すことで危機の時代における文学の意義に迫ります。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

(注は略し、ルビのふりがなは括弧内に記した。2018年12月30日、2019年1月14日、加筆。2月23日、改訂・図版を追加)。

『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

教育制度と「支配と服従」の心理――『破戒』から『夜明け前』へ

日露戦争の最中に詩「君死にたまふこと勿(なか)れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)」を書いた与謝野晶子が、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したとして激しく非難されるという出来事が起きたのは明治三七年のことでした。

このような日本の状況を北村透谷の評論をとおして深く観察していたのが、日露戦争直後の明治三九(一九〇六)年に『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』を自費出版する島崎藤村でした。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

この長編小説において藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、現代の「ヘイトスピーチ」を思わすような「憎悪表現」による激しい「差別」をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに反して、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従って生きることとの葛藤を「良心」に注目しながら詳しく描いたのです。そして藤村は、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を、「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

夏目漱石が『破戒』を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と森田草平宛の手紙で激賞していたことを想起するならば、憲法が発布された頃に青年期を迎えていたこれらの作家は、第一回帝国議会の開会直前に渙発された「教育勅語」の問題を深く理解していたように思えます。

しかも、『三四郎』の連載から二年後の明治四三年には「大逆事件」で幸徳秋水などが死刑となりましたが、この時に修善寺で大病を患っていた漱石は、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて偽りの死刑宣告を受け、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記したのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

この時、ドストエフスキーは皇帝による恩赦という形でシベリア流刑となっていたのですが、「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けた漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに総合雑誌『時代』を創刊しましたが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度について、さらに社会ダーウィニズムなどの新しい思想の真摯な考察の上に成立していたのです。

『罪と罰』を邦訳した内田魯庵も、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していたこの長編小説との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエフスキーへの思いを大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています。

「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

そのことを想起するならば、漱石の記述には「大逆事件」をきっかけに日本で言論の自由が奪われて、「憲法」がなく皇帝による専制政治が行われていた帝政ロシアと同じような状況になることへの日本への強い危惧が示唆されていると言えるでしょう。

 実際、「治安維持法」の改正によって日本では昭和初期になると、共産主義者だけでなく「立憲主義」的な価値観を持つ知識人も逮捕されるようになるのですが、その時期に藤村が連載したのが父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いた歴史小説『夜明け前』でした。

武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった時期に、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて、キリスト教や仏教を弾圧した平田派の国学者となった島崎正樹は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化して仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという半蔵の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの苦悩と犯行が連想されます。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

極端な「国粋主義」との関連で注目したいのは、ドイツ民族を絶対化したナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において、自らを「非凡人」と見なしたヒトラーが「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことに注意を促すとともに、「権威主義的な価値観」に盲従する大衆の心理にも迫っていたことです(日高六郎訳、東京創元社、1985)。

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(『自由からの逃走』、図版は英語版「ウィキペディア」より)

すなわち、心理学の概念を用いながら人間の「服従と支配」のメカニズムを分析したフロムによれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです。

しかも、第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、ヒトラーがなぜ権力を握りえたのかを明らかにしたフロムは、自分の分析の例証としてドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していました。

注目したいのは、『罪と罰』においてドストエフスキーがラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定させているばかりでなく(三・五)、「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)とも語らせていたことです。

こうして、ラスコーリニコフに自分の「権力志向」と大衆の「服従志向」にも言及させることで「権威主義的な価値観」の危険性を見事に表現していたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」をとおして「自分」や「自民族」を「非凡」と見なして「絶対化」することが大規模な戦争を引き起こすことをすでに示唆していたのです。

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江川卓訳『罪と罰』上中下(岩波文庫)

一方、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の昭和九年に、内田魯庵や北村透谷とは正反対の危機から眼をそらすような『罪と罰』論を展開したのが、文芸評論家の小林秀雄でした。彼は司法取締官ポルフィーリイや弁護士ルージンなどとラスコーリニコフとの激しい議論についての考察を省くことにより、「超人主義の破滅」や「キリスト教的愛への復帰」などの当時の一般的なラスコーリニコフ解釈では『罪と罰』には「謎」が残ると断言しました。(『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻)。

こうして、自分の主張に合わないテキストの記述は無視しつつ時流に迎合して「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」との結論を記した小林秀雄は、自分の主張とは合わない解釈をする者に対しては、「権威主義的な」態度で「不注意な読者」と決めつけていたのです。

このような小林のドストエフスキー論の問題点は、北村透谷の『罪と罰』論なども踏まえつつ、小林の『破戒』論や『夜明け前』論を考察することによりいっそう鮮明に浮かび上がらせることができるでしょう。

以下、本書では「写生」や「比較」という方法を重視した明治の文学者たち評論や小説だけでなく彼らの生き方や、明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、『罪と罰』の受容を分析することにします。

そのことにより日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期に書かれた小林秀雄のドストエフスキー論の手法が、現代の日本で横行している歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることも明らかにできると思います。

(注はここでは省き、旧かなと旧字は、現代の表記に改めた。2018年10月16日、改題と改訂)

 一、「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 

「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台に、自分を「非凡人」と見なした元法学部学生ラスコーリニコフの犯罪とその結果が描かれている長編小説『罪と罰』が雑誌に連載されたのは、「黒船」の来航によりナショナリズムが刺激されて、「天誅」という名のテロが頻繁に起きていた幕末の慶応二(一八六六)年のことでした。

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(『罪と罰』の図版はロシア版「ウィキペディア」、内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

 内田魯庵が英訳で『罪と罰』を読んだのは「憲法」が発布された明治二二年のことでしたが、この長編小説を読み始めたものの興が乗らずに最初の百ページほどを読むのに半月近くもかかった魯庵は、「それから後は夜も眠らず、ほとんど飯を食う暇さえないぐらいにして読み通した」のです(「『罪と罰』を読める最初の感銘」)。

 この長編小説を二日間ほどで通読した森鷗外が、読み終えてから「一週間ばかりは、夜眠ろうとするとうなされて、どうしても眠られなかった」という話しを聞いたと記した魯庵は、農奴制の廃止や裁判制度の改革などが行われていた「大改革」の時期に新設された司法取締官のポルフィーリイとの対決で明らかになる「非凡人の思想」の危険性についてこう説明しています。

 「ラスコーリニコフの考えによると、総べて世の中――社会の組織と言うものは偉大なる権威者一個人の力を以てどうにでも改革出来る。今日の新しい法律を打ち建てた者は、即ちそれまであった旧い法律を打ち壊した人間で、旧い法律から見れば犯罪者であるけれども力さえあれば今の法律を破壊して新しい法律を建てることが出来る」。

 そして魯庵は、この長編小説には「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る」筋と、「マルメラードフと言う貴族の成れの果ての遺族が、次第しだいに落ぶれて、ついには乞食とまで成り下る」という筋が組み合わされて『罪と罰』が成立していると指摘していました。

実際、ポルフィーリイの殺人を犯した「非凡人」の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフは、「いや、なに、人道問題として」と問い質されると、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」と答えていたのです(第三部第五章、以下、三・五と略記する)。

 この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くには、「弱肉強食の思想」などの近代科学に影響されたラスコーリニコフの「良心」理解が誤っていたことを示唆するかのような、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです

 独裁的な藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」を獲得した時代を体験していた内田露庵は、絶対的な権力を持つ王や皇帝の無法な命令や行為に対抗するためにも、権力者からの自立や言論の自由などを保証する「良心」の重要性を深く認識していたのです。

明治憲法、「ウィキペディア」

(憲法発布略図、楊洲周延画、出典は「ウィキペディア」クリックで拡大できます)

 こうして『罪と罰』から強い感銘を受けた魯庵は「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、二葉亭四迷の助力を得て長編小説『罪と罰』の前半部分を、日本で初めて訳出して二回に分けて刊行したのです。

 ただ、『罪と罰』の売れ行きが思わしくなかったために前半のみの訳出で終わりましたが、内田訳を読んでこの長編小説の思想に深く迫ったのが、明治の雑誌『文学界』の精神的なリーダーだった北村透谷でした。

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(長女を抱いた北村透谷。小田原市立図書館所蔵と創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

 すなわち、透谷は『文学界』の前身の『女学雑誌』に載せた評論で「心理的小説『罪と罰』」が、「暗黒なる社界の側面を暴露してあますところなし」と記し、ロシアでは「貴族と小民との間に鉄柵」が設けられていることを指摘していました(評論「罪と罰」)。

この記述からは西欧の大国に対抗するために短期間で「富国強兵」を成し遂げて貴族は特権を享受する一方で、農民は重い人頭税をかけられたために没落して「農奴」の状態に陥っていた帝政ロシアの体制の問題点を透谷がよく理解していたことが感じられます。

 さらに次の評論で「最暗黒の社会」には「学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事」をたくらませるような「魔力」が潜んでいることを『罪と罰』が明らかにしていると指摘した透谷は、大隈重信や来日したロシア皇太子ニコライへのテロにも言及しながら「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なり」と笑って退けてはならないと記していました。

 実際、透谷の評論では言及されていませんが、憲法発布の式典の朝にも文部大臣の森有礼が「国粋主義者」の西野文太郎に短刀によって刺されて亡くなるという大事件が起きていました。それゆえ、北村透谷や『文学界』の同人たちとの交友が描かれている島崎藤村の『春』の後に朝日新聞に連載された夏目漱石の『三四郎』の第一一章では、広田先生が高等学校の生徒だった時に体験した出来事を三四郎にこう語っているのです*3。

 「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった」。

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(夏目漱石、「「ウィキペディア」より)

 しかも、その前年に漱石は「家庭と文学」で、武士が権力を握っていた時代には、「忠孝というような観念が、当時の社会組織を持続するのに」最も都合がよかったと記し、明治維新の後でも、「現在の社会組織を持続するためには、やはり忠孝のごとき観念が最もたいせつなものと考えられ、他の諸観念は依然としてこの観念に圧倒されている」ことに注意を促していたのです。

実は、「国粋主義」が台頭したのは文部大臣の森有礼が暗殺されてから一年後に、臣民の「忠孝」を日本の「天皇を中心とする政体」の精華とたたえた「教育勅語」が渙発され、その奉読式でそこに記された天皇の署名と印に最敬礼をしなかったことを咎められた内村鑑三が「不敬漢」とのレッテルを張られて退職させられるという事件がきっかけでした。

教育勅語

(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

それゆえ、「『罪と罰』の殺人罪」が掲載された翌月に、『文学界』の第二号に発表した評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」で友人・山路愛山の史論を厳しく批判した北村透谷は、「明治文学管見」でも「愚なるかな、今日において旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷う学者、請う刮目(かつもく)して百年の後を見ん」と書いていたのです。

キリスト教の伝道者でもあった愛山が、「攘夷思想」を唱えた頼山陽を讃える史論を書いて時流に迎合したことに透谷が強い危機感を覚えたことはたしかでしょう。つまり、透谷の『罪と罰』論は、「教育勅語」渙発後に「国粋主義」が台頭した当時の日本の政治情勢とも深く関わっていたのです。

(注はここでは省き、旧かなと旧字は、現代の表記に改めた。2018年10月16日、改題と改訂)

 二、 教育制度と「支配と服従」の心理 ――『破戒』から『夜明け前』へ

 

新著の発行に向けて

 一ヵ月ほど前に目次案をアップしましたが、その後、何度も読み返す中でまだテーマが絞り切れていないことが判明しました。各章に大幅に手を入れた改訂版をアップし、旧版の「目次案」を廃棄しました。

 発行の時期は少し遅れるかも知れませんが、現在、日本が直面している困難な問題がより明確になったのではないかと思えます。専門外の方や若者にも分かり易く説得力のある本にしたいと考えていますので、もう少しお待ち下さい。(2018年6月22日)

 

目次案旧版。新版へのリンク先は本稿の文末参照)

〔青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解く〕

 

はじめに 

危機の時代と文学

→ 一、「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 二、教育制度と「支配と服従」の心理――『破戒』から『夜明け前』へ

 

序章 一九世紀のグローバリズムと『罪と罰』

一、人間の考察と「方法としての文学」

二、帝政ロシアの言論統制と『貧しき人々』の方法

三、「大改革」の時代と法制度の整備

四、「正義の戦争」と「正義の犯罪」

 

第一章 「古代への復帰」と「維新」という幻想――『夜明け前』を読み直す

はじめに 黒船来航の「うわさ」と「写生」という方法

一、幕末の「山林事件」と「古代復帰の夢想」

二、幕末の「神国思想」と「天誅」という名のテロ

三、裏切られた「革命」――「神武創業への復帰」と明治の「山林事件」

四、新政府の悪政と「国会開設」運動

五、「復古神道」の衰退と半蔵の狂死

 

第二章 「『罪と罰』の殺人罪」と「教育と宗教」論争――徳富蘇峰の影

はじめに 徳富蘇峰の『国民之友』と『文学界』

一、『国民之友』とドストエフスキーの雑誌『時代』

二、北村透谷のトルストイ観と「『罪と罰』の殺人罪」

三、「教育勅語」の渙発と評論「人生に相渉るとは何の謂ぞ」

四、徳富蘇峰の『吉田松陰』と透谷の「忠君愛国」批判

五、透谷の死とその反響

 

第三章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化――「虚構」という手法

はじめに 『文学界』と『国民之友』の廃刊――「立憲主義」の危機

一、民友社の透谷批判と『文学界』

二、樋口一葉の作品における女性への視線と『罪と罰』

三、正岡子規の文学観と島崎藤村

四、日露戦争の時代と『破戒』

 

第四章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く――――教育制度と「差別」の考察

はじめに 『罪と罰』の構造と『破戒』の人物体系

一、「差別」の正当化と「良心」の問題――猪子蓮太郎とミリエル司教

二、郡視学と校長の教育観と「忠孝」についての演説

三、「功名を夢見る心」と「実に実に情ないという心地」――父親の価値観との対立

四、ラズミーヒンの働きと土屋銀之助の役割

五、二つの夢と蓮太郎の暗殺

六、『破戒』の結末と検閲の問題

            

第五章 「立憲主義」の崩壊――『罪と罰』の新解釈と「神国思想」

はじめに 「勝利の悲哀」

一、島崎藤村の『春』から夏目漱石の『三四郎』へ

二、森鷗外の『青年』と日露戦争後の「憲法」論争

三、小林秀雄の『破戒』論と『罪と罰』論

四、よみがえる「神国思想」と小林秀雄の『夜明け前』論

 

あとがきに代えて――「憲法」の危機と小林秀雄の『夜明け前』論

→ 一、小林秀雄の平田篤胤観と堀田善衛

→ 二、「神国思想」と司馬遼太郎の「別国」観

      (2018年7月14日、7月31日、8月18日、9月2日更新)

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

『罪と罰』の邦訳と「『罪と罰』の殺人罪」

はじめに 「憲法」の発布と『罪と罰』の受容

一、『罪と罰』の邦訳と「『罪と罰』の殺人罪」

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

  「『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野(こうや)に落雷に会うて眼眩(くら)めき耳聾(し)いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。」(内田魯庵「二葉亭余談」)

「『罪と罰』についてⅡ」の冒頭近くで内田魯庵のこの文章を引用した文芸評論家の小林秀雄は、「読んだ人には皆覚えがある筈だ。いかにもこの作のもたらす感動は強い。残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と書いていました。

興味深いのは、小林のこの評論が「日本国憲法」の発布から一年後の昭和二三年に発表されていたのに対し、それまで文学をあまり高く評価していなかった魯庵が『罪と罰』の英訳を入手して読んだのは大日本帝国憲法が発布された明治二二年のことだったことです。

引用の名手だけに小林秀雄の評論は一挙に読者を引きこむ印象的な書き出しとなっていますが、引用された箇所の後で魯庵はこう続けていました。

「然るにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

こうして『罪と罰』から強い感銘を受けた魯庵は「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、二葉亭四迷の助力を得て憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台に、主人公の法学部元学生の犯罪とその結果を描いた長編小説『罪と罰』の前半部分を、日本で初めて訳出して二回に分けて刊行したのです。

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(内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれましたが、なかでもこの長編小説の思想に肉薄していたのが、明治の雑誌『文学界』の精神的なリーダーで、魯庵とも同年の北村透谷でした。

 

島崎藤村の自伝的な長編小説『春』では、透谷の『罪と罰』理解の一端が、夫人から何をしていたのかと尋ねられて『俺は考えていたサ』と答えた青木駿一(モデルは北村透谷)の言葉でこう記されています。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ』、銭とりにも出かけないで、一体何を為(し)ている、と下宿屋の婢(おんな)に聞かれた時、考えることを為ている、とあの主人公が言うところが有る。ああいうことを既に言つてる人が有るかと思うと驚くよ。考える事をしている……丁度俺のはあれなんだね』」(『春』二十三)。

ここでは具体的に何を考えたかは描かれていませんが、透谷は『文学界』の前身の『女学雑誌』に載せた最初の評論で「心理的小説『罪と罰』はかの奇怪なる一大巨人ロシアの暗黒なる社界の側面を暴露して余(あま)すところなしと言うべし」と記し、「貴族と小民との間に鉄柵」が設けられていると指摘していました。

この記述からは西欧の大国に対抗するために短期間で「富国強兵」を成し遂げて貴族は特権を享受する一方で、農民は重い人頭税をかけられたために没落して「農奴」の状態に陥っていた帝政ロシアの体制の問題点を透谷がよく理解していたことが感じられます。

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(長女を抱いた北村透谷。小田原市立図書館所蔵と創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

さらに北村透谷は翌年の一月に発表した評論「『罪と罰』の殺人罪」では、この長編小説の特徴をこう端的に指摘しているのです。

「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)ふべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」。

そして、「英雄」には「悪人」を殺すことも許されるとする「非凡人の理論」を考え出したラスコーリニコフの危険性を鋭く認識していた透谷は、大隈重信に爆弾を投げた来島や明治二四年五月にロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などにも言及しながらこう続けていました。

「来島(くるしま)某、津田某、等(とう)のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」。

ただ、この評論では文部大臣の森有礼を暗殺した国粋主義者の西野文太郎には言及されていませんが、北村透谷よりも一歳年上の夏目漱石は『三四郎』の第一一章で広田先生に高等学校の生徒だった時に体験した出来事をこう語らせています。

「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった」。

高等学校の生徒たちも「鉄砲を担(かつ)いで」大臣の葬式に参列したという記述からは、文部大臣の森有礼が暗殺されてからわずか一年後に儒教的な道徳が列挙されただけでなく、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と命じた「教育勅語」が渙発されたことへの漱石の深い危惧が感じられます。

さらに漱石は明治四三年に修善寺で大病を患った時に、ペトラシェフスキー事件で捕らえられて「刑壇の上に」立たされて死刑を待つ「彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記し、こう続けていました。「ドストイェフスキーはかくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)の丸(たま)を呑(の)まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した」(太字は引用者)。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

「法律の捏(こ)ね丸めた」という漱石の表現には、皇帝が絶対的な権力を持っており「憲法」を求めることは許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられ死刑宣告を受けた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

「法律の捏(こ)ね丸めた」という表現からは、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて死刑宣告を受けた若きドストエフスキーに文明論的な視野を持つ漱石が強い共感を覚えていたことが感じられます。

クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは総合雑誌『時代』を創刊しますが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。

新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや心理学的手法でラスコーリニコフの犯罪に鋭く迫る司法取調官ポルフィーリイとの激しい議論が描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度についての真摯な考察の上に成立していたのです。

(2018年4月24日、改訂。5月5日、短縮して改題。6月22日、改訂)

 

  夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ

夏目漱石の明治観と「明治維新」という用語

 

主な引用・参考文献

『北村透谷選集』、岩波文庫、1970年。

『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年。

『透谷と近代日本』、翰林書房、1994年。

『内田魯庵全集』第3巻、ゆまに書房、1983年。

『明治文學全集 29 北村透谷集』筑摩書房、1976年。

『漱石全集』第12巻、岩波書店、1994年。

佐藤善也『北村透谷と人生相渉論争』近代文芸社、1998年。

井桁貞義『ドストエフスキイと日本文化』教育評論社、2011年。

『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

              「ドストエーフスキイの会」第241回例会

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

慶応から明治に改元された1868年の4月に旧幕臣の子として生まれた内田魯庵(本名貢〔みつぎ〕、別号不知庵〔ふちあん〕)が、法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を読んで、「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」のは、「大日本帝国憲法」が発布された1889(明治22)年のことであった。

 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(水声社、2016年)で紹介されているように、小林秀雄は「日本国憲法」の発布から1年後の1948年11月に発表した「『罪と罰』についてⅡ」で、魯庵のこの文章を引用して「読んだ人には皆覚えがある筈だ。いかにもこの作のもたらす感動は強い」と書いた。

この年の8月に湯川秀樹と対談「人間の進歩について」を行って原子力エネルギーの危険性を指摘していた小林秀雄のこの『罪と罰』論は、残虐な戦争と平和についての真摯な考察が反映されており、異様な迫力を持っている。

しかし、小林は「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていたが、この長編小説ばかりでなくドストエフスキーの思想にも肉薄していた評論に北村透谷の「『罪と罰』の殺人罪」がある。明治元年に佐幕の旧小田原藩の士族の長男として生まれて苦学した北村透谷は、「憲法」が発布された年の10月に大隈重信に爆弾を投げた後に自害した来島や明治24年5月にロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記していた。

題名が示しているようにこの評論にもドストエフスキーが長編小説で問題とした法律と罪の問題に真正面から迫ろうとする迫力がある。ただ、ここでは「大日本帝国憲法」が発布される朝に文部大臣の森有礼を襲った国粋主義者・西野文太郎についてはなぜかまったくふれられていないが、それは透谷がこの事件を軽く考えていたからではなく、むしろ検閲を強く意識してあえて省かねばならなかったほど大きな事件だったためと思われる。

翌月の『文学界』第2号に掲載された透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」は、その理由の一端を物語っているだろう。ここで透谷は頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を次のような言葉で厳しく批判していた。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」(『北村透谷・山路愛山集』)。

愛山を「反動」と決めつけた文章の激しさには驚かされるが、それはキリスト教の伝道者でもあった友人の愛山がこの史論で「彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり」と書いて、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えていたためだと思われる(277頁)。

愛山の史論が徳富蘇峰の雑誌に掲載されていたために、透谷の批判に対しては愛山だけでなく蘇峰も反論して、『国民之友』と明治の『文学界』をも巻き込んで「人生相渉論争」と呼ばれる論争が勃発した。

この論争については島崎藤村が明治時代の雑誌『文学界』の同人たちとの交友とともに、生活や論争の疲れが重なって自殺するに至る北村透谷の思索と苦悩を自伝的長編小説『春』で詳しく描いている。

ただ、そこでも注意深く直接的な言及は避けられているが、拙論〔北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり〕(『世界文学』No.125)で考察したように、この時期の透谷を苛立たせ苦しめていたのは、「教育勅語」の発布により、「大日本帝国憲法」の「立憲主義」の根幹が危うくなり始めていた当時の政治状況だったと思える。

すなわち、森有礼の暗殺後に総理大臣となった山県有朋は、かつての部下の芳川顕正を文部大臣に起用して、「親孝行や友達を大切にする」などの普遍的な道徳ばかりでなく、「天壌無窮」という『日本書紀』に記された用語を用いて、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と説いた「教育勅語」を「憲法」が施行される前月の1890(明治23)年10月30日に発布させていたのである。

しかも、後年「軍人勅諭ノコトガ頭ニアル故ニ教育ニモ同様ノモノヲ得ンコトヲ望メリ」と山県有朋は回想しているが、「教育勅語」も「軍人勅諭」を入れる箱と同一の「黒塗御紋付箱」に入れられ、さらに「教育勅語」の末尾に記された天皇の署名にたいして職員生徒全員が順番に最敬礼をするという「身体的な強要」をも含んだ儀礼を伴うことが閣議で決定された。

すると約3ヶ月後の1月には第一高等中学校で行われた教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対してキリスト教の信者でもあった教員の内村鑑三が最敬礼をしなかったために、「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされるという事件が起きた。

比較文明学者の山本新が指摘しているように、この「不敬事件」によって「国粋主義」が台頭することになり、ことに1935年の「天皇機関説事件」の後では「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されるようになる。この時期になると「教育勅語」の解釈はロシア思想史の研究者の高野雅之が、「ロシア版『教育勅語』」と呼んだ、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した1833年の「ウヴァーロフの通達」と酷似してくるといえよう。

一方、島崎藤村は北村透谷よりも4歳若いこともあり、内田魯庵訳の『罪と罰』についての書評や、『文学界』と『国民之友』などの間で繰り広げられた「人生相渉論争」には加わっていないが、長編小説『春』では「一週間ばかり実家へ行っていた夫人」から何をしていたのか尋ねられた青木駿一(北村透谷)に、「『俺は考えていたサ』と」答えさせ、さらにこう続けさせていた。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ』、銭とりにも出かけないで、一体何を為(し)ている、と下宿屋の婢(おんな)に聞かれた時、考えることを為ている、とあの主人公が言うところが有る。ああいうことを既に言つてる人が有るかと思うと驚くよ。考える事をしている……丁度俺のはあれなんだね』」(『春』二十三)。

日露戦争の直後に島崎藤村が自費出版した長編小説『破戒』については、高い評価とともに当初から『罪と罰』との類似が指摘されていたが(平野謙『島崎藤村』岩波現代文庫、31頁)、そのことは長編小説『破戒』の意義を減じるものではないだろう。

たとえば、井桁貞義氏は論文「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」で、「『罪と罰』では『レ・ミゼラブル』とほぼ同一の人物システムを使いながら、当時のロシアが突き当たっていた社会的な問題点と、さらに精神的な問題を摘出している」と指摘するとともに、『罪と罰』と『破戒』の間にも同じような関係を見ている。

つまり、五千万人以上の死者を出した第二次世界大戦の終戦から間もない1951年に公開された映画《白痴》で、激戦地・沖縄で戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺寸前に刑が取りやめになった「復員兵」を主人公としつつも、長編小説『白痴』の登場人物や筋を生かして、研究者や本場ロシアの監督たちから長編小説『白痴』の理念をよく伝えていると非常に高く評価された。『破戒』はそれと同じようなことを1906年に行っていたといえるだろう。

さらに、この長編小説『破戒』では明治維新に際して四民平等が唱えられて、明治4年には「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた「解放令」が出されていたにもかかわらず実質的には続いていた差別の問題が描かれていることはよく知られている。

しかし、藤村はここで北村透谷の理念を受け継ぐかのように、「教育勅語」と同じ明治23年10月に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の問題を、「郡視学の命令を上官の命令」と考えて、「軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したい」と望んでいた校長と主人公・瀬川丑松との対立をとおして鋭く描きだしていた。

後に藤村が透谷を「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」ときわめて高く評価していることを考えるならば、藤村が北村透谷が当時、直面していた問題を考察し続けていたことは確実だろう。

しかも、透谷が自殺した明治27年の5月から翌年の6月にかけては、帝政ロシアで農奴解放令が出された1861年1月から7月まで雑誌『時代』に連載された長編小説『虐げられた人々』の内田魯庵による訳が『損辱』という題名で『国民之友』に連載されていた。さらに、1904(明治37)年の4月には、『貧しき人々』のワルワーラの手記の部分が、「貧しき少女」という題名で瀬沼夏葉の訳により『文芸倶楽部』に掲載されていた。

福沢諭吉は自由民権運動が高まっていた1879(明治12)年に書いた『民情一新』で、ドストエフスキーが青春を過ごした西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、学校の生徒を「兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じていたが、「教育勅語」発布後の日本の教育制度などは急速に帝政ロシアの制度に似てきていた。

そのことを考慮するならば、島崎藤村が『破戒』を書く際に、「暗黒の30年」と呼ばれる時期に書かれた『貧しき人々』や、法律や裁判制度の改革も行われた「大改革」の時期に連載された『虐げられた人々』を視野に入れていたことは充分に考えられる。

さらに、俳人の正岡子規は当時、編集を任されていた新聞『小日本』に、日清戦争の直前に自殺した北村透谷の追悼文を掲載していたが、島崎藤村は日清戦争後の明治31年に正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談をしていた。

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その新聞『日本』に日露戦争の最中に『復活』の訳を掲載した内田魯庵は、「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

一方、弟子の森田草平に宛てた手紙で長編小説『破戒』(明治39)を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石は、同じ年にやはり学校の教員を主人公とした『坊つちゃん』を書き、長編小説『春』(明治41年)の「最後の五六行は名文に候」と高浜虚子に書いた後で連載を始めた長編小説『三四郎』では自分と同世代の広田先生の深い考察を描き出していた。

それゆえ、今回の発表では「憲法」と「教育勅語」が発布された当時の時代状況や人間関係にも注意を払うとともに、北村透谷だけでなく正岡子規や夏目漱石の作品も視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

そのことにより「改憲」だけでなく、「教育勅語」の復活さえも議論されるようになった現在の日本における『罪と罰』の意義に迫ることができるだろう。私自身は日本の近代文学の専門家ではないので、忌憚のないご批判や率直なご感想を頂ければ幸いである。

(2017年10月5日、改題と改訂)

ドストエーフスキイの会、第241回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

ドストエーフスキイの会、第241回例会のご案内を「ニュースレター」(No.142)より転載します。

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第241回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                       

日 時2017年9月16日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館1階奥の和室(JR原宿駅下車7分)                       ℡:03-3402-7854

報告者:高橋誠一郎 氏

 題 目: 『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう)

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。主な著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、『黒澤明で「白痴」を読み解く』、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(以上、成文社)、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)など。

 

第241回例会報告要旨

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

内田魯庵が法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を購入したのは、大日本帝国憲法が発布されて言論や結社の自由や信書の秘密などの権利が条件付きではあるが保障され、司法権も独立した明治22年のことであった。

憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台にしたこの長編小説に読みふけった魯庵は、「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、日本で初めて『罪と罰』の前半部分を訳出して2回に分けて刊行し、売れ行きが思わしくなかったために完訳はできなかったものの反響は大きく多くの書評が書かれた。

たとえば、自由民権運動にも参加していた北村透谷は明治24年1月に著した「『罪と罰』の殺人罪」において、「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と指摘し、大隈重信に爆弾を投げた来島やロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記して、『罪と罰』の深い理解を示していた。

ただ、この記述には憲法発布式典の朝に文部大臣・森有礼を襲って刺殺するという大事件を起こした国粋主義者の西野文太郎の名前が挙げられていないが、その理由はその後の流れを見れば推測できるだろう。すなわち、この事件の翌年に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」と記された「教育勅語」が渙発されると、それから3ヶ月後には教育勅語奉読式においてキリスト者であった第一高等中学校の教員・内村鑑三が天皇親筆の署名に対して最敬礼をしなかったことを咎められて退職を余儀なくされるという「不敬事件」がおきたが、それは「立憲政治」を覆した昭和10年の「天皇機関説事件」の遠因ともなっていたのである。

一方、長編小説『破戒』(明治39)は人物体系や筋が『罪と罰』からの強い影響を受けていることが多くの批評家や研究者から指摘されているが、島崎藤村はそこで「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の状況を「忠孝」の理念を強調した校長の演説などをとおして詳しく描き出していた。

このような『破戒』の構造はロシアの「教育勅語」とも呼ばれる「ウヴァーロフの通達」が出された「暗黒の30年」の時代に、ドストエフスキーが『貧しき人々』において寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」の問題にも言及していたことを思い起こさせるが、明治37年4月には『貧しき人々』のワルワーラの「手記」が瀬沼夏葉によって訳出されていたのである。

さらに、当時のロシアの裁判制度の問題にも踏み込んでいた『虐げられた人々』の訳を明治27年から翌年にかけて『国民之友』に連載していた内田魯庵は、日露戦争の最中に『復活』の訳を新聞『日本』に掲載して「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

発表では『文学界』同人たちとの交友や北村透谷の『罪と罰』観が描かれている島崎藤村の長編小説『春』(明治41)だけでなく、『破戒』を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石の『坊つちゃん』(明治39)や『三四郎』(明治41)などをも視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

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映画《にごりえ》(今井正監督、1953年)*1。図版は「ウィキペディア」より。

前回は島崎藤村が長編小説『春』において樋口一葉と『文学界』同人たちとの関係をどのように描いていたかを見ましたが、北村透谷の『罪と罰』観の一端は、「一週間ばかり実家へ行っていた夫人」からその時期に何をしていたのかを尋ねられた青木(透谷)の答えをとおして描かれています。すなわち青木に『俺は考へて居たサ』と答えさせた藤村は、さらにこう続けていました。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ、銭とりにも出かけないで、一体何をして居る、と下宿屋の婢に聞かれた時、考へることをして居る、その主人公が言ふところが有る。ああいふ事を既に言つてる人があるかと思ふと驚くよ。考へる事をしてゐる……丁度俺のはあれなんだね。』」(『春』二十三)。

注で示した資料では同人たちによるドストエフスキーの作品やトルストイの『戦争と平和』、さらにユゴーの『レ・ミゼラブル』やエマーソンの論文などの翻訳を挙げることにより、内田魯庵の『罪と罰』訳やこの雑誌の精神的な指導者であった透谷の『罪と罰』論がいかに大きな影響を同人たちに与えていたかを確認しました。

リンク→正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

比較文明学的な視点からの分析は、北村透谷の場合などを論じた「日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって」という論文で行っていましたが、ここでは比較文学論の視点から「樋口一葉における『罪と罰』の受容」についてもきちんと考察しておきたいと思います。

*   *   *

近代日本文学の研究者・平岡敏夫氏は論文〈「にごりえ」と『罪と罰』――透谷の評にふれて〉において、「この『罪と罰』が日本近代文学に及ぼした影響については、まだまだ言い尽くされているとは言いがたい。 その一例が樋口一葉の場合である」と記し、「奇跡の十四か月といわれる期間に」一葉はなぜこのような作品を生み出し得たのかと問い、「この〈奇跡〉はドストエフスキー『罪と罰』の影響抜きには考えられないというのが私などの立場である」と主張していました(『北村透谷――没後百年のメルクマール』、おうふう, 2009年)。

銘酒屋「菊の井」の人気酌婦・お力が、彼女におぼれて長屋住いの土方の手伝いに落ちぶれた元ふとん屋の源七に殺されるという「夕暮れの惨劇」を描いた小説「にごりえ」は、母親による男児殺しを描いた透谷の「鬼心非鬼心」と『罪と罰』における老婆殺しの影響を受けているとの見解を示した平岡氏は、マルメラードフ夫婦と源七夫婦との比較をした研究も紹介しています*2。

注目したいのは、その後で氏が「お力が、突然ラスコーリニコフ的歩行をするところに、この作品の深さと面白さがある」と書いた秋山駿氏の考察の重要性を指摘していることです。

「お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに唐天竺《からてんぢく》の果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処《ところ》へ行《ゆ》かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時《いつ》まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時《しばらく》そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい(以下略)」

この文章を引用した秋山駿氏は「主人公が自分の心を直視しながら歩く。一葉がよくもこんなラスコーリニコフ的歩行の場面を採用したものだ」と感心するとともに、さらにこの後の文章も引用して「マルメラードフの繰り言」との類似や「身投げなど思うお力にはソーニャの面影がある」とも書いていることも指摘していたのです(『私小説という人生』新潮社)。

平岡氏が「一葉がことに翻訳小説が好きで、不知庵の『罪と罰』を借したときは、たいへんに悦び、くり返しくり返し数度読んだと『文学界』の同人戸川残花が語っている」ことにも言及していることに留意するならば、社会の底辺で生きる人々を描いた一葉の小説と『罪と罰』との類似性は明らかでしょう。

さらに木村真佐幸氏が「一葉”奇跡の十四ヶ月の要因」と題した章で*3、1894年に顕真術者・久佐賀義孝に面会して「一身をいけにえにして相場ということをやってみたい、教え給えと哀願」した一葉の言葉には「鬼気迫る壮絶観がある」と記していることを紹介した平岡氏はこう続けています。

「ラスコーリニコフと金貸しの老婆の存在、一葉と一葉が借金を申し込む久佐賀の存在とは、ある種の相似がありはしないか」。

 

*1 映画《にごりえ》は、「十三夜」「大つごもり」と「にごりえ」の3編を原作とした文学座・新世紀映画社製作、松竹配給のオムニバス映画。

*2 銘酒屋とは飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店。

*3 木村真佐幸『樋口一葉と現代』翰林書房。

(続く)

リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

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(樋口一葉の肖像。図版は「ウィキペディア」より)

 

前回は〈正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」〉という記事を書きました。

そこでは1894(明治27)年に新聞『小日本』に掲載された北村透谷の追悼記事が正岡子規によって書かれていた可能性が高いことを確認するとともに、後に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村と子規との出会いの意味についても考えてみました。

長編小説『春』で描かれているのは、明治女学校を辞めた藤村(小説では岸本捨吉)が放浪から戻った1893(明治26)年の夏より、仙台の東北学院の赴任が決まって出発する1896(明治29)年の8月末までの時期で、1893年1月に創刊された『文学界』の同人たちとの交友も記されています。

注目したいのは、1893年3月に発表した「雪の日」から、「琴の音」、「花ごもり」、「やみ夜」「大つごもり」、そして「たけくらべ」など複数の作品を『文学界』に掲載していた樋口一葉(1872~96年。小説では堤姉妹の姉)の家庭についても次のように描かれていることです。

「『どうだね、これから堤さんの許(ところ)へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ』/こう菅が言出した。」

「そこには堤姉妹が年老いた母親にかしずいて、侘(わび)しい、風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話(はなし)の面白い人達であったが、殊(こと)に姉は和歌から小説に入って、既に一家を成していた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである*」(百九)。

*   *   *

よく知られているように、森鷗外は7回にわたり連載された「たけくらべ」が1896年4月に『文芸倶楽部』に一括掲載されると、『めさまし草』の「三人冗語」で「吾はたとへ世の人に一葉崇拝の嘲を受けむまでも、此人に誠の詩人といふ称を惜しまざるなり」と一葉を称賛しました。

森鴎外と深い交友のあった正岡子規も、新聞『日本』に1896(明治29)年に連載していた随筆「松蘿玉液」(しょうらぎょくえき)の5月4日の回で「たけくらべ」を高く評価するのですが、注目したいのはその前段の「小説」という項目を次のように書き始めていたことです。

「文学者として小説を読めば世に小説程つまらぬ者はあらず、先ず劈頭(へきとう)より文章がたるみたり言葉が拙しとそれにのみ気を取られ、」「吾れ従来小説が好きながら小説を読むことは稀なり」としながらも、最後を「あれこれと読みもて行けばここに一物あり」と結んでいるのです。

そして、次の段で「たけくらべ といふ」と書き始めた子規は、「汚穢(おわい)山の如き中より一もとの花を摘み来りて清香を南風に散ずれば人皆其香に酔ふて泥の如しと」続けていました。

さらに「一行を読めば一行に驚き一回を読めば一回に驚きぬ。…中略…西鶴を学んで佶屈(きつくつ)に失せず平易なる言語を以て此緊密の文を為すもの未だ其の比を見ず。…中略…或は笑ひ或は怒り或は泣き或は黙する処に於て終始嬌痴(きようち)を離れざるは作者の技倆を見るに足る」と記した子規は、「一葉何者ぞ」と記していたのです。

1894年の末に「大つごもり」を発表してから「奇跡の十四か月」と言われる期間に「にごりえ」「十三夜」や「われから」など多くの佳作を残して、樋口一葉は1896年の11月に結核で亡くなるのですが、「松蘿玉液」における子規の記述は今もその意義を失っていないと思えます。

なお、島崎藤村の長編小説『春』には、内田魯庵の『罪と罰』訳のこともでてくるので、稿を改めて、次回は樋口一葉と『罪と罰』との関わりを簡単に考察することにします。

 

*注、足立のモデルは馬場孤蝶(1869-1940)、菅は戸川秋骨(1870 – 1939)、そして、市川は平田禿木(とくぼく、1873 – 1943)で、いずれも多くの翻訳書がある英文学者である。この雑誌たちの傾向を知る上でも興味深いので、以下に内田魯庵および『文学界』同人が1917年までに翻訳した作品の一部を掲載する。[]内は現代の題名。

内田魯庵:『罪と罰』内田老鶴圃、1892~93年、『損辱』[虐げられし人々]、『国民之友』、1894年5月~95年6月/『馬鹿者イワン』[イワンの馬鹿]、『学鐙』1902年/『復活』、新聞『日本』1905年4月5日-12月22日

馬場孤蝶(足立):「小児の心」[ネートチカ・ネズワーノワ]『明星』、1908年10月/「博徒」[賭博者]『明星』、1908年 11月/『戦争と平和』泰西名著文庫、1914年。

戸川秋骨(菅):ツルゲーネフ『猟人日記』(共訳・重訳)1909年/ 『エマーソン論文集』上下、玄黄社、1911-12年/ユゴー『哀史』(ああ無情)[レ・ミゼラブル]、泰西名著文庫、1915-16年。

 平田禿木(市川):サッカレー『虚栄の市』、国民文庫刊行会、1914–15年/『エマアソン全集 第1- 5巻』、国民文庫刊行会、1917年/デフォー『新譯ロビンソン漂流記』、冨山房、1917年。

注は井桁貞義・本間暁編『ドストエフスキイ文献年表・解説』(『ドストエフスキイ文献集成』第22巻、1996年7月、大空社)、榊原貴教編「ドストエフスキイ翻訳作品年表」デジタル版、および「ウィキペディア」などを参照して作成。