高橋誠一郎 公式ホームページ

堀田善衞

ロシア帝国の教育制度と日本――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』から『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』へ

59l「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

ニコライ一世治下の帝政ロシアでは、ロシアの貴族にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を「ロシアの理念」として国民に徹底しようとした「ウヴァーロフの通達」が1833年に出されていました。

このような時代に青春を過ごした若きドストエフスキーは初期作品で、権力者の横暴を抑えるための「憲法」の意義や言論や出版の自由の必要性、さらには金持ちのみを優遇する「格差社会」の危険性などを、「イソップの言葉」で説いていました。

『貧しき人々』に始まるこれらの作品を分析することにより、日本における「憲法」や「教育」の問題を考察しようとした拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)の終章では、検閲の問題と芥川龍之介の自殺との関連にも注意を払いながら、『白夜』からの引用がある堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』に注目することで、昭和初期の日本の状況とクリミア戦争直前の帝政ロシアの状況との類似性を明らかにしました。

たとえば、昭和一二年に文部省から発行された『国体の本義』では、大正デモクラシーを想定しながら、その後も「欧米文化輸入の勢いは依然として盛んで」、「今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起」したとして、これらの混乱を収めるべき原則として『教育勅語』の意義が強調されたのです。

さらに『国体の本義解説叢書』の一冊として文部省教学局が発行した『我が風土・国民性と文学』と題する小冊子では、「ロシアの理念を強調した「ウヴァーロフの通達」と同じように、「日本の国体」においては、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」ことを強調していました。

 それゆえ、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』を書き上げた後では、芥川龍之介の自殺の問題も描かれている堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』を詳しく考察することで、昭和初期に書いた「『罪と罰』についてⅠ」などの評論や『我が闘争』の書評で当時の若者や知識人に強い影響を与えていた小林秀雄のドストエフスキー論の問題点を明らかにしたいと考えました。

しかし、幕末だけでなく昭和初期に再び強い勢力を持つようになっていた平田篤胤の「復古神道」について理解が乏しかったために、その構想は先延ばししなければなりませんでした。

ようやく前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』で、明治の文学者たちの視点で差別や法制度の問題、「弱肉強食の思想」と「超人思想」などの危険性を描いていた『罪と罰』の現代性に迫りました。さらに、『罪と罰』の人物体系や内容を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書いただけでなく、『夜明け前』では平田篤胤没後の門人となって古代復帰を夢見た主人公の破滅にいたる過程を描いた島崎藤村の作品を分析することにより、明治政府の宗教政策や昭和初期の「復古神道」の問題をも考察することができました。

こうして、芥川龍之介の自殺と堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』との関連を論じることのできる地点までようやく来ましたので、次の著書『堀田善衞と小林秀雄――「若き日の詩人たちの肖像」を読み解く』(仮題)ではこの問題を正面から論じることにします。

そのためにも、徳富蘇峰の「教育改革」論の後で生じた事態を、芥川龍之介の自殺と堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』との関連をとおして考察した箇所を、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー 「祖国戦争」からクリミア戦争へ』から、「主な研究」に転載することにより確認することにします。(引用に際してはわかりやすいように、一部改訂を行いました。)

芥川龍之介の自殺と『若き日の詩人たちの肖像』――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章より

「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載

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原爆パイロットを主人公とした堀田善衞(1918―1998年)の二つの作品については、「狂気と文学」が特集された『世界文学』(127号)に寄稿した研究ノートで、ドストエフスキーの『白痴』や『罪と罰』との関連で予備的な考察をしました。

その研究ノート「狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって」を「主な研究」に転載します。

狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって

ただ、その際には堀田善衞と武田泰淳(1912年―1976年)の二つの『審判』との関係については言及できませんでしたので、それについては別稿で考察することにします。

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

 

 

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の成立と作家・椎名麟三との往復書簡

はじめに

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

今年5月に行われた「ドストエーフスキイの会」の例会では、「日本浪曼派」が強い影響力を持っていたこの時代の特徴を、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の1934年に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論との関連で明らかにしようとしました。そのためにこの長編小説の重層的な構造に焦点をあてて下記の流れで発表しました*1。

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ  /Ⅰ、「祝典的な時空」と「日本浪曼派」 /Ⅱ、『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法 / Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』/ Ⅳ、アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題 /Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー /Ⅵ、『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服 /終わりに・「オンブお化け」という用語と予言者ドストエフスキー

ただ、昭和初期の日本の特殊性に迫るために時間的な制約から『若き日の詩人たちの肖像』で描かれた人間関係などに絞って考察することになり、堀田善衞と「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡については、まったく触れることが出来ませんでした。

しかし、全集の解説で評論家の本多秋五は、「青春自伝長篇についてのノート」で、『若き日の詩人たちの肖像』について次のように記しています。「第三部に出て来るドストエフスキーの『白痴』に関するくだりや、第四部に出て来る平田篤胤の国学を論じるくだりなどでは、主人公の心境と作者の執筆時現在における思想とを距てる膜が溶解しているように思える。」

作者と同じ時代を生きた本多の言葉を読むと、たしかに長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、単なる昭和初期の回想ばかりではなく、1960年代の日本から見た昭和初期の日本の鋭い分析でもあることが分かります。

しかも、木下豊房氏は椎名麟三が「ドストエフスキーとの出会いとその影響を自ら『ドストエフスキー体験』と称して多くのエッセイで繰り返し語った」と書いています*2。それらのことに留意するならば、1953年に交わされていた往復書簡の意味は極めて重いと思われます*3。

ここでは4通からなる往復書簡と『若き日の詩人たちの肖像』とのかかわりを簡単に検証することにします。

椎名麟三(1953年5月、写真は「ウィキペディア」より)

 

1、椎名麟三の長編小説『邂逅』と堀田の『広場の孤独』

「現代をどう生きるか」と題されたこの往復書簡の第一信で、堀田善衞は、キリスト教の洗礼を受けた後で「自己清算の必要にせまられ、過去の自分と対決するために書かれた」椎名の長編小説『邂逅』についてこう評価をしていました。

「私は御作『邂逅』について、いちばん意義を感じるのは、それが方法的に各人物それぞれの独白の交叉による対話が実現されている点です」。さらに、堀田は「そしてこれら各人の純粋主観としての時間意識は、実は縦にも横にも歴史的な時間意織に浸透されている筈で、この両者の同時成立が、現代の人間のリアリティを保証しているものです」と続けています。

貧しい電気工夫の古里安志を主人公としたこの長編小説では、主人公の父親は工事現場で鉄骨にやられて片足切断に至る重傷を負い死にかけており、朝鮮戦争の緊迫した時期に、共産党員との疑いをかけられて会社を首になりかけた妹のけい子は絶望から自殺を試みるなど「彼等の生活全体が、こわれかかったバラックの感じだった」と評されるような絶望的な状況にあります。

しかし、隣を歩いていた実子に石段から突き落とされた安志は、「暗い星空」を見て、「ユーモアにあふれた神の微笑を感じ」て「思わず笑い出し」、「全くこの石段は危険だ」と感じるのです*4。

彼が実子に怒りをぶつけなかったのは妹・けい子の再就職の手助けをしてくれている実子も深い絶望を抱えていることを知っていたからであり、こうしてどんなに苦しい状況に追い込まれても「微笑」を浮かべながらそれに立ち向かっていく古里安志という人物像は、日本文学における独自な形象だと思えます。

椎名はこの作品に至るまでの歩みについて、「永い酒への耽溺と自己喪失の後に、ドストエフスキーの忠告を唯一の頼りとして、キリストへ自己を賭けた」と「私の文学」という文章で記しています。それはこの作品がドストエフスキーの創作方法、ことに彼が文学に目覚めた『悪霊』におけるキリーロフの描写とも深く関わっていたことを示しているでしょう*5。

往復書簡の第二信で椎名は、朝鮮戦争が勃発した緊迫した時期を背景に、「報道の自由」の問題をとおして新聞記者の主人公の孤独と決断を描き、芥川賞を受賞した『広場の孤独』(1951)に言及しながらこう記しています。

「僕の貴兄に対する共感と尊敬は、この主体的な問題から、この社会へのアンガジュ(引用者注:政治や社会活動に参加すること)を誠実に追及されているということなのです。『広場の孤独』から、広場へのアンガジュを確立されようとしておられることなのです。」 

2、「拷問」についての「不快な記憶」

さらに椎名は「拷問」についての自分の「不快な記憶」についてもこう記します。「あの拷問は、人間にとって許しがたい魔術をもっていました。この世界に於て何が正義であり、何が真実であるかという自分の事実が、しばられた後手を竹刀で強くこじ上げられることによって、簡単にとび超えさせられてしまうのです。」

一方、この手紙を受け取った堀田は、「お手紙を拝見して、私は少し身上話をする必要を感じました。それはあなたの仰言る『不快な記憶に』関することです」と返信で書いています。

『若き日の詩人たちの肖像』でも検挙されて激しい拷問にあった後に転向し、その後で警視庁に職をえていた従兄の話は重要なエピソードをなしていますが、この手紙では従兄の検挙と拷問、そして転向という出来事から受けた激しい衝撃がこう記されているのです。

「私は子供心に深く尊敬していただけに、この経緯にはどうしても納得出来ぬ、今様にいうならば不条理なものを感じ、子供は子供なりに苦しみました。心の硬い大人ならばこういう人を軽蔑することも出来ましょうが、子供の私にはそれは出来ませんでした。いまも私はその人、あるいはそういう人を軽蔑する気持はいささかもありません。」

さらに、自分とキリスト教や音楽、詩との関りについても堀田は具体的に次のように描いていたのです。

「右に述べました事件のあった後、私はキリスト教に凝り(といったらクリスチャンのあなたから叱られるかもしれませんが)、米人宣教師の家でー年ほど暮らしました。が、洗礼はうけませんでした。それから音楽に凝り、耳を悪くして音楽の方は諦め、詩を書き出しました。それが十八歳、あなたが全協で活躍しておいでだった年頃です。(……)十八歳(昭和十一年)で上京して、矢張り政治、あるいは社会的正義、そういうものを遮断した詩を書きつづけました」。

この記述は長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を理解する上でも重要ですが、注目したいのは堀田がここで、「私は私事はなるべくいわないという方針を持っているのですが、この場合仕方がありませんし、出来るだけ簡単にいいます」と記していたことです。

このように見て来るとき、作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡で自分の青春を振り返ったことが、自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を書く大きなきっかけにもなっていた可能性があると思われます。

 一方、この手紙を受け取った椎名麟三は第四信で、「第二の熱情のこもったお手紙を拝見して、現代に生きる困難さを考えずには居られませんでした」と書くとともに、第三信の末尾に記された次のような堀田の言葉に「深い意味を感じました」と記しています。

「私は物の考え方の全的なトータル転換の必要を痛感しているのです。複数のなかの個とか、一とかいう風に自己を分析的に認識するのではなく、複数のなかにありながら同時に複数の要素によって成立ち、しかもなおーとして統一され綜合されている自己、強いて言葉にしてみるなら、そういうようなことになる、そういう自己を見出し築き上げる必要を痛感するのです。」

 そして、「転向者である僕の名誉(!)にかけていいます。あのファッシズムに参加した転向者諸君は、『心で存在を止めた』方々ではなかったのです。彼等は単純にファッシストであったたにすぎないのです」と書いた椎名は、「だから貴兄の転向者に対する絶望は、ファッシズムに対する善意ある抵抗ではなかったのでしょうか」と解釈しているのです。

結語

最期の手紙の末尾近くで椎名は、「元気を出して下さい。貴兄はちゃんと立派な作品を書いておられるではありませんか。そのことによって、ちゃんと『広場』へ参加しておられるではありませんか」と六歳年下の堀田に熱いエールを送っていました。

それは作家としてだけではなくアジア・アフリカ作家会議や「ベトナムに平和を! 市民連合」などの運動にも関わるようになる堀田のその後の活動をも示唆しているでしょう*6。

 こうして、「日本のドストエフスキー」とも呼ばれた作家の椎名麟三との間で交わされた往復書簡は、堀田に「『白痴』のムィシキンとランボー」についての卒業論文を書いていた頃のことも思い出させて、『白夜』の冒頭の文章が題辞として用いているばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、さらに『悪霊』にも言及されている『若き日の詩人たちの肖像』を生み出すきっかけになったと思えます。

 

*1 「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」」(→ホームページ ドストエーフスキイの会、第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

*2 木下豊房「椎名麟三とドストエフスキー」『ドストエーフスキイ広場』(第12号、2003年)」(→ホームページ 「椎名麟三とドストエフスキー」(木下豊房ネット論集『ドストエフスキーの世界』)

*3 「現代をどう生きるか――椎名麟三氏との往復書簡」『堀田善衞全集』第14巻、筑摩書房、1975年、72~86頁。

*4 椎名麟三「邂逅」『椎名麟三全集』第4巻、冬樹社、1970年、240頁。

*5 「椎名麟三の『悪霊』理解の深さとその意義――西野常夫氏の論文を読んで」(→ホームページ「『悪霊』におけるキリーロフの形象をめぐって))

*6吉岡忍「堀田善衞が旅したアジア」参照。池澤夏樹他著『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社、2019年)所収。(→ホームページ「『若き日の詩人たちの肖像』の重要性――『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社)を読んで

堀田善衞を読む: 世界を知り抜くための羅針盤 (集英社新書)(書影はアマゾンより)

 

 

『悪霊』におけるキリーロフの形象をめぐって――太田香子氏の発表と西野常夫氏の論文

昨日、「ドストエーフスキイの会」の253回例会(報告者:太田香子氏)が行われました*1。司会者の熊谷のぶよし氏がメールで書いているように、「和室でやるのにちょうどいいぐらいの人数が集まって、充実した発表に対して、さまざまな意見が」出たよい例会でした。

実際、「『悪霊』の終盤で描かれているステパンの臨終の場面での彼の信仰告白の言葉」を「スタヴローギンの告白」とも比較しながら、人物の体系にも注意を払いながらテキストをきちんと読み込んだ発表は説得力に富むものでした。この発表については近く「傍聴記」が公表され、次号の『ドストエーフスキイ広場』には論文が掲載される予定です。

私にとってはキリーロフについての言及もたいへん興味深く、西野常夫氏の論文「椎名麟三『小さな種族』と『永遠なる序章』におけるキリーロフ的人物像」の記述を思い起こしました*2。なぜならば、今年の5月に堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』についての発表をしました*3。その時は言及する時間的な余裕はありませんでしたが、そこで描かれている唐突な感じのキリーロフ論も椎名麟三の作品と深く関わっていると思われるからです。

今回の発表とは直接的な関係が無いので触れませんでしたが、2012年7月21日に行われた合評会での配布資料では椎名麟三のキリーロフ論こユニークさに触れていました。帰宅して調べて見るとホームページにもこの合評会の配布資料を掲載していなかったことが分かりました。

合評会での簡単な感想ですが、堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』におけるドストエフスキー作品の重要性を理解する上でも重要な考察でしたので、以下にアップします。

*   *

椎名麟三の『悪霊』理解の深さとその意義――西野常夫氏の論文を読んで

はじめに

 私が論評することになったのは、九州大学の研究者・西野常夫氏の「椎名麟三『小さな種族』と『永遠なる序章』におけるキリーロフ的人物像」という題名の論文です。

 木下豊房氏は椎名麟三論で「日本のドストエフスキー」と呼ばれた椎名が、「ドストエフスキーとの出会いとその影響を自ら『ドストエフスキー体験』と称して多くのエッセイで繰り返し語った」と書いていました*4。

 しかも、椎名は日本での上演のためにカミュの脚本をかなり短くした台本を書いていますが、2009年に出版されたアンジェイ・ワイダの訳書『映画と祖国と人生と‥・』(久山宏一、西野常夫、渡辺克義訳、凱風社)では、ほぼ同じ時期に上演されたカミュの台本による『悪霊』の上演についての記述があります。

 これらのことを視野にいれることにより、椎名麟三の二つの作品を比較してキリーロフ的人物像の深まりを明らかにしようとしたこの論文の意味に迫りたいと思います。

1,『死の家の記録』から『悪霊』への視野

 西野氏は独立運動に参加したために逮捕されて「鞭打ち刑二千回とシベリアでの強制労働が科せられ、1949年10月にオムスクの監獄送り」となったトカジェフスキが『監獄の七年』においてドストエフスキーについて、「自由と進歩のために囚われ人となったこの男が、すべての民族はロシアの支配下にはいる時こそ幸福になるのだと自説を開陳するのを聞くのは辛いことであった。彼は、ウクライナ、…中略…リトアニア、ポーランドなどが被占領国であるとは決して認めず、これらの土地はすべてもともとロシアのものなのだと主張」したことや、「世界で真に偉大な民族はすばらしい使命をおびたロシア民族だけ」と強調したと書いていることを指摘している*5。ここでまず注目しておきたいのは、このような理念が『悪霊』においてピョートルの手段を批判したために殺されたシャートフを想起させることである。

 一方、今回の論文では、昭和16年に脱稿されたものの未発表だった短編「小さな種族」では、「須巻」という主人公がキリーロフを彷彿とさせる人物であることを指摘した西野氏は、椎名が「数え年二十八のとき」に『悪霊』を読んで、「小説なるものの真実の意味」を知ったと書いていることを確認している*6。

 一方、木下氏はこのときに椎名がどのような状況であったかにも言及している。すなわち、椎名は「牢獄の経験はわずか二年たらずにすぎない。だが、この二年たらずの間に、私は精神的な危機というものを体験したのである」と書き、さらに「わが心の自叙伝」では、その理由について「一言で言えば、私の精神的土台の崩壊を見たといっていいだろう。一つは拷問のときの自己の無意味感である。何度か引き出されて拷問されたとき、今度は死ぬだろうと感じたとき、ふいに自分の一切が無意味に感じられたのである」と書いているのである。

 この椎名の言葉は『死の家の記録』の「病院」の章に記されている「いつもカトリック教の聖書を読んでいた」、「やせて背丈の高い、おどろくほど端正で、威厳さえある顔だちをした、もう六十近い老人」についての次のような文章を思い起こさせる。すなわち、その老人は、「いかにも心が美しく正直そうな目をしていた」が、その後「彼が何かの事件に関連して取調べを受けているという噂」を聞いてから、二年ほど後に再び彼と会った時には、「狂人として」、「わめきちらし、高笑いしながら病室へ入って」きたのである*7。

 人神論を考案して自殺したキリーロフにも要塞監獄でのドストエフスキー自身の苦悩が深く反映していると思われるが、「小さな種族」や「永遠なる序章」などの作品における椎名麟三の主人公たちにも、そのような極限的な苦悩を経験した者の刻印が深く刻まれているといえよう。

二、「小さな種族」から「永遠なる序章」へ ――キリーロフ的人物像の深まり

 短編「小さな種族」の「表層的なストーリーの次元」では、「のろまでお人好しの24歳の青年」須巻と、元同僚でニヒリストの来島、そして下宿屋の女主人で「整った美人型」の未亡人・三保子との三角関係が描かれているが、この短編では須巻と三保子との間で次のような会話が描かれている*8。

 「須巻はひどく度を失つて吃りながら云つた。『僕は、僕はただ、稲の葉の上を風が渡つて行きますね、ざわざわ揺れて日の匂さえしますね。いゝと思つたのです』/ 『それはどういふ意味なの?』三保子はいらだゝしげに呟いた。

 『それだけなんです、意味なんかないのです』」。

 この会話に注目した西野氏は、『悪霊』でもキリーロフとスタヴローギンとの会話が次のように描かれていることを指摘して、「小さな種族」の須巻は「キリーロフの世界観を念頭に置いて形成されたと考えて間違い無いであろう」と書いている。

 「『ぼくは十ばかりの頃、冬わざと耳をふさいで、葉脈の青々とくっきりとした木の葉を想像してみた。陽がきらきら照っているんです。それから目をあけて見たとき、なんだか本当にならないようでした。だって実にいいんですものね(後略)』

 『それはなんです、比喩ででもあるんですか?』

 『い……いや、なぜ? 比喩なんか。…中略…木の葉はいいもんです。何もかもいいです』」。

 一方、昭和23年に書かれた「永遠なる序章」では、「死への志向とニヒリズムを共有する点で、精神的同類であった」、「日本のスタヴローギン」ともいえる医者の銀次郎と、「余命いくばくもない」患者の安太との生き方を描いている。

 ここで主人公の安太は「生の喜びを知った後に、ほどなくして死んでしまう」が、西野氏は、「『五秒間に一つの生を生きるのだ。そのためには、一生を投げ出しても惜しくない。それだけの価値があるんだからね!』とキリーロフが言ったように、生の喜びを発見した安太は『明日は確実に自分にとって虚無であるにかかわらず、明日への激情』を体に感じ」たと描かれていることを確認している*9。

 それゆえ、西野氏は「安太にとって、ニヒリスト銀次郎の超克と生の賛美への到達が連動しているという構造は、『小さな人種』には欠けていた人物間の有機的関係を補充したものだと考えることができるのである」と結んでいる。

 この意味で注目したいのは、木下氏が「椎名によるドストエフスキー受容の最深地点」として、キリーロフがスタヴローギンに向かって、「すべてがよい」といい、後者が「少女を凌辱してもいいのか」と問い詰めると、キリーロフは「もちろんそうしてもいい。人間はすべていいからだ。しかしもし、それを悟ったら、娘っ子を辱めたりしないだろう」というくだりを挙げていることである。

 そして、椎名が「すべてはいい」ということと、「そうしないだろう」ということの間にある「矛盾」に椎名はある種の啓示を受けていることを指摘した木下氏は、「ここを読むたびに感動し、この矛盾した言葉の背後から、何かしら新鮮な自由をかんじさせる光が感じられてくるのであった」という椎名の言葉を紹介している。そして、その自由の光が「この矛盾の両項を成立させているイエス・キリストからやってきたものだ」と分かったと続けていることを紹介して、ここに「人間の全的な自由の宣言」とともに、そこから「個人的な自由として道徳を守る」という理想を、椎名は読みとっていると指摘している。

 たしかに、このような椎名の『悪霊』理解には、「白い手」の甘やかされた貴族の息子スタヴローギンのみを主人公として読み解くような昨今の読みを超える深さが感じられる。

 現在では言及されることの少ない二つの作品を比較することで椎名のキリーロフ理解の深まりを明らかにした西野氏の論文は一見地味だが、そこには明らかにワイダの映画『悪霊』も視野に入っており、『悪霊』論の本質的な意義にも迫っていると思える。

 

*1 太田香子「ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』」、高橋誠一郎ホームページ、http://www.stakaha.com/?p=8777 参照。

*2 西野常夫「椎名麟三『小さな種族』と『永遠なる序章』におけるキリーロフ的人物像」『ドストエーフスキイ広場』(第21号、2012年)。

*3 高橋誠一郎「堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」高橋誠一郎ホームページ、http://www.stakaha.com/?p=8513、参照。

*4 木下豊房「椎名麟三とドストエフスキー」『ドストエーフスキイ広場』(第12号、2003年)→「椎名麟三とドストエフスキー」(木下豊房ネット論集『ドストエフスキーの世界』)

*5 西野常夫「トカジェフスキの見たドストエフスキイ・『死の家』における二人の革命家の出会い」『ドストエーフスキイ広場』(第9号、2000年)

*6 椎名麟三「ドストエフスキーと私」『全集』冬樹社、第16巻、10頁。

*7 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、120頁。

*8 椎名麟三『全集』冬樹社、第22巻、356~7頁。

*9 椎名麟三『全集』冬樹社、第1巻、425頁。

  (掲載に際しては一部改訂し、本文中の説明は注に移動した)

 

「ラピュタ」5、ムスカ大佐の人気と古代の理想化――『日本浪曼派』の流行と「超人の思想」

「天空の城ラピュタ ムスカ 画像」の画像検索結果

(ムスカの画像は、cinema.ne.jp より)

 1,ムスカ大佐の人気と『日本浪曼派』の流行

『天空の城ラピュタ』(1986)を久しぶりに見て懐かしかったのは、『風の谷のナウシカ』(1984)でも重要な役を担っていたキツネリスも出て来ており、ロボットとの交流も描かれていたことです。

 ここにでてくるロボットは『風の谷のナウシカ』の「巨神兵」とは異なり、花を愛で愛嬌もあるのですが、闘う際には性格は一変して空を飛び敵とみなした者をすさまじい殺傷力で撃滅するのです。こうして、宮崎監督の映画では『風の谷のナウシカ』から『天空の城ラピュタ』まで科学技術の過信や「最終兵器」が世界を滅ぼすというテーマは一貫して描かれているといえるでしょう。

すなわち、シータに「ラピュタはかつて、恐るべき科学力で天空にあり、全地上を支配した、恐怖の帝国だったのだ!!」と説明したムスカ大佐は、「そんなものがまだ空中をさまよっているとしたら、平和にとってどれだけ危険なことか、君にも分かるだろう」とシータをだまして飛行石を手に入れたのです。

しかし、飛行石を手に入れて「恐怖の帝国」の内部に入ったムスカは、本性をあらわして将軍に「言葉をつつしみたまえ。君はラピュタ王の前にいるのだ」と語り、兵士たちを無慈悲に地上に落下させて喜んだばかりでなく、自らが手にした破壊兵器の威力を見せつけるために地上に住む人々に向けて原水爆のような威力を持つラピュタの「いかずち」を地上に向けて発射したのです。

 このように見てくるとき、ムスカは自分を「超人(非凡人)」と見なすヒトラーのような嘘つきで非情な独裁者として描かれていることが分かります。それにもかかわらず、なぜかツイッターでは「ムスカ大佐が(キャラ的に)結構好き」というようなつぶやきがみられるのです。

それがとても不思議だったのですが、ムスカが「地上に降りたときに二つに分かれた」古いラピュタ「王家」の末裔であることや彼の権力に惹かれるのかも知れません。第2回の考察では「風の谷」に侵攻した大国の皇女が自分たちに従えば「王道楽土」を約束すると語っていることに注目して、『風の谷のナウシカ』に秘められた「満州国」のテーマを指摘しました。

 昭和初期に日本が「日独防共協定」を結んだドイツでは、浪漫的な古代ゲルマンの神話に題材をとったワーグナーの歌劇が人気を博していましたが、「八紘一宇」などのスローガンで「満州国」が建国された当時の日本でも『日本浪曼派』が流行り、古代が理想視されて、出陣学徒壮行会では「大君のために死ぬこと」の素晴らしさを謳った武将・大伴家持の「海行かば」を詞とした曲が斉唱されたていたのです。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

 しかも、ヒトラーは『我が闘争』で自分を「非凡人」として強調しただけでなく、ドイツ民族の優秀性も強調していましたが、「満州国建国前後の、挫折・失望・頽廃(たいはい)の状況」の「デスパレートな心情」から、日本文化を絶対視して「昭和維新」を目指すような青年将校も生まれていました。

 作家の司馬遼太郎は幕末の「尊王攘夷」的な性格が強く残っていた当時の「昭和維新」を厳しく批判していました。しかし、「維新」という言葉が用いられている政党が人気を呼ぶなど現在の日本の雰囲気は「満州事変」の頃と似てきており、そのことがムスカの人気の遠因となっているのかもしれません。

2,『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』における「超人(非凡人)」のテーマ

 ところで、私が宮崎駿監督のアニメ映画に強い関心を持つようになったのは、『風の谷のナウシカ』を観てからですが、「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときには、『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じました。

 しかも、『罪と罰』のラスコーリニコフは「高利貸しの老婆」の殺害を考えていた際には、彼が子供の頃に体験した「やせ馬が 殺される夢」を見たのですが、ナウシカも自分が子供の頃に体験したと思われる「王蟲の子供が殺される夢」を見ているのです。

 この二つの夢の類似は偶然だろうかとも思いましたが、「ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みました」と宮崎監督が『本へのとびら』(岩波新書)で書いていることに注目するならば全くの偶然というわけではなさそうです。ドストエフスキー研究者の視点から見ると、『天空の城ラピュタ』にも『罪と罰』のテーマは秘められており、「超人(非凡人)」の危険性の問題がより深められていると思えます。

 その頃の日本では思想家ニーチェなどの影響もあり、「超人(非凡人)」や「英雄」の思想が流行っていました。『文学界』で行われた「日本浪曼派」の作家・林房雄などとの鼎談「英雄を語る」で評論家の小林秀雄も、ヒトラーを「小英雄」と呼びながら「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです。

そのような見方は、「超人主義の破滅」や「キリスト教的愛への復帰」などの当時の一般的なラスコーリニコフ解釈では『罪と罰』には「謎」が残るとした小林秀雄の『罪と罰』論にも強く反映しています。ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の問題点や危険性を深く認識する上でも重要な司法取締官のポルフィーリイとの三回にわたる激しい論争の考察を省くことで小林は、殺人を犯しながらも「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたのです。 

 一方、小林の『罪と罰』論の誤りを分かりやすい絵と言葉で明確に指摘したのが、1953年に出版された手塚治虫のマンガ『罪と罰』でした。子供向けに書かれているために、このマンガ『罪と罰』では中年の地主スヴィドリガイロフは単純化されていますが、司法取締官ポルフィーリイの指摘をとおして、「非凡人の理論」の危険性がよく示されています。

そして、よく知られているように宮崎駿は手塚治虫のアニメには批判的だったものの、そのマンガには深い敬愛の念を持っていたので、『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐の形象には「超人(非凡人)の思想」の問題が反映されていると思われます。

 

「ラピュタ」(4,追加版)、「満州国」のテーマの深化――『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』へ

「映画 風立ちぬ 画像」の画像検索結果

(画像はoricon.co.jp  より)

はじめに

この考察の第2回で『風の谷のナウシカ』(1984)には「満州国」のテーマも秘められていましたと記しました。ただ、「王道楽土」という用語から「満州国」のテーマが秘められていると記して先に進むのは少し強引すぎたようです。

それゆえ、『天空の城ラピュタ』からは離れることになりますが、「満州国」のテーマを浮かび上がらせるために、今回は『風の谷のナウシカ』と映画『風立ちぬ』との深い関りを記すことにします。分量が意外と多くなりましたので独立させて(3)の後に置いて(4、追加版)としました。

   *   *   *

 作家・堀辰雄の小説『風立ちぬ』を骨格の一つとする映画『風立ちぬ』を公開した宮崎駿監督は、この映画の後で公開された映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造」と厳しく批判していました。

 https://twitter.com/stakaha5/status/1117103001485758464

拙著『ゴジラの哀しみ』の第2部で詳しく分析したように、作家・司馬遼太郎の高級官僚批判をほとんど抜き出したような記述もあるこの映画の原作では、主人公の「僕」に「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」などと語らせることで、反戦小説と誤読されています。

 しかし、長編小説『永遠の0』は反戦を装いつつも、多くの県民を犠牲にした「沖縄戦」を正当化しつつ、「皇紀2600年」を記念して零戦と名づけられた戦闘機を讃えることにより、その結末では「特攻」を讃美していたのです。

 一方、映画『紅の豚』や『風の谷のナウシカ』では、空中戦の空(むな)しさを示唆するような映像も示されていましたが、地上の戦いはいっそう悲惨で、230万ほどの戦死者のうちの6~8割が『餓死』をしており、華々しい戦いで亡くなる「英霊」とは敬われないような戦いを強いられていたのです(藤原彰『餓死した英霊たち』)。

 作家の堀田善衞が自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で描いたのは、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した若者を主人公として、彼が「赤紙」で召集されるまでの、戦争への批判も許されない重苦しい「満州国」建国後の時代でした。

その堀田善衞について宮崎監督は、「堀田さんは海原に屹立している巌のような方だった。潮に流されて自分の位置が判らなくなった時、ぼくは何度も堀田さんにたすけられた」と書いています(『時代と人間』)。

時代と人間

映画『風立ちぬ』では作家・堀辰雄の小説だけでなく零戦の設計者・堀越二郎の伝記をも踏まえていたために厳しい批判も浴びましたが、宮崎監督はこの映画について、「少年時代の堀越二郎の夢に出て来る草原は、空想の世界の草原です。でも、終わりの草原は現実で、『あれはノモンハンのホロンバイル草原だよ』」とスタッフに語り、戦争の悲惨さにも注意を促していました。

 しかも、宮崎が深く敬愛していた作家の司馬遼太郎は劇作家・井上ひさし氏との対談で「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と語り、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」で、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と語り、戦闘に参戦した須見・連隊長の次のような証言をも記しています。

すなわち、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよ」と命じられたことを伝えた須見新一郎元大佐は、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と厳しく批判したのです(『国家・宗教・日本人』)。

 「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いています(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は『坂の上の雲』での考察を踏まえて、「昭和初期」の日本の病理を分析する大作となることが予想されたのですが、この長編小説の取材のためもあり行った元大本営参謀の瀬島龍三との対談が、『文藝春秋』の正月号(1974年)に掲載されたことが、構想を破綻させることになりました。この対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えたのです(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

司馬氏に対する須見元連隊長のこのように激しい怒りは理解しにくいかもしれませんが、シベリアに抑留された後で、戦後に商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになった瀬島は、1995年には「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」顧問の役職に就いているのです。

 一方、「ノモンハンの時の辻らの高級参謀への鋭い批判が記されている『永遠の0(ゼロ)』では、元大本営参謀・瀬島龍三批判は記されていないどころか、彼をモデルとして元海軍中尉で「一部上場企業の社長まで務めた」武田貴則という登場人物を構想し、その彼に新聞記者の戦争観を激しく批判させている可能性が高いのです。

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少し、長くなりましたので映画『風立ちぬ』については後でもう少し詳しくみることにして、(2)の「宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化(隠された「満州国」のテーマ)」に戻って、橋川が保田與重郎とともに「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」と記している評論家・小林秀雄の戦争観を確認して頂ければと思います。

 小林秀雄の『罪と罰』解釈を確認することにより、小林の「超人(非凡人)」観を厳しく批判していた手塚治虫のマンガ『罪と罰』とその考察を踏まえて創られていると思える宮崎アニメの意義をより深く理解できることになると思えます。

 

『若き日の詩人たちの肖像』におけるナチズムの考察Ⅰ

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

はじめに――堀田善衞と小林秀雄のヒトラー観と堀田善衞

小林秀雄の短い書評「ヒットラアの『我が闘争』」が朝日新聞に掲載されたのは1940年9月12日のことであったが、それから間もない9月27日には日独伊三国同盟が締結された。

小林秀雄は後に雑誌『文藝春秋』(1960年5月号)に掲載した「ヒットラーと悪魔」でこの記事についてこう書いている。

「ヒットラーの『マイン・カンプ』が紹介されたのはもう二十年も前だ。私は強い印象を受けて、早速短評を書いた事がある。今でも、その時言いたかった言葉は覚えている。」

しかし、掲載された書評と小林秀雄の記憶とを比較すると、かなり大きな違いがあることがわかる。それについてはすでに別稿で記した。

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

 この問題について堀田善衛はなにも記していないようだが、重苦しい昭和初期の日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出している『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)では、何度もナチスの宣伝相ゲッベルスの演説などについて何度も言及されている。

ことにこの長編小説の終わり近くで作者はは登場人物に、「神仏習合って言うけど、古神道がキリスト教と習合し、いまどきの論文書きどもは、国学とナチズムの習合なんかをやってんだから話しにもなんにもなりゃせんよ」と厳しく「国学とナチズムの習合」を批判させているのである。

以下、本稿では『若き日の詩人たちの肖像』の記述をとおして、小林秀雄のヒトラー観に対する堀田善衛の批判を検証する。

 

1、『若き日の詩人たちの肖像』の構造とナチズムの考察

この長編小説の主人公は、大学受験のために上京した翌日に日本文化を重んじて物質より精神を重視する皇道派の影響を受けた陸軍青年将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンにしたに遭遇する。

この長編小説で注目したいのは、2.26事件だけでなく幕末から明治初期と同じように「昭和維新、尊皇斬奸」が叫ばれるようになっていたこの時期の雰囲気が詳しく描かれていることである。

たとえば、この事件の前年に起きた統制派の中心人物・永田鉄山陸軍省軍務局長が殺害された相沢事件や、1934(昭和9)年に『ファッシズム批判』を出版していた河合栄治郎・東京帝国大学教授の「二・二六事件の批判」(帝国大学新聞)や軍国主義と「国体明徴」運動を批判して伏字ばかりの文章となっていた『中央公論』の巻頭論文も詳しく紹介されている。

こうして、第一部の終わり近くでは主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」が起きる。ラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公は、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出るのである。

その後で作者は、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見た若者が、「星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、題辞でも引用していた『白夜』の冒頭の文章「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた(後略)」を引用して、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している。

『白夜』を発表したドストエフスキーがこの後でペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受けた後でシベリアに送られていたことや、それまで主人公を「少年」と記していた作者がここで「若者」と呼び変えている。こうして、ゲッベルスの演説から「異様な衝撃」を受けた若者は、それまで学んでいたドイツ語を捨てて新たにフランス語の勉強を始めて、昭和15年秋に法学部政治学科から仏文科に転科することになる。

しかも、そこでは仏文科の先輩である白柳君との会話をとおして、日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」ことをが、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことも記されている。

実は1933年1月にナチスが政権を握った後では「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われ、『人権宣言論』などを書いていたユダヤ人の公法学者イェリネックの本も焚書の対象とされた。「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられた美濃部達吉は、その『人権宣言論』を1906年に訳出しており、一方、ゲッベルスは焚書に際して扇動的な演説をしていた。

(ナチス・ドイツの焚書)

 一方、日本は2・26事件が起きた1936年の11月に日独防共協定が結び、主人公が「赤紙」で召集された1940年の9月には日独伊三国同盟を結ぶことになるのである。

 

『日本国紀』と小林秀雄の歴史観――徳富蘇峰の「物語」の手法と「司馬史観」論争

日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

 白蟻は穴の前に硫化銅塊を置かれても「先頭から順次に其中に飛び込み」、「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」(『大正の青年と帝国の前途』)。

   *   *   *

【日本国紀と小林秀雄の歴史観】という題で、昨日からツイッターに連続投稿しました。

 ノンフィクションを謳った小説『殉愛』を書いた作家の『日本国紀』を正面から論じるつもりはまったくないので、このような題名の付け方には問題があるかもしれません。

 ただ、小説『永遠の〇(ゼロ)』で朝日新聞を攻撃の根拠とされていた言論人・徳富蘇峰の歴史観を文芸評論家の小林秀雄も雑誌『文學界』に掲載された作家・林房雄との対談で賞賛していました。

 この時期の小林秀雄の歴史観は1960年に書かれた小林秀雄の「ヒットラーと悪魔」にも受け継がれていると思えます。それゆえ、今回は1996年のいわゆる「司馬史観」論争にも言及しながら、1940年に『文學界』に掲載された「対談 歴史について」の内容を詳しく考察することにします。

 *   *

 太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄が、翌月の『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」とよんでいました。しかも、その後で小林は「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです。

→小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

 この鼎談の翌月に行われた対談の冒頭で、「『英堆を語る』座談会に就いて、こういう大言壮語は実に困る、愚の愚なるもの」であると言った批評家の言葉を紹介して、「僕は非常に面白かった」と語った林は、その理由をこう説明しています。

「現代日本文畢の基調をなしてゐる一つの常識を見せられたような気がしてね。良識といふ意味の常識ではなく、低級で通俗な意味の常識さ。」

 この言葉を受けて小林秀雄が「そうかね、読まなかつたが、君の言う意味も解る」と答えると、林は先の鼎談での小林の英雄観を受け継ぐように、「(そのような常識は)、僕などが考えている、歴史は英雄の営みである、人間の英雄的行為の綜合のみが人生である――という考へ方と全然反対の『常識』なんだ、この常識は現代日本文学を案外根強く支配しゐる(ママ)。」と続けていました。

 興味深いのは、この後で「君は歴史教育について意見を持っているらしいね。」と林が問うと、小林がこう答えていたことです。

「意見は簡単なのだ、日本の歴史教育で、もっと文学化した歴史を教えよと言ったのだ。歴史というものは文学なんだからね。歴史というものは文学なんだからね。」

 実はこのような「意見」は、徳富蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調した坂本多加雄・「新しい歴史教科書を作る会」理事の見解にも強く響いています。

 そして、作家の司馬遼太郎が亡くなった一九九六年に発行した『汚辱の近現代史』で教育学者の藤岡信勝は、長編小説『坂の上の雲』では「日本人が素朴に国を信じた時代があったこと、健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」明治の人々の姿が描かれているとし、自分たちの歴史認識は「司馬史観」と多くの点で重なると誇っていました。

しかし、『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していた司馬遼太郎は、『坂の上の雲』を書き終えたあとでは「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いて、日露戦争の美化を厳しく批判していたのです。

 残念ながら、いわゆる「司馬史観」論争の際に歴史学者の人々が右派の設定した土俵で論争し司馬の批判に終始したために、一般の読者には押しまくられているように映ったようです。

 この論争に強い危機感を抱いた私は、この頃から司馬遼太郎の作品を研究の対象として、日露の近代化の比較という視点で考察し、2002年に出版した『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画)では、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『沖縄・先島への道』、『菜の花の沖』などの作品を読み解くことで、「公地公民」制の実態や「義勇奉公」の理念の危険性を明らかにした「司馬史観」の深まりを明らかにしました。

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しかし、その後の流れから判断すると、「神国思想」のきびしい批判者としての司馬遼太郎を全面に出して論じるべきであったと感じています。その意味でも安倍首相などの政治家や「つくる会」や「日本会議」の論客などの支援を受けながら、「『物語』の構造」を利用しつつ、戦前の価値観を若者に説いている『永遠の0(ゼロ)』の作者の手法は厳しく批判されるべきだと考えています。

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*   *

 少し、話題が逸れましたので、本題に戻りましょう。

 この後で歴史教育の問題を取り上げた林に対して、小林は「国体史観というものは、覚え込ませるのではない、感得させるものだ。だから感得させる様に歴史を教えねばならない。それには、歴史に教えるべき重点を置き、例えば建武の中興とか明治維新とかいう処をくわしく教えるのだ」と語り、さらにこう続けていました。

 「不確実な美談であっても心を唆(そそ)らぬ正確な史実といふ様なものより勝る事万々だ。心を唆られるという処に、歴史のほんとうのセンスが生れるのだ。だから、僕に言わせると、初等の歴史教育では、歴史なぞ教える必要はない、歴史に対するする正しいセンス、正しい情操を教えよ、と言うのだ。それが出来ないから、歴史についていかに精しくなってもおかしな事になるだけなのだ。」(太字は引用者)

 実は、私が「『日本国紀』と小林秀雄の歴史観」という題名で小論を書こうと思ったきっかけは、太字で記した小林の発言にありました。ノンフィクションを謳った小説『殉愛』の作者が『日本国紀』でその間違いなどをいかに批判されても平気なのは、「評論の神様」のお墨付きがあると考えているからでしょう。

 つまり、「教祖」ともいえる小林秀雄の歴史観をきちんと批判しえた時に、『日本国紀』史観に対する批判が作者に対しても効力を持つようになると思えるのです。

 さて、小林の言葉を聞いて、「君が日本勤王史こそ真の歴史であると言い出したのが大変面白いと思ったのだ。」と語り、「僕は君のような深い考えで言ったワケではない。併し、君の言う事は正しいのだ。」という小林の返事を聞くと、『日本浪曼派』の同人でもあった林は次のようにとうとうと自分の「勤王文学史」を語ります。堀田善衞が『若き日の詩人たちの肖像』で描いた当時の文学を知る上で重要なので、少し長くなりますが、引用しておきます。

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

学徒出陣

出陣学徒壮行会(1943年10月21日、出典は「ウィキペディア」)

 「古事記は単なる古典ではない。当時の混乱を正す勤王書、即ち革命の書だった。万葉集もまた人麿や防人の歌に見るが如く勤王の書だった。それから神皇正統記、太平記、大日本史、日本外史、賀茂眞淵、本居宣長、僧契沖、平田文子など国学者の書、藤田東湖を始めとする水戸派の書そういう人達のものが全部革命の書だ。日本では革命の書は復古の書で勤王の書なんだ。ここに日本の本当の文学伝統がある。真の日本文学史は勤王文学史だという新しい常識を我々は打ちたてなければならぬ。

 明治の文筆者及び現代の文学者は他の所に日本の文学伝統を求めている。枕草子、源氏物語、方丈記、徒然草、謡曲、徳川期に於いては近松巣林子(引用者注:門左衛門のこと)西鶴、春水、馬琴、三馬、一九、そういうものを日本文学の伝統であると教えられた。これが大きな間違いだ。この伝統を押して行けば、西洋流の市民文学となり、市井文学となり、やがては階級文学となるのが当然で、真の国民文学はこの伝統の流れからは発見もされず創成もされない。考えてみると、西鶴が発見されたのは明治二十年前後だ。日本に新しい町人文化が再台頭しはじめたころに再発見されて、それがその後フランス自然主義という理論が日本に輸入され、この自然主義の尺度に一番よく当てはまっているのが、西鶴の市井小説で、西鶴こそ真の日本文学である。日本文学の正統はここにあるということになってしまった。」(太字は引用者)

  *   *

 このような林の言葉に小林秀雄も「右翼というものの存在をインテリゲンチヤはもっと真面目に考えなければいけないと僕は思うのだ。(……)インテリゲンチヤは右翼を旧文明の残滓だと思っているのだよ。」と語りかけると、「日本の歴史を動かしているのは右翼なんだよ、実は――。」と応じた林は、話題を転じて小林に「君には西鶴は面白いかね。」と問いかけ、「今は詰まらないね。」という答えを得ています。

 そして、「今僕は、歴史による知性の再教育というようなことを考えているのだ。」という林に対して「賛成だ。僕は今面白い仕事はそれだけだと思っているくらいだ。」と応じた小林は、「つくる会」の論客と同じように蘇峰の歴史をこう高く評価しているのです。

 「徳富蘇峰なんか皆悪口を言うが、僕はあの人の歴史を認めている。悪口を言うが、実際に読んでやしないのだよ。あれを読むのだってずい分骨は折れるからね。史観が出鱈目というけれども、あの人の歴史は観方が一番借りもののところがない。」

 そして林房雄もこう応じていたのです。「蘇峰は出発はハイカラだが、非常に日本的な歴史家なんだ。一昨日、読者から手紙が来て、歴史を理解するためにはどの歴史書を読んだらいいんだろうという。僕は徳富蘇峰を推薦した。いつか君も蘇峰をほめていた。」

(2019年5月28日、加筆)

「他人をほめる技術」と「けなす技術」――小林秀雄の芥川龍之介・批判とアランの翻訳などをめぐって

「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。」「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい。」

(小林秀雄、「文学の伝統性と近代性」、昭和11年)(写真は二・二六事件)

「批評の神様」とも称される文芸評論家の小林秀雄(一九〇二~八三)は「国民文化研究会」の主宰者で、後に「日本会議」の代表者の一人にもなる小田村寅二郎の招きに応じて昭和36年から昭和53年にわたり5回の講演を九州で行っていました。

その際に行われた学生との対話を収録した『学生との対話』(新潮社、2014年)の「解説」を書いた編集者の池田雅延は、「永年、批評文を書いてきて、小林秀雄が到達した境地は、『批評とは他人をほめる技術である』でした」と記し、それは「小林秀雄が早くからめざしていたことの当然の帰結といってよいものでしたと続けています(「問うことと答えること」、194頁)。

 

実際、小林秀雄は一九六四年に発表した「批評」というエッセイで次のように記していました。

「自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものではない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評は人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。」

たしかに「人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ……」と指摘しているこの文章を読むと一見、そうかとも納得させられるようになります。

しかし、この文章に強い違和感を覚えるのは、評論「現代文学の不安」でドストエフスキーについて、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記した小林が、その一方で芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と激しくけなしていたからです。

そして、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた」と規定した小林は、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と続けていました。

このエッセイが書かれたのは日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内でも京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ一九三二(昭和七)年のことでした。そのことに留意するならば、2・26事件が起きた昭和11年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセイで中野重治などを批判しつつ、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書くとともに、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」と記すようになる小林が、芥川を批判することで早くも時勢に順応しようとしていたことが感じられます。(写真は二・二六事件)

(「ウィキペディア」より)

 しかも、それは芥川龍之介に対してのみのことではありませんでした。1934年9月から翌年の10月まで連載した「『白痴』について1」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」と強調した小林は、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」。

さらに、1937年に発表した「『悪霊』について」では「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と断言していました。

こうして、読者を「注意深い読者」と普通の読者、「不注意な読者」の三種類に分類して、自分の読み方に従う読者を「仔細に読んだ人」と称賛する一方で、自分の読み方とは異なる読み方をする者を「不注意な読者」と「けなして」いたのです。

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*  *

このような傾向は『学生との対話』にも現れています。「僕たちは宿命として、日本人に生まれてきたのです。(……)日本人は日本人の伝統というものの中に入って物を考え、行いをしないと、本当のことはできやしない、と宣長さんは考えた。」と語った小林は、「考古学」に基礎を置いた歴史観をこう「けなして」いました(太字は引用者、95頁)。

「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ。」(「信ずることと考えること」、127頁)。

一方、小林秀雄の「宿命論」的な考えを批判するような思想を述べていたのがフランスの哲学者アランでした。「……人が宿命論を信ずれば、それだけで宿命は本物になってしまう。(……)いっそう明白なことは、民衆の全体が戦争が不可避だと信じれば、現実にそれはもう避けがたい。あまり人がしばしば通った道ではないが、辿る(たど)るのにそうむずかしくはない道がある。それは戦争を避けることが出来るということが真実になるためには、まず戦争が避け得ると信ずる必要があるという結論に到達するための道筋である。」

このことを堀田善衞は『若き日の詩人たちの肖像』のアランの翻訳をめぐる議論でこう指摘しています。「これね、翻訳あるんだけど、その翻訳ね、翻訳じゃないんだ、検閲のことを考えて、一章ごっそりないところや、削ったところなんか沢山あって、あれ翻訳じゃないんだけど、小林秀雄さんがあの翻訳のこととりあげて、良い本だ、っていうらしいことを書いていたの、あれいかんと思うんだけど……」

そして、こう続けられているのです。「その翻訳だと、戦争も生活の一つだ、地道に立向かって行け、ってことになるんだ、逆なんだ、本当は小林さんはこの原書を読んでないってことはないと思うんだけど」。

この言葉は宿命論的な考えに対する批判を省いてアランの戦争論を理解していた小林秀雄に対する鋭い批判となっているでしょう。

(2019年5月28日、加筆)

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

「赤紙」で召集されるまでの時期に書き始められたのが「西行」だったのですが、この頃の自分の考えを堀田は『方丈記私記』の(一)でこう記しています。

「その頃、日本中世の文学、殊に平安末期から鎌倉初期にかけての、わが国の乱世中での代表的な一大乱世、落書に言う、『自由狼籍世界也』という乱世に、たとえば藤原定家、あるいは新古今集に代表されるような、マラルメほどにも、あるいはマラルメなどと並んで(と若い私は思っていた)、抽象的な美の世界に凝集したものを、この自由狼籍世界の上に、『春の夜の夢の浮橋』のようにして架構し架橋しえた文明、文化の在り方に、深甚な興味を私はもっていた。」

その一方で「鴨長明氏、あるいは方丈記や、発心集などの長明氏の著作物や、その和歌などには、実はあまり気をひかれるということがなかった」堀田は、「三月十日の大空襲を期とし、また機ともして、方丈記を読みかえしてみて、私はそれが心に深く突き刺さって来ることをいたく感じた」のです。

「しかもそれは、一途な感動ということではなくて、私に、解決しがたい、度合いきびしい困惑、あるいは迷惑の感をもたらしたことに、私は困惑をしつづけて来たものであった。」

そして、十万人以上の死者を出した空襲のあとで十八日に焼け野原になった地域を訪れた作者は、その廃墟で多くの人々が「土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ないことでございます」と小声で呟く、「奇怪な儀式のようなもの」を見るのです。 

その光景に衝撃を受けて、「信じられない、/信じられない」と呟きながら焼け跡を歩いた作者は、こう考えるようになります。

「しかしこういうことになるについては、日本の長きにわたる思想的な蓄積のなかに、生ではなくて、死が人間の中軸に居据るような具合にさせて来たものがある筈である」(三)。

こうして、「三月十日の東京大空襲から、同月二十四日の上海への出発までの短い期間」、「ほとんど集中的に方丈記を読んですごした」作者は、「『方丈記』が精確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマチィックなまでに卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものであることに、思い当たった」のです(一)。

そして、「現場というものには、如何なる文献や理論によっても推しがたく、また、さればこそ全的には把握しがたい人間の生まな全体」があり、鴨長明は「何かが起ると、その現場へ出掛けて行って自分でたしかめたいという、いわば一種の実証精神によって」動かされた人物と規定しているのです (四)。

『若き日の詩人たちの肖像』は三月十日の大空襲の前で終わっているのですが、それでもその変化の一端は「平安末期の、あの怖ろしいほどの乱世にぶつかった鴨長明なども、どうにも仏教という母なる観念だけでは律しきれぬ『事実の世紀』にぶつかっていた、ということになりはせぬか」と若者が考えるようになったことが記されています。

『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」

そして、その頃に流行していた国学者の「平田篤胤でこりていたので、イデオロギーの側から日本を求めることはやめにした」主人公は、「日本が、いちばん猛烈な目に逢っていたと男に思われる平安末期から鎌倉初期にかけての時代にたちもどって丹念に調べてみることに専念し出した」のです。

 その後で「羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。/ 世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」という『方丈記』の有名な文章を引用した作者は、『若き日の詩人たちの肖像』でも「『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった」と記しているのです。

この長編小説の終わり近くでは「赤紙」と呼ばれる「臨時召集令状」の文面を読んだ主人公が、「生命までをよこせというなら、それ相応の礼を尽くすべきものであろう」と思ったと記されており、こう続けられています。

写真の出典は奈良県立図書情報館。

「これでもって天皇陛下万歳で死ねというわけか。それは眺めていて背筋が寒くなるほどの無礼なものであった。尊厳なる日本国家、万世一系の国体などといっても、その実体は礼儀も知らねば気品もない、さびしいような情けないようなものであるらしかった。」

第一部の題辞で『白夜』』の冒頭の文章を引用していた堀田善衞はこの長編小説の後で発表した短文「『白夜』について」(1970年)でこう記していました。

「ドストエーフスキイの後期の巨大な作品のみを云々する人々を私は好まない。それはいわばおのれの思想解明能力を誇示するかに、ときに私に見えて来て、そういう『幸福』さが『やり切れなく』なって来るのだ。」

「赤紙」を受け取った後の出来事を描いた『方丈記私記』が1970年7月号から翌年の4月号まで『展望』に連載され1971年に出版されていることに注目するならば、この作品は『白夜』の問題意識を濃厚に受け継いでいると思えます。

『若き日の詩人たちの肖像』が明治百年が華やかに祝われた1968年に出版されていることに留意するならば、主人公のこのような批判が戦前と同じような死生観や国家観を持ちつつ戦後に復権していた小林秀雄や林房雄に対しても向けられていることは確実でしょう。

(2019年5月7日、改題と改訂、写真とリンク先の追加)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

(2)「海ゆかば」の精神と主人公

(3)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

→(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

 

→ 小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって