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『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトに日本語とロシア語で『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)の自著紹介が書影とともに掲載されました。ここでは日本語版を転載します。

https://bod.bg/en/authors-books.html

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』大ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011)

 はじめに――混迷の世界と「本当に美しい人」の探求

目次

序章 「謎」の主人公――方法としての文学と映

第一章 「ナポレオン風顎ひげ」の若者――ムィシキンとガヴリーラ

第二章 ロシアの「椿姫」――ナスターシヤとトーツキー

第三章  ロシアの「イアーゴー」――レーベジェフとロゴージン

第四章 「貧しき騎士」の謎――アグラーヤとラドームスキー

第五章  「死刑を宣告された者」――イッポリートとスペシネフ

第六章 ロシアの「キリスト公爵」―― 悲劇としての『白痴』

終章 ムィシキンの理念の継承――黒澤映画における『白痴』のテーマ

あとがき

索引

附録1 『白痴』関連年表 附録2 黒澤明関連年表

  *   *   *

本書で私は黒澤明監督の視点と比較文学や比較文明学の方法によって、長編小説『白痴』を詳しく分析することによって、現代におけるこの長編小説の真の意義を明らかにしようと試みた。

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について姪のソフィアに宛てた一八六八年一月一日の手紙で、次のように記していた。「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことはこの世にありません。…中略…。この世にただひとり無条件に美しい人物がおります。――それはキリストです。」

長編小説『白痴』でムィシキン公爵はギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? いいえ、殺すべきではありません。ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていた。

そして、ドストエフスキーはプーシキンの『貧しき騎士』や『けちな騎士』、『エヴゲーニイ・オネーギン』や、グリボエードフの『知恵の悲しみ』など多くのロシア文学や、ユゴーの『死刑囚の最後の日』や『レ・ミゼラブル』、デュマ・フィスの『椿姫』など西欧文学にも注意を払いながら、この長編小説『白痴』を書いていた。

一方、第二次世界大戦の終了から数年後の1951年にドストエフスキーの長編小説『白痴』を元にした同名の映画を公開した黒澤明監督は、「『白痴』演出前記」において、「僕は僕なりに、この主人公と作中人物を永い間愛して来た」と書いた黒澤は、映画《白痴》を「原作の深さ」には及ばないだろうとしながらも、「原作者に対する尊敬と映画に対する愛情を傾けて、せい一ぱい努力するつもりだ」と書いた。

実際、多くの文学作品を成功裏に映画化している黒澤は、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩を主人公の視線をとおして正確に描き出している。

ことに、真夜中の怖ろしい悲鳴と死刑になる場面を夢で見たという主人公の説明が描かれている冒頭のシーンと、映画の最後に綾子(アデライーダ)が主人公の世界観を讃えつつ、「私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語っている場面は、この長編小説に対する監督の深い理解を物語っている。

残念ながら、この映画は会社の要求によって半分に短縮されたが、軽部(レーベジェフ)がシェークスピアの戯曲『オセロ』のイアーゴーと同じように、主人公たちを破滅へと導く狡猾な役割を果たしていることを暴露している映画の脚本は完全な形で残っている。

脚本においてもレーベジェフの娘ヴェーラやイッポリートの形象は欠如しているが、クリスマスの賛美歌「清しこの夜」が響いている映画《醜聞》(1950)では清純な心を持つ、卑劣な弁護士の娘が、映画《生きる》(1952)には病によって「死を宣告」されてイッポリートと同じように絶望した主人公が描かれている。こうしてこれらの映画は長編小説『白痴』の三部作とも呼べるような深い関わりを持っている。

さらに、長編小説『白痴』ではシュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されており、ガヴリーラもムィシキンに対して「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と尋ねていた。

実際、ムィシキンはロゴージンにナスターシヤについて「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのである。

一方、黒澤映画《酔いどれ天使》(1948)や《静かなる決闘》(1949)、《赤ひげ》(1965)では医師が非常に重要な役割を演じており、ことに映画《赤ひげ》ではドストエフスキーの長編小説『虐げられた人々』のネリーをモデルにした少女の患者と医者たちとの感動的な関係が描かれている。

ムィシキンのテーマの深まりからは、おそらく黒澤が、医師(人)が全力を尽くして患者の生命(肉体のみならず精神)を救うというテーマを、ドストエフスキーの主要なテーマと結びつけて考えていたのだと思える。

さらに、イッポリートが「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも考慮するならば、そのことは病んだ世界についてもいえるだろう。

こうして、本書では他の黒澤映画も検討しながら大地主義の意義も考察することによって、現代の世界における長編小説『白痴』の重要性を示した。    

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