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プーシキン

「ドストエーフスキイのプーシキン観ーー共生の思想を求めて」を「主な研究」に転載

 『ドストエーフスキイ広場』の創刊号に掲載された拙論「ドストエーフスキイのプーシキン観」についてのお問い合わせを頂きました。

その内容はすでにその後に執筆した拙著に組み込んでいると思っていましまたが、調べて見るとまだ完全な形では収録されていないことが分かりました。

1991年の古い論考ですが、『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)から、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を経て、近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』に至る一連の拙著につながる私の問題意識が色濃く出ている論考です。

それゆえ、人名表記などはそのままの形で、ホームページの「主な研究」に転載することにしました(→ドストエーフスキイのプーシキン観――共生の思想を求めて)

 以下に、この論考の「目次」を掲載しておきます。

  *   *

序章        「ねずみ」たちについて

第一章   社会正義を求めて  ーーペトラシェーフスキイ事件まで 

 第一節  『貧しき人々』と『駅長』        

 第二節   「ネワ河の幻影」と『青銅の騎士』

 第三節   「警告するもの」としての良心

第二章   殺すことについての考察 ーー良心の問題をめぐって   

 第一節  「良心」の「自己流の解釈」        

   第二節   『地下生活者の手記』と『その一発』

   第三節   『罪と罰』と『スペードの女王』

書評 『十八世紀ロシア文学の諸相―ロシアと西欧 伝統と革新』(金沢美知子編 水声社 二〇一六年)

18世紀ロシア文学、紀伊國屋(書影は紀伊國屋書店より)

 

十八世紀ロシア文学の諸相―ロシアと西欧 伝統と革新』金沢美知子編 水声社 二〇一六年)

編者の序文によれば本書は、「ここ十数年の十八世紀ロシア文学をめぐる仕事に現れた新たな動向を日本のロシア研究の中に位置づけることを目的とし,さらにその先へと研究が発展することを願って」出版された。

第一部「近代ロシア文学の形成過程」、第二部「文学をとりまく環境」、第三部「十八世紀ロシアへの視点」から成る本書には、文学だけでなく歴史や文化にかかわる多くの論文が収められている。ただ、『ドストエーフスキイ広場』に掲載する書評という性格上、ここでは作家との関連の深い論文に絞って論じることにしたい。そのことによってドストエフスキー作品の理解も深まると思えるからである(本稿では敬称は略し、名前の表記は統一した)。

たとえば、ロモノーソフという名前は、日本の一般的な読者にはあまりなじみがないと思われるが、ドストエフスキーはペトラシェフスキー事件の裁判で「ピョートル大帝時代のロシア語はどんなものだったでしょうか? ロシア語半分にドイツ語半分だったのです。…中略…だから、ピョートル大帝の直後、ロモノーソフの出現したことは、偶然ではないのです」と語っていた。

鳥山裕介は「ロモノーソフと修辞学的崇高――十八世紀ロシアにおける『精神の高揚』の様式化」で、「十七世紀フランスの崇高論」と比較しながら、ロモノーソフにおける「崇高な文体」の創出の試みをその詩も引用しながら描き出している。ここでは聖書の記されていた文字であるギリシャ語と古代スラブ語とのかかわりや、ピョートル大帝による文字の改革の試みなどにも言及してロシア語の特徴をも浮かび上がらせており、ドストエフスキーがロモノーソフの意義を高く評価した理由を明らかにしている。

三浦清美「ロモノーソフの神、デルジャーヴィンの神」と三好俊介「ヴラジスラフ・ホダセヴィチと十八世紀ロシア─評伝『デルジャーヴィン』をめぐって」は、彼らの生きた時代と詩作品との関わりをとおして、彼らの雄大な自然観や「神」の観念などを詳しく伝えているだけでなく、詩人たちの力強い生き方をも示している。このことはなぜドストエフスキーが、シベリア流刑後に書いた長編小説『虐げられた人々』においても、ロモノーソフのもとにエカチェリーナ二世自らが訪問したことなどを主人公に語らせることで文学の意義を説明していたかをも示唆しているだろう。

「ロシア感傷小説の最初の種まき」を行ったフョードル・エミンの活動に焦点を絞った金沢美知子の二本の論文「フョードル・エミンとロシア最初の書簡体小説── 現実の様式化へ向けて」、「フョードル・エミンと十八世紀ロシア」では、職を求めてロシアを訪れ、最初は翻訳局で働いた外国人のエミンの活動を紹介しながら、「東方を舞台とした愛と冒険の物語を書いていた」エミンが、手紙を「人間の内面吐露の手段として大いに利用して」いたことを指摘するとともに、女帝エリザヴェータやエカチェリーナ二世の時代の外国との積極的な交流が十九世紀ロシア文学の豊かな土壌を形成したことを説得的に描きだしている。

安達大輔は「カラムジンの初期評論における翻訳とその外部」で、「感受性」という語には「一、外部の刺激に対する身体的な反応・感応という物質面と、二、共感・同情・哀れな者への共苦という精神面との区別」があるが、「『倫理的』転回が起きるのはセンチメンタリズムにおいてである」と本書の寄稿者でもあるコチェトコーヴァが『ロシア・センチメンタリズム文学』において記していることに注意を促している。このことはドストエフスキーの初期の作品を理解する上でも重要だろう。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の翻訳の序文で、「わが作者の考えを私が変えたところはない、と言うのもそのようなことは翻訳者には許されないと考えたからだ」と記したカラムジンの言葉からは、ドストエフスキーの作品の邦訳の問題についても考えさせられた。カラムジンが戯曲『シャクンタラー』については「この戯曲は古代インドの美しい絵といえるかもしれない」と記すのみで翻訳の困難さには言及していないことに注意を向けて、「二種類の翻訳の存在」を指摘していたことも興味深い。

カラムジンの『哀れなリーザ』や書簡体で書かれたゲーテの『若きウェルテルの悩み』が、ドストエフスキーの第一作『貧しき人々』にも強い影響を与えたことはよく知られているが、「ロシア・センチメンタリズムに見る『死への憧憬』と『離郷願望』」で、「感傷小説」には「悲劇型」ばかりでなく、「めでたし型」も存在していたことを紹介した金沢美知子は、スシコフの『ロシアのウェルテル』などにおける主人公たちの自殺についての言動に注意を向けて、「作家と読者の中に、個人主義あるいは個人と社会の対立についての問題意識が育ち始めていたことを証している」とし、この主人公が「『余計者』の原型」であると指摘している。

大塚えりな「カラムジン『ロシア人旅行者の手紙』における虚実」は、カラムジンが『モスクワ新聞』に掲載した広告文で「私の友人に物好きなのがいて、ヨーロッパ各地を旅行して、…中略…考えたこと、創造したことを書きとめてきた」と書いて、「作家はあくまで編者の立場」をとっていることに注意を促すとともに、最新の研究資料を紹介してここには「個人的な『旅行記』としての側面」もあることを具体的に示している。この論文からは『冬に記す夏の印象』の書き出しの文がカラムジンの『ロシア旅行者の手紙』の「パロディという要素」が非常に強く、「自分の旅行を機縁にして、以前から考えていた西欧観を吐き出そうとしたもの」であるという川端香男里の指摘が思い出される。

金沢友緒は「ロシアで翻訳された最初のゲーテ文学――О・П・コゾダヴレフと悲劇『クラヴィーゴ』」で、『若きウェルテルの悩み』では「ドイツの旧いモラルと自由を求める個人の葛藤の中でドラマが展開する」のに対して、悲劇『クラヴィーゴ』では「複数の国家社会と文化の対立の構図をとおして」主人公の恋愛が描かれていることに注目している。そして、ドイツのライプツィッヒ大学に留学した翻訳者コゾダヴレフが、この劇に「異文化衝突のドラマ」を見たと指摘し、後に彼が「国家の様々な文化事業に関与し」、「教育システムの構築と雑誌の発行」に携わることになることとの関連を指摘している。それは小説の創作ばかりでなく、ヨーロッパの情勢をも伝える総合雑誌『時代』や『世紀』の発行にも関わっていたドストエフスキーの視野の広さにも深く関わっているだろう。

私がもっとも関心を持って読んだのは「古来さまざまな議論が行われている」プーシキンのラジシチェフ論をゲルツェン研究の視点からの解釈を示した長縄光男の論文「『ペテルブルグからモスクワへの旅』をめぐって──ラジシチェフ・プーシキン・ゲルツェン」であった。

よく知られているように、ラジシチェフは「ザイツォヴォ」という章で、「農民に対する地主の非人間的横暴」によって引き起こされた「農民による地主の集団的殺害事件」を担当した裁判所長官の良心の苦しみを描いていた。このエピソードは自分の父が農民たちによって殺害されたことを知った若きドストエフスキーの苦悩や良心観を理解する上でも重要と思えたために、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社、二〇〇七年)で詳しく紹介するとともに、歴史家・國本哲夫の説に従ってプーシキンのラジシチェフ論が「イソップの言葉」によって記されていると解釈していた。

しかし、ラジシチェフがきわめて率直に農奴制を批判したのは、「ルソーやディドロやヴォルテールらと親密に付き合っていた」エカチェリーナ二世が、「若者たちにも彼らの思想を学ぶように奨励した」ためだったと説明した長縄は、プガチョフの乱が起きるなど時代は変化し、フランス革命の翌年に刊行されたこの本をエカチェリーナが「プガチョフより悪質だ」と評したことを紹介している。

そして、「プーシキンはラジシチェフと真逆の道筋――すなわち、モスクワからペテルブルグへという経路を辿った。この事実そのものに、まず、プーシキンのラジシチェフ批判の意図を読み取ることができるだろう」と指摘し、「『知恵の悲しみ』も今ではすでに古びた悲しいアナクロニズムでしかない」と書いたのは、「本音」だっただろうと書いている。

たしかに、若い頃と『エヴゲーニイ・オネーギン』を書き上げた頃のプーシキンの考えが大きく変わっていることに留意するならば一八三三年から三六年にかけて書かれたラジシチェフ論は、「イソップの言葉」ではなく「本音」で書かれていたと考えられる。

ドストエフスキーもシベリア流刑以降は、むしろグリボエードフの『知恵の悲しみ』を批判するようになった頃のプーシキンを理想として掲げていたのである。ただ、ここでは詳しく論じる余裕はないが、それは『罪と罰』のエピローグに記された「人類滅亡の悪夢」が示しているように、日本の近海にも及んだクリミア戦争など近代兵器の進化に伴って戦争がさらに世界的な規模へと広がることへの危険感とも深く結びついていたと思える。

乗松亨平は「ベリンスキーとロシアの十八世紀──『ロシア史』はいかに語られるか」で、デビュー評論で文学は「ナロードの内的な生を、最奥の深淵と鼓動にいたるまで表現する」がロシアにはまだ「文学はない」と宣言したベリンスキーの歴史観の変遷を考察している。すなわち、一八四〇年の初頭以降は「ロシアとヨーロッパ、教養階級と民衆の断絶が、漸減されていく過程としてロシア文学史を捉える」というベリンスキーの視点が基本的に変わっていないことを指摘するとともに、「ロシアの未熟さ、若さ」を未来の可能性として「ポジティヴに読みかえる」という論法をベリンスキーが、「生のあらゆる領域、あらゆる世紀と国へ自由に移動できるプーシキンの芸術的能力」にも用いていることを指摘した。

そして乗松は、その手法が「プーシキンのロシア特有の天才は、きわめて多様な感情や人々を描けることにある」として「プーシキンの詩的創造の全世界性を称賛」したプーシキン像除幕式講演におけるドストエフスキーにも通じることを強調している。ベリンスキーと晩年のドストエフスキーのプーシキン観の意外な類似性をも指摘したこの記述からは、ドストエフスキーとベリンスキーの関係を再考察する必要性を感じさせられる。

文学について考察した論文ではないが、豊川浩一の「十八世紀ロシアにおける国家と民間習俗の相克──シンビルスクの『魔法使い(呪術師)』ヤーロフの裁判を中心に」は、ドストエフスキー初期の作品『主婦』に描かれた世界を理解するのに役立つだろう。矢沢英一の論文「イワン・ドルゴルーコフの回想記から見えてくるもの」は、ロシアの貴族たちの間でどのようにアマチュア演劇が広まり、大規模な農奴劇場が生まれたかを詳しく記しており、子供の頃に『知恵の悲しみ』を感激して見たドストエフスキーがシベリアの監獄で演じられた民衆芝居について『死の家の記録』で記していたこととの関連で非常に興味深く読んだ。

モスクワ大公国時代の儀礼との比較をとおしてピョートル改革後の特徴の解明を試みて、「信念の祝賀」や、「聖水式」などを考察した田中良英の「十八世紀初頭におけるロシア君主の日常的儀礼とその変化」は、視覚的な資料も多く掲載されている大野斉子の「女帝の身体」とともに、当時の宮廷の衣裳や風俗の特徴を浮かび上がらせている。

中神美砂「E・R・ダーシコヴァに関するロシアにおける研究と動向」も頁数は少ないが読み応えがあり、ナターリヤ・ドミトリエヴナ・コチェトコーヴァによるロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所の詳しい紹介論文「プーシキンスキー・ドームの十八世紀ロシア文学研究部門──その歴史と現在」も、ロシアにおける研究史を知る上で役立つ。

これらの論文からはドストエフスキーの作品と十八世紀ロシアの密接な関係が浮かび上がってくる。また、かつて文明論的な視点からロモノーソフのことを少し調べたことのある私は、その後の研究分野の広がりと深まりには刮目させられるとともに多くの知見を得ることができた。本書がロシア文学の研究者だけでなく、比較文学や歴史の研究者、そしてロシアに関心を持つ多くの方に読まれることを期待したい。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、141~145頁より転載)

 

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

雑誌「チャイカ」(第三号)のインタビューで、井上氏は自分とロシア文学との関わりについて語りながら、「まあ、全部読んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり私の基本となっているのは、ドストエーフスキイとチェーホフですね」と語っている。この雑誌については知らない方も多いと思われるし、また両者の係わりを知ることは劇作家井上ひさしを考える上でも重要だと思えるのでその内容を簡単に紹介し、あわせて筆者の考えも二・三記しておきたい。

*   *   *

「井上  それから小説……『吉里吉里人』なんていうのは、もうあれです、『罪と罰』を側におきながらですね、

本誌 お書きになったんですか?

井上 ええ、まあ、ロシア語は全然わかりませんけど何となくこうアノ、文章の息の長さとかですね、まあ、日本の文章は非常に盆栽風になりまして、こう、短く、一つの意味を一つの文で、それを貨車みたいに繋いでという方法が一番正しいとされていますね。…中略…でもドストエーフスキイ読みますと、アノ、長いですよね。…中略…今連載中の『一分ノ一』というのは『白痴』を読みながら、別にそれを採るっていうんじゃなくて、ある、こう何ていうんですかね、心構えといいますか、いつもドストエーフスキイはあるんです」。

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インタビューなので語り手の舌足らずな面もあり、氏はここでドストエフスキーの文体と姿勢について語っているにすぎないが、二作品が『罪と罰』や『白痴』を「側におきながら」書かれたという証言は重く、そこからは多くの興味ある類似点が派生する筈だ。

たとえば氏は別の箇所で「ドストエーフスキイの場合は、国家の作った法律よりも、こう、フォークロアっていいますかね、民間伝承とか諺でやってますね」と述べている。こうした民衆からの視点こそは長編小説『吉里吉里人』を支えていたものでもあった。そしてドストエフスキーには現代文明に対する鋭い危機意識とともに天下国家をも論じようとする広い視野があるが、それはまた、それ程前面には出ないにせよ井上氏の作品を特徴付けるものでもある。

それとともに、井上氏は「ドストエーフスキイの魅力」は「『謎解き・罪と罰』に全部出ていると思います」と述べながら、ドストエフスキーの「メチャクチャな」「名前のつけ方」や彼の笑いについて触れ、『罪と罰』が「叙情的でもありますし、反面、すごい叙事詩でもあるんですけど、それから哲学小説としても読めますけど」「滑稽小説」でもあるのだと主張し、「世の中つらいことばっかりあるわけじゃなくて、つらいことが九つあれば一つくらいバカバカしいオカシイことありますよね。それがやっぱり小説にも反映しなきゃいけないと思うんです」と語っているが、それは井上氏の小説作法の根幹に係わるものでもあるだろう。

さらに、第一章「あんだ旅券は持って居たが」、第二章「俺達の国語は可愛がれ」といった『吉里吉里人』の章の命名方が『カラマーゾフの兄弟』の章の題名を思い起こさせることも付記しておきたい。

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この対談で私の最も印象深かったのは、氏が一番好きな作品として『貧しき人々』を挙げ「あれは最高ですね、何ともいえないですね、あれはもう僕にとってですけど、世界の文学のトップですね、あんないい小説ないですね」と語り、「いつ読まれたんですか」という問いに「あれは随分前です」と答えながら、「あれが僕の妙な部分を作っていると思いますね」とまで述べている箇所である。

初めは少し意外な感じもしたが、しかしユーモアとペーソスを持って中年の官吏とみなし子の乙女の心理を描きながら、同時に彼らの視線を通してペテルブルグやロシアの生活の全体像にまで肉迫しえている『貧しき人々』と井上文学は、確かに奥深いところで結び付いているようだ。

たとえば氏には『頭痛肩こり樋口一葉』という女性ばかり六人が登場する戯曲がある。同じインタビューで氏は「アノ、家庭といいますか、ある小さな共同体の移り変わりが、宇宙の移り変わりと、こう照合していて、何も大ゲサなことをやらなくても、深く五・六人のことを書けば、そのうしろに宇宙があるっていうのは、まあ、チェーホフから影響を受けていますね」と語っているので、この戯曲もチェーホフとの関連で論じるべきかもしれない。

だが『貧しき人々』について語った氏の言葉を読んで、私が真っ先に思い浮かべたのはこの作品だったのだ。むろん、直接的な影響を指摘することはできない。しかし『貧しき人々』がプーシキンやゴーゴリの作品をとりあげながら、その文学的業績を積極的に吸収しようとしていた作品であり、さらにその女主人公ワルワーラも一葉と同じように文学を愛した貧しく病弱な女性であったこと、そして何よりもそこではワルワーラの生きかたを通して「女性の不幸は、男性の不幸でもある」という思想が語られていたことを思い起こすなら、これら二つの作品の結び付きはかなり強いと言えるのではないだろうか。

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最後に、ここに挙げられた作品以外で両者の関係を物語っていると思われる二編を紹介してこの小論の結びとしたい。

昭和四九年の井上氏の作品に『合牢者』という短編がある。この作品の主な登場人物の原田と矢飼は共に明治初期の貧乏巡査であるが、一方の原田は内田魯庵訳の『罪と罰』を読みラスコーリニコフの考えに共鳴して、悪辣な質屋の未亡人を殺す。もう一人の巡査矢飼は上司の命令で、罪を認めない原田のアリバイを崩すために同じ牢に入り事実を聞き出そうとする。

しかし、原田の不幸な境遇に同情を覚え、「真実などどうでもよくなった」時に彼は事実を語られ、しかも上司からはそのまま牢に留まっているか昇格を選ぶかと迫られて事実を告げてしまう。小説は「堂々と罪を犯し、くだる罰を発止と受けとめて」死刑になった原田を思いながら「小説が人間よりも小さいのか、あるいは大きいのか、おれにはいまだによくわからないが、あいつのことを考えるたびに、小説は人間より大である、というような気がしてならぬ」という原田の感慨で終わる。この短編では『罪と罰』は単に原田の犯行を動機付けしているばかりでなく、小説の主題とも重なり、また小説全体の筋にも関わっている。

『私家版 日本語文法』(昭和五三年から五五年)で井上氏は、雨乞唄を紹介しながらその「言葉の冗舌性と技巧」にふれて、先人たちには「必要があれば八百でもウソをついてひとつの願いを成就させようという意気込みが」あったと述べ、「筆者は不真面目だから、ひとつの誠を言うために八百のウソをつく方へ行くしかない」と述べている。

全体にドストエフスキーと同様井上氏にも言葉、殊に嘘に対する考察や言及が多いのだが、この箇所は「僕が人間なのは嘘をつくからなんだ」と述べさらに「嘘をついていれば――真理まで達せるのだ」と主張する『罪と罰』のラズミーヒンの言葉と殆ど重なっているように見える。ここにも井上ひさし氏の文学とドストエフスキーとの深いかかわりをみるのは、筆者の思い入れがすぎるだろうか。

*   *   *

〈同人誌『人間の場から』(第13号、1988年)に掲載された初出時の題名は、「見ることと演じること(四)――記憶について」。後にその一部が「ドストエーフスキイと井上ひさし」という題で「ドストエーフスキイの会会報」(第107号、1989年)および、『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅳ』、244~245頁に転載される。本稿では地の文の表記をドストエフスキーで統一するとともに、誤記や文体レベルの簡単な改訂を行った〉。

 

「ロシア文学関連年表」のページを開設し、ドストエフスキー関連の年表を掲載しました

標記のページをようやく作成しました。

ドストエフスキー自身は1821年うまれなのですが、父親との関係が重要なので父ミハイルが生まれた1789年から初めて、日露関係を知る上でも重要なロシアからの使節団の来日とその時に帰還した漂流民を主人公とした井上靖氏の長編小説とその映画化にもふれています(日本での出来事は青い字で表記しました)。

「大国」フランスと戦争も予想される中で軍医の養成が急務となっていたロシア帝国の要望に応えて、司祭となる道を捨てて医者として「祖国戦争」に参戦した父ミハイルの生き方を考察することは、その後のロシアの歩みを知る上だけでなく、『罪と罰』という長編小説を理解する上でも重要なので「祖国戦争」についてもその後の世界史の流れにもふれながら記しました。

幕末から明治初期の日本の歴史も、長編小説『白痴』が書かれた時代と深く関わっているので詳しく書きました。1870年以降の年表についてはいずれ加筆したいと考えています。

ただ、打ち込んだのとは異なった形でパソコンの画面上には表示されていますが、パソコンの機種によっても表示が異なっているようですので、もうしばらく様子を見てから、段落の変更などを行うようにします。