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核兵器

 「ラピュタ」2――宮崎アニメの解釈と「特攻」の美化(隠された「満州国」のテーマ)

 『天空の城ラピュタ』の二年前に公開された『風の谷のナウシカ』(1984)における『罪と罰』のテーマについてはすでに何度かふれてきましたが、このアニメには「満州国」のテーマも秘められていました。

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

 すなわち、「風の谷」を侵略した大国の皇女は自分たちに従えば「王道楽土」を約束すると語るのですが、それはかつて日本が「満州国」を建国した際に理想を謳った「五族協和」や「八紘一宇」と同じようなスローガンの一つだったのです

 雑誌『日本浪曼派』の主催者・保田與重郎も「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と、「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で讃えていました(橋川文三『日本浪曼派批判序説』講談社文芸文庫、34頁)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

 それゆえ、このようなスローガンに惹かれて日本だけでなく、植民地だった朝鮮からも多くの人々がそこに移住しましたが、実態は理想とはかけ離れたものでした。彼らに与えられた土地は満州に住んでいた人々が安く買いたたかれて手放した土地であり、そこでは軍が深く関わっていたアヘンも横行するようになっていたのです(姜尚中、玄武岩著『興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産』 講談社学術文庫、2016年参照)。

興亡の世界史 大日本・満州帝国の遺産 (講談社学術文庫)

 評論家の橋川文三が指摘したように、「満州国建国前後の、挫折・失望・頽廃(たいはい)の状況こそ、『昭和の青春像の原型』であり、この『デスパレートな心情』こそ、『深い夢を宿した強い政治』への渇望の燃料」となっていました。

 橋川は保田與重郎とともに小林秀雄が、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促していますが、「立憲主義」が崩壊する一年前に小林秀雄が原作における人物体系などには注意を払わずに行った『罪と罰』の解釈にもナチズム的な暴力主義への傾倒が秘められています(拙著、第6章参照)。

 さらに小林秀雄は真珠湾の攻撃を「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。」と美しく描き出しました(小林秀雄「戦争と平和」)。 しかし、作家の堀田善衞が指摘しているようにこの真珠湾攻撃には「特殊潜航艇による特別攻撃」がともなっており、この攻撃に参加した若者たちは暗い海の藻屑となって全員が亡くなり、「軍神」として奉られていたのです。

 しかし、アニメ『天空の城ラピュタ』が放映される数日前には靖国神社や自衛隊で人間魚雷「回天」のキューピーちゃん人形が販売されていたことが話題になっていました。司馬遼太郎とも対話を行っていた元第十八震洋特攻隊隊長で作家・島尾敏雄氏の作品を読んでいたこともあり、そんな「不謹慎」なことはありえないだろうと考えていたのですが、実際に2009年12月までは販売されていたようで、その写真を見て愕然としました。

 さらに、「#あなたが作りそうなジブリ作品のタイトル」というハッシュタグには、「・回天の城ラピュタ ・指揮官の動く城 ・海自の恩返し ・人形立ちぬ ・艦これ姫の物語 ・前線の豚 ・写真の墓 ・戦艦戦記」などの軍隊系の題名が挙げられ、特殊潜航艇「回天」もその題名に取り入れられていたのです。

 一方、東大から経産省などをへて衆議院議員になった丸山穂高氏が、北方領土での言動が激しい顰蹙を買ったにもかかわらず、むしろ前科を誇るかのようにツイッターのプロフィール欄に「憲政史上初の衆院糾弾決議も!」と書きこんでいることに気づきました。

 しかも、8月31日のツイートでは竹島への攻撃を扇動したことがS 氏に批判されると、広島と長崎の悲劇について「過ちは繰返しませぬから」と言うべきは原爆を投下して非戦闘員を含めた非道なる大量虐殺を行った米軍かと。理解されていないのはどちらですかね?まさに敗戦国の末路かと。」と揶揄していました。しかし、「貴方の返信を多くのみなさん知って貰いたいので返信を公開して良いですか?」とS 氏から問いただされると直ちに自分のツイートを削除したようです。

 これらの投稿からは彼が核戦争の悲惨さについて考えたこともないだろうということが分かりますが、それは「#バルス祭り」などを提案しているツイッターの書き手にも通じているでしょう。そのことはアニメ『千と千尋の神隠し』が放映された後でこの映画の主題歌に関連して、宮崎監督の深い平和観について次のようなツイートをした際にも感じました。

 「安倍首相の復古的な歴史観を批判した宮崎駿監督の映画は民話的な構想に深い哲学的な考察を含んでおり世界中で愛されています。たとえば、ウクライナの女性歌手Nataliya Gudziyも、『千と千尋』の主題歌を通して原爆と原発事故とのかかわりついて深い説得力のある言葉で語っています。」。

ウクライナ美女が 千と千尋~ 主題歌を熱唱 Nataliya Gudziy … – YouTube

 このツイートに対しては多くのリツイートと「いいね」が寄せられましたが、そればかりでなくネトウヨと思われる人からの執拗な反論がありました。粘り強く反論すると不意にブロックされたばかりでなく、相手やその支持者たちの多くのいやがらせのツイートも完全に消されていたのです。

 そのような経緯から安倍首相が「核兵器禁止条約」の批准に反対し、原爆反対の書名集めも政治活動と見なすようになるなかで、宮崎駿監督の映画をも敵視するような若者や大人が増え始めていると感じました。

 少し大げさなようですが、亡びの呪文である「バルス」がツイッターのトレンドに入るような状況からは日本の言語文化が危機に瀕しており、情緒的な短い文章で感情的に煽ることには長けていても、自分の考えをきちんと論理的に相手に伝える能力が低下しているのではないかとさえ思えます。

 それはアニメの理解だけでなく、日本の学校における文学の教育にも深く関わっています。

原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

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(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

7月27日付けの「朝日新聞」は、長崎への原爆投下の際に写真撮影機にオブザーバーとして搭乗し、原子雲を目撃した英国空軍大佐のチェシャーの苦悩に迫る記事を「原子雲目撃者の転身」と題して掲載していました。

すなわち、「核兵器が実際に使用される場面を軍人の目で見守らせ、今後に生かそうという首相チャーチルの意向で」派遣された空軍大佐のチェシャーは、帰国後には「原爆には戦争の意味をなくすだけの威力があり、各国が保有すればむしろ平和につながる」と軍人としては報告していました。

しかし、その直後に空軍を退役したチェシャーは、戦後に「福祉財団を立ち上げ、障害者のための施設運営に奔走」するようになるのです。

チェシャーは亡くなる前年の1991年に開かれた国際会議でも、「原爆投下が戦争を早く終結させ、多くの人の命を救った」と語ってアメリカの行為を正当化していましたが、原爆雲を観た際には「安堵と、やっと終わったという希望の後から、そのような兵器を使ったことに対する嫌悪感がこみ上げてきた」と後年、自著では振り返ってもいたのです。

このことを紹介した記事は次のように結んでいます。「やむない手段だったとの信念を抱くと同時に、原爆による人道的被害に対しては良心の苦悩も抱え続けた。原子雲の目撃者から福祉の道へ転じた歩みには、その葛藤が映っている」。

*   *   *

一方、東条内閣の閣僚として満州政策に深く関わっていた岸信介氏は、首相として復権すると自国民に地獄のような苦しみを負わせた原爆投下の罪をアメリカ政府に問うことなく、むしろその意向に迎合するかのように、国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していたのです。

それゆえ、広島への原爆投下に関わったことで深い「良心の呵責」を感じて、精神病院に収容された元パイロットと書簡を交わしていた精神科医のG・アンデルスも1960年7月31日付けの手紙で岸信介首相を次のように厳しく批判していました(『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房、1962年。文庫版、1987年)。

「つまるところ、岸という人は、真珠湾攻撃にはじまったあの侵略的な、領土拡張のための戦争において、日本政府の有力なメンバーの一人だったということ、そして、当時日本が占領していた地域の掠奪を組織し指導したのも彼であったということがすっかり忘れられてしまっているようだ…中略…誠実な感覚をそなえたアメリカ人ならば、この男、あるいはこの男に協力した人間と交渉を持つことを、いさぎよしとしないだろうと思う。」

私自身も「国家」を強調して「国民」には犠牲を強い、他の国民には被害を負わせた岸氏が、原爆の被害の大きさを知りつつも「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と無責任な発言をしていたことを知ったときには、たいへん驚かされ、どのような精神構造をしているのだろうかといぶかしく思い、人間心理の複雑さを感じました。

*   *   *

そのような権力者の心理をある程度、理解できるようになったのはドイツの社会心理学者であるエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読み、そのような視点から小林秀雄のドストエフスキー論を読み直してからのことでした

リンク→『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と長編小説『罪と罰』を解釈した文芸評論家の小林秀雄が、戦後の1946年に行われた座談会の「コメディ・リテレール」では「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語って、言論人としての責任を認めようとしていなかったのです。

このような小林秀雄の「罪と罰の意識」をとおして考えるとき、岸氏の心理もよく見えるようになると思われます。

つまり、独自の「非凡人の理論」によって「悪人」」と規定した「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフは、最初は「罪の意識」を持たなかったのですが、「米英」を「鬼畜」とする戦争を主導した岸氏も自分を選ばれた特別な人間と見なしていたならば、A級戦犯の容疑に問われて拘留された巣鴨の拘置所でも「罪の意識も罰の意識も」持つことなく、復権の機会をうかがっていたことになります。

しかし、『白痴』との関連にも注目しながら、『罪と罰』のテキストを忠実に読み解くならば、ラスコーリニコフはシベリアの流刑地で「人類滅亡の悪夢」を見た後で、自分の罪の深さに気づいて精神的な「復活」を遂げたことが記されているのです。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

リンク→映画《この子を残して》と映画《夢》

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 

 「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)――ムィシキン公爵と「狂人」とされた「軍人」

『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)には、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指した「ラッセル・アインシュタイン宣言」を1955年に発表していたバートランド・ラッセルの「まえがき」も収められていました。

ラッセルはその「まえがき」を次のように書き始めています。少し長くなりますが引用して起きます。

「イーザリーの事件は、単に一個人に対するおそるべき、しかもいつ終わるとも知れぬ不正をものがたっているばかりでなく、われわれの時代の、自殺にもひとしい狂気をも性格づけている。先入観をもたない人間ならば、イーザリーの手紙を読んだ後で、彼が精神的に健康であることに疑いをいだくことのできる者はだれもいないであろう。従って私は、彼のことを狂人であると定義した医師たちが、自分たちが下したその診断が正しかったと確信していたとは、到底信ずることができない。彼は結局、良心を失った大量殺戮の行動に比較的責任の薄い立場で参加しながら、そのことを懺悔したために罰せられるところとなった。…中略…彼とおなじ社会に生きる人々は、彼が大量殺戮に参加したことに対して彼に敬意を示そうとしていた。しかし、彼が懺悔の気持ちをあらわすと、彼らはもちろん彼に反対する態度にでた。なぜならば、彼らは、彼の懺悔という事実の中に行為そのもの〔原爆投下〕に対する断罪を認めたからである」。

*   *

「あとがき」を書いたユンクによれば、イーザリー少佐は「広島でのあのおそるべき体験の後、何日間も、だれとも一言も口をきかなかった」ものの、戦後は「過去のいっさいをわすれて、ただただ金もうけに専心し」、「若い女優と結婚」してもいました。

しかし、私生活での表面的な成功にもかかわらず、イーザリー少佐は夜ごとに夢の中で、「広島の地獄火に焼かれた人びとの、苦痛にゆがんだ無数の顔」を見るようになり、「自分を罪を責める手紙」や「原爆孤児」のためのお金を日本に送ることで、「良心の呵責」から逃れようとしたのですが、アメリカ大統領が水爆の製造に向けた声明を出した年に自殺しようとしました。

自殺に失敗すると、今度は「偉大なる英雄的軍人」とされた自分の「正体を暴露し、その仮面をひきむく」ために、「ごく少額の小切手の改竄」を行って逮捕されます。しかし、法廷では彼には発言はほとんど許されずに、軽い刑期で出獄すると、今度は強盗に入って何も取らずに捕まり、「精神」を病んだ傷痍軍人と定義されたのです(ロベルト・ユンク「良心の苦悩」)。

*   *

このようなイーザリー少佐の行為は、「敵」に対して勝利するために、原爆という非人道的な「大量殺人兵器」の投下にかかわった「自分」や「国家」への鋭い「告発」があるといえるでしょう。

イーザリー少佐と手紙を交わしたG・アンデルスは、核兵器が使用された現代の重大な「道徳綱領」として「反核」の意義を次のように記しています。「いまやわれわれ全部、つまり“人類”全体が、死の脅威に直面しているのである。しかも、ここでいう“人類”とは、単に今日の人類だけではなく、現在という時間的制約を越えた、過去および未来の人類をも意味しているのである。なぜならば、今日の人類が全滅してしまえば、同時に、過去および未来の人類も消滅してしまうからである。」(55頁)。

さらに、ロベルト・ユンクも「狂人であると定義」されたイーザリー少佐の行為に深い理解を示して「われわれもすべて、彼と同じ苦痛を感じ、その事実をはっきりと告白するのが、本来ならば当然であろう。そして、良心と理性の力のことごとくをつくして、非人間的な、そして反人間的なものの擡頭と、たたかうべきであろう」と書き、「しかしながら、われわれは沈黙をまもり、落ちつきはらい、いかにも“分別を重ねつくした”かのようなふりをしているのである」と続けているのです(264-5頁)。

*   *

これらの記述を読んでドストエフスキーの研究者の私がすぐに思い浮かべたのは、「殺すなかれ」という理念を語り、トーツキーのような利己的で欲望にまみれた19世紀末のロシアの貴族たちの罪を背負うかのように、再び精神を病んでいったムィシキンのことでした。

この長編小説を映画化した黒澤映画《白痴》を高く評価したロシアの研究者や映画監督も主人公・亀田の形象にそのような人間像を見ていたはずです。

文芸評論家の小林秀雄氏も1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談「人間の進歩について」では、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出し、こう続けていたのです。

「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」。

それにたいして湯川が太陽熱も原子力で生まれていることを指摘して「そうひどいことでもない」と主張すると、「高度に発達する技術」の危険性を指摘しながら、次のように厳しく反論していました。

「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」(拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、139頁)。

*   *

湯川博士との対談を行った時、小林氏は日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識して、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指して平和のための活動をすることになるアインシュタインと同じように考えていたと思えます。

しかし、1965年に数学者の岡潔氏と対談で哲学者ベルグソン(1859~1941)と物理学者アインシュタイン(1879~1955)との議論に言及した小林氏は、「アインシュタインはすでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか」ときわめて否定的な質問をしているのです(『人間の建設』、新潮文庫、68頁)。

この時、小林秀雄氏は「狂人であると定義」されたイーザリー少佐に深い理解を示したロベルト・ユンクが書いているように、かつて語っていた原水爆の危険性については「沈黙をまもり、落ちつきはらい、いかにも“分別を重ねつくした”かのようなふりをしている」ように思われます。

トーツキーのようなロシアの貴族の行為に深い「良心の呵責」を覚えたムィシキンをロゴージンの「共犯者」とするような独自な解釈も、小林氏のこのような「良心」解釈と深く結びついているようです。

 

リンク→

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

 

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

『永遠の0(ゼロ)』の第2章で百田氏は長谷川に、「あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない」と語らせていました。

しかし、政治家や高級官僚が決めた「国策」に対してその問題点をきちんと考えることをせずに、「わしたち兵士にとっては関係ない」として「考えること」を放棄し、「国策」に従順に従ったことが、満州や中国、韓国だけでなく、ガダルカナルや沖縄、さらに広島と長崎の悲劇を生んだのではないでしょうか。

若い頃に学徒動員で満州の戦車部隊に配属された作家の司馬遼太郎氏は、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とことを証言しています。そして、自分もそのような教育を受けた「その一人です」と語った司馬氏は、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

こうして司馬氏は、「愛国心」を強調しつつ、「国家」のために「白蟻」のように勇敢に死ぬことを青少年に求める一方で、このような「国策」を批判した者を「非国民」として投獄した戦前の教育観を鋭く批判していたのです。

*   *

文芸評論家の小林秀雄は一九三九年に書いた「歴史について」と題する『ドストエフスキイの生活』の序で、「歴史は決して繰返しはしない。たゞどうにかして歴史から科学を作り上げようとする人間の一種の欲望が、歴史が繰返して呉れたらどんなに好都合だらうかと望むに過ぎぬ」と記して、科学としての歴史的方法を否定していました〔五・一七〕。

しかし、人が一回しか生きることができないことを強調したこの記述からは、一種の「美」は感じられますが、親から子へ子から孫へと伝えられ、伝承される「思想」についての認識が欠けていると思われます。

たとえば、絶大な権力を一手に握ったことで「東条幕府」と揶揄された東条英機内閣で商工大臣として満州政策にも関わっていた岸信介氏は、首相として復権した1957年5月には「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」とさえ国会で答弁して、「放射能の危険性」と「核兵器の非人道性」を世界に訴えることなく、むしろその「隠蔽」に力を貸していたのです。

そのような祖父の岸氏を敬愛する安倍首相は戦前の日本を高く評価しているばかりでなく、岸内閣の元で進められた「原子力政策」を福島第一原子力発電所事故の後でも継続しようとしており、安倍政権が続くと満州事変から太平洋戦争へと突入した戦前の日本と同じ悲劇が「繰り返される」危険性が高いと思われるのです。

過去を美しく描いて「過去の栄光」を取り戻そうとするだけでは、問題は何も解決できません。今回は「核兵器」の限定使用の危険性が高まっている現在の状況を踏まえて、「平和学」的な意味での「積極的平和主義」の視点から、日本の「自衛隊」が何をすることが世界平和にもっとも効果的かを考察することにします。

* 「『終末時計』残り3分に」 *

まず注目したいのは、アメリカの科学誌『原子力科学者会報』が、2015年01月22日に、核戦争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえ、残り時間を「0時まであと何分」という形で象徴的に示す「終末時計」が、再び残り3分になったと発表したことです。

このことを伝えた「The Huffington Post」紙は、コストや安全性、放射性廃棄物、核兵器への転用への懸念などをあげて「原子力政策は失敗している」ことを強調し、核廃棄物に関する議論などを積極的に行うよう求めています。

1947年に創設された終末時計は東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として、当初は「残り7分」に設定されていましたが、ソ連も原爆実験に成功した1949年からは「残り3分」に、米ソで競うように水爆実権が繰り返されるようになる1953年1960年までは最悪の「残り2分」となりました(下の表を参照)。

その後、核戦争が勃発する寸前にまで至った「キューバ問題」を乗り越えたことから「終末時計」は「残り12分」に戻ったものの、アメリカ・スリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故で状況が悪化した「終末時計」は、ようやくアメリカとソ連が戦略兵器削減条約に署名した1991年に「残り17分」にまで回復しました。

ソ連が崩壊したことで冷戦が解消されたことでしばらくはそこに留まったのですが、皮肉なことにソ連が崩壊してアメリカが唯一の超大国となったあとで時計の針が再び前に動き、「福島第一原発の事故後の2012年には終末まで5分に進められた」。そして、今回は悪化する地球環境問題などを踏まえて、1949年と同じ「残り3分」にまで悪化しているのです。

終末時計

 

*   *

『永遠の0(ゼロ)』で百田氏は「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう」と語った長谷川に、「だが誰も戦争をなくせない」と続けさせていました。

たしかに、これまでの人類の歴史には戦争が絶えることはありませんでした。しかし、「終末時計」の時刻が示している事態は、「武力」では何も根本的な解決ができないことを何よりも雄弁に物語っているだけでなく、「核兵器」が用いられるような戦争がおきれば、《生きものの記録》の主人公が恐れたように地球自体が燃え上がってしまうということです。

一方、アメリカ軍に「平和」の問題を預けていた日本政府は冷戦という状況もあり、これまでは「核兵器の廃絶」に積極的には動いてきませんでした。このことが世界における「放射能」の危険性の認識が深まらなかった一因だと思われます。

また、今日の「日本経済新聞」(デジタル版)は、「日本の火山、活動期入りか 震災後に各地で活発との見出しで、「国内の火山活動が活発さを増している」ことを報じています。

それゆえ私は、「自衛隊」が世界で尊敬される組織として存在するためには、「防衛力」は、自国を「自衛することができるだけの力」にとどめて、巨大な自然災害から「国民」を守るだけでなく、広島や長崎における「放射能」被害の大きさ学んでそれを世界に伝える「部隊」を設立して、世界各国の軍関係者への広報活動を行うべきだと考えています。

*   *

むろん、このようなことは沖縄の住民など「国民の声」を聞く耳を持たないばかりでなく、地球を創造し日本列島を地殻変動で形成するなど、人間の科学力では予知し得ないような巨大なエネルギーを有している「自然への畏怖の念」も感じられない安倍政権では一笑にふされるだけでしょう。

しかし、現在の地球が置かれている状況を直視するならば、「核の時代」では戦争が地球を滅ぼすという「平凡な事実」をきちんと認識して、核兵器の廃絶と脱原発への一歩を「国民」が勇気を持って踏み出す時期に来ていると思います。

 

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

 

『永遠の0(ゼロ)』において次に注目したいのは、「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう」と語った長谷川が、「だが誰も戦争をなくせない」と続けていたことです。

この言葉からは絶望した者の苛立ちがことに強く感じられます。たしかに、これまでの人類の歴史には戦争が絶えることはありませんでした。

しかし、このような長谷川の認識には大きな落とし穴があります。それは広島・長崎に原爆が投下されたあとでは、世界の大国が一斉に核兵器の開発に乗り出していたことです。多くの科学者が「国益」の名のもとにその開発に従事するようになり、さらに強力な水爆や「原子力潜水艦」が製造され、1962年のキューバ危機では地球が破滅するような核戦争が勃発する危機の寸前にまでいたっていたのです。

つまり、「核兵器」を持つようになって以降においては、いかに「核兵器」の廃絶を行うかに地球の未来はかかっているのです。しかし問題はこのような深刻な事態にたいして、被爆国の政府である自民党政権が「放射能の危険性」と「核兵器の非人道性」を世界に訴えることなく、むしろその「隠蔽」に力を貸していたことです。

さらに、1957年5月には満州の政策に深く関わり、開戦時には重要閣僚だったために、A級戦犯被疑者となっていたが復権した岸信介氏首相が「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」とさえ国会で答弁していたのです。

*   *

このような状況の下で、57年の9月には「日米が原爆図上演習」を行っていたことが判明したことを「東京新聞」は1月18日の朝刊でアメリカの「解禁公文章」から明らかにしています。

「七十年前、広島、長崎への原爆投下で核時代の扉を開いた米国は当時、ソ連との冷戦下で他の弾薬並みに核を使う政策をとった。五四年の水爆実験で第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件で、反核世論が高まった被爆国日本は非核国家の道を歩んだが、国民に伏せたまま制服組が核共有を構想した戦後史の裏面が明るみに出た。 文書は共同通信と黒崎輝(あきら)福島大准教授(国際政治学)の同調査で、ワシントン郊外の米国立公文書館で見つかった。 五八年二月十七日付の米統合参謀本部文書によると、五七年九月二十四~二十八日、自衛隊と米軍は核使用を想定した共同図上演習「フジ」を実施した。場所は記されていないが、防衛省防衛研究所の日本側資料によると、キャンプ・ドレイク(東京都と埼玉県にまたがる当時の米軍基地)内とみられる。」

「核兵器」や「放射能」の危険性をきちん認識し得なかったという点で、岸信介元首相は、世界各国が「自衛」のために核兵器を持ちたがるようになった冷戦後の国際平和の面でも大きな「道徳的責任」があると言えるでしょう。

*   *

「核兵器」を用いても勝利すればよいとするこのような戦争観とは正反対の見方を示したのが、作家の司馬遼太郎氏でした。『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」と書いていたのです(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』、1972年)。

注目したのは、日本には原発が54基もあるという宮崎駿監督の指摘を受けて、作家の半藤一利氏が「そのうちのどこかに1発か2発攻撃されるだけで放射能でおしまいなんです、この国は。いまだって武力による国防なんてどだい無理なんです」と語っていることです。(『腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫)(68頁)。

*   *

この意味で注目したいのは、湾岸戦争後に「改憲」のムードが高まってくると、日本では敗戦後の「平和憲法」と第一次世界大戦の敗戦後のドイツの「ワイマール憲法」を比較して、揶揄することが流行ったことです。

リンク→麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー観

すでに引用したように、百田氏もツイッターで「すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す」と記していました。互いに殺しあいを行う戦場では何を語っても無意味であり、声を上げる前に射殺されるだろうことは確実なので、「そこで戦争は終わる」ことはありえません。しかし、「もし、9条の威力が本物なら、…中略…世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる」と書いていることの一端は真実を突いているでしょう。

イスラム教の国に十字軍を派遣したことがなく、アフガンや中東において医療チームなどが平和的な活動を続けてきた日本はそれなりに信頼される国になっており、交渉役としての重要な役を担えるようになっていたのです(安倍政権によって、これまでに積み上げられた信頼は一気にブルドーザーのような力で崩されていますが…)。

*   *

一方、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏は、ヒトラーについて次のように書いていました。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか。…中略…政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

実際、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた『わが闘争』においてヒトラーは、第一次世界大戦の敗戦の責任をユダヤ人に押しつけるとともに、敗戦後にドイツが創った「ワイマール憲法」下の平和を軟弱なものとして否定しました。

さらにヒトラーはフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への新たな、しかし破滅への戦争へと突き進んだのです。

*   *

これまで見てきたことから明らかなように、第1次世界大戦後の「ワイマール憲法」と「核兵器」が使用された第2次世界大戦後に成立した日本の「平和憲法」では、根本的にその働きは異なっており、「核兵器」や「原発」の危険性をもきちんと視野に入れるとき「日本の平和憲法」が果たすべき役割は大きいと思われます。

私たちは「戦争」が紛争解決の手段だとする19世紀的な古く危険な歴史観から脱却し、「核の時代」では戦争が地球を滅ぼすという「平凡な事実」をきちんと認識すべき時期にきているのです。

「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

「集団的自衛権」を閣議決定した安倍首相は、百田氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)に収められた対談で、映画《永遠の0(ゼロ)》について次のように語っていました。

百田氏:映画が公開されて大ヒットしたら、どうせまた中国や韓国が『右翼映画』だとかなんとか言ってイチャモンつけてくると思います。

安倍首相:本をきちんと読めば、そのような印象を受けることはないと思いますね。

*   *

しかし、映画《永遠の0(ゼロ)》について「ウィキペディア」で調べたところ、中国や韓国だけでなくアメリカからも厳しい批判が出ていたことが分かりました。

〈アメリカ海軍の関連団体アメリカ海軍協会(英語版)は、2014年4月14日付の記事「Through Japanese Eyes: World War II in Japanese Cinema(日本人の目に映る『映画の中の第二次世界大戦』)」の中で本作の好評を危険視し、最近の日本の戦争映画について「戦争の起因を説明せず、日本を侵略者ではなく被害者として描写する」「修正主義であり、戦争犯罪によって処刑される日本のリーダーを、キリストのような殉教者だと主張している」と批判した。〉

*   *

百田氏の原作に基づくこの映画がこのように厳しい糾弾を受けるようになることは、「9.11同時多発テロ」に対するブッシュ政権の反応を考えれば、たやすく予想できたはずなのです。

これについても、拙著よりその箇所を引用しておきます。

「同時多発テロ」が発生した時も、アメリカの幾つかの報道機関では「自爆テロ」の問題を、日本軍による真珠湾の奇襲攻撃や「神風特攻隊」と重ねて論じ、日米開戦日前日の一二月六日にはラムズフェルド国防長官が「明日は二〇〇〇人以上の米国人が殺された急襲記念日だ」と発言し、「対テロ戦を行う上で、あの教訓を思い出すのは正しい」と強調した。

このような政府首脳の発言もあり、新聞も「タリバーンは旧日本軍と同じ狂信集団。核兵器の使用を我慢しなければならない理由は何もない」などという論評を相次いで載せ、「世論調査会社が調べると、五四パーセントが『対テロ戦争に核兵器は有効』と答えた」のである*26。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)

4877039090

*   *

繰り返すことになりますが、安倍政権は「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の危険性を隠したままで選挙に踏み切りました。

近隣諸国だけでなくアメリカとの関係も悪化させる可能性が高い危険な書物『永遠の0(ゼロ)』を絶賛している安倍首相が率いる政権には選挙でNOと言わねばなりません。

 

司馬作品から学んだことⅧ――坂本龍馬の「大勇」

今も、国会の前では「特定秘密保護法案」の慎重審議や廃案を求めて、忙しい時間を割いて1万5千にも達する人々が寒空の下で「声」を挙げているとの報道がなされています。

自民党が6月に発表した選挙公約には「特定秘密保護法」の文字もなく、首相が国会冒頭の所信表明でも言及していませんでした。その「法案」は、国家の未来をも左右するような重要性を持つにもかかわらず、原発事故の「隠蔽」など問題のある報道もあって参議院選挙に勝った与党は、数の力で強引に押し通そうとしているのです。

政府与党の政治家たちの言動からは、人々の切実な「声」をも「テロ行為とその本質においてあまり変わらない」と記すなど、「民」の心の痛みを思いやる姿勢を失ってしまっているかのようにも見えます。

一方、そのような現在の政治家たちを見て想起するのは、 長編小説『竜馬がゆく』において「歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた」と描かれている坂本龍馬(以下、竜馬と記す)の勇気と行動力のことです。

*   *   *

 司馬遼太郎氏との対談で作家の海音寺潮五郎氏は、孔子が「戦場の勇気」を「小勇」と呼び、それに対して「平常の勇」を「大勇」という言葉で表現していることを紹介しています。そして海音寺氏は日本には命令に従って戦う戦場では己の命をも省みずに勇敢に戦う「小勇」の人は多いが、日常生活では自分の意志に基づいて行動できる「大勇の人」はまことに少ないと語っていました(『対談集 日本歴史を点検する』、講談社文庫、1974年)。

 司馬氏が長編小説『竜馬がゆく』で描いた坂本竜馬は、そのような「大勇」を持って行動した「日本人」として描かれているのです。

 たとえば、勝海舟から国際情勢を詳しく聞いていた竜馬は、「砲煙のなかで歴史を回転させるべきだ」という中岡慎太郎の方法に対しては強い危惧を、「いまのままの情勢を放置しておけば、日本にもフランスの革命戦争か、アメリカの南北戦争のごときものがおこる。惨禍は百姓町人におよび、婦女小児の死体が路に累積することになろう」と想像したと書いています(五・「船中八策」)。

 そのような事態を日本でも起こさないようにと苦慮していた竜馬が思いついたのが「船中八策」であり、司馬氏はその策を聞いて憤慨した亀山社中の若者・中島作太郎(信行)との対話をとおして「時勢の孤児になる」ことを選んだ竜馬の「大勇」を次のように描いています。

*   *   *

  「坂本さん、あなたは孤児になる」という指摘に対して、「覚悟の前さ」と竜馬に答えさせていた司馬は、別れ際に「時勢の孤児になる」と批判したのは言いすぎだったと詫びた中島作太郎に対して、「言いすぎどころか、男子の本懐だろう」と竜馬に夜風のなかで言わせたのである。

 そして、「時流はいま、薩長の側に奔(はし)りはじめている。それに乗って大事をなすのも快かもしれないが、その流れをすて、風雲のなかに孤立して正義を唱えることのほうが、よほどの勇気が要る。」と説明した司馬は、竜馬に「おれは薩長人の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人だと思っている。おれの立場はそれだけだ」と語らせていた(下線引用者、五・「船中八策」)。

 司馬が竜馬に語らせたこの言葉には、生まれながらに「日本人である」のではなく、「藩」のような狭い「私」を越えた広い「公」の意識を持った者が、「日本人になる」のだという重く深い信念が表れていると思える。子供たちのために書いた「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章を再び引用すれば、「自己を確立」するとともに、「他人の痛みを感じる」ような「やさしさ」を、「訓練して」、「身につけ」た者を司馬は、「日本人」と呼んでいるのである。

  「時勢の孤児」

 興味深いのはこの前の場面で、「もし天がこの地上に高杉を生まなかったならば、長州はいまごろどうなっていたかわからない。」という感慨を抱いた竜馬に、二ヵ月前に亡くなった高杉晋作のことを思い出させながら、「面白き、こともなき世を、おもしろく」という辞世の上の句を晋作が詠んで苦吟していると、看病していた野村望東尼(もとに)が、「住みなすものは心なりけり」と続けたことを紹介した司馬が、おりょうに、「思い出したときが供養だというから、今夜は高杉の唄でもうたってやろう」と、竜馬が「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」という晋作の唄を三味線をひきながら歌ったことも描いていることである。

 晋作が攘夷派の同志たちによって暗殺される危険性を熟知しながら、「大勇」を発揮して、長州藩の滅亡の危機を救うために藩代表の使節として四国艦隊との講和交渉に臨んでいたことを思い起こすならば、この場面は日本を内戦から救うために竜馬が重大な覚悟をしたことをも暗示していると思われる。事実それは、かつて竜馬が北添を諫めたように時勢という強烈な流れに逆らって船出をするような決断であり、「時勢の孤児」になるような危険な道でもあった。

 しかも、高杉晋作や桂小五郎、井上聞多などと下関の酒亭で酒を飲んだ際に、「世が平いだあと、どう暮らす」ということが話題になった際に、「両刀を脱し、さっさと日本を逃げて、船を乗りまわして暮らすさ」と答えた竜馬が、高杉がくびをかしげたのを見て、すかさず「君は俗謡でもつくって暮らせ」と語ったことも描いていた司馬は、「はるか下座に伊藤俊輔、山県狂介らがいた。みな維新政府の顕官になり華族に列した連中である。」と続けていたのである。

 つまり、薩摩藩や幕府に対する影響力を強めているイギリスやフランスの思惑にはまって、悲惨な内戦を起こさないように、「戦争によらずして一挙に回天の業」を遂げられる策を必死に探して、「日本を革命の戦火からすくうのはその一手しかない」として竜馬が出したのが、大坂へ行く船中で書き上げた、いわゆる「船中八策」であった。

 (中略)

  さらに、「上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛(さんたん)せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」という「第二策」について司馬は、「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したものといっていい。」と位置づけ、「余談ながら維新政府はなお革命直後の独裁政体のままつづき、明治二十三年になってようやく貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院されている。」と続けている(下線引用者)。

 そして、「他の討幕への奔走家たちに、革命後の明確な新日本像があったとはおもえない。」と書いた司馬は、「この点、竜馬だけがとびぬけて異例であったといえるだろう。」と続けている。(中略)

 つまり、「流血革命主義」によって徳川幕府を打倒しても、それに代わって「薩長連立幕府」ができたのでは、「なんのために多年、諸国諸藩の士が流血してきた」のかがわからなくなってしまうと考えた竜馬は、それに代わる仕組みとして、武力ではなく討論と民衆の支持によって代議士が選ばれる議会制度を打ち立てようとしていたのである。

          (『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』、人文書館、2009年、322~325頁)。

*   *   *

このブログ記事を書き終えてテレビを見たところ、「特定秘密保護法」が自民党と公明党の賛成多数により可決されたとの報道がされていました。

「テロ」への対策などを目的に、これまでの国会での手続きを無視して強引に可決されたこの法律は、原発事故や基地問題などの重要な「情報」を国民に知らせることを妨げ、国民の「言論の自由」を奪うことになるでしょう。

一部の政治家と高級官僚によって秘密裏に進められることになるこの国の政治は、近隣諸国の疑心をも生んで、東南アジアに緊張関係を作り出すことにもなると思われます。

*   *   *

私たちに求められているのはこのような事態に絶望することなく、竜馬のような「大勇」をもって、盟友・桂小五郎をはじめ多くの日本の「民」によって受け継がれた真の「国民国家」の理念を粘り強く実現することでしょう。

それは「核兵器の拡散」が進む一方で、地震多発国でも原発建設が進んでいる現在の危険な世界のあり方をも変革することにつながると思えます。

 

(2016年2月10日。リンク先を追加)

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