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『若き日の詩人たちの肖像』

『若き日の詩人たちの肖像』の関連年表を「年表とブログ・タイトル一覧」に掲載

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

堀田善衞と小林秀雄との関係を中心に『若き日の詩人たちの肖像』関連の年表を1918年~1945年までまとめました。

大正から昭和初期に関しては私自身がまだその流れを十分には把握していないので、改良の余地はあると思います。

足りない箇所などはこれから追加するようにし、取りあえず「年表とブログ・タイトル一覧」に、年表8として掲載しました。

年表8、『若き日の詩人たちの肖像』関連年表(1918~1945)

 

『日本国紀』と小林秀雄の歴史観――徳富蘇峰の「物語」の手法と「司馬史観」論争

日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

 白蟻は穴の前に硫化銅塊を置かれても「先頭から順次に其中に飛び込み」、「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」(『大正の青年と帝国の前途』)。

   *   *   *

【日本国紀と小林秀雄の歴史観】という題で、昨日からツイッターに連続投稿しました。

 ノンフィクションを謳った小説『殉愛』を書いた作家の『日本国紀』を正面から論じるつもりはまったくないので、このような題名の付け方には問題があるかもしれません。

 ただ、小説『永遠の〇(ゼロ)』で朝日新聞を攻撃の根拠とされていた言論人・徳富蘇峰の歴史観を文芸評論家の小林秀雄も雑誌『文學界』に掲載された作家・林房雄との対談で賞賛していました。

 この時期の小林秀雄の歴史観は1960年に書かれた小林秀雄の「ヒットラーと悪魔」にも受け継がれていると思えます。それゆえ、今回は1996年のいわゆる「司馬史観」論争にも言及しながら、1940年に『文學界』に掲載された「対談 歴史について」の内容を詳しく考察することにします。

 *   *

 太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄が、翌月の『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」とよんでいました。しかも、その後で小林は「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです。

→小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

 この鼎談の翌月に行われた対談の冒頭で、「『英堆を語る』座談会に就いて、こういう大言壮語は実に困る、愚の愚なるもの」であると言った批評家の言葉を紹介して、「僕は非常に面白かった」と語った林は、その理由をこう説明しています。

「現代日本文畢の基調をなしてゐる一つの常識を見せられたような気がしてね。良識といふ意味の常識ではなく、低級で通俗な意味の常識さ。」

 この言葉を受けて小林秀雄が「そうかね、読まなかつたが、君の言う意味も解る」と答えると、林は先の鼎談での小林の英雄観を受け継ぐように、「(そのような常識は)、僕などが考えている、歴史は英雄の営みである、人間の英雄的行為の綜合のみが人生である――という考へ方と全然反対の『常識』なんだ、この常識は現代日本文学を案外根強く支配しゐる(ママ)。」と続けていました。

 興味深いのは、この後で「君は歴史教育について意見を持っているらしいね。」と林が問うと、小林がこう答えていたことです。

「意見は簡単なのだ、日本の歴史教育で、もっと文学化した歴史を教えよと言ったのだ。歴史というものは文学なんだからね。歴史というものは文学なんだからね。」

 実はこのような「意見」は、徳富蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調した坂本多加雄・「新しい歴史教科書を作る会」理事の見解にも強く響いています。

 そして、作家の司馬遼太郎が亡くなった一九九六年に発行した『汚辱の近現代史』で教育学者の藤岡信勝は、長編小説『坂の上の雲』では「日本人が素朴に国を信じた時代があったこと、健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」明治の人々の姿が描かれているとし、自分たちの歴史認識は「司馬史観」と多くの点で重なると誇っていました。

しかし、『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していた司馬遼太郎は、『坂の上の雲』を書き終えたあとでは「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いて、日露戦争の美化を厳しく批判していたのです。

 残念ながら、いわゆる「司馬史観」論争の際に歴史学者の人々が右派の設定した土俵で論争し司馬の批判に終始したために、一般の読者には押しまくられているように映ったようです。

 この論争に強い危機感を抱いた私は、この頃から司馬遼太郎の作品を研究の対象として、日露の近代化の比較という視点で考察し、2002年に出版した『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画)では、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『沖縄・先島への道』、『菜の花の沖』などの作品を読み解くことで、「公地公民」制の実態や「義勇奉公」の理念の危険性を明らかにした「司馬史観」の深まりを明らかにしました。

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しかし、その後の流れから判断すると、「神国思想」のきびしい批判者としての司馬遼太郎を全面に出して論じるべきであったと感じています。その意味でも安倍首相などの政治家や「つくる会」や「日本会議」の論客などの支援を受けながら、「『物語』の構造」を利用しつつ、戦前の価値観を若者に説いている『永遠の0(ゼロ)』の作者の手法は厳しく批判されるべきだと考えています。

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 少し、話題が逸れましたので、本題に戻りましょう。

 この後で歴史教育の問題を取り上げた林に対して、小林は「国体史観というものは、覚え込ませるのではない、感得させるものだ。だから感得させる様に歴史を教えねばならない。それには、歴史に教えるべき重点を置き、例えば建武の中興とか明治維新とかいう処をくわしく教えるのだ」と語り、さらにこう続けていました。

 「不確実な美談であっても心を唆(そそ)らぬ正確な史実といふ様なものより勝る事万々だ。心を唆られるという処に、歴史のほんとうのセンスが生れるのだ。だから、僕に言わせると、初等の歴史教育では、歴史なぞ教える必要はない、歴史に対するする正しいセンス、正しい情操を教えよ、と言うのだ。それが出来ないから、歴史についていかに精しくなってもおかしな事になるだけなのだ。」(太字は引用者)

 実は、私が「『日本国紀』と小林秀雄の歴史観」という題名で小論を書こうと思ったきっかけは、太字で記した小林の発言にありました。ノンフィクションを謳った小説『殉愛』の作者が『日本国紀』でその間違いなどをいかに批判されても平気なのは、「評論の神様」のお墨付きがあると考えているからでしょう。

 つまり、「教祖」ともいえる小林秀雄の歴史観をきちんと批判しえた時に、『日本国紀』史観に対する批判が作者に対しても効力を持つようになると思えるのです。

 さて、小林の言葉を聞いて、「君が日本勤王史こそ真の歴史であると言い出したのが大変面白いと思ったのだ。」と語り、「僕は君のような深い考えで言ったワケではない。併し、君の言う事は正しいのだ。」という小林の返事を聞くと、『日本浪曼派』の同人でもあった林は次のようにとうとうと自分の「勤王文学史」を語ります。堀田善衞が『若き日の詩人たちの肖像』で描いた当時の文学を知る上で重要なので、少し長くなりますが、引用しておきます。

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

学徒出陣

出陣学徒壮行会(1943年10月21日、出典は「ウィキペディア」)

 「古事記は単なる古典ではない。当時の混乱を正す勤王書、即ち革命の書だった。万葉集もまた人麿や防人の歌に見るが如く勤王の書だった。それから神皇正統記、太平記、大日本史、日本外史、賀茂眞淵、本居宣長、僧契沖、平田文子など国学者の書、藤田東湖を始めとする水戸派の書そういう人達のものが全部革命の書だ。日本では革命の書は復古の書で勤王の書なんだ。ここに日本の本当の文学伝統がある。真の日本文学史は勤王文学史だという新しい常識を我々は打ちたてなければならぬ。

 明治の文筆者及び現代の文学者は他の所に日本の文学伝統を求めている。枕草子、源氏物語、方丈記、徒然草、謡曲、徳川期に於いては近松巣林子(引用者注:門左衛門のこと)西鶴、春水、馬琴、三馬、一九、そういうものを日本文学の伝統であると教えられた。これが大きな間違いだ。この伝統を押して行けば、西洋流の市民文学となり、市井文学となり、やがては階級文学となるのが当然で、真の国民文学はこの伝統の流れからは発見もされず創成もされない。考えてみると、西鶴が発見されたのは明治二十年前後だ。日本に新しい町人文化が再台頭しはじめたころに再発見されて、それがその後フランス自然主義という理論が日本に輸入され、この自然主義の尺度に一番よく当てはまっているのが、西鶴の市井小説で、西鶴こそ真の日本文学である。日本文学の正統はここにあるということになってしまった。」(太字は引用者)

  *   *

 このような林の言葉に小林秀雄も「右翼というものの存在をインテリゲンチヤはもっと真面目に考えなければいけないと僕は思うのだ。(……)インテリゲンチヤは右翼を旧文明の残滓だと思っているのだよ。」と語りかけると、「日本の歴史を動かしているのは右翼なんだよ、実は――。」と応じた林は、話題を転じて小林に「君には西鶴は面白いかね。」と問いかけ、「今は詰まらないね。」という答えを得ています。

 そして、「今僕は、歴史による知性の再教育というようなことを考えているのだ。」という林に対して「賛成だ。僕は今面白い仕事はそれだけだと思っているくらいだ。」と応じた小林は、「つくる会」の論客と同じように蘇峰の歴史をこう高く評価しているのです。

 「徳富蘇峰なんか皆悪口を言うが、僕はあの人の歴史を認めている。悪口を言うが、実際に読んでやしないのだよ。あれを読むのだってずい分骨は折れるからね。史観が出鱈目というけれども、あの人の歴史は観方が一番借りもののところがない。」

 そして林房雄もこう応じていたのです。「蘇峰は出発はハイカラだが、非常に日本的な歴史家なんだ。一昨日、読者から手紙が来て、歴史を理解するためにはどの歴史書を読んだらいいんだろうという。僕は徳富蘇峰を推薦した。いつか君も蘇峰をほめていた。」

(2019年5月28日、加筆)

「他人をほめる技術」と「けなす技術」――小林秀雄の芥川龍之介・批判とアランの翻訳などをめぐって

「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。」「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい。」

(小林秀雄、「文学の伝統性と近代性」、昭和11年)(写真は二・二六事件)

「批評の神様」とも称される文芸評論家の小林秀雄(一九〇二~八三)は「国民文化研究会」の主宰者で、後に「日本会議」の代表者の一人にもなる小田村寅二郎の招きに応じて昭和36年から昭和53年にわたり5回の講演を九州で行っていました。

その際に行われた学生との対話を収録した『学生との対話』(新潮社、2014年)の「解説」を書いた編集者の池田雅延は、「永年、批評文を書いてきて、小林秀雄が到達した境地は、『批評とは他人をほめる技術である』でした」と記し、それは「小林秀雄が早くからめざしていたことの当然の帰結といってよいものでしたと続けています(「問うことと答えること」、194頁)。

 

実際、小林秀雄は一九六四年に発表した「批評」というエッセイで次のように記していました。

「自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものではない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評は人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。」

たしかに「人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ……」と指摘しているこの文章を読むと一見、そうかとも納得させられるようになります。

しかし、この文章に強い違和感を覚えるのは、評論「現代文学の不安」でドストエフスキーについて、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記した小林が、その一方で芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と激しくけなしていたからです。

そして、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた」と規定した小林は、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と続けていました。

このエッセイが書かれたのは日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内でも京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ一九三二(昭和七)年のことでした。そのことに留意するならば、2・26事件が起きた昭和11年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセイで中野重治などを批判しつつ、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書くとともに、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」と記すようになる小林が、芥川を批判することで早くも時勢に順応しようとしていたことが感じられます。(写真は二・二六事件)

(「ウィキペディア」より)

 しかも、それは芥川龍之介に対してのみのことではありませんでした。1934年9月から翌年の10月まで連載した「『白痴』について1」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」と強調した小林は、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」。

さらに、1937年に発表した「『悪霊』について」では「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と断言していました。

こうして、読者を「注意深い読者」と普通の読者、「不注意な読者」の三種類に分類して、自分の読み方に従う読者を「仔細に読んだ人」と称賛する一方で、自分の読み方とは異なる読み方をする者を「不注意な読者」と「けなして」いたのです。

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このような傾向は『学生との対話』にも現れています。「僕たちは宿命として、日本人に生まれてきたのです。(……)日本人は日本人の伝統というものの中に入って物を考え、行いをしないと、本当のことはできやしない、と宣長さんは考えた。」と語った小林は、「考古学」に基礎を置いた歴史観をこう「けなして」いました(太字は引用者、95頁)。

「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ。」(「信ずることと考えること」、127頁)。

一方、小林秀雄の「宿命論」的な考えを批判するような思想を述べていたのがフランスの哲学者アランでした。「……人が宿命論を信ずれば、それだけで宿命は本物になってしまう。(……)いっそう明白なことは、民衆の全体が戦争が不可避だと信じれば、現実にそれはもう避けがたい。あまり人がしばしば通った道ではないが、辿る(たど)るのにそうむずかしくはない道がある。それは戦争を避けることが出来るということが真実になるためには、まず戦争が避け得ると信ずる必要があるという結論に到達するための道筋である。」

このことを堀田善衞は『若き日の詩人たちの肖像』のアランの翻訳をめぐる議論でこう指摘しています。「これね、翻訳あるんだけど、その翻訳ね、翻訳じゃないんだ、検閲のことを考えて、一章ごっそりないところや、削ったところなんか沢山あって、あれ翻訳じゃないんだけど、小林秀雄さんがあの翻訳のこととりあげて、良い本だ、っていうらしいことを書いていたの、あれいかんと思うんだけど……」

そして、こう続けられているのです。「その翻訳だと、戦争も生活の一つだ、地道に立向かって行け、ってことになるんだ、逆なんだ、本当は小林さんはこの原書を読んでないってことはないと思うんだけど」。

この言葉は宿命論的な考えに対する批判を省いてアランの戦争論を理解していた小林秀雄に対する鋭い批判となっているでしょう。

(2019年5月28日、加筆)

堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

先ほど、「ドストエーフスキイの会」の例会発表が終わりましたので、配布したレジュメの一部をアップします。

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発表の流れ

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ

a.島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』

b.堀田善衞の島崎藤村観と長編小説『若き日の詩人たちの肖像』

c.『若き日の詩人たちの肖像』と島崎藤村の長編小説の類似点

 1、長編小説『春』における主人公と同人たちとの交友、自殺の考察

 2、明治20年代の高い評価

 3、『破戒』と同様の被差別部落出身の登場人物

 4、「復古神道」についての考察

d.「日本浪曼派」と小林秀雄

 

Ⅰ.「祝典的な時空」と「日本浪曼派」

a.「祝典的な時空」

b.「死の美学」と「西行」

c.大空襲と18日の出来事

d.『方丈記』の再認識

e.『若き日の詩人たちの肖像』の続編の可能性

 

Ⅱ.『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法

a. 卒業論文と「文学の立場」

b.『広場の孤独』と二つの長編『零から数えて』と『審判』

c.「扼殺者の序章」の題辞

「語れや君、若き日に何をかなせしや?」(ヴェルレーヌ)

 

Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』

a. 第一部の題辞

「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。空は一面星に飾られ非常に輝かしかつたので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(米川正夫訳)

b. 河合栄治郎「二・二六事件の批判」

c.主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」

d.「成宗の先生」の家の近くで『白夜』の文章を暗唱した後の考え

e.ナチス・ドイツへの言及

 

Ⅳ.アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題

a. 第二部の題辞

「人を信ずべき理由は百千あり、信ずべからざる理由もまた百千とあるのである。人はその二つのあいだに生きねばならぬ」(アラン)。

「資本主義は、地上の人口の圧倒的多数に対する、ひとにぎりの先進諸国による植民地的抑圧と金融的絞殺とのための、世界体制へとまで成長し転化した。そしてこの獲物の分配は、世界的に強大な、足の先から頭のてつぺんまで武装した二、三の強盗ども(アメリカ、イギリス、日本)の間で行なはれてゐるが、彼らは自分たちの獲物を分配するための、自分たちの戦争に、全世界をひきずりこまうとしてゐるのだ。」(レーニン)

b. レーニンへの関心の理由

c.留置所での時間と警察の拷問

d.ほんとうの御詠歌と映画《馬》

e.アランの『裁かれた戦争』の訳と小林秀雄の戦争観

f.詩人プラーテンの「甘美な詩句」と小林秀雄訳のランボオの詩句

g.小林秀雄訳のランボオ『地獄の季節』の問題点

h.「人生斫断家」という定義と二・二六の将校たちへの共感

 

Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー

a.第三部の題辞

「むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ」(『伊勢物語』作者不詳)。

「かくて誰もいなくなった」(アガサ・クリスティ)

b.時代を象徴するような題名と推理小説への関心

c.美しい『夢の浮橋』への憧れ

d.遺書としての卒業論文

e.真珠湾攻撃の成果と悲哀

f.小林秀雄の耽美的な感想

g.「謎」のような言葉

h.ムィシキンとランボーの比較の意味

i.長編小説における『悪霊』についての言及と小林秀雄の「ヒットラーと悪魔」

 

Ⅵ.『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服

a.第四部の題辞

「羽なければ空をもとぶべからず。龍ならば雲にも登らむ。世にしたがへば、身くるし。いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし、たまゆらも、こころをやすむべき。」(鴨長明、『方丈記』)

「陛下が愛信して股肱とする陸海軍及び警視の勢力を左右にひつさげ、凛然と下に臨み、身に寸兵尺鉄を帯びざる人民を戦慄せしむべきである。」(公爵岩倉具視)

b.アリャーシャの『カラマーゾフの兄弟』論と「イエス・キリスト」論

c.国際文化振興会調査部での読書と国学の隆盛

d.「復古神道」とキリスト教

e.小林秀雄の『夜明け前』観と「近代の超克」の批判

f. 出陣学徒壮行大会での東条首相の演説と荘厳な「海行かば」の合唱

g.国民歌謡「海行かば」と保田與重郎の『萬葉集の精神-その成立と大伴家持』

h.審美的な「死の美学」からの脱出と『方丈記』の再認識

 

終わりに・「オンブお化け」と予言者ドストエフスキー

a.ドストエフスキーとランボーへの関心

b.『若き日の詩人たちの肖像』における「オンブお化け」という表現

「死が、近しい親戚か、あるいはオンブお化けのようにして背中にとりついている」

「未来は背後にある? 眼前の過去と現在を見抜いてこそ、未来は見出される」(『未来からの挨拶』の帯)。

c.過去と現在を直視する勇気

 

主な参考文献と資料

高橋誠一郎『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』

――「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」『広場』

 ――狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって(『世界文学』第122号、2015年12月)

――小林秀雄のヒトラー観、「書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって〕など。

『堀田善衛全集』全16巻、筑摩書房、1974年

堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』

竹内栄美子・丸山桂一編『中野重治・堀田善衞 往復書簡1953-1979』影書房

池澤夏樹, 吉岡忍, 宮崎駿他著,『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』集英社

橋川文三『日本浪曼派批判序説』、講談社文芸文庫、2017年。

福井勝也「堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future)」他。

山城むつみ「万葉集の「精神」について」など、『文学のプログラム』講談社文芸文庫、2009年。

ケヴィン・マイケル・ドーク著/小林宜子訳『日本浪曼派とナショナリズム』柏書房, 1999

松田道雄編集・解説『昭和思想集 2』 (近代日本思想大系36) 筑摩書房, 1974

鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』

鈴木昭一「堀田善衛諭――「審判」を中心として」『日本文学』16巻2号、1967

黒田俊太郎「二つの近代化論――島崎藤村「海へ」・保田與重郎「明治の精神」、鳴門教育大学紀要、『語文と教育』30観、2016年

中野重治「文学における新官僚主義」『昭和思想集』

井川理〈詩人〉と〈知性人〉の相克 ―萩原朔太郎「日本への回帰」と保田與重郎の初期批評との思想的交錯をめぐって」、『言語情報科学』(14)

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

「赤紙」で召集されるまでの時期に書き始められたのが「西行」だったのですが、この頃の自分の考えを堀田は『方丈記私記』の(一)でこう記しています。

「その頃、日本中世の文学、殊に平安末期から鎌倉初期にかけての、わが国の乱世中での代表的な一大乱世、落書に言う、『自由狼籍世界也』という乱世に、たとえば藤原定家、あるいは新古今集に代表されるような、マラルメほどにも、あるいはマラルメなどと並んで(と若い私は思っていた)、抽象的な美の世界に凝集したものを、この自由狼籍世界の上に、『春の夜の夢の浮橋』のようにして架構し架橋しえた文明、文化の在り方に、深甚な興味を私はもっていた。」

その一方で「鴨長明氏、あるいは方丈記や、発心集などの長明氏の著作物や、その和歌などには、実はあまり気をひかれるということがなかった」堀田は、「三月十日の大空襲を期とし、また機ともして、方丈記を読みかえしてみて、私はそれが心に深く突き刺さって来ることをいたく感じた」のです。

「しかもそれは、一途な感動ということではなくて、私に、解決しがたい、度合いきびしい困惑、あるいは迷惑の感をもたらしたことに、私は困惑をしつづけて来たものであった。」

そして、十万人以上の死者を出した空襲のあとで十八日に焼け野原になった地域を訪れた作者は、その廃墟で多くの人々が「土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ないことでございます」と小声で呟く、「奇怪な儀式のようなもの」を見るのです。 

その光景に衝撃を受けて、「信じられない、/信じられない」と呟きながら焼け跡を歩いた作者は、こう考えるようになります。

「しかしこういうことになるについては、日本の長きにわたる思想的な蓄積のなかに、生ではなくて、死が人間の中軸に居据るような具合にさせて来たものがある筈である」(三)。

こうして、「三月十日の東京大空襲から、同月二十四日の上海への出発までの短い期間」、「ほとんど集中的に方丈記を読んですごした」作者は、「『方丈記』が精確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマチィックなまでに卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものであることに、思い当たった」のです(一)。

そして、「現場というものには、如何なる文献や理論によっても推しがたく、また、さればこそ全的には把握しがたい人間の生まな全体」があり、鴨長明は「何かが起ると、その現場へ出掛けて行って自分でたしかめたいという、いわば一種の実証精神によって」動かされた人物と規定しているのです (四)。

『若き日の詩人たちの肖像』は三月十日の大空襲の前で終わっているのですが、それでもその変化の一端は「平安末期の、あの怖ろしいほどの乱世にぶつかった鴨長明なども、どうにも仏教という母なる観念だけでは律しきれぬ『事実の世紀』にぶつかっていた、ということになりはせぬか」と若者が考えるようになったことが記されています。

『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」

そして、その頃に流行していた国学者の「平田篤胤でこりていたので、イデオロギーの側から日本を求めることはやめにした」主人公は、「日本が、いちばん猛烈な目に逢っていたと男に思われる平安末期から鎌倉初期にかけての時代にたちもどって丹念に調べてみることに専念し出した」のです。

 その後で「羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。/ 世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」という『方丈記』の有名な文章を引用した作者は、『若き日の詩人たちの肖像』でも「『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった」と記しているのです。

この長編小説の終わり近くでは「赤紙」と呼ばれる「臨時召集令状」の文面を読んだ主人公が、「生命までをよこせというなら、それ相応の礼を尽くすべきものであろう」と思ったと記されており、こう続けられています。

写真の出典は奈良県立図書情報館。

「これでもって天皇陛下万歳で死ねというわけか。それは眺めていて背筋が寒くなるほどの無礼なものであった。尊厳なる日本国家、万世一系の国体などといっても、その実体は礼儀も知らねば気品もない、さびしいような情けないようなものであるらしかった。」

第一部の題辞で『白夜』』の冒頭の文章を引用していた堀田善衞はこの長編小説の後で発表した短文「『白夜』について」(1970年)でこう記していました。

「ドストエーフスキイの後期の巨大な作品のみを云々する人々を私は好まない。それはいわばおのれの思想解明能力を誇示するかに、ときに私に見えて来て、そういう『幸福』さが『やり切れなく』なって来るのだ。」

「赤紙」を受け取った後の出来事を描いた『方丈記私記』が1970年7月号から翌年の4月号まで『展望』に連載され1971年に出版されていることに注目するならば、この作品は『白夜』の問題意識を濃厚に受け継いでいると思えます。

『若き日の詩人たちの肖像』が明治百年が華やかに祝われた1968年に出版されていることに留意するならば、主人公のこのような批判が戦前と同じような死生観や国家観を持ちつつ戦後に復権していた小林秀雄や林房雄に対しても向けられていることは確実でしょう。

(2019年5月7日、改題と改訂、写真とリンク先の追加)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

(2)「海ゆかば」の精神と主人公

(3)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

→(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

 

→ 小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(5)――『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

5、『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

前回で一応の区切りにしようと思っていましたが、やはり大空襲にあった後での『方丈記』の再発見が「死の美学」の克服につながったことにもふれておくことにしました。

堀田が卒業論文「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を急いで書き上げたことについては前回も触れましたが、「卒業論文を書く、卒業をするということは、それはすでに兵役に行くということであり、その人生の中断がそのまま死につながるということ」でした。

『若き日の詩人たちの肖像』では登場人物の「汐留君」が、「卒業論文のことがきっかけとなり、まことに堰(せき)を切ったように」、『伊勢物語』にふれながら「身をもえうなきもの(用なき者)と思い捨てたあの人の気持ちに、自分がほんとうになれないなら、詩なんか止しゃいいんだ。それが詩人の覚悟ってものだよ」と語りだしたのは、当時の日本において卒業論文とは遺書のようなものだったからです。

えうなきこととして、本当は思い捨てているからこそ、定家のあの歌のはなやぎとあそびが、本当に夢の浮き橋のようにしてこの世の上に架かるんだ。新古今に架かってる、あの夢の浮き橋の、そのために支払われている痛切なもののわからん奴なんか、そんなもんビタ一文の値打ちもないんだ。身をもって支払わなきゃならんのだよ。現実なんかビタ一文の値打ちもないよ!」(太字の個所は原文では傍点)。

そして、この言葉を聞いた若者は、平安末期、鎌倉初期の藤原定家の日記である「『明月記』に語られていた怖ろしいほどな乱世に、どうしてあんなにも、まったくウソのように美しい『夢の浮稀』なんぞが架橋されえたものか、それらのことまでがいっぺんでわかったような気がした。それは、これからの乱世を生きて行くについて、まことに決定的な指針を与えられたような気」がしたのでした。

こうして、召集が近づくなかで、戦争が続き災害も起こっていた暗い中世の詩人たちの研究にも没頭し、卒業後に国際文化振興会調査部に就職した主人公は、そこで「平安朝末期の怖るべく壮烈な乱世と、たとえば新古今集などにあらわれている不気味なほどに極美な美学との関連についての原稿を書きはじめ」、書きあがった原稿を「明治元勲のお孫さんの副部長を通して、元の駐英大使の坊ちゃんである批評家」に見てもらうと雑誌にのることになったのです。

 それが同人誌『批評』に掲載された「ハイリゲンシュタットの遺書」や連載「西行」などの文章なのですが、『若き日の詩人たちの肖像』で「富士君」のあだ名で登場する作家の中村真一郎は堀田の文章を論じつつ、満州事変から太平洋戦争の時期の若者の死生観がわずか5歳ほどの間隔で全く異なっていることをこう指摘しています。

「兄の年代の人たちにとっては、毎日は生の連続であり、何を計画するにも、一応、死というものは遠い未来のことであった。もし死が彼等を脅やかすとすれば、それは外部から理不尽に、生を遮るものとしてやってくるもの――たとえば官憲の干渉――であった。」

「いとおしむべき確実な生と、残酷にそれを吹き消そうとする死との、この対立は、私たちに直結する次の年代の人たちがやがて戦後に発表しはじめた文章にも見られない。私には、私たちの次の年代の人たちは、生と死との対立に対する驚きはもう失ってしまって、死と戯れることで恐怖から遁れ出ているように見えた。」

そして、堀田の「未来について」というエッセーを引用して、「あの昭和ふた桁の二十歳にとっては、(……)そのおぞましい死を超克するものとして、芸術、美があったのである」と説明しているのです。

『堀田善衞全集』の編者・栗原幸夫も「西行」について論じつつ、「時代は、日本の敗色歴然としてはいても、いや、それだからこそますます狂的におしすすめられる戦争と神懸かり的な狂信の時代でした。この時代の基調となる色彩は『死』」であったことを指摘して、こう続けています。

「これらの作品には日本浪曼派ふうの、というより保田輿重郎の文体の影響が歴然としています。(……)今日、『西行』というこの未完の作品を読んでみると、作者は(……)むしろ天皇制に身を投じているという趣の方がつよく感じられます。」

しかし、堀田が「私たちの年代の課題を正に生きつづけながら、私たちの年代を今や突破して、より普遍的なところへ出て来ている、といってもいい」とし、彼の「独自な経験」を描いてみせるのが『方丈記私記』である」と記した中村と同じように、栗原も次のように『方丈記』の大きさを指摘しています。

「当時、一種の流行現象として青年たちを捉えていた日本浪曼派の審美的な『死の美学』から自力で脱出した時、堀田善衞は間違いなく『戦後』を担う作家への道を歩みだしたのです。そしてこの堀田青年の内部の変貌は、おそらく戦争の末期、というよりも戦争の最後の年のごく短い時間のうちにおこったのだったろうと、私には思われます。」

堀田善衛、方丈記私記、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(4)――「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(4)――「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が出版されたのは、元号が慶応から明治に改元された1868年10月23日から100周年となるのを記念して日本政府主催の「明治百年記念式典」が盛大に挙行された昭和43年のことでした。

佐藤栄作首相の時に行われたこの式典の準備会議・広報部会には林房雄も参加していましたが、「日本浪曼派」の保田與重郎は昭和18年(1943)に新聞に寄稿した小論では「明治の精神」を「その源に於いて『尊王攘夷』を根底としたものをさす」と定義して、「天誅」の名前で行われていた幕末のテロや自国を絶対化する「正義」の戦いを肯定していました。

この意味で注目したいのは、日本文化を重んじて物質より精神を重視する皇道派の影響を受けた陸軍青年将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに起こした昭和11年(1936)の2・26事件の背後関係や影響も『若き日の詩人たちの肖像』で描かれていることです。

すなわち、この事件の前年に起きた相沢事件――統制派の中心人物・永田鉄山陸軍省軍務局長の殺害事件――についても、皇道派の中心人物とされていた真崎甚三郎大将の息子である学友Mとの交友に関連して言及されています。

『ファッシズム批判』などの著作が1938年に発売禁止となり、翌年には休職処分とされて起訴された河合栄治郎・東京帝国大学教授の「二・二六事件の批判」(帝国大学新聞)や軍国主義と「国体明徴」運動を批判して伏字ばかりの文章となっていた『中央公論』の巻頭論文も詳しく紹介されているのです。

こうして、第一部の終わり近くでは主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」が起きます。それはラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公が、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出た主人公は、それまで学んでいたドイツ語を捨てて新たにフランス語の勉強を始めて、法学部政治学科から仏文科に転科することになるのです。

その後で作者は、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見た「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書いています。そして、題辞でも引用していた『白夜』の冒頭の文章「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた(後略)」(米川正夫訳)を引用した堀田は、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明しています。

それまで主人公を「少年」と記していた作者がここで主人公を「若者」と呼び変えたことや『白夜』を書いたドストエフスキーがハンガリー出兵の前に起きたペトラシェフスキー事件で逮捕され、偽りの死刑宣告を受けた後でシベリアに送られていたことを思い起こすならば、ゲッベルスの演説から受けた「異様な衝撃」の大きさが感じられるでしょう。第一部はこう結ばれています。「水平線を見詰めて、下宿を引っ越そう、と若者は考えていた。」

さらに第2部でも、「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に二・二六事件のときの首謀者中の首謀者であったI(注:モデルは磯部浅一)という男の未亡人が住んでいた」と記され、彼女が「夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたIの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させよう」としていたことも描かれているのです。こうして、「二・二六は最終的な落着におちつくまで接着してはなれなかった」と描かれているように、この事件は強い影を長編小説全体に投げかけています。

つまり、この事件の首謀者は非公開で弁護人なしという特設軍法会議で裁かれ処刑されましたが、それによって軍部における統制派の権力は強まり、また国粋的な「尊王攘夷思想」も広がるという結果を生んだのです。『ファッシズム批判』を1934年に発行していた自由主義知識人・河合栄治郎の2・26事件についての記述はその後の日本の政治の流れをも示唆しているといえるでしょう。

治安維持法のもとで左翼だけでなく自由主義者の若者たちが次々と逮捕され、あるいは戦死していったことが描かれている第2部では、ゲッベルスの演説の後で聞いたシャンソンからフランス語への関心を強めた若者が、仏文科に転科するまでの過程が詳しく描かれています。そして第3部では小林秀雄の『白痴』解釈を否定するような主人公のムィシキン観が記されていますが、開戦直前に定められた「大学学部等の在学年限又は修業年限短縮に関する件勅令要綱」によって3年生の9月で卒業させられることになった堀田は急いで書き上げた卒論で、「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を考察することになるのです。

少し、先を急ぎましたが、ヴェルレーヌの詩集の英語との対訳をまず買った若者は(上、177頁)、英語で書かれたフランス語の文法書を古本屋で買い求めて、仏語の私塾の中等科に強引に入ってフランス語の習得に専念し、仏蘭西文学科の「白柳君」(モデルは白井浩司)から模擬試験を受けました。

その時に出された問題が哲学者アランのMars ou la guerre jugée (1921年, 邦題『裁かれた戦争』)の一部で、その個所を見た若者が「ここには恐ろしいような真理がずばりと書き抜いてある」と感じながら訳出すると、白柳君は「もう仏文に来ても大丈夫だよ」と告げるとともに次のように語ったのです。

「これね、翻訳あるんだけど、その翻訳ね、翻訳じゃないんだ、検閲のことを考えて、一章ごっそりないところや、削ったところなんか沢山あって、あれ翻訳じゃないんだけど、小林秀雄さんがあの翻訳のこととりあげて、良い本だ、っていうらしいことを書いていたの、あれいかんと思うんだけど……」

 それは次のような文章でした。「……人が宿命論を信ずれば、それだけで宿命は本物になってしまう。(……)いっそう明白なことは、民衆の全体が戦争が不可避だと信じれば、現実にそれはもう避けがたい。あまり人がしばしば通った道ではないが、辿る(たど)るのにそうむずかしくはない道がある。それは戦争を避けることが出来るということが真実になるためには、まず戦争が避け得ると信ずる必要があるという結論に到達するための道筋である。」

その訳を聞くと白柳君は、「いま君が訳した、戦争のところなんか、あの翻訳じゃ素通りだよ。その翻訳だと、戦争も生活の一つだ、地道に立向かって行け、ってことになるんだ、逆なんだ、本当は小林さんはこの原書を読んでないってことはないと思うんだけど」と語ったのです。

小林が2・26事件が起きた昭和11年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセーで、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書くとともに、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」とも記していたことを想起するならば、先の記述はアランの『精神と情熱とに関する八十一章』を大正6年に邦訳していた小林秀雄の戦争観に対する鋭い批判となっているでしょう。

しかも、皇紀2600年が祝われた昭和15年に鼎談「英雄を語る」で、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と作家の林房雄から問われて「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ」と楽観的な説明をした小林秀雄は、昭和17年には日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していたのです。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の主人公が仏文科に転科への決意をしたのは、昭和15年秋のことでしたが、そこでは白柳君との会話などをとおして、日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」が、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことなどが記されています。

この長編小説ではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説が主人公の重要な転機になっていましたが、1933年1月にナチスが政権を握ったドイツでは「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われるようになり、5月10日のユダヤの知識人の書物を大量に焚書にした際にもゲッベルスが扇動的な演説をしていたのです。

(ナチス・ドイツの焚書)

ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックの本も彼がユダヤ人であったために焚書の対象とされましたが、彼の著書『人権宣言論』を1906年に訳出していたのが「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられることになる美濃部達吉だったのです。

そのために、1933年に相次いで国際連盟を脱退していた日本とドイツは、孤立を防ぐために相互の提携を模索して、2・26事件が起きた1936年の11月には日独防共協定が結ばれ、1940年9月には日独伊三国同盟が結ばれることになるのです。

仲良し三国

(「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書。写真は「ウィキペディア」より)

こうして、ナチス・ドイツへの接近の機運が日本で高まると美濃部の著書や学説は目障りとなり排斥された一方で、ドイツ国民のバイブル扱いを受けて終戦までに1000万部を売り上げたとされるヒトラーの『我が闘争』の訳はすでに1932年に内外社から『余の闘争』と題して刊行され、それ以降も終戦までに大久保康雄訳(三笠書房、1937年)、真鍋良一訳(興風館)(ともに日本の悪口を書いてある部分を削除しての出版)の訳などが刊行されました(「ウィキペディア」の記述などを参考にした)。

そして、小林秀雄も室伏高信訳の『我が闘争』(第一書房、1940年6月15日)の書評でヒトラーをこう讃美していたのです。「彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる。/これは天才の方法である。僕は、この驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた。」(太字は引用者)

問題はこのような記述をしていた小林秀雄が、戦後に「評論の神様」として復権するとアメリカとの安全保障条約で1960年5月に『文藝春秋』に掲載された「ヒットラアと悪魔」というエッセーでは『悪霊』にも言及しながら戦時中に書いた『我が闘争』の書評の内容を一部書き換えながら詳しく再掲し、「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎に招かれて「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会で5回も講演していたことです

一方、『文学界』だけでなく『日本浪曼派』の同人にもなり、小林などとの鼎談で「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」と「一億玉砕」を美化するような発言をしていた林房雄も、「大東亜戦争肯定論」という題名で先の戦争を肯定する評論を『中央公論』に1963年から16回にわたって連載していたのです。

堀田善衞は復権した岸首相が「満州国の高級官吏」であったことを指摘して、1960年の事態を権力の「痙攣(けいれん)」と呼び、「自民党主流というものが満州事変以来」の「昭和史をむき出しのままで」うけついでいることがはっきりしたと書いていましたが(「新しい日本の出発点」)、元A級戦犯だった岸信介首相が結んだ「新安保条約」と「日米地位協定」では、後に明らかになるように施設の提供だけでなくアメリカ軍の特権も定められていました。

それゆえ、「マチネ・ポエティクス」の詩人の中村真一郎や福永武彦とともに堀田が書いた映画《モスラ》の原作『発光妖精とモスラ』では、当時の日本の政治状況を反映してネルソンが「外交特権でケースを開けさせずに小美人を連れ去った」ことも描かれていたのです。

Mosura trailer - Mothra airport.png

その一因としては、反核的な要素も強い映画《ゴジラ》の後で映画《モスラ》を公開した本多猪四郎監督の戦争観も反映されていると思えます。彼は二・二六事件の際に将校に率いられた反乱部隊に所属していたために満州に送られ、軍に再召集されるなど苦労をしていたのです。

原作『発光妖精とモスラ』の著者の一人・堀田善衛が一九六〇年春に「私はつくづくと、ほとんど自分のこれまでの全生涯をさかのぼって再体験をするような思いにかられた」とも書いていることに留意するならば、復活した岸首相や「昭和維新」の再評価についての考察が、自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の構想につながっていることはたしかだろう。

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(2019年5月1日、5月3日、青い字を加筆し最後の個所を次回に移動。リンク先と写真を追加、6月21日誤字を訂正)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

三、小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

林房雄の「浪曼主義のために」を論じた昭和11年の短文で、「彼のカンだけは、非常に実際的であり、いつも間違ひなく的の真中に当たっている」と評価した評論家の小林秀雄は、上海事変が勃発した昭和7(1932)に書いた評論「現代文学の不安」では、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』でも「不意に、芥川龍之介の遺書である『或旧友へ送る手記』のことを思い出して勃然たる怒りを感じた」と書かれています。しかし、モデルの一人で作家の中村真一郎は、堀田が「日本文学の壊滅状態のなかで」、「特に芥川と宇野浩二を熱心に読んでいた」ことを記しています(『芥川龍之介』)。この長編小説では芥川の遺児で・俳優、演出家でもあった比呂志との交友も描かれていることを考慮するならば、一見、自殺した芥川が厳しく批判されているかのようにも見える先の文章には、尊敬していた作家が自殺したことへの無念の思いが込められていると思えます。

さらに、島崎藤村が長編小説『春』では明治の『文学界』の同人たちとの交友をとおして、自殺に至るまでの透谷の歩みを詳しく描いていたことを考慮すると、若き詩人たちとの交友が描かれているこの長編小説で芥川にも言及していることには、長編小説『春』の記述を踏まえつつ、芥川の自殺を残念に思った堀田善衞がこの問題を真剣に考察していたことが強く感じられるのです。

『若き日の詩人たちの肖像』には北村透谷や島崎藤村についての言及はありませんが、司馬遼太郎や宮崎駿との鼎談で堀田は、「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていました(『時代の風音』)。この発言からは法律や差別などの問題にも留意しながら『罪と罰』を深く研究した上で『破戒』を著わしていた藤村への敬意が感じられます。

さらに藤村は「祭政一致」を求めて、「神祇官」を設けて廃仏毀釈運動を行った「復古神道」を信じた自分の父親の悲劇的な死を『夜明け前』で描いていましたが、受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まりまる『若き日の詩人たちの肖像』の終わり近くで堀田は、登場人物に「国粋攘夷思想」を唱えた復古神道をこう批判させています。

「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」。

 一方、真珠湾攻撃の翌年の昭和17年に『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』を発行した堀場正夫は、「序にかへて」の冒頭で、日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美して、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎へる直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であつた」と書き、その後で『罪と罰』から受けた印象と2・26事件をこう結び付けてこう記していました。

すなわち、その前夜にポルフィーリイとの激しい議論でラスコーリニコフが、ナポレオンのような「非凡人」は「「たしかに肉体でなくて青銅で出来てゐるに違ひない」と絶叫するに至るあの異様に緊張した場面」を読んでいたと記した堀場は、事件の朝について「白雪におほはれた東京の街は、ただならぬ緊張の中におかれたのである」と書き、「近代の長い夜はこの日から少しづつ白みそめたといつたら間違ひであらうか」と続けていました。

このような記述からは『英雄と祭典』が小林秀雄のドストエフスキー論から強い影響を受けていると思われます。なぜならば小林秀雄は、小林多喜二が拷問で獄死した翌年、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の昭和9年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフについて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していました。

そして、太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄は、『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」と呼び、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです(『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』、183頁)

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

さらに、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンについても「スイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈した小林は、罪の意識のなかったラスコーリニコフと結び付けつつ、ムィシキンをも「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」と見なして、「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と『白痴』の結末について記していたのです。

テキストの記述からも大きく逸脱した小林のこのような解釈は、真珠湾攻撃のⅠ年後に彼が日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していることに留意するならば、昭和6年の満州事件以降、戦争の拡大の危険性が増していた当時の状況を踏まえて政府や軍部に忖度したものだったと言えるでしょう。

 一方、真珠湾攻撃の話題の後で、「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし」、部屋にとじこもってドストエフスキーの『白痴』を読み続けた若者が、ムィシキンを外国からロシアに「入った」」、「天使のような」人物と読み解いていることは、小林秀雄の『白痴』解釈に対する厳しい批判が秘められていると思われるのです。(「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」参照)。

(2019年4月26日、改訂)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

二、「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』では真珠湾攻撃についての感想の前に二・二六事件が起きた昭和11年に『英雄と詩人 文藝評論集』を出版し、その翌年には自殺した北村透谷を顕彰する「透谷会」を、「日本浪曼派」の同人たちとともに設立していた保田與重郎の原稿の校正をしていた時の主人公の失敗がこう記されていました。

「原稿に〝精神性“とあるものが、ゲラでは〝精神病〃となって出て来た。若者は、この保田という人の、言語を拷問(ごうもん)にかけたような、しかもこれこそが上方風で、純正な日本文なのだ、といわぬばかりな日本語が、どうにも我慢がならなかった。(……)あげく、ぐっと我慢をして、”精神病〟のままでゲラをおろした。翌月、保田与重郎は編輯部へ怒鳴り込んで来た。若者は、当然編輯の人に怒鳴りつけられた。が、平気だった。」

若き日の詩人たちの肖像 下 (集英社文庫)(集英社文庫)

この記述からは「教育勅語」に記された古い「忠孝」の理念の厳しい批判をしていた北村透谷を「日本ロマン派」に取り込むような動きをする一方で、『戴冠詩人の御一人者』(1938)、『後鳥羽院-日本文學の源流と傳統』(1939)などを相次いで発表し、小林秀雄と並ぶような人気を若者たちから得ていた保田與重郎に対する激しい反発が感じられます。

しかも、「若者が、自分の身について家からうけたと自信している日本的教養にてらしてみても、我慢がならなかった」と書いていた堀田は、「保田与重郎が芭蕉についての論を書いてみせたとき、若者は、そのへんに捩(ね)じ曲がった形而上学の展開を面白いと思い、独特な才があるとは思いながらも、心底では何を大袈裟なことを言いやがると、思っていた」とも記しています。

実は、『若き日の詩人たちの肖像』でも記されているように高岡市の伏木港で江戸時代から廻船問屋を営んでいた彼の生家は、「もともと吉野の出で、南朝の壊滅後に、仕方がなくて皇子の一人をかかえ、よんどころなく北陸に逃れ」たという歴史があり、芭蕉が旅をした際には懇意の廻船問屋に世話になっていたのです。

一方、保田は太平洋戦争の勃発後に著した『萬葉集の精神-その成立と大伴家持』(1942)では、武門の出であった大伴家持の悲劇的な生涯を論じていましたが、越中守に任ぜられたときに家持は高岡でも多くの歌を詠んでいました。

長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められている大伴家持には長歌「賀陸奥国出金詔書歌」があり、そのなかの国民歌謡として有名な「海行かば」は、「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」という意味の歌詞で、天皇への忠誠を歌っていたのです。

それゆえ、橋川文三が書いているように、「保田の説くことがらの究極的様相を感じとり、古事記をいだいてただ南海のジャングルに腐らんした屍となることを熱望」するような若者も出ていました。

『若き日の詩人たちの肖像』の終わり近くでは、傘をさして樹陰のベンチにいた主人公が、競技場からは「吹奏楽をともなった男女の大合唱による、荘厳な『海行かば』」が流れてくるのを聴く場面をとおして、「カミカゼ」の名で「死」を美化するようになる当時の傾向が詳しく描かれています。

しばらくして競技場の入口あたりから出て来た行進が学生たちのものであり、「これが出陣学徒壮行大会であったこと」に主人公が気付いたと記した作者は、「行進して行く学生たちは、いずれもみな唇を噛み、顔面蒼白に、緊張をしている、と見えた。法文系は一切廃止されてしまい、全部が全部、丙種不合格までが一斉に十二月一日に入営することになったのである。男の眼に泪が溢れてくる」と描き、こう続けています。

「お召しだのなんだのという美辞麗句を弄して駆り出して、いったい日本をどうしようというのだ、という、どこへもぶっつけようのない怒りがこみあげて来る。」

学徒出陣

出陣学徒壮行会(1943年10月21日、出典は「ウィキペディア」)

 盛大な「学徒出陣式」に遭遇した主人公の感想からは、「死」を美化する傾向のあった「日本浪曼派」に対する堀田の厳しい視線が感じられるのです。

(2019年4月28日、加筆し写真を追加)

 

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

はじめに、『若き日の詩人たちの肖像』の時代の「祝典的な時空」

自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる昭和11(1936)年の二・二六事件に遭遇した主人公が「赤紙」で召集されるまでの重く暗い日々が若い詩人たちとの交友をとおして克明に描かれています。

しかし、この時期には「祝典的な時空」という華やかな側面もありました。すなわち、「天皇機関説」事件が起きた昭和10年には神武天皇の即位を記念する「祝典準備委員会」が発足し、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』でふれたように、それから5年後の昭和15年には、「内務省神社局」が「神祇院」に昇格して、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」の祝典が盛大に催されたのです。

(出典は「「ウィキペディア」)

皇紀の末尾数字を取ってゼロ戦と名付けられた戦闘機などによる真珠湾攻撃の大戦果などを踏まえて、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした堀場正夫は、昭和17年に出版したドストエフスキー論に『英雄と祭典』という題名つけましたが、それはこの著がそのような祝典的な雰囲気の中で著わされていたことをも物語っているでしょう。

評論家の橋川文三は『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」(太字は原文では傍点)あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促し、「私が『耽美的パトリオティズム』と名づけたものの精神構造と、政治との関係が改めてとわれねばならない」と記しています。

それゆえ、ここではまず『若き日の詩人たちの肖像』の複雑な構造に迫る前に主人公の視線をとおしてこの時代の雰囲気を概観することで、この長編小説における「耽美的パトリオティズム」の批判の一端に迫りたいと思います(本稿では、敬称と注を略した)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

一、真珠湾の二つの光景

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃の成果を知った主人公が「ひそかにこういう大計画を練り、それを緻密に遂行し、かくてどんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と感じたと書かれています。

しかし、それに続いて「それは掛値なしにその通りであったが、そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなっていた」ことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と記した作者は、軍神に祭られても「親御さんたちゃ、切ないぞいね」という一緒に住むお婆さんの言葉も記しているのです。

しかも、年が明けて1月になり主人公の仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てきたことを記した著者は、「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」という主人公の思いを記していますが、この批判は文芸評論家の小林秀雄にも向けられていると思えます。

なぜならば、「文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」時に、「僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」と「三つの放送」で書いた小林は、元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃の航空写真を見た印象を「戦争と平和」というエッセーでこう記していたからです。

「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとした思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に眞つ白な水脈を曵く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作つて拡がつたのだ。そしてさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかつた筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去つた彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映つたに違ひない。」

そして、「冩眞は、次第に本当の意味を僕に打ち明ける様に見えた。何もかもはつきりしているのではないか」と書いた小林は、トルストイの『戦争と平和』にも言及しながら、「戰は好戰派といふ様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戰だから起こるのである」と結んでいたのです。

 ここには写真には写っていない特殊潜航艇に乗り込んで特攻した乗組員の心理も考察している『若き日の詩人たちの肖像』の主人公の視点と、海の底に沈んだ特殊潜航艇のことには触れずに航空写真を見ながら「爆撃機上の勇士達」の気分で戦争を描いた小林との違いが明確に出ていると思えます。(続く)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

(3、増補版)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

          (2019年4月21日、改訂。6月14日、リンク先を追加)