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「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

ベトナム戦争の頃に『罪と罰』を読んだ私は、主人公の心理の詳しい描写やその文明論的な広い視野に魅せられた。ことに、「非凡人の理論」を考え出して高利貸しの老婆を「悪人」と規定してその殺害を正当化した主人公のラスコーリニコフが、後に老婆を殺したことによって「自分を殺したんだ、永久に!」 (第五部第四章)と語る場面からは、自己と他者についての深い哲学的な考察がなされていると感じた。

こうして私はドストエフスキーの作品をはじめとするロシア文学を耽読するようになり、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った文芸評論家の小林秀雄のドストエフスキー論も強い関心を持って読んだ。

しかし、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の1934年に書かれた「『罪と罰』についてⅠ」で、小林がラスコーリニコフについて、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していたことに気付いた時から小林のドストエフスキー理解に強い疑念を抱くようになった。実際、同じ年に書いた「『白痴』についてⅠ」でも、小林はドストエフスキーが構築していた作品の人物体系や構造に注意を払うことなく、「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と解釈していた。

それゆえ、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014)を執筆していたときに、原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく、自分に引き寄せて解釈した新たな「創作」のようなものではないかと感じた。実際、一九二九年のデビュー作「様々なる意匠」で小林秀雄は「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していたのである。

しかも、小林は「様々なる意匠」を次のように結んでいた。「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。

ここで小林は、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張している。しかし、この時期に彼が書いた評論には当時の文壇の考え支配していた重要な「意匠」が隠されていると思える。

たとえば、昭和一六年に書かれた評論「歴史と文学」で小林は「僕は、日本人の書いた歴史のうちで、『神皇正統記』が一番立派な歴史だと思っています」と記していた。このような歴史観を持っていた小林秀雄は、島崎藤村の長編小説『夜明け前』を論じた合評会の「あとがき」ではこの長編小説の人物体系や構造を分析することなく、自分の心情に引き寄せて彼が共感した主人公の心理と行動に焦点をあてて、「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配しているという事は言える」と解釈していたのである。

「明治維新」150年と小林秀雄の『夜明け前』論

journal126(書影は『世界文学』126号、2017年)

それゆえ、近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)では、青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解く。そのことによって、いまでも「評論の神様」と評されている小林秀雄の『罪と罰』論の問題点を明らかにした。

そのことによって、戦後も教科書に掲載されたり試験問題にも出されたりして強い影響力を保っている小林秀雄の評論の手法が、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることをも示唆することができるだろう。

新刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

(2019年2月13日、7月12日、書影を追加し改訂)

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