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『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

三、小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

林房雄の「浪曼主義のために」を論じた昭和11年の短文で、「彼のカンだけは、非常に実際的であり、いつも間違ひなく的の真中に当たっている」と評価した評論家の小林秀雄は、上海事変が勃発した昭和7(1932)に書いた評論「現代文学の不安」では、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』でも「不意に、芥川龍之介の遺書である『或旧友へ送る手記』のことを思い出して勃然たる怒りを感じた」と書かれています。しかし、モデルの一人で作家の中村真一郎は、堀田が「日本文学の壊滅状態のなかで」、「特に芥川と宇野浩二を熱心に読んでいた」ことを記しています(『芥川龍之介』)。この長編小説では芥川の遺児で・俳優、演出家でもあった比呂志との交友も描かれていることを考慮するならば、一見、自殺した芥川が厳しく批判されているかのようにも見える先の文章には、尊敬していた作家が自殺したことへの無念の思いが込められていると思えます。

さらに、島崎藤村が長編小説『春』では明治の『文学界』の同人たちとの交友をとおして、自殺に至るまでの透谷の歩みを詳しく描いていたことを考慮すると、若き詩人たちとの交友が描かれているこの長編小説で芥川にも言及していることには、長編小説『春』の記述を踏まえつつ、芥川の自殺を残念に思った堀田善衞がこの問題を真剣に考察していたことが強く感じられるのです。

『若き日の詩人たちの肖像』には北村透谷や島崎藤村についての言及はありませんが、司馬遼太郎や宮崎駿との鼎談で堀田は、「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていました(『時代の風音』)。この発言からは法律や差別などの問題にも留意しながら『罪と罰』を深く研究した上で『破戒』を著わしていた藤村への敬意が感じられます。

さらに藤村は「祭政一致」を求めて、「神祇官」を設けて廃仏毀釈運動を行った「復古神道」を信じた自分の父親の悲劇的な死を『夜明け前』で描いていましたが、受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まりまる『若き日の詩人たちの肖像』の終わり近くで堀田は、登場人物に「国粋攘夷思想」を唱えた復古神道をこう批判させています。

「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」。

 一方、真珠湾攻撃の翌年の昭和17年に『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』を発行した堀場正夫は、「序にかへて」の冒頭で、日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美して、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎へる直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であつた」と書き、その後で『罪と罰』から受けた印象と2・26事件をこう結び付けてこう記していました。

すなわち、その前夜にポルフィーリイとの激しい議論でラスコーリニコフが、ナポレオンのような「非凡人」は「「たしかに肉体でなくて青銅で出来てゐるに違ひない」と絶叫するに至るあの異様に緊張した場面」を読んでいたと記した堀場は、事件の朝について「白雪におほはれた東京の街は、ただならぬ緊張の中におかれたのである」と書き、「近代の長い夜はこの日から少しづつ白みそめたといつたら間違ひであらうか」と続けていました。

このような記述からは『英雄と祭典』が小林秀雄のドストエフスキー論から強い影響を受けていると思われます。なぜならば小林秀雄は、小林多喜二が拷問で獄死した翌年、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の昭和9年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフについて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していました。

そして、太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄は、『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」と呼び、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです(『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』、183頁)

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

さらに、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンについても「スイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈した小林は、罪の意識のなかったラスコーリニコフと結び付けつつ、ムィシキンをも「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」と見なして、「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と『白痴』の結末について記していたのです。

テキストの記述からも大きく逸脱した小林のこのような解釈は、真珠湾攻撃のⅠ年後に彼が日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していることに留意するならば、昭和6年の満州事件以降、戦争の拡大の危険性が増していた当時の状況を踏まえて政府や軍部に忖度したものだったと言えるでしょう。

 一方、真珠湾攻撃の話題の後で、「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし」、部屋にとじこもってドストエフスキーの『白痴』を読み続けた若者が、ムィシキンを外国からロシアに「入った」」、「天使のような」人物と読み解いていることは、小林秀雄の『白痴』解釈に対する厳しい批判が秘められていると思われるのです。(「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」参照)。

(2019年4月26日、改訂)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

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