高橋誠一郎 公式ホームページ

『夜明け前』

「明治維新」150年と小林秀雄の『夜明け前』論

 『世界文学』の「時代と文学Ⅰ」特集号に、「明治維新」の問題を考察した標記のエッセイが掲載されました。

journal126(書影は『世界文学』126号、2017年)

以下にそのエッセイを転載します。

   *   *   *

2018年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出した安倍首相は、「これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から解き」放ったと「明治維新」を讃美していました。

  これに対して夏目漱石や司馬遼太郎についての造詣が深い作家の半藤一利は、夏目漱石の用語などを分析してこの言葉が使われだしたのは明治14年の政変の前年頃からであることを指摘し、「薩長政府は、自分たちを正当化するために」、「『維新』の美名」を使いだしたのではないかと指摘していました。(→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

  実際、夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙で島崎藤村の長編小説『破戒』を、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞しましたが、『罪と罰』からの強い影響が指摘されているこの長編小説では、「忠孝」についての演説を行う一方で、明治維新で唱えられた「四民平等」に反して被差別部落民の主人公に対する「差別」的な発言を繰り返していた校長や教員、政治家たちの言動が詳しく描き出されているのです。

 こうして藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、明治4年に出された「解放令」以降も現代のヘイトスピーチを連想させるような激しい言葉などによる差別が実質的には続いていたことを明らかにしていたのです。

 さらに藤村は、「治安維持法」の発布から言論の自由が厳しく制限されるようになる時期には、武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった頃に平田派の国学者となった自分の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を雑誌に連載していました。

 この長編小説で主人公の気持ちだけでなく「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」という寿平次などの批判的な言葉も記した島崎藤村は、新政府の政策に絶望して「いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか」という半蔵の深い幻滅を描いていたのです。

 こうして、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて「異教」と見なしたキリスト教だけでなく仏教をも弾圧して「廃仏毀釈」運動などを行っていた主人公は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死します。

 自分の信じる宗教を絶対化して他者の信じる仏像などを破壊する廃仏毀釈を強引に行い、親類からも見放されて狂人として亡くなった半蔵の孤独な姿の描写は、シベリアの流刑地でも孤立していた『罪と罰』のラスコーリニコフの姿をも連想させるような深みがあります。

 一方、文芸評論家・小林秀雄は明治時代に成立していた「立憲主義」が「天皇機関説」論争で放棄されることになる前年の1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

 そして、「天皇機関説」事件の翌年に行われた『文学界』合評会の「後記」では、古代復帰を夢見て破滅した主人公の気持ちに焦点をあてて、「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配してゐるといふ事は言へる」と『夜明け前』を解釈していたのです。

 長編小説に記された登場人物の体系を軽視して、きわめて情念的で主観的に作品を解釈するこのような小林の批評方法は、「信ずることと考えること」と題して行われた1974年の講演会の後の学生との対話でより明確に表れています。

 そこで「大衆小説的歴史観」と「考古学的歴史観」を批判した小林秀雄は、「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」と語って平田派的な歴史観を主張していたのです(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年、127頁)。

 注目したいのは、今年2月に雑誌『正論』に掲載された評論で、「感服したのは、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢(あふ)れている事」だと記した小林の『夜明け前』論を引用した評論家の新保祐司が、小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」には「紛れもなく『日本』があると感じられる」と賛美して、「戦後民主主義」の風潮から抜け出す必要性を主張していました。

 しかし、「明治維新」を賛美した安倍政権下の日本では、韓国や中国の人々にばかりでなく、福島の被爆者や沖縄県民や意見を異にする人々に対する激しいヘイトスピーチが再び横行するようになっているのです。

 この意味で注目したいのは、2・26事件の前日に上京した若者を主人公とし、「暗黒の30年」と呼ばれる時期に書かれたドストエフスキーの『白夜』の冒頭の文章が第1部の題辞として用いられている堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が、政府主催による「明治百年記念式典」が盛大に行われた1968年に発行されていたことです。

 登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせていました。

 小林秀雄が「『白痴』についてⅠ」で「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを批判していたことに注目するならば、「立憲主義」を敵視する復古主義的な傾向が再び強くなり始めていた年に刊行された『若き日の詩人たちの肖像』は、小林秀雄の『夜明け前』観に対する厳しい批判をも秘めていると思われます。

(本稿では敬称は略した。『世界文学』128号、2018年、78~79頁)

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

(2019年2月24日、リンク先を追加)

新刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

(装丁:山田英春)

ISBN978-4-86520-031-7 C0098
四六判上製 本文縦組224頁
定価(本体2000円+税)
2019.02

→ http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-031-7.htm

〔青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解き、島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』との関連に迫る。→  https://twitter.com/stakaha5/status/1087718612624764929

〔さらに、「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する過程を考察し、蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性を明らかにする。→ https://twitter.com/stakaha5/status/1087720436148985856

 

目次

はじめに 危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容   

 

第一章 「古代復帰の夢想」と「維新」という幻想――『夜明け前』を読み直す

はじめに 黒船来航の「うわさ」と「写生」という方法

一、幕末の「山林事件」と「古代復帰の夢想」

二、幕末の「神国思想」と「天誅」という名のテロ

三、裏切られた「革命」――「神武創業への復帰」と明治の「山林事件」

四、新政府の悪政と「国会開設」運動

五、「復古神道」の衰退と青山半蔵の狂死

 

第二章 一九世紀のグローバリズムと日露の近代化――ドストエフスキーと徳富蘇峰

はじめに 徳富蘇峰の『国民之友』と島崎藤村

一、人間の考察と「方法としての文学」

二、帝政ロシアの言論統制と『貧しき人々』の方法

三、「大改革」の時代と法制度の整備

四、ナポレオン三世の戦争観と英雄観

五、横井小楠の横死と徳富蘇峰

六、徳富蘇峰の『国民之友』とドストエフスキーの『時代』

 

第三章 透谷の『罪と罰』観と明治の「史観」論争――徳富蘇峰の影

はじめに 北村透谷と島崎藤村の出会いと死別

一、『罪と罰』の世界と北村透谷

二、「人生相渉論争」と「教育勅語」の渙発

三、「宗教と教育」論争と蘇峰の「忠君愛国」観

四、透谷の自殺とその反響

 

第四章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化

はじめに 『文学界』と『国民之友』の廃刊と島崎藤村

一、樋口一葉と明治の『文学界』

二、『文学界』の蘇峰批判と徳冨蘆花

三、『罪と罰』における女性の描写と樋口一葉

四、正岡子規の文学観と島崎藤村――「虚構」という手法

五、日露戦争の時代と言論統制

 

第五章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く――差別と「良心」の考察

はじめに 『罪と罰』の構造と『破戒』

一、「事実」の告白と隠蔽

二、郡視学と校長の教育観――「忠孝」についての演説と差別

三、丑松の父と猪子蓮太郎の価値観

四、「鬱蒼たる森林」の謎と植物学――ラズミーヒンと土屋銀之助の働き

五、「内部の生命」――政治家・高柳と瀬川丑松

六、『破戒』と『罪と罰』の結末

            

第六章 『罪と罰』の新解釈とよみがえる「神国思想」――徳富蘇峰から小林秀雄へ

はじめに 蘇峰の戦争観と文学観

一、漱石と鷗外の文学観と蘇峰の歴史観――『大正の青年と帝国の前途』

二、小林秀雄の『破戒』論と『罪と罰』論――「排除」という手法

三、小林秀雄の『夜明け前』論とよみがえる「神国思想」

四、書評『我が闘争』と『罪と罰』――「支配と服従」の考察

五、小林秀雄と堀田善衞――危機の時代と文学

あとがきに代えて   「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

初出一覧

参考文献

(2018年12月23日、改訂。2019年1月22日、カバーの写真を追加。2019年2月15日、新刊到着)

危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社〔四六判上製/224頁/2000円/2019年2月〕 

 

危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容

 憲法のない帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクを舞台に、自分を「非凡人」と見なした元法学部学生ラスコーリニコフの犯罪とその結果が描かれている長編小説『罪と罰』が雑誌「ロシア報知」に連載されたのは、幕末の慶応二(一八六六)年のことでした。

 一方、日本では一八五三年にアメリカだけでなくロシアからも「黒船」が来航し、ことにペリーが武力を背景に「開国」を要求したことからナショナリズムが高揚して倒幕運動が高まっていました。そのような激動の時期に日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の没後の門人となった自分の父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いたのが島崎藤村の歴史小説『夜明け前』でした。

 「明治維新」により奈良時代の「神祇官」が再興されると平田派の国学者たちの影響は広まりましたが、キリスト教の弾圧だけでなく「廃仏毀釈」運動なども展開したことに対する反発が高まり、新政府は「祭政一致」から「政教分離」に政策を変えました。その時期に宮司を罷免された島崎正樹は、先祖の建立した島崎家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

 放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化することで仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという正樹の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの犯行と苦悩が連想されます。

 それゆえ、本書では幕末から明治初期にいたる激動の時代を描いた島崎藤村の『夜明け前』をとおして一九世紀のグローバリズムとナショナリズムの問題をまず考察することにします。明治の文学者たちの父親の世代が体験した「明治維新」にいたる時期と激動の明治初期を考察することは、日本における『罪と罰』との出会いとその衝撃を理解する上でも重要だと思えるからです。

 その後で日露の近代化の問題にも注意を払いながら、ナポレオンのような英雄にあこがれる若者を主人公とした『罪と罰』にいたるまでのドストエフスキー(一八二一~一八八一)の歩みと文学的な試みの意義を考察することにします。

 ナポレオンとの民族の存亡を賭けた「祖国戦争」に奇跡的な勝利を収めたロシアではナショナリズムが高まり、一八三三年には「自由・平等・博愛」に対抗する、ロシア独自の「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調したロシア版の「教育勅語」が出され*1、それに反する者は厳しく罰せられるようになりました。「暗黒の三〇年」とも呼ばれたそのようなニコライ一世の治世の時代に、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて活動していたのが若きドストエフスキーだったのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

 フランスで起きた一八四八年の二月革命の影響を恐れたロシア政府によってペトラシェフスキー事件で逮捕されたドストエフスキーは、偽りの死刑宣告を受けた後でシベリア流刑となりました。しかし、クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに創刊した総合雑誌『時代』で、自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載していました。 

 新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度や社会ダーウィニズムなどの新しい思想の考察の上に成立していたのです。

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(『罪と罰』の図版はロシア版「ウィキペディア」、内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

 一方、明治に改元される直前の慶応四年五月に生まれた内田魯庵が英訳で『罪と罰』を読んだのは「憲法」が発布された明治二二年のことでした。この長編小説を読み始めたものの興が乗らずに最初の百ページほどを読むのに半月近くもかかった魯庵は、「それから後は夜も眠らず、ほとんど飯を食う暇さえないぐらいにして読み通した」のです*2。

 そして魯庵はこの長編小説は「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る」筋と、「マルメラードフと言う貴族の成れの果ての遺族が、次第しだいに落ぶれて、ついには乞食とまで成り下る」という筋が組み合わされて成立していると指摘していました。

 さらに、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していた『罪と罰』との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエ フスキーへの思いを魯庵は大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています*3。

 「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

 こうして『罪と罰』から強い感銘を受けた魯庵は「何うかして自分の異常な感嘆を一般の人に分ちたい」と思いたち、二葉亭四迷の助力を得て長編小説『罪と罰』の前半部分を、日本で初めて訳出して二回に分けて刊行したのです。

 ただ、『罪と罰』の売れ行きが思わしくなかったために前半のみの訳出で終わりましたが、内田訳を読んでこの長編小説の思想に深く迫ったのが、明治の雑誌『文学界』の精神的なリーダーだった北村透谷でした。

 すなわち、透谷は『文学界』の前身の『女学雑誌』に載せた評論で「心理的小説『罪と罰』」が、暗黒な社会の側面を暴露していることを指摘して、ロシアでは「貴族と小民との間に鉄柵」が設けられていることを指摘していました*4。

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(長女を抱いた北村透谷。小田原市立図書館所蔵)

 この記述からは西欧の大国に対抗するために短期間で「富国強兵」を成し遂げて貴族は特権を享受する一方で、農民が「農奴」の状態に陥っていた帝政ロシアの体制の問題点を透谷がよく理解していたことが感じられます。

 透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」はそのようなロシアの状況を踏まえて、「最暗黒の社会」には「学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事」をたくらませるような「魔力」が潜んでいることをこの長編小説は明らかにしていると指摘していました*5。

 しかも透谷は大隈重信や来日したロシア皇太子ニコライへのテロにも言及しながら「『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なり」と笑って退けてはならないと記していましたが、憲法発布の際にも文部大臣の森有礼が襲われて亡くなるという事件が起きていました。さらに、それから一年後に臣民の「忠孝」を強調した「教育勅語」が渙発され、学校での奉読式でそこに記された天皇の署名と印に最敬礼をしなかったキリスト教徒の内村鑑三が「不敬漢」とのレッテルを張られて退職させられるという事件が起きると「国粋主義」が台頭していたのです*6。

 明治四一年に朝日新聞に連載された夏目漱石の『三四郎』の第一一章では、広田先生が高等学校の生徒だった時に体験した出来事を三四郎にこう語っています*7。

 「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった」。

 憲法が発布された頃に青年期を迎えていた漱石によって書かれたこの記述は、文部大臣が暗殺された後に起きた事態の重要性を示唆しています。この後で総理大臣となった山県有朋は第一回帝国議会の開会直前に「教育勅語」を渙発していたのです。

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(図版は「ウィキペディア」より、クリックで拡大できます)

 『三四郎』の前に朝日新聞に連載された自伝的な長編小説『春』で、北村透谷や『文学界』の同人たちとの交友を描くことになる島崎藤村も、日露戦争直後の明治三九年に発行した長編小説『破戒』で、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により、郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

 夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙でこの長編小説を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と激賞しましたが*8、本編で詳しく分析するように、島崎藤村は『罪と罰』の人物体系や構造を深く研究した上で長編小説『破戒』を著していたのです。

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(夏目漱石、「「ウィキペディア」より)

 一方、平民主義を標榜して『国民之友』を創刊してドストエフスキーの『虐げられた人々』など多くの外国文学の翻訳も掲載していた徳富蘇峰は、「教育勅語」が渙発された後で起きたいわゆる「人生相渉論争」では北村透谷を厳しく批判し、日清戦争の後では「帝国主義」を唱えることになります。

 さらに、幸徳秋水など多くの者が冤罪で死刑となった「大逆事件」後の明治四五年に美濃部達吉の『憲法講話』が公刊されると、蘇峰は『国民新聞』に「美濃部説は全教育家を誤らせるもの」で「帝国の国体と相容れざるもの多々なり」とした記事を掲載しました。

 これに対して「大逆事件」の時に修善寺で大病を患っていた漱石は、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記し、彼が恩赦という形で死刑をまぬがれたことを「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けていました*9。この漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます*10。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 しかし、昭和三年の「治安維持法」改正によって日本では共産主義者だけでなく生徒に写実的な描写を教えた教師たちまでも逮捕されるようになりました。 そのような時期に評論「現代文学の不安」で自殺した芥川龍之介を批判する一方で、ドストエフスキー文学への強い関心を示したのが文芸評論家の小林秀雄でした。本書の視点から注目したいのは、小林の歴史認識が徳富蘇峰の「英雄観」や「史観」を受け継いでいる点が意外と多いことです。

 それゆえ、徳富蘇峰の『国民之友』と『文学界』との対立に注目しながら『罪と罰』理解の深まりを考察した後で、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊した昭和一〇年に書かれた小林秀雄の『破戒』論に注意を払いつつ、その前年の『罪と罰』論を詳しく分析することします。そのことによって小林が作品の人物体系や構造を無視し、自分の主張に合わないテキストの記述を「排除」して『罪と罰』論を展開していたことを明らかにできると思うからです。

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 さらに、『夜明け前』論と書評『我が闘争』を『罪と罰』と比較しながら分析することにより、イデオロギーに捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張されている「様々な意匠」以降の小林の批評方法には、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田国学的な「意匠」が隠されていることを明らかにすることができると思います*11。

 それらを検証することによって「評論の神様」とも称される小林秀雄の手法が、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることをも示唆することができるでしょう。

 最後に、『白夜』などドストエフスキーの作品にたびたび言及しながら、この暗い時代に生きた若者たちを描いた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が、島崎藤村や明治の文学者たちの骨太の文学観を受け継いでいることを示すことで危機の時代における文学の意義に迫ります。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

(注は略し、ルビのふりがなは括弧内に記した。2018年12月30日、2019年1月14日、加筆。2月23日、改訂・図版を追加)。

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

本書の構想を何回か変更したために予想以上に手間取りましたが、ようやく原稿を脱稿しました。

日露戦争の直後に自費出版された島崎藤村の長編小説『破戒』については学生の頃からずっと気になっていました。『罪と罰』から強い影響を受けていることが以前から指摘されているこの長編小説では、激しい差別ばかりでなく教育制度の問題の考察をとおして、危機の時代における「支配と服従」の問題にも鋭く迫っているからです。

しかも、暗い昭和初期の時代に島崎藤村は、武家社会の横暴を見たことから平等な世の中を目指して「平田篤胤没後の門人」となり、「維新」のために奔走した彼の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を連載していました。

この長編小説の完結後に日本ペンクラブの初代会長に就任した藤村の作品を論じた文芸評論家・小林秀雄の評論と「『罪と罰』についてⅠ」とを考察するとき、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年に書かれ、現在も影響力を保っている小林のドストエフスキー論の問題点が浮かび上がってきます。

ただ、私が日本文学の専門家ではないことや、幕末から明治初期までの激動の時代が描かれている『夜明け前』を読み解くためには、「復古神道」だけでなく維新後の藩閥政府による宗教政策をも理解しなければならなかったために執筆を躊躇していました。

しかし、グローバリズムの強い圧力に対抗して世界の各地でナショナリズムが台頭する中、日本でも二〇一八年が「明治維新」の一五〇年ということで、「維新」を讃美する発言や評論だけでなく、独裁的な藩閥政府との厳しい闘いをとおして獲得した「立憲主義」をも揺るがすような発言や動きも強まっています。

それゆえ、本書では日露の近代化の比較という視点から、北村透谷の評論や島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』などの作品をとおして、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ権力と自由の問題に肉薄していた『罪と罰』を詳しく読み解くことにしました。『罪と罰』の受容とその変容をとおして幕末から昭和初期にいたる日本の歴史を振り返ることは、「明治維新」一五〇年を迎えた現代の日本を考えるうえでも重要だからです。

たとえば、江戸時代に起きた日露の戦争の危機を防いだ商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』を書いた作家の司馬遼太郎氏はエッセー「竜馬像の変遷」で「明治国家」をこう記していました。

「人間は法のもとに平等である」というのが「明治の精神であるべき」で、「こういう思想を抱いていた人間がたしかにいたのに、のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」。そして司馬氏は「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていたのです。

明治が四五年で終わったことを考えると、「明治国家が八十年で滅んでくれた」という記述は不正確のようにも思えますが、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、明治国家の賛美者とされることの多い司馬氏は、「明治国家」を昭和初期の敗戦まで続いた国家として捉えていたといえるでしょう。

しかも『竜馬がゆく』で、幕末の「神国思想」が「明治になってからもなお脈々と生き続けて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし国定国史教科書の史観」となったと記し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループ」にひきつがれたと書いた司馬氏は、『この国のかたち』の第五巻で幕末における「復古神道」の影響の大きさを「篤胤によって別国が湧出したのである」と説明していました。

幕末と昭和初期の「神国思想」の連続性を指摘した司馬氏が、「昭和初期」を「別国」あるいは「異胎」の時代と呼んで批判していたことを想起するならば、ここでも「別国」という独特の単語が用いられていることは、昭和の「神国思想」と平田篤胤の「復古神道」との関係をも強く示唆していると思われます。

一九三八年の日中戦争で戦死した戦車隊の陸軍中尉西住小次郎が「軍神」とされたことについても、司馬氏は「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった」と『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に指摘していました(『歴史と小説』、集英社文庫)。

このとき司馬氏の批判は小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性が高いと思われます。なぜならば、一九三九年に書いた「疑惑 Ⅱ」というエッセーで「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪えられないのである。思想の古さに堪えられないとは、何という弱い精神だろう」と書いた小林はこう続けていたからです。

「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いている様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪えぬ様な、一と口に言えば大和魂という(……)思想にほかならないのではないか」(『小林秀雄全集』第七巻)。そして小林は「伝統は生きている。そして戦車という最新の科学の粋を集めた武器に乗っている」と書いて国民の戦意を煽っていました。

一方、一九七二年に発表したエッセーで当時の日本の戦車はソ連などと比較するとすでに時代遅れのタイプであると指摘した司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたのです(「戦車・この憂鬱な乗り物」)。

こうして、一九〇二年には日英同盟の締結に沸いていた日本は、それからわずか四〇年足らずの一九四一年にイギリスとアメリカを「鬼畜米英」と断じて、「神武東征」の神話と「皇軍無敵」を信じて無謀な太平洋戦争へと突入していました。それは日米同盟を強調しつつ復古的な教育改革をおこなっている日本の未来をも暗示しているでしょう。

それゆえ、戦前の「大和魂」の美化と「神国思想」を批判した司馬氏は、劇作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と続けていたのです。(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』講談社)。

司馬氏との対談もある憲法学者の樋口陽一氏も、「幕末維新の時代には『一君万民』という旗印で平等を求める動き」があり、その後も「全国各地で民間の憲法草案が出ていた」ことに注意を促して「日本国憲法」が明治の「立憲主義」を受け継いでいることを明らかにしています。

さらに、樋口氏は井上氏との共著『日本国憲法を読み直す』(岩波現代文庫)の「文庫版あとがき」で、「井上ひさしの不在という、埋めることのできない喪失感を反芻しながら、一九九三~九五年の対論を読み返した。(……)そのことにつけても、日本の現実を私たち二人と同様に――いや、もっとはげしく――憂えていた司馬遼太郎さんのことを、改めて思う」と記しているのです。

 このような日本の状況や「憲法」についての議論を踏まえて、本書では司馬氏が深く敬愛していた正岡子規や夏目漱石の「写実」や「比較」という方法に注目しながら、広い視野を持っていた明治の文学者たちの考察をとおして、「弱肉強食の理論」や「非凡人の理論」の危険性を描いていた『罪と罰』の現代的な意義に迫ろうとしました。

一九世紀のグローバリズムにも匹敵するような強い圧力に対抗するために、世界中で広がっている「自国第一主義」の影響下に歴史修正主義やヘイトスピーチが横行し、国の公文書の改竄や隠蔽すらもなされ、各国で軍拡が進んでいる現在、『罪と罰』をきちんと読み解くことによって原水爆の危険性を踏まえて成立した日本国憲法の現代的な意義をも明らかにできると考えたからです。(「あとがきに代えて」より) 

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

 

 (2019年1月5日、加筆。2月24日、リンク先を追加)

教育制度と「支配と服従」の心理――『破戒』から『夜明け前』へ

日露戦争の最中に詩「君死にたまふこと勿(なか)れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)」を書いた与謝野晶子が、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したとして激しく非難されるという出来事が起きたのは明治三七年のことでした。

このような日本の状況を北村透谷の評論をとおして深く観察していたのが、日露戦争直後の明治三九(一九〇六)年に『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』を自費出版する島崎藤村でした。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

この長編小説において藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、現代の「ヘイトスピーチ」を思わすような「憎悪表現」による激しい「差別」をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに反して、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従って生きることとの葛藤を「良心」に注目しながら詳しく描いたのです。そして藤村は、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を、「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

夏目漱石が『破戒』を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と森田草平宛の手紙で激賞していたことを想起するならば、憲法が発布された頃に青年期を迎えていたこれらの作家は、第一回帝国議会の開会直前に渙発された「教育勅語」の問題を深く理解していたように思えます。

しかも、『三四郎』の連載から二年後の明治四三年には「大逆事件」で幸徳秋水などが死刑となりましたが、この時に修善寺で大病を患っていた漱石は、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて偽りの死刑宣告を受け、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記したのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

この時、ドストエフスキーは皇帝による恩赦という形でシベリア流刑となっていたのですが、「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けた漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに総合雑誌『時代』を創刊しましたが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度について、さらに社会ダーウィニズムなどの新しい思想の真摯な考察の上に成立していたのです。

『罪と罰』を邦訳した内田魯庵も、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していたこの長編小説との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエフスキーへの思いを大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています。

「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

そのことを想起するならば、漱石の記述には「大逆事件」をきっかけに日本で言論の自由が奪われて、「憲法」がなく皇帝による専制政治が行われていた帝政ロシアと同じような状況になることへの日本への強い危惧が示唆されていると言えるでしょう。

 実際、「治安維持法」の改正によって日本では昭和初期になると、共産主義者だけでなく「立憲主義」的な価値観を持つ知識人も逮捕されるようになるのですが、その時期に藤村が連載したのが父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いた歴史小説『夜明け前』でした。

武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった時期に、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて、キリスト教や仏教を弾圧した平田派の国学者となった島崎正樹は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化して仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという半蔵の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの苦悩と犯行が連想されます。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

極端な「国粋主義」との関連で注目したいのは、ドイツ民族を絶対化したナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において、自らを「非凡人」と見なしたヒトラーが「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことに注意を促すとともに、「権威主義的な価値観」に盲従する大衆の心理にも迫っていたことです(日高六郎訳、東京創元社、1985)。

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(『自由からの逃走』、図版は英語版「ウィキペディア」より)

すなわち、心理学の概念を用いながら人間の「服従と支配」のメカニズムを分析したフロムによれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです。

しかも、第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、ヒトラーがなぜ権力を握りえたのかを明らかにしたフロムは、自分の分析の例証としてドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していました。

注目したいのは、『罪と罰』においてドストエフスキーがラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定させているばかりでなく(三・五)、「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)とも語らせていたことです。

こうして、ラスコーリニコフに自分の「権力志向」と大衆の「服従志向」にも言及させることで「権威主義的な価値観」の危険性を見事に表現していたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」をとおして「自分」や「自民族」を「非凡」と見なして「絶対化」することが大規模な戦争を引き起こすことをすでに示唆していたのです。

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江川卓訳『罪と罰』上中下(岩波文庫)

一方、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の昭和九年に、内田魯庵や北村透谷とは正反対の危機から眼をそらすような『罪と罰』論を展開したのが、文芸評論家の小林秀雄でした。彼は司法取締官ポルフィーリイや弁護士ルージンなどとラスコーリニコフとの激しい議論についての考察を省くことにより、「超人主義の破滅」や「キリスト教的愛への復帰」などの当時の一般的なラスコーリニコフ解釈では『罪と罰』には「謎」が残ると断言しました。(『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻)。

こうして、自分の主張に合わないテキストの記述は無視しつつ時流に迎合して「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」との結論を記した小林秀雄は、自分の主張とは合わない解釈をする者に対しては、「権威主義的な」態度で「不注意な読者」と決めつけていたのです。

このような小林のドストエフスキー論の問題点は、北村透谷の『罪と罰』論なども踏まえつつ、小林の『破戒』論や『夜明け前』論を考察することによりいっそう鮮明に浮かび上がらせることができるでしょう。

以下、本書では「写生」や「比較」という方法を重視した明治の文学者たち評論や小説だけでなく彼らの生き方や、明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、『罪と罰』の受容を分析することにします。

そのことにより日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期に書かれた小林秀雄のドストエフスキー論の手法が、現代の日本で横行している歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることも明らかにできると思います。

(注はここでは省き、旧かなと旧字は、現代の表記に改めた。2018年10月16日、改題と改訂)

 一、「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳

 

小林秀雄の平田篤胤観と堀田善衛

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

『罪と罰』からの強い影響が指摘されている『破戒』だけでなく、ドストエフスキー(1821~81)とほぼ同時期を生きた自分の父・島崎正樹(1831~86)をモデルとした『夜明け前』のことは、ずっと気になっていましたが、日本文学の専門家ではなく「復古神道」にも疎かったためにそのままになっていました。

 ただ、今年が「明治維新」の150周年なので、日露の近代化の比較という視点から『夜明け前』をドストエフスキー研究者の視点から詳しく読み解くことにしました。

なぜならば、文芸評論家の小林秀雄は「天皇機関説」事件の翌年に行われた『文学界』合評会の「後記」で、『夜明け前』について「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配してゐるといふ事は言へる」と記していましたが、この文章に注意を促した新保祐司氏が今年2月に雑誌『正論』に載せた評論で「改憲」の必要性を説いているからです。

すなわち、今年の「正論大賞」を受賞した新保祐司氏は「日本人の意識を覚醒させる時だ」と題した論考で、小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」を、ここには「紛れもなく『日本』があると感じられる」と賛美し、さらに「感服したのは、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢(あふ)れている事」だと記した小林の『夜明け前』論を引用して「戦後民主主義」の風潮から抜け出す必要性を主張していました。

しかし、『夜明け前』で「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」という寿平次などの批判的な言葉も記した島崎藤村は、新政府の政策に絶望して「いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか」という半蔵の深い幻滅をも描いていたのです。

自分の信じる宗教を絶対化して他者の信じる仏像などを破壊する廃仏毀釈を強引に行い、親類からも見放されて狂人として亡くなった半蔵の孤独な姿の描写は、シベリアの流刑地でも孤立していた『罪と罰』のラスコーリニコフの姿をも連想させるような深みがあります。

 一方、テキストに記された「事実」を軽視して、きわめて情念的で主観的に作品を解釈する小林秀雄の批評方法は、「信ずることと考えること」と題して行われた昭和四九年の講演会の後の学生との対話でより明確に表れています。

 すなわち、そこで「大衆小説的歴史観」と「考古学的歴史観」を批判しつつ、「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」と語った小林秀雄は「神話的な歴史観」を擁護していたのです(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年、127頁)。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

小林秀雄の復古神道的な見方に対して全く異なる見解を記したのが、二・二六事件の前日に上京した若者を主人公とした自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、ドストエフスキーの『白夜』の冒頭の文章を何度も引用するとともに、「異様な衝撃」を受けたナチスの宣伝相ゲッベルスの「野蛮な」演説にも言及していた作家の堀田善衛氏でした。

 平田篤胤の全集を読んだ主人公は、「洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである」という感想を抱くのです。

さらに、堀田は登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせ、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせていました。

 この言葉は、昭和九年の「『白痴』についてⅠ」において「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末を、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と解釈していた小林秀雄の批評方法に対する厳しい批判ともなっているでしょう。

 悲惨な戦争へと突入していくことになる時期の日本を描いた『若き日の詩人たちの肖像』は、政府主催による「明治百年記念式典」が盛大に行われた一九六八年に発行されていました。

このことに留意するならば、主人公の心境を描いたこの文章は、「立憲主義」を敵視して「憲法」の放棄を目指す復古主義的な傾向が再び強くなり始めていた執筆当時の日本に対する深い危惧の念をも示しているようにも思えます。(表記は現代表記に改めました)。

→ 二、「神国思想」と司馬遼太郎の「別国」観

   (2018年7月25日、8月18日改題と改訂)

 

小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

上海事変が勃発した一九三二(昭和七)年六月に書いた評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書いた文芸評論家の小林秀雄は、その一方でドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記しました〔『小林秀雄全集』〕。

しかし、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林は、ラスコーリニコフの家族とマルメラードフの二つの家族の関係には注意を払わずに主観的に読み解き、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」との解釈を記したのです。

そして、小林は新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、『罪と罰』では「マルメラードフと云う貴族の成れの果ての遺族が」「遂には乞食とまで成り下がる」という筋が、ラスコーリニコフの「良心」をめぐる筋と組み合わされていると指摘していた内田魯庵の『罪と罰』理解からは大きく後退しているように思えます。

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(書影は「アマゾン」より) (島崎藤村、図版は「ウィキペディア」より)

 この意味で注目したいのは、天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が崩壊することになる一九三五年に書いた「私小説論」で、ルソーだけでなくジイドやプルーストなどにも言及しながら「彼等の私小説の主人公などがどの様に己の実生活的意義を疑つてゐるにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである」と書いた小林が、『罪と罰』の強い影響が指摘されていた島崎藤村の長編小説『破戒』をこう批判していたことです。

 

「藤村の『破戒』における革命も、秋声の『あらくれ』における爛熟も、主観的にはどのようなものだったにせよ、技法上の革命であり爛熟であったと形容するのが正しいのだ。私小説がいわゆる心境小説に通ずるゆえんもそこにある」。

日本の自然主義作家における「充分に社会化した『私』」の欠如を小林秀雄が指摘していることに注目するならば、長編小説『破戒』を「自然や社会との確然たる対決」を避けた作品であると見なしていたように見えます。

たしかに、長編小説『破戒』は差別されていた主人公の丑松が生徒に謝罪をしてアメリカに去るという形で終わります。しかし、そのように「社会との対決」を避けたように見える悲劇的な結末を描くことで、藤村は差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出し得ているのです。

そのような長編小説『破戒』の方法は、厳しい検閲を強く意識しながら主人公に道化的な性格を与えることで、笑いと涙をとおして権力者の問題を浮き堀にした『貧しき人々』などドストエフスキーの初期作品の方法をも想起させます。

さらに、小林秀雄は「私小説論」で日本の自然主義文学を批判する一方で、「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった」と書いていましたが、この記述からは独裁化した「薩長藩閥政府」との厳しい闘いをとおして明治時代に獲得した「立憲主義」の意義が浮かび上がってはこないのです。

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(創刊号の表紙。1893年1月から1898年1月まで発行。図版は「ウィキペディア」より)

これに対して島崎藤村は「自由民権運動」と深く関わり、『国民之友』の山路愛山や徳富蘇峰とも激しい論争を行った『文学界』の精神的なリーダー・北村透谷についてこう記していました。

「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」。

実は、キリスト教の伝道者でもあった友人の山路愛山を「反動」と決めつけた透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」が『文学界』の第二号に掲載されたのは、「『罪と罰』の殺人罪」が『女学雑誌』に掲載された翌月のことだったのです。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名(なづ)くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡(ひろ)めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」。

愛山の頼山陽論を「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と名付けた透谷の激しさには驚かされますが、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えたこの史論に、現代風にいえば戦争を煽る危険なイデオロギーを透谷が見ていたためだと思われます。

なぜならば、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏は、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたからです。

つまり、北村透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」は「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と深い内的な関係を有していたのです。

このように見てくる時、「教育勅語」の「忠孝」の理念を賛美する講演を行う一方で自分たちの利益のために、維新で達成されたはずの「四民平等」の理念を裏切り、差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出していた長編小説『破戒』が、透谷の理念をも受け継いでいることも強く感じられます。

その長編小説『破戒』を弟子の森田草平に宛てた手紙で、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞していたのが夏目漱石でしたが、小林秀雄は「私小説論」で「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである」と書いていました。

夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、明治の文学者たちによる『罪と罰』の受容を分析することによって、私たちはこの長編小説の現代的な意義にも迫ることができるでしょう。

(2018年4月24日、改訂。5月4日、改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

 主な引用文献

島崎藤村『破戒』新潮文庫。

『小林秀雄全集』新潮社。    

『若き日の詩人たちの肖像』と『夜明け前』――平田篤胤の思想をめぐって 

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』では「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について」喋り続けるアリョーシャと呼ばれる若者が描かれていますが、「ガダルカナルでは陸軍は殲滅的な打撃をうけているらしい」ことが伝わってくるようになると、その彼は「突然正座して膝に手を置き、眼と額をぎらぎらと輝かして」次のように語ります〔下・305~306〕。

「だからキリストがだな、キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしましますんだ」。

そこではどうしてそのような結論になるのかは明かされていませんが、「いずれその日本のために戦って死なねばならぬとなれば、国学というものにはその日本の絶対によい所以(ゆえん)が書いてあるのであろう」と思い、「平田篤胤全集にとりかかった」主人公は、アリョーシャの言葉の論理的な背景を知ることになります〔下・320~323〕。

すなわち、そこでは「義の為にして窘難(きんなん)を被る者は、これ即ち真福にて、その已に天国を得て処死せざるとあるなり。これ神道の奥妙、豈人意を以て測度すべけむや」と書かれていたのですが、それは「幸福(さいわい)なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり」という「マタイ伝第五章にあるイエス・キリストの山上の垂訓」のほとんど引き写しだったからです。

それでも、「平田篤胤は、本当に前人未踏の地で苦闘をしているのである。天地創造の問題を神学的に処理するために彼は苦しみぬいているのである」と評価しようとした主人公は、アリョーシャの論理をこう説明しています。

「キリスト教や西洋天文学までを援用して儒仏を排するというところから発し、アダムもエヴァもわれらの古伝の訛りだということになれば、つづけて世界も宇宙も、つまりは八紘はわが国の天之御中主神の創造になるものであり、従って八紘はわが国の一宇であって、その天之御中主神が天皇陛下の御先祖様であるということになると、それはまったくアリョーシャの言ったように、天皇はキリストを含んで、という次第に、たしかになる。」

しかし、その後で主人公は「この洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである。」と続けていました。

一方、文芸評論家の小林秀雄は1942年7月に行われた座談会「近代の超克」において、「近代人が近代に克つのは近代によってである」として欧米との戦争を評価していましたが(河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和54年)、長編小説の主人公はこの座談会を想起しながら、「とにかく近代の超克もなにもあったものではなかった。近代を超克するというのなら、まず平田篤胤あたりから超克してかからなければならぬだろうと思う」と書いています。

しかも、登場人物に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田氏は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせています。

この言葉は、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末について、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と1934年に書いた「『白痴』についてⅠ」で解釈していた小林秀雄のドストエフスキー観の厳しい批判ともなっているでしょう。

そして、この長編小説で堀田善衛氏は主人公の心境を次のように描いているのです。「平田篤胤の研究は、男を本当にがっかりさせてしまった。何をするのもいやになってしまった。日本精神だとか、国学だとか、あるいはまた皇道ということばが印刷物に矢鱈に沢山出てくる。」(下、327)。

興味深いのは、このような厳しい批判が長編小説『竜馬がゆく』において、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記した作家・司馬遼太郎の指摘と重なることです。

その司馬は『この国のかたち』の第五巻で「篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである」と指摘し、「創造の機能には、産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」と説明した後で、平田篤胤の言説が庄屋など「富める苗字(みょうじ)帯刀層にあたえた」影響を次のように記していました。

「平田国学によって幕藩体制のなかではじめて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである」(太字は引用者)。

「昭和初期」を「別国」あるいは、「異胎」の時代と激しい言葉で呼んでいた司馬氏がここでも「別国」という独特の用語を用いていることは、昭和の「別国」と平田篤胤によってもたらされた「別国」との連続性を示唆していると思われます。

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

このような昭和初期の重苦しい時代に島崎藤村が描いた長編小説が、「黒船」の到来に危機感を煽られて古代を理想視した平田派の学問を学び、草莽の一人として活躍しながら明治維新の達成後には新政府に裏切られて絶望し、ついに発狂して亡くなった自分の父・島崎正樹(1831~86)を主人公のモデルとした『夜明け前』でした。

この長編小説は芥川龍之介が日本の検閲を厳しく批判した小説『河童』を書いたあとで、「ぼんやりした不安」を理由に自殺した2年後の昭和4年から連載が始まり昭和10年に完結しましたが、その年にはそれまで国家公認の憲法学説であった東大教授・美濃部達吉の天皇機関説が「国体に反する」との理由で右翼や軍部の攻撃を受けて、著者は公職を追われ、著書は発禁となるという事件が起きていました。

それゆえ、研究者の相馬正一は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら」島崎藤村が、「『夜明け前』の執筆と取り組んでいた」ことの意義を強調しています(『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年)。

実際、天皇機関説事件で「立憲主義」が否定された日本では、明治5年3月に廃止されて内務省神社局となっていた神祇省が皇紀2600年を祝った昭和15年に内務省の「外局神祇院に昇格」して、「国家神道は名実ともに絶頂期」を迎えました。

皇紀2600年

(1940年の紀元2600年記念式典会場、出典は「ウィキペディア」)

しかし、それは神武東征の神話を信じた日本が、「皇軍無敵」を唱えて無謀な太平洋戦争へと突入することを意味していました。

戦況が苦しくなると神風を信じて特攻隊をも編制してまでも戦争を続けた日本は、広島・長崎に原爆が落とされたあとでようやくポツダム宣言を受け入れたのです。

*   *

注目したいのは、司馬遼太郎や宮崎駿監督と行った鼎談で、堀田善衛が「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていたことです(『時代の風音』朝日文庫、1997年、150頁)。

実際、『夜明け前』には「新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた」などという形で「この国」という表現が度々出てきます。

このように見てくるとき、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの「昭和初期」の重苦しい日々を、若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出した堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)は、馬篭宿の庄屋であり、「篤胤没後の門人」でもあった青山半蔵を主人公とした島崎藤村の『夜明け前』を強く意識して書かれていたといっても過言ではないでしょう。

堀田善衛、時代の風音、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

講座 『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして

今年も「世田谷文学館友の会」の講座でお話しすることになりました。

「おしらせ」第131号(H29年3月2日発行)より講座が行われる日時や場所、講座の要旨などを転載します。

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日  時  : 平成29年4月16日(日) 午後2時~4時

場  所  : 世田谷区立男女共同参画センター「らぷらす」

参 加 費  : 1000円

申込締切日 : 平成29年4月4日(火)必着

(応募者多数の場合は抽選)

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 講座 『夜明け前』から『竜馬がゆく』へ――透谷と子規をとおして

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である」という文章で始まる島崎藤村の『夜明け前』は、「黒船」の来港に揺れた幕末から明治初期までの馬篭宿を舞台にしている。芭蕉の句碑が建てられた時のことが記されているその序章を読み直した時、新聞『日本』に入社する前にこの街道を旅した正岡子規が「白雲や青葉若葉の三十里」と詠んでいたことを思い出した。

『夜明け前』では王政復古に希望を見ながら「御一新」に裏切られた主人公(父の島崎正樹がモデル)の苦悩が描かれているが、そこには「私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人」と藤村が評した北村透谷の苦悩も反映されていた。

『夜明け前』を現代的な視点から読み直すことで、街道の重要性や「神国思想」の危険性だけでなく、「憲法」の重要性も描かれていた『竜馬がゆく』の意義に迫りたい。

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これまでの「講座」

→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

講座「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」(レジュメ)

 

 

 

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(5) 

前回は「森友学園」における「教育勅語」をめぐる問題のようなことは、内村鑑三の「不敬事件」以降、日本の近代化や宗教政策とも複雑に絡み合いながら常に存在しており、それを明治から昭和初期にかけて深く分析したのが作家の島崎藤村だったと記した。

今回は「教育勅語」の成立をめぐる問題をもう少し補った後で、島崎藤村と「教育勅語」の関わりを掘り下げることにしたい。

*   *   *

明治憲法は明治22年年2月11日に公布され、翌年の11月29日に施行されたが、この間にその後の日本の教育や宗教政策を揺るがすような悲劇が起きていた。すなわち、大日本帝国憲法発布の式典があげられる当日に「大礼服に威儀を正して馬車を待っていた」文部大臣の森有礼が国粋主義者によって殺されたのである。

林竹二は『明治的人間』(筑摩書房)において、この暗殺事件の背景には「学制」以来の教育制度を守ろうとした伊藤博文と国粋の教育を目指した侍講元田永孚のグループとの激しい対立があったと指摘し、この暗殺により「国教的な教育」を阻止する者はなくなり、この翌年には「教育勅語」が渙発(かんぱつ)されることになったと記している。

作家の司馬遼太郎も西南戦争の後で起きた竹橋事件を鎮圧して50余名を死刑とした旧長州藩出身の山県有朋が発した「軍人訓戒」が明治15年の「軍人勅諭」につながるばかりか、さらに「明治憲法」や「教育勅語」にも影響を及ぼしていることに『翔ぶが如く』(文春文庫)でふれていたが、このあとに総理大臣となった山県有朋は「勅語」の作成に熱心でなかった第二代文部大臣の榎本武揚を退任させ、代わりに内務大臣の時の部下であった芳川顕正を起用して急がせていた。

こうして、山県内閣の下で起草され、明治天皇の名によって山県首相と芳川文部大臣に下された「教育勅語」は、大日本憲法が施行されるより前の明治23年10月30日に発布され、また島崎藤村が長編小説『破戒』で描くことになる教育事務の監督にあたる郡視学や「小学校祝日大祭日儀式規程」などを定めた第二次小学校令もそれより少し前の10月7日に公布された。

注目したいのは、宗教学者の島薗進氏が「教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば、『皇道』というものが、国民の心とからだの一部になっていったのです」と語っていることである(『愛国と信仰の構造』集英社新書)。

このように見てくるとき、「言論の自由や結社の自由、信書の秘密」など「臣民の権利」や司法の独立を認めた明治憲法が施行される前に、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と明記された「教育勅語」を、学校行事で習得させることができるような体制ができあがっていたように思われる。

実際、明治24年1月9日に第一高等中学校の講堂で行われた教育勅語奉読式においては教員と生徒が順番に「教育勅語」の前に進み出て、天皇親筆の署名に対して「奉拝」することが求められたが、軽く礼をしただけで最敬礼をしなかったキリスト教徒の内村鑑三は、「不敬漢」という「レッテル」を貼られ退職を余儀なくされたのである。

比較文明学者の山本新が指摘しているように「不敬事件」として騒がれた内村鑑三の事件は、「大量の棄教現象」を生みだすきっかけとなり、この事件の後では「国粋主義」が台頭することになったが、同じ年に「教育勅語」の解説書『勅語衍義(えんぎ)』を出版していた東京帝国大学・文学部哲学科教授の井上哲次郎が、明治26年4月に『教育ト宗教ノ衝突』を著して改めて内村鑑三の行動を例に挙げながらキリスト教を「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難したことはこのような動きを加速させた。

私たちの視点から興味深いのは、長編小説『春』(明治41)において『文学界』の同人たちの交友や北村透谷の自殺を描いた藤村が、徳富蘇峰の『国民之友』に掲載された山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を厳しく批判した透谷の「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と題した論文からも長い引用を行っていたことである。

島崎藤村は後に北村透谷について「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」と書いているが、「尊皇攘夷の声四海に遍(あまね)かりしもの、奚(いづくん)ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを」と、頼山陽をキリスト教の伝道師・山路愛山が書いたことを厳しく批判した透谷の論文も、その2ヶ月後におきる「教育ト宗教ノ衝突」論争をも先取りしていたようにみえる。

そして、島崎藤村も北村透谷の批判を受け継ぐかのように、日露戦争の最中に書いた長編小説『破戒』で、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の状況を、明治6年に国の祝日とされた天長節の式典などをとおして詳しく描いた。

この長編小説では、ロシア帝国における人種差別の問題にも言及しながら、四民平等が宣言されたあともまだ色濃く残っていた差別の問題を鋭く描き出していることに関心が向けられることが多い。しかし、現在の「森友学園」の問題にも注意を向けるならば、「『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので」と、「教育勅語」が学校教育に導入された後の学校行事を詳しく描き出していた長編小説『破戒』の現代的な意義は明らかだろう。

一方、自伝的な長編小説『桜の実の熟するとき』で学生時代に「日本にある基督教界の最高の知識を殆(ほと)んど網羅(もうら)した夏期学校」に参加した際に徳富蘇峰と出会ったときの感激を「京都にある基督教主義の学校を出て、政治経済教育文学の評論を興し、若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」と描いていた。実際、明治19年に『将来之日本』を発行して、国権主義や軍備拡張主義を批判した言論人・徳富蘇峰は、翌年には言論団体「民友社」を設立して、月刊誌『国民之友』を発行するなど青年の期待を一身に集めていた。

しかし、『大正の青年と帝国の前途』(大正5)で蘇峰は、「教育勅語」を「国体教育主義を経典化した」ものと高く評価し、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の養成と応用に「国民教育の要」があると主張していた。

この長編小説が発行されたのが、第一次大戦後の大正8年であったことを考慮するならば、長編小説『桜の実の熟するとき』における「若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」という描写には、権力に迎合して「帝国主義者」に変貌した蘇峰への鋭い皮肉と強い批判が感じられる。

奉安殿2(←画像をクリックで拡大できます)

(写真は『別冊一億人の昭和史 学童疎開』(1977年9月15日 毎日新聞社、56~57頁より)

司馬遼太郎は昭和初期を「別国」と呼んでいるが、大正14年に制定された治安維持法が昭和3年に改正されていっそう取り締まりが厳しくなると、学校の奉安殿建築が昭和10年頃に活発になるなど蘇峰が「国体教育主義を経典化した」ものと位置づけていた「教育勅語」の神聖化はさらに進んだ。ロシア文学にも詳しい作家の加賀乙彦氏は、この時代についてこう語っていた。

「昭和四年の大恐慌から、その後満州事変が起こり軍国主義になっていく。軍需産業が活性化して、産業資本は肥え太っていく。けれども、その時流に乗れないのは農村、山村、そして東北の人々などの…中略…草莽の人々は、昭和四年から昭和十年にかけて、どんどん置き忘れられて、結局は兵隊として役に立つしかないようになる」。

島崎藤村の大作『夜明け前』は、このように厳しい時代に書き続けられていたのである。

奉安殿(←かつて真壁小学校にあった奉安殿。図版は「ウィキペディア」より)

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