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小林秀雄

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

はじめに

7月24日と25日の2日間にわたって行われた国会の閉会中審査でも安倍政権と閣僚、そして官僚たちが「記憶ない」と連発し、明らかに嘘と思われる答弁を繰り返したことにより、加計学園問題の闇はいっそう深くなったように思われる。

前回は安倍政権と閣僚たちが平然と嘘をつけるのは、「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎からの依頼に応えて1961年以降、国民文化研究会で講演を行うようになる小林秀雄が、その前年の1960年に書いた「ヒットラーと悪魔」にあるのではないかという仮説を示した。

「評論の神様」とも評される小林秀雄の批判としては大胆すぎる仮説のようにも思われるかもしれない。しかし、作家の坂口安吾は戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を、「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判し、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘した自分の小林秀雄論を「教祖の文学」と名付けていた(『坂口安吾全集』第五巻、筑摩書房、1998年、320~328頁)。

坂口安吾のこの指摘に留意しながら、雑誌『改造』の懸賞評論二席に入選した小林秀雄の1929年の「様々な意匠」を読み直すとき、小林秀雄の評論の問題点は上海事変が勃発して満州国が成立した1932年に書かれた「現代文学の不安」だけでなく、すでにデビュー作にも見られるように思われる。

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)

「様々な意匠」と隠された「意匠」

*   *   *

日本における原発の問題を広告という視点から詳しく考察した『原発プロパガンダ』(岩波新書)で本間龍氏は「宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収めうるかということを、人々は戦争の間にはじめて理解した」というヒトラーの言葉を引用している。

注目したいのは、「ヒットラーと悪魔」において、「死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ」とヒトラーを評価した小林秀雄が、彼の言葉を紹介する形で「プロパガンダ」の効用をこう説いていたことである(太字は引用者)。

「大衆が、信じられぬほどの健忘症である事も忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の眼を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。これには忍耐が要るが、大衆は、政治家が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに、敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる」(115~116頁)。

そして、小林秀雄は次のように続けているが、その一連の記述は国会の論戦において安倍首相や「日本会議」に支えられた閣僚たちの論争術を連想させる。

「彼等(引用者註――知識階級)は論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ」(116頁)。

そして、「専門的政治家達は、準備時代のヒットラーを、無智なプロパガンディストと見なして、高を括っていた。言ってみれば、彼等に無智と映ったものこそ、実はヒットラーの確信そのものであった。少くとも彼等は、プロパガンダのヒットラー的な意味を間違えていた」と書いた小林は、ヒトラーにおける「プロパガンダ」と「言葉」の関係をこう規定していた。

「彼はプロパガンダを、単に政治の一手法と解したのではなかった。彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、凡そ言葉というものを信用しなかった。これは殆ど信じ難い事だが、私はそう信じている」(118頁)。

小林のこの言葉を読んだときに思い浮かべたのが、『テスト氏』の邦訳において主人公の「善」と「悪」の意識に関わる重要な箇所を小林秀雄が著者の言葉を正確に伝えようとはせずに、意図的に誤訳したと指摘していた寺田透の記述であった。

すなわち、「こういう、より情緒的、より人間臭く、そして、じかに生理にはたらきかけてくる表現の方向をとる小林さんの傾向は『テスト氏』の翻訳の中にも頻繁」に見出されると指摘した寺田は、「『善と縁を切る』といった訳語でなければならない」「s’abstraire de」という原文を、「『善に没頭する事はひどく拙い』と小林さんのように訳しては、話が反対になってしまいはしないでしょうか。/小林さんはこういった間違いを不注意でやったのではないと僕は感じるのです」と記して、こう続けている

「善を断つにはひどい苦渋を伴うが、悪を断つことは楽々とできるテスト氏の性分を暗示した対句ととらなければなりませんでしょう。/あとのほうを小林さんは『悪には手際よく専念している……』と訳していますが、こうなると、ある人間解釈にもとづく、積極的な誤訳としかいいようがありません」(寺田透「その頃のヴァレリー受容――小林秀雄氏の死去の折にⅢ」『私本ヴァレリー』、筑摩叢書、1987年、58~63頁)。

少し長い引用となったが、この指摘はドストエフスキーの作品の意味を正確に読み取るのではなく、不安な時代に合わせてセンセーショナルな解釈をすることで読者を獲得しようとしていた小林秀雄のドストエフスキー論の本質をも鋭く突いていると思われる。そのことについては稿を改めて考察したい。

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(2017年8月6日、リンク先を追加)

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

1,PKO日報破棄隠蔽問題と稲田防衛相]

稲田防衛相、フジテレビ(写真はフジテレビ系の映像より)

7月19日に新聞各紙はPKO日報問題について「二月に行われた防衛省最高幹部による緊急会議で、保管の事実を非公表とするとの方針を幹部から伝えられ」、稲田防衛相が「了承していた」ことが明らかになったと報道した(「東京新聞」を参照)。

これに対して稲田氏は21日に開いた記者会見で、自分は「一貫して公表すべきだとの姿勢だった」と繰り返し、非公表や隠蔽の指示は「私の姿勢とは真逆で相いれない」と強調した。

「省幹部が嘘をついているのか」と厳しく追及された稲田氏は「嘘をついたとは言っていない」と語ったが、陸上自衛隊幹部が漏らしたように「防衛相の関与まで報道された以上、監察の結果が出るだけでは騒動は収まらないだろう」(「日本経済新聞」デジタル版を参照)。しかも、umekichi氏はツイッターで先ほど次のように指摘している。

〔前にもツイートしたけど、見てる限りきちんと報道していない。PKO日報破棄隠蔽について。稲田防衛大臣「私の指示により、探させ日報を見つけた」 平気でをつく。探させたのは河野太郎議員率いる「行政改革推進本部」だからね。 手柄欲しさに姑息な事をやる。〕(7月23日)。

また、生命倫理の研究者・澤田愛子氏も「今安倍内閣で生じていること。どんな不正を働いても、重大な証拠があっても、見え透いた嘘で否定し続ければスルーしていくという事。明らかに嘘と分かる弁明でも強弁し続ければそれで通っていくとしたら恐ろしい前例になる。今後不祥事で辞任などする閣僚はいなくなるということだ。恐ろしすぎる」とツイートしている(7月21日)。

このブログでは「復古」的な価値観を賛美する稲田朋美防衛相の憲法観と「教育勅語」観や戦争観の危険性をいくつかの論考で指摘してきたので、次節で小林秀雄がヒトラーの「平和」観をどのように描いていたかを分析する前に、以下にリンク先を再掲しておく。

稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(増補版)

稲田朋美・防衛相の教育観と戦争観――『古事記と日本国の世界的使命』を読む(増補改訂版) 

2,「ヒットラーと悪魔」における「大きな嘘」をつく才能の賛美

戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏は、安倍政権の閣僚や取り巻きの嘘について7月21日のツイッターでこう記している。

〔「安倍首相やその取り巻きは、なぜあんなに平気でウソばかりつくんでしょう」とよく聞かれるが、私の認識は「主観が肥大した世界に生きている」からというもの。不都合な事実を主観で操作しているだけで、ウソをついているという罪悪感はたぶん無い。〕

鋭い分析で彼らには「ウソをついているという罪悪感はたぶん無い」との指摘は正鵠を射ていると思うが、彼らは「不都合な事実を主観で操作している」だけではなく、むしろ小林秀雄のように「大きな嘘」をつくことを「政治の技術」と捉えている可能性が大きいと思える。

「ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた」と書いた小林は、こう続けていたのである。

「彼(引用者註――ヒトラー)は世界観を美辞と言わずに、大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥かしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。大政治家の狙いは其処にある。」

問題は小林秀雄が、この随筆を書いた翌年の1961年から「国民文化研究会」の主宰者で、「日本を守る会」や「日本会議」などで代表委員を務め、「日青協」のメンバーから「先生」と深く尊敬されるようになる小田村寅二郎から「全国学生青年合宿所」と銘打たれた研修会に招かれて、1978年までに5回もの講演と学生との対話を行っていたことである(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年)。

しかも、「信ずることと考えること」と題して行われた1974年の講演会の後の学生との対話で、小林は「歴史は流行って」いるが「大衆小説的歴史観」とともに「考古学的歴史観もよくない」として、次のように語っていた。「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」(太字は引用者、127頁)。

三笠宮は1958年に神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」と書いていた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。

そのことを思い起こすならば、「嘘だっていいじゃないか」という小林の言葉は、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとした考古学者や歴史学者の見解を真っ向から否定するものだったと言えるだろう。

しかも、すでにみたように小林秀雄はヒトラーの政治手法について、「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺るがなかった彼の政治闘争の綱領である」と書いていた(『考えるヒント』文春文庫、新装版、111頁)。

そして、『神社新報』編集長の西田廣義も「日青協」の機関誌『祖国と青年』(1976年7月)で、「例えばヒトラーですが、政権奪取の運動をしている時は、現憲法擁護だと言って、運動を展開していた。そして政権をとった後、憲法を変えたり、体制変革したりした」と小林秀雄と同じように語っていた(『ドキュメント 日本会議』58頁)。

こうして、ヒトラーの「大きな嘘」を「感傷性の全くない政治の技術」と賛美していた小林秀雄の考えは、「日青協」のメンバーだけでなく、憲法改正論に関してナチス政権の「手口」を学んだらどうかと発言した麻生副総理や1994年に『ヒトラー選挙戦略 現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていた高市早苗・総務相だけでなく、稲田防衛相にも強い影響を与えていたように思える。

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

大きな問題は日本におけるヒトラー的な手法の賛美が政治家に留ってはいないことにある。7月12日の午後に生放送された情報番組「ごごナマ」には実業家の堀江貴文氏がナチスの独裁者ヒトラーに似た人物が描かれたTシャツを着用して出演した。

このことを批判された本人は、「ヒトラーがピースマークでNO WAR叫んでるTシャツ何回も着てたけど初めて炎上してる。どっからどう見ても平和を祈念しているメッセージTシャツにしか見えない」と書き、「シャレわかんねー奴多い」とツイッターで反論したばかりでなく、「No Warの文字が入っていた」ので問題はないとする応援のツイッターもあることに驚かされた。

なぜならば、小林秀雄が「ヒットラーと悪魔」で明確に指摘していたように、ヒトラーは「自分の望むものは正義と平和だ」と声明だけでなく演説でも絶叫したが、彼は「戦争を覚悟して首相になった」のであり、「外交も文字通り芝居だった」のである(117~118頁)。

堀江氏の記述は彼の歴史認識の浅さを物語っているだけで反論にもなりえていない。番組の司会をしたアナウンサーは「不快な思いを抱かれた方にはおわび申し上げます」と謝罪したとのことが、すでにツイッターなどで指摘されているように、堀江氏のような歴史観を持つ人物をゲストに招いたNHKだけでなく、大阪万博誘致担当の特別顧問に任命した大阪府の見識は厳しく批判されるべきだろう。

だが、それ以上に「大きな嘘」をつくことを「政治の技術」と捉えてそれができるものを「大政治家」と記していた「評論の神様」小林秀雄の歴史観や文学観は、より厳しく批判されるべきだと思える。

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2019年5月1日、リンク先を追加。)

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(2)――アイヒマン裁判と「ヒットラーと悪魔」の時代

一、映画『十三階段への道』とアイヒマンの裁判

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載された「ヒットラーと悪魔」の冒頭で小林秀雄は、「『十三階段への道』(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た」と記し、実写映画という性質に注意を促しながら、「観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果たしたようである」と書いた。

実際、NHKの佐々木敏全による日本版「解説」によれば、この映画は「裁判の記録映画」であるばかりでなく、「各被告の陳述にあわせ一九三三年から四五年までの十二年間、ナチ・ドイツの侵攻、第二次世界大戦、そしてドイツを降伏に導いた恐ろしい背景を、その大部分が未公開の撮影および録音記録によって」描き出したドラマチック・ドキュメンタリーであった。

ニュールンベルグの戦犯 13階段への道 – CROSS OF IRON

一方、カメラの役目を強調して「御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない」と続けた小林は、「私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである」と続けていた。

「事実」をも「悪夢」に帰着させているかのように見えるこの文章を読みながら思い出したのは、小林秀雄が1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」において、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたことであった(髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』参照)。

注意を払いたいのは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画」を実行し、敗戦後にはブラジルに潜んでいたアイヒマンがこの映画が公開されたのと同じ年の5月に逮捕されたことが5月25日に発表され、翌年の1961年には裁判にかけられたことである。 アイヒマン裁判

(アイヒマン裁判、写真は「ウィキペディア」より)

映画『十三階段への道』を見ていた小林秀雄は、この裁判をどのように見ていたのだろうか。ちなみに、1962年8月には、アイヒマンの裁判についても言及されている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)が日本でも発行されたが、管見によれば、小林秀雄はこの著書に言及した書評や評論も書いていないように見える。「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫) (書影は「アマゾン」より)

二、「ヒットラーと悪魔」とその時代

改めて「ヒットラーと悪魔」を読み直して驚いたのは、おそらく不本意ながら敗戦後の文壇事情を考慮して省かざるを得なかったヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」が、ドストエフスキー論にも言及することで政治的な色彩を薄めながらも、『我が闘争』からの抜き書きともいえるような詳しさで紹介されていたことである(太字は引用者)。

最初はそのことに戸惑いを覚えたが、この文章が掲載されたこの当時の政治状況を年表で確認したときその理由が分かった。東条英機内閣で満州政策に深く関わり戦争犯罪にも問われた岸信介は、首相として復権すると1957年5月には国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していた。そして、1960年1月19日にはアメリカで新安全保障条約に調印したのである。この条約を承認するために国会が開かれた5月は、まさに激しい「政治の季節」だったのである。

この時期の重要性については黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督が、大ヒットした映画《ゴジラ》に次いで原水爆実験の危険性を描き出した1961年公開の映画《モスラ》で描いているので、本論からは少し離れるが確認しておきたい、(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年、45頁)。

すなわち、1960年の4月には全学連が警官隊と衝突するという事件がすでに起きていたが、5月19日に衆議院の特別委員会で新条約案が強行採決され、5月20日に衆議院本会議を通過すると一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになった。そして6月15日には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出す一方で、国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突してデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという悲劇に至っていた。

また、1958年には三笠宮が神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡を寄せたが、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生していた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。なぜならば、戦前の価値の復活を求める右翼や論客は「紀元節奉祝建国祭大会」などの活動を強めていたのである。

三笠宮は編著『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)の「序文」で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と書いていた。

上丸洋一(図版はアマゾンより)

書評『我が闘争』の『全集』への収録の際には省いていたヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」をより詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」は、まさにこのような時期に書かれていたのである。

三、「感傷性の全くない政治の技術」と「強者への服従の必然性」

映画についての感想を記したあとで、20年前に書いた書評の概要を記した小林は、「ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う」とし、「彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている」ことを確認している。

しかし、その箇所で小林はヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」についても以下のように指摘していたが、それは現在の安倍政権の運営方法と極めて似ているのである。

「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。」

そして、「暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった」とした小林は、「だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った」と続けている。

さらに、ヒトラーの人生観を「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である」とした小林は、「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者にどうして屈従し味方しない筈があるか」と書いて、ヒトラーの「弱肉強食の理論」を効果的に紹介している。

さらに小林はヒトラーの言葉として「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう」と書き、「ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった」と続けている。

この表現はナチズムの危険性を鋭く指摘したフロムが『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)で指摘していた記述を思い起こさせる。この本がすでに1951年には邦訳されていたことを考慮するならば、小林がこの本を強く意識していた可能性は大きいと思える。

しかしその結論は正反対で、小林秀雄はヒトラーの独裁とナチズムが招いた悲劇にはまったく言及していないのである。

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「ヒットラーと悪魔」をめぐって(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、改訂し関連記事のリンク先を追加。2019年9月11日、改訂と改題)

[ヒットラーと悪魔」をめぐって(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」

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はじめに

ドストエフスキー論もあるフランス文学者の寺田透は『文学界』に寄稿した1983年の「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、小林秀雄の「隠蔽という方法」を示唆していた。

すなわち、「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた」のである。

「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)

寺田透が指摘したこのような方法を用いた顕著な例がヒトラーを「天才」と称賛していた1940年の書評『我が闘争』の『全集』への収録の際の改竄だろう。→ 〔小林秀雄 「我が闘争」初出 『朝日新聞』1940(昭和15)年9月12日の画像 菅原健史氏の「核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ」より〕 – Yahoo!ブログ

この問題を指摘した菅原健史氏のブログ記事は拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)でも引用した(211~212頁)。 ここで注目したいのは、それから20年後に記された1960年の「ヒットラーと悪魔」(『考えるヒント』収録)におけるヒトラーの革命観やプロパガンダ観などの手法についての詳しい記述が、「日本会議」の実務を担う「日青協」の「改憲」に向けた手法ときわめて似ていることである。

本稿では書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」の二つの記述の比較やドストエフスキー論との関連などをとおして、小林秀雄のヒトラー観と革命観やプロパガンダ観に迫ることで、その思想の危険性を明らかにしたい

一、書評『我が闘争』(1940年)

1923年11月のミュンヘン一揆の失敗後にヒトラーが獄中で書き上げた『我が闘争』は、第1部が1925年に第2部が翌年に発行されたものの当初はそれほどではなかったが、1932年にナチ党が国会の第一党となり、翌年にヒトラーの内閣が成立するとこの本はドイツ国民のバイブル扱いを受けるようになり、終戦までに1000万部を売り上げたとされる。

日本がヒトラーのナチス・ドイツと日独防共協定を結んだのは1936年11月のことであったが、この本の訳はすでに1932年に内外社から『余の闘争』と題して刊行され、それ以降も終戦までに大久保康雄訳(三笠書房、1937年)、真鍋良一訳(興風館)(ともに日本の悪口を書いてある部分を削除しての出版)、東亜研究所特別第一調査委員会の訳などが刊行された(「ウィキペディア」の記述などを参考にした)。 ヒトラーと松岡洋右

(ドイツ総統府でアドルフ・ヒトラーとの会談に臨む松岡洋右、写真は「ウィキペディア」より)  

小林秀雄が書いた室伏高信訳の『我が闘争』(第一書房、1940年6月15日)の短い書評が朝日新聞に掲載されたのは9月12日のことであり、それから間もない9月27日には日独伊三国同盟が締結された。

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載した「ヒットラーと悪魔」で小林秀雄はこの記事についてこう書いている。

「ヒットラーの『マイン・カンプ』が紹介されたのはもう二十年も前だ。私は強い印象を受けて、早速短評を書いた事がある。今でも、その時言いたかった言葉は覚えている。『この驚くべき独断の書から、よく感じられるものは一種の邪悪な天才だ。ナチズムとは組織や制度ではない。むしろ燃え上がる欲望だ。その中核はヒットラーという人物の憎悪にある。』」。

大筋においては小林の記憶は正しいが、「天才」の前に「一種の邪悪な」を追加する一方で、重要な一文が削除されているなど一部に大きな変更がある。それほど長い書評でもないので、まずは全文を菅原健史氏のブログ記事によりながら一部を現代的表記に改めて引用している「馬込文学マラソン」のサイトによって全文を紹介しておきたい(太字は引用者)。 ナチズムと日本、馬込文学マラソン(大田区にゆかりある文学を紹介)。

*   *   *

“我が闘争” 小林秀雄

ヒットラーの「我が闘争」といふ有名な本を、最近僕ははじめて室伏高信氏の訳で読んだ。抄訳であるから、合点の行かぬ箇所も多かったが、非常に面白かつた。何故、もつと早く読まなかったか、と思つた。やはり、いろいろな先入観が働いてゐたが為である。

ヒットラーの名は、日に何度も口にしながら、何となく此本には手を付けなかった僕の様な人は、世間に存外多いのではないかと考える。 これは全く読者の先入観など許さぬ本だ。ヒットラー自身その事を書中で強調している。先入観によつて、自己の関心事の凡てを検討するのを破滅の方法とさへ呼んでゐる。 そして面白い事を言つてゐる。さういふ方法は、自己の教義に客観的に矛盾する凡てのものを主観的に考えるといふ能力を皆んな殺して了ふからだと言ふのである。彼はさう信じ、そう実行する。

彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる。 これは天才の方法である。僕は、この驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた。

僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした。それは組織とか制度とかいう様なものではないのだ。寧ろ燃え上る欲望なのである。 ナチズムの中核は、ヒットラ-といふ人物の憎悪のうちにあるのだ。毒ガスに両眼をやられ野戦病院で、ドイツの降伏を聞いた時のこの人物の憎悪のうちにあるのだ。 ユダヤ人排斥の報を聞いて、ナチのヴァンダリズムを考えたり、ドイツの快勝を聞いて、ドイツの科学精神を言つてみたり、みんな根も葉もない、たは言だといふ事が解つた。形式だけ輸入されたナチの政治政策なぞ、反古同然だといふ事が解つた。 ヒットラーといふ男の方法は、他人の模倣なぞ全く許さない。

*   *   *

仲良し三国 (「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書。写真は「ウィキペディア」より)   

「馬込文学マラソン」の筆者は、小林の書評について「これは、手放しの賞賛といっていいのではないでしょうか。否定的な言辞が見当たりません」と書き、「『ヒトラー(ナチス)の手口』が透けて見えます」と続けている。

実際、迫力のある小林秀雄の書評ではドイツで政権を握ったヒトラーへの強い共感だけでなく、ヒトラーの「方法」も賛美されているのである。

さらに大きな問題は書評『我が闘争』を『全集』に再録する際に小林が、「天才のペン」の前に「一種邪悪なる」を加筆していたことである。その加筆によってこの書評の印象が一変しているのは、「言葉の魔術師」とも言える小林秀雄の才能だろう。

ただ、それだけでは全体の主旨を「隠蔽」することはさすがに出来ず、小林はヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」に関する下記の記述を大幅に削除していた。 「彼は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く。そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる」(太字は引用者)。

この削除された文章の前半は小林秀雄の歴史観や文学観にも深く関わっているが今回はそれに言及する余裕がないので、ヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」が詳しく紹介されている「ヒットラーと悪魔」と現代の日本の政治状況との関わりを次に分析することにしたい。

関連記事一覧

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」とアイヒマン裁判をめぐって

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、関連記事のリンク先を追加、2019年9月11日、題名を変更)

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(3) 

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

島崎藤村は青山半蔵を主人公とした『夜明け前』第1部の第9章から第11章で1864年の「天狗党の乱」を詳しく描いていた。

それゆえ、昭和11年5月の『文学界』座談会で「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである」と「気質」を協調した文芸評論家の小林秀雄は、「座談会後記」でも「最も印象に残ったところは、武田耕雲斎一党が和田峠で戦って越前で処刑されるまで、あそこの筆力にはたゞ感服の他はなかった」と高く評価した。(引用は『国家と個人 島崎藤村『夜明け前』と現代』より)。

たしかに、この乱に巻き込まれた馬篭宿の庄屋であり、なおかつ「平田篤胤(あつたね)没後の門人」でもあった青山半蔵の視点から描かれている「天狗党の乱」の顛末を描いた「文章の力」はきわめて強い。

しかし、司馬遼太郎は江戸後期の国学者平田篤胤(1776~1843)とその思想について「神道という無言のものに思想的な体系」を与えることにより、「国学を一挙に宗教に傾斜させた」と記している(『この国のかたち』第5巻)。

小林は『夜明け前』について「個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している」と語っているが、それは主人公に引き寄せたすぎた解釈であると思える。

なぜならば、島崎藤村はこの長編小説で義兄・半蔵の純粋さには共感しながらも危惧の念も感じていた寿平次に、「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」と語らせ(第3章第3節)、「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『漢(から)ごころ』ですよ」と批判させてイデオロギー的な側面を指摘していた(太字は引用者、第5章第4節)。

実際、「尊王の意思の表示」のために、「等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って」、「三条河原に晒(さら)しものにした」平田派の先輩をかくまった際には半蔵も、「実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったか」と考えさせられることになる(第6章第5節)。

しかも「同時代に満足しないということにかけては、寿平次とても半蔵に劣らなかった」が、「しかし人間の信仰と風俗習慣とに密接な関係のある葬祭のことを寺院から取り戻(もど)して、それを白紙に改めよとなると、寿平次は腕を組んでしまう」と描いた藤村は、「神葬祭」について、「これは水戸の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱(いだ)いて来たことすら、彼には実に不思議でならなかった」と記し、「復古というようなことが、はたして今の時世に行なわれるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のする事には、何か矛盾がある」という寿平次の独り言も記していたのである」(太字は引用者、第6章第2節)。

「古代復帰を夢みる国学者仲間」と「廃仏毀釈」運動の関係について記したこの記述は、その後の歴史の流れや青山半蔵のモデルである島崎藤村の父親の悲劇をも示唆しているように思える。すなわち、『翔ぶが如く』で司馬が書いているように、「維新というのは一面において強烈な復古的性格をもっていたが、ひとつには幕末に平田国学系の志士が小さいながらも倒幕の勢力をなし、それが維新政府に入って神祇官を構成したということもあったであろう。かれらは仏教をも外来宗教であるとし、鳥羽伏見ノ戦いが終わって二カ月後に、政府命令として廃仏毀釈を推進した」(文春文庫、第6巻・「鹿児島へ」)。

しかし、倒幕に成功したことで半蔵たちの夢が叶ったかに見えた「明治維新」の後で、村びとたちの暮らしは徳川時代よりもいっそう悪化した。それゆえ、半蔵たちは疲弊した宿村を救うために、伐採を禁じられてきた「停止木(ちょうじぼく)の解禁」を訴えて、『旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ』という「五箇条の御誓文」の一節を引用した請願書を差し出したが、それは取り上げられず「戸長」(かつての庄屋のような役職)をも免職になったのである。

(2017年3月12日、一箇所訂正)

『「諸君!」「正論」の研究』を読む(2)――『文藝春秋』編集長・池島信平のイデオロギー観と司馬遼太郎

上丸洋一(図版はアマゾンより)

二、文藝春秋の池島信平と司馬遼太郎

1946年に編集長となった池島信平(1909~73)は、「論より事実、論者より当事者」を『文藝春秋』の編集方針としたことにより、雑誌の部数を急速に伸ばして1966年には社長となった。

その池島が理事長に田中道太郎、理事に林健太郎、福田恆存、小林秀雄などの保守派文化人を結集した「日本文化会議」(1968~1994)の機関誌を発行すると発表したのは、70年安保を前にした68年7月のことであった。しかし、社員の半数以上から反対署名が出されたことで提案を変更し、社独自の雑誌として翌年に創刊したのが雑誌『諸君!』であった。

その池島が満州を体験したことで「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死にである」と感じたと記した著者は、彼が「イデオロギーよりも人間を信じる」と語ったという作家・半藤一利の記述を引用して、「衆を恃む人間を嫌悪した」池島が、「反体制運動を過激化させる学生」に危機感を抱いたのだろうとも記している。

それは彼を高く評価して「信平さん記」と題する追悼文を書いた作家・司馬遼太郎にも通じるだろう(31~33)。司馬も「イデオロギーというものは宗教と同様それ自体が虚構である」とし、「たとえて言えばイデオロギーは水ではなく酒であり、それに酩酊できる体質の者以外には本来マボロシのものなのである」と書いて、その危険性を指摘していたのである(『歴史の中の日本』中公文庫)。

しかし、「保守の人」であり、「日本のアジア侵略とファシズム体制」を批判していた池島の死後には「『諸君!』誌上で、先の戦争を『自衛戦争』とする議論が繰り広げられる」ようになった。そして、池島の葬儀の際には友人代表として弔辞を読んだ気骨のある保守的な歴史学者の林健太郎は、戦中さながらの「アジア解放」論が跋扈するようになった『正論』誌上で、「晩年になって歴史認識をめぐる論争」に立ち上がることになる(59)。

この意味で注目したいのは、創刊のいきさつについて初代の編集長・田中健五が、「小林さんが『オイ、団体をつくるのもいいが、雑誌をつくろう』と提案したのを聞き及んで、『版元をウチにさせてくれ』と言ったらしい」と語ったと記しているだけでなく、註では「各分野の一流人を筆者としてプールできる」と語った池島が「私は小林秀雄氏を信頼している」と続けていたことも記されていることである(25、38)。

一方、「日本文化会議に誘われて参加しなかった文化人もいた」と記した著者は、「なんだかきな臭いから断った」と語った作家・大岡昇平が、「参加を断ってからは小林秀雄のところへ行かなくなった」と続けたことも紹介している(34-35)。

そのような大岡には先見の明があったのだろう。なぜならば、小林秀雄などと『文學界』で鼎談「英雄を語る」でアメリカとの戦争を賛美していた作家の林房雄は1963年9月号から『中央公論』に「大東亜戦争肯定論」を連載するようになるが(45)、小林秀雄は1935年から37年にかけて雑誌『文學界』に連載した『ドストエフスキイの生活』の冒頭の「歴史について」と題する「序」において、「歴史は神話である」と宣言していた。小林秀雄の歴史認識についてはこれから詳しく考察したいと思うが、「保守派」というよりは「神国思想」への傾倒を一貫して持っていた作家だったと私は考えている(→「司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって」参照)。

1948年に産経新聞社に入社し、1961年に退社していた司馬遼太郎にとっての悲劇は、1962年から66年まで連載した長編小説『竜馬がゆく』で国民的な人気作家となり、続いて『坂の上の雲』の連載が始まった1968年に「反共・保守主義者」として著名なイデオローグの鹿内信隆が産経新聞社主に就任したことだろう(73)。

しかも、雑誌『諸君!』を創刊した池島信平が亡くなった1973年に鹿内信隆により雑誌『正論』が創刊されたが、その翌年の1974年に「日本会議」の前身団体の一つである「日本を守る国民会議」が設立された際には鹿内信隆が「呼びかけ人」として名を連ね(76)、1985年に制定された「正論大賞」は渡部昇一はじめ、石原慎太郎、藤岡信勝、櫻井よしこなど復古的な価値観を持つ論者に与えられた(80)。

一方、著者が引用している『新聞記者 司馬遼太郎』によれば、鹿内がグループの議長に就任した頃にフジテレビの社員研修の講師を頼まれた司馬遼太郎は、「フジサンケイグループではトップの”私”が横溢している。そのような企業体に発展は望めない」と話して、社員から大喝采を受けていた(82)。

しかし、自分たちのイデオロギーを広めようとする論客たちが、1996年の司馬の死後に彼の名前を利用するような論考を発表したために、司馬作品のイメージも大きく損なわれることになった。

すなわち、「自由主義史観」を唱えた「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝は、1996年に発表した「『司馬史観』の説得力」で自分のイデオロギーに引き寄せて『坂の上の雲』を解釈し、日露戦争の開戦から百周年にあたる2004年には「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という挑発的な題名で日露戦争を賛美した石原慎太郎と八木秀次の対談が『正論』に載ったのである。

稲田朋美・元防衛相の教育観と戦争観――『古事記と日本国の世界的使命』を読む(改訂版)

はじめに

「日本国憲法」にではなく、戦争を賛美した戦前版の『生命の実相』の教えに従った稲田朋美元防衛相の言動は、自民党右派や維新の危険性を示していると思われます。

少し古い記事ですので一部を削除し、その代わりにX(旧ツイッター)の投稿を添付します。

   *   *   *

「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という記述がある戦前版の『生命の實相』を「ずっと生き方の根本に置いてきた」と語っていた稲田朋美氏が安倍首相によって防衛大臣に任命されました。

それに対して海外のジャーナリズムは警鐘を鳴らしていますが、安倍内閣では何の異論も出なかったようですし、日本のマスコミもまだ沈黙しています。。

このような状況に強い危機感を覚えて、専門外であるにも関わらず、ともかく徴兵制や核武装など稲田氏の信念の中核を担っていると思われる谷口雅春著『古事記と日本国の世界的使命――甦る『生命の實相』神道篇』を急遽、読んでみました。

「編者はしがき」は、刊行の目的を「本書によって、一人でも多くの方が天皇国日本の実相と、その大いなる世界的使命について認識を新たにされるなら、編者として幸いこれに過ぐるものはない」と記しています(太字は引用者)。

「日本会議」研究のためのノートのような形で以下に感想を記します。新宗教に関しては素人ですので、間違いなどがあればご批判やご助言を頂ければ幸いです。

(なお、2008年にこの著書を刊行した光明出版社と現在の「生長の家」は別の組織です。宗教学者の島薗進氏によれば、宗教団体「生長の家」はエコロジー路線への転換をしており、旧生長の家の政治勢力とは対立しており、安倍政権に対しても「日本を再び間違った道へ進ませないために、明確に『反対』の意思を表明」しています)。

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最近、自民党の代議士の三原じゅん子氏が「神武天皇以来の憲法をつくらないといけない」と真顔で言ったことが話題になりましたが、本書の冒頭で「『古事記』とは何か」と問いかけた著者の谷口氏は「これが日本に於(お)ける最も古き正確なる歴史であるということになっているのであります」と書いていました(3頁)。

そして「歴史を研究する目的」として、「現象界(げんしょうかい)に実相(じっそう)が如何(いか)に投影し表現されて来るかということ」の大切さを説いた著者は、こう続けています。

「大宇宙に於(お)ける日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何(いか)に生きて行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかということをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります」(4―5頁)。

驚いたのは、神道の説く「八百万の神々」とは異なり、ここでは『古事記』の「三柱(みはしら)の神は並(みな)独神(ひとりがみ)」という表現を「その儘(まま)素直に、絶対の神様を知っていた」と読むべきであると記されていたことです(7頁)。

そして「天照大御神」を「高天原」という「大宇宙の主宰者」と規定した著者は、「太陽神は天地万物一切所に在(いま)すと考えるのが本当であります。これを物質科学では太陽のエネルギーの変化したものであると云(い)っていることに当るのです」と記し(67頁)、さらに物理学をも視野に入れて教理を次のように説明しています。

「『生長の家』の実相観を修得していますと、生命の実相(ほんとうのすがた)は動(どう)であって静(せい)ではないという事が判(わか)って来るのであります」とし、「絶対は動(どう)である、ベルグソンの説いたように創造的進化の世界なのであります」とその説を展開しています(86-87頁)。

これらの箇所は、小林秀雄のベルクソン観や本居宣長観にも関わり、興味深いので機会を改めて考察することにします。

*   *   *

その後、「夫唱婦和は日本が第一」から、「無限創造は日本が第一」、「一瞬に久遠を生きる金剛不壊の生活は日本が第一」、「無限包容の生活も日本が第一」「七德具足の至美至妙世界は日本が第一」と、ほほえましいようでナチスの「ドイツ民族優秀説」を思い起こさせるような節が続きます。

問題は「世界に真平和が起ころうとするには、先ず、大戦争が起る」と記していた著者が(62頁)、この後で須佐之男命(すさのおのみこと)の「八岐大蛇(やまたのおろち)退治」という神話の話と「黙示録」の「赤い龍」の話を結びつけた形で「世界戦が予言」されえていたばかりでなく、日本の勝利も約束されていると説いていることです。

すなわち、「殺人は普通悪いと考えていますが、戦争に出て敵兵を殲滅するのは善である。全ては地(ところ)を得た時にそれが初めて善となり、地(ところ)を得ない時にそれが悪となる」と書いて戦争の必然性を記した著者は、「皇国不敗」と「神州不滅」の考えをこう記しています(118頁)。

「如何(いか)なる時にもわが日本国は神に守られておるのでありますから、滅びるなどということはない、愈々(いよいよ)の時には元寇(げんこう)の役(えき)のようなことが、起る、愈々の時には宇佐八幡(うさまちまん)の神勅(しんちょく)が下される。日本の国は永遠に如何(いか)なる敵国の精兵も如何なる奸物(かんぶつ)の妖牙(ようが)も到底犯すことは出来ないのであります

そして、『古事記』に書かれている天照大御神(あまてらすおおみかみ)を「天野岩戸」から再引き戻したという記載を引用しながら、「暗黒苦痛の時が来たなら一層久遠の真理善き言葉の力を使って、その言葉の力によって光を招(よ)び出すようにしなければならない」(133頁)とし、「言霊」の働きを強調しながら、「どんなに悪い時にも、どんなに暗澹と暗い時にも愉快そうに笑っている…中略…そうして皇霊を遙拝し、祖先の霊魂を祀り、…中略…何でも『有難い、有難い』と感謝していますと、本当に有難くなって来る」と説いているのです(140頁)。

その後で、「世界戦」は「ユダヤ民族の守護神と日本民族の守護神との戦い」になると予言した著者は、「かく、世界各国互(たがい)に相(あい)戦って、さしも強大を誇った独逸(ドイツ)国の皇帝がなくなるとか、露西亜(ロシア)の皇帝がなくなるとか、或(あるい)は何処其処(どこそこ)の皇帝がなくなるという具合(ぐあい)に、唯物論は唯物論と相戦って自壊して総(すべ)て滅んでしまう」が、「最後に一つの国だけが滅びないのであります」と続け、その理由をこう説明しています(172頁)。

「草那藝神剣(くさなぎのしんけん)は三種(さんしゅ)の神器(しんき)の一つでであって、日本の国土をあらわすと共に、日本の皇位(こうい)の金剛不壊、永遠性をあらわしている」。

ただ、この戦いが厳しいものになることも予想していた著者は、「『今の一瞬に久遠(くおん)の生命を生きる』という事が日本精神であります」とし、「上海事変の爆弾三勇士」などに言及しながら、「戦場に於(お)ける兵士の如く死の刹那(せつな)に『天皇陛下万歳!』と唱えつつ死んで行く人が沢山あります」(205頁)が、「あれは死んだのではない、永遠に生きたのであります」と続けているのです(211頁)。

つまり、特攻隊員を描いた小説に百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』という作品がありますが、戦前に書かれた谷口雅春著『古事記と日本国の世界的使命』によれば、「神風特攻隊」のような「自己」を無(ゼロ)にした「特攻」による戦死は、個人の死ではなく「永遠に生きること」になるのです。

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その意味で重要と思われるのは、「榊(さかき)の枝や松の枝に白い御幣(ごへい)をつけて捧げる」、「玉串捧呈(たまぐしほうてい)」という神道の行事がこう説明されていることです。「玉串捧呈というのは、自分の霊を串にさして神様に捧げるというので全我(ぜんが)の抛棄(ほうき)を意味しています」(135頁)。

最後に再び『古事記』によりながら、「日本の皇位(こうい)というものは久遠永遠の昔から続くところの金剛不壊(こんごうふえ)の存在」であり、「日本の国土が全世界に拡(ひろ)がって日本の天皇陛下が久遠(くおん)の昔からこの世界を統治し給(たま)うべき御位(くらい)を持っていられる実相(じっそう)が明瞭になって来た」と記した著者は、こう強調しています(219頁)。

「神武(じんむ)天皇御東征(ごとうせい)の砌(みぎり)、東道(みちびき)として、御働き遊ばしたのも、盬椎の翁(しおつちのおきな)であります。この盬椎翁(しおつちのおきな)というのが生長の家の神様であります」(221頁)。

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GHQの検閲によって出版停止処分を受けた『生命の實相』(第16巻)神道編(昭和16年9月1日発行)の復刻版『古事記と日本国の世界的使命――甦る『生命の實相』神道篇』の内容を大急ぎで概観しました。

全体を読み終えて感じたのは、翌年には満州事変がおき、1933年にはナチスが政権を握るなど、日本が大戦争の危機に直面していた1930年に創立された当時の「生長の家」の性格をこの書がよく反映しているだろうということです。

「日本会議」の論客の主張に注意を促した山崎雅弘氏は、「もし『大東亜戦争』が『侵略ではなく自衛戦争』であるなら、自民党の憲法改正案が実現した時、理論的には、日本は再び『大東亜戦争』と同じことを『自衛権の発動』という名目で行うことが可能」になると指摘していました。

安倍政権の好戦性は、「戦争法」の強行採決や稲田氏の防衛大臣任命に顕著に表れています。このような安倍政権による憲法違反の「改憲」が行われ、「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」の推す歴史教科書が用いられるようになれば、このような教育を受けた若者たちがテロとの戦いだけでなく、「報復の権利」を主張する時の政府によって、「ユダヤ民族の守護神と日本民族の守護神の戦い」に巻き込まれる可能性はきわめて高いように思われます。

稲田朋美議員と #統一教会 との繋がりを示す貴重な写真↓

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以下に、関連記事へのリンク先を記す。

稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(増補版)

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

安倍首相の年頭所感「日本を、世界の真ん中で輝かせる」と「安倍晋三記念小学校」問題――「日本会議」の危険性

菅野完著『日本会議の研究』と百田尚樹著『殉愛』と『永遠の0(ゼロ)』

 オーウェルの『1984年』で『カエルの楽園』を読み解く――「特定秘密保護法」と監視社会の危険性

(2016年8月15日、2017年3月19日、加筆改訂。2023年10月25日、改訂)

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(二)、「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》を掲載

二、「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》

本多監督の盟友・黒澤監督は映画《ゴジラ》をすぐれた百本の映画の一つとして挙げていたが、「ゴジラ」の本場である日本でも、「ゴジラ」の哀しみや怒りは急速に忘れ去られたように思える。

「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろう」と指摘し、「あらゆる紛争問題の解決のための平和な手段をみいだすよう勧告する」という「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発せられたのは、「第五福竜丸」事件の翌年七月のことであった。

この事件から強い衝撃を受けて「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えた黒澤明監督も、映画《ゴジラ》から一年後に映画《生きものの記録》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)を公開した*11。

この映画では、映画《ゴジラ》で古生物学の山根博士の役を見事に演じていた志村喬が、度重なる水爆実験や「核戦争」などの危険性を心配して家族とともにブラジルへ移民しようとする主人公の老人の気持ちを理解する重要な知識人の役を演じている。

一方、息子たちの強い反対にあい、裁判で準禁治産の宣告を受けたことで、精神的にも追い詰められたこの老人は工場が燃えれば息子たちもあきらめるだろうと考えて放火する。しかし、従業員たちの深い苦悩を見て自分たちだけで逃げようとしたことの非を主人公が悟る場面も描かれている。ことに、精神病院に収容された主人公が夕日を見て核戦争で燃え上がった地球とみなし、「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンは圧巻である。ドストエフスキーの研究者である私には、そこでは『罪と罰』のエピローグで描かれている「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると思えた*12。

映画《生きものの記録》が英語では《I Live In Fearと訳され、ロシア語でも«Я живу в страхе» (私は恐怖の中で生きている)と訳されていることもあり、いまだにこの主人公の老人・喜一は「恐怖」から逃げだそうとしたと誤解されることが多い。しかし、むしろ彼は「あんなものにムザムザ殺されてたまるか、と思うとるからこそ、この様に慌てとるのです」と語り、「ところが、臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と批判していたのである。その意味でこの老人・喜一は自然の豊かさや厳しさを本能的に深く知っていた映画《デルス・ウザーラ》の主人公の先行者的な人物であったといえるだろう。

しかし、映画《七人の侍》の翌年に公開され、三船敏郎が見事な老け役を演じていたこの映画は営業的には大失敗に終わった。映画《ゴジラ》からわずか一年の遅れで公開された黒澤映画の失敗の原因についてはいろいろと指摘されているが、その遠因には一九五三年にアメリカ大統領のアイゼンハワーが、「原子力の平和利用」を国連で表明するとともに、被爆国の日本にたいして原子力発電所の建設を促す動きを強め、それに呼応して翌年の一九五四年一月一日から読売新聞による「ついに太陽をとらえた」とする原発推進の三〇回にわたる連載が始められていたことを挙げることができるだろう。この結果、一九五四年三月三日には、「国会に初めて原子炉予算として二億円あまり」を計上するという議案が提出され、数日後には成立していたのである。

広告研究家の本間龍氏は『原発プロパガンダ』 において、一九七〇年から福島第一原子力発電所の大事故が起きる二〇一一年までの大手電力会社の広告宣伝は二兆四千億円にも及び、政府広報予算も含めればさらに数倍にも膨れあがることや、二〇一三年からは安倍政権の意向に従って原発広告が復活し、ことに原発推進派だった読売新聞が「再び記事の中でも積極的に原発再稼働を唱え」始めていることを指摘している*13。同じようなことが「第五福竜丸」事件が起きた一九五四年から翌年までの間にもすでに起きていたのである。

「原子力基本法」を成立させた日本政府は、「原子力の平和利用」を謳いながら、経済面を重視して原子力発電の育成を「国策」として進めるようになり、原子力発電の危険性を指摘する科学者を徐々に要職から追放しはじめることになる。こうして、日本が地震大国という地勢的な条件や原爆の悲惨さから目をそらして原子力大国への道を歩み出し始めた翌一九五五年の『文學界』の七月号に掲載されたのが石原慎太郎氏の小説『太陽の季節』だった。「既成道徳に対する反抗」を描いたこの小説が同じ年に第一回『文學界』新人賞を受賞するとこの作品は一躍、脚光を浴びることとなり、「太陽族」という流行語も生まれた*14。

さらに、一九五五年に「原子力潜水艦ノーチラス号」を製造した会社の社長を「原子力平和利用使節団」として招聘した読売新聞社の正力松太郎社主は、映画《生きものの記録》が公開されたのと同じ一一月からは「原子力平和利用大博覧会」を全国の各地で開催し、「原子力発電」を「国策」とするための社運を賭けた大々的なキャンペーンを行った*15。

それは福島第一原子力発電所の大事故の前に広告会社の電通などによって行われた「原子力の安全神話」を広める広告の先駆けのようなものであったといえよう。このような大々的な宣伝により日本における「核エネルギー」にたいする見方はがらりと変わり、この映画が封切りされた頃には原子力エネルギーが「第二の太陽」ともてはやされるようになり、映画《生きものの記録》は「季節外れの問題作」と見なされて興行的には大失敗に終わったのである。

このような事態に際して、一九四八年の対談で太陽熱も原子力で生まれており、原子力エネルギーは「そうひどいことでもない」と湯川秀樹博士が主張したのに対して、「高度に発達する技術」の危険性を指摘して「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と反論して、「原子力エネルギー」の危険性を正しく指摘していた文芸評論家の小林秀雄が、原発の推進が「国策」となると沈黙してしまったことも大きいと思われる*16。

一方、「ゴジラ映画三十年の変遷」を分析した浅井和康氏が一九七四年に公開された映画《ゴジラ対メカゴジラ》に言及して、ついには「贋者の」ゴジラが登場したと記していた*17。ましこ・ひでのり氏も一九八九年に公開された映画《ゴジラvsビオランテ》を考察して「〈憲法前文や9条の理念が邪魔で戦争が満足にできない〉といった好戦派のホンネがSFの形で露呈しているといえるのではないか」と書き、ここでは「先端技術をスマートに駆使して敵を撃破する“格好いい”自衛隊」が描かれていることを指摘している*18。

さらに、永田喜嗣氏は初期のゴジラ・シリーズでは、「文民統制」の原則が貫かれていたのに対し、《ゴジラvsビオランテ》では「ゴジラ映画初の自衛隊が人間を撃つ描写や、外国人を徹底的に悪人にし」、一九九一年に公開された《ゴジラvsキングギドラ》では、「日本企業が核ミサイル付き原潜を持つ」という設定がなされており、ゴジラ映画の右傾化であると批判した*19。

このことに言及した芹沢亀吉氏は、「ゴジラファンの間で原点回帰の傑作と評価されている」、二〇〇一年に公開された映画《ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃》を詳細に分析して、主人公の父親が終盤で「特殊潜航艇さつま」に乗って、海中にいるゴジラの口の中に突入する場面を、特攻をかっこよく見せる映画《永遠の0》の先駆けなのだと書き、「映画自体が大ヒットしたことで後続の東宝映画が特攻を肯定的に描く事を許容する前例になってしまった」と続けている*20。

これらの指摘はなぜ本多監督が、一九七五年に公開された映画《メカゴジラの逆襲》を最後に「ゴジラ・シリーズ」から去ったかということだけでなく、なぜ宮崎駿監督が「神話の捏造」という言葉で映画《永遠の0(ゼロ)》を厳しく批判したかをも説明していると思える。

最後に注意を払っておきたいのは、一九六一年に公開された映画《モスラ》(製作:田中友幸、監督:本多猪四郎、特技監督:円谷英二)のモスラの形象に注目した小野俊太郎氏が、「幼虫モスラと王蟲(オーム)の形状の類似」などを指摘していることである*21。

しかも、一九八四年に公開された宮崎駿監督のアニメ映画《風の谷のナウシカ》が映画《モスラ》の理念を継承していることにも言及し、両者を繋ぐ働きを黒澤映画《生きものの記録》が担っていることを指摘している。本多監督が日米合作企画映画として製作したこの映画《モスラ》は一九六一年七月三〇日に公開されたが、この映画の脚本が中村真一郎、福永武彦、堀田善衛という著名な作家三人の原作『発光妖精とモスラ』(『週刊朝日』)を元にして関沢新一が脚本を書いていた。日東新聞記者である主人公の福田善一郎という名前は、これらの三人の作家の名前を組み合わせて出来ているが、ここにはシナリオを重視してたびたび共同で書いていた黒澤明と同じような姿勢が強く見られるだろう。

 

*11 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄――風のように侍は――』筑摩書房、二〇〇五年、七七七頁。

*12 高橋誠一郎『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、二〇一四年、一三二頁。

*13 本間龍『原発プロパガンダ』 岩波新書、

*14 高橋誠一郎、前掲書、一三五頁。

*15 有馬哲夫『原発・正力・CIA――機密文書で読む昭和裏面史』新潮新書、二〇〇八年参照。

*16 高橋誠一郎、前掲書『黒澤明と小林秀雄』、一〇八~一〇九頁。

*17 浅井和康「ゴジラ映画三十年の変遷」、『モスラ対ゴジラ』講談社X文庫、一九八四年、二三九頁。

*18 ましこ・ひでのり『ゴジラ論ノート』三元社、二〇一五年、一〇八頁。

*19 永田喜嗣「ゴジラ ウルトラマン 怪獣平和学入門 ~怪獣映画にみる戦争~」、市民社会フォーラム第171回学習会、二〇一六年一月二三日、ライブ配信

*20 芹沢亀吉、ツイートまとめ「『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃(GMK)』は本当に原点回帰映画なのかを検証してみた」二〇一六年六月二五日。

*21 小野俊太郎『モスラの精神史』講談社現代文庫、二〇〇七年、二四八~二五一頁。

(2016年11月2日、タイトルを改題)

 

小林秀雄の『カラマーゾフの兄弟』観――坂口安吾と寺田透をとおして

前回の記事で紹介したように、安吾は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを、「あそこで初めてドストエフスキイのそれまでの諸作が意味と位置を与えられた。そういうドストエフスキイのレーゾン・デートルに関する唯一の人間をはじめて書いたんですよ」と讃えていました。

それに対して小林秀雄は一応は同意しつつも、「我慢に我慢をした結果、ボッと現れた幻なんですよ」と語り、さらに「アリョーシャをフラ・アンジェリコのエンゼルの如きものである」と書いたウォリンスキイの記述を読んで「僕はハッと思った。あれはそういうものなんだ。彼の悪の観察の果てに現れた善の幻なんだ」と主張しているのです。

一方、「アリョーシャは人間の最高だよ。涙を流したよ。ほんとうの涙というものはあそこにしかないよ。しかしドストエフスキイという奴は、やっぱり裸の人だな。やっぱりアリョーシャを作った人だよ、あの人は……」と絶賛した安吾は、「裸だ。だが自然人ではないのだよ。キリスト信者だ」という小林の反論には、「そうでもないんじゃないかな」と答えていました。

ここにはドストエフスキーがバルザック的なリアリズムの手法で人間と社会を生身で考察し続けてアリョーシャという形象に至ったと考えていた安吾と、イデオロギー的な視点からドストエフスキーを「キリスト信者」と見なしていた小林秀雄との大きな落差があるように感じられるのです。

*  *   *

小林秀雄のアリョーシャ観と『カラマーゾフの兄弟』観の変貌が明らかになるのは、「ドストエフスキーの特徴が『白痴』に一番よくでているのではないかと思います」との感想を直感で語っていた数学者の岡潔氏と1965年に行われた対談です(『人間の建設』新潮文庫)。

これに対して小林秀雄氏はなぜそう思ったかを尋ねることをせずに、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と決めつけ、「それにしてもドストエフスキーが悪漢だったとはしらなかった」との返事に対しては、「悪人でないとああいうものは書けないですよ」と言葉を連ねて説明していました。

注目したいのは、その後で『白痴』論から話題を転じた小林がドストエフスキーは「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と続けていたことです。

なぜならば、太平洋戦争直前の1941年10月から書き始めた「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完)では、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と断言していたからです。

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

この意味で興味深いのは、フランス文学者の寺田透が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の「結び兼補足」で、『カラマーゾフの兄弟』の結末についてこう書いていることです。少し長くなりますが、バルザックの専門家でもあった寺田透が若い頃に小林秀雄から受容したことの大きさをも物語っていると思えるので、全体を引用しておきます。

「『カラマーゾフの兄弟』の巻末で、少年たちに向つてアリョーシャが小演説をする場面、それに答へる少年たちの「ウラー」と、一生手をとりあつて行かうと叫ぶかれらの言交しを書いたとき、少くともそのとき(といふのは次作があるといふ予告を、それ自体、現『カラマーゾフ』の趣向の一つにすぎないと見る見方も許されるからだが)、これらの少年たちの活躍と、アリョーシャとかれらの再会が描かれる筈の次作の企画は、もう抛棄されてゐたと見るべきではなからうか」。

このように記した寺田は誤解を怖れるかのように、さらに次のように補っているのです。

「それはシェストフが嘲つてゐるやうに書けなかつたから今日存在しないのではない。また今の第一部が完璧だから書く必要がないので存在しないのでもない。

ドストエフスキーは自分で判断して、それを書くことを断念したのだと思ふ。(あるいはもともと書くつもりはなしに、あの次作がありげな序文を書いたのである。)」。

このように記したとき、バルザック研究者の寺田透は時勢を先取りするような形で、「キリスト」や「マルクス」という単語をちりばめて読者受けのする発言を行いながら、時流が変わると自説をも変えた小林秀雄に対する激しい怒りを覚えていたのではないでしょうか。

『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で寺田透は、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように記していたのです。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

坂口安吾の小林秀雄観(3)――『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐって

少し寄り道をしましたが、いよいよ1948年に行われた『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる小林秀雄と坂口安吾の議論を考察することにしますが、この対話を読んで驚いたのは、そこでは安吾が戦前からドストエフスキー論の権威とみられていた小林に対して押し気味に議論を進めているように見えたことです。

ただ、小林秀雄は未完に終わった全八章からなる『カラマアゾフの兄弟』論を、太平洋戦争が始まることになる一九四一年の一〇月号から翌年の九月号にかけて発表していました。対談はこの論稿を踏まえて行われていると思われますので、アリョーシャについての記述を中心にこの『カラマアゾフの兄弟』論をごく簡単に見、その後で戦後の「モーツァルト」から「ゴッホの手紙」を経て「『白痴』についてⅡ」までの流れを時系列的に整理しておくことにします。

*   *   *

『カラマアゾフの兄弟』論の冒頭で「バルザックもゾラも、フョオドルの様な堕落の堂々たるタイプを描き得なかつた」と指摘した小林は、ゾシマの僧院に集まった家族たちについて紹介しながら、「カラマアゾフ一家は、ロシヤの大地に深く根を下してゐる。その確乎たる感じは、ロシヤを知らぬ僕等の心にも自から伝はる。大芸術の持つ不思議である」と高く評価しています。

そして「長男のドミトリイは、田舎の兵営からやつて来る。次男のイヴァンはモスクヴァの大学から、三男のアリョオシャは僧院から。彼等は長い間父親から離れて成人したのだし、お互に知る処も殆どない」と家族関係を簡明に紹介し、「道具立てはもうすつかり出来上がつてはゐるのだが、何も知らぬ読者は謎めいた雰囲気の中に置かれてゐる。その中で、フョオドルの顔だけが、先ず明らかな照明をうける」とし、「コニャクを傾け、馬鹿気た事を喋り散らすだけで、フョオドルはもうそれだけの事をしてしまふ。ともあれ、其処には、作者の疑ふべくもない技巧の円熟が見られる」と記していました。

本稿の視点から興味深いのは、「この円熟は、『カラマアゾフの兄弟』の他の諸人物の描き方や、物語の構成に広く及んでゐる」と続けた小林が、『白痴』のムィシキンとの類似点にも注意を促しながらアリョーシャについてこう書いていることです。

「『白痴』のなかでは、ムイシュキンといふ、誰とでも胸襟を開いて対する一人物を通じ、謎めいた周囲の諸人物が、次第に己れの姿を現して行くといふ手法が採られてゐたが、この作でもアリョオシャが同じような役目を勤める」が、アリョーシャは世俗の世界と「静まり返つたゾシマの僧院」の「二つの世界に出入して渋滞する処がない」。

さらに、「言ふ迄もなく、イヴァンは、『地下室の手記』が現れて以来、十数年の間、作者に親しい気味の悪い道連れの一人である」とした小林は、「確かに作者は、これらの否定と懐疑との怪物どもを、自分の精神の一番暗い部分から創つた」として、イワンがアリョーシャに語る子供の苦悩についての話や「大審問官」についても、忠実に紹介しています。

こうして『カラマーゾフの兄弟』の構成と登場人物との関わりを詳しく分析した小林は、この評論の第六章ではドミートリーについて、「恐らく彼ほど生き生きと真実な人間の姿は、ドストエフスキイの作品にはこれまで現れた事はなかつたと言つてもいゝだらう。読者は彼の言行を読むといふより、彼と付合い、彼を信ずる。彼の犯行は疑ひなささうだが、やはり彼の無罪が何となく信じられる、読者はさういふ気持にさせられる」と見事な指摘をしていました。

残念ながら、この『カラマーゾフの兄弟』論も未完で終わっているのですが、注目したいのは、小説の全体的な構造や結末での少年たちとアリョーシャとの会話も踏まえて小林秀雄が次のように記していたことです。

「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる。彼が嘗て書いたあらゆる大小説と同様、この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」。

この適確な指摘は、現在の通俗的な『カラマーゾフの兄弟』の理解をも凌駕していたように見えます。

*   *   *

こうして、太平洋戦争が始まる1941年の10月から翌年の9月まで「『カラマアゾフの兄弟』」を『文藝』に8回数連載して中断した小林秀雄は、戦況が厳しくなり始めた同年の12月頃から「モーツァルト」の構想を練り始め、敗戦をむかえる頃から執筆を開始して、1947年の7月に『モオツアルト』を創元社から刊行していました。

同じ1947年に「通俗と変貌と」を『書評』1月号に発表した坂口安吾は、『新潮』6月号に発表した「教祖の文学」で、研究者の相馬正一が書いたように、「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」のです。

一方、翌年の1948年8月に湯川秀樹との対談「人間の進歩について」(『新潮』)で原子力エネルギーを批判した小林秀雄は、その11月に「『罪と罰』についてⅡ」(『創元』)を、12月に「ゴッホの手紙」(『文體』)発表しています。

そして、1951年1月から発表の場を『藝術新潮』に移して「ゴッホの手紙」を翌年の2月まで連載した小林秀雄は、その年の5月からは「白痴」についてII」を『中央公論』に連載を始めます。このことを考えれば、「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」で記したように、「ゴッホの手紙」は「白痴」についてII」の構想とも結びついていたといえるでしょう。

「伝統と反逆」と題された対談で、「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判した安吾は、ゴッホをやると語ったことについても「しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに」と批判していました。

小林の伝記的研究の問題点を指摘していた寺田透も、「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と書き、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と批判するようになるのです。

一方、安吾の批判に対して小林はメソッドを強調しながら次のように反論したのです。

「例えば君が信長が書きたいとか、家康が書きたいとか、そういうのと同じように俺はドストエフスキイが書きたいとか、ゴッホが書きたいとかいうんだよ。だけど、メソッドというものがある。手法は批評的になるが、結局達したい目的は、そこに俺流の肖像画が描ければいい。これが最高の批評だ。作る素材なんか何だってかまわぬ」。

しかし、安吾は追求の手を緩めずに、「小林さんは、弱くなってるんじゃないかな。つくるか、信仰するか、どっちかですよ。小林さんは、中間だ。だから鑑賞だと思うんです。僕は芸術すべてがクリティックだという気魄が、小林さんにはなくなったんじゃないか、という気がするんだよ」と厳しく迫ります。この発言から対談は一気に『カラマーゾフの兄弟』論へと入っていきます。

「まあ、どっちでもよい。それより、信仰するか、創るか、どちらかだ……それが大問題だ。観念論者の問題でも唯物論者の問題でもない。大思想家の大思想問題だ。僕は久しい前からそれを予感しているんだよ、だけどまだ俺の手には合わん。ドストエフスキイの事を考えると、その問題が化け物のように現われる。するとこちらの非力を悟って引きあがる。又出直す。又引きさがる、そんな事をやっている。駄目かも知れん。だがそういう事にかけては、俺は忍耐強い男なんだよ。癇癪を起すのは実生活に於てだけだ」。

この発言からは山城むつみ氏が『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)で言及していた戦時中から敗戦直後までの、ドストエフスキー作品に対する小林の真摯な取り組みが感じられます。

それに対して安吾も「僕がドストエフスキイに一番感心したのは『カラマアゾフの兄弟』だね、最高のものだと思った。アリョーシャなんていう人間を創作するところ……」と応じ、「アリョーシャっている人はね……」と言いかけた小林も、安吾に「素晴らしい」とたたみかけられると、「あれを空想的だとか何とかいうような奴は、作者を知らないのです」と答えていたのです。

ただ、その後の安吾とのやりとりからは、小林秀雄が『カラマーゾフの兄弟』に対する見方を少しずつ変えていくことになる予兆さえも感じられるので、稿を改めて考察することにします。