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『「諸君!」「正論」の研究』を読む(2)――『文藝春秋』編集長・池島信平のイデオロギー観と司馬遼太郎

『「諸君!」「正論」の研究』を読む(2)――『文藝春秋』編集長・池島信平のイデオロギー観と司馬遼太郎

上丸洋一(図版はアマゾンより)

二、文藝春秋の池島信平と司馬遼太郎

1946年に編集長となった池島信平(1909~73)は、「論より事実、論者より当事者」を『文藝春秋』の編集方針としたことにより、雑誌の部数を急速に伸ばして1966年には社長となった。

その池島が理事長に田中道太郎、理事に林健太郎、福田恆存、小林秀雄などの保守派文化人を結集した「日本文化会議」(1968~1994)の機関誌を発行すると発表したのは、70年安保を前にした68年7月のことであった。しかし、社員の半数以上から反対署名が出されたことで提案を変更し、社独自の雑誌として翌年に創刊したのが雑誌『諸君!』であった。

その池島が満州を体験したことで「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死にである」と感じたと記した著者は、彼が「イデオロギーよりも人間を信じる」と語ったという作家・半藤一利の記述を引用して、「衆を恃む人間を嫌悪した」池島が、「反体制運動を過激化させる学生」に危機感を抱いたのだろうとも記している。

それは彼を高く評価して「信平さん記」と題する追悼文を書いた作家・司馬遼太郎にも通じるだろう(31~33)。司馬も「イデオロギーというものは宗教と同様それ自体が虚構である」とし、「たとえて言えばイデオロギーは水ではなく酒であり、それに酩酊できる体質の者以外には本来マボロシのものなのである」と書いて、その危険性を指摘していたのである(『歴史の中の日本』中公文庫)。

しかし、「保守の人」であり、「日本のアジア侵略とファシズム体制」を批判していた池島の死後には「『諸君!』誌上で、先の戦争を『自衛戦争』とする議論が繰り広げられる」ようになった。そして、池島の葬儀の際には友人代表として弔辞を読んだ気骨のある保守的な歴史学者の林健太郎は、戦中さながらの「アジア解放」論が跋扈するようになった『正論』誌上で、「晩年になって歴史認識をめぐる論争」に立ち上がることになる(59)。

この意味で注目したいのは、創刊のいきさつについて初代の編集長・田中健五が、「小林さんが『オイ、団体をつくるのもいいが、雑誌をつくろう』と提案したのを聞き及んで、『版元をウチにさせてくれ』と言ったらしい」と語ったと記しているだけでなく、註では「各分野の一流人を筆者としてプールできる」と語った池島が「私は小林秀雄氏を信頼している」と続けていたことも記されていることである(25、38)。

一方、「日本文化会議に誘われて参加しなかった文化人もいた」と記した著者は、「なんだかきな臭いから断った」と語った作家・大岡昇平が、「参加を断ってからは小林秀雄のところへ行かなくなった」と続けたことも紹介している(34-35)。

そのような大岡には先見の明があったのだろう。なぜならば、小林秀雄などと『文學界』で鼎談「英雄を語る」でアメリカとの戦争を賛美していた作家の林房雄は1963年9月号から『中央公論』に「大東亜戦争肯定論」を連載するようになるが(45)、小林秀雄は1935年から37年にかけて雑誌『文學界』に連載した『ドストエフスキイの生活』の冒頭の「歴史について」と題する「序」において、「歴史は神話である」と宣言していた。小林秀雄の歴史認識についてはこれから詳しく考察したいと思うが、「保守派」というよりは「神国思想」への傾倒を一貫して持っていた作家だったと私は考えている(→「司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって」参照)。

1948年に産経新聞社に入社し、1961年に退社していた司馬遼太郎にとっての悲劇は、1962年から66年まで連載した長編小説『竜馬がゆく』で国民的な人気作家となり、続いて『坂の上の雲』の連載が始まった1968年に「反共・保守主義者」として著名なイデオローグの鹿内信隆が産経新聞社主に就任したことだろう(73)。

しかも、雑誌『諸君!』を創刊した池島信平が亡くなった1973年に鹿内信隆により雑誌『正論』が創刊されたが、その翌年の1974年に「日本会議」の前身団体の一つである「日本を守る国民会議」が設立された際には鹿内信隆が「呼びかけ人」として名を連ね(76)、1985年に制定された「正論大賞」は渡部昇一はじめ、石原慎太郎、藤岡信勝、櫻井よしこなど復古的な価値観を持つ論者に与えられた(80)。

一方、著者が引用している『新聞記者 司馬遼太郎』によれば、鹿内がグループの議長に就任した頃にフジテレビの社員研修の講師を頼まれた司馬遼太郎は、「フジサンケイグループではトップの”私”が横溢している。そのような企業体に発展は望めない」と話して、社員から大喝采を受けていた(82)。

しかし、自分たちのイデオロギーを広めようとする論客たちが、1996年の司馬の死後に彼の名前を利用するような論考を発表したために、司馬作品のイメージも大きく損なわれることになった。

すなわち、「自由主義史観」を唱えた「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝は、1996年に発表した「『司馬史観』の説得力」で自分のイデオロギーに引き寄せて『坂の上の雲』を解釈し、日露戦争の開戦から百周年にあたる2004年には「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という挑発的な題名で日露戦争を賛美した石原慎太郎と八木秀次の対談が『正論』に載ったのである。

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