高橋誠一郎 公式ホームページ

大岡昇平

小林秀雄の『罪と罰』論と島崎藤村の『破戒』

上海事変が勃発した一九三二(昭和七)年六月に書いた評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書いた文芸評論家の小林秀雄は、その一方でドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記しました〔『小林秀雄全集』〕。

しかし、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林は、ラスコーリニコフの家族とマルメラードフの二つの家族の関係には注意を払わずに主観的に読み解き、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」との解釈を記したのです。

そして、小林は新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、『罪と罰』では「マルメラードフと云う貴族の成れの果ての遺族が」「遂には乞食とまで成り下がる」という筋が、ラスコーリニコフの「良心」をめぐる筋と組み合わされていると指摘していた内田魯庵の『罪と罰』理解からは大きく後退しているように思えます。

800px-Shimazaki_Toson2商品の詳細

(書影は「アマゾン」より) (島崎藤村、図版は「ウィキペディア」より)

 この意味で注目したいのは、天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が崩壊することになる一九三五年に書いた「私小説論」で、ルソーだけでなくジイドやプルーストなどにも言及しながら「彼等の私小説の主人公などがどの様に己の実生活的意義を疑つてゐるにせよ、作者等の頭には個人と自然や社会との確然たる対決が存したのである」と書いた小林が、『罪と罰』の強い影響が指摘されていた島崎藤村の長編小説『破戒』をこう批判していたことです。

 

「藤村の『破戒』における革命も、秋声の『あらくれ』における爛熟も、主観的にはどのようなものだったにせよ、技法上の革命であり爛熟であったと形容するのが正しいのだ。私小説がいわゆる心境小説に通ずるゆえんもそこにある」。

日本の自然主義作家における「充分に社会化した『私』」の欠如を小林秀雄が指摘していることに注目するならば、長編小説『破戒』を「自然や社会との確然たる対決」を避けた作品であると見なしていたように見えます。

たしかに、長編小説『破戒』は差別されていた主人公の丑松が生徒に謝罪をしてアメリカに去るという形で終わります。しかし、そのように「社会との対決」を避けたように見える悲劇的な結末を描くことで、藤村は差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出し得ているのです。

そのような長編小説『破戒』の方法は、厳しい検閲を強く意識しながら主人公に道化的な性格を与えることで、笑いと涙をとおして権力者の問題を浮き堀にした『貧しき人々』などドストエフスキーの初期作品の方法をも想起させます。

さらに、小林秀雄は「私小説論」で日本の自然主義文学を批判する一方で、「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった」と書いていましたが、この記述からは独裁化した「薩長藩閥政府」との厳しい闘いをとおして明治時代に獲得した「立憲主義」の意義が浮かび上がってはこないのです。

Bungakukai(Meiji)

(創刊号の表紙。1893年1月から1898年1月まで発行。図版は「ウィキペディア」より)

これに対して島崎藤村は「自由民権運動」と深く関わり、『国民之友』の山路愛山や徳富蘇峰とも激しい論争を行った『文学界』の精神的なリーダー・北村透谷についてこう記していました。

「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」。

実は、キリスト教の伝道者でもあった友人の山路愛山を「反動」と決めつけた透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」が『文学界』の第二号に掲載されたのは、「『罪と罰』の殺人罪」が『女学雑誌』に掲載された翌月のことだったのです。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名(なづ)くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡(ひろ)めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」。

愛山の頼山陽論を「『史論』と名(なづ)くる鉄槌」と名付けた透谷の激しさには驚かされますが、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えたこの史論に、現代風にいえば戦争を煽る危険なイデオロギーを透谷が見ていたためだと思われます。

なぜならば、「教育勅語」では臣民の忠孝が「国体の精華」とたたえられていることに注意を促した中国史の研究者小島毅氏は、朝廷から水戸藩に降った「攘夷を進めるようにとの密勅」を実行しようとしたのが「天狗党の乱」であり、その頃から「国体」という概念は「尊王攘夷」のイデオロギーとの強い結びつきも持つようになっていたからです。

つまり、北村透谷の評論「『罪と罰』の殺人罪」は「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と深い内的な関係を有していたのです。

このように見てくる時、「教育勅語」の「忠孝」の理念を賛美する講演を行う一方で自分たちの利益のために、維新で達成されたはずの「四民平等」の理念を裏切り、差別を助長している校長など権力者の実態を明確に描き出していた長編小説『破戒』が、透谷の理念をも受け継いでいることも強く感じられます。

その長編小説『破戒』を弟子の森田草平に宛てた手紙で、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞していたのが夏目漱石でしたが、小林秀雄は「私小説論」で「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである」と書いていました。

夏目漱石や正岡子規が重視した「写生」や「比較」という手法で、「古代復帰を夢みる」幕末の運動や明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、明治の文学者たちによる『罪と罰』の受容を分析することによって、私たちはこの長編小説の現代的な意義にも迫ることができるでしょう。

(2018年4月24日、改訂。5月4日、改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

 主な引用文献

島崎藤村『破戒』新潮文庫。

『小林秀雄全集』新潮社。    

『「諸君!」「正論」の研究』を読む(2)――『文藝春秋』編集長・池島信平のイデオロギー観と司馬遼太郎

上丸洋一(図版はアマゾンより)

二、文藝春秋の池島信平と司馬遼太郎

1946年に編集長となった池島信平(1909~73)は、「論より事実、論者より当事者」を『文藝春秋』の編集方針としたことにより、雑誌の部数を急速に伸ばして1966年には社長となった。

その池島が理事長に田中道太郎、理事に林健太郎、福田恆存、小林秀雄などの保守派文化人を結集した「日本文化会議」(1968~1994)の機関誌を発行すると発表したのは、70年安保を前にした68年7月のことであった。しかし、社員の半数以上から反対署名が出されたことで提案を変更し、社独自の雑誌として翌年に創刊したのが雑誌『諸君!』であった。

その池島が満州を体験したことで「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死にである」と感じたと記した著者は、彼が「イデオロギーよりも人間を信じる」と語ったという作家・半藤一利の記述を引用して、「衆を恃む人間を嫌悪した」池島が、「反体制運動を過激化させる学生」に危機感を抱いたのだろうとも記している。

それは彼を高く評価して「信平さん記」と題する追悼文を書いた作家・司馬遼太郎にも通じるだろう(31~33)。司馬も「イデオロギーというものは宗教と同様それ自体が虚構である」とし、「たとえて言えばイデオロギーは水ではなく酒であり、それに酩酊できる体質の者以外には本来マボロシのものなのである」と書いて、その危険性を指摘していたのである(『歴史の中の日本』中公文庫)。

しかし、「保守の人」であり、「日本のアジア侵略とファシズム体制」を批判していた池島の死後には「『諸君!』誌上で、先の戦争を『自衛戦争』とする議論が繰り広げられる」ようになった。そして、池島の葬儀の際には友人代表として弔辞を読んだ気骨のある保守的な歴史学者の林健太郎は、戦中さながらの「アジア解放」論が跋扈するようになった『正論』誌上で、「晩年になって歴史認識をめぐる論争」に立ち上がることになる(59)。

この意味で注目したいのは、創刊のいきさつについて初代の編集長・田中健五が、「小林さんが『オイ、団体をつくるのもいいが、雑誌をつくろう』と提案したのを聞き及んで、『版元をウチにさせてくれ』と言ったらしい」と語ったと記しているだけでなく、註では「各分野の一流人を筆者としてプールできる」と語った池島が「私は小林秀雄氏を信頼している」と続けていたことも記されていることである(25、38)。

一方、「日本文化会議に誘われて参加しなかった文化人もいた」と記した著者は、「なんだかきな臭いから断った」と語った作家・大岡昇平が、「参加を断ってからは小林秀雄のところへ行かなくなった」と続けたことも紹介している(34-35)。

そのような大岡には先見の明があったのだろう。なぜならば、小林秀雄などと『文學界』で鼎談「英雄を語る」でアメリカとの戦争を賛美していた作家の林房雄は1963年9月号から『中央公論』に「大東亜戦争肯定論」を連載するようになるが(45)、小林秀雄は1935年から37年にかけて雑誌『文學界』に連載した『ドストエフスキイの生活』の冒頭の「歴史について」と題する「序」において、「歴史は神話である」と宣言していた。小林秀雄の歴史認識についてはこれから詳しく考察したいと思うが、「保守派」というよりは「神国思想」への傾倒を一貫して持っていた作家だったと私は考えている(→「司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって」参照)。

1948年に産経新聞社に入社し、1961年に退社していた司馬遼太郎にとっての悲劇は、1962年から66年まで連載した長編小説『竜馬がゆく』で国民的な人気作家となり、続いて『坂の上の雲』の連載が始まった1968年に「反共・保守主義者」として著名なイデオローグの鹿内信隆が産経新聞社主に就任したことだろう(73)。

しかも、雑誌『諸君!』を創刊した池島信平が亡くなった1973年に鹿内信隆により雑誌『正論』が創刊されたが、その翌年の1974年に「日本会議」の前身団体の一つである「日本を守る国民会議」が設立された際には鹿内信隆が「呼びかけ人」として名を連ね(76)、1985年に制定された「正論大賞」は渡部昇一はじめ、石原慎太郎、藤岡信勝、櫻井よしこなど復古的な価値観を持つ論者に与えられた(80)。

一方、著者が引用している『新聞記者 司馬遼太郎』によれば、鹿内がグループの議長に就任した頃にフジテレビの社員研修の講師を頼まれた司馬遼太郎は、「フジサンケイグループではトップの”私”が横溢している。そのような企業体に発展は望めない」と話して、社員から大喝采を受けていた(82)。

しかし、自分たちのイデオロギーを広めようとする論客たちが、1996年の司馬の死後に彼の名前を利用するような論考を発表したために、司馬作品のイメージも大きく損なわれることになった。

すなわち、「自由主義史観」を唱えた「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝は、1996年に発表した「『司馬史観』の説得力」で自分のイデオロギーに引き寄せて『坂の上の雲』を解釈し、日露戦争の開戦から百周年にあたる2004年には「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という挑発的な題名で日露戦争を賛美した石原慎太郎と八木秀次の対談が『正論』に載ったのである。